非日記
DiaryINDEXpastwill


2007年03月22日(木) 空白の五分。

私の目をすり抜けて二月はジェットスピードで過ぎており、「ところで今は三月だ」という現実が前頭葉あたりに到達したのは月も半分を過ぎてからだった(注:なんとなく気配を察してはいたが意味がよくわかってなかったっポイ)。
またいつも通り「更新するまでは日記書かないぞ。見かけの形はどうであれ、私の志としては創作サイトなんだもん。心の中ではそうなんだよ。しかしそれならばグダグダ日記を書く前にやる事があるだろうが私よ」という無駄な抵抗…じゃなくて意地を張ってる間に、ずるずると毎日が過ぎていって、「一ヶ月に一度全ての拘りを捨ててINDEX落書きを更新する程度はいくら自分でもできるつもりだったのにどうなってんの、オイ。三月も後半戦に入ってるというのに最終更新日が一月とは。今見てしまったぞ。てゆうかおまえねんがじょうは?」と思ったのが先週末だったわけよ。

「二月十四日までに」と思っていたのが、「三月十四日までに」になり、「いっそ来年までに」と思いかけたところで我に返って、「いや待て月末までに」に上方修正したところで上記の事実を発見したわけよ。タイムリーとか、時節とか、イベント合わせとか、そういう生き生きとした更新は隔てられた世界の話だ。忘れようと思う。私には関わり無い。とりあえず気がつかないフリで。そうだぞ。そんな事を気にしていたら、私には永遠に二次創作などできない。自分サイトの寄って立つ基盤(=他人の盛り上がり、ハヤリスタレは気にしない)に疑念を生ずるような危険な価値観は避けるべきだ。

「後ちょっと」なのに、その「後ちょっと」が進まないのよな。
下書きを半分したぐらいで、その日のうちに適当に描きあげて無理にも更新するつもりだったのに、間違って買い物帰りに裏山に登り始め、途中まで行ったところで煙草と灰皿は持ってるのにライターを持ってない事に気づいて「取りに戻った(=山に戻ってくるツモリ)」あたりで「今日の予定は全て狂った」とわかったのだけれど、どうしようもなくウキウキする気持ちをどうする事もできなかったのよな。
そして裏山の道を登り始めたのだが、入るつもりがなかった山道に入り、薄暗い山道の奥に妖しい単車が止めてあるのを見て、相当様子を伺い(近辺に半分埋まったスクーターが放置されてあったので、単なる不法廃棄物なのか、周囲に乗り手がいるのかを探っていた)、かなり迷ったが結局方向転換して下山し始め、しかし上方の様子を探りたくて…というか、何者かの気配によって、したい事(=上まで登る)ができなかった(=やめる事にした)のが口惜しかったので、山道を外れて70度ぐらいある斜面をロッククライミング方式で無理やり登ろうとしたものの途中までしか行けずに元の道に戻る事にしたんだが、登るより下りる方が難しいとわかっていながら、あっと思った瞬間に足を滑らせて転げ落ち、頭を打って…正確には頭を守ろうとしたせいで以後三日ほど首が痛かったわけよ。

そんな事をしていて日々が過ぎたわけだ。

さりげに、ビデオ出してきて某社長さんを眺めては、萌え萌えしてました。なんてゆうかこの人はもう物凄くイイよね。もうどうしようもなくイイよ。こんなに人を楽しく笑わせてくれる人はいない。出てくるだけでニヤついて打ちもだえるほど笑ったのに、自分の過去の遺物を見たら真剣にベタ褒めしている(シリアスだから)。かといって私は別に嘘を書いたツモリは無いのよな。とにかく彼は凄い。私の中で世紀の偉人だよ。
とくに廃人から復活してより中盤の彼は太陽よりも光輝いている。宇宙創世のようだ。特に原作版。こんなナイスキャラは滅多にいないよ、本当に。しかしアニメ版のいささか乙女で可憐な彼も好きだ。腐女子向け二次創作バージョンみたいで。かーいらしー…
ねぇもうこの人凄いよね。

そんな事をしていたら日々も過ぎようものよ。

長々横にずれたが要するに「更新するまで日記を書かないぞ」といったわけで黙々としていたんだが、先日通勤中の電停で自分の前に立った人物が紙袋の中に入れていた「博多○りもん」を目に入れてしまったのが本日の発端だ。

「博多○りもん」その名でわかるように、たぶん博多の銘菓のようなものなのだと思う。イマイチ自信がない。博多駅には売ってるんだが、別段「博多土産といったらコレだろう」といった辛子明太子類のメジャーな土産でもないっぽい。しかしコレは(好き嫌いはあるとしても)私的にバッチリ旨いのだ。

これについてはまず某地方銘菓について語らねばなるまい。某地方に行ったもの、というか帰省したものが必ず買ってくる某銘菓がある。というか私の知人はよく買ってくる。毎度買ってくる。誰も彼も買ってくる。私は寡聞にして聞いたことなかったのだが、その辺ではCMも盛況で有名らしい。
ところが観光地で生まれ育ち、地方の銘菓物産の味に煩い性根の曲がった私は、コレはイマイチだと密かに思っていたわけだ。

私は地方の土産に詳しいわけではない。常識外れに詳しくないがゆえに、実際に与えられて食った時に美味いかどうかに直裁に拘るだけ。知らぬ土地に旅行に行った際に土産として買ってくる、賞味するなら、「名ばかり有名(実はイマイチ)」なものでもいいだろう。それが醍醐味の一つとも言える。しかし自分がよく知っている土地で買ってくるなら、「これは他所の人間は知らんかも」というマイナーな、名よりも実をとりたくないか。
私だってもし自分の郷土?に人が行って某洋菓子を買ってくるといえば、「全国的に有名な○×店に人が並んでいるだろうが、あそこは広報戦略に長けているだけだ。地元民が推奨するのは○□店だ。他県にも一応あるにはあるが、生産工場が違うから味も質も微妙に落ちる。地元で買うべきだ。スーパーで叩き売ってるような味で満足してはいかん。機会があるならば真の味を知るが良い」と一言言わずには居られんよ。

しかし昔から人様に物を貰いながら生きてきた私は、せっかくいただいたのに「あんま美味くないね」とは言い難かった。おまえ、人様からいただいておきながら「どうせくれるなら、もっと美味いものをよこさんか」等とどうして言えるわけよ。人として言えんだろ。
ところが、あまりにも皆が皆そればっかり買ってくるので、ついに鬱屈した不満で「どうして皆コレを買ってくるんですか?有名なんですか?」と尋ねてしまった。

「まあ知らん人はいないんじゃないかな」
そこまでならまだ納得できた。続いた言葉「それに土産物にしては結構美味しいでしょ」には反論があった。「え、こいつ等コレを美味いと思ってたのか!?」という驚愕ゆえに、遂に言ってはならない禁断の言葉「いや、あんまり美味しくないと思います」を口走ってしまった私は相手を怒らせ、売り言葉に買い言葉で「私が本当に美味しい土産物を買ってきてやる。銘菓ならいくらでもある。観光地を舐めるな!」となり、色々毎度種類を変えて買って来る事になったのだった。
それはそこまでの話。

そういえば、岡山に行った際に「ままかりが食べたい」と言ったら、地元民に「やめときなよ。どうせならもっと美味しいものを食べなさいよ」とアッサリ言われた事がある。言う事きかずに食ったけど。不味くは無いよな。特に美味というわけでもないけど。

で、私は私の地元では全然ないけれど「博多通○もん」はバッチリ美味いと思っていて(かなり濃く甘いけど)、ある時、お友達にいかに美味いかという話をしていた。「どんな菓子?」と聞かれたので、「饅頭みたいなので中に白い餡みたいなのが入ってて」と説明しようとしていたら、「ああ、XXXみたいなものね」と件の「あんま美味くない銘菓」をあげやがったので、アタシの脳みその血管が切れ、失礼にも「馬鹿野郎!あれと一緒にすんな!モンドセレクション金賞を舐めてんのか!?失礼だろう!」となった。

モンドセレクションとは食品の品質向上を目指して創設され、現在最も世界的権威のある食品品評会(で選ばれたもの?)の事らしい。味のみならず包装や原材料・衛生面など、厳しい審査基準をクリアしたものに与えられ、国際的にも通用する質の高さを持っていると認められた事を表す。通りもんはこの洋菓子部門で何度か金賞をとった事があるのだ。和菓子か?
「だから美味い」とは言わないが、某銘菓を美味いなどと思うやからに某銘菓と一緒くたにされるのがなんだか悔しかったのだ。

なんていうか、某イマイチ銘菓の味は、「イマイチ料理下手だった母親の手料理の味を、それを食せなくなったり、食す事がマレになってから懐かしく恋い慕い始め、似た味を世界一美味しいと感じてしまうようになる」ような、そういう人間の切なくも愛溢れる嗜好を思わせるんだ。名は体をあらわすって感じだ。

そんな人の情けにつけこんだ菓子が、世界基準を目指して精進した野心溢れる菓子と一緒に並べられては、なんだか悔しいだろう。「美味しいと思って欲しい」という一念で一生懸命に料理したのに「お母さんの作ったカレーライスが食べたい。ボンカレーが良い」等と言われたコックの気持ちを考えた事があるか?私なら通りすがりのアハハウフフと幸せそうな人間を惨殺したくなります。

そこで「思い知らせてやる!」と息巻いた私は、博多○りもんを買ってきて人ん家に置いて行ったわけだ。後で「モンドセレクションをナメてました」というメールが入って、「…仇は打ったぞ…ッ」という気持ちになった。


↑このような過去と思い入れが博多○りもんにはあったので、紙袋の中に二箱も入っているのが見えたとき、「良いセレクションだ」と思った。「この人は一体出張してきたのだろうか。旅行だろうか。それとも帰省してきたのだろうか?」とか「良い土産物とは…」等と思い始めたばかりに、うっかり意識が上の空になっており、いつまで経ってもバスが来ない事に五分ほどしてはっと気がついた。その五分ほどの間に目の前で乗るべきバスを乗り過ごしたらしく、タクシーで出勤するはめになった。


2007年03月06日(火) 色々。

昨年から、極たわいない事をあまり日記に書いていないのが気になっていたので書いてみる。

電車の待ち時間があったので、近くをうろつき、下った事の無い坂を下って歩いていってみた。裏手にある川に出たかったのだが、どうやら遠すぎた。少しひなびた家ばかりが並び、懐かしい雰囲気だった。放置自転車の保管庫があり、小さい公園があった。ベンチに腰掛けた老婆が握るヒモの先に犬が繋がれ、傍らに年寄りの白猫がいた。白猫は少し黄ばんでいた。
昔から高いところに登るのが好きだ。よく進入禁止と書いてある貯水場に隠れていた。学校の昼休みは校庭の端の登り棒の上に座っていた。学生時代は屋上に寝ていた。木に登って痴漢をやり過ごした事もある。そういえば私は高いところが好きだった。懐かしくなり、滑り台の上に座って待つ事にする。
…進入禁止と書いてあるところに良い子は行ってはいけない。貯水場に落ちて溺れ死んだり、変質者に捕まったりする事があるのだ。私は運が良かっただけで、というか私は人が沢山いるところの方が変質者に良くあったものだが、そしてそろそろこの辺は時効という事にしてくれ。あそこで私は虹を見たことがある。そこは山の上だったので、町が見下ろせたのだが、夕暮れに、遠く小さく立ち並ぶ家やビルやらの細々とした町の真上に真円を描いた丸い虹が浮いているのを見た。それはきれいだった。その下に人が住んでいて、毎日どんな風に暮らしていて、そして例えば私がどんな気持ちでいるのかなどどうでもいいような感じに、馬鹿でかい巨大な虹がまあるく浮かんでいて、それはもう嘘みたいな虹だった。それで私は本当は虹は丸いのだと知った。私はそれが消えるまで見ていた。神々しいほどの夕映えの射す角度が変わっていくとじきに消えた。たぶん、今あそこで雨が降っているのだろうと私は思った。そう思っただけだったが、その虹が瞠目するほど巨大で、見た事もなかった丸い形をしていて、それが宙に浮いていて、なにやら妙なほど美しかったのは別の事だ。
虹は簡単につくれる。晴れた日に霧吹きで虹が見える場所を探せばいい。要は陽光と視点との角度の問題だ。吹きながら順に追っていくと丸いことがわかる。
たまに童話や絵本みたいなので、虹の果てを探して消える前にと走っていくエピソードが出るよな。私は虹の果てを見ようと思った事はない。虹に果てなどないんだ。果ては足元にある。ただの事実だのに、こういうとなんだか哲学的だな。

そのうちやってきた、どうやら近所のオジサンに犬が吼える。「鳴いて煩いでしょう」と老婆が言う。おじさんは何も言わない。おじさんは家に入っていく。ばあさんが立ち上がり犬を引いて歩いていく。老猫が立ち上がって後ろをついていく。バラックのような家に帰って行く。
時間が来たので私は滑り台を下りて立ち去った。

また路面電車に乗っていたところ、気がついたら雨が降っていた。家に帰るところだったので濡れて帰ろうと思っていたら、信号で止まった運転手さんが出てきて「土砂降りですから」と手ずから傘を貸してくれた。じぇんとる。経営は厳しいようだが、頑張っていただきたい。昨年末からの運賃値上げは春風さんのように気づかなかったふりをしてやろう。

春になると新じゃがが出るので嬉しい。新じゃがを皮を向かずに切り、昆布と豚肉としょうがで煮ると旨い。酒とみりんとしょうゆと砂糖で味付けする。彩りに緑色の豆も入れるはずなのだが、高いので止す事にする。新じゃがはン年前のスーパーのチラシにはタワシで洗えと書いてあったのだが、タワシは無いので金ダワシで洗ってみたら皮が禿げすぎる。これ以上ないほど土は落ちたであろうから良い事にする。
アクを取れとは書いてなかったのだが、気になるのでとりつつ、スプーンおばさんの歌を歌っていたら、この歌は奥が深すぎる事に気づいた。幸せと不幸せをかき混ぜるスプーンとはどんなスプーンなのだろう。かき混ぜてしまうと、どうなる。それで一滴の愛をすくってアナタにあげたいとはどういう意味なのか。奥が深い。
しかし某嬢は此間、すごい溜息っぽい口調で、「あのねえ、おね〜さん。歌ってのは歌詞の意味なんか考えるものじゃないのよ」と私を諭していた。考えてはいけないものでもないだろう。せっかく日本語なんだから、考えたっていいじゃないか。考えるほうが楽しいだろう。考えるなというのなら、♪シャリオン♪みたいに初めからどこの国の言葉でもない歌詞にするべきだと私は思う。

大家の息子からまたりんごを貰った。先月も貰った。実は先月のりんごがまだある。「食わんか」と言われたので「食う」と言ってしまった。先月分を急いで食う。もらった当初は「傷み始めてるので早く食ったほうがいい」と言われていたが、一月経ってもまだ食えた。
昨年はまたカバンやらジュースやらインスタントコーヒーのセットやら菓子やらなにやらかにやら貰いすぎ、もはや何を貰ったのかも考えないようになってしまった。すごく貰っていることは確かだ。捨てるつもりの物や処分に困っている物をくれているらしいので、断ろうとしたら不機嫌そうになるからだ。…というのは言い訳だろうか。もっと気を確かに持つべきか。
そういう類で好き嫌いらしい好き嫌いがなく、出されたものは黙然と受け取るので「アナタって遠慮ってものがないのね」と苦言を呈してくだすった職場のおばさんからすら、「アナタなら貰うかと思って」と袋いっぱいのシャンプーやらリンスやら歯磨き粉やらの試供品の山を貰ってしまった。おまえは職場にこんなものを山盛り持ってきて、私が要らんと言ったらどうするのだ。もうどうにでもなれと思う。

川沿いの桜に蕾ができているのを発見した。
アザミが好きだ。
空を見上げたら雲が流れていた。幼稚園児の頃も空を見ていた。小学生の時も空を見ていた。中学生の時も空を見ていた。高校生の時も空を見ていた。フリーターの時もニートの時も学生の時も空を見ていた。いつも雲が流れるのを見てるような気がする。青い空に白い雲が流れて、木の幹は茶色が多く、葉は緑が多い。私はそれを見ているのが好きだ。年老いて白内障とかになって視界が黄ばんだらどうしようと今から心配だ。世界が黄色くなったら生きていく自信がない。いっそ真っ黒な方が良い。目を閉じて生きるというのはどうだ。
今日の上の下着は茶色で上衣は緑でカバンは茶色だった。誰も下着とカバンを合わせているとは思うまい。私も思っていないが気がついたらコーディネイトされていた。
帰りに上を見たら今日のオリオンはよく見えた。冬の大三角形を四角形と間違えるぐらい。オリオンは何者だったろうか。真ん中の三ツ星がウエストだった気がする。
今日は「私、太ってますよね」と問われて困った。本当の事を言っていいのか。少しゲゲゲの鬼太郎の妖怪の百目を思い出すとか、本当の事を言っていいのか。しかし私は百目の見た目はとても可愛いと思いますと正直に言って、それで正しい返答になるだろうか。困って、「少し手足が細すぎるのでは」と言ってみた。手足は細いのだ。胴体はゲゲゲの百目なのに手足はネズミ小僧っぽい。これはよくない。ネズミ小僧が妻帯者というのは本当か。

眠くなってきたので寝ることにする。

日記と言うのはこういう事を書くべきじゃないのか。


2007年03月03日(土) 奇跡が起こってみた。

要するに試験に通ってたんだが、どうも少し嬉しくなかった。
奇跡がそんなに簡単に起こってはいけないと思う。


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