非日記
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職場で月に一度、できた分野できなかった分野などについて自己採点をし、自己目標(記述式)を提出し、先月立てたそれに関する反省(?記述式)を提出せねばならないのだが(しょーがくせーみたいだ)、これが面倒でたまらない。 帰ろうとタイムカードを押しに行った際に「……今日、何か締め切りがあったりするだろうか?」と確認して気がつき(そういうところは運が良いというか勘が良い)、慌てて書いて提出しようとしたが、慌てるほど何も思いつかない。 人が言うには「あんなんどうでも良いのよ。適当に嘘八百書いて出せば良い」という事で、私もさもありなんと思うのだが、しかしその適当に嘘八百というのが苦手なのだ。私は嘘をつくにもかなりの割合で事実を混ぜ合わせてしまう想像力に乏しい人間だ。「助詞助動詞と末尾が嘘」とか「まだ生きてる人間と既に死んでる人間が入れ替わってる」とか、その程度のささやかさであったりするんだ。成長過程でうちの中で嘘などついたタメシがろくに無いので(全力投球の正直者でJ子との間に嵐を巻き起こしていた)、とっさに嘘をつけと言われてもそう簡単にはつけない。「嘘でもいいから」と言われるとパニくる。 嘘!どうやってつけばいい! とパニくる。 ただし嘘をつくとなれば明らかにバレていようが証拠を突きつけられようがあまり気にならない。相手が騙されてくれるかどうか、現実がどうかなど些細な事だ。じゃあ何しに嘘をつくのかと言う事になるが、つまり嘘をつくために嘘をついているのだ。 ともかくそういうわけで、「そんなに悩んでないで、適当にかっこよく嘘を書いておけばいいのよ」と人が言っても、私は真実を大げさに表現する事はできても、嘘八百を適当にかっこよさげに捏造するということはできないのだ。
よく情熱的に好んで嘘八百物語を書いてるだろうとも思うが、しかし物語を捏造するのとはワケが違う。そんな事を自分の人生でしようなどとしたら、まず私という登場人物の性格設定からつくりあげなければならない。しかし私は自分がどういう性格で、どういうものの考え方をするどんな人間なのかを自分で考えるのが嫌だから、○いや性格診断が好きなのだ。自分で考えなくていい。大雑把になされているのが多いので、絶対にこうなんだと思わされない笑って済ませられるところが良い。 さらに瞬間瞬間に流されて生きるのが好きで、「こういう人間である」と自分を固定してしまうのが嫌でたまらないので、○いや性格判断や心理テストなどを片っ端から色々やるのだ。色々やって混乱させてめちゃくちゃにして結論を出さないようにする。部分的に「こういうところはあるわね」「そういうところはあるわね」と満足するだけで十分で、しかし全体として「かくかくしかじかの人間である」と自分をキャラ立ちさせたくはないのだ。自分はこういう風に考える人間だとか、自分はこういう事はしない人間だとか自分という枠をつくって、その自分でくみ上げた「自分はこういうもの」という概念によって自分の感情や思考が縛られたくない。叩き込まれて縛られまくっているので、正直に言えばもう嫌だなのだ。
なんていうのかしら、○いで「こういうタイプです」と出たときに、「自分はこういうタイプなんだ」と思うというより、「こういうタイプでもいいんだ」と思う、というか。そういうところがあったとしても、それはそれで良いんだと思うというか。思考のタイプが「〜ねばならない。〜ねばならない」式なので、「〜でもいい。〜だったりして。〜なんちゃって」と、ちょっと余裕や猶予や余白が欲しいのよな。
生きているうえで「自分にはこんなところがあるんだ」と時々新しい発見をしていたいわけよ。さもなくば生きる気がそがれる。自分がどんな時にどんな風に感じどう考えるどう選択するのかが予めわかりきっているんなら、「もう別に生きてなくてもいいじゃないか」と思わんか?私は思うのよ。 自分がどうしたいのか、どうするのか、どう感じ、どう思うのかを眺めてるのが好きで生きてるねん。だから色々書くわけよ。 自分がどんな人間か、どんな人間でありたかったかなどよりも、その時その場で感じた気持ちと考えた思考と判断と決断とを肯定し大事にしたい。こうすべきだと思ったらそれを肯定し、間違っていたと思ったらそれも肯定したい。これこれが嫌だと感じたらそれを肯定し、やっぱりそうでもないと感じたらそれを肯定したい。それが生きているという事を肯定することだ、などと思ったりする。自分がどんな人間かは自分が決める事ではないと思い込んでいるっぽい。
まあな、つまりそういう形で私は他人を肯定したのよな。この方向性の他の追随を許さない抜群の利点は、「誰も私の事(私の気持ち・本当の私・ETC.)をわかってくれない」などという不平不満や発想が本質的には浮かばないところだ。まず「本当の私」を全否定しているので、寄って立つところがない。
こう書くと、私はまるで諸行無常の仏教徒のようだ。 私は観自在菩薩が好きだ。主に名前が好きだ。要は日本人なら誰でも聞いた事のある観音(かんのん)さまの事なんだが、なんで略しちゃったかなと残念に思う。なんたって名前が良いのに。観自在(かんじざい)菩薩は観世音(かんぜおん)菩薩とも言うが、この観世音菩薩という名前がまた良い。ラーゼフォンみたいで響きがかっこよい(アニメ)。シャンゼリオンとか(特撮)。かっこいいだろ。しかも字面がまたみやびで美しい。人は虚空蔵菩薩の方がカッコイイと言っていた気がするが、私は断然観世音派である。世音というのは要するにこの世のあらゆる人々の救いを求める苦しみの声らしいのだが、そんな恐ろしい話はともかく、音なんて字を入れられると和の心をくすぐる。大体実家真言宗なので、オンとかウンとか言われると耳なじみがよすぎて弱いのだ。オンバサラダン…とか直ぐ言い出すだろ。仏事で神妙な顔をして座っていてもサッパリわかってないのだが、しかし意味不明でも耳に残るねん。 真言宗のお経は坊さんは自分が何を言っているのかわかっているのだろうけれど、俗人のパンピーにはもはやイージーリスニング状態だ。聞いてるとなんだかなごむ…心地よく眠くなってくる。真面目な人に怒られそうだ。
覚えてもいないくせに般若心経が好きなので解説本をたまに読むのだが、いつも結構微妙に納得できない。般若心経は最近はやっていたが、あれはそんな可愛らしいお経だろうか?あの「無い無い」経が?確かに短いが内容が面白いし、仏教なら宗派は問わないのでオススメのお経ではある。 専門用語を使うので仏教の教えを齧っていなければ全然わからないのだが(それで私は専門用語を覚えられないうえに覚える気がないので、用語や意味の説明もしてくれる解説本を読む)、簡単に説明すると、初めから終わりまで徹頭徹尾「無い無い無い無い」言い続ける。仏教の理念を否定し続け、あげく「無いというのも無い」などと言いだして、とにかく徹底している。般若心経は誰がいつごろ書いたかわからないお経らしいのだが、非常に完成度が高く、無駄なものは一切省かれ、仏教のエッセンスが凝縮されているらしい。少なくともこの短いお経で森羅万象全宇宙について無い事にされなかったものは無いと言っても良いのではなかろうか。さすがは観自在菩薩と言う他無い。 そこまで徹底してどうしようと言うのかと思ったら、そのあげくの果てには、「…というような事なのであるが、そのような事はどうでもよろしい」という感じに終る凄いお経だ。 と、私は思っているわけよ。とにかく言ってる事が凄いことは確かだ。
仏教を物凄く勉強した物凄く信心深い人が、いっちばん最後にこの心経を読んだら、ガツンとやられるのではなかろうか。観世音菩薩に「愚か者め」と張り飛ばされるというか。そんでその「お勉強するのはよろしいが、その真髄がおまえはわかっておらん」とガツンとやられてる勉強家で優等生の弟子が舎利子なのよ。その実況中継のように見えるんだ。 だってよく考えてみましょうよ。これは現世利益で名を呼ばわば即座に助けに来てくれる観世音菩薩様が語り手なのだから、明日とか明後日だとか一時間後だとか修行したらなんて悠長な救い方ではないのよ。「聞いてわかればすぐさま」式の用法を誤れば相当危険な即効性の劇薬で来ているわけさ。そして自由自在に変化する観自在菩薩様なので、もちろんここでも舎利子にあわせた話をしているはずだ。だからこういう話になるんだろう。それで最後のギャーテイギャーテイ以降は、種を植えて水をかけながら「大きくおなり〜」な感じで、「ほらわかるでしょう。さあわかるでしょう。あなたはできる子です。できる、できる、ほらできた!」と誘っているところ。 と、思うんだけど。私は。きっとそうだと思うんだけどな。
人間は考える事をやめずに考え抜くとここまでたどり着き、そして結果的にはもとの場所に戻ってくるのだなと感心する。無駄かというとそうでもない。同じ事をするにしても出て行く前と戻って来てからの顔つきと心境が違うって事だろう。中国の昔話だったか、ある男が仙人になろうとする話を思い出す。 そういえば、ヘミングウェイの「清潔で、とても明るいところ」という大変短い短編で、最後の方にクリスチャンの祈りの決まり文句をパロっているところがあるんだが、そこを読んでこれは般若心経のパロディかと思った事がある。
それはともかく
月一の反省文をどうしてくれようかと思い、悩んでみたが、電車の時間は迫ってくるし、なんにも思い浮かばないし、いよいよ困った。
私は何でもかんでもウダウダしていつまでも手をつけず、限界まで放置し、締め切り当日まで忘れている事が頻回にあるが、「締め切り当日や前日など、ギリギリ間に合う限界値になって泣きながら乱暴に仕上げて提出する」という癖もあり、案外にスルーする事は珍しい方だ。例のタイプ別判断で、「期限って何?」になっていて大ウケした。大ウケしていては駄目人間から脱却できない。ここは恥を知るところだろう。私だって期限が何かという事ぐらいは理解はしているが、知識としてわかっても納得して身についていなくては駄目なのだ。
しかしそんな事を考えて現実逃避している間にも帰宅の時間は迫ってくる。
だんだん腹が立ってくる。なんだってこんな虚しいものを書かねばならないのか。この末端の皆が揃って「下らない」と断じ、適当にいい加減に書いている(まあ極稀には真面目に書いているものもいるのかもしれないが)レポートは、何を考えているのか知れないが毎月丁寧に集計され、年度末にいたっては総員の傾向と個々人の自己評価がグラフ化されて戻ってきた。毎月違う目標を立てているのに、よくなったも悪くなったも無い。月々で状況は変わるのに年間通してグラフ化する事になんの意味があるのか全くわからない。百歩譲って、定期的に自己評価することや、自分に目標を課して業務において注意を払う事は完全に無意味であるとは言わない。自分等の仕事は、言ってみれば普通のホワイトカラー系の仕事のように立案企画があって計画を立てて目標を達せいするなどというプロセスは全く無く、言われるがままのその日暮らしを絵に書いたような作業状態なので、時には冷静に我が身を顧みたり、小さな達成感を抱く事もあるいは意味がある。本来自分で勝手に行うことだが、しかしそのように「自主的に張り合いややりがいを持って精神的に健全に仕事をする事を企業として推奨しているのだ」と言われれば(こんな事は言わないが。聞けばこれを会社の上層に提出して自分たちがいかに一生懸命働いているかを見せて給料の値上げを図る所存だそうだ。さっぱりわからん。これを見せられて「おおよくやっているな。これは給料を値上げせねばなるまい」等と思う人間は頭がおかしい気がするが、しかしこういう事を言うのが直接の上司の管理職で現実に存在するわけなのだから、万が一無いとは言えないかもしれない。)、もしそういう道理だというのならば「そうか」と思うばかりだ。
が、それはそれとしてもだ
大体、社会学科の研究レポートでもあるまいし、個々の主観的な「自己評価」を総体としてグラフ化する意味が全く理解できない。どう考えても、「社員の仕事ぶりはこういう風になっている」という客観的資料にはなりえない。皆いい加減に記入しているのでそれも嘘になるが、せめて「社員はこういうつもりでいる」という資料になるだけだろう。「これだけの社員ができている」ではなく、「これだけの社員ができているつもりである」という結果だろうが。パソコンに入っていたソフトを使って遊んでみたとしか思えない。 そんな無意味な事に就業時間を費やしているから、本来管理職がやるべき仕事をやってくれないのだなと人々は怒りを通り越して呆れた。物笑いの種にするぐらいしか使い道の見出せない代物だったのだ。 特に無意味さや無駄を嫌う人は何度も馬鹿らしいと言い張っているのだが、そのたびに顔を真っ赤にしてヒステリックに怒るので手に負えない。
「これは一体なんなのか」と埋められぬ白紙を睨んでいるうちに、どんどん腹が立ってくる。 「矢口さんは気が長い。あんたは変だ」と言われるが、私は変ではない。怒るのにはキッカケが必要であり、腹を立てるのに時間が必要なだけだ。「なんか嫌な感じ。もこもこしてきた」とじわじわ腹を立ててゆき、まったりとした鬱屈を醸成し、初めコトコト中パッパで赤子が泣いても蓋を開けずに頑張ってしまうが、ある日ある時ある瞬間に、それまでは受け流し続けたささいな事で突如噴火して溶岩流を垂れ流すだけだ。垂れ流すだけ垂れ流すと、「そんな事もあったかしら?」で落ち着く。納音は山頭火である。地震計を設置してもらえれば地下で何が起こっているのかわかり、いつごろ異変が起こるか漠然とあたりがつけられるはずだ。漠然となのでいつキレるのかは私にもわからない。なるべく小さく地震を起こして歪を解消しようとしているのだが、マグニチュードが1違うだけで解消される歪みの量の桁が変わるのだ。
腹は立っても家に帰りたい。ブスブス腹が立ってくる。今までナンだカンだ言いながらも、これを提出せずに無視した事は一度も無かったのだが、今日という日がその時かもしれんと思ってみる。先にも述べたとおり、私は「自分はいい加減な人間で約束を守ったりはしない」とは思っていないので期限を守ったり約束を守ったりもするが、かといって「自分は期限や約束を必ず守る規律正しい人間である」とも思っていないので、状況に応じて突然破ってみたりもするのだ。さあどうしよう。早く決断せねば家に帰れなくなる。
「今月の反省をしろったって、今月の反省って、今月どんなだったかなんて一日一日一刻一刻が必死でちょっぴり痩せるぐらい汗だくで駆けずり回って、毎日今日もなんとか終ったと安堵しているのに、一体何をどのようにしたのかなんてろくに覚えてねえよッ!」
と心で吐き捨てたところで、「おお!これは反省じゃないのか!」と思い至った。おお良かった。危ないところだったが、なんとか反省できた。
今月の反省→「反省するどころではなかった」
>> ところで昨日ふとフォルダの整理をしていたら、三四年前に一人でこっそり書いた二次創作文が出現した。「おおう懐かしいわね。そういえばこんな物も書いていたっけね」と思ってペロっと開けてみた。何年も一度も見ていないと、もはや他人の創作物も同然で照れや恥ずかしさなど無い。恥ずかしくないどころか、素晴らしく内容を忘れていて「これはどうなるんだ」と続きが気になる。何しろ好きなジャンルで好きなカップリングで内容を覚えてないのだ。暢気に「はぁん」と肘をついて読んでいたら、自分の書いた話なのにウケて笑ってしまう。思わず無心に読んでしまう。自画自賛になっていても問題無い。自分以外誰も読んでない。自分のためだけに書いたので、「これでもか!」と自分の趣味に走っており、つまり自分のポイントを突いて来る。しかも「なんだ割と面白いじゃないの」書いた直後より優しい眼差しになっている。
書いていた時分は「あまりにも無理やりの展開」とか「何故こうなるのかがわからない」とか「必要な部分が足りないのに無用な部分が割り込んでいる」とか「問題を提示してみたものの、解決に詰まってどうでもよくなったコジツケが明らかだ」とか「いかにどうしようもなくなったからと言ってオリキャラを出して誤魔化すのはどうか」等と「プロットはどうなっている!?(←プロットなど立てていない)」で散々腹が立ってムカついて、見るもおぞましい出来の気分でいたんだが(しかし勿体無いので削除はしなかったらしい)、他人が書いたものだと思えば、ズブの素人が情熱だけで突き進んだ二次創作によくありがちなささいな矛盾や自己中、ご都合主義に思え、この程度ならなんてことない気分だった。 あんなに嫌だったのに。
最後の方になってくると段々思い出してくる。確かこれを書いていた頃は、ちょうど兄ちゃんが死んでまだ親の方が落ち着いてない頃で、大家さんは息子が倒れて情緒不安定だしで、あっちからもこっちからも「もう生きる気力が湧かない」と嫌になるほど延々と訴えられ続けており、じきに死に別れる(失う)事がわかっていて僅かな時間を共に生きるという事について感情的にはどう肯定的に処理できるんかがお悩みだったのよね。肯定的に処理するというか、まあ色々。模索した結果なのよ。呆れた長さは。 最初は気を紛らわすつもりで軽く書き始めたのに、気がついたらそうなっていたのよな。だって死んだからさあどうしてくれようかと思うじゃないのよ書かずにはいられなかったのよ 気分はTMネットワークのResistance♪でSevenDaysWar♪だったのよ。七日じゃ書けなかったけどな。あとはBeyondTheTime♪でGetWild♪だったわけよ。
だからどう見てもコメディ調で始まった話がどんどんシリアスになっていき、かと思うと無理やり明るく元の軌道に戻ろうとしては挫折して悪化したりしながら、終盤は人の心が移り変わることや万物が永遠ではない事を「おまえは怖くないのか?本当に怖くはないのか?」と追求する場面を頂点にドシリアスに達し、何故か突如哲学な領域に入…りかけて根性で無理やり引き戻したねんな。命を雨粒に例えてみたり苦労してるよ。この最後らへんは確か仏壇と遺骨を背に「あんたパソコンなんかに向かって何勉強なんかしてるの?」「勉強なんかしてません。何もしてません。あっちに行ってください」と実家でこそこそ書いていたのよな。懐かしいわ。
忘れているのを良い事に次から次にどんどん読んでいたら、気がついたら五時間経っていた。誰にも求められていないのに、よくもこんだけ書いたものだと思う。しかもよくもこんだけ書いておきながら、このカップリングでは最後までついにヤらなかったところが凄い。呆れた。自分で書いておいてなんだが、ごっさ欲求不満だ。「一本ぐらい最後まで行ったのを書いておけよ!」とン年前の自分に突っ込んだ。しかもいいところまで行っておいて続きを書くのを止めてるのがある。そうだ、これは確か「とにかくこの話では最後までやらせよう。さもなくば私はイマイチ欲求不満のままだ」という心意気だったのよ。 おい!これからどうなるんだよッ!気になるだろうが! この後はまた別のジャンルに走って燃え上がって、サイトで言うなら「取り扱いジャンルが変りました」だったんだよ、私の馬鹿!
これを教訓に、とにかく最後まで書くように努力しよう。いつか他人の書いたもののごとく平然と読めるようになるらしいことがわかった。そしてその時には途中で打ち切られている事に「なんだとこのやろう」と思うことがわかった。 夏の終わりに忙しくなってから放ってあるのとかあるんだよね。気にはしてるんだけど、単に時間が無くなっただけではなく行き詰ったというのもあったのよな。 う…ッ、しかもでも今書きたいの違うねんな。
| 2007年02月18日(日) |
空中に向かってパンチ。 |
俺には貴様と話したいことなど何一つとして無いわッ!
「と怒鳴りたい今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?」。 感情の赴くままに宙に向かって口パク無音で言いたい事を喚いた直後に「」内を付け加えたらば、途端に、まるで自分が頭の芯の髄まで冷静であるかのような気分になれてステキだと思う。 家族で過ごしていてあまりの意味不明な言分や、ギャアギャア騒いで人の忠告をきかずに自分の意見をごり押しして思うがままにしたあげく失敗した時などに、そのような事をしたオカンの背後で親父と二人でオカンを指差して、「あほー」「あほー」と力いっぱいの口パクで感情を送信しあっている名残かとも思われるが、しかしオカンも昔から時々、珍しく穏やかな顔つきで誰もいない空中に向かって聞き取れない程の小さな声でひそひそと話をしているので(人をキの字呼ばわりしておいて自分も十分に変な女だ。おそらく考え事をしているのではないかと思われる)、口パク由来はあっちかもしれない。 (だから実はあの人は内向的なんじゃないかと思ったりもする。コペルニクス的転回で驚天動地だが、可能性として希薄というわけでもない。人にギャアギャア干渉しようとして騒々しく煩いのは…なんつーか例えば高き人間生活の理想を強靭な精神力で弛まず追っている雄姿なのであって、とか。この論文でJ子学会に論争を巻き起こせそう(注:J子学会はアタシの心の中にあります))
そういえばちょっと聞いてよ。 最近アタシ、生まれて初めて「お姫様抱っこ」をしたよ!思ったよりアレは抱きあげやすいスタイルだとわかった。肩に担ぎ上げるのには負けるだろうが、何故あの形になるのかは分かった。 私「私昨日お姫様抱っこしましたよ。生まれて初めて!(笑)」 人「えー、ホントー!?(笑)一人で!?」 一人でやらなきゃお姫様抱っこじゃないだろッ!(ツッコミ)
…今のこの仕事は別段「一生この仕事を続けたい」とか「仕事に夢中になる」とかそういうもんではないんだが(人によってはそうかもしれんけど)、なんか普通に生きてたら中々遭遇しないだろう面白いことが時々起こって、そこが妙に楽しいと言えなくも無い。 去年は生まれて初めて、怒りのあまり「胸倉を掴まれた」。ついでに殴られた。胸倉を掴まれて捻りあげられたのは初めて!同僚が慌てて間に入ってくれたが、おかしくて思わず口元が緩んでしまう。私はこっちが商業的に(?)立場的にあまり強く出られないことをわかっていて我侭こいてゴネる相手は大嫌いなんだが、魂の憤りは好きやねん。 名前を呼ばれて返事をして振り返ったら、すげー嬉しそうな顔をして「呼んでみただけです」と言われるとか。どんな少女マンガだ。「代わりにきれいに化粧した綺麗な人が代わりに来るから楽しみにしててください」と言ったら、「わしはアンタで良い」と言われるとか。どっかの球根みたい。なんの脈絡も無く唐突に「きれいな目をしてる」とほめられてみるとか。まるで口説かれているよう。 ついなんだそりゃと動揺して早速お友達に「誰も彼も友達にも産みの親にすら気持ちが悪いと言われ続けたこの私のこの目を!おまえはキレイだと、そう言ってくれるのか…ッ!?などと感激してしまったわ!」とウキウキ電話して爆笑されてみたり。 いつ何が起こるのかわからん風で、面白いっちゃ面白い職場だ。
大都会では、秒速5センチメートルというアニメ映画が上映されるらしい。ここは田舎なので上映されない。 特にアニメは派手で大げさで嘘ばっかりなのが好きなので、あんまり触手は動かないんだが、ちょい気になる。映画でも小説でもドラマでも創作物は大抵派手で大げさで嘘ばっかりが好きなんだけど。 ヤフの特集で壁紙になっている風景などのイラストレーションがとてもきれいだ。話は苦手な口かもしれないが、画面はとてもきれいそう。
主題歌が♪One more time,One more chance♪で無駄にときめいた。一時山崎まさよしとスガシカオばっかり聞いていた時期があって(仲良しだと聞いて何となく納得した覚えが)、この歌も好きだった。特にサビの部分が良い。♪できない事は何も無い♪などという心境にはなれないが。
いやこれ全体的によくわかんない歌詞なんだけど。
今すぐ君の元へという願いがあって、君のほかに大切なものなどない程の思い入れで、しかもできない事は何も無くて全てを賭けるほどの意気込みになっているなら、「それなら今すぐ行けばいいだろうに」と思うだろう? それで考えるねん。 それほどの思いでいながら「できない」のは何故か。
…つまり死んだのか、「君」(相手)は?
♪不意に消えた鼓動♪だしな。 私は「突然に別れて傍にいなくなった」という事の隠喩だろうなどと和やかに思っていたのだが、よくよく歌詞を吟味してみると、「消えた鼓動」というのはその言葉通り、心臓が停止したという厳然たる現実を意味するのかもしれん。愚かにも私は単純に歌詞の人物は振られ(しかし好きだとは告白はしてないようなので振られたというものでもないだろうけれど)、彼女は遠方に転居でもしたのかとでも思っていたが、「できない事はもう何も無い」とまで明言しているのに、「会いたくない」みたいな相手の気持ちぐらい無視する事ができないわけがないのだ。 「奇跡が起こるなら新しい朝を君に見せたい」というのなら、つまり「君」には「新しい朝は奇跡が起こらない限り訪れない」という事を意味する。この「奇跡」というのも、ラブストーリーなどにありがちな「奇跡的な再会」程度の軽い奇跡だと思いこんでいたが、「できない事はもう何も無い」程の人間が願うほどならば死者の復活という現在物理的倫理的に不可能な重苦しい奇跡なのかもしれない。
「ストーカー行為を繰り返して法的に接近を禁止されている」という可能性も考えたんだけど(「これ以上何を失えば心は許されるのか」と言うほどなので、殺害したのかとも思う)、「できない事はもう何も無い」で「全てを賭けても」ほどなのよ?(しつこい)
でも死んでるなら♪こんなとこに「来る」はずは無いのに♪などと言う文言が出てくるか?強いて言えば、♪こんなとこに「出る」はずはないのに♪にならないか? この一言の為に悩むねん。
それに仮に相手が死んでいてもだ、願いが叶うなら今すぐ君の元へ行きたくて、惜しいものなどもう何も無いのならば、自然に考えれば後追い自殺を試みないか?そう思うと「どれほどの痛みならもう一度君に会えるのか」と悩んでいるのは、私はてっきり精神的心理的な苦痛を考えていたんだが、実際は自殺した場合の肉体的苦痛のレベルについて考えているのかも…。この歌詞の主はかなりヤバイ精神状態になっている。 でもな、死んだらどうなるのか誰もわからないのに、新しい朝やこれからの自分が奇跡が起こらない限り君に見えず、言えなかった言葉が伝わらないと断定してるのはどうなんだろうかと思う。歌詞の主は、死んだらそれまでで消滅して蒸発よと思うタイプなのだろうか?それが、どれほどの痛みに耐えれば君に会えるのかとまで思いつめていながら実際に死を試みない理由(死んでも会えない)なのか。しかしそれほどまでに現実的ならば、「奇跡がもしも起これば」などという方向に思いが向かうはずはなかろう、とも思う。
代表作になっただけあって耳に残りやすく良い歌だと思うんだけど、歌詞の主人公の気持ちをトレースし始めると途端にわからなくなる。 最初に聞いた時の印象で一番素直に考えれば、「できない事はもう何も無い。君のほかに大切なものなど云々」ってのは気分の上でだけの事で、実際はできないでいるのよ。もしくは「今から」会いに行くのだろうか。奇跡が起こるなら「今すぐ」いくんだが、現実的に先立つものが無いとか(「君のほかに大切なものなど」「これ以上何を失えば」というほどなので無論金を貸してくれる親戚・友人・知人もいなければ、職も失い、家も追い出され、生活保護の申請を蹴られて呆然としたあまりに夢想にふけって自分を鼓舞している。「君のほかに大切なものなどない」と思えば、衣食住のほぼ全てを失った現状も大した事ではないと思え、明け方のサクラギ町をさ迷う浮浪者から再起を図ろうという気持ちになれ、奇跡が起こってこれからの自分の生き様を是非見て欲しい、見ててもらえたらさらにヤル気が出るのにと燃えているところ)、もしくは家族の葬式などの冠婚葬祭でしかも喪主で今すぐは無理だとか(それで君のほかの大切なものを今まさに残さず失ったので気持ちが盛り上がったところとか)。 どうなんだ、この歌は。どんどん妄想が膨らむ。 考えれば考えるほどわからない。
ところで私は好きサイトの更新がなかなか無いので、つい別カップリングに走ってみたりしていた。考えてみると、私はリバはそれほど好きでもないのだが、別段忌避するほどでもなく(こっち寄りがより好きだってのはある)、たまにリバ度が強い事もあるんだが、そういう時は大体攻の度量の広さ、懐の深さにかかっているような気がしていた。
もともと「(容姿が)かわいい子には攻をさせよ」が心の標語なので(対で「かわいそうな子には受をさせよ」もある)、私が好きな攻は一般的にかわいくて世の中の標準を鑑みると受にまわってることが多いのだ。だからマイナーになる。しかし餓えてカプお構い無しに漁り始め、かわいい攻が受になっているカプで実に可愛らしく描かれていると「まあなんて可愛らしい!さすがだ!」とご満悦になる事に気づいた。 それで長く親しむジャンルになると、よくひっくり返ったりひっくり返ったりひっくり返ったりするんだが(完全なリバではない。逆カップリングを行ったり来たりするという事。完全にリバれるのは攻の度量と受の性格にかかっている。ガレコでリバは難しい。女相手でも受だろうあれは。)、特にリバる時には、どうも受よりも攻が好きな時なんじゃないだろうかと、別カプで受になっているのを見て「あーかわいいーあーかわいいなーちくしょーかわいすぎるー」と唸っている事に気づいて思った。 これが「好きすぎてどっちでもいい」というやつか。
そういう子を最初に攻にしてしまうのは、「おまえコレがすきなんだろ。ようしわかった」と思い、幸せにしてやりたくなっているからと見た。だから結局、一周すると同じところに戻ってくる。同じところに戻ったときに、元の配置になりがちなのは「可愛い子には攻をさせよ」と同時に、「かわいそうな子には受をさせよ」という拘束があるからだ。 かわいそうな子に攻をさせると余計かわいそうな気分になる。何故かというと私の中で攻受の基準はどっちがより相手を欲しがるかなので、かわいそうな子を攻にすると「やりきれない」感じが拭えないのだ。精神的、社会的、肉体的に立場が弱い方が受になるのもあまり好きでない。 だから下克上好きー。後な、下克上好きは、「男なら(別に男でなくてもいいんだけど)上を目指せ」というのがある。
そこで特に精神的に対等であるほどリバりまくるという結果になるんだな。じゃんけんとか曜日で決めればいいよ。攻めても受けても可愛いもん。 攻で可愛くて頭悪くてヘタれてると最高ね。 …と言いながら可愛い攻を鬼畜系にするのも好きなのはどうなんだ。だっていつも同じなのは嫌なんだもの。いや、本当はきっと心のそこで「おそろしい子…っ!」と思ってるんだよきっと。それで時々原点に戻るんだ。 いつもではないが、たまに、サンドイッチに塩をふりたい、カレーライスにソースをかけたい、目玉焼きには塩かソースかしょうゆかマヨネーズをかけたい、フランクフルトにケチャップをかけるかマスタードをかけるか両方かけるかとか、そういう問題なのよ。
救急車とパトカーは救急車の方が相手に認められたい気分が強そうなので、あそこは固定なんだよ。立場的に弱いしな。自分では彼の代わりになれないと認めてしまったしな。だからあそこは下克上気分なの。 ガレコは攻にしてやりたいんだけど、性格的に無理っぽい。しかもなんかかわいそうなので受。色々な事を諦めてしまっているので受身。
寝る前に思ってたんだけど、御伽噺や昔話なんぞで「けして開けないでください」とか「けして中を見ないでください」とか「けして言わないでください」と声をかけるが、そう相手に言った時には既に別れる(殺す)決意なんだよな。相手が約定をたがえるのをてぐすね引いて待っている感じだ。普通に考えて、見てはならないと言われたことを見ないでいるのは人間にはなかなか難しい。 浦島太郎とか青髭とか鶯長者とか夕鶴とか雪女とか妖精の花嫁とか。 件の類の約束「けして〜しないでください」を定める者に人外や異界の者が多いのも頷けるかも。人間が分かっていれば出るはずの無い約束の仕方やねん。人間でやれば、人心が鬼畜でビミョーな者か、あるいは酷く自己中で子供っぽいと出ると思われる。
見る前から「見ないで」と言う心には愛が無くて、既に見ている真っ最中に「見ないで」と言う心には愛があるのよ。昨日読んだ大人シーンを見てしみじみ思った。どんなシーンでしょうね(笑)。 現実に手遅れになっていることをなんとか手遅れにするまいともがく、そこに人の心があるんだよー。たとえ見てようが「見てない!」と言わねばならんのかも。信ぜよ、さらば救われん、だ。
タイプ別性格判断というのがありましたよ。 思わず口を押さえて「うわあー」と笑ってしまったので、是が否にもやってもらいたいと人様に電話しましたよ。 妙に長い質問の後で十六に分類されるこれの何がおかしいって、解説?のところにある、対立するタイプ間におけるコミュニケーションのズレの典型例だ。たとえ自分の分類に「そんなところ無い」等と不満に思うとしても、このコミュニケーションのズレに関しては、「確かに、こういうズレは人間で生きていたらものすごくよく見かける!(経験する)」と笑いが止まらない。ギャグかこれはと笑える。
で、いつものようにこういう事に素直に付き合ってくれる某Gさんですが、「見ているだけで口は出さない(ISFP型)」になったそうですよ。完璧!
「つねに傍観者であろうとするが、他人に対する愛情や感じやすい心が無いわけでもなく、人生を楽しむ気持ちが無いわけでもない」 完璧だ!まるでGの人生を見てきたかのよう!
ほんとう爆笑しますよ。その「無いわけでもない」という微妙な言い回しが、寸分の狂いも無くド真ん中を射抜いています。これが「他人に対する愛情と感じやすい心を持ち、人生を楽しむ」と書いてあったら、「えー?そうかなー?」と思う。しかし「無いわけでもない」と書かれたら、「全くその通り!」と思う。
大体私も常には好き勝手な事ばかり言ってるが、この「感じやすい心が無いわけでもない」為に時々は気をつけないといけないのよ。「凄く感じやすくて、いつ何にどう傷つくか分かったもんじゃないので、この人と喋っていると神経をすり減らして気疲れする」という事は無いが、私も気を抜きすぎ、「人を不快にする悪趣味なユーモアの持ち主」であるにも関わらず調子に乗りすぎて機嫌よく喋ってると、いつの間にか「あれ?どーしたのかな?」ヘコんでたりするのよ。 スリル。 かといって正義感溢れて人に干渉するところはないので、私が慌てて話題を変えるとモヨモヨしながらも黙って付き合ってくれ(相手に対して自分の考えや気持ちを言おうとしないので)、そのうちいつの間にか誤魔化されてヘコみが直っており、私が密かに「フウ、なんとか友情を持ちこたえたようだ」と額の汗を拭っているのに気づかないねんな。
どう?私だって人に気を使ってるのよ。
うん、私はよく絶好調で機嫌よく喋ってると相手をヘコませるねん。あと冗談を言ったらシバシバ激怒させ、あるいはその場は流されても人品を疑われる。これはおそらく親父さんも一緒だと思う。 数年前も晴天の正月の朝一言目から 「あけましておめでとう!世界のどこぞで戦争で人殺しが行われてるとは思えない、良い天気だなあ!」 だったもの。あれは気分がすごく良くて、楽しいジョークのつもりだったんだよ。私にはわかる。同じユーモア感覚の持ち主だから。だから私達は社会人として、怒った時に自制するだけでなく、気分が良くて楽しい時もおいそれとは気を抜けず、常時自制しないと、何をどう誤解(←?)され、どんなに叩かれるかわかったものではない。とても不便だ。いや、いっそ端から誤解?されっぱなしの方が、「本当はこんな人間なんだ」とギョっとされずに済んで気楽で良い…などと後ろ向きに思う。 長く付き合えるのは、たぶん私の思わず口を滑らす至らない悪趣味な冗談を、常識的に「それはどうか」と思いながらも「思わず」笑ってしまう余裕のあるタイプの人なんだよ。私が口走った要らぬ事を本気にして喜ぶ相手は私が大嫌いやねんな(わがまま)。
そんな私は「問題を解決したがるINTP型」でした。 問題を解決したがっているつもりはないが、そりゃもし解決できるならしたいものだろう。完璧な問題解決を求め、とっくの昔にすっかりうんざりしてるのよ。 人様も読んでウケてましたが、きっと私の同人人生を見て笑ったのではないかと思いますよ。 「このタイプは女性の場合に葛藤を生む」だとか「少なくとも三つの問題が生じる」だとか、いい加減にして欲しいですよ。少なくとも三つって、多くなるといくつになるのかしら。どきどきするわ。 「そうした面は、女性だと鈍感とか、時には頭が鈍いというレッテルをはられてしまう」って、頭は鈍いんだけどさ、うん。高校の時に、ある日、それほど親しくなかった順位一桁内のごっさ頭の良い人間がやってきて「矢口さん、頭が良かったんだね…」と言い、とっても真ん中だった私は意味がわからなかったんだけど、それはつまり、やはり「凄まじく頭が悪い(成績が悪い)と思っていたのに、それほどでもなかった事に驚いた」ってことなんだろうか。実はそうじゃないかと思ってたんだけど。
この判断の楽しいところは、タイプの説明欄で、異なるタイプ間のすれ違いについて述べられているところだ。
<E型とI型はどこでぶつかるか>なんてめっさ納得。そうなんだよ。とりわけ我慢できないのよ。数時間二人以上でいると、断固として、たとえ全てを失っても一人になりたくなる。頼むから勝手に戻ってくるまで放っておいて欲しいと歯軋りする。「どうしたの?」「何してるの?」「何考えてるの?」と寄って来られると、首枷を嵌められて柵に繋がれ、全身を鎖で雁字搦めにされ、ナメクジか何かおぞましい虫に這われているような気がして耐え難い。
S型とN型の<ものごとの対処の仕方が違う相手とうまくつきあうには>における会話例に、S型のお姐さんもN型の私も笑う。 S型のお姐さんは「なんで時間を聞いてるのに答えないのよ」と笑う。 N型の私は「問題は時間自体ではないじゃろ。なんでそこまで時間に拘るのよ」と笑う。 でも私はもうちょっとマシ。時間を聞かれたら時間ぐらい言うわよ。ただ「今何時?」と聞かれたら何故時間を聞くのか考える。「だいたい○時ですよ(好きな言葉は「大体」「およそ」「ざっと」「たぶん」のN型)」と答えた後でも(十中八九は答えながら時計の面盤自体を見せる)、何故時間を聞いたのか、人と待ち合わせがあるのだろうかとか、乗る予定のバスでもあるのだろうかとか、早く立ち去りたくてキッカケを求めているのだろうかとか、考えてる。
さてすれ違うお姐さんと私だが、これは微妙だなと思う私のT型。人の意見に流されると答えたはずなのに、何故かT型にされていた。 お姐さんはF型。 「情にもろいとか人情家とか協調とか好意的とか、なんか良い事が書いてあるわ☆」 うきうき嬉しそうだ。不本意にもT型にされた私の前で腹立たしいことだよ。私だって人の心の痛みをおもんぱかろうと他にふりわける気力を根こそぎ失うほどに全力で相手を分析し(N型:客観的)、本当に正しい事は何かを擲ってでもとにかく好意的に解釈しようと努力してるし(N型:正義派。批判的)、「人としてどうか。自分の思うところや感情を相手に拒絶されないがために偽るなど誠意が欠けているのでは?私は嘘つきだ。人を騙してる」という嘔吐ももよおす程の強烈な罪悪感と戦いながら(N型:白黒つけたがる)、同調したり同情してるふりも辞さないでいるというのに(N型:自分の方針を曲げない)。 ……………確かにどっちかというとT型よりかもしれん気がしてきた…………。努力がどちらの方向に向かっているのか(どちらの方向に努力が必要なのか)を鑑みると。
その<決断の仕方が違う相手とうまく付き合うには> 大事なところだわ。お姐さんと私が上手く付き合うには、どうすればいいのかしら? 十代の娘が車を使いたいと言った時の父親と母親の決断をくだすまでの道筋。 「なんでこんなに堅苦しく考えるのかしら。大変よ、毎度こんな考え方してたら。私には無理よ」とF型のお姐さんはN型を笑う。 「娘に車を使わせるかどうかの話をしてるのに、なんで自分の話になってるねん。おまえと娘は違う人間だろうが」とT型にされた私はF型の思考に大ウケ。特に「わたしが十代だった頃を思い出すわ」といきなり自分の気持ちに突入するのに、「おねーさん、こんな感じだよ!本当だ!」とバカウケ。 本人が言うには「きっとそうよ」が自分っぽいそうな。 そうね。某姐さんはあんま自分の思ったことは言わないけど、頭の中では「きっとそうよ」を連発して独断で突き進んでいるのだろうというのは察せられるのよ。もしくはもう少しマイルドに「そうなんじゃないの」を連発だ。ただ結構高確率で当ってるもようなのよな。 T型にされた私は、「親として(例:人として。社会人として。女として)」とか「私に求めている役割ではない」とか「私の計算ではここはリスクよりも」とか妙に心当たりのある言い回しが…。
でもここの「両方とも心配し、考え、感じているのだが」の一行にじーんと来た。つまり誰だか知らないがこの人は、このT型も「心配し、感じている」のだと認めてくれてるんだわね。そんなあなたが言うのなら、私T型にされても文句なんか言わない。 「自分はただルールにしたがい、条件を当てはめて回答を導いているだけなのではないか?私は本当に心から心配しているのだろうか。通常なら当然心配するべき事だから心配しているに過ぎないのではないか?私は本当に愛しているのだろうか。本当に愛しているのなら、できるはずのない決断ではないのか?できるはずのない決断ができるのは心が無いからなのでは?私は…、私は…」と毎度毎度めっさ悩んで生きてるんだもの。一年の半分以上をこの系列で悩んでいるといっても過言ではない。
オカンは絶対F型だよ。心当たりがありすぎる。 「T型の娘はそうした役割に向いてないだけでなく、そんな気配りなどとてもできない。なお悪い事に、自分は女らしくないと思い始めるだけでなく、母親がたえず他の女の子と同じでないといって押し付ける罪の意識とたたかう。」 まさに戦い続けた。そこは戦場だった。たった一人で世界と戦っているかのようだった。右を見ても左を見ても敵ばかり。 タイトル思い出せないけど古い歌の歌詞のような。 ♪いつも愛は心躓き膝を落とす僕を打ち続けた♪みたいな。 思春期の終わりかけは、なんかの漫画に出てきた月の悪魔みたいな気持ちだったわね。 「たぶん、僕はただ、なりたかったんだ。あんたに愛されて、あんたを愛せる人間に。さよなら、デューアンさん」みたいな。誰デューアンさん。
そんで私も無傷ではおられんかったのよ。母親や世間が自分に求める、とてもできない「そんな気配り」を獲得し、「他の女の子と同じであろう」とする事に全てを捨てて全力を傾けたねん。「全力でその程度か」と笑われたら返す言葉も無いんだが。しかし微笑のタイミングもずれていた中学一年から、二年の終わりまでにはほぼ完全に一致するまでになっていたのよ。自分で言ってんじゃないのよ。人が言ってくれたのよ。「強張っている上に遅れていたタイミングが自然な感じになった」と。偉いだろうが。実は天才じゃないかと思う。…お世辞だろうか。 それにしちゃ結婚も焦らないし、一人でポヨポヨしてるじゃないかと思われるかもしれないが、だから最後は「僕はただなりたかったんだ。さようなら、デューアンさん」になったのよ。
さてそんな私が問題を解決するには、「感情を正直に表しても許してあげる」 アイター。おまえほんまに鋭いな。 「たとえ自分は感情をおもてに表せなくても、他の人には自由にそうさせてやるべきだ」 …わかってるわよ。だってムカつくんだもん。だって気持ち悪いんだもん。なんで他の人は正直に表してもよくて私は駄目なんだよと腹が立つだろう。おまえが許されるなら俺も許されるはずじゃないかといきりたつ。 また月の悪魔の気持ちに。心臓を撃ち抜いたはずなのに倒れなかった事を化け物と罵られた時に。 「僕の肋骨は26本、心臓は右にある。頼みもしないのに、神様が勝手に僕をこう作ったんだ」 確かこんな言ってた。ひどいよ神様ってズキズキしたわ。
ちなみにF型には「率直に反論せよ」とある。 私「ほら、だからお姐さんはもっと喋らなきゃ駄目っていつも言ってるでしょ」 G「ほら、その押し付けがいけないのよ」 私「ああ、そうか!すみません。気をつけるわ」 …うーん、でもなんか良いようにあしらわれている気がするわ。何故かお姐さんの意向ばかりが私の方には通って、「人に干渉してはいけない」「人に指図してはいけない」を盾に私の意向はお姐さんの方に全く通っていないかのような。妙だなあ。
昨日は節分だったよう。
今年は真面目に日記を書いてるじゃないか。調子よく連続して書いてるなと思っていたら、いきなり書かなくなったが、しかしあらためてみたら一月には月に三回も!
…と思ったが、あらためて内容を開けてみたら三回目の近況は書いてないも同然だった。 あれは武田の「馬」を避けられるようになったという、ゲーマーとしての素晴らしい成長ぶりが表現されてるんだが、他人の目で見ればなんのこっちゃだったかもしれん。人に「詳細を述べよ」と言われて、てっきり馬日記の事だと判断したんだが、別人に「アレが何かわかるか?」と尋ねたところ「ゲームで敵を避けられるようになったって事なんじゃろ」とアッサリ言われたので、案外にわかるらしい。地味に違うけどな。敵は避けられんよ。馬の話なんだ。 んでは詳細について尋ねられたのはアレの部分についてではなかったんだろうか。
そういうわけで、凄くジミーに続いています。
人はよく精魂費やして遊興に頑張るが、持ち場が変わった私は案外に疲労している。 相変わらずゲームに対する気力が無くて、休日の、しかも余力のある時にしかやらないので全然一向すすまんよ。使いたい人がいるんだけどさあ、出てこないんだよね。「どうやら大方クリアせん事には出てこんらしいのよ」と言うと、「気の遠くなるような話ね」と正直な見解を述べられた。 うん。私の力量では気の遠くなるような話だ。でも地道にやる。レベルでも地道にあげていってみようかしら。
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