目次未来


2001年03月31日(土)  桜と雪/昨日の引っ越し

日記というだけあって、今日の天気の話をネタにする人は多いかもしれない。
もうほとんど桜は満開だというのに、結構な雪になった。東京で桜の満開と降雪が同時に起こったのは25年ぶりだ、と、さっきNHKのニュースが言っていた。
一見、敵対しているようなイメージだった春と冬だが、いざ目の前にその代表とも言うべき雪と桜を揃えてどーんと出されてみると、それはそれでとても綺麗なものだった。
今日の雪の舞い散る感じは、もう少し暖かくなってから桜が散る感じとちょっと似ていた。天高いところに枝を張った巨大な(・・・きっと樹齢1億年くらいの)桜が一斉に花を撒いて、山手線から眺める池袋の空は真っ白だった。(実際そんなことになったら、東京は1時間で麻痺し壊滅するだろうが。)地上には、もとから薄いピンクだったところをさらに淡い色にした満開の桜。
歌詠みの気持ちは察しかねるが、こういう日に詠まれる歌は趣深いものになりそうだ、なんて、素人のあさはかな考えだろうか。
今日は、たまたま外に出る用事があってよかった。面倒臭がりな性分だから、出かけるつもりのない日に雪が降ったんだったら、寒い、とかなんとか言って部屋から出る気にもならなかったに決まっている。・・・とうに失われた童心。
せっかく「都会」に出てきたついでに、と思って、コーヒーを買った。最近は随分と積極的に飲むようになって、豆を買ってきて自分で淹れたりする。江古田の珈琲館でマンデリンを挽いてもらい、池袋のSTARBUCKS CAFEでエスプレッソ・ローストを挽いてもらい、西部の食品街でブラジルを豆のまま買った。(さすがに全部を自分で飲むわけではない。)さっきマンデリンで一息ついたら、かなり美味かった。引っ越しの疲れもコーヒーで癒せる気がする。

そう、引っ越しだ。
昨日1日かかって、もとの部屋から新居へ全ての荷物を移した。
今はまだ特に痛いところもないが、これはきっと嵐の前の静けさに違いない。明日辺り、腕が上がらないかもしれない。腰だって丈夫とは言えないのに、昨日はかなり無理をした。1階から1階への引っ越しだったのがせめてもの救いといったところだ。しかし、とにかく早晩痛みはやってくるだろう・・・想像するのも恐ろしいようなやつが。
新しい部屋は2DKだ。意気投合した友人との同居生活が始まる。一体どんな生活になるのか、今から楽しみで仕方がない。ちなみに、私は珈琲漬けの関東人で、むこうは珈琲を飲まない関西人だったりする。気の合う人間なんてどこにいるのかわからないものだなぁ、と、つくづく思う今日この頃である。


2001年03月26日(月)  おそれを知らず、江国評。…ただの感想です。

本を読むことがこの上なく好きだ。特に、推理モノではない小説。最近はSFもよく読む。エッセイなんかも良い。
だからなのか、人生の中の今・この瞬間は、自分だけの小説の中の一節みたいなものかー、なんて、考えたりしてしまう。他の人からはそんなにタイソウな人生を歩んでいるようには見えないのだろうが、自分にとっては他のどんなに素晴らしいものとも代え難い、超個人的な大事件の連続の、毎日なのである。誰もが持っている、各々の秘蔵の一冊。恋愛なんかしちゃったりしていれば、それこそ恋愛小説みたいな日常が繰り広げられる。書き換えの利かない過去の場面の味わい深さもまた、堪らない。

しばらく前に人から借りていた、江国(←旧字体が出ない)香織のエッセイ『いくつもの週末』を読んだ。
江国香織の本を初めて読んだ時に、彼女の使う言葉がとても心地よかったのを覚えている。独特の感性を基盤に次々と紡ぎ出された、どこかさっぱりとした印象の言葉たち。このエッセイも、読み終えてみるとやはりすっきりとした感じを受けた。内容は必ずしもそう言えないものであるにもかかわらず。
彼女の世界には、自分と似ているために嬉しくなって思わず肯いてしまうようなところと、それとは反対に、あっと驚かされるような思いもかけない発見とがあちこちに散りばめられていて、なんというか、キラキラしている。彼女に共感したりその世界に納得したりするのは、主に自分の中の「女」であり、自分の中の江国香織とも言えるような部分である。その逆は「男」の部分で感じることが多く、それはどんな女にも到底理解できないであろう感性というか感情というか、兎も角そんなものである。心理学ではアニマとアニムスとか言うのだが、人間の心の内には本来の性以外のもう1つの性が存在する、というような考え方がある。人は様々な物事において両面性を持っていて、確かに性別もその1つだと思う。女なのに男のアタシ。男なのに女のオレ。男にも女にもなり得る自分、或いは、常に男であり女である自分・・・。実に面白い。こんなことを考えに考えて、これだから人間ヤメラレナイよなぁ、と結論付けてみたりする。
さて、江国香織は独特の感性を持っていると思う、とはさっきも書いた。彼女の感覚には類を見ない鋭敏さがあって、それが彼女の感性を磨いてきたのだと思う。ボンヤリと生きていたのでは、決して手に入れることのできない世界。その世界に引き込まれて、自分とは違った新鮮なものの見方に気付く。エッセイを読んで、彼女の言葉が生まれる背景を垣間見たような気になった。ちょっとした嬉しさ。
そういえば、読んでいて気付いたことがある。非常に小さなことではあるが、自分は、クエスチョンマークを乱発しない日本語の文章が好きなのだということだ。日本語の専門家でもなんでもないただの日本人がわざわざ指摘するようなことではないかもしれないが、日本語には、「?」を用いなくても疑問文を作る方法がたくさんある。それが適切に充てられている文章の方が、私には好ましく感じられる。「?」を用いない方がニュアンスをより明確に表せる場合もある気がするし、どこかひかえめで、和風になる感じもする。もちろん、クエスチョンマークがベストチョイスだと思う場合はいくらもあるが。

江国香織の書く本は、大切に思う人に読んでもらいたくなるような、一種の優しさを持った本ではないだろうか。


2001年03月23日(金)  誰も共感してくれなくてもきっと私は書き続ける

何かに強く心を動かされると、人間の脳は活性化する。前から思っていたことで、少なくとも私はそう信じている。

別役脚本の芝居を観た帰り途、こんなことをふと思いついた。

自転車も私も同じようなものだ。

薄暗い道路で、私は自転車のライトを点けて走っている。
自転車のライトくらいでは、前方の詳しいことは何もわからない。せいぜい、目の前何メートルに人が居ないということが確認できる程度のものである。
私は、ぶつかりそうな人を避けられるようにとライトを点けているわけではない。
ただ、前方から来る人には私が見える、そう考えてライトを点けているのだ。
私がその人のことを気にしなくても、きっと向こうが私のことを気にして、いいように対処してくれるだろう。こんなふうに思っている。他力本願であるし、責任感などほとんどない。もし向こうが同じようにテキトーな人間なら、正面衝突というちょっとした事故になりかねない。
私は日頃、色々なものに注意して生きているつもりだったが、もしかしたら何も見えていないのかもしれない。
自分はそれとわかるようにライトを点けて(ライトはまたいくらかの騒音を伴って)いるから、周りが自分に合わせて適当に動いてくれるだろうと考えている。自分は大して周りのことを見ようともせず、また見る気もないようなものだ。にもかかわらず、他人は自分のことをわかってくれるはずだと思い込んでいる。人生においてもこんな感じだったりするのかも、と思えてくる。
人は、自分のことはとかく棚上げせずにいられないと見える。おかしなものだ。

私の愛車は、銀色だ。ぴかぴか光ってはいない。と言っても、別に、故意につやを消したような上品さがあるわけでは決してない。ちょっとくたびれた中年を思わせるような、もとはそこそこ光をたたえていたはずの、所々汚れてしまった銀。
私は、そんな自転車の色を気に入っている。自転車なんてだいぶ前から、それこそ驚くほどいろんな色のものが売られている。買い換えるとまではいかなくても、磨きさえすればもとのつやを取り戻す可能性は十分あると思うのだが、今のところ磨く気もない。今の色に不満は感じていないし、何より、慣れた自転車に満足していて、他のものを探すのが面倒だということがある。
自分だって、同じだと思う。もう思い出の中の「あの頃」よりもピカピカしてはいないかもしれない。けれども(それだからこそ、と言うべきかも知れない)、私は今の自分をとても気に入ってしまっている。
まだ年齢的に中年には程遠いが、それでも、くたびれ具合が相当のものだという気はする。だいぶ汚れてもいる。
人の性格は時折「色(カラー)」という表現をされたりするものだが、私は『今』の色以外に、自分にあった色を探したり見つけたりすることはないだろう。それは、私が現状にすっかり満足してしまっているからだと思う。・・・正直、慣れてしまって変えるのが面倒臭いからという理由も多少ある。

一事が万事、という諺がある。私の生き方なんて、人間なんて、結局そんなものかもしれない。

***
友人からの嬉しい知らせもあり、今日はとても充実した素敵な日だった。
ひとまず、人生はバン万歳だ。


2001年03月21日(水)  帰郷/消えるメドの立たない問題

ついさっき、旅行先から自宅に帰ってきた。波乱万丈の10日間。

やっぱり、海は良い。
自分もこの星も生きてるんだって実感する、なんて口からデマカセ吐きたくなる。
眺めてるだけで満足できるものなんて、結構、少ないけど。そのうちの1つ。海。

それはそうと。
帰ってきたこの場所は、もうすぐ引っ越す仮の住まいで、
故郷なんて言葉とは縁遠いものと思ってた。
環境は全然良くないし、散らかし放題だし、
実家と比べたら「ちょっとした旅行先」くらいのものだと。
もちろん住み始めた頃は、この部屋で落ち着く自分なんて、想像もしなかった。

それが、帰ってびっくり。
住めば都って、こういうことを言うんだなぁ。
ここが、安全基地。この安心感。面白いほどの自分の気の緩みよう。

・・・結局、今月中には引っ越しなんだよね〜。はふぅ。
なんか、もったいないや。あと、めんどい。あぁ。
誰か代わりに引っ越してくれないかな。(無理)

***

ちょっと深い話に移行してみる。


人間関係は、浅い方が苦手だった。
ある程度付き合いが深くなってくれば、それに応じて気が楽になるのが普通だった。みんなこんなモンだろうけどさ。
相手が男でも女でも、パッと思いつくような「当り障りの無い」話で間をもたせなきゃいけないっていうのは、自分にとってはかなり苦痛だ。それに、あの妙な緊張感の漂う空気。気を使わなきゃならないことが、基本的に嫌い。

でも、今回のは違うらしい。
深く知るほど、もっと自分をコントロールしなきゃいけないという意識が働く。
恋愛になってしまったからかもしれない。そうじゃないかもしれない。

なぜ、あのコはこんな人間を愛してしまったんだろうか。こんな、面倒臭い人間を。なぜ、自分はあのコを愛してしまったんだろう。自分とは不釣合いな人間を。まっすぐを望む人間を。こんな疑問も、関係自体も、長く続くと疲れる。
今までは得ることが難しかった類の瞬間的な安らぎを、あのコから得られると、わかってしまった。だから、ふと顔を思い浮かべてしまったりする。それは決まって、自分が弱っていると感じるときだ。どうしようもない自分。それを許容してくれる、少なくとも許容してくれようとする他人。醜態を晒しても、後悔しなくて済む唯一の他人。かけがえのないあのコ。
それでも、こんな自分を簡単には好きになれない。以前は、もっと自分で自分を支えられる人間だったはずだ。どうしてこんなに弱くなってしまった?
あのコとは、合わないところも多すぎる。どうしてもあのコには理解してもらえない自分がいることも、よくわかっている。

アタマが混乱してきた。考えたくないことを考えるのは、非常に疲れる作業だ。身体だけでも十分疲れてるっていうのに。
 

こういう感じのことを主に書こうと思ってたんだよなー。
いざ書いてみると、面白いけど、仕事ができなくなりそうで怖い。


2001年03月07日(水)  まずは。

いろいろ、ネットに対して思うところはあるよ。
でも、たとえ頭ん中で何考えてても、何もしなきゃ始まらないでしょ。とりあえず。
本当はそれがどんなモンかなんて、実際やってる人だってわかってないかもしれないのに、
手をつけもしないで横から口出すのも気がひける。んー。
だから、何でもいいから始めてみようかな、と。

というわけで。
後先考えず、日記の始まりです。

初っ端からワケわかんねーなコリャ。


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