目次過去未来


2001年04月29日(日)  言葉/劇を観るとこうなる

所詮 人は言葉の上にしか生きていけないのであって。
そうとはわかっていても やっぱりそれだけじゃないのが僕らだから。
人として生きるこの幸せを
噛み締めながら歩いていきたい。


せっかくこんな素晴らしい世界を目の前にしているのに、
絶望ばかりじゃもったいない。そう思えないから絶望してるんだろうけど。
残念だよ。今は、今しかないのにねぇ。


私の幸せを支えているのは私で
私だけでは幸せになれないことは十分わかっているつもりだけど
私がいなければこの世界は無いのと同じだから
もう少し生きていたい
もう少しだけ、生きることを認めていたい



どれもこれも、演劇の仕業だ


2001年04月26日(木)  問と解

『問:低俗が高潔を装っている。そいつは低俗か。
 問:悪が善を装っている。いつまで善でいられるか。』


最近パソコンを開かない生活が続いていた。
物を書くほど、手が空いていなかったからだ。頭はいつでも何かを考えているのに。人というのはこうやって何も伝えられずに死んでいくのかなぁ、なんて思ったりする。我ながらクダラナイ。

やるべきことが多い時ほど、関係のないことに気が向いてしまう。なんで自分は今やらなきゃならない1つのことに集中できないのかなぁ、と自分が厭になったりして、それでさらにまた作業が進まなくなったりする。でも、実はちょっと違うのかもしれない。やるべきことが溜まっている時に何か違うことに気が向いてしまうと、そこで自分をいちいち責めてしまうから、なんだか忙しいときの自分に限って散漫に感じるんじゃないだろうか。本当は、いつも散漫なのだ。それでも、自由に散漫だから、無駄なことを考えてても気にならないし、許せる。
いろんなことをこうやって考えていくと、ちょっとラク。

自分を巧くリラックスさせられる時と、追い詰めてしまう時がある。自分に自信を持って臨んだ方が上手くいくことと、謙虚になった方がいいことがある。自分に巧く嘘をつけるときと、嘘をついてはいけないときがある。見極めは難しい。


『解の例:人間性に完全などありえない。』


2001年04月08日(日)  のんべんだらり〜んバカ

何かを思いついてしまうと、パソコンが立ち上がるまでの時間がもどかしい。

最近、ヒマだ。
というよりも、毎日が休日だ。
引っ越してまだ間がないから、そんなにほいほいヒマがやってくるはずもなく、部屋を片付けたりしようと思えばやることはいくらだってある。しかし、なんとなくだらだらしていたい気分なので、やるべきことは後回しにして、同居人のゲームボーイカラーを借りてスーパーマリオランドに没頭してみたりする。GBカラーを使うことにほとんど意味のないゲームだが、そこがまた、なんともいえない味がある。いや、単なるバカかもしれない。しかも、その同居人はバイト中だったりして、こんな時間の使い方をしているのは自分だけかもしれないということに気付く。
自分のアホさ加減に頭が回る頃には、時計の長針はもう2周目が目の前で、そろそろ左手首が痛みを訴え出すので、仕方なく手を休める。断じて、自分の行いに反省などしたわけではない。まだまだのんびりしたい気分はやまず、思い立ってコーヒーを入れる。コーヒーは美味い。香りを嗅ぐだけでも、なんともいえない幸福感がやってくる。
カップ3杯分のコーヒーを飲み終える頃には、幸福クンと満足クンに連れられて、私のところに睡魔クンが御機嫌伺いに来る。この部屋には、カフェインが眠気をどうにかするなんてことを信じている人間はいないのだ。そこで私は睡魔に連れられ、隣の部屋の自分のベッドに潜り込む。だいぶ前からわかっていたことだが、うちの睡魔は強姦魔なので、私はひとたまりもなく眠りに落ちてゆく。
・・・そして1日が終わってしまった。
なんてことだ。これじゃ、本当に毎日が休日じゃないか。
とはいえ、反省できない性格だから、一晩経つと「あぁ、昨日はのんびりできてよかったなぁ」なんて、前日の自分を羨んでみたりする。
それでも、こんなにおめでたい日常は、そう長くは続かないだろう。
さすがに本当に毎日が休日では、生活が成り立たなくなってしまうから。
さあ、これからが戦いの毎日だ、なんて、うまくいくのかどうか。お楽しみに、ってところだ。


2001年04月05日(木)  困惑

こんなに嫉妬深いのは自分じゃないと思いたい
こんなに醜いのは自分じゃないと思いたい

独りでも大丈夫だったはずだ
誰かに側にいて欲しいなんて、
自分だけを見ていて欲しいなんて、
そんなだいそれた欲求はとうに捨てたはずだった

今のこの自分はどうだろう
この愚かしさ
この存在の虚しさ
何もかも放棄してしまいたくなる

この世の中に、
ただあのコさえいなければ


2001年04月03日(火)  家庭の必要性について語ってみる。

何十年か前は、日本でも家族の役割分担がはっきりしていたと聞く。
父親が外に働きに出、母親が家事全般をし、家の中にいる者(老いた者や母親、あるいは年上の兄弟)が小さな子どもの世話をし、大きくなった子どもは将来のために学校に通った。また、子どもはある程度成長すれば、他の家に嫁ぐか、職に就いた。大体において、この図式が崩れることは少なかったと思う。時にはそれほど大きくない子どもが親や家族のために稼ぎに出ることがあったとしても。
それはすなわち、家族のメンバーそれぞれが、互いを頼って生きていたということだ。家族とは、生きていくためにまさにかけがえのないものだった。
しかし、少し前からだいぶ事情が違ってきている。食事は母親が作ってくれなくてもコンビニやその辺の店で買うことができるし、第一、母親やその代わりの人間が常に家にいるとは限らない。老人がいる家は少ないから、多くの場合子ども達は彼らとの接し方を(そして老いた者をいたわるということを)知らずに育つ。学校に行くことが子どもの将来に結びつかないケースが増えているし、だからかもしれないが、卒業してすぐに就職したり結婚したりするわけでもない(場合が多い)。さらに最近では、学校に通いながら簡単にアルバイトができるようになっている。食費くらいは稼げる、という点で、これは大きな変化だと思う。
こんな状況では、多くの子供たちは家庭のありがたさを感じる機会が少なくなってしまっているのではないだろうか。とりあえず住める所である形ばかりの家と、自分で稼いだ金さえあれば、毎日の生活は成り立ってしまうのだ。自分は独りでも生きていけると錯覚してしまうことも、大いにありうる。
もちろん、家庭という場は、最低限生きていくということ以上の意味を持っている。家庭は本来、人が身体的・社会的に成長するのと同じくらい、心理的にも成長するべき場であるはずだ。
だから、家庭の温かさを知ることなく成長した人間に、他の人間を大切にしろと言うのは難しい。また、自分を大切にすることの意味を伝えるのも難しいかもしれない。今のように社会が荒れ放題のときこそ、健全な、あるいは望ましい家庭のあり方というものを見直さなければならないだろう。

・・・こんなこと書いちゃって、「くだらねーこと言ってやがるコノヤロウ」とか「アホちゃうか」とか思われないだろうか。どきどき。


真 |MAIL