「博士の本棚」(小川洋子著:新潮社文庫)を読んでいたら欲しくなったので、「富士日記(上・中・下)」(武田百合子著・中公文庫)をまとめ買い。
タイトル通り日記なんだけど、一冊が非常に分厚く、知っている作家の名前もちらほら出て来たりするので、読みやすくて且つ読み応えあり。
軽めのエッセイに飽きていたのでちょうど良かった。
昨日は「誰なんだ」を見に神保町花月へ。
何となく予想はしていたが、“誰なんだ”とされる人は小堀さんだった。
しかし、あの役までも小堀さんだったとは思ってなかったので、最後にメールが届くシーンでは(うわぁ〜、この展開大好き!)とぞくっとした。
谷やん、こういう脚本を書く人だったのか、と新たなる発見。
今年は結構ライブに行く年になるかもなぁ、と思う。
というのも、予定を含めて1月は4本、2月は1本、3月は4〜5本と、年明け3カ月で既に去年ライブを見た回数の半分を占めるペースなので。
去年は仕事と体調の関係であまり行動に移せなかったのでその反動もあるのだろうか。
週刊落magaに、「第二回上方落語台本入選作発表落語会」の模様が。
「ハンカチ」は泣ける噺らしい。
私はあの噺はノンフィクションに限りなく近いフィクションと捉えているせいか、どうも泣く気にはならない。
むしろ、件が件なだけにサゲの奥さんのセリフに気持ちが温かくなって、ふふっと微笑が浮かんでくる噺の印象が強い。
古典落語は噺のあらすじはもちろん、オチまで周知の事実である。
噺の内容は速記本を読めば事足りる。
何もかも知っているのに、お金を払ってまで観客は噺家に何を求めて噺を聞くのだろうか。
私は自分の想像力を超える話芸の力を感じるために噺を聞きに行っている気がする。
おんぼろの長屋や、豪華絢爛なお茶屋の様子が細部に渡って見える気がする。
噺家の口から、速記本で読んだことがある噺が繰り出されるが、可憐な女性や気が良い悪者や、傲慢な高利貸しなどが、目の前に実際にいるような錯覚に陥ったりする。
文字だけでは読み取ることに限度があった、愛情や羨望や憎しみを肌で感じ、温かさに包まれることもあれば、理性を超えた感情の行く末に恐ろしさを感じたりもする。
落語がただの本読みや一人芝居なら、こんなに長いこと残りはしなかっただろう。
人生経験を積めば積むほど、落語を面白く感じられるようになるのだろう。
もっともっと深くなりたい。