非日記
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| 2009年11月25日(水) |
希少価値について考えます。 |
最近回るところがありません。 時々「もうきみには頼まない(by石●泰三)」の勢いになりかけますが、他に頼む人がいません。自分で書いたものを読むと、何故か猛烈に眠くなる。
私は基本的に本を読んでいて眠くなる事はあまり無いので(眠い時は何がなんでも眠い。どっちかというと目が覚めてくる。特に二日間の合計睡眠が六時間を切っていても同人誌の山を前にするとウッカリ完徹してしまう。気がつくと昼だった)、平日前夜の寝る前には本を読まない習慣があるのだが、自分のを校正しようとして開いたら五分もせずに気絶しそうになっていた。不思議なほど眠くなる。強烈な即効性睡眠薬レベル。ぷシッとやったらガクッと寝るようなやつ。なんか電波出てるんじゃなかろうか?確かに電波は出てると思う。
そういうわけで最近は、希少価値の同人誌に百均で買ってきたビニールのカバーをつけてみた。薄汚れていくのが切なくなったからです。しかも百均の、というかダ●ソーの塩化ビニル樹脂製ブックカバーは強度があるので、ペラペラのコピー誌も折れてくちゃくちゃになったりしないのです。
素晴らしい!
そこで私は県内を走り回り、三日掛かりで百均を五件回って大小のブックカバーを結構な量仕入れてきました。大事な原作にもカバーをかけるためです。今の私にできる事はろくにない。ほとばしる恋着が流れたい。手彫りで流出経路を掘る作業。 むしろ印刷してコピー本風に製本してみました。同人サイトさんの中にはDL禁止すらありますが(DLしなければブラウザで見れないのでは無いかと思わんでもないが、要するに保存するなって事だろう)、個人的な印刷なら構わないという人もいらっしゃるのです。製本するなとは書いてない。私はPCの電源切って寝ながら読みたいのだ。表紙も百均で買ってきてみました。さすがに中綴じ用のホッチキスは百円では売ってなかったので、仕事帰りに文具店に寄りましたら、在庫切れだという店主のお爺さんは「●●通りの××店ならまだ開いていると思う。後、○○の横の△△店もまだ開いてるかもしれない」等とあまりにも親切すぎたので、今度からボールペンは百均ではなくてお爺さんの店で買おうと思いました。
ところで会社で使ってるような、あの巨大なホッチキス、一万ぐらいするんだな!鍵付きケースに入れてあったよ!脳内麻薬が溢れていたので危なく買いそうなったが、思いとどまってもうちょっとコンパクトなヤツにしました。五百円ぐらいです。この辺で止めとかないと、勢いでホットガンやグルーガンを購入して本格的に始める危険があったのです。 ワードにちょっと詳しくなったよ!
ちなみに自分が書いたヤツを計算してみたら、3〜40ページのコピー本が十五冊ぐらいできる事が判明し、「私ったら、胸を張ってサークル参加ができるな(チラシの裏に落書きしたような内容を無視すれば)」と危ない思考が過ぎりましたが、須らく人目を憚るエロ本だという事に気がついて思いとどまりました(お友達に一緒に出てもらったら私がウキウキ買い物に行ってる間に捲ってみるに決まってる。私なら捲ってみる)。一体どうしてこんなにエロだけで長大なのか。道理で見た途端眠くなるわけだ。
私は嘔吐を催しそうなほど餓えている。あーそうですねーメインじゃないものねー。ぐすぐす。 ちゅうかこう病んでいては、声をかける事も憚られます(拍手とか書き込み)。ちなみに買いに行った時は一声かけて飛んで逃げました。というか声を掛けようにも言葉が出ない。思うんだが、私は本来言葉を使わないほうがメインのコミュニケーション法なんじゃなかろうか。特にアルツハイマーさん達には昔から妙に好かれるきがする。あれだな。私が安心と愛しさを感じてるのが電波でわかるんだな。
本当のところ、大分前、第○次飢餓状態に陥った時に、原作やアニメの画像を用いて一人壁紙(自分が一人眺めて楽しむための編集済画像ファイル)でも作ろうとしていた事もあったんだが、才能の無さに挫折した。何しろコマの片隅とか、要するにチマイので、まんじゅうちゃん一人が充満した壁紙を製作するためにはスクラップブック風に編集してアレンジする必要があったのだ。 それで私にはセンスと才能が無い事がわかったのよ。まず美術館通いからはじめようと思う。
そういう具合で、ここ最近は一生懸命整理整頓と掃除をしていました。同人誌が山のようにあったので(二十年ぐらい前のが発掘された)、私は海外旅行に行けたのではないかと思う。交通費も込みで考えたら、新聞広告に良く出てる一週間ちょいぐらいの欧州ツアーに軽々行けたのではなかろうか?(パスポート代込みで。見たところ西欧が一番高い) というか同人誌でこの冊数ならば、私は一体本を何冊持っているのだろうか。とりあえず持っていてももう読まないだろう本はさっさと売るか捨てるべしと思う。後紙が大量。仕事関係のとか、学生の時の紙類とかいい加減整理すべき。服も着ないものは捨てるべき。「そのうち発掘されるかも」等と思って片方行方不明の靴下をいつまでも持っててもしょうがない。
最近は有川浩の短編集や、森見登美彦を読んでました。 敵海の短編とか(だからいつの間に出てたんだ)、雪風の新しいのから全力で逃避してる。実のところ、読もう読もうと、二年前から枕元に剱岳点の記があるんだけど、一向に手に取らない。これを読んだら映画を見ようとずっと思ってる。……と言ったら、「あなたらしいわね」と言われた。ああそうか。「読んでから映画見よう」それがいけないんだな。
ちなみに、図書館戦争とか塩の街とか空の中とか海の底は読んでません。ラブコメとタイトルにどかんとついていたのでつい買ってきて読んだのです。笑いました。面白かったです。うん、私も文字のラブコメが大層好きなのよ(著者がラブコメが好きだと公言していた)。「あしながおじさん」はバイブルです。家に三冊はあった(装丁がいい。翻訳者が違う等で買った)。 図書館戦争はなー、最初に出た時から広告に良く出てて、気にはしてたけどまだ読んでない。図書館にあるのでそのうちと思っている。
森見さんので最初に買ったのは「恋文の技術」です。恋文と言われたので、あまりの更新の無さにラブに飢えていた私の手が滑りました。恋文を書く二次創作を書こうとしていて行き詰っていたとも言う。参考にならないかと思って。ちなみに有川さんのも「いいラブコメ参考資料は無いものか」と思って手に取った。あー、おかしかった。電車の中で読むものじゃない。私はこういうノリが大好きです。
しかしこういう恋愛小説で二次創作はあまり見たいと思わないのよな。何故か。後、男女の恋愛ものだとエロシーンは無くても全く気にならない。充分満足する。でもBLは豊かなエロがある方が好きなきがする。切ない系でプラトニックなんて暴れたくなる。 単に私は悲劇的に終るのは苦手なのです。苦味を味わうほど大人になれません。苦味を味わうというか、「何がいけなかったのか?どこでどうすべきだったのか?どの選択が致命的だったか?これからどうすべきか?」について延々と考え始めてしまって、どう考えても「味わって」ない。おそらくこういうのは「味わう」と言わない。泣いてるどころじゃない。考えすぎて頭が痛くなる。他にどうしようもないヤツ、「忠犬ハチ公」とか猛烈に腹が立つ。「だからおまえは犬なんだ!」とか喚きたくなる。ただハチ公のいいところは彼は絶望しないところだな。絶対に帰ってこない事を知らない。ハチ公となら永遠に待ち続けることができます。待つ事が生きる事って感じだ。 ハッピーエンドだとわかってると、途中でも先の心配をせずに順調にメソメソ泣け、ダーッと来てスッキリする。
しかしそんな私でもたまにドラマなどウッカリと見てうっかりと泣く事があります。あまりの悲しさにいつまでも覚えています。遙か昔の単発一時間ドラマでたぶん民放だった。佐藤A作が出ていたラベンダーの丘云々というロードムービーみたいなドラマと、泉ピン子が出ていたラストドライブは忘れられません。うっかり見ていて体を折って号泣するハメになった。今ここで事細かく語りたいぐらいだ。佐藤A作の方は辛うじてほんわかした終り方だったが、ピン子悲しすぎる。
二次創作物は中間で、記述としてはあってもなくてもいいが、将来的にはある事は前提の方がいい。詳しく書いて無くてもいい事はいい。脳内補完する。しかし無い事が前提になっていては二次創作の萌えどころが微妙に足りない気もする。無い事が前提になっているのは原作であるからだよ。
| 2009年11月24日(火) |
三年ぐらい実家帰ってない。 |
などと口走りましたら異口同音に「帰れよ!」と言われ、「世間体を鑑みてしょがねえからちょびっとぐらい帰るか」と思って連休の根回しを始めた矢先、今年の正月は親がこっちに来ると言いだした。年始直後にこっちの方角に用事ができたらしい。
つうか私、今この非日記を巻き戻って確認してみたところ2008年の正月に戻ってるじゃないか!なんて親孝行な私!充分じゃないの!?
しかしながら、よい子は積極的に親孝行しましょう。 情けは人のためならずという言葉は、「情けをかけるのは相手のためにならないので、情けをかけないようにしよう!」という意味ではなく、「情けをかけるのは巡り巡って自分のためになる事なので、相手のためとは思わずに思い切って情けをかけていきましょう!」という意味なのです。世の中には自分は親孝行しなかったくせに、我が子に放逐されると恩知らず!とガンガン文句を言う人もいますが、傍目に見て因果応報なので哀れまれるどころか鬱陶しがられることになるのです。他人に要求する事と自分に課してる義務が甚だしくずれて平気の平左でいると、いずれ背後からブッスリですよ。熟年離婚です。「何で今更!」と騒いでも手遅れです。今更で、取り返しは付かず、失ったものが多すぎるのだから、怒り騒ぐほどギャフンと言わせてやったと大喜びです。 というか、情けをかけるのは巡り巡るスパンの長さには関わり無く、むしろ瞬間的な己の心のためじゃないかと個人的には思う。刹那的にフローしていく、生じた端から散逸し消失し二度と戻らない感情の存在に価値はあるのかという問いに対する一つの選択である。
感情の刹那性に対する価値の云々に関して言えば、昔読んだマンガで、絶対に心変わりすることがわかっている男に求愛されて(神様とか精霊みたいな類で本質的に須らくそういう性質)、必ず一時の事だとわかっていて受け入れられないと女が拒否する話があったのね。で、その時に相手の男の方が、心変わりが確定しているというのは事実その通りなんだけれども、では自分の今の気持ちには真が無いと言うのかと尋ねて結局女の方が折れるわけ。確かバッドボーイの両親の馴れ初め話だったと思う。 この流れは本当に感心した。 似たような感心の仕方で、ラーゼフォンの父母の話もある。覚醒したら人の心を失う事がわかっていて主人公の母親は人間の父親と一緒になるわけよ。で、覚醒して伴侶を惨殺する。「一体何故自分を産んだのか」と主人公に詰られて、「愛していたからよ」と物凄くアッサリ淡々と感情の全くこもってない声で答える。
そうなんだよね。異性愛の場合、そこに全く情愛の無い場合もあるが、瞬間的にではあっても情愛の存在し介在した証拠として子供を位置づける事が可能なわけよ。翻ってみて、例えば同性愛が不毛と言われる所以はここにあるとも思われる。証拠が無い。後に残らず、未来に残らない。後に繋がっていくものがおよそない。 私は自分で二次創作やおい話を書いていて、特に記憶喪失設定を書いていてシミジミ考えた。一緒に暮らしているわけでもなく、広報結婚などして周知徹底し、公にしているわけでもなく、いつ死んでもおかしくない状況となると、二人の関係を保証するものが感情及び記憶以外に全く無い。思い出を喪失した時点で思い出を思い出すための足がかりが全く無い。これは厳しい戦いになる。 でもそれで納得した部分もある。 書いてて、一体何故に程度はどうあれえろがそんなに必要、絶対に必要と思われるのか……と自分でも不思議に思っていたけれど、だからだわよ。残るものが無い以上、片っ端から消失していく瞬間を飽くことなくリカバリして繋げていく事が必要な気がするの。距離があるのだから共有できるものが非常に少なくなるのよ。快感の共有に接続の焦点を合わすしかない。会っている間は十センチ以上離れてはならない。便所に行くにも手を繋いで行くべし。 かわいいじゃないの。
あーなんかちょっといいかもしれない。手を繋いで便所に行く話。かわゆい。 しかし三十路の男が二人で手を繋いで便所に行かねばならない理由とは、一体いかなるものだろうか?
しかし自分ながら、親孝行と情けを同列で語るのはどうかと思われるよ。 根本的な揺るがぬ目標を述べるのならば、私は土になりたい。動植物が交配して己が子孫を残していく如くではなく、何も為さず何も遺さず何の役にも立たずとも、朽ちた肉体と過ぎた行いの腐れ分解されて腐葉土になるように、循環する世界の基盤となり媒体となる名も無き土になりたい。土より生じ、土に還る。
とか嘯いていたら(三十代後半の未婚のお姉さんに「矢口さんは婚活してます?」とか振られた)、 「でも矢口さんは奇跡を起こすようなきがする」 と職場のお姉さんに言われ、言葉面の華やかさに「えー?そうかなー」と一瞬喜びかけて我に帰った。つまり、私は奇跡を起こさないと結婚しないという意味か?普通もうちょっと遠まわしに言うものだろう。全く世の中は善意のセクハラが絶えない。
昨日は人様の誕生日でした。 おめでとーう! 朝は覚えとったんだが、うっかり十時間寝てましたよ。せっかく、「アン/ブロークン/アローだっけ読んだ?アタイまだ読んでナイよ!!」と書こうと思っていたのにな。ちゅうか、新聞で書評を見るまで、いつの間に続きが出ていたのか全く知りませんでした。此間人様の結婚式で会ったときに一言も言わなかったのは興味が無かったからではなく、単に知らなかったからです。知ってたら一言は「あれの続きだったの?」って言ってた。だってあの終わり方だったら零は死んだと確信するだろ(そうでもないのか)。とにかく「このシリーズはもう無いぞ!」という空気に感じたのです。 いつも思うけど、神林さんのって、常に終り方が唐突に思えて、にもかかわらず「え、ここで?え、ちょっ、ここで!?」じゃなくて「……終った……!」って感じがするよな。無理矢理感慨深くさせられるというか感慨深さを捻じ込まれるというか最高潮に感慨深いところで手足を切断してみましたもう動けないよというか。それで私は妖精の時も幸運の時も毎度毎度「ぶちん!終った……!」に騙されたのですね。嵐の夜に電気を消してテレビでロードショーを見ていたら送電線が千切れたらしいぜ終ったなみたいな。
ちなみに、十月は今年はちゃんとメールしましたからね! この日記は書くことねえっていうか、書けばあるんだけど特に無いというか。何故なら私は相変わらずだからです。ふー。 近況は、脳内で渾名をつけました。ハルカちゃん。美しい名だ。脳内通称だけど。私は相手に対してナニガシか好意的な感情があると非常に名前を呼び辛い体質です。「結局何の誰だよ?」と問われて答えられないのは、断固秘密にしておきたいわけではなくて単に「ナニガシの誰それ」と口に出す事に心に激しい抵抗があるからです。何しろ末っ子なので、感情の発生していく過程で親兄弟を名前で呼んだ事など無かったのでした。よいこの私は敬称でしか呼んでいません。ついでに言えば動かない心を動かした相手の名前を知る事が滅多になかった。卒園写真を撮ったカメラマンの兄ちゃんとかな。 私の中でアレとかソレとかで輪郭を掴む事の可能な相手、脳内会議で「ヤツ」と言えば「アレか」で通じる相手の名前を口にする事は非常に困難なのでした。直接触ると危険なので箸かなんかで摘みたい。神々しいものは汚いのと一緒なので触ってはいけません。神様の名前を口にするなんて言語道断です。一神教で神様と言ったら一人しか居ません。名前など不要。アレとかソレとかで充分です。しかしうっかり好きな人が沢山いるので便宜上の名前があると大変便利なのでした。だからハルカちゃん。我ながらいい名前だ。公衆の面前で口走っても誰のことだかわからんところがいい。猥褻な単語は口走れません。むしろ存在が卑猥です。普通の人間がうっかり泣きそうになるほどドシリアスな悲劇の真っ最中に数コマ存在するだけで耐え難いほどニヤニヤさせるとか、正しくあってはならない事です。こんな展開を読みながら四六時中ニヤけていたら私がとんでもない悪逆非道の外道みたいだろうが!マッキーで塗りつぶすかモザイク掛けなければハルカちゃんの存在に引っ張られてストーリーに感情が動きません。ハルカちゃんが辛そうなので何とかしなければって感じ。おまえはくだらねえ事でキーキー騒いで、つまらねえ事でメソメソしてりゃいいんだよ!何をドラマチックの中に頭突っ込んでんだ!
あろう事かさっさと早く原作が終わればいいと思います。生き残ったまま!(非常に重要)だから進行中のジャンルって嫌いなんだよ。「どうにかして打ち切られないものか」とか内心思ってるなんてファンが存在するのにとても言えません。私は思い出だけでうっかり生きていける女です。それどころか思い出を練り直して新バージョンを増やせる女です。だのに発売日に本屋に行って原作買って雑誌買ってDVD買うとか私は何をやっているんだ。
あ! そういえばメール直った!
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