非日記
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「枯れたから捨てろ」と言われていたカワヤナギを、例によって「だってまだ生きてるみたいですよ?」と、一月近くしつこく放置していたら(←逆らうな)、何の前触れもなく咲きました。すごい咲きっぷりです。 こないだまでの枯れ枝がどうした事か、零れるというようか溢れるように一斉にボコボコボコボコボコボコ咲きました。 …オマエってやつは! 「どんな魔法を使ったのですか?」と言われたが、魔法も何も、思いっきり放ったらかしてただけです。いや、私の特技=「何もしない」を使ったといえば使ったのか。私だって人間ですから、「何でもいいから何かしたい」衝動に駆られるときもあります。 何かしたい時には何もしない方がよかったり、何もしたくない時には何かする方が良かったりするのが、私の短い人生経験における法則です。それで何もしたくなかったのに、何もしないでいたら、見事に咲いたのがとても嬉しい。
調べてみたら、カワヤナギは川辺に生える植物らしい。流水に強く。 それで手折られたカワヤナギは無い地面を探して花瓶の中に根を伸ばしたんだろう。私はその根を見つけたので、枯れ枝のように見えてもまだ生きてるからと捨てがたかったが、かといって土は遠く、伸ばしてみてもどうなるものでもないので、それはいつものただの自己満足に過ぎないかもしれないとは思っていた。 それは純然たる偽善に過ぎず(何故なら私はその枝を手折った人間の仲間だ)、ただ、人が「もう枯れたから捨てなければいけない」と言うたびに、例えば自分を重ねて哀れんでみたり、もしくは、生きることに価値があると信じたり生きている事が強さだと昔人に言ったように、その価値を投影してみているだけかもしれなかった。ちょうど、老人がもう生きている事に意味は無いと言うたびに、自分か、あるいは自分の未来を重ね見て、それを否定する価値観をあいかわらず探すように。あるいは私はそのとき、人はお題目のように唱えるのに私には理解できなかった「命は尊い」というそれを、そのように言った他人に、私にもわかるように見せて欲しいのかもしれない。そこまで無事に生きて、そしていまさらに、実はそうではなかったと言って、信じて、あるいは証明して欲しくないんだ。 何故なら、いつも殺すことも死ぬことも容易い。もしそうするのなら、私は直ぐにもそうできるんだ。誰でもそうであるように。それを忘れた事は無い。人は例えばできないと言う。それが本当に「できない」なのか「しない」なのか、私にはわからないが、私はできる事を証明するためにしたくはない。それが何か負けたくないものに手ひどく負ける事だと感じていて、それがとても嫌なのは確かだ。
私は時々、もしくはいつも、馬鹿馬鹿しくて、まるで意味が無くて、何の価値も無くて、無駄か、ひょっとすれば、もしくは確実に有害な事を、なんとなくとってもしたくなるんだ。 私は時々か、もしくはいつでも、それをしたくなるんだ。もう凄く馬鹿馬鹿しくてアホらしくて、何の意味も価値も無い事に永遠ではない人生を費やしたりして、究極の自己満足を追求したくなるんだよ。「もう誰の目から見ても誰にも自己満足としか言わせない」みたいな。そういうビョーキをわずらってる。
そういうわけで、私はいつでも捨てられる所為もあって、馬鹿馬鹿しいと思いながら馬鹿馬鹿しいと思うほどに捨てがたかった。 そうしたら花が咲いた。 馬鹿馬鹿しいと思ってたことが、ちょっと馬鹿馬鹿しくなくなったので、ちょっと嬉しかった。しかしそうすると、益々捨てがたくなってきた。花はやがて枯れ、もっと何処から見ても立派な「ただの枝」になり、そのままにしておいても今度こそ間違いなく枯れるだけになるだろう。死体になって有機物が分解して腐臭を放つようになり、水に使ってるところからデロデロに液状化していくんだ。たぶんね。 ただ生きていて、まだ生きようとしていたから、なんとなくほっといたんだが、花なんか咲いたばかりに、悪い事に、死なないで欲しくなってきた。こういう事(気持ち)になるから、さっさと捨てて置けばよかったんだよ。しかしこういう事にならないかもしれないと思っていたので、何もしなかったんだ。では期待も無くどういうつもりだったかと言われたら、どういうつもりもなかったので困るんだけど。まさにいつもの、無駄な事をしたい衝動に駆られただけで。 困ったね。ゴミ箱に捨て難くなったじゃないか。
花が朽ちてもまだ根が生きていたら、そしてその時、まだ他の誰かに捨てられずにそこにあって、それが私の自由にできるようだったら、それを川の傍に立てて植えて、そうやって捨てようと思う。 ひょっとすると、私の知らないうちに捨てられてしまうかもしれない。それは初めからそうだった。 私は自分が何をしたいのかわからない。
ただ私は臆病者でケチでやる事と考える事がセコイので、生きててももう何の良い事も楽しい事もなく、何の意味も価値も無いと言うその人の前で、もう生きてる事に価値は無いからという理由で、まだ生きているその枝を捨てる事ができなかったんだ。もしその人が、「もう咲かないだろうから、そろそろ捨てないといけないね」と口にしなかったなら、私は普通に捨てていたかもしれない。それが私の仕事だったから。それなのにその人がそう言ったので、その人は別に我が身を重ねていたわけでもなく、ただ「枯れたから捨てないと」と思ったままに言っただけかもしれないのに、急にそれが酷く悲しいことのような気がした。 もしその通りだと言ってしまったら、とても困る。
その枝が花開いたのは、彼女の前にあり、彼女がそう口に出して言い、そしてそれを聞いたのが私で、おかしな具合に勝手に躊躇い、私がやる事に彼女が「捨てなさいと言ったのに」と文句をつけず、そして他のものも何もしなかったからだ。もっと多くの色々な事が関わっている。その小さな偶然の積み重ねが不思議よな。 大抵は、自分の関わった以上の先を目にする事も耳にする事もないし、私の関わった偶然の中には思いも寄らないとんでもない悪い結果になったものもあるのだろう。 矛盾して、偶然に関わるのが時々好きだ。
ささっと変えたかったのに、延々と置いていたコンテンツ絵をやっと変更。
もう色々と限界を感じたので(特に霞みつつ縮む画面)タブレットを購入したところ、フォトショのエレメンツ?3とペインターのエッセンシャルズ?2と言うのが入ってました。 もちょっと安いのもあって、それはイラストが描けるソフトとPCでマンガが描けるというソフトが入ってたようなんだが、見るとイラストが少女マンガちっくに綺麗だった事もあり、私は元々がカビの生えた絵具でカビも一緒にグチャグチャ塗りつけるタイプだったので(なんか良い物を塗ってる気になる。金粉を塗ってるような…)ペインターが入ってる方にしときましたよ。 というのは言訳で、心を決めた決定打は、件のパッケージがとっても…きゃわいかったからです。少女で。
いや!私、こんな可愛いもの『持てない』!
罪の無い感じでかわいーので、描けるものなら描きたい絵柄だけど(本当)。
おー、なんかやる気が出てくるね。やる気が出てくるというより、やらなきゃ勿体無いっていうか。とにもかくにも、めでたい。 ただ、問題はサッパリ分からんという事よ。
とにかく大抵の方が写真屋さんを使っているので、しかし高いので、いつも指をくわえていた写真屋さん(もどき?)で塗ってみましょう!ベタ塗り出来ない人生には飽いたわいな。 塗りやすそうな落書きを急遽製造し(要するに線をつなげまくって描く)、メイキングやってらっさるサイトさんを探し、お勉強しつつ試しに塗ってみることにする。 難しい事はしない。とりあえず一回使ってみる。
ほえ、エレメンツだと主線の色が変えられないのだな。 OK!OK! なんてこと無いわよ!主線の色なんて変えたこと無いからね!主線の色を変えるほどの物は描けないわ!
そして素敵な流し込み。 いいわあ、流し込み。 すごいや、流し込み。 流し込み最高! こんなに流し込みが簡単だなんて! 流し込みってほんとーに良いものですね。うむうむ。まるで凄く上手に塗れたみたいだ! 出来上がりを自分で見ても、「なんかフツーっぽい!」と感動だ。
流し込みや範囲指定が(自動があって)すごく楽にできるのにビックリー。流し込みが、わ、わかりやすいよ?! もっとめちゃめちゃ難しいものかと覚悟していたのに(別のソフトで昔めちゃめちゃ苦労した覚えがある。「手順の流れがなんとなく分かる」のは、昔取った杵柄か)。
メイキングやってらっしゃるサイトさんは難しい小技をいっぱい紹介してくださってるようなんだが、それ以前がわからない私にはさっぱりだ。 初心者から見ると、説明が飛ぶ飛ぶ。 そして大抵ちゃんとしたフォトショを使ってらっしゃるので、できない事がたくさん書かれている。 メイキングを置いてらっしゃる方は案外沢山いるのだが、沢山おられすぎて私が求めている御方は埋もれているようだ。掻き分けて初心者向けサイトさんを探さないと。
今年こそはテレビを見ようとしているのに、今年は正月から見たいものがあまり無かった。昨年は夜中にローマ帝国をしてたのに。去年にもまして幸先が悪い。 今年こそは大河ドラマをX年ぶりに見ようとたくらんでいたが、やはりいきなり二回スルー。待って待って!諦めちゃ駄目! ドラマってのは、見れば見るほど、内容はどうでもよくなっていくのよな。「毎回見る」事に意義を見出してみたり(気分は記憶のコレクター)、展開の仕方に好き嫌いでいちゃもんをつけてみたり(構成とか演出とか脚本がどうのとか良し悪しがよくわからんので能力不足で賢そうないちゃもんはつけられない)…、たぶん長いのがイケナイんだよ。私には一話完結が向いてるんだ。しかし人間は向上心が無ければいけないという噂だ。
自分的長期休暇で連勤になり、グダグダグズグズになった生活をはやく平常ペースに立て直したいが、仮に平常に立て直しても元からグダグダグズグズの生活なので(冷静に考えれば既にいつもと同じ状態だが)、自分が活動的な様子をイメージすらできない。 私に言わせればイメージは至極大事です。自分の状態を詳細にリアルにイメージでき、その線路に乗せてしまえば、後は自動的に自分の状態は大体そうなる。できないことじゃなくて、できることでね。たとえば物凄く熱心にX時間楽しく働き続けてる感じを詳細にイメージし(「ここでこうやってこうやったらああやってX時間でXXしXXできたことは気分よく」みたいに)、物凄く熱心に働き始めたら、物凄く熱心に働き続けるんだ。脳内慣性の法則。途中で「は!?私はこんな働き者ではないわ!私を騙すのは誰!?」等と我に返ってはイケナイ。おまえは女優だ〜。女優になるのだ〜。(←タ○ガーマスク風)舞台の上では泣かないの♪プライベートアクトレス。
とりあえず、諸般の事情で契約し購入した携帯電話の電源を入れるところからスタートしなければいけないんだが。電源を入れたが最後、とこしえに死ぬまで入れ続けなければならないかのような気の重さがあって躊躇われる。 ぶいぶい言う親だって、自分は携帯を携帯してないってのに(携帯にかけて繋がった事は無い)、私にだけ携帯を求めるのは理不尽ってものじゃなかろうか。
うんにゃ、その前に、はやく年賀状を出さねば。もう年賀状である事を伏せて出そうかしら?今週中に出そうという野望があるんだけど。人様の血縁が入院して危険という連絡があったので、「『おめでとう』などという言葉を記入するツモリなら(喪中は今年になるはずだから、よくわからんが今年の年賀状まではセーフかもしれないが、いや知ってしまったらアウトかもしれないが、とにかく気分的に)亡くなる前に届けなきゃ!」等と人心にあらざる事を考えていたんだが、「ちょっと持ち直した」という連絡があって良かったと安心し、のんびりしかけていたら数日後に亡くなった。アウト。アウトだよ、私。なんて駄目な人なんだ私。 とことん駄目な感じだ。何もかも駄目な感じ。
恥> 今日私は、やっと良心の呵責から解き放たれた。 XXXをXXXしてしまったのだ。その時に正直に申告したら(てゆうか正直に言うしかなかったんだが)XXXしろと言われたので、やっとXXXしたのだ。ああ、よかった。 克明に語りたいが、度胸さえあればやりようによっては簡易詐欺ができそうなので、そういうマズそうな知識と経験は公に秘密にし記憶から抹消するべく努力するしかない。XXXしろと言われたものの、「待って!それじゃ、それってXXXしなくっても、しなかった事はわかりゃしないじゃないの!」とビックリし、良心が「神に試されているぞ。私にはわかる!これはヤツ(神)の罠だ!」という危険信号を発した。 「わざとじゃないの!わざとじゃないのよ!嘘じゃない!」 という事を天と良心に証明するために、可能な限り高速で自首しなければならないウッカリな犯罪者の気分だ。「もうム所でなければ熟睡できない。」というやつだ。マゾじゃないんです。ノミの心臓なんです。
こんな事があった> 職場でよく間違われる相手がおり、「人が見ると似てるらしいです」と言う。他の同僚にも「そうやって並ぶと、まるで姉妹のよう」と言われたので、 「そら、よく見知っている人間などでなければ、ちらっと見てるぐらいでは判別しにくい程度には似てるかもしれません。そら、だって、私もあなたも、身長も体格も殆ど似たようなものの上に、なんたって顔が丸くて、目が丸くて、鼻が丸くて、口が丸いですからね。パッと見、全部丸くておんなじに見えるでしょうよ」 と言ったら、 「なんてひどい事を言うんですか!何が丸いですって!?」 とタイヘン嫌がられる。私は真実を述べたまでだが? 私はクセ毛だが、実は向こうさんもストレートパーマをかけてるだけで元は私と同じくらいのクセ毛らしい。しかも下ろしたら同じぐらいの長さだ。 するとシミジミこう言った。 人「やっぱり矢口さんと私は中身からしてよく似てるんですよ。だって、大体、家庭環境から似てるじゃないですか。もとが同じだから」 私「ハァ!?家庭環境が同じ!?なんてひどい事を言うんですか!私の家庭は、あなたの家庭ほどめちゃくちゃに酷くなんかありません!」 人「!なッ!なんですって〜!?似たようなモンでしょ!」 私「似たようなモン!?あなた、失礼な事を言うのは止めてください!天と地ほどの違いがあります!あなたは恵まれておらず不幸かもしれませんが、私は比較的恵まれておりけして不幸ではありません!」 人「なんて失礼な!私だって不幸ではありません!」 私「いいえ!冷静に考えてもみてください。あなたのところはXXXがXXXでXXXじゃないですか!これは世間的に公平に見て純然たる不幸に分類されますよ!自分がどんなつもりでいようと、世間的には間違いなく太鼓判を押して不幸です。胸をはって不幸と言っても良い!」 人「それはそうかもしれませんが!矢口さんのところだって結構なモンじゃありませんか!」 私「いいえ!あなたと私では、その不幸度はチョモランマの頂とフィリピン海溝ぐらいの開きがあります!うちは極々普通の平凡なよくある家庭ですが、あなたのうちは断固として客観的に社会的大問題があります!」 人「そこまで言う!」 私「冷静な見解ですよ。」 人「そーかなー?」 私「そーですよ。」
↑冷静に考えてみると、何かどこか似てるかもしれない。これで会話のキャッチボールが心平和に成立しうる精神構造が。 どっちがより失礼かは言うまでもありません。私がのびのびといっぺんの曇りもなく失礼です。私の方がX歳も大人ですから認めますとも。
時の流れは電光石火だわ。一月ももう間も無く二桁にならんとしている。 まずい。 あちこちでぶいぶい文句を言ったせいか、今年はなんと年賀状が五枚も来た。一番沢山友達がいた時期に出した最高枚数が十枚なので、これは私的にかなりのものだ。のに私は出していない。これはマズイ。ン年前のように、二月にも入ってからやっとこ年賀状を出す…などというかっこよすぎる事はするまいと固く決意し、今日はとうとう芋を買ってきた。 芋は掘るんだ。 この年賀状を出すという作業や正しい礼儀作法がはなはだしく心もとないので、私には社会人は向いてないと思う。しかし社会人に向いてなかったら人間としてどうするのか。どこへ行っても、仮に年賀状の無い世界へ旅立とうとも、きっとそこにはやはりその社会の慣習だとか掟だとか色々あるに違いないんだ。多大な問題を起こしたことも無いではないが、なんとかやってこれたんだからなんとかやっていけるだろう。私の経験で行くと、この現代という時代は良い時代で村八分で死にはしないんだ。要は私のポリシーとしては犯罪を犯さなければセーフなんだよ。そうそう、そうなんですよきっと。
そういえば、今年の初詣では凄い小吉を引いた。 親父殿は馬鹿馬鹿しいのでやらないという。なんでそうお堅いのかしらね。というかどうしてそんなに気にするんだか。私にはわかっています。親父さんは占いを馬鹿にしてるんではなくって単に嫌なんだよ。占いに心を動かされるのが。いいじゃないの占いで一喜一憂ぐらい。 というわけで私はウキウキと引いたんだが(勿論大凶を引いた暁にはもっかい引く気満々でしたとも。れっつチャレンジ)、小吉だったのでセーフ。 しかし
願い事→おもうがままに叶います
などという小吉が存在して良いのだろうか。小吉がこれだと大吉はなんて書いてあるのか興味津々だ。思うがままに叶うよりも、もっとずっとラッキーなのってどんな感じ?思わなくても叶う?いや、それ、願い事と違うだろう。 そのほかにも、待ち人は「遅れますが来ます」だったし、悪い事は何も無い。強いて言えば勉学欄が「覚悟が足りない」となっていたが、私にはいつも覚悟が足りないんだよ。覚悟が足りないから今まさにここにいるわけだよ。しかし私は不幸ではない。よってそんな事は小吉の理由にはならない。 結局、一体小吉の正体とは?
私が思うには、きっと万事が上手く行かないのでせめて年の頭には「元気出せ」という激励の慰めではなかろうか。物凄く上手く行かなくっても、この小吉を信じて「いや、思うが侭になるはずだ!だってXX神社の神様が言ってたモン!」と意気揚々と諦めずに突き進むと出来事に修正がかかってトータルで小吉レベルの人生が待っているんだ。そのための小吉表記。
不思議なんだが、おみくじってどこで製作してるんだろう? まさか神主一味が同人誌みたいに印刷業者に個別に頼んでいるわけでもあるまい。…と思うんだけど?やはり本当はあるんだろうか。秘密の地下組織、おみくじ業界が。「今年の流行はファンシーでポップな吉と奇跡を信じる大凶」とかが。 そんで印刷機の前で神主さんたちが印刷前にお払いでもして「運命よ宿れ」とでも念を込めるの。…犯人は神主だ!私の指先に小吉を掴ませたのは神主の陰謀だったんだ。どんな恨みがあるのか知らないが私を小吉にした。いや、大凶になるところを助けてくれたのかもしれないぞ。「私の力ではここまでだ…仏教の壁に阻まれ」とかいって小吉なの。そうなのかな?
いいえ、私にはわかっています。私の願う事がそう簡単にかなうわけありません。こないだも昨年の夏にとうに発売されたビデオをレンタルに行ったところ、置いてませんでした。 …いや、待てよ。某のDVDがBOX発売になるとすれば、それは「願いがおもうがまま」にあたるのかも知れんな。私は願っていたというより、待っていたというか、ボケッとしていたというか、「出ればいいのにさー…なんちゃって無理か!」と心の底から諦めていたのは願ってたうちに入るのか?
願い事と言えば私は毎朝祈ってるよ。昨日何かおかしな事をしでかしてなかったかを一生懸命思い出しながら、「どうか気づかずにとんでもない失敗をしてませんように!助けて神様!」と出勤しながら祈ってる。懸命に祈りながら片手間に本読んでるな。
あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いします。 年賀状はちょっと待ってください。「年賀状が来ないぞう!」とぶちぶち言っていたら今年は二枚も来ました。ありがたい事でございます。私にもどうやらソーシャルボンドがありますだ。というわけもあってちゃんと出します。「お父様、あたくしは犬の足の裏が知りたいのでございます」と親父さんを巻き込んで一緒に犬の足の裏を調査しようとしていたら、通りすがりの通行人に怪しまれ撤退したところなのです。
お正月特別企画>> 持って行ったゲームもせずに実家で一生懸命解読してきた、大正八年、神武天皇紀二千五百七十九年、西暦一千九百十九年の、ある一般庶民の正月をご紹介します。 ちなみに、著者の年齢は十代後半から二十代前半と思われます。本当は全て旧漢字ですが出ないので許しましょう。
一月一日、雨 元旦はれず、先ヅ■■神社氏神に参拝し、帰宅して青年乃金銭出納簿等を計算、其乃他を整理す。年賀状来る。未だ出さざるところに二三書く。 午後、定期総会を開き、先ヅ役員の改選を行ふ。選挙後、支部長○○君、副支部長○○、当選す。一切の書物計算等終わッて支部長に引き渡しす。新入会員生○○、○○。例年の通り新年宴会を開く準備に取り掛かる。五時頃始って九時頃終る。特別団員も招迎し盛会愈々激しく、其の極を知らず。各自感を尽くして解散す。
↑本当はこんなに親切に句読点はありませんよ。 古き良き日本語の香りを残しているので、「アホでも読めるように」と開発された親切な句読点は無いのだ。句読点を「正しくはどこに打つか」というのが、私は昔から苦手なのに、羨ましい限りだよ。 こないだテレビでやってたな。「賞状を貰う人や賞状を読み上げる人は句読点などなくても当然読めるような立派な人であるはずなので、賞状の文章に点を打ってはならない。点など打ったら馬鹿にする事になる」とかいうのを。そういえば、英語なども昔は「単語と単語の間は少し空ける」などという事はなかったと聞いた覚えがある。要するにアルファベットが等間隔にひたすらズラズラ並んでいた。だから読むのが物凄く大変で、普通の人ではとても読めず、文章を読む専門の人間がいたとかなんとか。あの単語と単語の間に少し空白をつくり、単語の切れ目がわかるようにするというのは、画期的書き方だったらしいよ?
関係ないが、こうやってPCで横書きに打つようになってから、点の打ち方は益々わからなくなった。本式には確か文章の意味の切れ目で打つはずなんだが、それより、平仮名の単語がいくつか続いていると、一見して読みづらい気がし、打ちたくなくても打たねばならない気がしてくるんだ。そして、「そこで打ったなら、ここでも打たねばいかんだろう」と思い始める。 けどね、普通に読んでたら、「そこで一呼吸を置きたくない」というのが無いか?あまりにも沢山句読点があると、頭の中が躓き躓きになる。 上で言うなら、「〜横書きに打つようになってから益々混乱してわからなくなった」の場合、打つなら「打つようになってから、」だろうと思うが、次が「益々」と漢字変換して打ってるので単語がここで切れる事は明らかなんだから無理に打たなくても意味は簡単に取れ、読める。 ↑この文章なら、さらに「打ってるので、意味が」と「明らかなんだから、無理に」にところで打たねばならない気もするんだが、自分の中ではそこらへんは一気にすすみ、「取れ、読める」のところでしか息継ぎをしてないんだよ。PCの良いところで、ためしにさっき打ってみたんだが、なんか気持ち悪いので結局点を抜いてしまった。 漢字が来ると、その直前までと漢字の部分が明らかに異なる語である事が簡単にわかるので、やたらに漢字変換してしまうよな。 不思議な事に、縦書きだと、横書きより平仮名が続いた時に意味が取りやすく読みやすい気がする。 「一体本当はどう打つものなのか?」と小説などで句読点の位置に注目して読んでみると、案外打ってない事に気づく。ただ「名文と呼ばれる文章は悪文だ」とも言うからな。少なくとも、美文とされる文章は必ずしも分かりやすい文章ではないよ。
それはともかく、 まるで怪しい集会が行われているかのようですが、要するに「○○地区青年団」らしい。その役員をやっていたらしき事が伺える。「盛会愈々激しく其の極を知らず各自感を尽くして解散す」なんて書く十代がいたのは一体何時代だ?と思いますが、だから大正時代だ。 高等小学校までしか出てないはずだのに、人を苦しませる漢字の嵐。しかも旧字体。平たく言えば難しい字だ。昔の学校はこんな字まで教えたのか?「会」「帰」「ところ」「挙」「団」「尽」なんて、全部難しい字ですよ。後に出てくる「昼」も「書」に似たような、あの古い字。 「書食ってなんだ?」と悩んでいたら「昼食」だった。 ちなみに、そんな画数のやたら多い難しい字を書く男の奥さんは平仮名もろくに書けなかったらしいです。さすが大正時代だ。
一月二日、雪 雪降り、炬燵にあたって統計調査を始める。十二時半に終って昼食 雪は止まず 幹部講習会筆記を書き直すに五時間も掛かる。雪は益々降る。積雪六寸余
↑どうやら引継ぎの仕事を頑張っている模様です。五時間も書類を書き直していたら日記を長々書くのが嫌になったようだ。きっとそうだ。「〜書き直すに五時間も掛かる」という短い文章の中の「も」という一字に、「始めた時にはこんなに掛かるとは思わなかったのに」という、ぐったりした疲労と天に訴えるかのような理不尽な気持ちを感じます。 「は」にしたが、「わ」か「は」か実はわからないのだ。謎の怪しい形をしてる字を、どうやら助詞の「は」にあたるっぽいとアタリをつけただけ。 六寸は十八センチ。 何故雪に拘っているかというと、雪が積もると、屋内に閉じ込められるからだろう。大正八年ですからね。後に、「非常な大雪、汽車立往生の有様」などという記述も出てくる。
一月三日、雪 昨日の雪に積もって七寸位。尚何時止むか知らざる如々降る。 朝食後馬草を切る。終って藁を打ち昼食。午後草鞋を作り、四時頃迄に三速造製。晩にも薪を取り入れ牛を飼ふ。 夜新聞を見る。
↑三日からもう働きます。働き者ですね。馬草は牛の餌。 「草鞋」の漢字が自分でも微妙らしく、「鞋」のつくりとへん、「革」と「圭」が以後時々逆になったりする。そんなに草鞋をつくって、売るのかと思ったら自分たちで履くためらしい。確かに昔、蔵を開けたら凄い量の草鞋の山があったような気もする。冬に雪に閉ざされている間に、一年分の草鞋を作っておくのだそうな。
一月四日、晴 天は晴るれど雪は消えない。相変不寒はする。 朝の間新聞を読み終わって草鞋縄をなふ。昼前に草鞋一足造る。午後に表に???待ち有り。 X蔵参席してY蔵共に釜だきの木を出す。四時頃仕舞って??入る。晩には○○の叔母来る。同勢三人、夜賑かし。
一月五日、曇 起床七時半、朝仕事を終えて草鞋を造る。午前中三足。 午後相不変ず草鞋造り、仕上げ四足 晩には叔父乃家に風呂に入りに出る。
↑毎日草鞋を作ってますだね。うちに風呂は無いもようです。「あいかわらず」が漢語になったり怪しくなったり。 仕事ってなんだろうな。
一月六日、曇 母は味噌豆を煮る。僕は藁を打ち草鞋を造る。今日も相変不午前に三足。ちらりちらり雪が降り出して風呂を?る薪を出す。牛を飼って仕舞ひ事を終り、例の如く分家に風呂入りに出る。藁を二把打って帰宅。 晩には家内乃者三四人味噌びき出す。
↑やっと母登場。味噌豆は味噌を作るための大豆。「味噌びき」というのは味噌をつくるため煮た大豆を挽く道具。何人かで出しているので、たぶん石臼のような、でかくて重たいものなんだろう。 分家に風呂を貰いに行き、風呂のお礼に藁を二把打った…ということらしい。この分家がどこかについて(分家というからには本家のことではないだろうと)また親がもめる。私は無視してガンガン解読します。
一月七日、晴 降り積もった雪に朝日乃光がさ志た時は実に愉快なものだ。今朝は其の通りだった。先ヅ身支度を終えてZ蔵叔父と馬屋の肥をだす。牛の踏み肥だ。午前中出して終わる。 天気は良かった。日本晴れだった。小春日和のようだった。ほ???温い。又二人で○川の上を取り上げ仕末し川を掃除する。晩には風呂をし薪を割る。 夜味噌を挽く。大勢手伝ってくれて、賑やかく早く終わる。 臥床十一時、松江の唐津商人宿る。
↑ここまでで気持ちがよく表現されていたのは、「五時間『も』掛かった」だけだったのに、久方ぶりに晴れたせいか、御機嫌がたいへん麗しいようですね。急に情緒溢れてきました。こんな風に文章を書くにあたってノリノリの有様をみると、とても他人とは思えません。平たく言えば曾祖父の日記なんだが。 正月だというのに御馳走の話は全く無く(←ママンが拘った点。母曰「正月だってのに御馳走のことも書かず何書いとんじゃ!」)、毎日草鞋ばかり造り、一体どんな激貧生活かと思って読んでいってたら、唐津の商人を泊めるとなると、案外この家は結構裕福らしいのだ。 しかし正月に毎日草鞋を造り、牛の世話をし、味噌を挽き、家に風呂の無い生活のどこらへんがどんな感じに裕福なのか現代人としては想像が難しい。牛がいて味噌が挽け風呂をもらいに行け草鞋を造れるところが裕福っぽいのかしらん。
この後ぐらいからどんどん字が雑になり、それでも一日も休まず書いてるところは流石に真面目なのだが、ただでも旧字体や怪しい略字や謎のクセ字のせいで難しいのに、こちらとしては解読がより大変になる。形見として一部いただいた親父さんは読むのを諦めてしまっているほどだ(亡くなった折に、形見として各々一人につき数冊ずつ親族に配られた)。 飛ばして暮れの日記を開いてみたら、やはり草鞋をつくっていた事はわかった。
こういう読むのが難しい日記がン十冊あったらしい(マメ人間だったので)。 こういうのはアレだよな。自分史とか言って本にでもするものよな。よくわからんけど。私が思うには、要職についてる人や身分のある人なんかは結構日記を書いてたりもし、割りに残ってるものだが、下々のごくごく普通の人の日常の記録ってのは、公式には残らないと思うわけよ。それこそ、爺さんの日記とか婆さんの日記とか、そんな感じでしか。 ちょっと昔(や、他の文化)を舞台にした小説でも書こうかと試みた人はわかるだろうが、一番困るのは、「普通の人の暮らしぶりがサッパリわからない」事なのよな。例えば冠婚葬祭についてだとか、貴族や政治家の生活は調べればわかるんだよ。ところが庶民が難しいのよ。「庶民のパンツはどうだったのか?」とか「服の着替えはあったのか?あったなら何着ぐらいあったのか」とか「歯磨きはしてたのか?何で歯を磨いたのか?木の皮なのか、指なのか?」とか「顔は何処で洗ったのか?水は井戸で汲んだのか川から汲んだのか」とか「暇な時には何してたのか?」とか、そういう類が全然わからんのよ。
たとえば、お爺様の日記で言うならば、大正八年頃には、某山奥のど田舎では、たとえ女中や髪結いが住み込んでいるような割と裕福な家でも、どうやら「靴を履いていない(まだ草鞋)」という事がわかるのだ。後、正月からウキウキ川の掃除をしているので、どうやら河川が生活用水である事が疑われる。新聞を読むことは思わず日記に記録するようなことだとか。 ちなみに後に、ここの地方紙と並んで「大阪新聞」という記述が出てくるんだが、「なんでこんな地方に大阪の新聞が配達されてるんだ?」と聞けば大阪「読売」新聞のことらしい。私が子供の頃から人様によく取られている全国紙と言えば、「読売」「朝日」「毎日」あたりだが、読売は昔から派手に稼いでいたのか?等と思ってみたりする。
とにかく、庶民の生活は難しいのよ。 今は小説なんかでも普通の人が主人公が多いので、ちょっと前の小説を見れば、時代の流行や空気やファッションや風俗がわかったりするが、昔だとわからんのよ。 庶民の日常を知る上で貴重な資料だと思うんだが。 ちなみに、この日記が書かれている日記帳は、いわゆる「当用日記」とある例の本型で装丁のしっかりした日記帳なんだが、開くとイキナリ、天皇一家の名前一覧がのってたりして、とても時代臭を感じさせる。今現代には、たとえ山手線の路線図が載っていようとも、天皇一家の名前が載ってる日記帳なんて売ってそうにない。売ってるのかもしれないが、そうそう無いだろう。しかし昔は別に選んで買わなくても、どの日記帳もそんな風だったんじゃなかろうか。
ちなみに、親父さんが貰った日記はもう一冊あり、昭和何年かで戦時中なのだ。これがまた気になる。歴史に言う、世界に悪名高い「大東亜戦争(太平洋戦争)」中、山深いド田舎の庶民は何を考え、どんな事を日記に書きながら、どんな風に生活してたのかとっても気になるよ。(私は擁護論者じゃありませんが、日記帳に「大東亜戦争中に日々を綴りましょう」みたいな文字が『印刷』されている) おそらく行ってなければ冬には相変わらず草鞋をつくってたんじゃないかと疑われるんだが、どうなんだろうか。草鞋をつくらなくなったのは何年頃なのか、気になるね。 私としてはン十年殆ど休まずつづられた数十冊に及ぶ庶民の生活を一度全部通しで読んでみたいんだが、何処の部分が誰のところに渡ったのかもわからないんだ。昔の人なので、親戚多すぎて散ってしまっているし。残念だ。
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