非日記
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2008年06月30日(月) ちょびっと。

最近殆ど日記を書いてない気がしていたので、六月もろくに書かないまま七月に突入もなんだなと思ったが、振り返ってみたら同じように感じて五月は割と意地になって書いてるな。四月をまるっとすっ飛ばした事がつい昨日の事のように忘れられずにいたらしい。

まあいいわ。
せっかく、うっかりと柳次郎さんについて書いてしまったので、ちょっと萌えておこうかと思います。
柳次郎さんは偉大なる凡人です。比較的でかい見せ場は二十ン巻まで来ないジミーだが(その見せ場もあっという間に終り、寂しいほど地味)、そのジミさが凄い。できた人間とできてない人間に挟まれながら、小揺るぎもしない誠実な凡庸さが小憎らしいほどです。柳次郎さんの凄さはなんと言っても「自分を知ってる」ところだと思います。前に出すぎず、後ろに下がらず、できる事を、できる範囲で、嫉妬も妬みも屈辱も感じず淡々と爽やかに行っていくところ。ものすごく地味だけど、でもこれ、そう簡単にできる生き方とちゃうやろと思います。柳次郎さんの腰の座り具合は、それこそ二十ン巻まで読まないと判明しないが、そこまで行くと平々凡々の極みの如き柳次郎さんがあまりにも凄い事がわかります。
何故グレていないんだ柳次郎さんは!
ひがみっぽくなったり、斜に構えたり、ふてくされたり、自棄になったり、してないんだ柳次郎さんは!?
主人公はこのやろうってぐらい幸運に恵まれるというか、まあ出だしは不運だったが着々とやる事なす事が概ね良い方に良い方に行くのだが、そういうのの隣にずっといて、根暗な方向に「いいなー」とか思わない。すげくアッサリしてる。確かに主人公の幸運度というか、人からの好かれっぷりは個人の性分と性格的とか雰囲気的なものなんだろうけど(選択や行動にしても、性分が多大に影響を与えているので)、でもそれって自ら欲して努力して得られてない分、余計に羨ましくね?なんでアイツはああいう風な人間に生まれつき、自分はこうなんだろう、みたいな。しかもこういう相手のムカつくところは、たとえ自分が物凄く努力して後天的に人品卑しからざる人格をつくりあげたとしても、自然体で生まれつきな人間の前ではなんか負けてる感じがするところだ。前者がとんまな事をしても「まあそんな事もあるさ」って感じだが、後者がとんまな事をすると「所詮付け焼刃だ」って感じがするのは気のせいか。

何を言いたかったか殆ど忘れたが、つまり柳次郎さんはカインとアベルでアベルばっかり贔屓されてもアベルを殺害しないような男なのよ。それってすごくね?みたいな。…ん?でもうん、お母さんはエエ人だもんな。
「でも私にはそなたが残った」
で、じーんとしました。本当ですよ。これさえ残れば後は用はないって感じの宝珠が残ったよ。

主人公のツテというか縁で偉い人と顔見知りになってもスルーしまくりだしな。悦に入りもしなければ、びびりもしない。自分の困窮をなんとかしてもらえないだろうかとか限界切っても思わないの?切羽詰ったら普通ちょろっとでも利用したく、できないかなとか思っちゃったりしないの?
家を探してもらうだけでいいわけ?
雲の上の方と繋がってる人と親しく付き合いながら、どっしりと地上に根を生やして、自分の足回りの事だけを自分の力量において真摯に対応しようとしているところがとてつもなく凄い。横に竹村さんがいるのでよりいっそうすごい。

とにかく柳次郎さんは恰好いいのです。ナン巻だったかな?主人公も「品川さん、カッコイー☆」と頬を染めてました。私は見ました。
著者は「映像関係から来たせいか小説なのに読んでると映像が浮かぶ」という評がよく見られるが、私は色々詳しくないので剣術シーンは上手く脳裏に描けないんだが(サッパリだったので「八双」とか「正眼」とか調べたよ!)、でもそこはなにやら映像が見えた。顔はわからないが、でも磐音さんは「品川さん、カッコイー☆」と頬を染めていた。私には見えたのよ!

柳次郎さんがステキで萌え萌えしかけたので、一人孤独にCPを考えてみようとした瞬間がありました。なぜかと言うと柳次郎さんは二十数巻にわたって延々と彼女がいなかった上に色めいたエピソードがそこまで全く無かったからだ。磐音さんは女塗れだし、竹村さんは妻子がいるにも関わらずだ。
最近は腐女子も色々手広くやって時代劇もジャンル的に無いでも無かったので、とりあえずサイトを探してみた。だが平成のべすとせらーのはずのくせに誰一人手をつけていなかった(少なくとも私は見つけ切れなかった)。しようがないので一人で考えてみる事にした。私は大体人のふんどしで相撲を取る方が大好きなんだが、まわしを締めてるやつがいないなら仕方がない。しかし思いつかなかった。柳次郎さんが素晴らしすぎて、相手をするに足る男前がいないように思われたのだ。まあこれで何かやるんだったら、絶対主人公中心になるんだろうけどな。だって誰も彼も彼を好きになるからね。でも私的に柳次郎さんの相手には足りないのよ。
柳次郎さんは、例えるならば、もしこれが十二国記で私が麒麟だったら思わず王気を感じたくなるかもしれない。君臨すれども統治せずな感じだ。


2008年06月28日(土) え、前は二月?

ようやくCONTMTSTOPを変更して、振り返ったら前は二月でした。

…ええ!?

ついこのあいだのような気がしてたのに。こういう調子では、「ついこの間生まれたような気分でいる間にハッと気がついたら臨終…」のような気がリアルにするよ。




もうすぐに七月なのだが、私の記憶によれば/居/眠/り/磐/音/さんは七月放送だった。うっかりして見ないまま終るような気が甚だしくするんだが、うーん、でも一巻好きなんだよね。一巻が物凄く読みやすくて面白かったので、そのまま今出てる分は最後まで読んであるわけよ。珍しく。
どうやら五巻?あたりまでやるらしいんだが、それだと後半は江戸を離れて旅に出てしまうじゃないの。確か大分に戻ってそのまま延々と追いかけていくじゃないの。シリーズタイトルの「江/戸/双/紙」は嘘っぱちになるじゃないの。
てゆうかね
…江戸を離れてしまったら、柳次郎さんが出てこないではないか!?
うん、江戸で柳次郎さんという貧乏な御家人のお友達ができるんだけど、この人がとても好きなのよ。どことなくきゅんきゅんさせられるねん。あーもー、柳次郎さんエエ人じゃなあ。柳次郎さんが竹村さんを見捨てないので「もー!もー!おまえは完璧にアル中じゃ!」と竹村さんに腹を立てつつも、それでは竹村さんがどんな人間になったら自分は満足なのかを十五分ほど考えてみた事がある。

結論:竹村さんは今のままで文句のつけようがない。

しかし腹は立つ。
もー!もー!
この腹の立つ竹村さんを見捨てない品川さんは凄い。「品川さんは大物だ」と誰か言ってたが、本当だよ。大物だわよ、品川さんは。

何故か一巻に手を出した頃、ちょうど私はサブプラ派生で金融関係にウケていたので余計に燃えたのだと思う。今津屋さんが楽しいのです。
老分「それには今津屋の身代を賭ける覚悟が要ります」
主人「このままでも身代は傾いておりますよ」
↑な、二人がたまらなかったのです。ここがスゲー楽しかったので、ちょっと見たい。でも原作の流れが物凄く気持ちよかったので、もうそのままで良いテレビ見なくて良い、という気もする。

そういえば、大分あたりから東京まで歩いてくるのも現代人には「(歩かざるをえないんだけど)よく歩くなあ」と凄さを感じてしまうが、仕事を探して(仕事で)江戸中を歩くのも凄いと思わんでもない。東京詳しくないので感覚的にわからんかったのだが、だって毎日深川からって、ナチュラルに江東区あたりから神保町まで歩くわけだろ?今だったら絶対電車に乗る。
今ではぐるんぐるん鉄道やら地下鉄やらバスやらが走り回ってるじゃないですか。それで距離感が全くつかめない。

住んでるところが昔から今に至るまで時刻表で鉄道網を見てもすかすかで爽やか過ぎる地方暮らしの私は、何がどうなってんだかに密集してる東京や大阪はなんとなく物凄〜く広いと思い込んでいたっぽい。密度がなあ。都会に出ると道に不案内なのでつい電車に乗ってしまうが、よく考えると「歩いても五分ぐらいじゃん!」だったりするのよな。
仕事帰りなんか一時間黙って電車待つのが暇すぎて四十分ぐらい歩いて大通りまで出たりするよ、そういえば。こっち来た頃は自転車も持たなかったので(後に人様にお古を貰った)買い物には片道三十分ほど歩いていっていたし、休日には片道一時間半ほど歩いて町まで出ていたよ、そういえば。
無職の時分に暇にあかせて毎日五時間ばかり散歩をしていたら、なんか十キロぐらい軽く痩せてたよ。あれは距離的にどれぐらい歩いていたんだろうか?

ダイエットに使うっぽい「キョリ側」?ちゃらんHPがあり、地図上をクリックして点で結んでいくと、その距離と徒歩・自転車・自動車などでの使用時間と各々の消費カロリー、そのカロリーにあたる食べ物の個数で表してくれるのだ。
しかし思ったより消費しない衝撃。
えー!あそこまで歩いておにぎり二個かよ!?という衝撃だ。
つまりアレか基礎代謝。単に生きてるだけで相当使うって事か。
本気でダイエットして減らそうとしたら、相当の根気がいるって事はわかった。…でも42.195Kmを水だけで走ったら、マラソンランナーは数キロ痩せてるって言うよな?体がガタガタになり立て直すのに時間がかかるっていうけど。大学の体育教師が九十キロ縦走を六時間ほどだったかで完走した時、数ヵ月後のマラソン大会は捨てて行ったと言っていた。42キロを走りなれてるので倍近い90キロでも「こんなものか」とそれほどきつくはないが、ただ体には影響が出る、次のレースが(速さを競っては)まともに走れないと。
そういえば私、学生時代に一気に十数キロ体重が落ちたことがあった。別にガンとかではなく、夏の盛り、エアコンも無く汗びっしょりの熱帯夜に睡眠六時間ほどで、毎日朝から晩までバイトを三つと役員を三つ掛け持ちして走り回り、忙しさのあまり一日の食事がサンドイッチ三切れ(あの三角形の1パック)のみ…という生活をな、一週間ほどしたら十四キロぐらい落ちてたのよ。まさに自分の体を切り取って使ってた風だ。秋になったらすぐ戻ったんだけど、入学当初は体脂肪率が三十近く行ってて太めだったのが、ニ三年後には結局十九ぐらいまで落ちていたような気がする。
だからわざわざダイエットしなくても痩せるときは勝手に痩せるんだよって感じがしないでもないが、しかし私は朝から晩まで寝る間も惜しんで走り回る感じに忙しくしてなかったらあっという間にムクムク太る。結局、毎日ダイエットするしかないのだ。たぶん寝る間が惜しいほどだと、寝汚いせいで「おにぎり一個でも食べる暇があるぐらいなら一分でも長く寝る!」と殆ど食べなくなるから、みるみる痩せるんだと思われるよ。
あのね、暇だとお腹空くんだけど、忙しいとお腹空かないのよ。あと興奮してるとお腹空かない。


しかしあれはミステリアスだ。物質がエネルギーに変わってドロンドロンと消えていくというのがいまいち感覚的にわからない。生物をやった人が「常識じゃないの!」と図を描いてくれたが、でもその矢印の間に起こってることがリアルにわからんだろうが。
分解され、エネルギーになりますって。
エネルギーになりますって。
それがわからないのよ。

例えば結合に必要なエネルギーがAだとするだろ。それが結合に必要なエネルギーがBのものになるとするだろ。そのエネルギー量がA>Bだとするだろ。そしたらA-Bの差の分だけ浮いたエネルギーがありますって言うだろ。それはいいんだけどさ、でもそれって数値として表されており、まるでそういう何かが物質的に取り出せるようにあるみたいな感じがしてしまう。あの映画とかアニメで手の上に光が浮いてます、みたいに!エネルギーというものをエネルギーだけの純粋な形で取り出せ…ないよな?媒体がいるよな、たぶん。いや、だからよくわかってないんだけどねアタシは。目盛りがびよんと動いたりするから何かあるんだなってわかるだけで。電線なしに電気は送れないだろ。電波は送れても電気は送れないよな。電波の如く電気が送れるなら、未開の地での生活も楽チンやねん。コンセントが無くても電化製品だけ持っていってつかえるって事だ。
物質はエネルギーによって運動するとか言いながら、でも物質はエネルギーやねんよ。何か変な感じするなあ。私がアホだからか。


2008年06月18日(水) 思ひ出、発掘。

生活区域はぎりぎり整頓してるがワンルームアパート(?)で、収納場所も殆どないためか家の一角はおおむね常時無法地帯になっている(今『常時無法痴態』と出た。たいへん!ちょっと!私、痴態なんて単語は打った事ないよ!)。例えば、捨てなきゃいけないんだけどリサイクル料金が価格に反映されなかった時代に購入されたPCなので廃棄に何千円も金がかかり手間もかかるのが面倒でいまだに放置されてたり…とかな。平日は夜間洗濯することが多いので、洗濯物はその物置領域にずらーっと吊るしていくわけだ。
で、
その混沌とした領域にジャングルに分け入るように足を腿から上げながら分け入って洗濯物を下ろしていたら、元人様の食器棚で今食器とか本とかテープとか書類とかがランダムに積んである棚の隅っこに皮製の小銭入れがあるのが目に留まった。

あー。そういやこんなんあったっけな。

ひっくり返したらアルファベットでシンガポールって書いてある。それで思い出した。
確か
今から二十年近く前、実家が以前のアパートにあった頃、何階か上階に住んでたおばちゃんがシンガポールの土産物として買ってきてくれたものだった(昔から人から物を貰いまくって生きていた)。そうそう、趣味で皮細工なんかもしてた人で、J子は教えてもらってなんか作ったりしてたな。妙に神秘的な雰囲気の娘さんがおられ(所謂「近所の憧れのお姉さま」的な)、その娘さんが結婚した時に「もういらないから」と実家に置いていったという漫画や小説をごっそり譲られたこともある。その中にペーパーバックのぼろぼろのヒストリカル・ハーレクインが一冊混じっており、それが私が生まれて初めて読んだハーレクインだったんだよ。ハッピーエンドのベルバラみたいで思ったより面白かったのよそれが!
なまじ同年代との心的交流が薄く価値観の交流があまりなかったのもあり、「美人で神秘的でかっこいい憧れのオネエサマが読んでいた」所為でうっかりスムーズに足を踏み入れてしまったのだ。「ええ!?あのお美しいオネエサマがこんな本を!?…でも読んでみたら結構面白いわ」という。

何ゆえだったか何度か家にお邪魔した事もあったが、入ってドアをあけたら狭いアパートなのにいきなりグランドピアノがリビングのど真ん中にドカーンと鎮座してて、なんかとにかく「スゲエ!つうかこんなとこにグランドピアノ置くか!?どこで暮らすんだよ!?」と思った記憶がある。旦那さんはものすごーく地味でものすごーく寡黙な人だったが、奥さんは日本より東南アジアなんかが好きらしくインドネシアとかシンガポールとかよく行っていた気がする。で、六畳のダイニングキッチンにドカーンとグランドピアノのみ置いて、後ろにガバーっとインドネシアの布をたらしてた気がするな。「旦那が何も言わない人ので趣味に走って好き勝手しまくってます!」って感じだった。歳食ってもひたすら自分の人生を愉しんでる感じの無邪気でおおらかで飾り気の無い人だった。

しみじみ言えば、たぶんただでも人付き合いが不得手でストレスに満ち溢れていたJ子にとっては、素直な気持ちで気を張らずに付き合える生涯でも大事な友達だったのだろう気がするな。近所に家を買ってアパートを出て行った後は結構すぐに亡くなったんだが、その時は、子供心にもなにげにJ子を不憫に思ったような覚えがある。

まあ、そんなような事をざっと思い出したわけだ。

これを貰った時には、ハートや星型が掘り込んであるのが私の趣味でないものの、しかし異国に憧れがあり(主にヨーロッパに憧れていたが異国情緒溢れるものはなんでもかっこよさげに感じた)、これが遠い国から買って来られたものだと思うと「わぁ…」って気持ちになったような気がする。匂いとかね、貰った当初はなんか向こうの匂いが強くしてて。「おお、これが異国の…」とくんくんしてみたり。したような気もするな。
たぶん嬉しかったんじゃないかなあ?と思われるよ。

そういう事も思い出してみた。

仏教だか民間信仰だか忘れたが、現世の人間が亡くなった人の事を思い出したり話をすると、あの世の人にはそれがわかるというよな。現世の人間が食事をとるように、あの世の人間にはそれ(現世の人間の思い)がエネルギーになるんだか単に気持ち良いんだったか元気になるんだったかなんだったか忘れたが、だから亡くなった人に対して生きてる人間ができる事はそうやって時々思い出してやる事だとかなんとか言ったものだ。
そんな話を思い出し、こうやって故人をしみじみ思い出すのが、たぶん向こうは何気なくやった小銭入れ一つなのだから、人の縁は不思議なものというか、小さなことでも事実は消えないものだなと思う。
もしそれが真だとすれば、あの世で故人のFさんは「あの時のあの財布で思い出された!わあ、随分昔の話ねえ」と懐かしく思ってるのだろうか?

等と思って、
苦笑して、
何気なくパカっと開けてみたら、
小銭入れのくせに、折りたたまれて千円札が入ってた!(しかも夏目漱石だった)

何故だか知らんが自分が入れたはずなのに全く覚えてないので、絶妙に妙な気分。タイミング的に、まるで故Fさんにあの世から小遣い貰ったかのよう。
何かの無料冊子の○い欄で今月の金運最高を見た瞬間に「飛行機乗っておいて金運最高もあるか。今月は散財もいいところだよ」と笑って流したのに、突如金運最高を思い出した。


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