非日記
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| 2006年08月21日(月) |
まだ来ないんですよ! |
色々な事をごっつ我慢しながら生きてるっていうのに、まだ来ないんですよ。定期を買う為に途中下車せねばならなかったのだが、そこで降りると本屋があったりするわけで、いけませんなりませんおやめになってと一生懸命に自分に言い聞かせていたのも、今月は断固として本は買わないぞ、来月はわからないがと予め心がけていたからなんです。それでも帰ったらきっと良い物が来てるからと思いつめれば、それを拠り所にできようものですが、今朝方はきっと今日来るに違いないと思う気持ちが八割だったところが、帰る時分には実のところ「これだけウキウキ期待しているんだから、今日着いてなくてガッカリする方に三千点」という気持ちの方が八割に逆転していたわけです。
何それ!?なんでそんないやらしいことを考えるのかしら!? 非常に珍しく期待に胸高鳴らせているのがそんなに気に入らないの!?
と、自分でも思いました。 電車に乗ってから降りて、そしてのたのた歩いて帰ってくる間中、来ているかも、来てないかも、希望と諦めの間を行ったり来たりし、私の心は千千に乱れておりました。 来てるかも。来てないかも。アスファルトの造作すら目に入りません。 こんなに忙しなく思いつめているのは、ここ数日の間に来るに違いないからなのです。だって既に発送したという連絡があったのですもの。
大人しい心持は、もう来ると決まったようなものなのだから、別段明日でも明後日でも良いじゃないかと、こう申します。しかし明日ではいけません。明日は七時あたりから二時間もホンコワがあるからです。これは見なければなりません。私は今夏において諸般の事情でただの一度も怖いテレビを見ていないので、せめてこればかりは是が否にも見たいと固く思い定めているのでした。
さらに昨日、私は自分の住んでいるこの家が壊れかけている事を思い出してしまったのです。もう何年も、毎日毎晩、ビシッバシッバキッ!と酷い家鳴りで、あんまりにもデカイ音なので、こんな恥を知らない派手な騒音がラップ音とやらのわけがない、きっとラップ音というやつはもっと楚々として粛々としたものに違いない、だって風情が無いじゃないかと、ノミの心臓の私でもはっきり思うほどでした。 それでも、あれほどの轟音は何がどう鳴っているのかまではイマイチわからなかったものの、そのうちには天井が膨らんできている事に気づかざるをえませんでした。住居の天井は細長く切った板が十六枚ほど並べて釘で打ちつけてあるのですが、その板が各々自分勝手好き勝手に膨らんだり撓んだりして、打ち付けられた釘を自力で引き抜いているわけなのでした。私はあっちからこっちから眺めて、天井のアチコチに隙間ができ、それが次第次第に広がっているかのような様子に気づいたのです。
それはたいそう宜しく無い眺めでした。 隙間の向こうに暗闇が見えます。時々は、狭間から何とも知れぬゴミをぶら下げて蜘蛛の糸が垂れたりもしてまいりました。そうすると私は、その狭間の奥にはただならぬ空間が浩浩として開けている事を思わずにはいられないのでした。 天井の裏。 私は天井裏の事を思うと、いつも父に聞いた昔話を思い出します。
父が知り合いにタダでくれてやった田舎家は、その昔は屋根が藁葺きでした。藁葺きであるからには、やがて草臥れきってしまうので数年に一度は全部葺き替えねばなりません。そうして屋根の藁を剥ぎ取ってしまうのですが、そうするとそこには山のようにムカデちゃんが住んでいらして、たいそう往生こいたそうです。 私はゴキにもましてムカデちゃんが嫌いです。実家に戻った際に、朝起きた親父さんが「寝てる間に首をムカデに噛まれちゃった☆」等とのんきに報告してきた際には、親父さんがムカデをマフラーにしてる姿などを想像しては、ムカデの前に親父に火を放ちたくなるほどです。 それほどにムカデが嫌いな私は、その昔話を大変に恐ろしくおぞましい話として聞きました。そして私は藁葺きで無くとも、天井裏にはムカデにいるに違いない気持ちでいるのです。もしムカデがいなくても、きっとげじげじがいるに違いありません。げじげじがいなくとも、ゴキは隠れ住んでいるに決まっています。私がどれだけ殺虫剤を焚こうが、それは所詮六畳から十畳用に過ぎません。よほどトンマなヤツでない限り、危険な煙がやってきたら、天井裏を通って隣の家や隣の隣の家の天井へ逃げ延びて、すっかり安全になってから戻ってくるに違いないのです。そんな風に想像します。 とにかく足が沢山あるやつらが日々を営んでいそうなのが屋根裏なのですよ。 そんな屋根裏が目に見えています。嘆かわしい。
私は次期には大家の息子に申し上げて直していただきたいとは思っているものの、こんなぼろい家をあまり派手に直すぐらいなら多少奮発して立て直した方が賢いのではとこちらが思っているほどなので、あまり強烈にぼろいことを強調するような事はしたくないのです。 だいたいこういう家の屋根が落ちかけている時に、誰が直してくれるものか(大工?)、それが如何ほどかかるものかサッパリわかりません。いっそ壊して若者に人気の出そうな新品に建て直して、そうであれば立地条件は素晴らしいからには太公望が釣竿をたらすよりも明らかに軽々と容易く入居者を集め、そして当然ながら家賃を相応しく値上げしよう等と考えるかもしれません。そんな事を簡単に考えそうな顔をしています。しかしそんな事をされては、このこれから益々厳しくなりそうな風潮の格差社会を低空飛行で乗り切ろう等と言う心積もりの私は、また安いところを探さねばならないのです。安いところを探すのはまだいいのですが、安いところが何があるかわからないのが恐ろしい。この家の良いトコロは安さの理由が見るからにわかるところなのです。
そういうわけで、直すぐらいならば壊すと言うのなら、踏み台とトンカチだけ貸してくれれば自分で誤魔化す所存でいるわけです。ただ私は直すより壊すほうが得意で、特に直そうと努力したら壊すので、そんな明らかに直そう等というつもりでいたら壊してしまうかもしれないと心配です。
そういう諸々の心配事が天井を見るたびにわきあがり、昨日も天井を見てが不穏な心持になっていたわけですが、そんな時に、きっと明日は良いことがあるに違いないわと気を逸らして、そしてその明日あるに違いない良い事というのはツーハンが届く事だったのです。
私は家に帰りながらも、家に帰ったら天井は今日もヤバイという事を思い出し、本当は床も壁もやばいのだが、特に昨日熱中した天井のやばさを忘れるには是非とも物が届いていて欲しいと希っていたのです。
それが届かないとしたら誰の所為でしょう。
私は無論、吉日発送したという連絡をよこした所が嘘をついたかもしれんとも疑っています。それは発送したという連絡が来た瞬間には、疑いました。私は疑いを忘れようと努力しました。人を信じようと努力しました。 物流センターから発送と言います。物流センターの場所が乗っています。隣の隣の県です。北海道や沖縄や外国からではなく、隣の隣の県から来るからには、もういい加減来るべきでしょう。 嘘つき! 悪いのはトラックかも!○○○急便かも!何故隣の隣の県から来るのにそんなに時間をかけるのか。途中で降りてビールでも飲んでるのではないか。私が自動車学校に通ってた時、スクールバスの運転手は途中で無言で突然止めて降りていって缶ジュースを買っていた。その昔、私が親父とタクシーに乗っていたら、運ちゃんは朝の五時過ぎで他に車が一台も走ってないからって、突然無言で脇に寄りもせず道路のど真ん中で止めて、ドアを開けたかと思ったら路上に吐きやがった。
こうやって散々に文句を打ち殴って気を鎮めていたら、
今頃になって電話がかかってきて、
大家の息子ったら、なんだかアタシの荷物を預かってるんですってよ!
…私はアナタ様のコトはけして好きではなくて、どっちかというと好きでなくて、時々金盥で頭を殴りたいときもあるが、しかし胸を張って生きていても良い人間だと本当は思っているのよ。こういう瞬間しか告白できないけれど。だから貧しい顔などと打ちかけたのは年老いて理性が失われて性の露になるまでの心の秘密にしようと思っていたが、正直に謝ります。私が悪かった。言いすぎならぬ思いすぎだった。アナタ様はたぶんとても善良な人間で、それは勿論おおよそは間違いないところだとは思うのだが、ただ少しばかり不憫で不遇で、それを無視できないでいるだけだろう。 今少し優しい気持ちになった。
タイトルに偽りアリ。 幸せな心持ちになったら腹が減ってきた。帰ったら見ながら食べようなどと夢を膨らませて買ってきて、帰ってきたらブスくれて冷蔵庫に放り込んだサンドウィッチがあるのだ。
ツーハンしちゃった! もう心配で心配で。だってまだ届かないんだよ?!(注:申し込んだのは昨日です)だからツーハンは嫌なんだ。心配のあまり人様に電話。 「まだ届かないの!もう二時間も経つのに!」 「当たり前じゃないの」 浮き足立ってるんだよ。仕事中も浮き足立って無意味にターン。 一度も見たこと無いのにイキナリ買っちゃった私!どうしよう!くるり! ああん!くるり!いやん!くるり! 心が翻弄されている様子を目に見えるように表現してみました。
「あの凄く高いのを!?」 と突っ込まれましたが、違いますだ。それは高すぎるので心の肩慣らしに安く手に入るほうにとりあえず触角を伸ばしてみました。そっちはそんな勢いで買えるような価格じゃないわよ。度胸がいるわよ。いや、度胸は勢いか。 嗚呼心配だ心配だ。
さっきニュースをパラ見していたら、<牛乳は有害説に波紋広がる>と出てましたね。件の発端になったらしき本は以前新聞広告で見かけた覚えがありますよ。タイトルだけ見て哲学系の本かと思ってたんだが、そんな「あれは駄目これは駄目」系の本だったのだな。 そんな実在の物質名をあげるような本は「オカンには読ませたくない本百選」のベストスリーに入りますよ。 …「病気にならない生き方」なんて、そんな不健全そうな生き方をして大丈夫なのかがまず心配だよ。
| 2006年08月12日(土) |
なかなか満たされない。 |
それもまた良し。
キーボードが壊れたりしてますよ。動かないキーが幾つか。方向キーとかなんで誤魔化し誤魔化し。 相変わらず人外への愛を回収できてません。レンタルに置いてないという事で、「この野郎!」とこの炎天下県内を地道に走り回っています。いやだってね、アレはあってアレは置いてないってどうよ!?よーく考えよーお金は大事だよーという事で、よく考えなくたってお金は大事だ。よってなるべく使わないように、低価格で身代わりに愛せるものは無いかとボチボチ探索中。嗚呼ダメね、無理だよね。 いややっぱ好きなのよ。
ほら、こう周期的に人間が嫌でたまらなくなる瞬間が来るでしょう。リアルロボットものよりファンタジーが好きなんで、「かえって人間くさい」といえばそうなんだけど、何がポイント高いかって顔に表情が少ない、特に目に表情が少ないところだ。特に人間の何が嫌かって、主に顔を見るのが嫌なんだよ。感情をベローンと顔に表して漏れ漏れさせてるアレが苦手なのよ。苦手っていうか嫌って言うか気持ち悪いっていうか気色悪いって言うか血管切れそうっていうか。ああ、なんてこったい。ダメダメだ。人として。
まず人間の目がむかつくわけです。期待とか要求とか懇願とかをじっとり乗せた眼差しが特にあきません。「キモッ!」で、いきなり平手打ちをしたくなります。もうその辺は性分なんで致し方ありません。性分というより反射神経みたいなものよな。ぐっと我慢で根性焼き。ジュウ。
人が泣いたり落ち込んだりするのが嫌いだと言うのは、「そのものを目の前から抹消したくなる」というのが正直なところだ。世の中の不幸な人々がいなくなったらよいというのは、正確には不幸な人々が幸せになって欲しいという事ではなく、不幸な人々の顔とか言動とかを見るのが物凄く嫌いで、できれば爆弾とかで一気に気持ちよく吹き飛ばしたいという思いだ。その点だけならきっと清清しいだろう。自分が落ち込んだら閉じこもるのは爆弾で一気に吹き飛ばされないように身を隠しているのです。 爆弾が爆発する記録映像なんかを見ると、「こうやってどっかーんと不幸な人間達が一発で全滅してくれないかしら」と密かに悪い事を思いますが、爆弾で吹き飛ばしても不幸な人間達は一掃などされず、かえって増殖することがわかっています。よってそれは色々どうかと自分でも思っており、人間が散らかったら汚らしくなって、私は汚らしいのは嫌いなので、遠回りだが、ぶちぶち不幸が幸福になる事によって私の目の前からある意味で消え失せてくれないかと絶賛期待するわけです。
ちなみにロボットが散らばったり散らかるのは大好きです。ロボットの四肢欠損はラブラブ大好きです。てゆうか、アレはエロスだよ。きゅんきゅんします。機械が壊れると、どきゅーん。まあなんてことでしょう破廉恥な。嗚呼駄目ときめいてしまう。 特にもだえ苦しまれてしまうともう駄目。なんてことでしょう。顔は変わらないのに苦しんでいるもよう。嗚呼そんな!嫌なの?嫌なのね?嫌なんだわ。なんてこと。嫌なんですってよ。まあどうしましょう。本当なのかしら。よくわからないけど本当っぽいわよ。もっと色々嫌な事をされていただきたい。 色々大変です。 助けが来ると嬉しいと同時にガッカリですね。もうちょっと見ていたかったかなーという。でもそれぐらいが潮時よね。こう、「ちょっと足りない」腹八分ぐらいが良いんだ。明日に続く希望!というか。まあもうちょっと見るにはテープ巻き戻せばいいからな。破廉恥ディスク〜☆
↑こういう時に、「自分は人間の顔に表情がモロ出するのが妙に生理的に嫌いなところがあってよかった!これは不運というより幸運だ。私がヤバイ系の犯罪者にならないための天からの贈り物に違いない」とシミジミ思う事があります。倫理的とか道徳的とか理屈以上に、生理的に強烈なストッパーが組み込まれているという事だからな。
しかし幸不幸というのはよくわからないけど。
此間人と話してたんだよ。 私「宝くじはね、買わなきゃ当らない、買わない限りは確率がゼロだって事はわかってるんです」 人「そうですよ!買わなきゃ当りませんよ!」 私「でもですね、買ってみようかなと思うたびに、もし宝くじが当ったら一体どんな感じだろうと思うんですよ。一億とか当ったらどうしよう、どう使おうとか色々想像するじゃないですか」 人「良いですよね。何しようかなあ」 私「まだ当ってもいないのに夢が膨らみますよね。でも正直、考えるんです。もし当ったらですよ。もし買って、そしてありえないとは思うんですが、万が一にも一億が当ってしまったら?もし当ったら、○さんは自分はどうなると思いますか?」 人「え、どうなるんだろう?人生が一変しますよね」 私「一変するでしょうね。…私は、もし一億当ったら、駄目になります」 人「駄目になるんですか?」 私「なりますね。今よりもっと徹底的に駄目な人に。手に取るようにわかるんです。だから当ったらマズイんですよ。それで買えないでいるんですよ。当たると決まったわけでもないのに、てゆうか当りそうに無いのに、万が一に当った心配をしてしまって…」
だから私より人間の出来た友達が一億当って、豪華客船で世界一周の旅にでも招待してくれないかしら?という更に無さそうな夢を見ている。
いやだって私、もし一億なんか当ったら抱え込んで離すまいとしようとするような気がする。なんで高が一億の為にそんな不自由な人間にならねばならないのかと思うと、その一億を払うから心の平安が欲しいと思う。そんな金は一刻も早く手放すべきと思うんだが、しかし簡単に手放せるかというと微妙なんだよ。せっかく手に入れてしまったら、どうにかしてある程度まとまった金を手元に残したいとか思ってしまうに違いない。残してどうするのかって、別にアテはない。普通は当らんのだから、当らないなりに一生を送らねばならないというのに、もし当ってしまったら、それが無い状態で生きることは考えがたくなってしまう。「金である」というだけで、「これがあったら楽が出来そう」とか思ってしまう。どこでどう楽するのか想像できないのに。ドブに捨てても、後で困った時に「今アレがあったらなあ」と、詮無い事を思ってしまうに決まってる。不幸の元だ。もし当っていなければ、「今宝くじが当ったりしちゃわないだろうか?」という前向きな方向に迷えるのに。それも当ってさえいなければただの夢物語で、仮に無い金で無理に宝くじを買って外れて一文無しになっても「やっぱりそうよな」と笑って済ませられるのに、それ以前に一度でも当ってしまったら最後、現実的な発想のような気になってしまい「投資に失敗した」ような気持ちになってしまう。賭け事と投資は違うわけよ。 結論としては、そういうまとまった額の泡銭は持ちなれない凡人が手にしてはならないのよ。少なくとも私は駄目だ。上手く遊べそうに無い。金に遊ばれてしまう。
私の成長は乳幼児で止まってるのかもしれません。ゼロ歳児からの絵本ブルーナちゃんだったかは幼児向けとは思えないほど思いっきり無表情ですが、アレはゼロ歳児から一二歳までは顔に豊かな表情をつけてても、理解できないからなんだそうです。単に理解できないというより混乱するんだったかな?要するに黒い丸ぽちが横に二つ並んでさえいれば良いらしい。きっと私の趣味はそこで留まってるんだよ。 顔にぐっちょり表情が出るより、仕草とか声のトーンとかちょっとしたところで感情が漏れ漏れしてるほうが「キャ☆キャ☆」と好きなんですよ。 少なくとも、車のライトやサイドミラーやらワイパーやらは猫耳より萌える。
こないだ、…人間を動物に例えたらイカンと幼少期に言い聞かせられた気がするがそれはそれで置いといて、顔がガラパゴス諸島のリクイグアナに非常に似ている人がいて、もろめちゃ好みだったのでどうしようかと思った。うっとりだよ。凄く人間離れ。いつまでも見つめていたい御尊顔です。あの顔が忘れられません。しかもよく見ると眼鏡をさかさまに掛けていた。かっこよすぎる。あげく物凄く似合っていた。リクイグアナが眼鏡かけている顔を思い浮かべてください。似合いすぎる。
関係ないが、近所のコンビニの店長さんは中年太りの上に頭髪も薄くなった見掛けはその辺のただのオッサンだが、喋ってビックリ物凄く声が良い。声優さんというよりオペラ歌手にでもなるべきだったのではという深みのあるベルベットのような耳障りが最高の低くてよく伸びる声をしている。密かにファンなので、そこのコンビニに行ったらさりげに店長にレジを打っていただきたい心持。店長の美声で会計をしていただき、ありがとうございましたーとか言われると、オプションで良いもの貰った気になってホクホクになる。
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