非日記
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| 2002年11月29日(金) |
ちょっと教えてもらった。 |
まずは、ささやかな御報告。 私は賢者の石を読み終わりました。わお! 割りと面白かったよ。 感想も書かずに、読み終えたことだけ記録してどうするのか? だが、「読書の快感の一つは、読了にある」とどっかの先生もおっしゃっていた。 「確かにそれはある」と思う。 私は最初から最後まで曲がりなりにも通読したものでないと、「それは読んだ」という気がまるでしないんだ。ほんとのところ、何個所かぐらいは、そらで言えるぐらいまでは何度も繰り返し読んでないと「読んだ」と言えん気がするぐらいだ。 ともかく、
私は世間に流された! そして自分に勝った!
…何をえばって、何を情けなく思えばいいのか。それが問題だーよ(苦笑) だって、先日言われただよ。
某「何を読んでるの?」 私「はりーぽったー」 某「まあ、そんなもの卒業しなさい」 私「・・あなたは何を読んでるの?」 某「宮部みゆき」
その時、私の目は一瞬輝いた。輝いたのが自分でわかった。 よし、のって来た、ドン☆ だが…
「あら、そんなもの卒業すれば?」 と、言いかけた口を「んが、んぐ」で根性で縫い閉じる。その手前で閉じろ?ごもっとも。大人になりきれないんだ。
何故? さあ、何故だろう。私は知らない。 その意味は簡潔には「黙れ」なので、会話を継続する意志があるのに適当でないと思われたんだ。
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大家さんに結界の秘密をとうとう尋ねてみた。 やはり、近所の神社の祭事の一部らしい。夏と冬とに、一年に二度やってるとか。 「縄張り」とか「綱張り」とか、そんな風に言うとか。 そうして以前は、氏子が御神体を担ぎ出して、ハレの祭りをやってたらしい。 きっとその為の、言わばゴッド・ロードか、降臨エリアを急遽整備してるんだなと思う。
三十年ほど前は、もっと賑やかにやってたそうだ。 大家さんは氏子でないので、詳しい事はわからんそうな。残念だ。
八年前?、初めてそれを見つけて以来、毎年不審に思っている。 今年もまた、「結界」が張られる季節がやってきたようだ。
地上2mほどの高さに、細い縄のような、細い綱のような紐が、町内に延々と張られるのだ。大体は電柱などを使って、延々と張られる。勿論「どこまでも」というワケではないが、地図上では隣町あたりまでにも、それが侵入しているのを見た事がある。 その細縄には、何か濃い緑の艶々した葉っぱや(神事と疑われるので、きっと榊とかそのへん)、細長く切って二つに折った紙だとか、細長く切って少し捻じって折った紙だとかが、およそ2m間隔ぐらいでくっついていて、それが風にピラピラしている。 毎年毎年だ。
ざっと八年前、この町へ来て最初の年、まず、ある日、朝起きて外へ出て、それを発見した。 「なんだ、この結界は?」 と思ったのを覚えている。それっきり、私にとって、これは何かの「結界」だ。
その頃私が住んでいたところと、そしてその時分は大学生だった事もあって、少ない知人友人にたずねても誰も知らなかった。 私の通った大学は他県出身者が半数以上を占める大学で、生家から通ってる学生なんて探してもそう沢山、犬も歩けば棒にあたるほどは居ない。その中から町内の人間を探すことなど、私は最初から諦めていた。 およそ、ここは行きずりのものが集う学生の町だ。初めから、先祖代代に近くここに住んできた家なんて、そう多くはないだろうというのが私見だ。 だけどこの風習(?)には、淡々として古めかしく、特別な、一種異様な、雰囲気にイニシエの気配と香を感じる。「淡々と古めかしい」というのは、つまり簡素にすぎて意味不明なのに、「するのが当然」「せねばならぬ」という神聖さを感じるって事だ。 今となっては葬式仏教になってしまったような仏事ではなく、太古の神事の気配を感じる。軽く戦前からじゃなかろうか。
今でも家を建てるときに、土地の邪気を払い、土地神に「今からここに家を建てるよ?後で聞いてねえぞと文句言うな」とお伺いをたてる、工事の無事故と、これから建てる家の栄を願うような神事を行うだろう (傍目勝手に「たぶんそういうモンなんだろう」と思ってる。正確なところや詳しくは知らない。) そして暫く、土地の中心には榊かなんかが立てられて、まわりを綱で囲って結界を張ってある。 あるいは、 他所の地方や家は知らないが、うちでは埋葬用の穴を掘ってから埋葬までの暫くの間(つまり遺骨を家に安置して、実際に葬儀のあれこれを執り行っている期間中)、穴を放置している隙に何か悪いモノがそこへ入りこまないよう、穴のケガレなしを護る為に結界を張っておく。
初めて見たときに、ここらへんを思い出した。 しかし、私がここへ来て最初に住んでいた場所の裏には加持祈祷所があった。 俗な私には、加持祈祷と言われても、実際にどんな時に行き、どんな事をしているのかイマイチわからないが、その語感に似たような気配を感じるので、「この関係で何かやってるのか」とあっさり流したのだ。 それでも、どうやら毎年のようで、しかも隣町にまで侵食していってるところを見ると、これはそうそう、一回二回で終るような、ただ一人の人間の生涯が幕を引くとともに、或いは一つの家系が閉じるとともに、此世側の処理が全て終るような(つまり社会の側で、それにかかずらう必要がなくなるような)、そんな「個人的」な事ではないかもしれないと思い始めた(苦笑)
よって 「何故こんな俗なところに結界が…?このあたりでは、この時期に何か(アッチから)来る(事になっている)のか?」 と思ったわけだ。私には、人の道にそって延々と張り巡らされているそれが、例の「アッチ専用道路」を突貫工事で急遽引いているように見えたのだ。
あれは本当になんだろう? 大家さんは知ってはるんやろか。 今度、家賃を払いに行くときにでも聞いてみようか。
人の役に立った…かもしれない。 すこし?(笑) 珍しい事もある。 嗚呼、私には「一生涯、人の役など立つものか!」という自らと交わした固い誓いがあったのに…。
何をしたかと言えば、子供と大人の通訳をしたのだ。 中立者ならではだ。それが役に立つ(←?)事もあるんだな。 手が滑ったのだ。余計なことだった。 なんてゆうか、はがゆく。それで苛ついて手が滑ったんだ。自業自得だ。
今この年齢になっても、私だって、人に自分が何をどうしたいのか、どうして欲しいのかを、いつも上手く言えるわけじゃないが。 もしもそれをキチンと言えて、そしてその前にまず自分自身で自分が何を望んでいるのか明確に感じることができたなら、相手が「それは駄目だ」と拒否する時にも、諦めるか戦うか、決めることはできなくても判じることができるだろうにと思う。
自分より早い人の速度に追いついたり、同じ速さで長いこと並んで「走る」ことはできない。そりゃ、私に言わせれば、運動の苦手な人間にオリンピックの陸上選手と同じ速さで走れと要求するようなものだ。 が、自分より遅いものを待つことは、できなくもない。
・・・と、思うんだが、人に言わせれば嘘かもしれないな。早い時もあるし、遅い時もあると言われる。 けれど、大体は喋ることも動くことも遅いと言われて、人を苛立たせるんだ。 自分が鈍いだけならいざ知らず、挙げ句には、人に「もうちょっとゆっくり喋って」だの、「もう一回、最初から言って」だの、「それってつまりこういう事?」だの、鈍いなんてもんじゃないね。何回も巻き戻されてるよ。 早いときはね、早い事もあるんだよ。
だけど、その子は、とても感動的なことを言った。 「店内でお待ちください」 「店内ってどこですか?」 それは、なかなか難しい質問だ。 君は本当は自由に歩き回れる。だが理由が何であれ、前提がある限り、自由は初めから決まっているんだ。君は自由が何かを私にたずねるのか。それは一晩かかっても、個人的な定義すら説明できないな。
某「そんなの読んでないで、読むべきものから読みなさい!」 私「えーだってー」 某「劇場でドビー(?)を見たいんでしょ!?」 私「うん」 某「本を読まずに、先に映画見たら?」 私「それはできない。無理」 某「じゃ、読みなさいよ!」 私「えー、だってー。私だって頑張ってるんだよ。すすんでないけど」 某「もっと頑張りなさい」
というわけで、怒られたので、頑張って読む。先日は頑張ったよ。 ねっとりした黒髪に、鉤鼻で、土気色の顔をしたセンセイも出てきたしネ! ハハハ。 「…こいつか」と思うと、もうソレだけで、なんかオカシイ。指で押さえながら、その一行を何度も読み直して笑ってしまう。 「それで私は、これを好きになるのかな?」 と思うと、オカシイったらないよ。 喩えれば、今まさに見合いの席についたところだ。座る前に「どうもはじめまして」と頭を下げて挨拶しつつさりげなく観察し(同じ行を何回も読んでサリゲナクもへったくれもないが)チラっと見やっておいてテーブルに目を落とし、「さあ、どうかしら?」というところだ。
ともかく、一目惚れが多いわりに保留期間の長い私は、今のところ何とも言えないが、とりあえず、「…好きになってやっても良いぜ?」というところ(偉そうだ)
先日、某さんと電話をしていたら、めっちゃめちゃ面白いことを言いやがった。 器用にも、例によって電話しながらテレビを見てたらしく、突然 「まあ、……なんですって」 と言い出したので、それに対して私が「それじゃ、あなたも・・・・なの?」と頭の悪さも赤裸々に、たいそうくだらない事を言ったら、その切り返しがまた、完成された駄洒落ですばらしかったのだ。 私はてっきり、「はあ?何言ってんの?」か「そんな、ひどいわー」とぐらいしか返せないかと思って、「しまった。ボケたる私が下手なツッコミをするとは」と反省した直後だったのだ。 まさか、アアかえって来るとはな!想像を絶したわ。 あまりのさりげなさに、私、無駄に感動したよ!ほんっとに! ツッコミしかしないのかと思ったら、やればボケもできるのね!両刀か!?しかもボケにボケでかえすとは、なんて高度な!すごいすごーいッ!姐さん、天才じゃ!ギャハハ!生きてるって素晴らしい(落ち着きましょう)
まるで小説の登場人物の会話のように(まるでその切り返しを引き出す為に、先の台詞が吐かれたかのごとく)完成されていたよ。
「このオカシサを人様にもわけてあげたいチェルシー☆」と思ったのだが、残念ながら、直接プライバシーに関わる情報に溢れているので、公共の電波に等のせることができない。嗚呼、残念。残念至極。 一瞬、「…なに!?」と思い、共通の友人諸氏に 「おい、聞いたか!?だぁ!なんで君等、ここにおらんのじゃ!?聞けよ、これを!人生の損だ!ああ、これを聞いたのが私だけなんて、なんて勿体無いッ!馬鹿野郎!こんな時はここに居ろよ!」 と内心絶叫したぐらいだ(無茶言うな)
星のカービィだったか言うアニメがあって、丸いピンクの奴が食って闘うヒーローものだ。「これなんだろう?」と第一回だけ真面目に見たことがある。画面的には、トムとジェリーみたいな雰囲気だ。 悪?と戦うヒーローとして誕生したカービィなのだが、さる事故で、成熟しない幼児(?)のまま目覚めてしまい(完成形になるま宇宙を漂いながら成熟しつつ寝てるはずだった)、おっちゃけた惑星ののどかな国に居座って、そのまま闘うはめになってしまってるのだ。 成人(?)して目覚めれば物凄く強いはずだったのだが、幼児なので、バキュームのようになんでも丸呑みして食って闘うのだ。しかも頭は丸い、…じゃない悪い。 だって知能も経験もナッシング・ゼロからスタートだ。 確かそんな感じ。 ジャイアンのような領主が通販で魔物とかを取り寄せてしまって、それと戦ってた。
私は似たような丸くて青い騎士が好きだったんだけどね。第一話で彼がその秘密を教えてくれたのだ。代理人だか何かだったらしい。「こんな状態で目覚めてしまうとは、なんてことだ!」とか言って(笑) 声が良くて渋くてカッコイイの。ボールみたいに丸いんだけど。もう出て来てないのかな?
テレビをふと付けたら、やっていた。 今日は実に面白かった!すごかったよ、今日は!目が眩んだ。
ボス羊「しょせん羊は羊か…」 ボス羊「羊には羊の幸せがある」 ヒロインの少女「でもあなたは、その鎖を断ちきったのよ」 ボス羊「だがもう後戻りはできない。オレは狼として生きる」 ヒロインの少女「また旅に出るの?」 ボス羊「オレは自由に生きる。いつか、また会おう、カービィ」
ちょっと先生!スゴイと思いません!? 狼として生きる羊! アオーンとか咆えながら走っていった。
職業選択(?)の自由もこれに極まれりだ。思わず感動した。よかったよ、今日の脚本、てゆうかテーマが。すばらしかった。 「そういえば、来年は羊年か…」等と思ってしまった。タイムリーでもある。
昔ちょっぴり考えたことがあるんだ。 「何故、草食動物はどれほど餓えても仲間を食わんのだろう?死体すら食わない」 草原の干ばつで、飢え干上がって、点々と倒れてる動物の死体と、その間をよろよろすすむ草食動物を見ながら、めっちゃ不思議に思ったことがある。 聞いたところでは、草食動物だからといって、けしてタンパクを消化する機能が全く無いというわけでもないのだ。消化器系には、雑食か肉食であった頃の名残があるらしい。
少なくとも、例えばこれが人間なら、たとえ消化ができなくても、それを知っていても知らんくても、とりあえず食うだろう?食うだろう、きっと(苦笑) サンジさんとミツアミ髭の親分ではないが、だって死にかけてるんよ? 「すまない」とか思っても、吐いても食うだよ。 いっそ、「君を食って嘔吐するわけにはいかん!旨いと思わねば!」と思うかもしれん。 「こんな味だったか、おまえは…」ってよく噛み締めて思わず味わうだよ、きっと。 いよいよ危ないとなったら、「僕が先に死んだら食って良いから、君が先に死んだら食っても良い?僕、我慢できない感じになってきちゃったんだけど…」って聞いちゃうかもしれないだよ。 しかもOKが出たら、「顎を動かす力が残ってるうちに、どっちか先に死んだら僥倖だな。せっかく互いにOKを出してるんだし」と思っちゃうかもしれないよ。
何か映画。 吹雪に閉ざされた山の上で人々が次々と餓えて死にかけてるか何からしい。 「その時、神から与えられた食物が!」 …とかなんとかアオリがついていて、皆の喜びに満ち溢れ感動しきった笑顔がパッケージにのってたのだ。 見た瞬間に、 「神から与えられた食物?そりゃ人間だな。決まってるよ」と決め付けたんだが。事実はどうであったろう?
ともかくも、だが共食いをさせた草食動物は、何故か狂牛病になってみたりしたのだ。それを肉と知らずに食わされていたにもかかわらずだ。 実にミステリー。 そして、もう一つ。 もし、群れなしていきる草食動物が肉を一度でも食んだなら、そうして生きる事ができたなら、だがその一頭はもう二度と群れには戻れないのではないか?って事だ。昨日までの仲間が食い物に見えるんならな。 現実的にはそんな事はまず無いわけだが。だが、この何千年もの間で、一度も、ただの一頭にすら、おこらなかったのだろうか?それはそれで不思議だ。人間の目で見れば一種異常にも感じる。 それともそれは、例えば永遠にゼロはゼロである数学のように、異端の無い世界なのだろうか。だがそれならば何故、雑食動物が環境によって偏食動物になるなんて事がおこりうるというんだろう?
…すみわけのルールなのだろうか? 肉食「僕は君を食べる。君は草を食べる。OK?」 草食「OK。それで行こう。僕は頑張って草を探し、君からは逃げることにするよ。じゃあな」 肉食「おう。だがまたすぐに会おう」 草食「二度と会いたくねえな」 肉食「そう言うなよ、冷たいな。俺に餓えて死ねってか?」 草食「冷たいのは誰だ。俺に死ねってや?」 肉食「幸運を祈る」 草食「グッドラック、お互いにな」 …人知ではありえん。道徳的にはなおさら。
何故草食動物は肉を食わないのかをどう考えるか、オヤジさんに聞いてみた事がある。 消化不良をおこすとか、本能がどうとか、それを食べ物として認識する知性が無いとか色々理由は考えられてるが、「僕はもっと本質的な理由は違うような気がする。もっと何か科学的とは別の、我々人間にはまだわからない理由があるような気が…」等とブツブツ言い沿えていた。
彼はアア見えて、ひどくロマンチストなのだ。その昔私が読んだところでは、奴のパーソナルナンバーはノイン。賢者や隠者、学者や魔術師に多い、高い精神への到達を司る数だそうで。ついでに乙女座の、合い言葉は「くだらん」だ(笑)
昨年と同じく、今年もイマイチな盛り上がりのまま、枯れていこうとしている庭のもみじ。 そのかわりではないが、先日、妙に派手に色変わりをしているナンキンハゼを見た。夜、電飾の明かりにピラピラと照らされて、実に派手だった。まるで七夕の笹飾りかクリスマスツリーの飾り。 一瞬、 「どこかから飾りが飛ばされてきて、引っかかってるのか?」 と目を疑ったほどだ。ギョっとした。 そのようには自然に色が変わったのだろうに、どこか不自然で、パっと見では、全然ナチュラルに見えなかったのだ。
昔読んだ本に書いてあった事を思い出す。 ↓ 「日本人は、「自然」が好きなのであって、けして「天然」が好きなのではない」 ↑ 英語でnaturalと言えば主に「天然」の事だが、日本では「自然」という意味での解釈の方が強い。日本庭園というのは、「自然に見える」ように非常に繊細に「つくりあげられている」のであって、実のところ少しも天然ではないという話だ。 天然では、単に野暮ったいのであって、あくまでも自然でなければならないのだ。 そこで言われた天然は「人の手が全く加えられていないさま」という方の意味で、一方の自然は「わざとらしくないさま」の方の意味が強調されている。
異論はない。そう思うと、私は全く日本人だ。 先日見たナンキンハゼの紅葉は、間違いなく天然ではあったが、自然には見えなかった。それで異様さを感じて驚いたというわけだ。私はそのナンキンハゼを面白いとは思ったが、綺麗だとは思わなかったわ。
だんだんハリーの映画が近づいて来て悲しいかぎり。 CMで見たヘンな生き物を見たくて頑張ろうとしてるのだが、さて最終はいつだろう?(既に逃げ腰か)
「LIVのTRYに入ってるLets go to the moonが好き」と言われ、誘われたので聞いてみる。確かに好きそうな曲調だ。リズムがある。私はTRYの曲調も好きだがね。 最近流れてるので一等好きなのは、六本木心中なのだ。懐かしい。あの雰囲気の曲は昔から好きだ。やっぱロックンローラーなのか、私。 天城越えみたいなのも好きなんだけれども。やっぱ愛に生きてるからかなー?(まだ言うか、しぶとく)
クラシックでも、繊細で軽やかなピアノ曲等より、オーケストラのフルセットだとか、パイプオルガンだとか、楽器が悲鳴をあげてるような音が飛び交い、人を錯乱させるが如き豪快、一種騒々しいのが好きなのだ。 唯一に近く好きなピアノ曲がショパンのエチュード革命だと言えば、趣味がわかりやすい。 感情的なノリに近しくて、共感しやすく、入りやすい。
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