非日記
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2007年08月31日(金) もう八月が終る。

年をとると幸せだった過去をよく思い出すようになります。
耳で聞くといかにも年寄り臭く言いたくないが、昔は良かった。
あんなに幸せだったのに、その時の私は不意に投げ与えられた幸福の重さを量ろうとも噛んで味わいすらもせず、時期がくれば勝手にやってくるお中元を積み上げては礼状の文句を考えて眉をひそめるように間隙からほど遠く放り出して腐るに任せてしまったのでした。
それが直ぐに過ぎ去ってしまう束の間の夢に過ぎないのだと、ちゃんとわかっていたんです。それでも私は与えられた幸福を大切にする事ができなかった。私はいつもそう。幸せなときに、幸せだとわかっていて、なのにそれを心から喜ぶ事ができないまま、指の隙間からぽろぽろと取りこぼしてしまうのです。

あの、幸せだった、先週のニ連休…。
今はもう、遠い遠い昔話。

あの時の私は久しぶりのに連休だと言うのに、食っちゃ寝食っちゃ寝しては何らのはかばかしい行いもせずにだらだらと過ごしてしてまったのです。しかもあろう事か、暑くて寝苦しかったせいもあるが、たぶんきっと昼寝のしすぎで、まとまった夜間の睡眠を十分にとるにいたらなかったのであります。おかげで、毎度の事ではあるが、連休明けだというのにボケッと草臥れていた。正々堂々とした赤信号であるのに、目の錯覚で青信号だと信じてはふらふらと歩み出、中身冷房効いてるか知れないが活力に溢れて突っ込んできたトラックにブーブー鳴らされたほどです。冷静に考えてみると危ないところであった。
嗚呼、今あのニ連休がこの私に下されたならば、私は朝から晩まで食っちゃ寝食っちゃ寝してゴロゴロと怠惰に過ごし、幸せいっぱい夢いっぱいでバラ色の幸福を味わえたであろうのに!何故に私はあのだらだらと過ごした休日の真っ只中に感激をかき抱いて倒れこまなかったのか。怠惰な休日と腕を組んでしずしずとバージンロードを進まなかったのか。どんなに身を揉みしだいて後悔しても、あのニ連休は帰ってこないのです。

うん、何故ふさわしい感激と幸福感とともに過ごさなかったかと言えば、そんな風に過ごしてたら疲れるからだわね。

何故連休が欲しいかといえば、休日が一日こっきりでは私の心は状況の変化に追いつけないからですよ。休みの一日目は疲労をとるためにゴロゴロして使い果たし、二日目は遊ぶ為の心の準備の為に使い、「よっしゃ!さあそろそろ遊ぶか!?」と気分がノリかけたところ、曲線で言うならカーブが曲がった直ぐそこで毎度休日は終了し、出勤日がやってきてしまいます。ちなみに、鋭意遊ぶ為には、さらに遊ぶ日と、遊んだ事を反芻して喜ぶ日と、仕事に行くために遊んだ事による疲労をとり体の準備をする日と「心ゆくまで遊んだからもう満足したわ。これからバリバリ…てゆうかそれなりに働くわよ!」という心の準備をする日が本来は必要です。しかしそんなに自分に合った人生は当然ながら送れません。
そこで、いつも遊んでるのか働いてるのか休んでるのか寝てるだけなのかグダグダになるのですな。

今月はまとまった休みが激少だったために在りし日の幸をぐじぐじ思っていたら来月のシフトが出ましてね、あー、来月は(気分的に)遥かにマシだった。今月より休みが少しばかり多い。幸せ。夢も膨らむわ。来月は沢山寝よう。きっと気温も少しは落ち着いて、段々と涼しくなって、今月よりずっと幸せに寝やすくなるに違いないわ。

そう、ちょっぴり幸せな気持ちになっていたんですよ、私は。
だからそろそろ寝ようかなという時に、少し草臥れてトイレに言った自分が戻ってきた時に気をつけるべき事に気をつけきれなかったのは、そういう気持ちのゆるみがあったかも知れない。と、人間として起こしうる当然の過ちに無理やりに原因と理由をこじつけて、ちょうど人々が不慮の事故を努力や誠意や熱意さえあれば完全制御できたかのようなつもりになり、しかもそれが真実であるに違いないという思い込みに至る過程をシュミレーションしてみるのでした。


要するに、眼鏡を踏んで眼鏡が足の裏に刺さった。


すごい痛さでした。
何を踏んだのかと思って足をあげたら、足の裏から真っ直ぐに生えてました。眼鏡が。
私は眼鏡が「刺さる」事があるなんて、露とも思った事ありませんでしたよ。一体眼鏡なんかのどこが肉に突き刺さるというんですか。昔、何かの折に床に置いてたら走ってきた人に蹴っ飛ばされてレンズが飛んでフレームが曲がった事があり、通りすがりの人が直してくれて以来、床に眼鏡を置いてはいかんと心に刻んでいたのに、眠かったのか何故かうっかりしました。
こういうのをミスと言います。


眼鏡なんかのどこが刺さると思います?どこが刺さるんだと思います?言ってみろよ。

答えは蝶番でしたー。

真面目に刺さった。
足の裏から突き出た眼鏡(だったもの)にどうすればいいのか動揺し、「アタシの眼鏡が壊れた!明日の仕事どうすればいいの?」とショックを受け、しかしもう一つ滅多に使わない少し度の強い眼鏡がある事を思い出し、ついでに私は眼鏡が無くてもそれほど困らないレベルの近視である事を確認し(全体的に少しぼやけ、どうにもこうにもビシっと焦点が合わない事に苛苛するだけ。その苛苛して猛々しくなり荒々しくなって無闇に人を殴りたくなる事が問題)、少し落ち着いて、他に致し方なく引き抜きました。
おかげで前の週に洗濯したばかりの夏布団が転々と血に染まったよ。


2007年08月16日(木) つれづれ。

暫く日記を書かずにいると、もうはや何をどう書けばいいのかわからなくなってしまいますね。某人がいつまで経っても日記を書かないものそれかもしれません。私だって同人サイトの更新の仕方というやつを(アップロードの仕方ではなく)もうすっかり忘れてしまっていますからね。だから「アンタは更新しなさすぎー(笑)」と怒られても仕方ないのです。私の中では「アタシ、すごい頑張るってるじゃん!」なつもりでいるのだ。むしろ世界で一番頑張って更新しているガレ子サイトのつもりですらいる。

(いや、るなのサイトはここ五六年は回ってないので世の中がどうなっているのかわからず、無論私などよりよほど素晴らしい内容で頻繁に更新しているるなサイトもあられるかもしれないのだが、他所様を拝見するとつい自動的に自虐的になって心身の健康が蝕まれるので、心地よく快適に生きる為にあえて探したり見たりしないようにしてるのだ。現在のような情報化社会においては、いかに大量の情報を素早く得るかではなく、いかに大量の情報流入を制限し、いかに自分の処理速度にあった情報量に抑えるかの方がより重要で切実な問題であると認識しているのでありますマル)

大体先月の終わりに、まず参院選の投票所の入場券が来なかった事について書こうとしてたのです。これで私は世の中について一つお勉強する事になったので、是非ここに書き記しておこうと思った。にもかかわらず、うっかりと珍しく真面目にゲームをやったので、ついウキウキと書いてしまい、後は寝てました。嘘です。寝てませんでした。昨日も頭がガンガン痛いのを耐えながら楽しくおニューのジャンルで回転してました。
うん、二週間前と違うカップリングに嵌ってな。また攻を受にシフトしたんだけど、これが楽しいのなんのって。ケケケケー!

入場券の話だが、本当に選挙当日の朝まで来なかったのだ。正確に言えば、来てはいたが手に入らなかったというか、他所へ来てたというか。いい加減来てるはずなのに来ないので「アタシがダメ国民だから?納税額が少ないから?それで投票の権利を失ってしまったのかしら?税金は関係なかったような…」とまで思ってウダウダ待ってたのだが、前日になってもポストに見当たらないのでとうとう選管のサイトまで見に行ってみた。自分が世の中についてのみならず様々に無知である事は議論の余地の無いところであるので、ひょっとすると何か私の投票権が失われるようなことがあったのかと思い。しかし調べてもわからない。

ただ入場券は無くても投票できるはずである事はわかったので(なんと身分証明の必要すらないっぽい。確かに現在では健康保険証すら維持するのが困難な家庭がじわじわと増えてるっぽいわけだが)、いざとなれば「いつもの」投票所に行って自分の名前があるか確かめてみればよいと思ったのだ。
しかし実際事務手続きのミスだとか郵便事故だってありうるのだし、入場券が来ないなどという時には普通どうするものなのだろうか?
そこで世の中を検索してみたら、やっぱりそういう事も結構あるようだった。しかし世の中の皆様の偉いところは、どうも来ないと判じた時点で素早く選管などに確認してるところだ。私のように「明日の朝になっても来なかったら〜」等とのんべんだらりとはしてない。私は選挙にはたとえ白紙投票であろうとも白紙を投票する為に行くべきだろうと考えるタイプで、人様の「どうせわからないし選挙には行かないけど世の中がメチャクチャになったら文句は言う」という意見には苛立ちを覚える方だ。「もし自分の意見を何も言わないとしたら、それはどうなってもいい好きなようにすればいいと許す事であり後で文句を言える義理じゃないだろう」と言ったら「そんなわけないじゃない」と人は言ったのだが、しかし私は人生経験的にそういう感覚が根強くあるような気がする。

ただ苛立つのとは別に、それはそうだなとも思うのよ。たとえ選挙に行かなくても、ニュースも無関心で見なくても、もしくは逆に例えば選挙に行って真面目に投票して自分の支持した政府がおかしな法律をつくったりしたら、たとえ理論的には自分に責任(の一端)があるとしても、やっぱり文句は言わねばいけないだろうと思うのよ。我慢するのは…ダメだろう。
それが正しい庶民の姿だよな。正しいというか、強いというか、美しいというか。

しかし私はその昔寮長をした時にですね、最初はその時になるはずじゃなかったのに、立候補受付の最終日の受付締め切り三時間前になって立候補者が代わってくれと頼みに来たのにウンウン睨み合った結果、泣きにほだされてというかなったんだけど、その時に、誰もなるのが嫌なものだから譲り合いというか押し付け合いの結果であるからには、「誰がなっても協力するからね」という約束だったのに、決まったら決まったで協力もへったくれもなく文句だけは言いまくってきたのを「嘘つきめ…」と執念深く覚えているのだ。それを思い出すあるね。
寮長ってのはアレだよ、金は会計が握ってるし、外交権は寮連合部長が握ってるし、生活の端々については全て専門の部長がいるので、なんの実権も無く、いわば象徴としてのみ存在し、要するに「一般の皆様の不満を好き勝手にたたきつけられる矢面に立つ係」だよな。専属の仕事は「よろず苦情係」。「もう私の事はいないものとして勝手に会議をして決めてくれ。いなくても何の問題も無いじゃん」と何度言っても毎度「寮長がいなければ始められない」と引きずり出されていたが、その寮長の立場をひたすら無意味に立ててくれた部長の皆様のおかげで、どれだけ文句を言われても「私に言わずに専門の部長に直接言えばいいだろうが。俺関係無いしー」と不満に思わず、「これが私の仕事なんだ」と耐えられたと思う。うん、今思ってもそう思う。

とにかくそういうわけで、「絶対協力するからね」というのはいつも大概おお嘘なんだ。誰かが責任者になったら人は全部をそいつの責任にし、自分は無関係の無実の良い子を決め込むものなのよ。そういう苔の生えた不平不満を思い出すので、「自分は何もしなくても文句は言うべし」それはそうなんだろう、そうあるべきだと思いながらも、「貴様はあの時の!」と違うのについ勝手な面影を重ねてしまい、すんなり看過できないのだった。うーん、でも自分の言動の責任を取って縛られてるのを見るとそれはそれで「いい加減にしろ!」とも腹立つしな。

結局、入場券は投票日の朝も早くに大家の息子から電話がかかってきて、大家の息子が自分の郵便物に紛れてしまっているのを気づかずに持っていっていた事が発覚したのだった。これはいわば郵便事故だよな。


前々から書こうとしてた事をなるべく簡潔に書けば、

1>近所に咲いてる妙な花がどうやら名高きハマユウらしい事に気づいた。妙な花だ
2>職場に行く途中で夜来香が咲いてるのだが、夜中に通らないので匂いがわからんのが残念でならない
3>電車を待っていたら細い金属の格子がガッチリはまった溝に小金を落としたらしき少年に通りすがりのオッサンが不憫に思って自分の財布から小金を渡そうとしていたが少年が断ったらしき場面を見て、小僧の神様を思い出した
4>寝てる時に何かが自分の腕を這った感触に飛び起きて払い落とした上に、それが黒い悪魔だと視認した瞬間咄嗟に素手で掴んで壁に向かって投げつけたが、次第に目が覚めてくると何より自分のなした事、主に素手で掴んで投げたところに慄いた。自分の手首を掴んでワナワナ「…うわああああああああああああ!」と声もなく喚く感じ。「うわあ!」三段活用。何かが自分の上を這った事に対する一の「うわあ!」→それを掴んで投げ飛ばす際の「うわあ!」→何をしたかに気づいた際の「うわあ!」もう死んでしまいたい


3>に関して言えば、オッサンの所業を遠目に眺めてて「うわあ私にはできないだろうなあ」と思ったのよ。私はどうにかならないものかと思いながら、あきらめ切れない少年をただ眺めてるだけだろうね。しかしじゃあできるのならそうすべきかと言えば、そうは思わないのよな。かといってオッサンの所業が良くない事、すべきではない事だとも思わないのだが。むむむむ…悩ましいなあと思って、ふっと小僧の神様を思い出したのだ。
ただ見知らぬ人の善意を断った少年は、善意を差し出したおっさんを気まずくしたかもしれないが間違ってはいないように思う。断っておきながら、さらに鉄柵越しの小金に執念深く固執するのも人として素直な姿に思え好感がもてる。私ならもうどうでもいいようなフリをしながら心の底では諦めきれずにいる。偉い子だ。

それで「そうだ。人はどうにもならない事もある事を知らねばならないし、どうする事もできない事を受け入れる事ができねばならない」と思って、一瞬後に、しかし私が今こう思ったのはあのオッサンのようにナチュラルに無垢な善意を差し出す事ができない自分を正当化するためではなかろうかねと思ってみたりしてみた。どうなんだろうな。

子育ての本だったか立ち読みした時に、もし幼児が忘れては困るような忘れ物をした事に気づいたら親はどうすべきかという問題があった事を思い出した。私は「それも経験だ。放置する」を選んだのだが、件の本によればよりよい回答は「とりあえず忘れ物を届けて急場をしのいでやり、後であらためて忘れ物をしない為にどうすればいいかを一緒に考えてやる」だったような気がする。「それも経験だ。放置する」で育てると、そのようにして育てられた子は人が困っているのを見ても何とも思わない冷たい心を持った思いやりの無い人間に育つとあって、「まあ本当にそんな風に育ってるわ。たとえばこの私が!まさに今そのように選んだわよ!?」とある種感心した事を思い出したのだ。…というか、私としては、私はそういう時は親兄弟には馬鹿にされ笑われた上に最終的にはボコボコに叱られていたので、自分の中では「たとえ誤りを犯しても非難せず優しく見守る」と大変思いやりのある選択肢のつもりでいたのに。

そういえば知人に「親は私が困ったり怪我をしないようになんでも先回りしてやってくれて、私はとても幸せに過ごし、とても感謝してる。おかげで私は自分では何一つできない人間になった」と親を恨んでるのがいるのを思い出した。人間は難しいな。本の通りにすれば間違いないなどという事は無いのだ。

私は幼稚園児の頃に親の本棚に教育書を発見して読んで見たら、めくるめくバラ色のステキなことが書いてあるようだったので(例:「いい所を見つけて褒めてあげましょう」「理由もいわずにいきなり叱りつけてはいけません」等)、「何故おまえはこの本のように私を育てないのか?おまえはこれを読んだのではないのか?」とオカンを追求したら、「それは参考に買ってみただけであり、私は自分のやり方で育てるのだ。他所は他所、うちはうちだ」と切り捨てられ、実に不可解であったが、今思うとそれはそれで正しい気がする。少なくともあの教育書も、その本を読んで「こういう時にはこのように私を褒めるべきだとこの本に書いてあるだろう。そのようにすべきではないのか」等と主張してくる五歳児を念頭に置いては書かれてなかったかもしれないしな。

教育書は時代によって言うことが全然違って面白いよ。それを読んでわかる事は、どう育てても大多数は割りとそれなりに育つらしき人間の柔軟性だろうかと思う。

私は本を読んだりもするけれど、「書いてあることを信じてはならない」といつも頑張って思ってる節があり。正しそうに書いてあって、コレはその通りなんじゃないかと自分が芯から思うほど、「という事は危ないな」と疑うべくできている。じゃあ何しに読むのかと言うと、例えるならば少女マンガを読んで「ステキ!」と思うのに似て、「こんな事が現実であるわけないけど、だってこういうのステキじゃないの!」という快感のためと言ったらたぶんとても近いと思う。読んでるときは愉しんでるんだけど「あーこういう考え方凄く好きだなー」と思うほど、読み終わったら、実に不愉快。「金なら払ったでしょ。終ったらさっさと帰って頂戴。アタシがあんたの事を好きだなんてバッカじゃないの?アタシはただ気持ち良い事が好きなだけよ。アンタの体だけ楽しめればそれでいいのよ。さっさと帰ってよ。鬱陶しいわね」という感じだ。


まあそういうわけで、他愛無い日常を見て思考と感情を弄んでいた事があった。


5>
そういえば、かまいたちの夜の2の陰陽編で、ナニガシが過去に殺された時の場面が出てくるあそこが実に嫌で、ものすごーく嫌で、あれをもう一度見るかもしれないと思うと撒き戻って別の選択肢を選びたくないぐらいで、陰陽編の全ての選択肢と全てのEDをクリアすることを忌避したのだが、あそこのどういう雰囲気が嫌かと言うと、「イッキ飲みを強制して急性アルコール中毒での死者を出す宴会」的なノリが嫌でたまらない。こないだ仕事中に思いいたって「そうだ、それだ!」とすっきりした。

このシーンに至る前だか後だか腹がぶっちぎれる場面前に選択肢が確か三つあった。私は最初ポケットの中に鍵があるだろうと選択肢を選んだら自分がぶっちぎれて死んだので、死なぬように次の選択肢を選んだところ人がぶっちぎれた。これもかなりショックだった。まるで自分が死なない為に人を生贄に差し出したかのよう、「ちちちち違う!違う!知らなかったんだ!おまえを身代わりにするつもりなんて、おまえを殺して生き延びるつもりなんてなかったんだ!」と心で絶叫。

こここここここのやろう、人のなけなしの良心をいたぶりやがって。
なけなしだからこそ大事にしてるんだぞ!?
私は良心があると大変生き難いなと判断すると、つい「チョンチョンと良心をカットするか」という楽な方に楽な方に行きかける癖があるのだよ。そういう人様の良心に輪をいかけて弱く儚い私の良心にそういう惨たらしいマネをして許されると思ってンのか。あのなんかよくわからないジジイ、泣いて土下座して許しを請うのを嘲笑って踏みにじってやるにはどうすれば良い。一寸刻みに端から切り刻んでやる。やつに後悔というものを味合わせてやりたい。そのためならなんでもしよう。殺戮を好む黒い女神ドゥルガーの額から生まれたカーリーでも召還したい。
という気分についなりましたよ。

大体わらべうた編は仮にも推理ものなので、正規のEDまで行けば事件の真相がわかるというオチなのだが、陰陽編は何を心の糧に進んで行けばいいのかわからない。いっそ早めに軽い感じで死んで終っといた方が一番マシなような気がしてしょうがない。
「助かる方法ならあるかも」と人が言った瞬間、「敵が一人ずつ殺すのを待たずに今すぐ自分以外の全員を一気に殺害すれば助かるんだろうな。それぞれに符丁か何かがあってコレコレをこの順番で殺さねばならないという儀式上のルールがあるのならダメだが」と思ったが、「む、そういえばこの中に(主人公の)好きな女がいたんだっけ?」と思い出して、じゃあダメじゃん。あえなく却下した。

わらべうた編にも思う事が無いでもないんだが。
例えば、力いっぱいマニキュアを握り締める暇があったら、まず首に絡まったものに手をかけるものじゃないんか…?と思うじゃろ。マニキュアぐらい「孫に貰った宝物」とか言って済むだろうにと思うが、さらにその前に、おまえはババアの扮装をして延々過ごすつもりでいながら、一体何しにマニキュアを持ってきてたのかとか納得行かないだろ。こういうところがどうもスッキリしないねん。殺人事件になるためになされた殺人というか、ミステリーにするための犯行というか。
監修のミステリーにおける遥か昔の初読の印象がまさにそういうミステリーだったから(都合がよい事件とキャラで、なんか人間性というか温かみというか共感を感じないというか、何故そんな妙ちきりんな事をするのか理解ができないというか)、これはこれでこういうものなのかなと思うけど。

しかし陰陽編は輪をかけて意味不明だ。イエモンさんは最終的に何を目的としていたのかやっぱりわからないだった。
あの呪文みたいなの、有名な反魂のが混じってるような気がするんだけど。でももう「いる」だろ?だから儀式を完成させると、イエモンさんに朽ちた肉体の代わりに不老不死のおニューの肉体でも出現するのかと思ったのよ。生き返りたくてやってるのかと。だって最初はちゃっきり殺害予定の九人だけ呼ぶつもりだったわけだろ。寄り代の予定が組み込まれて無いじゃんか。
サイコキネシスで安々と殺害できるくせに、わざわざ生きてる人間にとり憑いてみるのは何?趣味?
殺すのに体なんかいらんだろうが。あれだけ時間をかける必要も無いだろ。ドアを開かなくして火事でも起こせば簡単じゃんか。一人ずつやりかたを変えて殺す必要はないだろ。五十年前は皆一度に水に沈めたというのに、それでは面白みが無くてダメなんか?面白みがなくてダメなんだろうな。「血を好む」というのが、そういう意味なんだろうな。

儀式が完成すればヒト神が復活するというけれど、しかし五十年前に完成していたのでは?じゃあイエモンは何?ただの悪霊?ヒト神が復活すれば血を好んで残虐で云々というけれど、じゃあ昔のイエモンの趣味の悪さは何?単なる個性?
復活するとかなんとかより、永続するためのなんかな?うんうん唸ってみてもよくわからん。


2007年08月05日(日) 何年前からやってるんだか。

久しぶりに、かまいたちの夜2の続きをしました。
電源入れたの、二回目です。
おまえいつからやってんだとか過去は振り返らない。
結構最近だったような気がしたが、確か日記に書いたのに、どうやら日記タイトルが並んでる部分に見当たらないっぽい。でも最近だったように思う。しかしこれが最近という事は、止まってるアレやソレを最後にやったのはいつだろうとフシンに思われるよ。


「全部のエンディングを見る為に、毎回最初から全部を通しでやる必要は無いから、分岐が多くてもそんなには辛くはないよ」と言われていたのに、それがどういう事か、どうやってやるのかわからずに倦厭してたのだ。
とりあえず途中からやってセーブしてみたら、最初にクリアしてたエンディングが消えたしな。自動セーブにして、自分でセーブはしない事にした。しかし自動セーブでは、どこまでやれば途中で止めてもいいのかわからない。そこで休日にまかせて、ダラダラ延々と分岐点での選択を端から埋めていった。

二回目だけあり、なんとなく人物がわかってるので(「あ、この人は殺された人ね」「これが確か犯人だったわ」等と各々印象に残っているので、すっかり忘れていた名前も新たに覚えやすい)最初にやったときより遥かに楽だ。
あらためて眺めてると、こんなにはっきり証拠が出てるのに、
「いいか、…が殺された人間だ。殺された人間がここへ来た事によってここへ来た人間がコレとコレと…だ。つまり、ここにいて、殺される事も無く生き残り、しかもここにいる理由をある意味で全く持たない人間はコイツだけだ。この存在無用に見えるコイツが何故このゲームに登場せねばならなかったかと言えば、それはゲームストーリー上、不必要に見えるが、実は必ず必要な人間だからだ。このようなゲームである以上、純粋なモブは存在しないとみた!」
などという嫌らしい思考でクリアした自分の間抜けさに感服する。もし某が死んでいなかったなら、私にはあてずっぽうで端から順番に選択せねばわからなかった。だって絵が3Dで何が描いてあるのかよくわからないんだもん…というのが言訳。最初に見た時には「このゴミみたいなのなんだろうね」と流してたのだが、「あー…ここでコレがアレを描いているとわからねばならんかったのか…やっとセリフの意味が(どう繋がってるのか)わかったぜ」と間違った感心をする。

むー、しかし同じシナリオの部分的な分岐は飽きてくる。
どうすれば別の話になるのかしら。

途中で我慢ならなくなり、攻略サイトを覗き見。
あー、私のデータはエンディングをセーブしたデータが消えてたから○×編の分岐がさっぱり見当たらなかったのか(最初のOPから変化し、「○×編」とドカンと選択ボタンでも出るのかと思ってた)。
最初の方で分岐する事だけ確認して、ポチポチ選択。

頑張って選択肢を網羅しようとしてEDまでに大分埋めてたので、早速未選択の分岐が出現してる事に気づく。やった!
全然違う事を喋りだしたので、苦節ン年(放置してただけ)、ついに別の話が始まったのね…!とウキウキする。

とりあえず陰陽編開始。
一体どんな話なのかしら?きっと怖い話ね!
でもわらべ唄編と同じぐらい長かったらどうしよう?
殆ど最初から延々とやったようなものだから、私は既に疲れてきてて途中で止めて昼寝したいんだけど、それでセーブして電源切ったらまたクリアデータがお釈迦になって全て最初からになるのではないか…?と思うと、とにかく一回は何らかのエンディングまで行かなければ落ち着けないわ…。

と思ったら、館にたどり着く前に終わりましたよ。負けるもんかと駄洒落を言ってたらあっという間に、ホラーっぽかったらしいとだけわかって、話は全くわからないまま終った。
冷たい眼差しに「諦めない」とか「負けるものか」とか「後には引けない」とか書いてあったせいだ。弟切草でも火の玉に「ロマンチックね」を選択したり、化け物に追われてヒロインを心配せず「どっちが速いか二人で競争だ!」と一人ダッシュで逃げたら、モンスターの家族に祝福されてハッピーエンディングだった気がするし。

私、こういう阿呆っぽいEDを出すのは比較的得意な気がする。
すっごく怖いから、ジョーク飛ばしたい気持ちやねん。殺される瞬間まで冗談を言っていたいというか。むかーしの人で、咄嗟に俳句が読めなくてかいた若き日の恥を忘れられず、暗殺された時に刺されながら俳句を読んだ人がいただろ。刺したほうが愕然として大した事は何も言えなかったのには、「勝った…!」という気持ちだったと思う。ああいう気持ち。
現実に負けるかどうかとか、死ぬかどうかとかはこの際どうでもいいっていうか。それよりも、気を飲まれて相手のペースに引っ張られる方が「負けた」って感じがするねんよ。力が弱かったり、頭が弱かったり、経験が足りなかったり、何も無くても、そういうのは上には上がいて、どれだけ頑張っても全部で悉く勝つなんてことはできないし、その事にはあまり意味を見出せないが、しかし「気持ちの上なら負けない」っていうか。

「おまえが強く正しく私が間違っているからと言って、黙って従う私ではないぞ!」みたいな。普段はペコペコとあっちにもこっちにも従って逃げ回ってるんだけど、追い詰められると文楽の人形のガブのように土壇場で出てくるねんな。それで毎度「一体どんな育て方をしたらこんな糞人間に成長するのか」と罵られるねんな。あーそれはね、全てではないが「情愛など無用、人間に心など不要だ」という確信と信念を持った子供に「理屈や正しさより重要な事がある」とサンドバックのように叩き込むとこうなるのよ。そういうわけで、私の信念は貫く事ができずに既に折れているわけよ。

その縁で、私には殺人に関して幾つか制約があるんだ。
憎悪や怒りも無く人を殺してはならないとか、迷いや躊躇いも無く人を殺してはならないとか、人を殺す際に利得の計算をしてはならないとか色々細かいのがあるんだが、その「こうならばOK」というのは無くても「こういうのはダメだ」というのが細かく制約をかけてくる気分的理屈によれば(他人に対しての許可無許可でなく、純粋に自分が意図的に誰かを殺そうとした際にそのへんが引っかかってくるという)、陰陽編はとってもいやーな感じでしたね。
むむむむむーでとっても疲れたわ。

すっかり飽きたわらべ唄編の平穏が一気に恋しくなったよ。
あー、やっぱり殺人は犯罪に限るね。人間を殺すのは人間であるべきだよ。その方がずっと良い。あんな妖怪ジジイに反則技を連発させるなんて許しちゃいけない。窓を閉めたり針金を飛ばしたりぐらいしかできないくせに何が神だ。それぐらい超能力者でもできる。神ならばもっとスマートにインテリジェンスにやれよ。凶器や手足のように動かせる人間がいなければ殺害もできないなんて、それで神を名乗って恥ずかしくないのだろうか。くれるという富も高が知れている。全く呆れるわ。それに比べれば人間の人間による人間のための殺人事件こそ真のロマンだよ(精神的ストレスによって大切な何かを見失った)
てゆうか伊右衛門は結局なんだったのか、セーマンがなんだったのかよくわかりません。ついでにあのエンディング後にどうやってどうなるかがサッパリわからない。誰がどう見ても「犯人はおまえだ」って感じなのに、あの状態からどうやって事件を隠蔽して何をどう守ってくれるんだろう。あそこからが憑神の見せ場なのか。

平和なエンディングは幾つか見たし(馬鹿なエンディングとも言う)、あまりネチネチ細かくやらずに、さっさと底蟲編とか他のに行こうと思いますよ。

…でも次も不吉な予感。ヨカーン。ミカンイヨカン。
「皆が怪我も病気もせずに無事に帰れますように」と祈ったら、神様に「無理だ」と言われた。しつこく祈ったら「無理だ」と何度も言われた。最後には我侭な子に言い聞かせるように「無・理・だ」と言われた。もうだめだ。もうおうちに帰ろうよ。マフィアのふりをして船長を脅迫して帰ろうよ。急に盲腸になって帰ろう。しかしそんな時に限って真理に「盲腸なら子供のときに切ったじゃない」と冷たく言われるんだわ。凄くそんな気がするよ。


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