非日記
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2008年07月26日(土) あつい。

人様が休日代わって欲しいと言うのに「連勤が増えるからイヤじゃ」といったんは断ったものの結局代わりの人間が見つからず、困った人事の「どうしてもそこを休みたいの?」への返答「無理にとは言いませんが、友達が遠方から遊びに来る事になって」に、横で聞いててつい「それは休まないかんな」と口走ってしまったおばかさんです。友情なんて二十年前に捨てたと思っていたのに何口走ってんだ(アタイは捨ててないよ!)。

何がキツイって、「嫌だったら無理に代わってくれなくていいからね」と遠慮されたところを圧し、一度は断っておきながら自分から代打を申し出た手前、この一月の間いかに疲れても「あー疲れた」「もういやだ」「休みたいよー」などとウッカリも口走れないのが何よりきつかった。一回しくじりましたとも。人が「アタシ今週連勤でさあ」と言ったのに、うっかり何の気なしに「アタシもー」と言ってしまいましたとも。すかさず「ごめんね」と謝罪され、シマッタ感に掻き毟られてみました。
自分が炭鉱のカナリヤの如く儚く弱弱で、繊毛に覆われたゾウリムシの如く繊細な人間なので、びびびっと察知することもあるんです。うん、わかってる。私は彼女は職業人としてはともかく人としては、私が散々疲れた疲れたオマエの所為だと騒いだとして、あるところまでは申し訳ないと良心を痛ませても、臨界を突破して危険領域に入りそうになったら「そんなに大変なら断ればよかったじゃないの!」と逆に腹を立て、土壇場では自分を守る事のできる立派な人間だと信頼していますとも。
ああう、これが嫌だったから頑張って最初はちゃんと断ったのにー。でも繊毛がサワサワって…(もう良い)。アタイはもっと強い人間になりたいなあと思いました。夏休みの日記風。

「あなた職場の人達にものすごく気ィ使ってるよねー」と微笑ましく言われたこともあるが、私は基本的に誰にでも常時ものすごく気は使ってる。つもりだ。気を使ってる相手に気を使ってることを悟られたら気を使ってるとは言えない。だから私はあなた方にだって本当はすっごく気を使ってるんだからね!毎日土下座して感謝しなさいよ!…と、感謝する気も失せるほど強調するのが気使いの中程度テクニックだ。ちなみに史上最高の高等テクニックを駆使してるのは月と六ペンスのストリックランドだと思います。呆れた。でも、もしも自分が望む理想の人間になれるとしたら、私はストリックランドのような人間になりたい。と、中学三年生の頃に思った。万人に認められる才能のある無しじゃなくて。私がこんな人間になりたいと真面目に思ったのは、今のところ後にも先にも彼だけだ。

例の○型の頭の中でA型とB型のお友達の分も我が身を顧みるだけと判っていながら覗いて見た。ちゅうかお友達のB型は本当にB型であっていたんだろうか。失神しながらも採血はクリアしており、「本当はB型でなかった」と訂正がなされないので、B型であっていたんだろうとは思うけど。

笑ったのは
B型さそり座「天気予報で降水確率が50%だと、降るのか降らないのかどっちなんだよ!?と頭に来る」
何故かそうね、頭にきそうに思われるわね。私はそんな文章を目にするまで降水確率50%では降るか降らないかは五分五分だという現実を意識した事すら無かった。確率統計のテストは全例題のイメージ的なパターン暗記によって乗り切ったのだ。思うんだけど、確率統計は数学の中でも独特で人間の個性というものを思わせるよな。某理系有名大の数学科に行ったやつでも確統はボロボロだった一方で、微積分も代数幾何もボロボロで数学ズタズタのクラスメイトが軽々と解いた事を思い出す。わかるやつに言わせると鬼の如く簡単で、なんでわからんのかわからんそうだ。わからんやつは手も足も出ない感じ。一応センターで出るから。計算自体は物凄く少なくて済み、もしこれがわかるなら他の計算に大幅に時間をまわせるので」という理由で有志のみの休日出勤詰め込み短期集中授業だったが、その担当数学教師も「一応教師だから説明はしてみるが、ぼくには何故こうなるのかがわからんので自分で考えてくれ」状態であり、わかる生徒に授業委託状態だった。

私には、降水確率が50%もあったらもはや「必ず降るも同然、降らなかったらラッキー」感覚がする。30%以下あたりから「傘どうしようかな」と微妙になる。だって確率二分の一だよ?赤い導線と青い導線があって、「どっちかを切れば助かるけど、どっちかを切ったら爆発します」って言われたら爆発する事を想定して緊張するでしょ?死を覚悟するでしょ?「ほっといてもどうせ死ぬ」と思うから五分の確率にかけて切ってみるわけであって、「ほっといても何も起こらないけど、切ったら50%の確率で死ぬよ?」って言われたら切らないだろ?そういう感じやねん。

緊張したのは
A型山羊座「内容のない話はしたくない」
ええええー!アタシいっつも遊びに言ってはろくに何もせずに主に喫茶店を渡り歩いてダベって内容のない話ばっか長時間してそれじゃあまたねバハハーイして帰ってきちゃってるよ!?心の中では「こんにゃろう」と思ってたのね!?そうじゃないかと恐れてた!
そうは言っても内容のある話などできるはずもない。
基本的に私はどれだけ言いたいことがありそうであろうが、何言いたいのか察しようが、「妄想と現実を一緒にしちゃいけないわ!」と心がけ、相手の感情や思考よりも意志を尊重するつもりでいるので、明確に意思表示されない限り素無視するように気をつけている。だって私の勘違いかもしれないじゃないの。

先にまた同僚が別の同僚の仕事の仕方について云々言っていたが、話が一区切りして仕事に戻ろうとした途端に、突如ハッとした顔で私を振り返り、
「矢口さん、今のは独り言ですよ?」
「む?私に向かって話してる気がしてましたが?」
「いえ、独り言だったんです」
「フフフ、なーんだ独り言だったのですね。了解しました」
あまたの失敗を繰り返した結果、ついに私が仕事上どのように心がけている人間か学習したらしい(苦笑)。しかし了解した途端に内容を忘れたのだが(我ながら器用だ)、それでいいのだろうか。うん、でも覚えてたら無意識同然で何かしようとしてしまうので、背に腹は代えられんかもしれんな。だって言われながら、「私個人としては絶対的にどちらがいいとは断言しがたく、必ずしも決断を出す必要はないように思われるのだが、しかし一方が言わずにおれない不満を感じている状態のままでいる事は望ましい事ではないように思われるよ。こういう小さい不満がいつも積み重なって巨大な不信感になるんだもの。しかしどういう方向に持っていったらいいのかな?」と既に考え始め、どういう言い方をしたらどういう受け取られ方をするだろうかというシュミレーションを始めていたよ、私は。だからストップかけられて余計笑ってしまった。

そういえば、天秤○に対するタイヤキ調査によれば、尻尾から食う人間もいるそうで「当るも八卦ね」という事だが、そりゃそうだろう。ただ、だから私は何故そんなに自分がどっちから食べてるか断言できるのかの方が気になるねん。
あ、これも思い出した。朝が来たと騙されたのは牡丹灯篭だった気がする。耳無しホウイチは耳に書き忘れるというケアレスミスによる惨事だった。


ともかく、そうやって頑張って仕事をしていたおかげか、仕事中に悶えるハメになりました。お客さんでめっちゃ好みの人がいらっしゃったのです。つい同僚に「あっちにもンのすっごい!かわいい人がいらしてますよ」と力んで申告です。アー○ーホプキ○スと某宝探しゲームの神薙を足して、にこにこの粉を振りかけたような人だったのでした。あーもー胎児の形になるー!いかに萌えたか暑苦しく語りたいですが、割と最近のお客様の話なので自重して我慢することにします。

ちなみに神薙は「なんだこれ?」と最初見たとき目が点でしたが、とりあえずバシッ!とぶっ叩いたら「よぉーし、よしよしよしよし…」と褒めて(?)くれるので、なんだか堪らない気持ちにさせられました。…あ、なんか…あたし、そんなに喜ばれたら…ウッ…もっと叩きたく、な…。でも沢山叩くと死んでしまうねん。それでいいんだけど。いいんだろうか。
かつてなく至極危険な敵でした。
しかしあの「よーしよしよしよしよし」は本当になんて言ってんだろうか?私には満足そうにヨシヨシ言ってるようにしか聞こえない。

もう今年の夏はなんていうか給料の全てを空調にあてる覚悟をした。だりい。いつも電車が同じおっちゃんは一昨日、下車した後にアッパレな晴天を見上げ「この青空を見ると嫌になる」と呟いて信号機の向こうへトボトボ出勤していった。早朝の気温で止まっててくれればいいんだがな。私の職場は空調完備なのでそうでもないが、休日は嫌になる。
見れば、大家さんの家の庭の木に、セミの抜け殻が三つも並んでぶら下がっていた。シースルー、涼しそうだ。昆虫にはどんくらいの体感があるのか知らんが、脱皮した瞬間は全身がちょっと湿ってて涼しそうな感じがする。あの羽が乾いていく間は(そういうイメージがある)スースーして気持ちよいに違いない。私も脱皮したい。
セミはうちのまん前の木に三匹も止まっていたが、さらに葉っぱの影にカナブンも発見してみた。そんなに良い感じの木なんだろうか。

この寝苦しいのに、数晩私が寝ると直径六ミリぐらいの蜘蛛が(何してるのかしらんが)室内で一人運動会を繰り広げ、ついでに私の体の上も駆け回るのでこちょばゆくて頻繁に目が覚めて大変寝不足だった。掃っても掃っても乗っかってくる。もちろんハエトリ君ではない。殺すぞ貴様!ムキー!となる。蜘蛛は人間からしたら外殻がやわいので殺さないよう摘むのに苦労する。力加減がわからず、四回も落とす。アハハアハハこのやろう殺すぞキサマ待てー☆だが昨日とうとう摘んで外に捨ててやった。これでゆっくり寝れる。はずだ。

外に蜘蛛を捨てに出たらヤマト君と再会する。「またヤマト君が出た」と言ったが皆わかってくれない。ヤマト君っていったらヤマトゴ○ブリに決まってるだろう。ヤマト君はごついので、その威容に対し、敵ながら畏怖を込め敬意を払って君付けしてみた。私だって少しずつレベルアップしてるつもりだが、いつかはピンヒールのヒール先が五ミリぐらいのやつで、しかも金色ラメ入りかなんかで背中のど真ん中からぶち抜いてやりたいほどの愛憎を抱いている。なんかこーライバル的な何か。
数ヶ月前に「しかしこの男には帰りを待つ夫と妻が!」みたいな躊躇によって、思わず踏み損ねた奴じゃないかと思うんだが、どうなんだろう。
ヤマトの諸君はここ一週間ほど、毎晩夜中になると出てきて屋外のトイレ近郊をさ迷っているのだ。何してんだか。道に迷ったか。あの宇宙戦艦ばりの生物はあわよくばこのイスカンダルに到達しようと頑張っているのかもしれない。言うなれば、我が家は私の不精によってエルドラードかガンダーラか、みたいなもんだろうからな。そんなに頻繁にバルサンも焚かないし。
誰が入れるかコン畜生って感じでドアの開け閉めにも慎重を期するが(昔ドアを開けた瞬間に滑り込まれた事がある)、でもうちは色んなところに隙間がある。彼らが我が家のエアコン接続部の壁に(彼らにとっては)結構な穴が開いてる事に気がつかない事を願うばかりだ。

あつい。


2008年07月18日(金) わかるものなのか。

「男にはわからないが、どんなに若く見える女でも同性なら化粧の仕方で年代がわかる」とどこぞのコラムに書いてあった事がある。その理由は、該当者の世代で流行った化粧の仕方が抜けないからだそうだ。ナチュラルメイクとかああいうの。「世代で流行った」と言われても、その指摘が流行った年代に何歳ぐらいだった時の事を指すのかよくわからん。なんとなく十代半ばから後半なのかな。化粧の仕方は個人の美意識と癖の方が強いように思うが、「男には女の年齢はわからない」ってのは真面目に本当だと思う。でも女にもわからないと思う。

日々会ってる人間には聞かれればホイホイ年齢を言うのに(反応を見るのが楽しい。何歳ぐらいだと思ってたか、人によって二十年ぐらい幅があるので面白い)、何故かこういうところで明言するのはためらい、憚られるのは何故だろうか。個人情報と言えば個人情報なんだけど、職業や住所や本名でもなく、年齢だけわかったってナンテ事無いのは確かだ。幅とって言えば私は要するにロスジェネにあたるんだろうが、ただ自分自身は真剣に懸命に真面目に就職しようとした事が一度もない上、お友達は皆割りとすんなり決まっていったような覚えがあるので、あまり就業の厳しさを感じた覚えがない。
だって私、「やっぱ就職しなきゃいかんよねえ」とぶつりと言ったら、家族全員から「無理だよオマエには」と散々言われ、常に時代の最先端を走り抜けてきた女として別居ニートしてた時には「いいかげん働かなくっちゃねえ」に「働かなくていい」と袈裟切りされてみた。永遠の反抗期なので少しやる気が出たが、私は三度の飯より自分を売り込むのと人を褒めるのが苦手で、人の迷惑にならない仕事ならどんな内容の仕事でも働く事自体は別に構わないが就職活動したくない思いが胸いっぱいだった。

「貴社の素晴らしい業績に」とか言うの無理。
「自分はこれこれが得意でそれそれに活かせると思います」なんて言うの無理。
「こういう仕事に興味があって」とか「こういう事をしてみたい」とか言うの無理。

そんな就職活動すんごくしたくない症候群の私が薄給でも仮にも福利厚生有の正社員の今の地位にいかにして着いたかと言うと、家でゴロゴロしてたら会った事もない今の上司から唐突に電話がかかってきて、「今度新しい部門を作るんでそこで働きませんか?」と言われ、永遠の反抗期中だったために「やります」と言ってしまったからだ。だからやっぱり就職活動をした事が無いままなので、「人が皆乗り越えた苦労を俺は乗り越えてない」と世間に対して引け目がある。「アタシだってすっごく努力してめっちゃ苦労したんだから!落とされても落とされても負けないで頑張ったのよ!」と胸を張って言えない。

うっかり「世代」から横に流れてすぎて大河の流れに巻き込まれかけたが年齢の話だ。

最初は確かお友達が「アンタが何歳かわかったら自分が何歳かわかるではないか」みたいな事を言ったので、「それはわかったらイカン事だったんか!まあ大変知らなかったわ!気をつけなくっちゃ!」と思ったのが発端だったような気もする。以来、深く考えずに「ネット上では実年齢を明らかにしてはいけない」と心に刻まれた。「実年齢を大きく出したほうが自虐ネタや差別ネタが冴え渡るんだが」と残念に思う。ルール重視のため「あーんこれ年齢をはっきりさせなきゃ落としどころがないじゃないの!」と捨てた人生小ネタは数知れない。

職場の同僚と話してたらウッカリな衝撃を受けたりする。「ええー!?おまえら花の子るんるんを知らないのかよ!?OPでるるるんるんるんるるるんるんるん♪って歌うだろ。ルンルン気分の語源だぞ!」みたいな。向こうも「エエー!?そんなにトシ違うんですか!?」である。悪かったな無邪気なオバンで。魔女っ子モノと言ったら私はぺるしゃとかももとかえみとか色々思い描くんだが、向こうさんは断然全会一致でせーらーむーんらしい。あー、せーらーむーんね。アタシ原稿描いたよ。

でもね!

実年齢的に、「花の子るんるんとかごーるどらいたんとか昭和009とかやまととか初代がんだむとか、テレビで見てたと覚えてるのって何かオカシクねえか!?」と自分で思うんだすよ。放映された年を確認して、その時の自分の年齢を計算したら、記憶にあるというのがおかしい。幾らなんでも覚えてるわけがねえ感じのが混じってるんだが、それは再放送されていたという可能性もあるんだが。まあたぶんアレだろう。生まれた時からオタクだったんだろう。後、たぶん無駄なところの記憶力が良い。人の名前と顔は毎日三年会ってても忘れるが、オタク心をドキュンしたものは永久保存版として常に編集を欠かさず記憶の上書きをしている。

てゆうか年食うほどに物忘れが激しくなった。ちっさい頃の方がよく覚えてることがある。

教育書とか発達教育史を読んでると、「あーそういう事やったよそういえば!」ってのが沢山出てくる。「親に同じ本ばかり何度も読ませる」「親に同じ話ばかり何度も強請る」とかな。私の心を一世風靡しロングヒットしたその話もうっすら覚えてる。「見合い結婚したなんだか薄暗い性格の嫁さんの取る深夜の怪しい行動に、こっそり後を付けて行ったら墓を掘り起こして人骨をボリボリガリガリ食べている姿を発見してしまう」という日本昔話だ。

無闇矢鱈と好きで、しつこく何度も読ませようとしていたが、すぐに本を出して読むのが面倒になったらしく記憶を頼りに適当に話し始めた。最初はちゃんと本出して読めと文句をつけたが、まあ物凄〜く面倒くさい気持ちもわからんでもなく申し訳ない気持ちも無きにしもあらずだったので、超絶適当なダイジェスト版で満足する事にした。しかしじきにそれすら面倒になったらしく(何しろこっちは全編細かく記憶してしまっているので「そこはそうじゃなかっただろう!」と文句をつける。「覚えてしまってるならもういいじゃないの!」とママンは言ったが、発達史観の示す通り、そういう問題ではない。中毒患者の如くわかっちゃいるが止められない、已むに已まれぬ欲求があるんだ)、「あの話をして!」と要求するとやる気な〜く「ぼりぼりぼり〜…がりがりがり〜…」と骨を齧るシーン(しかも擬音のみ)だけになった事まで覚えている。激しい不満もないでもないが親に対する思いやりをもって一応満足した。

その擬音だけでブワァと全編のイメージが怒涛のように膨らんだものよ。もうオタク一直線って感じだ。そういう事は皆あったんだろうが、いまだに覚えてるあたりがオタクの才能に満ちていたんかもしれん。

さて問題です。
こっそり後をつけた夫ですが、驚愕と恐怖のあまり嫁さんに見つかってしまいます。夫を発見した嫁さんはニヤリと笑い、自分が墓から掘り起こして齧っていた人骨を「食べる?」と差し出してきました。夫はどうしたでしょう。てこてこぴんてこてこぴん

ちなみに最後はハッピーエンドだ。二人は末永く幸せに暮らしました。


2008年07月13日(日) すばらしく間違えた。

磐音さんは去年放送されたんだ。月しか見てなかったので(今年が何年かよく覚えてないとも言う)間違えた。「見るのか見ないのかはっきりしろ!」と思っていたので、もう悩まなくていい。あろう事か安心した。
ちなみに
今は土曜に「オト/コマ/エ!」をやってるんですわね。あー、それはちょっと読んでみるかどうしよか一瞬心動かないでもなかったんだけど、でもタイトルが少しばかり恥ずかしかったので止めた覚えがある。時代小説は「ほにゃららの辻」とか「ほにゃららの狐」とか「ほにゃらら帳」とか、そういうちょっぴりカッコヨサ気な中にも「絶対前にもどこかで聞いた懐かしさ」なタイトルが好きなのよ。あとはタイトルを眺めてるだけで漢字の読みや熟語の勉強になりそうなやつ。つまり私は「暴れん/坊将軍」より「大岡/越前」の方が好きなんだ。主にタイトルが。たぶん単に「将軍」より「越前」の方が呼称的にカッコイイと感じている。無論、「王」より「侯爵」の方が好きだ。公爵より侯爵の方がカッコイイ。画数が多いところが。子爵はチョロリーナな感じで、男爵は芋を思い出さずにいられない。警視が翔んでたら恥ずかしいが、検事が赤かぶ好きなのはかまわない。本屋で「オト/コマ/エ!」を見るたびに、「オトシマエ!」に見えて仕方ない。

つまりビデオが出てるってわけね?と思いレンタル屋に行ってみたが、私が根詰めて真面目に見れるドラマは洋物ミステリードラマぐらい。(テレビ版/主にイギリス制作/ぶっちゃけて言うと、ポワロさんとシャーロック/同じものを何回も見て時々飽きて他のものを見ようとするが、そのうちまた戻ってくる。映像と風景と衣装と雰囲気が好き/しかしポワロさんに出てくるミス檸檬系の前髪をクルクル固めて額に丸が並んでる状態の髪形が気になって仕方なかったが、何年も見てるうちにとてもオシャレな気がしてきた)
なので、時代劇コーナーにたどり着く前に足が滑ってアニメのコーナーで引っかかった。だって今時代劇を見る気分じゃないんだもの(主に鬼平を中心にしたマイブームがたまーに来る)。

しかし最近はアニメも量が多すぎて何をやってるのか、何を見たいのかわからない。本当に多い。一人突然最終回をしたくなる。一番最後に真面目に全部見たのは一年以上前にエルゴ/プラ/クシーくらいだよ(原因:オートレイブの顔がジリ/オンのノーザ星人にすごく似ている←ゲ○ゲの○太郎のイッタンモメンやヌリカベに激似←絶世の美貌。見惚れる。なにやっても美しい)。
そこでアタシはしょうがないので(何が)エクス/カイ/ザーを見る事にしました。

うああああ、でも萌えないのよう、これは!
(しかし前方の収納式ライトがペコペコ開閉するのは大好き☆)
何が足りないって、なんだかダメさが足りねぇ!こんなの相手に何をどう萌えればいいんだ!(敵は割りと可愛い)

パトカーと救急車の前に、一度救急車と消防車で萌えてるはずなんだが、あれはなんだったんだろう。たぶん火の鳥じゃなかったかと疑ってるんだけど、あんま有名じゃない昔のロボットアニメあんまり置いててくれないのだ。ゴールド/ライ/タンみたいにインベーダーゲーム時代的に古くなってくると無料で流されてたりするんだが。
レザ/リオンとか、見た事無い。そこまでマイナーだったのだろうか。敵の少年が死ぬ時が悲しいのよ。何故か乙女心にトキメキを感じた。詳しくは覚えてないんだが、私の中でのツンデレの元祖だったっぽい。ずううううっとツン山ツン美だったのが、確か死ぬ瞬間に蜃気楼の如くデレたのよ。私的に理想のハイレベルツンデレでしたが、でもね、死んじゃあダメなのよ。この時のあまりの残念さ無念さ加減が、死にネタに対する萌えにくさを作ったのだと思います。死に際に冥途の置き土産的に可憐になられても、トルネードのように巻き起こった萌えをどこにぶつければいいのか。未来無き萌えの哀しさよ。やり場のない萌えが怒りに変わりますよ。

うん、ゴル/ドランは難しくても、ファイ/バードやダ・ガ/ーンは置いててもいいと思うんだけどな。私的にえくすかいざーとだがーんには萌えが足りないんだが。平たく言うと可愛げが足りないというか。でも頑張って掘り起こせば何かあるかも。


2008年07月08日(火) 間違えた。

書こうとしてたのはタイヤキの話だった。
ちゅうかなんでそう要らん事ばっかり言うんだろう私。もうちょっと要らん事とか聞き苦しい事とか言わずに醜悪さを露呈せずに生きていけないんだろうか。無理。

ちなみに、進化が行き過ぎて絶滅したと言われてたのは、鳥でなくて鹿みたいなやつだった気がする。角がでかくなりすぎて。「鳥で羽がでかくなりすぎたら速攻生きていけないんじゃないの?」と悩んでいたら思い出した。そうそう、確か鹿系でね。草食系統の角は雌にアピールする時と雌を争う時ぐらいしか戦闘に使用しないので、「要は、所謂美形度とか格好良さを追求して自滅したのか」と微妙に情けなく感じたのよ。「男と女の愚かさ」って感じじゃないの。

さらに本屋で見直したら、「取り扱い説明書」でなくて「自分の説明書」だった。他の血液型にしたら「取り説」なんだから記憶違いしても仕方ないだろうと思ったりする。

取り説は出版されて話題になり結構経つもののいまだに売り上げトップを走ってる書店もあるみたいだが、言おうと思ってたのは、たぶんその恩恵にあずかろうとしたに違いない匂いがする「X型の頭の中」という本の方だ。血液型別に出てて、中は星座別になっている。文言の短さとか雰囲気がものすごく取り説の雰囲気に似ていて、これ絶対二番煎じ!流行の波に乗って今を逃せるかと慌てて編集された匂いを感じるが、こっちのいいところは全種揃って刊行されてるところだろう。どっかの株や証券の先生が「値上がりし始めた最初の何割かのうちに買わなきゃいけない。一般に情報が出始め騒がれる頃には大抵値下がりが始まっている。落ちたものは必ず上がる。上がったものは必ず下がる。永遠に上がり続けるものも永遠に落ち続けるものもない。皆が熱狂してる頃にはどん底に落ちてる方を買うべきだ」と言ってたのを思い出してみた。確かに、取り説のシリーズの方で全種類の血液型が出揃う頃には流行りは廃れ始めてる気がするね。

ともかく、その表紙の帯に自分の○型蟹座が書いてあったので「なんですって?この私がいつ堂堂と人を貶したと言うんだ」と思って覗いてみたわけだ。ゴキブリホイホイのように順調に捕まる私。阿呆だ。
この本のコンセプトのよくわからんところは、タイトル。「その人の頭の中では自分の事をそう思ってる」のか、「他人から見てそうなっている」のかよくわからん。

確かに私は陰口はあんまり好きではないよ?陰口を聞きたくないがばかりに休憩中など付き合いが悪いと文句言われながら逃げ回っている。自分がムカついてる相手の陰口だとその時は聞いてて愉快でない事もないんだが、言うほうは気分がいいしな、しかしどうせ後でやたらへこむねん。

「そ、そんな!アタシ、人を貶したりなんか…!」と思いたいところだが、「私はおまえに死んで欲しいと思っている」と正面切って言った記憶もいくらか無きにしもあらず。
「で、でも今は丸くなったんだから!」と思うが、よく人と他人の話をしてる時に「声が大きい!」と慌てられることが何故かよくある(近くに本人がいたり、そのナカヨシがいたりするわけだ)。私は何故声を潜めなければならないのかがわからない。大体今更遅い。聞こえたかもしれなかったらもう逃げられん。決戦の覚悟を決めろって事だ。
大体、言わずにおれない不満があるなら本人に伝わるべきじゃないんか。伝えなくてどうする。聞こえそうな近くにいるなんて運命である。だから「よっしゃ!まかしとけ!」とさらに大きな声で聞こえよがしに言ってみる。「あなたたち…なんの話をしてるのかしら?」とやって来たら、直接話し合う良い機会だ。というかそのままだとただの陰口になるところを免れてラッキーである。「あなたの悪口を言ってました」と胸を張って言う。

そう思うと、「いや別に堂堂と言ってるわけじゃ」と思いながらも、もしかしてああいうのの事かと否定しがたい部分もある。「金を貸すときはやるつもり」は確かに主義ではある。『絶対返してくれる』などと確信して貸したら、後でもめた場合にどんなに信頼しあった人間関係をも容易に引き裂くと確信してる。「返してくれなかったら許せない」なんて時は貸さない。だから金融関係の仕事はできないし、銀行や消費者金融から金を借りるなんて事はそうそう考えられない。自分はなんて心が狭いんだろうと情けなく思う。でも譲れない思いの金色夜叉。

逆に「これだけは絶対に違う!」と言いきれるのもちゃんと混じってる。「怪談が平気」?
平気なわけないだろう。もうそんな一文を目にしたせいで、寝るときになって呪恩の怖いシーンを思い出して大変だったんだ。「…ダン!…ダン!と音が続くので見に行ったら、子供が親父の首吊り死体をブランコのように揺らして壁に打ち付けて遊んでた」シーンを思い出し、なんとか「あのシーンにはユーモアがある!アハハ笑えるなあ!」と信じようとしてみた。しかし「夜中に寝苦しく魘されて目が覚めたら、ドアがひとりでに勝手に開いたので閉めに行って、ふと振り返ったら、そこには バーン! 血だらけの兵隊さんがッ!」のテレビ映像を思い出してしまい、「もうだめ!死ぬ!」と思った。「だめ!だめ!だめなの!出たらだめなのよ!出るぐらいなら寝られなくてもいい!」と布団の海でクロールした。でも寝た。

<脱線>
…ちょっと前の話なんだけど、深夜に目が覚めてトイレに行ったらさ、
用を足してる時は何も無かったんだが、トイレを出ようとした瞬間にぶわっと物凄い線香のにおいに包まれたのよ…。しとしと雨の深夜で風はなかった。うちの家に以前住んでた友達に言ったら、「ええ!?うそ!」と驚いたので、つまりそれぐらいありえない感じだ。
寝ぼけていた私は「あ、お線香の匂いだー。お線香の匂い好きー」などと思った直後、「…え"?」と思った。いっきに背筋を走り抜ける悪寒。こんな時はとりあえず寝るに限る。それが永遠の眠りになってもいいから私は寝る。とりあえず京都のお寺のお札を無意味に撫でてみる。頼んだぞ。よろしく。千年の都、魔法陣都市の底力を見せてくれ。「こわいよー」と思いながらしかし寝ぼけてるので直ぐ寝たっぽい。朝になって目が覚めた。目が覚めた事に感動したのは久しぶりだった。もう起きることはないかもしれないと覚悟してたんだが何事も無くてよかった。耳無しホウイチみたいに朝だと騙されてるかもしれないと疑ってみたが、ちゃんと外も全部朝だった。そこで私はお湯を沸かそうとキッチンに立った。薬缶に水を汲み、コンロにかけ、ガス栓とつまみを回…まわ…既にまわってる。

なぜかしら…ガステーブルの元栓とつまみが、火がついてないのに全開だわ。

先生、あの線香の匂いは、お迎えが来てたんだと思う?
それともお迎えを阻止しに来てくれてたんだと思う?
悩ましいところだ。
それで思い立って、生まれて一度もした事が無かったので好奇心もあり、厄払いに行ってみたんだが、ちょうどその日にその直ぐ近くであんな事があるとは本当に思いもしなかった。
<脱線終り>


「確かにそれはある」と思うのと「なんだそりゃ」が混在していたので、余計面白く思った。

>>
言いたかったのはここからだ。驚くべき事実が発覚した。
>>

お友達の欄にあった「タイヤキを食べる時は必ず頭から食べると決めている」が猛烈に気になった。本当だろうか?そんな事決めてるのか、彼女は?
早速おうちに帰ってメールです。
「つかぬ事をお伺いしますが、お姐さんはタイヤキを食べる時、頭から食べる?尻尾から食べる?」
何も知らずに、ホイホイと返信が来ました。
「頭から食べるわよ?」
マジでか!
私はタイヤキをどっちから食べるかなんて意識した事もない。さらに調査です。
「いつも?」
「うーん、今までに尻尾から食べた事はないわね」
マジでか!?
大体「今まで」の事を覚えてるのが脅威です。生まれてこの方四捨五入して三十年、一体人はその間に自分が何匹のタイヤキを食べてきたのか数えられるだろうか。ありえない記憶力だ。つまり、毎回毎回毎回毎回、タイヤキの「頭から」食べる事を意識的にやってきたとしか考えられない。私は、「まさか尻尾の方にはあんこが殆ど入ってない…なんて事はないだろうな?もし頭から食べて尻尾まできて、そこで餡がもう入ってない!そんな事になったらコトだよ。大ショックだ。尻尾から食べて餡が入ってなくても後は最後まで餡がいっぱいなら別にいいが、その逆はいやだ。もし尻尾に入ってないなら頭の方に詰まってる餡をちょっとうつさなくてはならないわ」という理由で、まず頭と尻尾の間を割って中を覗いてみる事がある事しかわからないというのに。

続きに「その事について咎められたらキレる」というのがあったので(みたいな感じの事。細かい文言は違うかもしれん)、それもついでに聞いてみる。
「文句言ったら怒る?」
「別に怒らないわよ。そんなに言われたら、尻尾から食べてみてもいいわ。新たな発見があるかもしれないものね」
ないじゃろ

私が思うには、頭から食べる事をそれだけ意識するというのは、密かにタイヤキのあの愛らしい形に何かを感じてるんじゃないか。だから「ギャハハ!死ねぇ!」と残虐な気持ちで食べてるか、「逃れられない運命ならば、せめて直ぐに楽にしてやるぞ!」という優しさの発露なの。
まず生きたまま腹を裂いてハラワタを覗いてみたり、まず尻尾を開いてあんこの偏りについて検分しようなんて冷酷な発想はしないわけよ。尻尾から少しずつ食っていき、苦しみを長引かせるようなマネはしたくないの。だから「頭から食べるなんてかわいそうじゃないの!」とか言われたら、「じゃあどうしろって言うんだ!食うなって言うのか!?」とキレるんじゃないかと疑われてるのよ。しかも「ハン!(鼻息)何言ってんのよ馬鹿じゃないの?かわいそうだからこそ!一思いに頭から食べるんじゃないの!」などと自分が優しい子とか思いやりのある人のように思われそうな事はカッコウ悪いので断じて言えない。そこで「うるせえ!人の勝手だ!」とただムカツクだろうと疑われてるのよ。

これは遠い記憶の底にうずもれた深層意識なの。
生まれて初めてタイヤキを食べたあの日、あのむっちりと愛らしいおさかなさんを前に「これは一体どこから食べればいいのか?」と思い悩んだ末、自分にできる最後の優しさとして出した結論であり、選びとった人としての道なのよ。人はどうあろうとどうでもいい。色色な考え方があるだろう。私は人のやる事に文句はつけない。だから人も私の選択に文句言うな。私は選ぶ。ひと思いに頭からガブリと食べよう!
でもそんな繊細な心の動きはド忘れした。
覚えてるのはコレだけだ。「タイヤキだ。頭から食おう」

そこで人に言われて「そういえば特に意識したことも無かったけど(一度もない等と覚えてれば十分意識してるうちに入るのに、こんな事をのほほんと思ってみる)どうしてかしら?」と思い、「それでは」と尻尾から食べてみても、無論の事「新たな発見」などあろうはずもない。どこかしっくりこないだけだ。次からはまた何故だか、なんとなく頭から食べているの。それを見てまた「なんで頭からなの?」としつこく言うと、「もー!そんなのどっちでもどうでもいじゃないの!」となるねん。私にはわかる。
あ、いかん。わかるはずがない。


2008年07月05日(土) ネタがない時はこれ。

「血液型○いはあんま信じません」と言ったところ、「えー?私、血液型○いだけは信じてるよ!」と言われ、へえと面白く思った事があった。私の感覚から行くと、実際にどういう時にどういう選択をするかを逐一あげていっての性格分類的ものの方が実際と遥かに近似になる気がする。例えば、「血液型に疫学的な傾向だとか軽微な特徴なんかがあって(細菌感染に強いとか)、その特徴が実際の行動選択の幅を左右する事により(感染率を上げそうな行動を忌避するかお構いなしかとか)、全体的な傾向性をもつ(慎重か大雑把かとか)」とか言われたら「そらそうかもな」と思うが、でもそれはあまりに大雑把過ぎる気もする上、その傾向は実際の性格分析の中により細かく現れてくる、当然含まれているはずだろう。

顔の造作や発声の仕方、仕草や癖に関しても、その生まれと育ち、及び経験体験とその認識と解釈は影響するだろう。例えば似た容貌ならば古くさかのぼっていけば遠く血縁関係があると疑われなくもないとする。血縁関係があったなら、その時点で親からある程度同じ教育を受け、同じような経験をし、似たような価値観を育んだとも考えられる。それは代を重ね拡散しながら、その都度家族内で共有され受け継がれたとも考えられる。そうだとすれば、容貌の近似から性格の近似性を見、そこから選択の共通性をはかり、その先に一生の傾向、その確率性を垣間見ることも不可能ではないかもしれないだろ。
もし容貌に影響を与える遺伝子に性格の傾向を決定する因子も乗っているとすれば(例えばドーパミンを作りやすいとか、セロトニンの受容体が少ないとか)、外見的特長から性格を類推するのは「科学的」だという結論になる。

動物間での伴侶選択はよく外見的特長、身体特徴によって選ばれる。羽色が美しいから、声が美しいから、匂いが強いからなんだというのか。だがもしかすると彼らは、それが子孫の生存確率に強く影響すると本能的に考えている、知っているのかもしれない。だとすれば、「人は外見的特徴ではわからない」という倫理道徳は生物的本能に背いた結論だ。そしてそれはかつての弱者、普通ならば選ばれなかった者が知能を持ったがゆえに見つけ出した抜け道ではないと何故言える。ただ、この話は、生物が常に自身の何かの永続を指向すると仮定しての話になるだろう。生物の究極の目的は種の保存にあるを否定するドーキンスの機械論に対する否定は既にあったよな、確か。生物は遺伝子の保存ために生きるのではないと。
私は進化論という考え方に疑念があるねんよ。進化論というのは、ある一つの目的、例えば自らの子孫がより確実に生き残っていく可能性に対して優位になるように変化、すなわち進歩していくという発想だろタブン。生物は中学生までしかやってないし、私はよくわかってないんだろうが。「生命には本質的な目的があり、その達成のために進歩し続ける」等というこれは、あまりにも一神教的な発想だと思われてならない。ダーウィンは敬虔なクリスチャンだったんじゃないかと疑う。「生命は目的をもって生まれ、その達成に向けて進歩し続ける」などというのは。

私が素直に考えるなら、こう考えるよ。生き延びるために進歩したのではない。変化したもののうち、たまたま当時の環境により適していたものがより多数生き延びた。環境の変化に応じて生き延びるために目的をもって試行錯誤して変化していったのではなく、環境が変化する事によって安定性が崩れ、その結果異常が多発した。生き延びるために適合したのではなく、結果的に適合していたやつが生き延びただけであり、優れた種が生き延びたのではなく、生き延びた種を優れていたと価値判断しているだけではないのか。
ダーウィンとか思い悩んだんじゃないかと思うよ。世界の創生において、全知全能である神によって作られた完全な存在の被造物が何故変化していくのか。あってはならない事が起きている。とすれば、それはあってはならない事ではなく、当然の事でなければならない。変化を是とする事が予め創造主によって意図されていたはずだ。みたいな直線的な発想が無ければ、循環的発想をしていては出てきそうになく思われる。
昔同じクラスに熱心なクリスチャンがいて、神様は全知全能で〜と煩かったので「全知全能の神が創造したものが変化していくのならば、時間が進むほどに神の意図から外れていくのではないか?」と意地悪く考えたわけよ。変化した結果が常に肯定され、望まれた結果となる「進化」とか「進歩」という概念はこれをクリアするねん。
別に文句は言わない。生は死より遥かに優る疑いない価値を持ち、有は無より問題なく尊いという感覚は現在の倫理道徳の根幹にある。
だのに米国で教会の教えに反すると進化論が禁止されてる州なんかがあるのが面白く思われる。

外見的特徴でモテるモテないの話だけどな、なんだったかな鳥だったか、その特徴が極端に行き過ぎて生きていくことが困難になり自然絶滅したのがいただろう。「翼が大きいほどいい」で雌が選択的により翼の大きい雄と番になっていった結果、やがて子孫は自力で動かせないほど翼が大きくなりすぎ…、とかいう種がいた気がする。これは結果的に「成功」したとはいえないが、しかしその社会内では絶滅の最後まで栄光に冠したわけだろう。翼が大きいほど常に「勝ち組」ではあったわけだ。

ともかく、喩えばこういう説がある。一般的に冬生まれは強く、夏生まれは弱い。なぜならば、身体的により辛くなってくる臨月を母親が黙って座ってても辛い盛夏に過ごしたか、じっとして過ごしやすい冬期に過ごしたかによって苛立ち度が違い、体内にいた胎児に対する心境が違う事による…とか言われたらそれもそうかもなって気もするだろう。気温や気圧の変化、季節の過ごしやすさ、祭事の頻度なんかを考えていったら、「だから季節に区切って性格分析を考える星座○いにも根拠はある、少なくとも血液型と同程度は!」と言えなくもないだろ。そして性格に傾向があるなら、「ただめぐり合わせによる」のではなく、個々人の思考の癖、感情の程度、感情の表現の仕方などが各々の人生に流れを形作っていくのだと信じるのならば、性格の性根に影響を与えたものは人生全般に生涯影響すると言えるだろう。

○いを信じる根拠にはこういった風な思考の流れがあるのではないかと漠然と思っていたので、「他の○いは信じないが血液型だけは信じる」というのが物凄く奇妙に思えたのよ。上記のような流れによるなら、血液型に信憑性を感じるのと同じ理由で他の○いにもある程度の信憑性を感じてもおかしくないのに、血液型だけを別個に括るという事は、何か他の根拠をもって信じているという事になる(全く根拠のない確信、私は個人的にそれを信仰と呼ぶけれど、でないならば)。それは一体なんだろう?私の思いつかない理屈が?と興味が湧いたんだけど、業務中だったので詳しく聞けずじまいになった。

私は「あんま信じない」と言いながら、面白がるほうだ。散々チェックして遊び倒した後、放棄する。血液型が信用ならんとヒシヒシ感じるのは自分が必ずA型かAB型を疑われるからと、激しくA型っぽいB型やすごくB型っぽいO型と長く付き合ったからだ。
○いに意味があるのは、本来なら色々な局面において長〜く付き合って次第に見えてくる経験則に基づいた性格、人間性の判断を、「相手の情報がほぼゼロの状態からいきなりド真ん中をブチ当てよう」というところにあるのだと思う。ぱっと見A型で軽く付き合っているうちはどう考えてもA型っぽいやつの真の姿なんてどうでもいい。たとえ現実はB型であっても、「こういう場面での選択傾向はA型ど真ん中に等しい」という事だけ判っていれば、その方が実用的だと思われるよ。

よく生涯の九割九分を善人として過ごしたやつが残りの一分で悪い事をすると「本当は悪いやつだった」の汚名を着るが、よーく考えてみて、生涯の九割九分を悪人として過ごしたやつが残りの一分で善人っぽい事をしたとして「本当はいいやつだった」になるか否か。この人物を分析して結局「善人か悪人か、どちらだったのか?」と結論を出そうとしても難しいと思う。「本当はいいやつだ」という結論も「本当は悪いやつだ」という結論もどっちでもどうでもいい事っぽい。
この「本当は」というのは意外性を示していると思われるが、感情論的な感動度を度外視すれば、大抵重要なのは意外な場面などではなく「より高い確率で頻出する殆どの場合はどうか」の方じゃないのか。で、それを懸案するならば、○いもそうだが、「真実の姿」の価値はいかほどのものかと疑われるわけだ。
真実ってのはなんとなく外国語の翻訳っぽい匂いがする。背景にある種の価値観を感じるねん。

…私は「それが意外」かどうかあんまわからない方だし。それで真実の価値に対する疑いがはれないのかもしれん。他の人と比べて変わってるかどうかは少しはわかるが(物知らずが極まってわからない事も多々ある。不安に駆られて「これはおかしいのかどうなんだ?私はおかしいような気がするんだけど気のせいかしら?」と人に聞きまくったりする)、普段のその人と比較して意外かどうかはあんまり。まずその人の「普段」なんてよくわからんよ。

ちっさいときは個人に対して色々意外に感じたりする事もあったような気もしないでもない。J子なんか私には意外性の塊だった。「オカンはこういう人間なんだ。これこれこういう人間だからこれこれこういう事を言うんだろう」と何度も信じながら、その度に「そうではなかったのではないか」と裏切られてきた。モグラ叩きのように確信を打ち砕かれているうちに(自分で確信して自分で打ち砕いてきた)、自分の確信を信じなくなり、判断と解釈の全てを保留するようになってきた。結論は出してみる。しかしそれは全て仮説に過ぎない。それで脳内に学会が打ち立てられた。手打ちだ。私の脳内で中世どころか古代にまでさかのぼる最古の歴史をもった権威ある学会。飽きもせずJ子についてばかり論争しながら、「他者とは何か?人間とは?」という重要課題もここにおいてついでになされ、議会もJ子学会の重鎮の見解を無視することはできない脳内シンクタンクなの。近代の全てはそこから始まった。

私が思うに、真実の姿ってのは人間の限界まで全力で客観視した場合の姿(視点見地観点)であって、すると客観である以上、真実には価値の高低や善悪は適用されないわけよ。私はそう思う。つまり判断の基準はそこには失われてしまうねん。「それって意味があるわけ?」とも思う。
そこで私が考えるに、「真実の姿」と言うのは「その人はこういう人間である」と自分が信じる姿か、もしくは「その人はこういう人間である」と自分が信じているがゆえに見落としてる観点の事だ。これならば真実には意味がある。真実を知りたいと思ったり、真実を知る意味もあるし、その効用もあると思われるよ。


ついでに、自分は、たとえ本当はB型の人間を「本当はA型だった」とたばかられたら、あっという間に「本当はA型っぽいところ」を多々発見できる才能に満ち溢れているんじゃないかと思ってる。それどころか、典型的なB型特長をそのままで色々こじつけて典型的なA型っぽさに解釈しなおす事すらお茶の子さいさいである。こうやって日々、物事の多面的な見方、解釈の多様性に挑戦してるわけよ。

個人的に○いの面白いところは、数種類を一ニ冊眺めただけで、世の中の人間の思考感情偏向パターンの殆どを大雑把に分類して網羅するところだと個人的に思ってる。あの中に全く出てこないタイプが「奇人変人」ってやつだが、だが奇人と言えどもナニガシかは引っかかってくるところがあると思うけどね。ともかくね、○いの本を何冊かざっと見て御覧なさいよ。一見短所をどう捉えれれば長所と見られるのか、長所における短所の発現はどういったものかの例が呆れるほど沢山見られる。あらゆる悩みは一切の虚無と化すよ。人間として思いつく限りの欠点を網羅しながら、常に「だが人として間違ってはいない」と肯定的解釈に挑戦するその勇姿。人類愛に満ち溢れている。これほどに地球上の殆ど全ての種類の人間を網羅しようと試みながら、しかもその全てを全人的に肯定しようという気概に満ち溢れた文献類は他にはないのではなかろうか。固定観念に囚われて息苦しくなったら○いの本を読むに限る、とすら思う。そこには人類が悩み苦しみ妬み僻み憎しみあい罵りあいながら闇の中を手探りするようにして積み重ねてきたもの、一万二千年を生きた賢者の叡智、そのエキスが絞りつくされているかのよう。私はいつもここに、自身と異なる他者を許し自らをも許そう、それはできるはずだという過激で一途な理想の追求、人間愛の一つの到達点を見る。
で、
これがしかも宗教と一線を画すところは、常に俗世にどっぷり足をつけた状態でってところだ。悟りを強要しないが、この思想の背景には悟りが満ちてはいないか。発想はあるがままを生きる、森田療法的とすら思う。

大体アレだ。私は精神分析は○いに似てると思っている。「ちょっと臨床の本を五六十冊斜め読みしてる人間に容易に言い当てられてるようじゃ、本職の精神科医には一発だろうが。一日一日を現実に生きてきたおまえだけの人生だろう。そんなに簡単に、赤の他人に分析されてしまいそうな人生で、教科書で実例になるような人生で、おまえは悔しくないのか!?」と、無闇に頭に血が上ったりする事もある。
大体なんでも分類するのは嫌いじゃない。分析するのも解釈するのも薀蓄もコジツケも好きだ。でも「それを最重要視すべきではない」とも思ってる。こういう具合で、私は世の様々な○いや分析に親しみ愉しみながら、敵対心や対抗意識を燃やし、自ら近づきながら牽制を怠らないるわけだ。


なんでこう長くなったのか謎だな。
さらりとここへ持ってきたかったわけ。B型とA型の取扱説明書みたいなのが売れてるだろ。何故O型やAB型は無いのだろうな、寂しいじゃないか、と。(聞くところによればそのうち出るらしい。どうせろくな事はかかれてないだろうが楽しみだ)

何故B型の血液型に関する本ばかりあるのかといえば、これが一番売れるかららしい。AB0式全血液型の中でB型がもっとも血液型を気にするのだそうだ。全種類の血液型の本を出版しても、B型を取り扱った本の売れ行きだけは他者を引き離して抜きん出るらしい。
本当か。

ひょっとするとアレかもしれないぞ。
他の血液型の人間が常に「やっぱりね」的に強烈にB型を意識するがゆえに、B型は自身の血液型を忘れる事ができないのかもしれない。自分自身と血液型を分けて考える事が困難な社会的現状に身を置いているのかもよ。もし血液型○いの信憑性を疑うのなら、B型は常に「やっぱりB型なんだ」等と言ってくる周囲の人間を常に見下し下等な人種よと軽蔑しながら生きなければならなくなるだろ。その批難や尊敬、特別視をそれなりに軽く受け流しながら生きるには、ある程度その相手の判断や結論、言分に一面的にでも合理性があると認めるしかない。少なくとも、「多くの場合においてB型はこのように捉えられている」という現実を受け入れる必要に迫られるだろう。
私が予測するには、B型がこれほど色々言われるのは統計的にA型が多い日本だからではないかって気がするよ。それと日本の社会が要求する応答の仕方において、俗に「B型的」と言われる性質が相反する場面が多いからじゃないかと。「彼はB型なんですって」となった時に、集団内において際立って目立つんじゃないか。

ちなみに、私の職場の同僚は数十人いるのだが、女の常でか飲み会で各々の血液型に話題が波及した事があり、とくによく仕事をする連中の血液型を私は知ってて覚えてるわけだ。主にAB0で、AとBが目立つ。
その勝手な印象だけで行けば…、
さあ好き勝手言うぞ。
Bは趣味などに共通性はないが各々そこにいるだけで華やかで明るい雰囲気だ。悪く言えば、頭が軽そうに見える。Aはよく言えば落ち着いた賢い雰囲気、悪く言えばどことなく薄暗い。
他人が間違った時、自分と異なる事をごり押ししてきた時に、「ああ、そう。アタシが悪いんでしょ。いいわよ別に。じゃあそうすればいいでしょ」と直ぐふてくされるのがBで(相手の非難はあまりしないが自分の中の「しかしこうだろう」的意見は実は曲げてなかったりする)、「あいつは頭がおかしいんじゃないか。どうしてわからないのか」と自分の意見の正当性をいつまでもゴリゴリ(仲のいい仲間内だけで)言い続けるのがA。
A型には「気のあう」B型の、それぞれ仲良しがいたりするのだ。
それというのも、どうも仕事において意見が合わない時のA型同士というのは難しいっぽい。自分の意見を譲らない上に、正面きってはあまり論争せず、その場では一理あるような顔をして頷いておいて人影が失せた途端「あの人の言ってる事おかしくない?」と言い出すことが頻繁だからだ。「何故言われたその時に言わないのだ?」と物凄く悩まされる。最中はうんうんそうだねと頷いていたんだから、本人は自分の言分が理解してもらえたと思っただろうに、その本人がいなくなってから徐に反論してどうしようってんだと頭を抱えた事数知れず。
「あの人は自分の考えややり方を絶対に曲げないでしょ!自分だけは正しいと思ってるんだから。おかしいわよ!良いやり方があったらそっちに変えるべきじゃないの!?どうして自分のやり方がおかしいと少しも思わないのかしら?」とお互いに相手を評して言ってるのが、傍目には可笑しい。しかし間に挟まれているので笑ってばかりもいられない。
「自分は小心で気が弱いから面と向かってはっきり言えないの」と言うので、では代わりに調整しようと走り回って「なんで言っちゃうの!」と怒られた事数知れずだ。なんで言っちゃだめなんだ?批難や誹謗中傷でなく自分が正当な意見を言っていると思っているのなら、言いたい事を言いたい相手に伝えないでどうするんだと思う。そこで「じゃあなんで私に言ってくるんだ?要求している事がさっぱりわからん。相手にどうして欲しいんだ」と思い悩んでいたら「ただあなたに言いたいだけなのよ。聞いてウンウンって言っておけばいいの」とB型に言われる。
なんじゃそれは。わけがわからん。
Bはあまり相手を強く非難しないが、苦手な相手と会話する時には逃げ腰なのが傍目に明らかだったりし、いなくなると一人で苦笑いしている事が多い。さりげなくさらりと突っ込まないと本当に感じている事をはあまり言わない。真意をしつこく問われるのを嫌う。それぐらいなら自分が折れたほうがマシ、とにかくめんどくさいらしい。くるくると働き者だが、他人との葛藤においては逃げ回る。Aは影ながら強く批難するが、直後でも件の相手と笑って和やかに世間話ができる。その場に相手がいなくなるとナチュラルに批難を再開するので、「なんだ?なんだ?嫌いじゃないの?嫌いなの?」と翻弄される。
だまーって見ていると、一見Bの方が無邪気で何も考えてなさそうに見えて、その実大人の対応に感じる。
B「人と人がいれば誰かは我慢しなければいけないのよ」
A「自分がおかしいと気づかないあいつはおかしい。私の正しさが何故理解できないのか理解できない」
我が職場におけるABの基本はこんな感じだ。ちなみに私はいつも色んなところの板ばさみになって困り果て一人キュウキュウ鳴いている。八方美人の辛いところだ。「じゃあ八方美人やめろよ」と思わないでもないが、かといって「では」とやめられるほど極端に一方に正当性を認められないのだ。つい各々一理あると思ってしまう。


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