非日記
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| 2006年06月25日(日) |
もう六月は終った気になっていた。 |
まだ後一週間ぐらいあるじゃないか。
カップヌードルのフリーダム。 やっぱりアニメ(セルDVD)なんだな。なんだなというか、なるんだなというか。広告は結構前から見てたんだが「だから結局なんなんだよ?」とさっぱりわからず、秘密にされたり言いよどまれたり理解不能だと「じゃあどうでもいいわ」となってしまう私は思い切りどうでもよくなってしまっていたんだ。 あの絵を見ると、どうもアキラを思い出してしょうがない。なんかアキラのカネダを思い出す。「カネダみたいな性格なんじゃね?」という気がむしょうにする。そんで中学の時に友達が「よおよおカネちゃんよォ〜?」とよくいい気になったテツオのマネをしていた事が思い出される。私はカネダもテツオもイマイチで、断固アキラ君が良かったと思うんだが(特にアキラ君のアニメ出演が一瞬で、しかもバラバラで、だのに堂々とタイトルのままなところがメチャ格好良い。「だからタイトルのアキラって誰(何)なんだよ」と見ながらずっと思わせておいて、やっと出たと思ったら一瞬で終了で思い切り意味不明で超不親切設計でありながら、よくわからんがスゴイっぽいと強く印象に残り、アキラ君はタイトルでよろしいと思わせるところが。私はテツオが文字通り弾けたところとアキラ君出演の瞬間しか覚えてないぐらいだ。)、お友達はテツオが気に入っていたような気がする。 あ、ちみっと思い出した! テツオの声が当時同人界でフィーバーしていたアニメのなんか優しげなキャラの優しげな声を演じていた声優さんで、それと「カネちゃんよお」のギャップにうけていたような気が!ん?それともテツオには親近感がわく一方でカネダのいい気になりぶりがむかつき、たとえ一瞬でその直後に破裂でもカネダを見返す事ができた瞬間がテツオの人生の中で最も輝いた瞬間であり感動的であるとかそういう感じの理由だったろうか。 あのアニメは丁寧なつくりで(確かあいうえおの口の動きがちゃんと作ってあって、そういう緻密さが話題になったような)なんとなく面白いんだが(注:原作は未読)、長い原作を無理やり二時間アニメにした無謀さにより、特にアキラの意味不明度はナウシカの巨神兵をうわまわるほどで、まあその意味不明さが言ってみれば純文学を読んでの「意味わからないけど深いっぽい。これを読んでいるといつか賢くなれそうな気がする」と感じさせて文化のカホリをさせてイイとも言えなくも無いんだけど、好きかと問われると微妙な気持ちだ。 あの頃はまだサブカルチャーなんて言葉は無かった気がするわ。
最近読んだので人様に音読してやりたいと思ったのは新潮文庫の「笑う食卓」。いつもなら、いつも音読の餌食にしている人様に即座に電話するところだが、最近日記を書かないほどにちょっぴりニヒルな気持ちなので(ニヒルを履き違えてます)、先に音読したい箇所(これは笑えるだろうと自信をもってオススメする箇所)を予めピックアップして準備万端整えてから尚音読したかったらにするかとチェックしてみたら思ったより多すぎて、二時間ぐらいの長電話になりそうなので考え中だ。 いや、これは面白かったよ。直ぐ読めるし。おすすめ。
>> ところで妙な夢を見たんだ。 そう、それを記録しておこうと思って立ち上げた。
あるところに「世界で一番ふわふわと不幸な男」というのがいた。 夢の中でそう言っていた。ギネスにのってるような感じだったと思う。私はその「ふわふわ不幸」の意味がわからなくて資料を調べたのだが(この「私」というのは誰かわからない)、古い新聞に載っていた若い時の写真を見たところ、どこらへんが太鼓判を押されるほどの「世界一不幸」なのか全くわからん感じの風貌で(どこにでもいそうな顔で、半裸でしまりの無い体型をさらし、ジャングル奥地の原住民みたいな恰好をしているのがどこかちんちくりんで滑稽だった。)、それをもってして「ふわふわと不幸」なのかしら?と意味不明なまま納得した。 その世界一ふわふわ不幸な男は単にふわふわと不幸なだけではなく、想像を絶する凄く大胆な手段で砂漠化が進行していた森林を復活させたらしい。大胆な手段はよく覚えていないが、確か地盤をまるで布団を敷き換えるようにペロンと入れ替えていたような気がする。粘土層がどうとか言っていたような…。 何者かわからない「私」は、どうやらその手法が実際に一体どのようなもので、他の地域でも可能なものなのかの検証に向かっていたようだった。
で、彼が復活させたという森林に会いに行ったわけよ。彼はそこに森林を復活させた後、森がなくなりかけて散り散りになりかけていた現地の人々を呼び戻し、ついでに世界中の居場所の無い人間を拾い集めて(というか勝手に来たらしい)人里はなれた森の奥に集落をつくり、そこの首長になって暮らしているらしいのだ。 なかなか会えないんだな、これが。何故会えないかというと、首長には家が二つあり、集落の端から端へとよく移動しているんだ。東と西の各々の一番端に家があるらしく、それぞれの場所に奥さんがいるらしいんだ。つまり奥さんが二人いる。世界一不幸なくせに嫁さんが二人も居るなんておかしいと思わんか?おかしいよな。彼のどこらへんが世界一不幸なんだろうとずっと不思議に思っていたんだけど。
その二番目の奥さんの方がちょうど集落の真ん中あたりまで出てきていたんだが、この人はいかにも凄い美人なんだけど、目が一つしかない。目が一つといっても片目が無いとかじゃないんだ。普通二つある目のちょうど真ん中あたり、鼻筋の真上に一個だけ大きな目があるサイクロプス仕様だった。しかし美人なのは美人なのよ。 そんで私は彼女の横顔を眺めて、「あー、一つしか目が無い人の横顔ってのはこういう風に見えるのか」と物凄く感心していた。 普通横顔では鼻筋があって、少し引っ込んだところに目があるだろ。違うのよ。横顔の輪郭線上に目があるんだ。ちょうど横顔の輪郭線を描きながら眉間にあたるあたりに眼球のカーブが来るという。 こんな人は滅多に見られない、私は生まれて初めて見たなどと感心していたら、そこにもう一人の奥さんも来たんだ。どうやらもう一人の方が正妻らしいんだけど、この人もすごい美人で、んで目は二つあった。 そこで私は、もう一人の方は目が二つあるんだなあと思った。 「一人は目が一つで、もう一人は目が二つあるから、それで二人も奥さんがいるのか」と何故か納得した。
私の夢の中の設定ではな、どうやら正妻の方が性格が悪いねん。目が二つあるせいで威張ってるんだ。世界で一番ふわふわ不幸な男は本当は目が一つの愛人の方が好きなんだけど、社会的立場?の為に目が二つある奥さんをもらわねばならなかったらしい。そこらへんが「ふわふわと不幸」になんらかの関係があるらしいんだが…
よくわからんまま目が覚めた。
「(音信不通なので)何やってるのかと思った」と言われ。 元気に生きてましたとも。あ、そういえば生きてるらしいよ。
最近変わったことと言えば、私はぷにっとしてきた。ぷに。ブニでも良い。 平たく言えば肥えた。また、肥えた。また! 「太って見えないから大丈夫」と人は言うが、見えるか見えないかは問題じゃない。衣服の締め付け具合で感じるんだ。「若い人は直ぐ太った太ったダイエットって気にするわね」と人は言うが、太ったら服を買い換えなければならないのよ?それは経済的不安の少ない共働きの中年にはわからない。私は結婚の合理性は経済にあると思っているのよ。
例えば私は将来を見通し、一人で二人の老人を介護する可能性を考えると、「介護疲れで親や伴侶を殺害したという事情はとても他人事ではない。私なんか介護が必要な親を二人とも放逐して一人楽になろうと首を括りそうだ(他殺なら二人殺さねばならないが、自殺なら一人殺せば済むので比較すれば合理的)」と憂い、そういう時に結婚の二文字が過ぎるんだが、冷静により現実的になれば、しかし仮にそうして結婚したとして、おそらく夫となる男性は同じく私が彼の両親を介護することを期待するであろう、すなわち結婚した場合に私は「一人で二人を介護しなければならない」から「一人で四人を介護しなければならない」という究極の状況に追い込まれる可能性も同じようにあると思われるのだ。 別に私が無理に介護する必要も無いんだが(できなければできないし、ヤル気がなければやらないだろうが、万が一ヤル気が出たりしたら困る。)、少なくとも自分が楽をしようというつもりで結婚を考えるなら、相手もそのつもりかもしれない事は(例:「僕が苦労して外で稼ぐからアルツハイマーの両親の介護は一手に引き受けておくれ」)わきまえておかねばならないだろうと思う。天涯孤独や兄弟の多いのを見繕ったとして、後々どうなるかはわかったものではない。 少なくとも、初めから楽をしようなんてつもりで重要な選択したらろくな事になりそうにない。それぐらいなら「私は老いた両親は富士の樹海に捨てて自分は老後を刑務所で過ごすつもりである」ぐらいの覚悟をしといた方がまだしも現実的だ。
だいたい私の美意識と現実観察において、結婚というのは、そのように計算づくで行うものではないんだ。お友達がお友達の結婚に「なんであの男と結婚するんじゃあ。どこが良いんじゃあ」と全く理解不能な様子だったが、「私達にはわからないどこか素晴らしいところがあるんだよ」とありがちな応答をしつつ、私が思うには元来結婚というものは「理解」するものではないんだよ。大体よく考えてみなさいよ。もし結婚相手のよさがその嫁さんの如くわかったらよ?素直な祝福はできると思うか?「その横に立っているのは私であるべき」と思うだろう。その瞬間から「昨日の友は今日の敵」だ。友達の夫のよさが全く理解できないというのは、神に祝福された理想的で素晴らしい事なんだよ。私は力んで訴えるよ。 友達や知人の男の趣味が理解できないからといって困ることは何も無い。強いて言えば愚痴が鬱陶しいだけだ。
「矢口さん、浴衣を貸してあげますから、いっしょに夏祭りに行きましょうよ!」 「えー?あなたと私で?ちょっといやだなー」 「どうしてですか!私は出会いが欲しいんです!」 「一人で行けば良いじゃないですか。あなたよく人に絡まれるンでしょ?私も絡まれるんですよ。二人で倍率2倍ですよ。おぞましい。大体、出会いを求めるのはいいですが、元彼との関係を清算してからにしたらどうなんですか」 「だって寂しいんだもーん」 「めっちゃ寂しくなった方が何としても彼氏を捕まえるぞという必死さが原動力になって良いんじゃないですか。中途半端な関係を維持したままだからアソコが嫌だココが嫌だと本気にならないんですよ。そんな事では捕まるものも捕まりませんよ」 「だってきっぱり別れてしまったら寂しすぎるじゃないですか」 「さみしすぎる!ケー!」 ↑このように鬱陶しい。
今私は洋物映画で富豪のオバサンがしばしば肥えてる理由がわかる。つまり彼女は「食うものに不自由してない」だけでなく、なおかつ「着るものにも不自由してない」事を全身で表現しているんだ。
さて、私は大人しくしている間も真面目にお仕事をしていました。問題は業務自体というよりも職場の人間関係かもしれない。要するに働いている人人の各々の価値観や意識が違うのが問題なんだが。 ここ半月は特に私の担当エリアや隣接エリアが諸問題の渦の中央になっていて(発生源は隣接エリアだが)、私も関係者として引っ張り出されて終業後も居残って上司への訴えや交渉などをさせられてたのだ。
無関係な人間「いい加減にはできないのね」
それは私ではない。私はいい加減にしても別にいいんだけど(会社としてはいかんのではと思うが、会社の姿勢というのは偉い人が考えるべき事だと思います。偉い人に「いい加減にせよ」と命じられたら、上意下達で素直にいい加減にするが正当と思いますよ)、いい加減にできない人人から「どうしてヤツはいい加減にするのか。きちんとするように言ったらどうなの」と何故か私が責められるのが鬱陶しくて嫌なんだ。女の方が多いが、おばはんというのは姦しくっていけません。 「そこはアンタとアッチの問題だろう!なんで私が仲介せねばならんのじゃ!アナタが直接自分で言うべきだろうが!」とぶち切れたら、いつのまにか渦の中央付近にいたわけです。 ありー? ちなみにそっちの問題はけりをつけた。 人「どうしてそんな条件になったの!あなたそれで良いの!?」 私「向こうは何も言って無いよ。良いのです。それは私が自分で言い出したの」 人「なんで!?」 私「あんた達がキッチリしろとうだうだ煩いからジャあー!これ以上無くキッチリしてやったのよ!」 実際に問題が起きれば、このシステム自体か、もしくは指揮系統に問題があると判明するだろう。私達が現場の最下部で個人的に鋭意努力して帳尻を合わせている以上は、問題はそこで隠蔽されてしまうんだ。もっと上に動いてもらうためには問題の存在と所在を白日の下に晒さないとな。私は叔父さんみたいに一番下っ端でありながらトップに相手を批判する長文レポートを送りつけて閑職に飛ばされるなんて覇気のある事はできない小心者なんだ。
そこは勝手にけりをつけたんだが、相変わらず随所で小競り合いが続く。 常に怒りと不満に満ち、人も争う事を楽しみにしている同僚が(注:人品に問題があるわけではありません。つまり人が影で文句を言いながら表立っては理不尽を甘受しており、自分だけが文句を言って上司との折り合いが悪くなるという更に理不尽な状況に不満がある。つまりキチンとした真面目な人なのだ)又聞きに教えてくれたところによれば、こんな楽しい言い合いもあったらしい(↓)。
上「そういう事は察してもらわなければ困りますッ!」 下「私は超能力者じゃないので察せませんッ!」 ♪戦うーたーめー生まれたー♪(初代とらんすふぉーまーのEDテーマをバックミュージックに)
さすがだー(笑)。 普通に考えて、一度掲示したシフトを開始して暫くしてから黙って変更しておいて、「見ててもらわないと困る」と文句を言うのは一方的すぎてどうかしらんと思うよ。まちがいなくまわるようにと考えるなら、「変更した箇所があるから気をつけて」と声ぐらいかけるべきだろうと思うよ。大体以前にも同じ人から「勝手に黙って変更されてても気づかない」と言われていたはずなのに。 いや、本当はわかっています。 一番上に「伝えてあるから大丈夫」と言われた人が「こういう事らしいですが聞きましたか?」と確認したら「私はそんな事聞いてない」となり、「伝えてあると言われた」「そんな事を言われても聞いてない」と末端で言い争いになり、聞いて無いといわれた方が「伝えたから大丈夫だと言われたのに、聞いてないそうです。いいかげんな事を言わないでください」と一番上に訴えたせいで、一番上から上が「連絡がなされてないと文句を言われたぞ」と怒られたんだろうよ。怒られた上が「私はちゃんとしたのに!」と腹を立てて、それで上記のように「察しろ!」「連絡しろ!」になった。 『変更することが頻繁にあるので毎日気をつけてみていてください』とでも言うならまだしも、『(滅多に無い変更を、しかし今日はあったであろうと)察しろ』とは何事かと思うが、しかし私には「超能力者じゃありませんから」なんて皮肉でユーモアがある機転の利いた言い回しはとてもできないわ。さすがだ。
先日は父の日だった。 私は人様からいただいた現在在住している地域で使用できない商品券を贈りつけて「これで好きなものを買うがよろし」とかましたろうかと思ったのだが(親父が「結婚祝いに一番喜ばれるのは現金だ」と正しいことばかり言って面白くないので)、その商品券を手放してしまうといつか復讐するつもりだった事を忘れてしまいそうなので(いつか何かの祝いに贈り返すつもり)、やめておく。
私「今日は父の日らしいが、何も送ってないからね」 父「いいよいいよ。皆が健康に暮らしているのが一番のプレゼントです☆」 私「あら、随分殊勝な事を言うじゃないの」 父「うっふふふふ」 先月の母の日も何も送ってないからな。
よく考えてみたら、先ごろ旅行した際の土産に夫婦茶碗を送りつけていたのだった。父の日と母の日はアレで良いのではなかろうか? しかし件の茶碗は届いた途端に電話がかかってきて、「何故私の方が小さいのか?」と母親から文句が来たのだった。それは私の故意に表現したことではなく、単なる夫婦茶碗の仕様です。ちなみに私が夫婦茶碗にしたのは、同じサイズを二つ購入するより僅かに安かった上に、最初からセットの箱入りで送りやすそうだったからだ。 夫婦茶碗を製作している会社に、以後の先進的な商業展開のため「妻の茶碗の方が夫の茶碗より小さいのは日本の常識に残る男尊女卑である」と通報したろうかと思った。ちなみにその前の旅行で土産に何とか織りでできた巾着とハンカチを送ったら(私は巾着が母用でハンカチが父用のつもりだった)、「僕の分は何故無いのか?」と親父から文句が来たのだった。 父親と母親というモノは権力を巡って常に争い、貢物のレベルは選挙結果のようなものなのだ。
| 2006年06月01日(木) |
六月になっちゃいましたよ。 |
ボンドを聞いてるよ。 …速くて好きなんだよ。きりきり舞いするほど速いのが好き。もっと速くても良いぞ。ガンガンに速くて良い。 何かを上に向かって垂直に投げあげて、もうあがれなくなってきて段々ゆっくりに止まりそうなほどゆっくりになって、頂点で一瞬止まって、そんで段々速くなりながら落ちてくるのが好きなんだ。地面に叩きつけられる瞬間には最高速度になるのが良い。 なんというか、止まる瞬間の方が緊張するよな。押さえ込まれるというか。 あの、投げ上げた物体が空中で止まる一瞬というのは、上向きの力(プラス)と下向きの力(マイナス)の和が完全にゼロになる瞬間なのよな。それ以後では上向きの力は頂点において全て位置エネルギーに変換されてしまっているので、物体に働く力は下向きだけになる。 つまり停止の瞬間というのは、真逆に働く力が完璧に対等に働き、そして何一つにも影響を与える事のない、ただ一度限りの僅かな一瞬、という感じがするわけよ。
萌える…。 放物線も良いが、やっぱ垂直運動が一番萌えだ。紙に下から上にむかって線を真っ直ぐに引いて、止まったところに愛があるねん。全部愛なんだけど、主にそこ。どこで止めるかハラハラドキドキする。 なんの話してたんだっけか。 眠くてわからん。
えっとね、青チョークの男を読んで、これは良かった。
私は最近「世界が見えた」気がしたわけよ。 なんというか俯瞰鳥瞰図的に。
人「それだけじゃなくて、それだけというより、ただ自分の立場というか、そういうものを守ろうとしてるというか」 私「ええ、そうですね。でも皆の気持ちはわかります。その気持ちはよく。私も皆と同じ立場なら、同じようにするでしょう」 人「うん」 立場というより、心だよな。 だから、つまり私はわかったのよ(笑)
でもわかったのは違う話。 私「でも今度のコレはある意味、凄く勉強になりましたよ。世の中がどのように動いて、どういう具合でどのように動かないのかがわかった!というか(笑)」 人「アハハ」 つまりここのところ。
それで私は見たものをそれがあんまり飽和していたので胸がつかえるものだから人に言い捨ててしまいたくなったんだが、あんまり沢山を一度に言おうとするものだから全然うまく言えなかった。どうも言葉にならなくて唸ってるうちに私が単に気鬱であって言うべき言葉を捜してるとは思わなかったのだろう某が全然関係ない話題を「そういえばさ」とふり、電話をした目的を「だめだうまくも下手にも言えん」と早速諦めた私がのってしまい、それで全然関係ない話になり、「ジョディ先生が風呂に入ったのはどう考えてもオカシイ!なぜならば!」と私は一時間も力説し、「何故ジョディ先生が風呂に入った事を誰もおかしいと思わないのか!だってどう考えてもおかしいだろう!何故なら!」と散々騒いで、「そうね」と応えられて「アナタ…本当に不思議だなあと思ってるか?」と激しく疑ったあげく、そして人様に風呂に入った理由を地道に調査するように依頼したのだが、そうしておいて自分では地道にも荒っぽくも調査しようとせずに青チョークの男を読んでいたわけよ。 実はそういうわけだったのよ。
青チョーク。 なんか満足した。すごく満足した。 この歳になると、トリックというものに興奮しなくなってしまう。ミステリーを読むとなれば、「トリック?あるんだろ」という感じで、トリックがあったからと言って驚かなくなってしまう。生まれて初めてミステリーや推理小説を読んだ頃のビックリした感じが全然なくなるよな。「どうせビックリさせるんだろ?」という。もし推理小説で犯行にトリックが無かったらびっくりする。「何を推理するんだ?」と思うと…、なんだそれ凄く気になるよ。 なんというか、漱石の小説を初めて読んだ当時の人々の驚きみたいなものを失ってしまった。…知らんけど、たぶん驚いたんじゃなかろうか。遥かな昔に文学史で、初めて口語体で小説を書いたとか書かないとか教わったような…。 もしそうだったらきっと「何コレ!?未知の文章なのに、わかる(理解できる)!」という凄い驚愕があったと思うのよ。 …それで私は妙な幻想文学が面白くないんだな。確かに想像を絶したりするんだけど、「わからない」んだ。私は「想像を絶していたのに、言われてしまえばわかる(納得いく。理解できる)」のが好きなんだ。それでミステリーとか推理小説が好きだったんだ。主に「想像もできなかったのに、にもかかわらずわかる」ところが。読み始めたときにはわからなかったことが、最 後にはわかるんだよ。しかもただわかるんじゃないのよ。納得いって理解できるのよ。凄いじゃないの。
今思ったけど、推理小説というのは、算数の文章題で、答えから読むようなものよな。いきなり解答欄の解だけを見せられて、「この問題文を推測せよ」と問われるような。正確には解答欄を埋めた人(犯人)を探すんだけど、でもどっちかというと問題文と解いた式に意味があるよな。
それはどうでも良いんだが。 そういうわけで、どんな凄いトリックであろうと「フーン」という感想しか抱かなくなってしまってるので、ミステリーとしてどうかと問われるとよくわからんのだけど、小説としては凄く満足した。久しぶりに満足した感じ。続きが気になるわけじゃないのに読みたいという。いや、それは続きが気になっているのだろうか。
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