2011年03月27日(日)
支え
>闇深く心細く それでも光射し 泣いたり笑ったりさ
>別の街に暮らす君よ 寄り添ってやれないが 僕はここにいる
>別の街に暮らす君よ わかっていてほしい 僕らはひとりじゃない
(レミオロメン「電話」作詞作曲:藤巻亮太より)
25日の修士さんのブログを見たら、レミオロメンの「電話」を聞きたくなり、11日に地震が起きて初めて音楽を聞いた。
まだそれほどライブには行きたいと思わないので、地震後に初めて行くライブが何になるのかは分からないが(今のところ鶴瓶噺のチケットしか手元にない)、地震後初めて行くライブが開演した時、私の日常が元に近い形で戻るのだろう。
ある番組で被災地に届けたい音楽で、竹内まりやの「元気を出して」が上がっていたが、歌詞の意味を分かって提案したのだろうか。
よりによって「人生はあなたが思うほど悪くない」の部分を流したテレビ局の良識も少し疑った。
たとえそうであったとしても、今はまだ早いだろう。
地震直後のログがある掲示板を見ていて、自分が覚えている以上に余震があったことを実感する。
こんなに揺れていたら、地震酔いがしばらく治らないのも無理はない、と妙に納得した。
近所の仏具店で、数珠や御守に交じって、耐震グッズ(家具の脚に着ける転倒防止のジェルシート)も売られていた。
宗教的なものを毛嫌いしている私ですら御守にちょっと頼りたくなっていただけに、この品物のチョイスにこの店の理性的な一面を垣間見たような思いだった。
2011年03月25日(金)
3・11
9日から父が上京してきたので、私は9日午後〜11日まで有休を取得し、せっかくの機会なので関東の観光地巡りをしていた。
当初の予定では、10日に浅草・スカイツリー。11日に江ノ島・鎌倉。
11日に見る予定の「明石家さんまプロデュースPart16」は恵比寿ガーデンホールで行われるため、鎌倉だったら湘南新宿ライン一本で行けるので都合が良いからだ。
ただ、天気予報によれば10日は快晴だったが11日は晴れのちくもりで、にわか雨もあるという。
江ノ島は晴れた日に行きたいので、予定を変更して江ノ島・鎌倉は10日に行き、11日は浅草・スカイツリー見学にした。
私のデジカメには、11日14時43分に撮影したスカイツリーが写っている。
これを撮った後、浅草まで東武電車で戻ろうと業平橋駅に向かおうとした時だった。
父が「あれ?電車が線路で停まっとる。地震?」と言った。
ほどなくして、横揺れが来た。
立っていられないほどではなかったが、足元が大きく不気味に揺れるので、地べたに座り込みたいと思った。
しかも長い。
近くのビルの中にははっきり分かるほど左右に揺れているものがある。
気がつくと、父が20年ぶりぐらいに私と手を繋いでいた。
時々、ぎゅっと強く握って来る。
見学客の中には、「やだ、やだ、怖い、怖い」と半泣きになってる人もいた。
ツリーの中からは大勢が出て来た。クレーンもぶらぶら大きく揺れている。
しかし、スカイツリーの作業員の方達は冷静で落ち着いていた。
「ツリーは倒れることは無いけどなぁ」と笑ってる人もいた。
ここで作業員の方たちが緊迫した様子だったらパニックになっていたと思う。
落ち着いた作業員の方々の様子を見て、落ち着くことが出来た。
やっと揺れが落ち着いたが、東武電車は相変わらず停まっているので、歩いて浅草まで戻ることにした。
途中のお寺では石灯籠が落下していたり、会社の駐車場では、揺れに押された軽自動車が車止めに乗り上げていたりしていた。
どのビルからも人が出て来ていて、中に戻る気配はない。
iモードはなかなか繋がらないので詳しい情報が分からずやきもきしていたが、あるビルに差し掛かった時、60代ぐらいの男性がテレビのリモコンを持って外に出て来ているのを見て、ワンセグがあることを思い出した。
ワンセグでNHKを見たら、お台場の火災が映っていた。
東北地方で震度7の地震が起き、中野区では建物が倒壊し、お台場では火災が起きているという。
何故東北で大地震が起きれば中野区やお台場で被害が出るのか分からなかったが、被害が連鎖し、自宅も倒壊したり火災に巻き込まれているのではないかと焦ってきた。
松屋浅草の近くに着いた時、今度は茨城県沖の地震が起きた。
周囲の人は抱き合ったり、手を繋いだりし、あちこちで悲鳴が起きた。
再び揺れが収まったのでトイレを借りようと松屋浅草の中に入ったら、今日は営業を止めるとのことで借りられなかったので、浅草寺に移動した。
この時点で、私達はまだ恵比寿に行こうとしていた。
電車が動いていれば、浅草線で三田まで行き、三田から田町に乗り換えて、JRで移動するつもりだったが、浅草線は運休。
次に考えたのが都バスでの移動。
池袋東口まで行く路線があるので、池袋→渋谷→恵比寿、とバスを乗り継いでいくことにし、バス停へ急いだ。
バス停には既に行列があったものの、とりあえず並ぶ。
並んでいる間にも揺れが何度かあった。
待っている間に明石家さんまプロデュースライブ開催について問い合わせの電話を掛けたが、発信規制が行われているため、繋がらなかった。
バスがなかなか来ないので、行列から何人か抜ける人も出て来た。
本来の時刻表を調べようとiモードで路線情報を見たら、今まで運休していたが16時から運転再開するとなっていたので、寒くなっていたがそのまま待つことにした。
待っている間も揺れてる感じがして、その度に電線を見て確認した。
20分ほど待つと、2台続けてやって来た。
行列から自然と拍手が起きた。
乗り込んでみると、行列から抜けた人達がいたため、なんとか後部座席に2人座ることが出来た。
乗客の大半は池袋まで行くつもりのようで、池袋まで行ってしばらく待てば電車もじきに動くだろうと予想し合っていた。
まさかJRは終日運転見合わせ、私鉄・地下鉄も21時頃から一部路線で徐々に運行再開、ということになるとは殆どの人が予想していなかった。
途中のバス停には大勢並んでいたが、バスは既に満員のため、停留所にはなかなか止まらなかった。
この行列を見たら、池袋まで行っても渋谷行きのバスには乗ることが難しいように思えた。
うまいこと渋谷まで乗ることが出来ても、ライブが行われるかどうか分からないし、ライブが行われたにしても帰りの足の確保が危うい。
このバスは私の自宅の最寄りに停まるため、ライブを諦めてそこで降りた方が賢明のような気がし、父に提案した。
父もその方が良いだろうということで、終点まで行かず、自宅最寄りのバス停で降りることにした。
降りる予定のバス停に着いた。
ここは私の家の最寄り駅の一つ隣の駅の近くだが、普段の時間帯だと見かけないほど大勢の人が歩いていた。
今から歩いて自宅に向かう人たちだった。
駅近くのスーパーで買い物をしようと思ったが、2軒あるうちの1軒は臨時閉店をしていた。
開いている1軒は、泊まり込み用の食材を買いに来た人達がカップラーメンや菓子パンなどを買い込んでいた。
まだこの時点では水もあったし、パンや乾電池もあった。
出来あいの総菜と米、水、お茶、カップうどんを買い、自宅に着いたが、エレベーターが反応しないため、非常階段を使う。
自宅のドアを開けて、まず目に入ったのは、棚の上から落ちたフライパンとふただった。
お風呂場ではシャンプーやボディソープを入れているラックが倒れていた。
居室では、3つある本棚のうち、無事だったのは1つだけだった。
転倒防止器具をつけていた本棚は倒れなかったものの、棚板が落ちたため、書籍も床に散らばっていた。
スライド式のキャスターがついているため転倒防止器具をつけていなかった本棚は、テレビにもたれるように倒れていた。
倒れる際にキャスターが壁に当たったようで、石膏ボードが剥がれていた。
壁にぴったりとつけていたローチェストは30cmほど前に移動していて、今回の地震の凄さを最も感じた。
家にいたら恐怖のあまり動けなかったと思う。
倒れている本棚を片付けようとしたが、元のように立てかけるのは危険だし怖かったので、暫定的に横倒しにした。
部屋の片付け作業をしていたら、緊急地震速報が鳴ったり、余震があったりしたので、その度に携帯を片手にドアを開けに行った。
やっと大まかに片付いたものの、とても料理をする気力が湧かなかったので、炊きあがったご飯をおにぎりにし、先ほど買った総菜と買い置きをしていたさば味噌煮の缶詰で遅めの夕食にした。
お風呂も入る気がしなかった。
怖くてとても今日は眠れないと父に言うと、横になって目を瞑ってるだけでも違うから、と横になることを勧められた。
布団を敷かず、こたつに外出着のまま潜った。
ヘルメットが無いため、クッションを頭の周りに敷き詰めた。
電気はいつも真っ暗にしていたが、今日は二色光にした。
NHKの震災特番も点けたままにした。
携帯も放さないようにした。
午前1時ごろに寝た気がするが、午前4時ごろに緊急地震速報が鳴り飛び起きた。
眠ってても緊張したままだったのか、携帯は握りしめたままだった。
2011年03月24日(木)
水が消えた
金町浄水場の件で、元から品薄だったスーパーはもちろんのこと、昨日の18時ぐらいまではあった自動販売機からも水のペットボトルが消えた。
23区でも金町浄水場メインのところと朝霞浄水場メインのところがあって、この辺りは朝霞浄水場メインなのになぁと思うが、微量ながら金町浄水場の水と合流するところがあるらしくて、23区全体が乳児は飲用制限がかかっていた模様。
実家からは、これ以上原発の被害が拡大するようなら会社なんか辞めて帰って来なさい、とまで言われた。
いつそれを見極めるか。
最近は地震が起きるとNHKよりもラジオをつけるようにしている。
テレビよりも距離感が近いし情報も早い気がする。
2011年03月20日(日)
最近
3月9日に上京していた父は本来の予定なら12日に福岡に戻る予定だったが、父の勤務先の方に配慮していただき、21日まで東京にいてくれた。
父には速やかに福岡に戻ってもらうのが本来だが、地震から24時間経たないうちに一人になっていたら、おそらく私は不安定になっていたと思う。
本当にありがたく、一生忘れないと思う。
東京も余震は途切れず、一日一回は震度3クラスの地震がある。
父も私も地震酔いの症状に陥ってしまい、本当に揺れているのか自分が思い込んでいるのか分からなくなってきたので、カーテンを見て、確認する毎日だ。
緊急地震速報メールも溜まっている。
計画停電は、自宅も勤務先も今のところ計画予定外地域だが、スーパーの棚は品物が不足していて、ティッシュ、米、トイレットペーパー、パン、インスタントラーメンはどこもすっからかんだ。
ただ、コンビニではパンが全くないのに、その隣のパン屋では焼きたてのパンが割とたくさん売られている。
米も米屋に行けば余裕である。
今日はティッシュが後1箱になったので買いに行ったが、スーパーやドラッグストアにはなかった。
だが、商店街の薬局には一人1ケースの制限付きで売っていた。
米も生鮮食品も、商店街の小売店では、スーパーほどのパニックは無い。
商店街の底力を見せつけられた思いだ。
いつまで続くか分からない非常事態。
笑いに行くことや笑いを求めることが特別ではない日はまた訪れると思うが、それは一体いつになるのだろう。
3月11日以降、失ったことや変わってしまったことが本当に多すぎる。
2011年03月12日(土)
取り急ぎ
自宅は本棚が倒れたり、壁にくっつけていたチェストが30cm前に移動してたり、棚の上にあったフライパンが落下してたりしてましたが、自分自身は無事です。
被災に遭われた方々には心よりお見舞い申し上げます。
2011年03月04日(金)
第3回CLUB CRAWL寄席
何となくだが、今回はあまり動員が良くないのではないだろうか、という予感を抱きつつ足を運ぶ。
開演前、客席を普通に瓶二さんがうろついていたので、ちょっとびっくり。
10分押しで、開演し、小堀さんと瓶二さんが登場。
瓶二さんに言わせれば「思ってたより入っている」「徐々に客が増えている」そうだが、今回の入りは25人程度。
「初回はマンツーマンに近い人数だった」とも。
ちなみに2回以上来たことがある人を訊ねたところ、手を挙げなかった人が他にいると思いたいが、挙手したのは私を含めてまさかの3名…。
どうりで、他のライブでちらほら見かける顔がこのライブに限っては会わなかった訳だ。
瓶二さんの服をいじろうとした小堀さんだが、その服は師匠(鶴瓶さん)から譲ってもらったものだといわれるや否や、速攻で態度を変える(^^ゞ。
色んなところから服を贈られる鶴瓶さんは、弟子には三軍レベルのものを箱単位で送ってくれるそう(一軍は仕事関係の知り合いやお世話になってる人が優先されるそう)。
小堀さんはブログのコメントでも見かけたが、髪の毛の伸び散らかし具合がひどくて、この髪型で「ビートルズです」と名乗るのは、イギリスにも失礼なレベルのような気がすると思ったが、現在、「あとん」の絶賛PR活動中のため、プロモーション活動の一環で「あとん」に成りきっているからこの髪型だとか。
落語の感想は別枠で。
2011年03月03日(木)
4年連続5回目
「鶴瓶噺2011」東京公演のプレリザーブ、第三希望の金曜日が当選。
「鶴瓶噺」は2007年から行っているが、2007年のチケットは自力では手に入れられず、オクを利用した。
2008年以降は、どういう訳か「鶴瓶噺」のプレリザーブで外さなくなり、今年もその幸運は健在。
平日だからいっそのこと有休取っちゃえ〜と、今から休みたい欲全開。
アマゾンですき間本棚を注文し、土曜日に届けてもらうことにした。
組み立て式だが、発送重量13kg…。
某リフォーム番組の匠になったつもりで頑張ろう。
ちなみに私が注文した時は9000円だったが、今見たら何故か約12000円に値上げされていた。
ちょっとラッキー。
2011年03月02日(水)
さんがつ
2〜3日前に第一報が流れていたが、今日正式にジャリズム再解散が発表された。
山下さんのハードル高すぎる新芸名はおいといて、やはり渡辺さんの落語家転身は驚きで、テレビでそのニュースを見た時、ベタに「何!?」と声に出して驚いてしまった。
ジャリズム第一期の頃、私はお笑いに全く興味がなかったので、名前ぐらいしか知らなかったが、再結成したときは、人生で一番お笑いを生で見ていた頃だったこともあり、毎月渋谷のシアターDでやっていたオールナイトトークライブを見に行き、毎回、腹筋が苦しくなるほど笑い転げた。
その時、ジャリズム再結成に当たり断った作家の仕事をもし引き受けていたら、500万円を稼いでいたと渡辺さんが話し出し、「ジャリズムでこの500万を稼ごう!」と舞台で山下さんに持ちかけたら、それについての山下さんの反応がものの見事に他人事だったので、なんとなくだが(このコンビをずっと見続けられることはなさそうだな…)と思ったものだった。
オモロー山下を舞台で見る日が来ることは、今の私の体たらくだといつまで経っても来そうにないが、渡辺鐘でも渡辺あつむでも世界のナベアツでもない、「桂○○」と名乗って高座で落語をやっている渡辺さんを見る日は必ず来ると思う。
キャリアを捨てて入るということだから、初めて見る姿は、もしかしたら高座返しで出て来る姿かもしれない。
それから徐々に出て来る順番が遅くなる渡辺さんを長期的に見て行くというのも、私の落語会通いの中で新たな楽しみの一つとなりそう。
次の上方落語家名鑑には絶対載って来るし、上方落語協会会報誌「んなあほな」にも載る。
「彦八まつり」にもいつか参加している筈。
楽しみは増すばかり。