非日記
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2008年05月18日(日) おんどれはあんどれに似てる。

ちょっと前に「ものすごく腹が立った状態で脳内で相手を指してる時の二人称は何になっているか」という質問をした時に、「おんどれ」だと答えられて、そりゃ無いだろうと笑ったのだが、以来おんどれの音感があんどれに似ていて気になって仕方ない。




超弩級馬鹿。



自分に絶望する。
食事を買い置きのカップ焼きそばで済ませてしまうかと不健康な事を考え、途中まで準備した後、お湯を沸かしてる間に「そーだ!ところてんがあったわ!」と思い出した愚かな私、その後に起こる惨劇を知るよしも無かった。

大体私は延々とところてんが好きでなかったのだが、その第一の理由はたぶん実家で殆ど食ったことがなかったからだった。というか、実家の食事に親から供された事は一度も無い。
食ったことが無かった私はところてんに淡い憧れを抱いていた。ところてんは見目が大そう美しい食べ物だからだ。きっと美味しいものに違いないと大いなる期待をかけていた。だってキラキラ光って綺麗じゃないの。天女の浴衣ヒモの如く。だから味も想像はできないがキラキラしてると信じてた。
そこで、少しばかり成長した私は夏祭りの屋台で買って食べて「…うまくない」と大そうショックを受けた。長年の期待を裏切られ、すんなり飲み込みがたい言葉では言い表せない複雑な思いを抱いた。
「もうところてんなんか嫌いだ!あんなもののどこが美味いんだ!」という怒りとヤツアタリと、「嘘でしょ!嘘だと言ってちょうだい!本当は美味しいんでしょ!?どうしてアタシにだけそんな嘘をつくの!」という諦めきれない思いだ。

先日仕事で物品の運び込みの手伝いを依頼され、二人でごとごと移動して表口に回ったものの、一緒に運んでいた人がドアを見て一言「あ、こっちからはだめだったんだ。戻らなきゃ」思ってたより入り口が狭かったらしい。私は「いや、通れるかもしれませんよ」と言ってみた。ドアを開けて中を見た人が一言「やっぱダメだよ」ドアを開けたら脇に荷物が積んであって通路をさらに少し狭めていたのだ。
そこで私は「ぎりぎり行けるかもしれません。そんな気がします」
人は「裏口まで戻れば入れるよ」
私は「ちょっと通してみましょうか?」
人は「いや、無理しなくても戻れば」
私は「ちょっと試すだけですから」
通った。
私「通れました…(満足)」
人「矢口さんはしつこい人間だってわかった」
私「ええ?そんなんじゃないですよ」
人「いや、しつこいよ。しつこいというか、諦めが悪いというか、諦めないというか」
私「いや、私はしつこいというより、力尽くで無理矢理押し通そうとして木っ端微塵に破壊するタイプなんです。荷物に傷が付かなくて良かったです」

そんなんじゃないんですよ。
私はただ、後戻りするのが嫌なだけでした。どれだけの長い道のりでも、どれほど遠回りするのも構わない。ただ後戻りするのは好かないだけです。三歩進んで二歩下がるぐらいなら、ミクロン単位でいいから前進したい、あまりの遅さに永遠にたどり着けなかろうとそれは構わない。自分から二歩も下がるぐらいなら、鍔迫り合いで力負けして押されて三メートルほどずりずり下がっても構わない。三歩進んで二歩下がるのが嫌なばかりに愚図愚図言って最初の一歩すら滅多な事では踏み出さないが、一度踏み出したからには引く足は持ちあわせておりません。どうしても戻りたくば「前進」という方向を堅持したまま円を描いて戻る方法しか頭にはありません。たとえそこがどう見ても元いた場所であろうと、「前進」した末にたどり着いた場所でなければなりません。私の辞書に「後退」などという言葉はありません。後退など、前進してもできるのだ!

たとえ道が行き止まりで「…仕方ないから戻ろうか」になっても、それに同意する私の脳内では「この道は行き止まりである事がわかったのだ。この道ではダメだと判明した事は得がたく尊い貴重な成果である。もしこの道を選ばなかったならば、この道が行き止まりである事はわからなかったのだ。この道を選んでよかった。真の道を辿るために一歩前進できた。この調子で行くぞ」と、常に無理矢理「前進」させられているのです。
同胞が「あーあ」なんて言ったら、速攻イエローカードです。何をがっかりしている。勝手にがっかりするな。我々は後退したのでも敗北したのでもない。着実に一歩前進したのだ。ますますやる気になってしかるべきだ。

私の諦めの悪さというのは、主にそういう方向に発揮されます。
それが場面や物事によってはしつこく執念深く見えたり、あっさり淡白に見えるのかもしれないな。

話は戻って
そこで私は、勿論「ところてんは美味しいに違いない!きっとそう!」という憧れを「本当は違ったんだわ。少なくとも、私にとっては違うのよ」という風に現実に則して「がっかり」加減に始末する事ができなかった。「まずい」「美味くない」「こんなもののどこが美味いんだ」「何故人はこれを食べるのだろう」と思いながら、時折私は思い出したようにわざわざところてんを自腹で購入して食べ続けた。
そして最近ついに「…ちょっと美味いような気がしてきた」にまでたどり着いたところだった。この調子で前進して、じきに美味いと思うようになりますとも。
以下のように進行する予定です。

「ところてんは美味しいに違いないわ!」→食べる「まずい」→食べる「まずい」→食べる「まずい」→……(中略)……→食べる「まずい」→「ところてんは美味くない」→「ところてんはまずい」→「ところてんが美味いなんてのは幻想だ」→「ところてんは絶対に美味くない」→「ところてんは凄くまずい」→食べる「思っていたほどまずくない」→食べる「思っていたより美味い」→食べる「思っていたよりはずっと美味い」→「やっぱりところてんは美味しかったんだわ!」

途中でぶった切らず、この最初と最後に重点を置いて見れば、私の期待は裏切られた事にならないのだ。この最後まで括ってワンセットだ。物語の途中で終らせるなんて邪道な事はできない。

そこで私はところてんを買って冷蔵庫に持っていたのだ。

私はカップ焼きそばを準備し、湯を沸かしながら、「焼きそばはやめて、ところてんで食事を済ませようかな。でもおなかすくよね」、迷いつつ真横でところてんを準備した。
…タレつきだった(恐ろしい罠!)。
私はところてんをザルから茶碗に盛り付け、手を洗い、焼きそばのタレをかけた。…なにこれ?すっごく香ばしい香りがする!

自分がやった事の意味を電撃的に悟った私の愕然とした気持ち、わかってもらえますか?もンのすごく動揺しました。こんなに動揺したのは何年ぶりか。どうするの?!どうするの?!「もうカップ焼きそばのタレは無いわよ!」動揺のあまり、私はところてんを無意識にザルに戻し、水道で洗い始めました。「ああ!ちょっと何するの!焼きそばのタレが流れていっちゃうじゃないの!焼きそばのタレはそれしかないのよ!?」でもしかし、焼きそばのタレが十分に絡んだところてんを焼きそばと混ぜたからといって、それはもう焼きそばでもところてんでもないのです。ひとたびところてんと豊かに絡まりあった焼きそばのタレを分離する事は非常に困難と思われるのだ。いいですか、ところてんのタレは無傷だ。つまりところてんは無傷だ。まずはところてんを救出する。そして冷静さを取り戻し、焼きそばの現状と向き合うのよ。ところてんなんか助けたってナンになるって言うの!?アタシは焼きそばに比べたらところてんなんか…馬鹿野郎!目の前にいて助けられることがわかっているなら何も考えずに助けるのが人の道らしいのよ!
問題は焼きそばだ。

あー、カップ焼きそば…。アタシ、大事にしてたのよ。ところてんなんかよりずっと大切に思ってた。本当よ。カップメンが多少高騰したって、アタシは構わなかった。だって私にとっては元からそれだけの価値はあったもの。250円ぐらいまでなら耐えられる。いっそ百円以下で投げ売られてるのを見ると、「彼を安く扱うな!彼はそんな扱いを受けて良い存在じゃないわよ!もっと価値のある存在よ!…しかしだからこそ容易く手に入る」と胸狂おしい気持ちになったものよ。実際、高いカップメンもあるが、それはちょっと何かが違う。私はね、普通のラーメン的味わいをカップメン類には求めていないのよ。カップメン的な味わいを求めてるのよ。それは袋ラーメンに対して袋ラーメン的味を求めるのと同じだ。
メタボがどうとか健康な食生活がどうとか食育がどうとか言いながら、カップメンの一部が安売り時に100円以下で売られている社会の現状はいかがなものかと内心思っていた。そりゃ確かにカップメンの値上がりは悲しいわ。でも私にとってカップメンはただの手抜きなどではない。嗜好だった。嗜好である以上は煙草が値上がりしたって看過したしたように、カップメンが値上がりしたって別に何を思う事も無い。好きなものは色々我慢して何かを削って手に入れるものなのよ。彼にはそれだけの価値があるわ。ところてんなんかと違う。カップメンはアタシを裏切らない。
なのに、こんな事になるなんて…。私の所為で、ところてんなんかのために。

私は焼きそばを救いたい。元の姿には戻れなくても、生きて、そして。
私はとりあえずところてんを正常な姿に戻し、ところてんを食べながら(ところてんに罪は無い。それは事故だった。犯人は私)、焼きそばにお湯をかけました。その胸を締め付ける存在を一刻も早く消し去りたい衝動に耐えられなかったのです。たとえば腹の中に。
これはもうただの焼きそば麺だと思ったらどうかしら?不幸中の幸いにして、麺としては無傷だ。お湯で戻して塩コショウかソースかなんかで炒めるのよ。でもアタシ、カップ焼きそばが食べたかったのよ!その期待はどうなるの?なんかもうものすごく情けない。要はソースの代用があればいいんだ。でもカップメンのタレとかソースはただのソレとは違うんだもの!大体あんた忘れたの?カップラーメンを洗って食べた時のマズさを!カップメンはカップメンとして生きる事を余儀なくされたプロフェッショナル、それ以外には生きる事ができない存在なのよ。カップメンを美味く感じさせるのはタレの力なのよ!あの激烈不味いカップラーメンのメンがそんじょそこらのタレでどうにかなるもんですか!じゃあうちで一番良いタレを出そう!

お○ふくソース。

おた○くソースで食べました。微妙に切ない気持ちのまま。でも食べれない事は無かった。もう少し冷静になれば、何かもっと美しく道を切り開けたかもしれないんだけど、なんかこう凄くショックでね。だってところてんは辛うじて無傷で済んだのに、カップ焼きそばの失ったものは大きかったのよ。ところてんの味どころではなかった。


2008年05月14日(水) 衝動と弛緩でできています。

わからんと仰ってたのでたぶん無理じゃろと思いつつ某お姐さんにしつこくメールをしてましたが、決行して帰ってきました。というか、帰って行きました。日本語に不自由な感じで言うと(いつも不自由だが)、最初に帰ってきて、後で帰っていった。前半と後半で何も言わずに主語が変わります。人を惑わす古きよき日本語風。

「一応連絡はしたけど、返事が来ないので、スパムに埋もれてるかスルーされたものと思われる」
と言ったらアハハーと笑われましたが、スパムに埋もれてるかスルーされたものと思われます。ぎりぎりまで予定が決まらなかった為にいつにもましてしつこく、大変恥ずかしいので発見されたらサクッと消しておいて欲しいものです。けして何かの証拠とかには使用しない方向で!裁判員の前で朗読とかされたらダメ人間丸出しで恥ずかしすぎる!

相変わらず何しに行ったのかわからない感じだった!(←いつも)

何しに行ったのかと言えば、人間に会いに行ったわけですよ。そして「やっぱり戒名は生前に買っておいたほうがいいよなー」と再び思って帰ってきました。主に世界の墓と葬式について話をしていたような気がします。
「忙しいのに時間取らせて、しかも内容こんなんでごめん」と謝ったら「楽しかったからええよー」と優しく庇ってくれました。「墓と葬式で?」とつっこむところかもしれないが、私は元気になりましたよ!

後五年ぐらいお友達と会わずに洞窟に立てこもっても生きていけるかのよう!でも世間の人波にもまれて人付き合い専用エネルギーが削られていくから定期的に補給したくなるに違いない。



>>
喫茶店で本を読んでいましたら、あまりの可笑しさに、ランチ後の珈琲を飲んでいたのを「ゴフ」吹きかけ、何故だかほやーと涙腺が緩んで泣きそうになりました。「先崎学の浮いたり沈んだり」という棋士さんの将棋エッセイ本です。涙で視界が滲み、顔が歪むのを抑えなければと思うのに引きつるので真っ直ぐ座れず、呼吸が苦しくて衣服の胸元を引き絞ってみました。
おすすめ!


2008年05月03日(土) 何を書くつもりだったか思い出した。

でもその前に思い出した事がある。

数式での「括弧内を先に計算する」というのは、
2×(3+5)+(5−3)×2
みたいな時に重要になるんだったよ!でしょ!ね!?
少数や分数も混じっていたが、高校の入試問題ではこういう単純計算問題が必ず一番最初に並んでいたものだわよ。で、「そこは落ち着いてやれば確実に点を取れるところなんだから絶対に落とすな」と言われたものだ。そんな事言われても無理だったけどな!だって人間だもの!


で、書くつもりだったのは実にささいな事で、
やっぱりおみくじ会社はあったのよ!
↑だ。
あったんですよ、おみくじ製作会社は…。
もう思い遺すことは無い。

嘘、まだ色々あります。割とどうでもいいけど思い遺してる事が。
「そんな夢の無い事言わないで!」と怒られたが、ばっか、これが夢のある事でなかったならば何を夢とするよ。わからん人ですね。



ンヶ月ぶりに美容院に行ったら、プリンちゃん通り越しててもはや斬新なヘアスタイルに近づいてたのに怒られなくてよかった。しかし懲りずに地味に染めてみました。性格の薄暗さと陰湿さを頭髪の明るさで誤魔化したい所存だ。
根元が黒くなりかけたぐらいで染めたしに来れば比較的安く済むのにーと毎度苦言を呈される。何番で染めたかをカルテ(?)に記録しておくのだそうだ。名前の記入を求められたことも無く前回記録した記憶が無かったのに、「前は○番で染めたからー」とさらりと言われた。
「すげえなプロは!何年前の患者で名前はすっかり忘れていようとも、カルテを見た瞬簡に、どんな病歴をもち、どういう病気で来院し、どんな処置をしたかを思い出せるという医者のようなもの!?営業で重要な事は一度でもあった顧客は忘れない事だと言うしな!」と感心したのだが、おばたんは名無しのままで私のカルテを勝手につくっていたらしい。

「あなた、名前は?」
「私の名前ですか?」
「そう。名前がわからなかったから、『背の高い眉の綺麗な人』でカルテを作っておいたの」
「あー……眉。それは覚えやすいですね…ハハハ」

ぐっさりと突き刺さりましたよ。
私だってね、ここ十数年ほど流行の綺麗に整えた眉にしたかったんですよ。その方が夜陰に紛れるっていうか集団に紛れて目立たない事は確かですし、剃ってしまって描くとか抜いて形を整えるとかしたかったんですよ、本当です。

てゆうかね、私は自分ではあんまり化粧はしないし、服装もあまり懲りませんけども、化粧をしない人が好きだとか外見や恰好を気にしない人が好きだとかそういう事は全然全く無いんです。どっちかというと、私は外見は物凄く気にしますとも。なんにもしてなかった人が化粧したり綺麗な恰好してると、それだけで「なんか美人になった」と思う性質なんです。制服なんか着てるとそれだけで美人四割り増しに見えるし。パイロットとか車掌さんとかホテルのボーイとかチェーン店のウェイトレスとか、もうこぎれいな制服ならなんでもオッケーな感じです。
んとね、コスプレじゃなくて、その人がその人自身の職務や職分でそういうのを着てるのが好きなの!「制服借りてきて恰好だけ」じゃダメなの!

「規律正しくきちんとしてる」のが美しく綺麗に見えるし、綺麗にしようとか可愛くしようと頑張ってるのが綺麗で可愛く見えて、生来の顔の造作とかは実は二の次なところがあるんです。もう顔を洗って髪を梳いただけでも「よしよし」で八割り増し美しく見えるの!
私にはそれって心栄えなんですよ!心の美しさなの!

「○×しなくなったらもう女じゃない」とかそういう言い草は好きではないのは確かなんだけど、でも「そういうの嫌い」という考え方も好きでないのよ。他人をそれで評価するのはどうかと思うけど、でも自分の中で「こうしないとダメ」みたいなルールを作るか持っていて、それを自身が律儀に遵守して誇りの拠り所の一つにしてるのは、そういう人は好きなのよ。私は化粧すると荒れて痒いわ腫れるわ爛れるわで我慢できなくて、そこはもう自分では頓着しなくなってるけど、一生懸命ファンデーション塗りなおしたりしてるのを馬鹿らしいとは思わない。「お化粧もしないの?しんじらんなーい」とか「化粧もせずに人前に出るのはまともな人間にあらず」みたいな言い方されると、「どんなに頑張ったって貴様の醜悪さは隠せねえよ。いっそ隠そうとしてる姿、隠せてると思い込んでるお間抜けさが見苦しいわ、ドブスが。豚みたいな顔に何塗ったくろうが、豚である事は変わりゃしないんだよ!豚は豚らしくしてるのがお似合いなんだよ!」とムラムラと顔面に拳を食らわしたくなるだけなんです。で、きっと殴ったら化粧が手について汚いから触りたくないとか、そういう方向。


そういうわけで、私は小奇麗にするのが嫌なわけではけしてない。で、眉を整えるというのは、化粧する事とは別なので(要するに肌が荒れないので)やぶさかではなかったのです。
ただ、これまで誰も手をつけ切れなかっただけで。

なんか流れが良いらしい。揃って下は斜め上に向かい、上は斜め下に向かって流れ、中央で触れ合う感じで、自分で抜こうとしても、一本一本がバラバラでなく一致団結してるせいで、どこからどう手を入れて構わないのかわからんのよ。やるのなら全部抜いて描くしかないような気もする。
そういう事が得手でない事は確かだったのでプロにお任せしようと思ったら、プロが「これは触らないほうがいい」と弄ってくれなかったのです。プロが躊躇う事がアマチュアにできるわけないだろう。

それで諦めましたとも。

諦めてはいるけども!でも眉で個人を特定してましたとか言われたら、スゲェ嫌!!!!いーやー!情けない!うん、背が高いっつったって、そんなモデルみたいに高いわけじゃないから、他に何か個人を絞れる特徴的な要素が必要だってわかってるし、仕方ないんだけど!う、う、う。


2008年05月01日(木) 四月を飛ばしてしまった。

気がついたら四月を飛ばしていましたよ。
ちなみに延々やってるゲームは、今これしかやってないのにまだ真ん中あたりっぽいです。好きな子にばかり構って鬼のようにリセットしつつ、セーブ画面を見ると大体60時間チョイぐらい。仕事のある平日に一日1〜2時間するので、大体そんなものなのかもしれないな。ちなみに休日は滅多な事ではしません。おまえは休日何やってんだよとよく言われるが、それは秘密です。主に目を閉じて瞑想してるってゆふかね。

しかしそれに気がつき、「あれ?ゲームって大体60時間から70時間ぐらいで終るんじゃないの?」と思ってしまいました。それは昔のRPGの話だろうか?

私はゲームを始める前にはそれがどれくらい時間かかるものなのかを漠然と推し量り「それだけの時間をコレだけに費やすのかよ…」と思っては、ゲームをするのがなんとなく嫌になるというダメ人間なのです。ちなみにビデオを見るのも、必ずパッケージで何時間あるものかを確認し、「これを見るために180分を捨てるのか?」と問答してはよく見る前に嫌になります。ついでに本を読むにも「これは四時間はかかるな」とかよく読む前に嫌になります(速読できない)が、細切れでもOK、好きに中断できるところが本のなんか良いところです。厚さがあるので進行具合がアナログに一目でよくわかり、喩え一日十ページぐらいしか進まなくても地道な積み重ねによって段々栞の位置が移動し、「少しずつだが確かに進んでる」ことがわかるのが凄くよいです。どんな退屈さにも「いつかは終る」という希望が持て、読み甲斐があります。
そういう意味では、ビデオテープの方がDVDより良かった。デッキに入れて再生したら即座に続きが見れた。DVDではどこまで見たかを探すのがまずメンドクサイ。

私は時計もデジタルよりアナログが好きなんですよ。好きなんですよというか、デジタルだと時間が全然わからない。今何時何分なのかはわかっても、一日24時間のうちのどの時点なのかとか、一日の内の何割ぐらいが過ぎたのかとか、あと何パーセント残ってるのかとか、そういうのがデジタル表示だと感覚的にさっぱりわからんのです。私は断言しますけど、特に嫌な事や退屈さというのは、それが後どれくらい続くのかがハッキリわかってる時とよくわからない時では、我慢強さが全く変わってしまいます。

なんの話をしてたかしら。
時計はアナログに限るって話だ。私はそう思う。
幼子に時間の計算を教えるお母さんが、どうやって教えればいいのか困っていたので、私は目に入る位置に時計を置く事を絶賛おすすめしておいた。大体時計の計算は難しいのだ。十進法と六十進法と二十四進法と三百六十五進法?が交じり合っていて、自分でもよくこの最難関を乗り越えたものだと後になったら思う。だって考えてもごらんなさいよ。十秒の次は十秒プラス一秒で十一秒となり、ここは十進法なんだ。なのに六十秒になったら、次は一分と一秒なんだよ?「ちょっと待て。今何が起きた?」って感じだ。一分が六十回で、一時間になる。なのに一時間は二十四回で終りなんだよ。次の日になるんだよ。しかも十二時になると一度リセットされ、十三時は一般に一時と言われるんだよ?凄すぎるね。しかも子供にとっては寝ている間にゼロ時が来ているんだ。知らない間にスタートしている。目が覚めたときがスタートとかならまだわかりやすかろうものを。

昔、遅れまくった中学生に小学校の算数を教えていた事があるが、こういう基本的な事のほうが教えるのは難しいのだ。四則演算の法則とか。何故掛け算と割り算の方を足し算と引き算より先にするのか、私はいまだに上手く説明できない気がする。私はここはスルーしちゃったんだよ。最初はカッコの使い方をやってたような気がする。
5+2+3+5=15なんだが、(5+2)+(3+5)=7+8=15なんだ。で、掛け算や割り算が間に入ってくると、そこをカッコで括って先にやり、掛け算や割り算の場合はカッコはなくてもそこを先にやるという風に教えられたような気がする。
なんでカッコの説明があるかというと、カッコは掛け算や割り算の混じった計算をどう解くか説明する時に重要になるからだ。掛け算は実は「ここで足し算をせよ」という指示だからだよな。「2×3=(二を三回足せ)=2+2+2=6」なのよ。乗算は足算の省略なのは確かな気がするが、割り算は引算の省略にならないところがつらい。ともかくつまり、「5+2×3+5+4」てゆうのは、「5+(2×3)+5+4」で、つまり「5+(2+2+2)+5+4」だ。答えは全て20になる。

…だよな?
トシもトシなので自信がなくなってきた。
以前、「分数のわからない大学生」とか「少数のわからない大学生」だかなんだか言う本が出てたが、馬鹿野郎、分数や少数はそんな生易しいものじゃないんだ!と凄く思いましたとも。概念的には数学より算数の方が絶対に難しいと思います。人類の叡智を困難さを感じずになんとなくでスルーできたからこそ安々と大学生になれるのであって、ナチュラルに芯から理解できるのなら天才数学者にもなれようものだ。「正解が出せる事と理解してる事は違う!」と私は思います。人に教える事が難しいのは理解していなければならないからだ。

以上のように流れるために、「カッコ内を先に計算する」という説明があったように思うのだ。
割り算も大体これと同じだが、6÷3の意味は「零になるまでに六から三は何回引けるか?」で、それは「三を何回足すと六になるか?」だ。そう思うと、学生時代は割り切れないものをすごくナチュラルに小数計算していたが、これは一大事な問題だ。冷静に考えると「2÷5とか、どういう意味よ?」と思わないか?最初期の解釈で行くと、「五を何回足したらニになるか?」だろ。「何回足そうがなるわけねえだろ」が正解だ。ところがこれが「0.4」という答えがちゃんと出るのだ。自分で答えを出しながら、「今、私、何をした?」と不審に思う。「0.4回足す」とか「0.4回引ける」ってどういう意味だこりゃと、私はいまだに思う。おまえ、これ、説明できる?

えとな、二を十回足したら二十になるんだよ。もしもニじゃなくて二十だったならば五が四回も引けたのになあ、残念でならない…という切なさが表現されているんだ。0.4にはな。もしこうだったらというやりきれなさでニに十を掛けてみたんだけど、でもそんな事は現実には無かった事なのだから後でさっき十を掛けてみた事をなかった事に修正してみたんだ。だがそんな切なさとか遣る瀬無さとか口惜しさとか後悔とかいう大人っぽい気持ちは幼児にはわからんだろう。これは大人にしかわからない数字なんだよ。
…とか言って誤魔化したい。

ある数字を掛けた後に同じ数字で割ったなら、それは何もしなかった事になるんだよ、ミステリー。宇宙の神秘だ。一度やった事をしなかった事にするなんてSFの世界だよ。
2×10÷10=2を日本語で説明するとどうなる。2×10はニを十回足せだろ。そしてそこから十は何回引けるかだろ。…………今凄い事を思い出した。ニを十回足すのと十を二回足すのは同じなんだ。何故だ。二つのみかんが十組あるのは二十個だが、十個のみかんが二組あるのも二十個だからだ。頭の中でみかんがころころ…おま、ちょっとそんなに動くなよ。なあどうして最初から二十個みかんが並んでいてはダメなんだ?
嗚呼、でもそうなのよ神様、私は夢見て望んだのよ。一度現実に起こった事が最初から起こらなかった時と同じ結果にするためには一体どうすればいいのかって命を削る思いで凄く考えたのよ。それは不可能ではないはずだ。諦めてはダメ。冷静になるのよ。きっと道はあるわ。二を十倍した後にそれをしなかった事にする手段が!だから私は十で割ったのよ!そしたらどうしようもなく0.4になったわ。どうしようもなかったのよ。

てゆうか、これはまず少数の概念がわからないかんのかな。
確か数直線を習うのよ。で、自然数の一を十等分したうちの一目盛りが0.1なんだよ。その四つ分が0.4だ。0.4を五回足すと二になるんだよ。つまり2÷5が「五を何回足したらニになるか」でも「ニから五を何回引けるか」でもなく、「一体何を五回足したらニになるのか」に意味がチェンジしてるよな。問題は割り算の記号÷が意味するところなのか。元からそうだったのかな。でも最初に6÷3とかを教えられてた時に「一体何を三回足したら六になるのか」なんて考え方してたか?私が思うには、「六つのみかんを三人で分けるには?」みたいな考え方だったような気がするんだが。どこかで凄く抽象的な思考に入れ替わったのよ。どこで。いつだ。

まず割り算は自然数で割り切れるやつからやっていったのだと思う。6÷3とかな。それから5÷2とかをやったねん、たぶん。五からニを何回引けるかと言うと、二回は引けるのだが、もうそれ以上引ききれない1が残ってしまう。そこで「5÷2の答えは『2…あまり1』と書いて表す」とやったような気がする。
…すげえ、私、よく覚えてるな。今思い出したんだけど。少数が出現するまでそんな事書いてた気がするよ。私はこの数字と記号が並ぶ中に、突如日本語が出現するのが気に入らなかったんだ。センスが無いだろ。めっちゃ恰好悪い。はやくこの「あまり」を抹殺したいよな。日本語をだらだら書く証明問題なんかとは感覚が微妙に違うのよ。数式の中に数式の回答として数字と並んで一緒にいるのが気に入らない。しかも平仮名!なんかムカつくので私はいつも「余り」と漢字を混ぜていた。
ここから少数への飛躍が凄いねん。60階建てのビルとビルの間を意を決して飛びましたみたいな飛び方をするんだよ。この、「2...あまり1」がイコール「2.5」になるという衝撃。「おい、今何が起こった?」と思うだろ。どう考えても割り切れなかったはずのものを、割り切ってみせやがった。自然界でありえない事がおこった。
割り切れない自然数を割り切って人は中学生になり、割り切れない気持ちも割り切って人は大人になるんだよ。

私はこの小数計算の、自然界での解釈がいまだにあやしい。
たとえば、ここにピースのショートケーキが二つあるとする。これを三人で平等にわけたいのだが、さてどうする?せっかく小学校でお勉強したのだからと算数で計算すると、2÷3=2/3=0.6666…だろ。下三桁を切り上げて0.67か。0.67個のショートケーキって何?どんなもの?凄い事になるよ。これはな、1ピースを一とするんだよ。それを十等分したうちの一つが0.1ピースだ。その0.1ピースのショートケーキをさらに十等分、すなわち、最初の1ピースを百等分した一欠片が0.01ピースだ。つまり二つのショートケーキを二百ピースに分割する。そして三人で一人67ピースずつとれば大体平等になる。が、残念ながら、一人だけ66ピースしかもらえないやつが出る。いいのよ、ママはあなたたちが幸せならそれでいいの。大人だから66個で我慢するわ。
しかしそれ以前に、なんでケーキ一つ食うのに、1ピースのショートケーキを百に分割しなければならないのか。どこの最先端企業のケーキナイフだか知れないが、殆ど不可能と思ってよいだろう。まちがいなくぐちゃぐちゃになっているので、いっそ重さで分割したい。重さなら割り切れる数字になっているかもしれないだろう。何、イチゴを正確に等分して欲しい?仕方ないわね。何、生クリームとスポンジも正確に等分にしろ?いいかげんにしろ。もうママが一人で食べる事にします。お前達はきゅうりでも齧ってろ。

それだったら分数の方がわかりやすいし簡単だよな。三分の二個というのは、1ピースを三等分して、それを二つずつだ。二百ピースにも切り分けなくてよい。
「割り算で割り切れないのを一々少数で計算するのは大変だから、別に計算する必要の無い時は、わかりやすくこう書きましょう」と、分数が出たときに「まあ便利!」と思った自分に呆れるね。でも現実問題として、少数計算しながら答えを出していくより、式の間は分数計算して最後に小数に戻す方が楽は楽なのだ。大体少数は割り切ったような顔をして、実は割り切れてないことが多々あるところが気に入らない。
それならば割り切れたとか割り切れないとかそういう事はお構い無しで、そんなの俺には関係ないねな分数の方がいっそ爽やかさを感じる。矛盾を内包しつつ矛盾を問題視しない奥深さがいい。クールだ。
...最大の難問は、何故に人類は一を十等分したのか、だ。

なんの話をしようとしていたのか忘れたが、まあいい。
それに躊躇いを感じるから日記が書けなくなるんだよ。
ああそうだった。六十時間も地道にゲームをするなんてエライわねと自分で思ったんだ。で、それは基本的に「何気ない部分が楽しいからだよな」と思った。同じ会社の似たようなゲームでも前はこんなに楽しかった覚えが無いのは敵のせいだろうと思う。
敵が、つまりモンスターだが、色々喋るわけよ。特にオス(?)はよく妻の事を言う。それがハーレクイナーとしてはコバルティズム的に楽しい。よくオスは何故か妻に呼びかけながら死んでいくわけだ。なんちゅうかたまらんですよ。妻を思ってみたり、妻を庇ってみたり、妻の為に怒ったり、妻に済まながったりするところを見たくて、つい。
今のところメスには夫がいないっぽいんだがな。何故だろう。


そういえば今度居眠り磐音がドラマ化するらしい。
えーって感じだ。えーこんな顔?っていうエーだが、よく考えてみるとスタート時点で26か27だからこんなものなのだろうか。すげえ気の良い人っぽく見える。喋れば気さくかもしれないけど口数はそんな多くないイメージがあったんだが。
きっと見ないと思うんだけど、ちょっと見たい。一番最初のところの磐音さんが藩を出て行くあたりとか。


やぐちまさき |MAIL