非日記
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ふと新聞の「今日の○勢」欄を見たら、他の人のところには普通に「思いも寄らないミスが。周りの人に助けてもらって」みたいな極々フツーのものだったのに、自分欄↓
「頭の中は春満開」
↑こんな事が書いてあった。なんか七月生まれ、記述が浮いてるんだけど。 …おう大センセーよ、そいつはどういう意味なんだ。「脳内のみ、アホみたいにしあわせ」って意味?なんとかしてスペースを埋めたかったの?
春と言えばおはな。 梅も桜も終ったが、他のが色々咲いている。 「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」という言葉のうち、前から知ってた百合は良いとして、芍薬と牡丹はナマで見た記憶が無かったのだが、昨年初めて芍薬を見た。それがねえ、うっとりするほど綺麗だったのだ。ほんとうっとりだよ、あれ。 「立てば芍薬」の意味がビビっと分かった。すぅっと伸びて、ふわんと咲いてるのだ。うっとりだよ。こんな上品で美しくて奇麗でしかも可愛らしい花、見た事が無いわ、こんな可憐な花が世の中にあったとは…と思ったほどだった。 それで「立てば芍薬」の形容には心の底から納得したんだが、私は元々牡丹という花にナイスなイメージが無く、「座れば牡丹」が美しい形容になるという事が、言い方としては納得できても感性として納得しがたかった。だって牡丹ってのは着物や日本画の派手な絵柄のイメージが強くて、なんかこー…私的に「美しい」って感じじゃあなかったのだよね。平たく言えば「ケバケバシイ」イメージ。美しいという感覚を強要する強引な。「美しいってのはさあ、もっとこー違う感じじゃないの?豪華そうなのは認めるが、もっと見た目の派手さじゃなくて内側からにじみ出るような〜」と思っていた。
ちなみに、百合もあんま好きな花じゃないので、「歩く姿は百合」というのも気に入らなかったんだけど。百合みたいに歩いていたらカッコ悪い感じがする。首を前に突き出すみたいで。…たぶん、単に「どちらも美しい」という点かぶせてるだけなんだろうけど、私が百合の美しさに目覚めていないせいで、「歩く姿は百合」と言われれば百合がヒョコヒョコ歩いている姿を想像してしまい、「うわあ首を突き出して振りながら歩くなんてカッコワルー」と思っていた。
そして牡丹に関して言えば私の貧困な「無駄に派手」イメージだけでなく、ナマで見たことがない上に、見た事があるのは名前の似た葉牡丹ぐらいだったので、あんな腐り損なったキャベツみたいなののどこが美しいんだ。いっそ普通のキャベツの方が健康的な緑色をしていて麗しい感じがする。しかも噛めば甘くてなんかエロスの匂いがする。いっそ「立てば大根(注:掘れば土に隠れていた白い足がにょっきりがエロス風味)、座ればキャベツ」で良いのではないか…と内内古きよき美意識に文句垂れていた。
ところが此間、生まれて初めて見たわけよ。牡丹を。
…これは凄いわ。 凄い迫力だわ。
深紅の牡丹だったんだが、赤子の頭ほどもあり、まるで匠が作った高尚な細工物のような。しかもそれがキャベツみたいに地面すれすれに咲くんじゃなくて(「座れば」などと言うのでキャベツを即連想していた)、長く伸びた先にボコ、ボコ、っと咲くらしい。 「沢山は咲かないのよね」 と育てた人は残念げに言っていたが、こんな迫力満点、にわか成金の奥さんみたいなんじゃなくて真正極道の妻みたいなのがボコボコボコボコ隙間無く咲いていたら気持ち悪いわい。
よくわかった。座ったら牡丹で良い。
ところで夢を見た>>
1) 閉店間際の人の少ないスーパーで値引き食品を値踏みしていたら、1000円ぐらいの生八橋を見つけ、どーうしても食べたくて悩みつつ買い物かごに入れた。高い生八橋を買ってしまうなら、他の値引き食品は絞った方がいいだろうか。しかし生八橋は菓子であって食事にはならない。…と、色々悩んでいたが、とりあえず一度レジで清算を済ませる事にし、後でもう一回悩む事にする。そんでレジを出、買い物袋をもったままうろうろしたが、そのうちいよいよ閉店時間が近づいたので「やっぱり止めて今日はもう帰ろう」と思った。 ところが店を出ようとしたところで、自分が買い物籠を持っていない事に気づき、「自分は店内を物色するうちに、ウッカリ間違えて、この買い物袋に清算していない商品を入れなかっただろうか?もしくは清算済みのものを店内の棚に戻したりしなかったろうか?」という事が気になってきた。思い返してみても記憶があやふやで、とことん心配になってきた。 そこで店の買い物籠からビニール袋に移す台のところで、レシートとつき合わせつつ延々と買った商品を出したり引いたりしていたら、お店の人が「どうしました」とやってきて、 「いや、私は自分が何を買ったのか忘れてしまったのです。間違って買ってもいない商品を袋に入れたかも知れないのです。それで今調べてるところなんです。ほら、このレシートがさっき私が買ったレシートでしょう?レジを打ったのはこんな容姿の人でした。ついさっきなので覚えているかもしれません。私は確かにお金を払いましたよね?私が何を買ったのかを覚えていますか?この生八橋を買った事だけは覚えているのですが、後が全然思い出せないのです」 と閉店した店内で皆で一生懸命レシートと品物をつき合わせている夢。
あー色々心配なんだ私。 常に自分は知らぬ間に何かの犯人になってんじゃないかと疑っていて、疑いが晴れないねんな。
2) 私は大きな病院に何をしてるのかよくわからないが勤めているらしく、日も落ちて何故か電気も点いていない真っ暗な病院の閑散とした待合室で仕事中のはずなのに居眠りをしていた。で、「やべ!仕事中なのに」とはっと目を覚ましたら、自分の座っている後ろに血まみれでビロビロの人が寝ていた。横を見たらやはり血まみれで包帯まみれの重症患者がいた。さらに足元にもグチョグチョの人がいた。 「何この人達!コワイ!」 とビビッていたら、皆が目を覚まして「助けてー」と言いながらすがり付いてきたので、恐れおののいた私は「お待ちください」と逃げ出してナースステーションへ飛び込んだ。そこで看護婦さんを見つけ、 「ゾンビみたいな人達がいるんですがアノ人達は一体なんなんですか!?」と、助けを求めたところ、「患者さんをゾンビみたいなんて言っちゃ駄目ですよ。好きでアアなっているのではありません。失礼ですよ」と軽く注意された。 「矢口さんはまだニュースを見てないんですか?ついさっき大変な事があったんですよ。暫くしたら大量の急患が来て、ここはあんな重症患者さんたちで溢れると思います。とても手が回らないでしょう。大変な事になりましたよ。私はあの八月六日以来です」 等と言う。八月六日と言えば、広島に原爆が落ちた日だ。
え、あなたまだ三十代にしか見えないのに。 てゆうか原爆でも、落ちたん?原子炉でも爆発した? なんか知らんけどそんな感じ? そんでここは放射能で汚染されちゃったの? アタイも汚染されちゃったの?寝てる間に?仕事サボったのがいけなかったの?
「ここは病院ですから、大した事はできないと思いますが、職員全員死ぬまでは治療と救助にあたります。がんばりましょう!」 等と言われた。 えーアタイもう死んじゃうんだ。しかも死ぬまで働かされるんか?
色々思うところもあったが、自分が間も無く死ぬことは諦めがついたんだけど、問題は、…ほんとに溢れた。 医者は足りない。ナースは足りない。人手も薬品も空間もなんもかんも足りない。なんもかんも足りないのに、次から次に救急の重症患者がところてんを押し出すように運ばれてくる。どうにならないのに、助けを求めてやってくる。うめき声と助けを求める声ばっかりの中、病院の職員が黙々と走り回ってるんだけど、その働いてる職員ももう直ぐ死ぬねんな。 えもいわれぬ「どうにもならない感」 自分が死ぬのも、人が死んでいくのも、無駄になると分かっている救命活動を続けるのも、それはそれで良い…というか諦めがついたんだけど、ただその空間がひたすらにものすごくえもいわれぬイヤーな感じだった。たとえようもなくイヤーな感じ。なんかイヤーな感じ。
私は我慢して結局何がおこったのかを号外の新聞記事で調べていたんだが、結局、何かでっかいイベントをやっていたらしい。そのでっかいイベントの何かの大きなショーで、盛り上がった勢いで、興奮した演者が何かしでかしたらしい。それで私の大嫌いな、「楽しい幸せ空間が一気に地獄絵図」になったらしいねん。 「放射能は関係なかったんか」 と思ったが、しかし省みて職場に戻れば相変わらずイヤーな感じの地獄絵図で、ちっとも気分が晴れない。直接現場にいなかった自分らは死ぬわけではなさそうだとは分かったんだが、ここにいて、そして殆ど何もできないまま皆死なせてしまい、だのに自分らだけは生き延びるのかと思うと、さらにたとえようも無くイヤーな気持ちになった。
あんまりにもイヤーな気持ちになって「こんな空間は嫌いだ!」と現実(夢)逃避の勢いのあまり目が覚めたら、夜中の二時だった。
ああきっと言いたいことがあるんだろうよ、私。自分に(苦笑) 「こんな夢を見ました」と人に話したら、「よくそんなに細かく覚えてますね」と言われたが、イヤーな夢は忘れられんのよ。イヤさを堪能しすぎて、はっきりくっきりだよ。
よくビルの隅っこで待つ際に、ちょうど良い位置に、ちょうど良い高さの、ちょうど良い感じの板張りのでかい箱があるので、「なんか知らんけどちょうどいいわ」とカバンを乗っけていたら、先日突然カッコイイ爺さんに「ちょっと良いですか?」と声をかけられた。「まあ素敵な方」と思い、「ああすみません」と乗せていたカバンをどけたら、何気なくパコっと開けよったよ!「鍵かかっとらんかったんか!?」という衝撃も受け。
中が格子状にしきってあって、一つ一つの枠の中に各々新聞が入っているようだった。なんと。新聞受けだったらしい。
すげー隅っこの妙なところに、ひどく無造作なつくりの妙な箱があるので、てっきり防災火災関係の何かの器具やら装置やらが入ってるんかと思ってましたわ。近くに消火栓もあったし。…いや普通そんなものは路上に面した場所に置かないか。でもあっても異常では無いだろうし…と、思ってたのよな。 「それにしてもナンなんだろうこれは?」と思いながらも、街中の人通りの多い場所で妙な箱をガタガタ無理に開けようとしてる通りすがりの通行人がいたら、あまりにも怪しかろうと我慢して、「たぶん何か秘密の大事なものなんだよ、これは。ひょっとしたら危険物なんだよ。普通危険物なら『危険!開けるな!』等と書いてあるはずで、なんの表示も無いから少なくとも危険物では無さそうなんだが、実はこのビルを恨むものが後生大事に設置している爆発物かもしれんからな。開けたら爆発するんかも。横に立ってるだけで爆発に巻き込まれても私に罪はないが、開けたり動かして爆発に巻き込まれたら自業自得になってしまう。私はトシ食って賢くなったねん。これは関係ない人間が開けたらいかんものなのよ。いかにどうでも良さげに置いてあっても!」と無理に納得してたんだ。 最初にカバンを乗せた時も「乗せたら爆発したりせんじゃろか?」とどきどきした。 いや、普通そう思わね? 持ち主のいない場所に箱や紙袋や荷物やらがあると直ぐ「忘れ物かテ○リストの爆発物?何かの罠かも」と直ぐ疑ってしまうものよな。道端に十円や百円玉じゃなくて札なんかが落ちてると、「何かの罠?」と疑うよな。 私がさもしい人間だからか。
しかしあんなところに新聞受けが、あんな形であるなんて。なんて無防備な。
ところで先日、飲みで、新しく来た人が五十歳だと知る。皆絶句。…三十代(それも半ばぐらいまで)にしか見えない。恐るべし。三十代四十代の女性がこぞって「私、今日から化粧するわ!」と一念発起する。 今だってしてるんだが、もっと濃くアイラインやらアイシャドウやらをばしばし引いてフル装備で頑張る所存らしい。…絶対クチだけだと思うけどな(笑)。 アレは化粧の所為とだけは言えないんだが(もともと作りが若く見える骨格だ)、人間には夢を見る自由がある。
親戚のおばさんも、五十代に見えて実は七十越えてるもんな。あの素晴らしい体系はボディスーツでキープされてるねんよ。「寄せて上げて締めるんじゃボケ!女である事を忘れたら終りじゃあ!」と婆さん言いよった。アタイ知ってるもん。 スタイルが若く見えるというのは、一つには姿勢が若い、頭を掴んで吊るしたように背筋が真っ直ぐに伸びているというのにもあると思うのよね。オカンなんか絶対にかなり早く背中が曲がり初め、さらに結構な角度まで曲がると思われる。前から気になるたびに、背中の真ん中を膝で前に向かって押さえながら両肩を後ろに引っ張ってみるんだが、騒ぐ上に、疲れると言うて伸ばさんのよな。前に曲がってる方が肺が押さえられて胸苦しい上に体重のバランスが変にかかってしんどいように思うんだけど、そんなでも無いんだろうか。肩を引いて両腕をだらっと落とした感じが絶対に楽だと思うんだけど。なんで肩が前にくにっと曲がってるんだろうか。 あのくにっと曲がってるのが気になる。
某人もくにっと曲がってるのよな。気になるー。時々無性に引っ張って真っ直ぐにしたい瞬間があるのよな。それはちょうど、物凄く綺麗に高く結い上げられたポニーテールを見ると、「あの付け根を掴んで引っ張ったらポクっと外れるんじゃなかろうか?」と湧き上がる掴んで引いてみたい衝動に似ている。
ともかく、その背筋の良さにはボディスーツの効力もあると思われるんだが、しかしそんな拘束具を常につけてるような生活は辛くって我慢できそうにないような気もする。いや、ブラみたいに部分的にじゃなく、全体に締め上げておくのは私結構好きなんだけど。 ノーブラと付けてるのとじゃ気分が違うよな。単に楽だのどうのもあるけど、気構えというか。スーツや何かを着ると気分が違うよな。ああいうのに似ている。気分が引き締まるというか。 胸から腹にかけてちょっと窮屈な服を着て、上から長めでゆったりしたコートや上着をばさっと羽織って見えなくするのが好きなんよね。なんか知らんけど。全部窮屈なのと全部ズルズルしたのだとどうもなんかいかん。ずるずるしたアンダーを着ておいて、全部のボタンは閉まらんような窮屈な上着で締めるとか、だぶだぶのズボンをはいておいてベルトで締め上げるとか、なんか両方欲しいのよな。どっかに締りや窮屈さが無いと際限なくだれていくよ、気分が。そして全部締め上げられると抵抗せなと頭に来るしな。 自制心が乏しいからだろうか。よっぽどの事が無いと気分だけでしゃきっとするのは無理。興奮するのとシャキッとするのは違うものな。
そういう意味で、あのお化粧というのは女のシャキッとなんだろうなとは思う。ここからは際限なく素では無いという心のケジメ?風呂に入ったり、寝転んでテレビ見ながら足で物を取ってたり、トイレに行ったりするするような、そういうところは見せないところという。 私は痒くて長時間は耐えられないんだけど。 本当はすべきなんだろうなというのは、実はわかってるねん。 わかってようが人間にはできる事とできない事があるねんよ。
それはともかく女って恐ろしい。 あそこまで見た目が変わるとは。私なんか十五分は誰だかわからないまま喋ってたわよ。
おかんから電話が来たと思ったら、第一声
母「知人と友人って、どこが違うと思う?」 私「は?…あんた何してンの?」 母「え?別に何もしてないけどサ。ただ、知人と友人はどう違うかって難しいと思わない?」 私「そうか?別に難しくは無いじゃろ」 母「似たようなもんか。おんなじか!」 私「アア?何言ってんの。厳然と明らかに違うだろうが。そら相手の方は知らんけどさ、自分の方では自分が知人だと思うのが知人で、友人だと思うのが友人だろ?違うだろ?普通そうだろ。いや、あんたは別におんなじにしてたっていいけどさ。好きにすればいいが。ただ私は違うわよ。明らかに違うわよ。越えられぬ一線が厳格に引かれてるね」 母「じゃあ、あんたのそれはどう違うのよ?」 私「あー?どう違うって言われてもねえ、明らかに違うんだけどねえ。そうねえ、つまり私にとって知人というのはさ」 母「ふんふん」 私「知人であるという状態においてのみ意味がある相手の事だ。それに対して友人というのは、知人であるという状態に関しての意味がより小さい相手の事かな、ウン(納得)」 母「はあ、なんだって?さっぱりわからないんだけど?」 私「何がわからんのよ?」 母「なんかごちゃごちゃ難しい事言わないでちょうだいよ。あーなんだって?知人というのは?」 私「難しくは無いだろう。簡単に考えなさいよ。だーかーらーねー、ちゃんと聞いとるんじゃろうな。知人というのは、状態に意味が、というか状態にのみ意味があるんだけど、友人の場合は状態の意味はあまり無いわけよ?わかる?」 母「わかりません。なにがなんだかわからないんだけど?」 私「もー、じゃあもっとわかりやすく言うならねぇ、そうねぇ」 母「そうよ、そんな抽象的なんじゃなくてさ、もっとわかるように簡単に言ってちょうだいよ」 私「抽象的になんか言ってないよ。具体的に言ってるだろうが。じゃあさらに具体的に言うけどさ、まあ要するにだ、(略)、つまり結局のところ知人というのは、相手を嫌っている場合に相手を嫌いである事を隠さなければ失礼になるような相手であり、友人というのは、知人の場合とは逆に、相手を嫌いである事を隠す方がかえって失礼になるような相手だ。具体的には大体そんなものね。核心はね」 母「また小難しい事を言い出した。何がなんだかごちゃごちゃしてるんだけど」 私「どこがごちゃごちゃしてんのよ?すっきりしてるじゃないの。知人の場合と友人の場合は正反対になってるでしょうが。それぐらい違うのよ」 母「いや今、すごくごちゃごちゃしてる。知人が?は?なに、嫌いな相手で?」 私「いや、そうじゃなくて…、いやもうソレでもいいや。さらに簡単にもう荒っぽく大雑把に大きく二つに分けてしまえば、知人というのは好き嫌い関係なく勤まる相手だが、友人というのは嫌いではなかなか勤まらない相手なわけよ。これなら、なんとなくわかるだろうが?友達で嫌いなやつはいないだろ?」 母「そんな事言われたって、あたし、友達いないもん」 私「いないんか?一人も?」 母「いないわね」 私「さすがだな!あんた友達がいない人間は比較的早く死にしやすいんだよ。統計で出てる。気をつけな」
さすが『孤独を愛する孤高のナルシスト』の母親なだけある。何を威張ってるねん。王者の風格だよ。王者というよりもはやエンペラー?私に並び立つものはこの世に一人もいないってか。「支配ではない。私はただ、管理したいだけだ」なんてかっこよすぎだっつうの。忘れんぞ俺は。おまえは独裁者か。
母「私、好きな人はいないんだけど」 私「一人も?」 母「いないわねえ」 私「そりゃまた、サミシイ人間だねえ、あんた。ほんと一人もいないわけ?」 母「そりゃあ良い人ねえと思う人はいるけどさ。好きってのとはねえ」 私「あー、良い人ってのは確かに好意とは違うな」 母「違うでしょ?あんたは友達は好きなわけ?」 私「(ぐうッ!)そらまあね。嫌いだったら自分の中で友達区分には入れられんよ。私には無理」
クッ!負けるな私!やつの挑発に乗ってはいかん!すげー勢いで脳内ブーイングの嵐だが、わかってる。わかってるから皆まで言うな! 多少違ってもかまうもんかと思ったのに、なんて物分りの悪い女だ!
母「好きってどういう好きなわけよ」
てめー私に喧嘩売りに電話したんだろ?なあ、そうなんだろ?それともこれはイジメ?イジメなのか?
私「あんたね、本当に一人もいないわけ?話してると楽しい相手とか付き合うのが楽な相手とかさ」 母「そういうのはあるわよ。そうのが『好き』なわけ?」 私「まあ大体そんなもんだろ。知るかそんなの」 母「なるほどねえ。そういうのを『好き』って言うわけか!」
好き好き言うな!おぞましい! 今そんな単語を友人カテゴリに合わせると、速攻でぶっちり血管切れるねんよ私は。暴れだしかねんのよ。もう既に電波を飛び越えておまえを殴りたいよ。 こいつの頭の中では、人間に対する好感や好意は恋愛におけるものしかないわけか。なるほどねえ。
好きとか嫌いとか言うとニュアンスが違うというか、語弊があるんだよな。平たく完璧に表現できる言葉を選べば、「どうでもいい」がピッタリなんだけど。ただ私の場合は一般的な「どうでもいい」相手というのも、やはり「どうでもいい」になるんだよな。ついでに嫌いな相手も、やっぱり「どうでもいい」なんだよな。この「どうでもいい」が微妙でありながら全部明らかに違っているんだが、自分の中でそれがどのように厳密に厳格に分かたれているのかを説明するのがとても困難なのよ。強いて言えば色が違うというか明度が違うというか何が違うて言っても。 そうねえ…、 友達の場合は、清らかにどうでもいい。 嫌いな相手の場合は、憎憎しくどうでもいい。 どうでもいい相手の場合は、果てしなくどうでもいい。 …か?これで人に分かるもんなんだろうか。いや、色々細かく違うんだよ。友達の場合は殺すのを躊躇うしな、嫌いな相手の場合は殺すのを躊躇うし、どうでもいい相手は殺すのを躊躇うんだ。…妙だわね。まるで全部いっしょに見えるわ。いや、違うのよ。躊躇う理由の出所が違うねん。だから、友達の場合は自分のためで、嫌いな相手は自分のためにで、どうでもいい相手は自分のタメにも、…て、またいっしょになってしまってる。実に不思議。何故こうなる。何故こんなにも違う事がいっしょになるんだ。だから違うんだって!あーなんでこの明らかに過ぎる違いを言葉にできないんだろう!
<略>
母「つまり自分を向上させてくれる相手を友達に選ぶって事ね」 私「違わあッ!何を言ってんのよあんたは。向上するのは自分だろうが。向上するなら自分が主体で向上するべきでしょ。『向上させてくれる相手』とか言って、何を相手にまかせきってンのよ。『あなた頑張って私を向上させてちょうだい』て言うわけ?何を甘えてんのよ。するなら自分でしろ」 母「あ、そうかそうか。自分が頑張らなきゃいけないのね」 私「そら頑張るとすれば自分だろう。当たり前だ。自分の事を他人が頑張ってどうすんのよ」 母「だけどとにかく、いいところのある相手じゃないと友達にはなれないわけよね。要するに、相手のいいところを探さなきゃいけないわけよね!」 私「なんでわざわざ探すのよ?そんな頑張って探す必要はないだろ。だって、別にいいところって言ったって、そりゃ探せば誰にだっていいところってのはあるもんなんだから、探したら必ず見つかるに決まってるんだよ」 母「あるの?誰にでもいいところが」 私「あるわよ。要は解釈の問題なんだから、解釈をひっくり返せば良いだけだ。良くも悪くもどっちともとれるわよ。だから良いところがあるかどうかなんてのはそもそも問題じゃない。そんな必死になって良いところを探す必要は無いだろう。必死にならねばならないなら止めて置いた方がいいんじゃないのと私は思うけどね。いや、探したいんなら探せばいいけどさ。そら勝手にすれば?」 母「あんたは?あんたの友達には良いところがあるわけ?」 私「そらあるわよ。失礼なやっちゃな」 母「それは探したんでしょ?」 私「なんで探さないかんのよ?めんどくさいが。探す必要なんか無いだろう。探さなくたって見えるもの」 母「見えるの?」 私「見えるわよ」 母「あたしは(自分の知り合いに良いところが)見えないんだけど?」 私「別に見えなくたって良いじゃないの。見えないと問題があるわけ?」 母「無いけどさ。でも友達だったら良いところが無いといけないんでしょ?」 私「何を決めてんのよ。誰も『友達には良いところがあるべきである』なんてそんな事は言ってないだろう。友達かどうかなんて個人の勝手だろうが。全部あんたの好きに決めてればいいじゃろうが。単に私の場合は相手を軽蔑したり見下しながら友達だと思うなんて、そんな器用な事はできんというだけの話よ。私、簡単な人間だからさ。簡単なのが好きなのよ」 母「相手を尊敬するわけね?」 私「尊敬?うーん、まあ部分的に?」 母「あたし、尊敬する人いないんだけど」 私「一人も?」 母「いないわね」 私「さすがね!」
<略>
母「あたし、皆に矢口さんと話してると和むわーって言われるの。それで皆が色々話してくるみたいなのよ」 私「ハン!そりゃアレだ。どうせ自分の考えてる事や感じてる事を全部が全部は正直には言ってないんだろ?うちで親父さんや私に言うみたいにはさ」 母「そりゃあそうよ!当たり前じゃないの!」 私「だから和むなんて戯けた評価が出てくるのよ。うちで話すみたいに思うままに喋ってごらんなさいな。誰も彼も蜘蛛の子を散らすように逃げていくわね。間違いないわ。保証するわよ」 母「はははは」
<後略>
ちなみに、
知人=たがいに知っている人。知り合い(ヤフの大辞泉) 友人=ともだち(ヤフの大辞泉) ともだち=互いに心を許し合って、対等に交わっている人。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人
…文句があるわ。脳内ブーイングが起こっている。一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人程度で「ともだち」にされてはかなわん。例えばこの記述では、「一緒に遊んだりしゃべったりする親しい人」が、皆、「互いに心を許しあって対等に交わっている人」であるかのようではないか。 だいたい「互いに心を許しあう」って何?意味わかんねえ。 今度誰か友達にも聞いてみよう。こういう暇そうな話ができるのはアレか。まず 「例えば私とお姉さんは友達だと思う?」 からスタートだな。 「私とお姉さんは心を許しあってるの?」 …気が狂ったと思われるよ。
既に答えが聞かずとも聞こえるようだ。 「友達?そうなんじゃないの?」と向こうが答えるかもしれない。それで私は「そうだよな。友達じゃないとは言えないよな。知人よりは親しいよな」と納得し、「知人よりは親しいかな」と向こうも納得する。そんで私が「それじゃ私とお姉さんは心を許しあってるわけ?」と聞く。すると、「はあ?心を許しあってるってのとはねえ…」と眉間に皺を寄せる感じ。 そんで私が、 「そうよな。心を許しあってるってのとはなんか違う気がするだろ?」 と答える。さらに私が 「ところがね、辞書によれば、ともだちというのは<互いに心を許してあって>いなければならないのよ。そしたら心を許しあってない私等は友達じゃないって事になるじゃろ」 「ホホホ、そうなんだ」 「実はそうらしいのよ。私達、実は友達じゃないんだ!知らなかった!うっかり友達だと思ってたよ!」
なんかこれ、前もやったような気がする。あれはどっから来たんだっけ。ドラマの話からだったかしら?
とりあえず、ここ三日は、十五分毎とか二十分毎に 「タスケテ」 「ハナシヲキイテ」 「ツライ」 「クルシイ」 などと言う「…おいにどうせろってや!」的一言メールがぷつんぷつん入ってる…などという思わず笑うしかない恐怖体験は無い。ボロボロの体に鞭打ってン時間付き合っただけある。友達でもないのに!(←非常に重要)随所で「私とおまえは友達じゃないな?友達じゃないだろ?わかってるな?頼るなら家族、すがるなら病院に行け」とサブリミナル的にしつこく刷り込んできたしな。 超頑張ったゼ、アタシ! 破格の待遇。それもこれも私の平穏な生活のためだ。二十年前なら未遂者(直後。治療中)だろうが「それがどうした!」で構わず罵り倒している。私はなんて丸くなったんだろうか。自分で自分に感動する。
と、満足して短い休暇に倒れふして爆睡していたら夢を見た。
「休日にダラダラ何もせずに寝てるなんて人間の風上にもおけないやつ!」と侮蔑に満ちたまなざしでメッサ叱られる夢。
「なッ!だってアタイは超疲れてるんだよ!?休み無く延々と勤務が続いた上に、仕事の後で何時間も付き合って神経の磨り減る思いをしたんだよ!そんでまた明日から連勤なんだよ!疲れてるんだよ!眠いんだよ!たまの休みなんだから少しぐらい心安らかに好きなだけ寝てたっていいじゃないか!なんでそんなに私を責めるんだ!そんな…そんな人間のクズみたいに!私にどうしろっていうんだよ!トドメを刺せって言うんか!無茶苦茶言うなよ!」 と、号泣してる夢。 目が覚めても夢と現の区別がつかずに悔し泣きしているうちにまた寝ていた。
ええ、わかってますテクニカルな技術を駆使して偽りの言葉と偽りの態度をかます偽善に満ちた嘘つきな自分に絶賛不満があるんだよね、私。「何故真の姿を偽るのだ?」と、そう言いたいのだ。 言われなくたって、よくよくよっくわかってます。そしておだまり。つまり私には私の考えがある。 「血管切れるまではその場その場をしのぐ」という実にシビアで冷静で地に足をつけた現実的な考えが。 いわば要は忍耐よ。こういうのはヒタスラ忍耐だ。 今は忍耐の季節なのよ。こうやって耐え忍んで、まとまった期間同じ職場で業務を行える社会性と協調性あふるる人品卑しからざる人間である、けして反社会的で危険思考をもった雇うにリスクの高い人間などではないという社会的信用を、ここでざっと軽く稼いでおく脳内予定なのだ。無駄遣いしすぎてカツカツなんだからな。
私「…というわけで今の私には、しばしここに留まる事が是非に必要な事なのよ。けして移動するのが単に面倒くさいからだけではないわ!」←友達も複数住んでるし好きな地域に近いのだからXX県まで出てくればいいじゃないの、なのにそんな不便なところにいつまでも一人で居るなんてのは、アンタのことだから単に動くのが面倒くさいからだろう等と言われた。 ママン「あんた真面目よねー」 私はいつも真面目なのよ。ま、一番の理由は単に凄く面倒くさいからなんだが、それを言ったら色々オシマイだろう!「けして面倒くさいからではない」と日々自分に言い聞かせて心の下準備をかかさない私だ。
そんなわけで、 気分良い一日の終わりにあたって、先に人様からいただいた謎のDVDをやっとかけてみる。「テレビ番組をPCでDVDに録画するにあたって、その練習用につくってみたものだ」という話だったのだが。 「中は何が入ってるの?」と尋ねても、「見ればわかるわよ」という話だったので、言えぬようなものか…と、私は密かに「お友達が私の藁人形を神社の御神木に打ち込んでるシーンが延々参時間続く」とかそういう呪いのDVDかもしれんと、念のために疑っていたのだ。勿論「どうせ言えぬようなものなら、やらしービデオが良いな」と思っていたが。
→見る。
…なーんだ。世界遺産関係。私の好き系統じゃないか。
新聞読んでたら「五黄の寅」という言葉がさりげなく書かれてあり、今まで人生の途中で耳にした事がある「ごうう(ごおうorゴー)のとら」というは私の耳が悪かったのであって、五黄(ごおう)の寅の意であったかとようやくたどり着き、長年の謎が晴れてたいそう興奮しましたよ。 「ごううのとらって何さ?」と尋ねても、「なんかそんなのがあるんだよ」等と軽く流して誰も説明してくれなかったからですよ。年寄りはよく人文系的に博学で、話していると私的に謎の言い方をするので気になる。
先日はやはり年上の人が「桜切るバカ、梅切らぬバカ」等と言っていたな。これは聞いたことあった気がする。 そういう古くから言われてる言い方が、なんとはなしに耳に心地よく響き、カッコよくて好きだ。ただ私はあまり本も読まないので、知らぬことが多くて寂しい。
ごううのとらは、「とんでもないママン」が「そういう人間だから仕方ない」ことを堪えて納得する、納得させる(説明する)かのように出現していたので、「よくわからんが要するにこういうとんでもないヤツのことなんだな」と思っていたのだが。これが行間を読むというやつよ。
うきうきとネットに向かい、検索してみたら簡単に出た。 出た出た!嬉し!
要するに、五黄は強くて寅も強くて、相乗効果で凄まじいって事らしいな。 よっくわかったよ! 「丙午の女」みたいな迷信俗説の類らしい。これまでに耳にした時にも、迷信俗説であるがゆえに(本人がそうと思って、冗談、洒落で言ってる事なものだから)、故意に子供相手に誰も得々と説明はしなかったのかもしれない。謂れ無い差別を教えるかのようで、「それは何?」と無邪気に聞かれたら戸惑ったのかも。 冗談やギャグの解説をしないのと(解説したらシラける)似たところもあり。冗談やギャグって、倫理的人道的道徳的に極めてきわどいのが多々あるものな。 真剣に考えれば、「何言ってんねん!」でいきなりどつく(殴る)ってのは、危険な暴行犯としか言えない。ツッコミを体に入れる漫才を見た子供に、つぶらな瞳で「どうして人を叩くの?幼稚園の美鈴先生が人を叩いちゃ駄目って言ってたよ」等と言われたらどうする。言ってる事は正論ゆえにまいるよ。こっちが「助けて神様!」って気持ちになるよ。 常に正しいことが正しくは無いのだ…と人並みにもまれて既に腐れ果てたおばさんは思います。
とにかく一つ知識を得た。 役に立つわけでもないが。
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