非日記
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あまりパッパヤ〜♪とならない人なのでアレなんだが、楽しゅうございました。 旅行もよいのだが、通りすがりに滅多に会わない友達に会うのもよろしいよ。半分は延々とこの先五十年ほどの話をしていて、楽しいのかナンなのか微妙な会話だったような気も客観的にはしないでもないような気もするけど、私は楽しゅうございました。結局いつもどおりだった。 あー、今度こそ海外旅行の話を聞きたかったのにー。 何故いつも全然違う話をしている間に時間が来てしまうんだろう。てゆうか、私等ほんまによう喋るよな。
んで、自分旅行。
私「後一回は来ないかん」 人「私は後五回ぐらい良いわよ」 私「私は二三十回ぐらいでも良いよ」←同意を得たのでより正直になった。
そんな感じにさ迷い。 某嬢はアレだけ痛い思いをしたというのに(見てて殆ど苦行)、尚そう言えるところが素晴らしいです。 「ろくな目的も無いまま土地を無駄に徒歩でさ迷い歩きたい!」と志した時に即断した、「そんな予めいかにもヤル気の無いプランで誘えそうな人間は(時間的余裕を加味しても)あの御方しかおるまい」という判断は正しかった…と後後まで繰り返しシミジミ思いました。 いや、そう思いつつ、行ってみれば、結構行きたいところが「寄るか」と湧いて出て、慌しく歩き回った上に、間に合わなくてタクシーに乗ったりしたんだけど。
最初に土地だけ決めて、 「どこか行きたいところあるの?」 「別に。あんたこそどこか行きたいところ無いの」 「別に」 と遅々として何も決まらなかった事が嘘のようですね。
私が突然そこへ旅行に行きたくなった原因は、完璧に「『その』土地を踏んでみたい!」という秘密のオタク心だったのだが。それで恥ずかしいのでどこへ行ったかは秘密。 いや、マイナーである以前に、ソレが好きだと言って何故そこへ行くのかがきっと人にはわからんから、どこへ行ったと場所ぐらい口にしたって構やしないんだけど、なんか知らんが恥ずかしいねん。そんな破廉恥な事、公共の場ではとても言えませんよ。
しかし行ってみれば、心から腐女子関係なくなっていたのが旅行のミステリーだよ。常々いろいろな事を忘れがちな自分が、腐女子であることすら忘れたのが驚きだ。これが「旅行するとリラックスする」というやつなのか。確かに、長時間にわたる狭い視野と情熱的な空想とを可能にする集中力というものが散漫になっていた気もする。脳みそが「私は誰?ここはどこ?あれは何?」状態になってんだから。 ただ、寝るときには、もはや習慣のように「んン?新しい展開を考えたぞ。〜が、〜で、〜が、〜と思ってるという時点から始めたらどうかしら?それで、〜は、〜が、〜と思ってるのを察すると、〜と思って、〜になるのよ。それを〜は、〜と思うだろう。ん?ちょっとよくないか?こっちの方がスムーズに展開しそうじゃないか?これならば〜は、問いたださずにはいられない気分になるかもしれん。てゆうか、なってもらおう(また失敗の気配)。さすが旅行!気分が変わって新しいネタが湧き出すな!ウン!これはイケそうだ!私の脳内的に目新しい感じだから、これまでの二の轍を踏まずにいけるかもしれんという淡い期待が!」等と考えていたが。
戻ってみれば、連勤に次ぐ連勤のシフトを発見する。 …ウ、体力仕事なのに。 「上はもはやシフトに頭を使うのを放棄したようですね」 つい一言言ってしまう。 しかしこの系統の仕事にしては断然楽な方なので、文句を言ったらバチがあたるかもしれん。それに今月は色々融通してもらったしな。つーか、かなり気を使っていたのに、インフルエンザにかかったのが屈辱だ。 私が一番若い部類だし、加えて人様は子持ちが多く、四月は入学式やら親の会合やら色々あるだろうし。自分独身で人付き合いも少なく、融通を利かせるのは家庭持ちより遥かに楽なので、そういう時にはこっちに回してくれてよいよ(あまりにも無茶なシフトでなければ)とは常日頃から思ってるには思ってるんだ。
むむむ。致し方ない。再来月の素敵シフトを夢見つつ、前半は倒れておこう。ハ!?再来月は五月ではないか!公休が多いに違いないよ!
五月…いいな、五月。 しかし私は今月、上澄みを使い果たした感じ。大人しく、大人しく。布団の中で想像力の限界に挑む旅をしようっと!
どーして私はこう、いつもいつもくっつけた途端に、激しく面白くない気分になるんじゃろうな。「…つまらん」気分に。「終わった」という充実感とか爽快感すら無いよ。 して、橋本ナニガシによる評論みたいなものを読んでいたら、こんな事が書いてあった。内容は全然関係ないので、終らせる事に成功して惨めな勝利を得た私を抉ったそこだけ抜き出すと↓
<<ここで明白なるミスを二度冒している。(略)この描写は明らかな間違いである。何故かといえば(略、この登場人物は)こういう考え方、感じ方を絶対にしない人物だからである。(略)これは小説の作法としては致命的なミスである>>
ぐさぐさ(突)ぐさぐさぐさぐさ(刺) 針の入った茶を飲んだようだわね。 そうなのよ、同人二次創作(CP捏造)の無謀な蛮行(致命的なミスをあえて冒す)はここに始まるのよな。そして苦しみは始まる。素手で密林に分け入って、風土病におかされて熱に浮かされながら夢に見た楽土を目指すが如し。「ラピ○タは本当にあったんだ!」等と感激しながら、死に際の妄想やねん。
私は「絶対にこうはならない(この二人はカップルになりえない)」と密かに確信してるんだよ。「だから」、自分に向かって「いや、それは万に一つの可能性であってもありうる。可能だ」と証明しなければならない必要にかられて書かずにおられなくなるわけよ。 そしてくっついた瞬間に、「いや、ありえねー!」と絶叫する。そんな「いかにもありえない事」が何故起こったのかと言えば、そうなるべく原型の改変や改竄や破綻や異常や失敗が累々と山積みにされたからだ。カードでタワーを作っていって、頂上に完成の一枚を置いた瞬間、その虚偽の重さで瓦解する。
くっつけようと鋭意努力している最中は良いんだよ。 言ってみれば、「自分の事を好きになってもらいたいな」と思って、身奇麗にしたりプレゼントしたり耳に心地よい言葉で口説いてみたり態度で優しくしたり色々するようなものだ。そこまでは良い。しかし「それがために」「好き」になられては、駄目なのよ。 それでは自分以外の人間(対象)は存在しないに等しい。つーか寂しすぎる。
「くっつけよう」として、「その結果くっついた(くっつけた)」と感じるから(そんな風にしかやりきれなかったので)「何もかもが全部、全然駄目気分」になっちゃうんだよ。思うが侭にしようとして思うがままになったのが駄目なんだ。思うが侭になって欲しいと望んで思うがままの結果にならなかったなら、それを許すことはできたんだが。
私は切実に求めた対象(捏造カップル)を、求めた結果(カップル)にしたがために、捏造にすぎない事を、「ありえない」と確信している自らに明瞭にしてしまって、失った。 「こんな事になるぐらいなら、初めからくっつけようなんてしなければよかった!」というやりきれない気分に激しくなる。
人様の創作物(捏造)なら良いわけよ。それは私を「説得」しようとしているわけではない。それは「捏造された」のではなく、私が私自身を説得するために結論を先に出しておいて後は意図して妄想捏造したのではないという一点において明らかに一つの異なる事実なわけよ。作者による最初の世界とは別に、別の作者による「別の世界(パラレル)」として存在しうるわけ。それは妄想の世界ではなく、別の世界として私は見る。そこには原作とは異なる別のルールがあって、別の前提があり、それに準じているだけで虚構ではないのだ。原作を真と位置づけた時に、偽になるだけで。私が原作を知らずにパラレルを読める原因だ。その時の原作は教科書か、もしくは参考資料になる。 ところが自分で捏造すると、途端にそれは虚偽にまみれてしまう。
何が致命的に虚偽かというと、結論が虚偽なんだ。 例えば心理において言えば、「そういう内心はありうる」と思える。見えないだけで「ありうる」のだ。それはただ作者によって表現されなかっただけで、キャラが作者から独立して作品世界に存在するのであれば、ありうる。何がしかの事件やエピソードを捏造したとしても、それは描かれなかっただけで「ありえた」と思える。可能性の一つとして、それは描かれることもありえた展開だったと思える。ところが、結果として例えば「カップルになる」という「事実」を生じさせると、それは「ありえない」のだ。見えなかった部分(心理や感情や思考)は存在させることが可能だった。が、見えるものは存在させることはできない。
原作のあるキャラをAとするだろう。 AにはBという感情や思考が隠されて「ありうる」。そこで(A+B)とする。Aという原作のキャラにBという特殊な事情(特徴)を付け加える。 Aは、Cという事件を経験した「かもしれない」。そういう事実は、原作においてはまるでなかったが、しかし可能性としてはなきにしもあらずだった。そういう展開は「実際にはしなかった」だけで、「ありえた」。そこで(A+B+C)になる。重要なのは、ここまでではまだ辛うじて「A」という原型が含有されて存在してるという事なのよ。だいぶ変形してきてるけど。つーか、かなり変形してるけど。 ところが、そこでDという結果に至る。その時、A+B+C→Dになる。なんという事か、このDは明らかにAを含まない。Dという事実を得た瞬間に、「Dという事実を持たない」Aは、「Dという事実を持つA」になれず、「Dという事実を持つ、Aではないもの」になってしまう。なぜかというと、このAがDという事実は持たなかった事は私に自明だったからだ。であるからこそ、BとCはそこに付加される必要があった。
だから本当は「A+B+C」までで止めなければならない。だけど私は始めからただDに至らせるためだけに捏造してきたわけで。もし私が、Dを事実として持つAに至らせようとしなかったなら、AはただAでありさえすればよかったんだ。つまり私は書く必要はなかった。AをAのままにしておくためには、書いてはならなかったのだ。 せめて「A+B+C=D」でなければならなかった。つまり「心情はあり、事件はあった。だがそれが何だ、それでどうなったという『新たな』事実はそこに出現しない」という状態にして、そこで留めておけばよかった。 例えば、「片思いの状態が完成形」という事よ。「ある、原作において伏せられた感情や思考」があり、そして「ある、原作では描かれなかった箇所」があり、そしてその状態で、「原作において伏せられた感情や思考の変化」があり、そしてそこで終り。そこまでは全て客観的に「見えない」ので存在できる。
いや、私の目にはそれは原作に近似だ。どっちかというと解釈の問題だろう。あまりにも個性的にすぎる読み方をしているだけだ。それで満足するなら、なんの問題もない。
それはつまり結局どういう事なのか?というと、AにはBとCという付加があり、そして例えば相手のキャラA’にもCという「あったかもしれない」事件があったとする事はできても、それによってAとA’の関係は「変化をしない」という事だ。A’にも勿論、B’とCは付加することができるが、同じ理由でA’は「Dという事実を持つA’」という存在にはなれず、「Dという事実を持つ、A’ではないもの」にしかなれない。
いや、私は「変化」させたかった。 しかし変化させた時、それは変化したAではなく、「初めからAではなかったもの」になってしまったのよ。勿論それでも一つの話としては成り立つかもしれないのだけれど(注:中身が力技でこじつけられ破綻している私の駄目さ加減をオール無視すれば)、でもそれは、私がやりたかった事ではない。
…「変化」しなかった事にすれば、どうよ? Aに付け加える「ありうる」事情として予めDを含ませておいたらどうよ?つまり(A+D)にしてまうわけだ。これならば、Dという事実を付け加えておきながら、Aでありえる。 …それが可能なら、私は自分を説得しようとする必要(=書かずにおられない)はなかったんだわよね。私はそれを「ありえない」と思ってる。「ありえない」と確信するほどに、「あってほしい」と思った。「そうあった」なら、「そうあってほしい」とは望まなかっただろう。それはわかっているんだけど。 くるりーくーるりー♪ なんて切ないんだ。
…もっかい初めから遊ぼう。 A+B+Cまで楽しく捏造して、そして「ありえない」Dを出現させて、そこで一気にガッカリするという定められた道程を、しかし「これはDへ向かっているの!」と信じていられる(それは確かに向かってるのだけれど)希望のある間、やがて初めからなかったのと同じになる一時の快楽のために。だってマイナーなんだ。自分で遊ぶしかない。 …なんであんなにイイ感じなのにー!!! ああ!身もだえするー!
日記書いてみる。よれよれ日記。 飲み会と言いながら二人しかいない素敵な愚痴パーティ。
てゆうか、帰ったかと思ったら突然仕事中の職場に電話してこないように。呼び出し式なんだから!無駄に知っている個人情報は秘密に決まってるので誤魔化すのに激しく苦労しただよ!
そして疲れてるのに疲労をおして呑まないように。
「矢口さんは私の彼氏なんだから他所へ行ったら駄目よ!」
いつそんなものになったの私?先生、あたしすごく怖いわ。この人にはアタシの胸に宿る父の姿が見えないのかしら? (最近の自分心コネタ「男には下半身に息子がいるけど、女には上半身に父がいるんだわ!」)
「エレエレ〜(嘔吐)」
きゃあ!いきなり吐くな! そして一時間介抱。翌日が休みなら徹夜で付き合ってもいい…ちゅうか諦観できるんじゃが。
しかし別に怒っちゃいないのに謝られると困る。怒ってないから許しようが無いというに。 とりあえず予定時刻より遅れる事は明らかだったので、連絡が来る予定だった親に電話しておく。が、
私「もしもし私。ポチですけど」 父「違うじゃろ」
違わん!(怒) こっちがよほど腹立つ事しきりだ。そんなナイスやりとりは認知症まで待てよ。予行練習かえ?
「殿、大変でござる!喉が血が出たでござる!いかがいたしましょう!」 「騒ぐな、側頭葉が痛いのじゃ!喉から血が出たといっても、ただの咳のしすぎであろう。大事無い。大体、○×先生はインフルエンザ薬のタミフルと解熱剤しか処方してくださらんかったのじゃ。いかがしようもあるまい」 「では、ではもう一度先生のところへ行って炎症を抑える薬でも調合してもらっては…」 「えい、くどいやつ!わしは貧乏なのじゃ!皆まで言わせるでない!誰か酸っぱいものを持て!」 「は!?殿はまさか酸味の強いもので痛覚を麻痺させる気では!?」 「それがどうした。やはり檸檬が良いかのう」 「おやめくだされ!またそのような傷口に刺激物を塗りこむようなマゾマゾしいマネをして、余計悪化させたらどうされますか!」 「何がマゾマゾしいマネか!昔から我が家系では伝統的に傷口は抉るしきたりじゃ!」 「そのような禍々しいしきたりはお止めくだされ!せめて塩水になさってはどうかと…」 「塩水?うむ、塩水にするぐらいなら温めのお湯に塩を溶かしたものの方が良かろう。我が家では伝統的に故意に嘔吐するとき胃液で喉を焼かぬようにという作法にもある」 「はいはい、嘔吐の作法云々は別として、その方がよろしかろうと存じます」 「しかしな、食べ物がそろそろ底を尽いておるのじゃ。わしは買い物に行こうと思う。お主に止められたからではないが、檸檬を買いに行くためではないぞ。みかんぐらいは買うかもしれぬがな」 「むむむ、一人暮らしとなれば致し方ありませんな。私もお供いたします。あ!いけません、殿!その無防備な恰好では!殿は封印されている身ですぞ!」 「おう、そうであった!○×先生の診察でインフルエンザの結果が出た直後に、はいこちらをどうぞとすかさず口から鼻に封印を施されたのであったな。」 「は、今の殿は病原菌でありますれば、当然の処置かと」 「こやつ…!もう少し歯に衣を着せてまいるどに申さぬか!」 「は、今の殿は差しさわりのある身の上でありますれば」 「腹立たしいやつよ…!うむ、これであるな。む、良く見ればこれはサージカルマスクではないようであるな」 「サージカルマスクは高いのでございましょう。というか、殿、そのような事はどうでも良いことでござる。おや、殿は何をなさっているので?」 「うむ、病床で体重が減ったかなと思ってな…。むむむ、何故増えているのだ?ろくに食べてもいないというのに!」 「なんと、殿!病人が減量など!」 「しようとして、したくてしていたのではない!ただ普段なら病気のたびに肥え太るわしであるが、此度は珍しく食欲が無かったのでな。意図せずして努力もなしにウッカリ容易に減量がなされたのではないかと淡い期待を…!だのにこん畜生めが何故全く減っておらんのじゃ!」 「恐れながら申し上げます。まずその半纏を縫いで、セーターもせめて一着は縫いで、履いてるズボンも一本は脱いだ方が計量はより正確になるのではないかと…」 「おお!そちの申すとおりじゃ。着込みすぎであったわ。…むーん、期待していた程ではないが、ちょっぴりぴり介程度は減っておるようじゃな。もっと劇的な効果を期待しておったのじゃが」 「鏡を見れば肌艶もよく、まるで毎日サウナに通っていたかのようにぷりぷりしてきている事は明らか。十分以上の睡眠をとった上に、ヨーグルトやビタミン類が豊富な健康食生活を送っておりましたからな。大体、殿は39度五分の発熱状態で、雨の中夜間一時間も歩き回った挙句、薬局のお姉さんに『もう症状は納まってきているようですね』等と傍目に言われるほど熱に強うござる。ちょっとばかり高熱が続いたからといって見るからにやつれる事を期待するなど、病気で苦しんでいる人々に失礼でござる」 「むー、わしは自分ではひ弱だと思うのじゃが」 「殿がひ弱だったら世の中の半分は既に虫の息でござろう」 「いや、わしだって十分に苦しんでおった。そんな気がする!」 「まだ完治してもいないというのに、もう忘れたのでござるな」 「主に寝ておったからな。忘れたのではない。単に覚えておらんのだ…う、急にサシコミが!」 「はぅ!やはりあの四日も前に作ったスープが!?」 「まさか今更腐っていた等と言うのか?」 「とんでもございません!腐ってなどおりませなんだ!ただ、多少傷んでいたやも…」 「辞書を持てぃ!新解さんで介錯しちゃる!」
という感じに、朝から晩まで寝てばっかりです。極楽ですね。 まだ時々頭痛もしますが、普段の頭痛と違って側頭なので、なんか気分イイですよ。まあ今月はずっとバタバタしててスケが詰まってんので、はやめに倒れてよかった。 確か来週飲み会にOKしちゃったような気もするし。彼氏と別れたばっかりの子が相手なので、きっと私的にひたすらめんどくさいそういう愚痴がメインになるんだろーなーとか思い、昨今の恋愛事情を調査に巷に繰り出しました。若い子にはついていけんからね。いや、私は同年代から年寄りにもようついていけん時も多いけどね。 すると例によって占いがあったので、ポチポチやってみました。こういうの本当頭使わなくて良いな。
悪女裁判>有罪・恋愛禁止三ヶ月処分 「はぁ?」と思ったものの、よく考えなくても別に良い子ではないので、妥当なラインかもしれない。 「あなたの悪女レベルはちょい悪程度。おそらくただ自分に正直なだけなのでしょう」 うむ、私は常日ごろから自分に正直でありたいと心がけております。
恋愛検定>上級 「あなたは男のホンネに関してかなり深い読みを持っています。」 恋愛偏差値>75 「あなたは間違いなく恋愛玄人です。かなりの経験値と熟練した技を持っていますね。」
「やったー☆」ともあまり思えないのは、何故。どこでそんなに経験値を荒々しく稼いだんですか私は。やっぱりロマンス小説とエロ本の濫読が良かったのかな! てゆうか、恋愛の「玄人」ってのはなんだろう。
| 2006年03月08日(水) |
絶賛インフルエンザ中。 |
インフルエンザなんて高校受験以来だよ! なに、これは更新せよって天の声?(違)
自分でも、「これはありとあらゆるインフルエンザの兆候を備えている」と思っていたのだが、お医者さんにも「まず間違いないでしょう!」と太鼓判を押されました。普通十分ぐらいかかるらしい検査が二分ぐらいで済んだからね。先生も学生時代のサンプル実験みたいで面白かった事でしょう。 無邪気に喜ぶお若い先生がまぶしかったです。目がシバシバしてしまい。 噂のタミフルを貰って帰りました。
ようやっと熱が三十八度代まで下がってきましただ。 舌が馬鹿になってしまって味が全くわからんかったのですが、ヨーグルトやプリンや野菜ジュースや液状物質で誤魔化していたところ、さすがに腹が減ってきました。熱が下がってきた所為もあると思われる。
昨日なんぞは薬を飲むためにレトルトのおかゆモドキをもっさもっさ食っていましたが、これが不味いったら無い。味が全くしない上に、なんか「おえー」て感じです。 私は病気になっても基本的に食欲が減退するという事は無いので、よくドラマや映画やマンガや小説やらで見かける、看護人が病人に「食べられるようだったら少しでも食べなきゃ」等と言うシーンが生まれて初めて理解に達しました。いや、子供の頃には家族に看病してもらってそういう事もあったはずなのですが、私は幼少期から食べることが嫌いだったので、常に「食べろ!」と大上段の命令系で、なんかそういう「優しい気遣いの雰囲気」があったようにはなかなか思い出せないのですね。 そういう事で、全く味がせず吐き気がし気分が悪くても、「薬を飲むためにも食わねば」ともっさもっさ食う事になんの違和感も感じない。いっそ懐かしさすら感じました。「あー、なんかアタシ、小学生の時こんな風に生きてた〜。今思い出したぜ」みたいな。そう、食事というのは、本来食べたくなくても我慢して食べるものなのです。
昨日までは、およそ一時間につき一分ぐらいしか起きていられなかったのだが、今日は気分が良くなってきたので、なんかもぞもぞ遊び始めました。これ、このように。
そういえば子供の頃は病気で寝てるのが暇でたまらなくて、こっそり本を読もうとしたら没収されたのでした。ギャアギャア騒いだら、どうしても読みたいのならと言って、マンガ雑誌を買い与えられたのです。忘れもしないナカヨシとヒトミですね。たぶん。「あおいちゃんぱにっく」と「殺人よこんにちは」が載っていた事は覚えています。 今時分もちょっと本でも読みたいなと思わんでもないのですが、さりげない頭痛が私の邪魔をしているようです。しかしインフルエンザというやつは、五日間は出勤禁止ですからね。熱が下がっても禁止ですからね。つまり後半戦は遊んでて良いという事だよな。
親なんぞが来ようかと言っていたのですが、ご遠慮申し上げました。倒れちまいます。倒れたくても倒れる場所が無い感じで。まあ兄なんぞは最後の言葉が「風邪を引いた」だったので、不吉っちゃ不吉なんだろうがな。 会社のチーフが「なんかあったら電話していいよ。直ぐ行くから」とおっしゃいますが、「なんか」ってなんだ。「なんか」あったら、最後の力を振り絞ってチーフに電話する前に「まず救急車を呼ぶべきでは?」という気もする。 世の中には親切な人が多うございますね。 私は病気の時に心細くなるという事はあまりない性質で、どっちかというと死に掛けた動物は群れを離れるタイプなのです。象さんみたいな。
しかし大学の時に、人の家でいっしょにレポートをしていたら風邪を悪化させて、そのまま延々と人の家で寝てたときは楽チンだったと確かに思い出します。ご飯は勝手に出てくるし。暖房効いてるし。 しかし「二限から出る」と言って人様を送り出した後、ごろごろ寝過ごして、お昼に戻ってきた人様を「お帰りー」とお迎えしたら、「嘘つき」と叱られました。送り出したときには行くつもりだったんだが、行こうとしたらなんだか体が重かったんだよ。
「熱が高すぎるので、しんどい時に使ってください」と解熱剤も貰っていたのだが、今はかってみたら、もう三十七度代まで下がっている。丸二日ほど三十九度代をキープしていたのに、下がりはじめたら早いわね。 「しんどい時に」と言われたものの、既にしんどかったので、もっとしんどくなるのを待っていたら元気になってきてしまったよ。 あれー?
手紙やメールを書くと必ず後悔しますよ。必ずですよ。
だ、だってそんな重たげな事を告白されちゃったら「告白しかえさな!」と思うじゃろ?!思っちゃうんですよ。人の秘密を知って自分の秘密は隠しておくってのは、なんか精神衛生上よろしくない感じがせんか? フェアでない感じがするというか。 さしたる秘密じゃないんだけど、しかし普通はそういう事がありうると夢にも思わないようなので、言っとかな話が変に拗れて伝わる気がするというか。 まあ、これぐらいは私的には世間話の一環であって白状したうちには実は入らないんじゃが、読み返すときっと意図しない重々しい空気が流れているような気がする。それで嫌なので読み返さない。読み返さずに送るので益々イヤンな気持ちになる。悪循環だ。
なんだってそんな重たげな事を皆さらりさらりと言ってくれるのかと思ったら、自分と似た空気を感じるらしい。自分と似た空気を感じると安心するのかしらん。 「自分とあなたはどこか似た感じがする」と皆言ってくれる。 私の方ではあんまりせんのだが、コレはどうした事か。しかもそういってくださる人に限って、必ず世間一般に結構な裏事情を持っているのが困る。私はそんな大変な裏事情は持っていないのだ。口に出せないヤバイのがいくつかあるだけで。 「私もそんな経験があるわ」と返せたら、どんなに楽ちんだろうかと悪い事を思う。
そういえばJ子さんが、兄者が死んだ途端に、それまでにも付き合いのあった奥様方から、突如「実はうちの息子はもう十年も引きこもりで」とか「これこれの重篤な病気を患っており」とか、あっちからもこっちからも重々しい告白を立て続けに色々言い出されたらしい。「これは一体どうした事か」としきりに困惑していた。 「一見、社会的に見て順風満帆なオマエの人生がけして完全なものではない事に気がつき、仲間意識が芽生えたんじゃないの?」 と適当に言っていたが、どういうもんだろうなと思う。 一つには、人に不幸があったときには話せる話題が乏しいというのもある。人様に不幸があると、少なくともその相手に向かって自分がいかに幸せであるかを嬉々として語ることはできないだろう。そういう事をするのは根性悪だと思われる。あるいは「共感性に乏しく、コミュニケーション能力に不足がある」と言うのだ。 自分の不幸を晒すことで、「あなたは良いわね。私はこんなに不幸なのに、あなたは良いわね」という精神攻撃を受ける危険を事前に避ける心理もあるような気がするが、それはちょっとイヤラシイ見方だろうな。優しく認識すれば、「あなたの気持ちが私にもわかる」と遠まわしに表現している…かな?
ちょうど音楽療法で、悲しい気持ちのときには悲しい音楽を、楽しい気持ちの時には楽しい音楽を聞くようなものだ。悲しい気持ちのときに鼓舞するような元気な音楽を聞くと、一定段階まではそれで奮起もできるのだが、ある程度のレベルを超えてしまうと、今度は「世界はこんなに楽しげなのに、比べて私は…」と誰にもわかってもらえない風の孤独感が身につまされ、ずんずん落ち込むはめになるらしいんだ。
歌詞なんかでもあるよな。世界の美しさだとか華やかさだとか陽気さが提示されることで、歌詞の主人公である心情の寂しさや悲しさが、対比されてくっきり鮮やかに浮かび上がるやつ。
なんにしろ、難しい事を言いだされたなら(しかも相手に意見や感想を求められていない場合には)、言葉による可能な応答は限られるという事だ。だから私は面と向かってが好きなんだよ。「その場に留まる」だとか「じっと待つ」という応答が可能だから。
ふ、もうやっちまった事はしょうがない。 いつものことだが、後悔した後悔したと書いていたら、もう十分に後悔した気になってきて後悔が薄らいできた(悪)。アハンなんとでも言うがよろしいわ、ドンと来いよ。 鬼平でも言ってましたものね。「仇討ちが武士のならいなら、返り討ちも武士のならい」だと。 いや、私、武士じゃないから!三度の飯より敵前逃亡が好きだから。 だいたい、別に返り討ちしようとしたわけじゃあない!されたとは限らんしな。ひらりとかわされたことを絶賛期待する。私は弱い。おまえは強い。なあそうだろう?またそうやって人に期待する(苦笑)避けろと頼みながら殴りかかるのはやめましょうね。とは思うものの。
ところで、昨日の日記には、某姐さんが「長すぎて途中で読むのを諦めた」等とおっしゃいましたよ。諦めるほど読もうとしなさんなよとウケますだ。ただ昨日の日記のメインは最後の部分だけで、前半から中盤にかけては指慣らし(同人作家で言うリハビリ)なので、そこを読まずにどうすると思ったが。 そいつは悪かったと思う一方で、仮にも日記だのに、書くものが読む人の事を考えてどうするという気もするのよな。
オススメしていた「しゃばけ」は面白かったらしい。それは良かった。 区分としては一応時代小説なんだろうが、やはり時代小説を読みなれてない人間でも入りやすく、分かりやすく、面白かったようだ。 文庫で買ったのかな?それは聞き損ねた。
ライトノベルに慣れていると、時代小説も歴史小説もなんだか癖があるように思う。特に 「○×××の細君が○×の××であった事は先に述べたとおりであるが、」 などと、著者の言葉が入ってくるのが実に妙な感じだ。どこぞの物知りのおっちゃんが、お話を「語っている」感じがして妙だ。
今時分は三月のお祭りがあって、ために人は皆忙しいらしい。 そして次は五月のお祭りがあって皆人はやはり忙しい。 さらには次に夏の祭りが迫ってあって、人はやっぱり忙しいのだ。 人様が夜行バスなどを利用して「少ない日数で遠方に遊びに行った」などと言う話を聞くと、体力的に自分にはしんどいと思いながらムラムラするものがある。人様は忙しくして色々としてらっしゃるようなのに、いつも私はその労力の成果を拝むことができないのだ。間隙をつくようになされる更新を待つばかりで!
そういえば、今日コンビニではりぽったの映画のポスターを見た。遅い。 しかし見るだに、あんまりはりぽった君が男らしくなっていたのでビックリだ。きっとそうだろうとは思っていたけれど。 私の中では映画の2と3の印象が薄くて(3は主に犬にしか記憶が無いからな)、1の来日した時や映画雑誌などでのバラ色の頬をした愛らしい少年の映像イメージが強く残っており、「あれは確かに可愛かった。否定できない」という記憶があるものだから、なんだか「うわあ」って感じだ。 しかしドラコの役者さんよりは、雰囲気がそれほど顕著に変わってない気もする。ドラコの役者さんは輪郭から変わった気がしたものね。
うちの近所では映画館がどんどん無くなってしまい、ほぼ郊外のシネコンというやつ一館だけになってしまったのだ。聞くところに寄れば、上映中に鑑賞しながら食べるよう売ってるアイスが美味しいらしいんだが、でもなー、遠いんだもんなー。 ファンタジー映像好きとしては、ナルニアは劇場に見に行きたいと思うのだけれど。
ああ、そうそう。 私はちょうど月のモノがかかってしまい、しんどくて結局献血に行かなかったのだが、行った人に聞いたところ、プレゼントは「お洗濯セット」だったらしいよ。どういう考えで選ぶんだろうな。 …あ、もしかしてまた長くなってる? 溜まってるからか(笑)。
| 2006年03月04日(土) |
や、やっと休みだー。 |
ようやっと休日になりやした。 が、更新できない気がする。
「面白くもないものなんか描いて書いてちゃ駄目じゃないの!」と、昔(前1〜2年ほど)は思って躊躇っていたのだが、例によって私の虚弱体質な良心だとか誠実さだとかが、労わってやっていたのに何故だか病床に就き、「おっかあはもうだめだよゴホゴホ」と言われた途端、「じゃあおっかあの年金に手ぇつけちゃれ!」という駄目ップリを発揮したわけで。 要は、「どうせ好きにやってるのに好きにやりながら好きにやることを躊躇ってなんになろうか。私に良心や良識が残されていることを誰も信じはすまい」という自棄っぱちな気持ちになってしまったわけだ。
ところが、 そうやって突然二次創作の意欲が湧いたのは良いものの、いつものように意欲はあっという間に浮気してしまったわけですね。久しぶりに優しい気持ちになって妻女に手土産を買って帰ったはいいものの、そうすると今のめりこんでいる愛人がトラ屋の栗羊羹を好物にしていたことを思い出してしまったのであった、というところだ。古女房への若き日の愛が蘇ると同時に、若き日の肉欲も蘇った感じ。
全然関係ないが、普通の小説では性行為の描写は実に淡々としているよな。実にあっさりと当然のように行為にいたる。ポルノ小説でない場合は、数行で終ったりする。一語で終わることもある。ロマンス小説でも、長くて二三ページというところだ。 ポルノやなんかを立ち読みしていると(そんなもの立ち読みするな。自分では勉強せねばという思いで恥がおろそかになる)、めくってもめくっても依然として行為中で「よくもまあこれだけ長々と書いたものだ」と、やたら本の厚さを気にしてしまうが、普通の小説で一行で終ったりすると、必要十分なんだが、それはそれで寂しい。 かといって、私は女だからかポルノ小説は全然面白くないんだ。 最初は面白いんだよ。最初は。途中でひたすらタルくなってくる。特に男性向けの内面描写が殆ど無くて連綿と行為が続くやつは、なんかもう「これはマラソンか何かか?」って感じだ。肉体疲労時の栄養補給になんだかわからないが「何か良いもの」が途中で欲しくなる。読みきろうとすれば忍耐を試される。
私はマラソンの中継の何が楽しいのかよくわからん人なんだ。それもあるかもしれない。後で「途中でこんな駆け引きがあった」等と言われれば、「あー、そんな面白そうなところがあったんなら見ていればよかった!」と思うんだが、大体は眺めてても、ただ並んで走ってるじゃろ?解説があるからこそ辛うじて耐えられる感じよな。あれをアナウンサーや解説者の喋り無しに無音で流されたらどうだろうかと思うよ。 それは私がマラソンの駆け引きのなんたるかをわかってないからなんだろう。 それは暫く前に銭湯で何気に見たマラソンの1シーンと、その夜のニュースでの解説を見て思ったんだが。
昔読んだ小説で、匂わせて比ゆ的に始末してる部分があって、まだ潔癖であった私にはそれはなんだか嫌な感じだったんだが(露骨に表現せずやたらに比ゆ的で「隠す」というのが余計に嫌らしい感じだった。色っぽいというのではなく単純に嫌らしい)、後に自分でも書いてみるようになって思えば、あれは作品の雰囲気をそこで一気に破壊しないようにという苦肉の策だよという気もする。肉は切らせても骨は守り抜くというか。 バランスが問題なのよな。 カップリングを推す二次創作なら、どうしても(別に性行為に限らず)「やり取り」をできるだけ長く入れたい。それが欲しくて自家生産しているんだ。ところが、それを長くすればするほど、バランスが狂ってくる。本来なら、物語の流れを崩さないのなら、そこはさらっと済ませるべきところだと思われる。しかし、さらっと済ませたくない。なんでさらっと済ませにゃならんのじゃ。さらっと済ませて気が済むなら、誰も、というか私は書かない。原作でいつもさらっと済ませられて気が済まなかったからこそ、無謀な捏造に走っているのだ。 さらっと済ませたくない。無駄に長くしたい。しかし無駄に長くしては何がなんだか自分でわからない。なんだかケツの座りが悪くて気持ちが悪くなってくる。しかし長くしたいんだ!長くさせてくれ!やめろ、もう何がなんだかわからんくなってきた。ほら、そこで止めておけば、そんな事言い出さなかったのに!この始末をどうするつもりだ!ああ、ホラ!ホラ別れちゃった!くっつけようとしているのに、引き離してどうする!?
いや、くっついてもいないのに引き離される器用さが、二人が好きあっているという事を暗に鋭く示しているのだ。引き合う強さで反発するのに違いない。私はますます二人を何がなんでも意地でもくっつけるべきだと確信した。どう考えても不自然っぽいが、その不自然であることが実は自然なのだ。そのためには手段を選ばない。私は希望をもって気長に取り組む事にした。 たとえどれほどにすさまじい大風呂敷が必要であろうとも、二人をきゅっとくるんでしまえるなら私に否やは無い。まるでカップりんぐが全く不必要であるかのような大風呂敷であろうとも、実は世界は二人のためだけにある。それはまるでプラパゼータのように!
そんな馬鹿な。
脱線したが、 そういうわけで私は、いつものように一人で遊んでいたわけです。 今、ちょっと気が済んできたところだ。意地でも完結させるまではウダウダ書いてるだろうが。
一年に一回か二回猛烈にSSが書きたくなって、「これを書いてどうするというのか」と甚だしく思いながら寝食を惜しんでPCにかじりつき、長ったらしいのを一本あげ、一本では寂しいので数本短編をあげたところで、「せっかくだから」とどこぞでスペースを取ってサイトを途中まで造りながら、どこかへ登録する前に「駄目だ、とても更新(+管理)なんてできるわけない」と全部削除してしまうといういつものあの行動パターンだ。わかっているのに繰り返すんだなあ。 ここを一つ持ってる所為で、そしてこのン年にわたる経験で、自分にはとうてい出来っこないのだとわかってしまってるところが悲しい。マメに、あるいは定期的に更新できるテキストサイトさんは本当に凄いと思う。 私は一本か数本に全部の思いを叩き込んでしまうと、それで暫くは自分の中のそれが虚空になり、虚脱状態になってしまうのよな。文章は特にそうだから絵の方がまだ何も考えて無くても描ける。いや、本当は何か考えて描かねばいけないのかもしれないが。
だけどやってる最中はものすご楽しいのよな。 ただやってる最中でも、自分でも「なっとらん」事はわかってる。いつも前よりはマシなものマシなものと思うんだが、才能というやつがないようだ。 何より私は小説を読んでいて、何が面白いのか分からん時が多分にあるぐらいだ。 それに加えて、書いてみれば、自分がいかに言葉を知らんか思い知る。「こういうのを端的に表現するズバリの単語があったんだよ!アレ一語で表したいんだが、アレとは何だ?」とは思うものの、いつも斜め読みしてるのかさっぱり思い出せない。 それで私は文字を書き始めると小説を読み始めるんだ。読んで探す。気の長い話だ。
ところで、日記を書く手も惜しむほど文字(ほもほもしいパロ)を書きたくなったのは、また例によってイバラ道で、殆ど取り扱いが無く飢えかつえているだけでなく、その頃なにげに読んだ文芸評論もどきが自分的ツボをどつかれて面白かったからだ。が、それから、ではどう書けば良いのかもあって無性に小説を読みたくなってきた。読んでみたら読むのが楽しくなってきて、ぶちぶち読んでいた。
子供の頃から物語半分、物語じゃないものを半分ぐらいで読んでいたが、どこらへんからか特定のもの以外で物語を面白いと思わなくなってしまった。 たぶん私は、昔から単に文字を読むことが好きなのであって、別に「物語」を読むことが格別好きなわけではなかったんだなあと、いつからかがっくり思うようになったんだ。思い返してみれば、最初に本を読みはじめた頃は幼稚園児ぐらいで、親の本棚から適当に引き抜いては読める平仮名のみを拾い読みしていた。別に内容が面白いわけではなく、読める文字がある事が面白かったんだ。 そういう性分なものだから、文字を書く(打つ)事も、別に書きたい話があるわけでもなく、書く(打つ)事自体が楽しいわけで、物語もへったくれもない。できるだけ長いことずらずらと打っていたいものだから、できるだけ長い物語にする。そういうわけだから、これでもかと面倒な問題を提起し、途中でにっちもさっちもいかなくなって破綻するというわけだ。
そういう調子なものだから、小説を読んでいても、何が面白いのかわからないで読んでることが多々ある。それで小説を読むのを止める。ところが小説にしか登場しない表現や言葉というものがあって、それが知りたくってまた小説を読み始めたりする。最近は一人称を倦厭しており、口語的には使用しない言葉がやたら使ってあるやつを選ぼうとする。本屋に行って、何か小説を読もうとなると、めくってみて一人称は却下だ。面白そうでも一人称は却下。
ここで二次創作は別物だ。二次創作は求めているものが違うので、文体や作法に好き嫌いは無いような気がする。二次創作はなんかこー、めくるめくよ。ありゃなんなんだろうか。
なぜ三人称を求めているかというと、ここ三年の私は三人称で物語を書く事に憧れがあって、嵌まっているからだ。三人称で書きながら、どのように人物の複雑な心情を表現するのかが気になって仕方ない。 そんで読む。読んで、その複雑な心情を絶妙に表現されているラシキ部分が味わえなくて、自分にしょんぼりする。 西に素晴らしい作家がいると聞けば西で自分にがっかりし、東に素晴らしい文章書きがいると聞けば東に走って自分にがっかりする。わからない。そのよさが味わえない。その文章にどのように心を動かしたのか、どのように理解し、解釈したのか、そこらへんを馬鹿な私にもわかるように平易な言葉で熱く語ってほしい。構成が素晴らしいと言うなれば、どのような構成になっていて、その何がどう素晴らしいのかを逐一講釈垂れて欲しい。万事その調子だ。 なんでこんなに頭が悪いのだろうか。
そこで、先の文芸評論もどきは、そんな私のアトピー性皮膚炎のように痒いところに手が届くもので、とっても素敵だった。一文一文、地の分を抜きだして、「ここがこうだ」と解釈をかましてくれる。「精緻に読み込まれ、尚且つこれまでに無い独自の画期的な解釈」らしいが、これまでなど知ることのできない私には、そんな事はどうでもいいのだ。ちょっぴり、その「これまで」がどのようなもので、その「これまで」とどこがどのように異なる解釈なのかを懇切丁寧に説明して欲しいが、カバーの帯にそこまで期待することはできないだろう。 とにかくもおかげで小説を読みたくなった。素晴らしい評論だ。
それでもたまに、面白い気がしてくる時もある。 昨日は、登場人物の行動にやたら感心した。 読んでいた短編の中に、老いた元娼婦が出てくる場面があった。鉄火肌でなかなかブイブイやっていたのだが、老いて貧しくなり、今は裕福になった昔の客に金を無心して回っているのだ。そんな事をしていれば当然のように、やがて殺害されるわけだが、その強請り始める(強請りを考え始める)きっかけになったのが、ふと道端で昔の客に出会ってしまった事だ。 そのときには彼女にはまだ羞恥心があり、顔を伏せて「お久しぶり」とさらりと逃げようとした。ところが相手の方がビビってしまい、「これをやるから付きまとわんでくれ!」と金を放って逃げ出した。それで彼女はあっけに取られ、何をわざわざ要求しなくても、自分が顔を出すだけで、相手が自分の口を塞ごうと躍起になって金で片をつけようとする事に気がつくわけだ。
この最初の出会いがしらの彼女にやたら感心した。 「げ、ヤベ」と顔を合わせづらく思いながらも、惨めさと羞恥を耐えて一応は挨拶するというところだ。私なら、さっさと電柱の影に隠れるね。この社会的に優れた態度をとった事を、相手がいきなり誤解したことが発端になるわけだ。ここでもしも彼女が、その人間の小ささを「愚かなり」と微笑んで済ますようだったなら、後もただ惨めに貧しく孤独に、しかし清らかに死ぬだけだったのだろうが、「なんとまあ、そう来るか!」と驚いたために、巡り巡って惨殺される事になる。 私は自分の心が人並みはずれて狭いので、そんな事があった暁には、早速にも「自分が存在する(した)ことは抹消したいほどの事か。ということは、相手によっては顔を見せるだけで殺されるやもしれぬ。おお、やばいやばい。危ないところであった。これを教訓に、よりいっそうこそこそと生きねばならぬ」といきなり命の危険を感じるだろうが、彼女は顔を合わせたくない相手にも礼儀正しく挨拶するような人品に優れた人間であり、その程度の事で殺意をもよおされる危険を案じるなど夢にも思わぬ気性の良い人間だった。 全く、こういう気の善い人間が身にこなれていない悪賢いやり方に手を出してはいけないね。察する及ばずだ。
が、それはそれとして、惨めになろうとも礼を失っするまいというのは素晴らしい姿勢だ。私は感心することしきり。
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