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1997年12月31日(水) 第1話 出発前夜

「カトマンズ紀行」は、WELLA(cgi日記)の1997年12月分に吸収しました。12月31日が第一話、12月1日が最終話です。
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1話ごとに分けて読む場合は、過去にさかのぼってください。
では、はじまりはじまり〜(2005/08/04)

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いよいよ翌日カトマンズに出発することになった。
カトマンズはネパールの首都である。が、ネパールがどこにあるか定かでない。大体、学会があるからカトマンズに行くという人間と、それについていこうという人間の組合せなので、まったく主体性がない。
ヒマラヤの近くだということは知っているが、はて、今の気候はどうなのだろうか。高山病の危険はないのか。夜になってやっと研究室の地図で確認する。
ほほう、インドとチベットの間 か。色で判断すると、高度2千から4千メートルとなっている。げっ。富士山より高いんだろうか。戦々恐々としていると、誰かが「カトマンズは盆地だ」という。盆地なら少しは低いだろう。
しかし、寒そうだ。

泊まるホテルはカトマンズでも超高級の部類に属するという。日本円にすると大した額ではないが、ガイドブックに載っている他のホテルに比べるとべらぼうに高いらしい。名前は YAK & YETI 。ヤクとイエティである。思わず吹き出してしまった。
そういえば漫画「少年アシベ」でアシベの友達の阿南くんが、お父さんの転勤でヒマラヤ方面に行き、そこにイエティという人なつっこい雪男が出てきたのを思い出した。ガールフレンドのチットちゃんとイエティで阿南くんをとりあってたっけ。
そうか、あんなところか。

荷作りを始める。寒いとはいえ、私は小荷物を旨としているので、できるだけ重ね着ができるように組合せを考える。
まず、薄手のセーターを3枚。普段着ているフリースのジャケットと、さらに上から着られるように防風用のスポーツジャケットを持っていくことにする。
スキー用ソックスを2足、防寒用肌着、ストッキング、スパッツ、コーデュロイのスキーパンツ。いざとなったら全部着込んでしまえばいい。痩せているとこういう時に便利だ。(痩せていなければ着込む必要はないのでは…)
あとは下着・洗面用具など。ホテルは超高級だといわれたので、水着も入れる。着るものが単調になるので薄手のスカーフも2枚用意した。キーワードは「薄手」である。
そうそう、一応研究の資料と英和辞典を持っていかなくては…。

荷作りが終ってみると案外小さく済んだ。
夫は相変わらず大荷物になっている。自分の荷物の少なさにふと不安になるが、まあいいや。なんとかなるだろう。彼は商売道具が入ってるし、そういえば、私のかさばるスポーツジャケットも入れてもらったのだった。おほほ。


1997年12月30日(火) 第2話 機内で

カトマンズ行きの直行便は週2便、関西空港から出ている。
ロイヤル・ネパール航空 (!)のチェックインカウンターには、色の浅黒い人たちが並び、早くも異国情緒を感じさせる。帽子を被った人たちはヒンズー教徒なのだろうか。インド系の顔立ちの人もいれば、モンゴル系の人もいる。日本人のようにも見えるし、チベット人のようにも見える。
日本人はトレッキング目的なのか登山用の格好をしている人が多い。あとは同じ学会に参加する人たちだろうか、工学系の雰囲気の人たちが数人。
いずれも欧米行きの便にみられるチャラチャラした雰囲気ない。
機内に乗り込むとスチュワーデスに挨拶される。美人である。
胸の前で合掌した手を左右にすこし動かしながら、「ナマステイ」という。そういえば、チットちゃんも「ナマステイ」と挨拶してたっけ。あくまで漫画の知識であるところが情けないが、少しは知っていることがあって親近感が湧く。
スチュワーデスの制服は、サリーもあるようだ。

飛行機はやや小さめだが、不潔な感じはしない。室内の壁面にはヒマラヤの図柄が入っている。やがて救命具の使用方法について説明が始まる。ライブである。アンニュイな雰囲気で乗務員がテープに合わせて実演する。ライブの説明を見るのは久しぶりだ。そういえばスクリーンがない。映画の上映はないようである。機内のアメニティグッズを探すと、何もない。イヤホンもない。タブロイド判の4枚からなるカトマンズの新聞が配られただけである。

ところで乗務員の仕事ぶりであるが、一言で表すなら「大雑把」である。
通路側の食器だけ下げて済ましているなど当たり前である。ここでは乗客も積極的に働かなければならない。
飲みものサービスの時、コーラを注文する。発音が簡単だし、味がわかっているので安心である。氷を入れるかと聞いてくるので、入れると答えたらにっこり笑って氷なしのコップを手渡してくれた。謎である。
機内食も大雑把である。同じものを頼んでも、隣のトレイと内容が違う。つまようじがついてなかったり、チーズが余分についていたりする。トレイにコップがついていなかった時は、コップがないといったら手早く他のトレイに載っていたコップを手渡してくれた。それでは他のお客のコップが足りなくなるのでは…。
いっこうに気にしていないところがいい。


1997年12月29日(月) 第3話 上海にて

我々は上海に居た。
トランジット で立ち寄ったのである。地上にいたのはたった40分。
しかしながら機上の人となって、有に一時間。いまだ上海機場(空港のことらしい)から離れずにいた。
こんなことならもう少し免税店を見て回りたかったものだ。これではトイレにいって、免税店をぶらぶらして終りである。

トイレといえば不思議な体験をした。
個室内にトイレットペーパーがないのである。洗面台の脇に普通のトイレットペーパーホルダーがあり、そこにセットしてあるペーパーをあらかじめとって、個室に入らなければならない。
当然、個室に入ったあとで足りなくなったではすまされない。どのくらいのペーパーを取得するか見積りの度量が要求される。大抵普段使っている量の1、5倍から2倍程度キープするものと思われるが、ここで、個人が普段どれくらいの量を使用するかが知れようというものである。
さて、私の前に並んでいた3〜4人の日本人たちは、それぞれ親の仇のようにぐるぐるとペーパーを手に巻き付けていった。ふむ。あれが標準使用量か。ここでのコメントは控えよう。が、なんとなく、古くはオイルショックの時にトイレットペーパーを、コメ不足の時には米を行列してまで買い占めた、日本人の国民性をもの語る光景であった。

ところで、免税店はさすがに中国である。
壁という壁には掛軸が陳列され、お茶、硯・筆、薬などがそれぞれ独立して売場をもっている。硯・筆の類の充実ぶりはみごとである。大小さまざまな筆や、携帯用の筆・硯セットやなどもある。未だに中国の人々はこんなに書に親しんでいるのだろうか。
薬売場には一頃流行した冬虫夏草や、痩せる石鹸などがある。石鹸の中にパンダの図柄が埋め込まれているところなど、土産物を意識していてほほえましい。怪しげな精力剤も多い。効用そのままの商品名もあり、赤面させる。
我々はタイガーバームを購入した。面白味はないがそれが一番安心である。海外で決まってコーラを飲むのと同じ理屈か。

それにしても、駐機場に1時間もいるというのになんの案内もないとは見上げた根性である。飛び立つのはいったいいつになるのか。
我々はなんのためにここに座っているのか、だんだんわからなくなってきた。


1997年12月28日(日) 第4話 カトマンズ着

結局定刻1時間遅れで カトマンズ についた。
西へ西へと飛んできたため、ずっと夕日を向かっていた気がしていたが、さすがに、とっぷりと日はくれて、窓の外を見ると夜空を星がまたたいている。
着陸のアナウンスが流れる。
ネパールの時差は日本からはマイナス3時間15分とのことだ。分単位の時差は初めての体験である。機内アナウンスはネパール語、英語、日本語の順で流れるのだが、段々短くなっていく。英語と比べても日本語の時は随分省略されているようだ。非常事態になったらネパール語が分る人だけが助かるのではないか…。
飛行機はいきなりドスンと着陸した。操縦も大雑把である。ところで機内は眠るには少し寒く、毛布が配られないのはてっきり準備していないのかと思って諦めていたのだが、通路を歩きながら見ると毛布は私たちのいる席より前の列まで配られていたようであった。空席にもきちんとたたまれた毛布が置いてある。謎である。

一万円両替すると厚さ3cmぐらいの札束となって返ってきた。
使い残しのルピーは両替時のレシートがあれば、両替した金額を越えない範囲で 空港 内の両替所で再両替可能であるという。外貨の流出を防ぎたいのか。

入国審査を済ませて外に出ると、空気がひんやりとしていた。意外と寒くない。プリペイドタクシーというのがあるというので、それでホテルに行くことにする。用紙に名前などを記入して料金を払うと、係が タクシー まで連れていってくれた。すごいオンボロタクシーである。本当にこれに乗るのだろうか。それにしてもやたらと人がいる。躊躇していると、若い男がさっさと荷物をトランクに積み始めた。どうやらこれらしい。が、不安である。
車に乗ると、係が運転手にホテルの名前を告げ、紙を渡した。運転手はさっき荷物を積んだ男とは違う。不思議に思っているとさっきの男は車の外からチップを要求している。人差指と中指と親指をこすり合わせて「マネー、マネー」「ルピー、ドル、円」などと言っている。彼は勝手にポーターを買って出ては、ちゃっかりチップを頂戴する寸法らしい。きっぱりとはねつけるが、車の周囲はその男だけでなく、わけもわからない男たちが10人ほども取り囲んで大騒ぎである。そうこうしているうちに助手席には違う男が乗り込んでくる。
いったいどうなっているのだ…。

ともかくホテル名を確認して出発、と思いきや車は走り出さない。いや、力がなくて走り出せないのである。すると心得たように周囲の男たちが声をかけながら車を押す。どうもこれが当たり前のようだ。なんとか車が走り出すと、助手席の男が愛想よく話しかけてきた。
英語である。


1997年12月27日(土) 第5話 車中で

タクシーは止まらずに走り続けている。どうやら安定したようだ。助手席の男は愛想良く「ネパールは初めてか?」と尋ねる。そうだと答えると「ネパールへようこそ」とちょっと改まって挨拶した。
男はそのまま話し続ける。

寒くないか、そうか、寒くないか。俺たちは寒いよ。日本からきたのか、日本は今気温はどの位ある。あれがパシュパティナートだ。パシュパティナート、知らないか。ヒンズーの寺院だよ。お前たちはヒンズー教徒じゃないな。だから知らないんだ。日本人なら仏教徒だろう。そうか、仏教徒か、うんうん。
(いや、そういうわけじゃ…)

ネパールにはどの位いる予定か、一週間か、それは短いな。観光だけか。次に来る時は是非トレッキングをするべきだ。それが本当のネパールを知ることになる。カトマンズ、ここは本当のネパールじゃない。ネパールの中では特殊なところだ。ここは都会だし、それじゃ君達の国とちっとも変わらない。

(いや、十分変わってると思うよ)

トレッキングはいい。 山の上 から全世界が見渡せるんだ。例えば、カトマンズのホテルに泊まれば、一泊100ドルぐらいかかるだろう。ホテルの部屋の中で100ドルだ。そこへ行くと、トレッキングをすれば一日15ドル。一晩1〜2ドルだ。1〜2ドルで、世界の中で眠ることができる。

(へぇ、いいこというじゃん)

それにしてもこの車は本当に大丈夫なのか。さっきから凸凹道をかなりのスピードで走っている。街をゆく車はどれも運転が乱暴でひっきりなしにクラクションの飛び交っている。助手席の男は相変わらず話し続けているが、こちらは何度も天井に頭をぶつけて生きた心地がしない。
夜も更けて街は暗いというのに、狭い路地の商店街には人が行き交い、食料品を扱っている店がまだいくつも店を空けている。

今日は休みだから街は静かなんだ。明日からまた賑やかになる。
(これで静かというのか…)
…そうか、あしたから観光か。ホテルにいくと、いろいろなパックツアーが用意してあるよ。好きなのを選んでいけばいい。大体値段は50ドル位だろう大きなツアーでいろいろな寺院を回るんだ。だけど、俺たちのツアーは安い。大体半額ぐらいでできる。少人数だし、いろいろなサービスもついてるよ。そういえば、観光の手配はもうしてあるのか。そうかしてあるか。
ところで、俺たちのツアーは安いよ。

(そういうことか、営業ね。)

…ここが王宮だ。もうすぐホテルにつく。ここが古い王宮の門。しばらく走るとこれが新しい王宮の門。これが王宮通り。ここを入っていくとホテルだ。ホテルには予約があるのか。そうかそれはよかった。観光の手配はもうしてあるのか。そうか、もうしてあるのか。

(まだ営業してる…。ほんとは手配してないけど、してあることにしておこう…)

着いたよ。ここがホテルだ。じゃ、よい旅を。


1997年12月26日(金) 第6話 ホテルにて

ホテルは別世界だった。このホテルはカトマンズでも1〜2を争う超高級ホテルで、一泊の料金がカトマンズの人々の平均月収相当らしい。こうこうと シャンデリアが灯り 、お客は圧倒的に西洋人が多い。
現地の金持ちそうなカップルが入ってきた。女性の方は豪華なサリーを身に纏いアクセサリーをたくさんつけて、すまして歩いていく。さながらネパール版白鳥麗子である。
チェックインを待つ間、ぼーっとしていると佐藤浩市に似たマネージャが愛想笑いをしながら私の前を通り抜けていった。ほどなくウェイターがやってきた。佐藤浩市が手配した様子である。ウェイターは私より背が低く、上目使いに「ようこそ、当ホテルへ、マダム」といいながら私の前に飲みものの入ったお盆を差し出して来た。ウェルカムドリンクらしい。小さなコップに入って上にクリームとチェリーがのっているオレンジエイドである。
人でごった返すロビーで、立ったままウェルカムドリンクというも珍しい。女性だけにサービスされるものなのだろうか、サーにはドリンクが配られなかったようである。ストローでおとなしくすすっていると、準備ができたようで客室に案内される。まだ飲み終えていないので、部屋に持ち込んでもいいのかと聞くと、「勿論どうぞ、マダム」との答えである。コップを持ったままエレベータに乗り込む。
ポーターは終始「どうぞ、マダム」「ありがとうございます、サー」と、至極礼儀正しい。丁重に扱われてこそばゆくなる。

客室 はシンプルだが、壁に古い経典らしきものがかけてあったり、一輪差しに花がいけてあったりして心地よい。マリーゴールドと、針葉樹の小枝が挿してある。そういえば昔高校にヒマラヤ杉という種類の大木があったけれど、これがそうなのだろうか。などととりとめのないことを考えたが日本はもう真夜中である。今日はお風呂に入ってもう寝ることにしよう。

バスタブにお湯を張る。薄茶色である。
洗面台の蛇口をひねる。薄茶色である。
洗面台に水差しがおいてある。沸かして漉した水だという。コップに注いでみる。薄々茶色である。さすがに口に含む気がしない。機内食のミネラルウォーターをガメてきたのが早くも役に立つようだ。
あきらめて茶褐色のお湯に浸かった。もく浴気分である。遠くガンジスに想いをはせる。(ここはインドじゃないって)


1997年12月25日(木) 第7話 カトマンズの朝

カトマンズの朝は賑やかである。
街には車、人、自転車、バイクが溢れかえっている。道はなんとなくホコリっぽい。まち全体が茶色い感じ(このページの色のイメージ)。車はすべて車両不整備でひっかかりそうなものばかりである。ひっきりなしにクラクションが鳴っている。そういえば日本と同じ左側通行である。中古の日本車をよく見かける。大きな交差点は左回りのロータリーになっている。突然内側の車が左折し始めたりして混乱を招く。信号や横断歩道はほとんどない。人々は頃合いを見計らって往来を渡っていく。我々も人々にならって渡りそうな人が現れるのを待って横断する。
小型のオート三輪が何台も走っている。乗り合いらしく、狭い荷台に人が寿司づめになっている。どこが停留所なのか知らないが、渋滞でスピードを緩めたところで民族衣装をきた若い女性がエイヤっと乗り込んでいった。気合いである。
ホテルは王宮の脇にある。
王宮通りという名の道をどんどん下っていくにつれ混雑はますますひどくなる。首から下げた買ったばかりのカメラが重い。
学校らしき建物の前を通る。塀に座っていた若者が「おはようございます」と日本語で声をかけてきた。こちらも思わず笑顔で「おはよう」と返した。途中に大型犬が何頭も横たわっている。ドーベルマンもいるが、のんびりと寛いでいるようで、恐くはない。尻尾を踏まないようによけて歩く。

道の両脇に物売りの姿が増えてきた。どこも鞄一つ分位の品揃えで時計などを売っているが、ただ並べているだけで、特に呼び込みもしない。やる気がないのか、と思うほどである。道端にしゃがみこんでぼーっとしている。物乞いもいるが、みなおとなしくしている。
バサールとよばれる地域に入ってきた。道の両側に 商店 が立ち並んでいる。2階まで届きそうなほど壁面いっぱいに洋服や鞄を吊してある。
それにしてもとにかく人が多い。歩いている人も多ければ、狭い店の中にも人が多い。買物をしている様子はないので、朝からなにをしているのかと思うがどの店も2〜3人ずつ立って往来を見つめている。


1997年12月24日(水) 第8話 物売りはどこまでも

バザールの道を歩き続ける。商店がぐっと増え、洋服屋や鞄売りが声をかけてくる。
電気屋には、日本ではもうお目にかかれないような古いテレビを売っている。道端に椅子を出して、マリーゴールドの花を糸でつなぐ作業をしている女性がいる。このマリーゴールドの花飾りは町の至るところで見られる。戸口に飾ってあったり、 石像 にかけてあったりする。
道は混雑を極めるが、不思議と殺伐とした雰囲気はしない。あとから知ったことだが、ネパールは「最貧国」とされているらしい。たしかに人々の見なりは貧しいが、顔つきはおだやかである。
途中で竹の笛売りに出会う。何本も笛をさしたねぷたのようなものをかついでいる。面白がって手にとっていると、これはチベットの竹だ、これはインドの竹だ、と似たような横笛や縦笛をどんどん出してくる。そういえば笛売りも英語で話している。生活のために英語を身につける人は多いのだろう。笛売りとやりとりしているうちに人が集まってきた。この日本人は買ってくれる、と思ったのだろうか。束になった首飾りを差し出しニカっと笑う男もいる。
何本か試したが、どの笛もすべて音程がいい加減なことがわかったので、適当なのを一本買った。250ルピーだという。試しに値切ってみるかと思い、200ルピーというとあっさりと値下げした。もしかしたら200ルピーでも高いのかも知れない。代金を支払うと「もう一本どうだ」といってきた。
そんなにいらないってば。

歩き始めると一本の笛をもった小僧がついてくる。この笛を買わないかという。笛はもう買ったからいいというと、執拗に値下げしてくる。200でどうだ、いや、150だ、いい値段だろう。無視して歩いているとずっと後ろからついてくる。100でどうだ、75でもいい。少年が手に持っている笛をみると、我々が買ったのよりずっとしっかりとした細工である。ううむ、これが75か。
とにかくいらないといって、歩き続ける。もういなくなったかと思っていたが、交差点で立ち止まるといつの間にか隣に立っていた。もう有に500メートルは歩いてきたはずだ。ご苦労なことだが、いらないものはいらない。No business? というので、No business!といったらあっけなく引き下がった。たいして効力がない言葉だと思うのだが…。
そういえばここはずいぶん大きな通りだ。縄張が違うのかもしれない。


1997年12月23日(火) 第9話 ダルバールスクエア

ダルバールスクエア は旧王宮前の大きな広場で、周囲に寺院が建ち並んでいる。
ここも人がごったがえしている。さして用がある風でもないのにぞろぞろと人々が歩いている。われわれの鞄から笛が覗いているせいか、ここでも笛売りが声をかけてくるので、笛を隠す。ガイドブックを広げると、たちまちガイドはいらないか、と呼びかけられる。
王宮の裏手には寺院や塔が並ぶ。牛が平然と歩き回ったり、寝そべっている。猿もいる。
マンダラを売っている店に入る。
手頃なものがあったので、値段を聞くと75米ドルだという。それは高い。安くなるか、と聞いたらたくさん買えば安くしてやってもいい、という。高過ぎるのでやめるというと、70にしてきた。試しに60といってみると、あっさり了承した。値段はあってないようなものだ。いらないというととたんに安くなる。一枚買うと親兄弟にも買っていけ、という。家族を大切にするお国柄か…。
我々が買ったマンダラは小さいものだが、それでも製作に一カ月かかるという。1年かかったという品は確かに気が遠くなるような緻密さである。高い。同じ作者の手による、主のお気に入りの品を見せてくれた。これはいくら大金を積まれても売らないという。どちらの品が好きかと聞くので売りものの方を指さすと、これならば売ってやれる。マダム、あなたのためによい値段をつけよう。あなたに幸せを…。と、とたんに商売気を出してきた。

マンダラ屋を出てさらに奥にすすむと最古の寺だという廃屋のような建物があって山羊がつながれていた。ここでも牛はのんびりして野菜などを食べている。さらに奥のお堂では若い男が足早にお堂の回りを歩きながら、祈りを捧げている。少しでも気をぬくと、ガイドはいらないか、笛はいらないか、短剣はいらないか、仏像はいらないか、と声をかけてくる。
鐘つき堂のような塔があった。石段をあがって景色を見ていたら、下の段にいた男が、「お前の靴はかかとがすり減っている、直したほうがいい。」と言いながら靴の修理道具を開けて見せる。まさしく、人の足元を見る商売である。
反対側に行くと、今度は若い男が声をかけてきた。正面に見えるのがクマリ館で、生き神が住んでいる。是非いくべきだ、と教えてくれた。ありがとう、というと、ところでガイドはいらないか、といってきた。客寄せのサービスだったのか。ガイドはいらない、と断っているいるところへ、またさっきの靴屋が修理はどうだ?と聞いてくる。
うんざりである。


1997年12月22日(月) 第10話 生き神の少女

それにしてもすごい人である。
地図を見ようにも、ちょっとでも本を広げると「ガイドはいらないか」と声をかけてくるので、わけ知り顔でがしがし歩き回っているうちにすっかり疲れてしまった。
ここで見るべきは生き神がいるというクマリ館とハヌマンドゥカと呼ばれる旧王宮の建物だそうなので、それだけ寄って帰ることにする。
クマリ館に住んでいる生き神はまだ少女である。興味はなかったが、見るべきだといわれたので入ることにする。入口に生き神の絵はがきを売っている幼女とその母親らしき女性がいる。そういえばこの幼女も英語ではがきを買ってくれと言って来る。絵はがきには目の回りを濃く塗って黄色い装束に身をつつんだ 少女 が写っている。
中に入ると西洋人のカップルがガイドらしき男と共に生き神が姿を現すのを待っている。もうすぐだから我々にも見ていけ、という。男が建物の方へ向かって何か声をかけると3階の窓から絵はがきの写真と同じような少女が一瞬顔を覗かせてすぐにひっこんだ。それだけである。それにしても生き神にしては軽々しい扱いである。
男はカップルに「君は彼女と知り合いなのか」と尋ねられると「もちろんだ。よく話をする」という。そしてさらに彼女の顔を見たから気持ちでそこに金を入れてくれ、という。男はそのままカップルを建物内の土産物屋へいざなっていった。なんともいんちき臭い。

あとでガイドブックで見たところ、生き神は氏素性の正しい家系の霊感が強い少女が任命され、初潮を見ると交代するのだという。一日中あの薄暗い建物に籠り神事を行なっているそうだが、生き神の務めを終えたあとは、非運を辿るケースが多いらしい。さもありなん、と思う。

クマリ館のあとはハヌマンドゥカの階楼である。ここは先々代の国王の遺品や写真をおいた博物館でもある。今でも王宮の管轄なのでいろいろと制約も多い、が、日本に比べるとヘのカッパである。最上階からカトマンズの街を見渡す。茶色い。

町全体がホコリっぽい。今日一日で鼻毛がずいぶん伸びた気がする。


1997年12月21日(日) 第11話 挨拶をしよう

一日目の観光を終えてホテルに戻ってきた。
かっぷくのよいドアマンが陽気に迎え入れてくれる。このホテルの従業員は誰も彼もみな応対がいいのだが、なかでもドアマンはとびきり愛想がいい。出かける時は元気よく送り出してくれるし、戻ってきた時も「お帰り」というように迎えてくれる。
ネパールでの挨拶は、おはようもこんにちはもこんばんわも 「ナマステ」 である。ついでにいうと、さようならも「ナマステ」でいいらしい。ということは通常交わす挨拶はあとは「ありがとう」ぐらいのものである。
ならば、である。是非「ありがとう」も覚えようではないか。どうせほとんど英語が通じるのならその二つで十分である。早速ガイドブックの巻末にある「付録:よく使うネパール語」を見ると、「ありがとう」は「ダンネバード」とある。
ガイドブックを開いたついでにネパールの国の位置を見てみると、奄美大島と同じぐらいの緯度であると書いてある。

あまみおおしまぁ?

…ずいぶんとまた南である。気候は亜熱帯型モンスーン気候だという。道理で寒くないはずである。鞄につめてきたおびただしい防寒具のことをふと思った。高度は千数百メートルらしい。話が違う。
まあいい。これから山の方に行くし、その時は寒いかもしれないしね。

とにかく「ありがとう=ダンネバード」であることもわかったので、夕食に行くことにした。といっても地理不案内なのでとりあえずホテル内のレストランにする。ホテルの案内によるとチムニーという名前でロシア料理だという。お客はまだ少なく、名前の通り チムニーがある部屋 に通された。 部屋の真中にキャンプファイアよろしく薪をくべる台があって、赤々と火が燃えており、その上部に煙突がある。ロシア料理らしい雰囲気に満足してメニューを開く。
あーどれどれ、魚介類のラザニア、シェフおすすめピッツァ、シーザースサラダ、とりのマリネーetc…。おいしそうだがなんとなくイタリア料理のようである。飲物を聞かれて飲物のメニューを見ると、ワインはイタリアのものが多いらしい。注文が済むと、パンを持ってきた。
間違いない。ここはイタリア料理のレストランだ。あの細長〜い、硬いパンがバスケットに載っている。
まあいい。ロシア料理を食べにネパールに来たわけではないからね。二人で分けるからと言い、サラダと鶏のグリルとホタテ貝のソテーを一つずつ頼む。
おや、牛肉のステーキもある。わざわざ「輸入牛肉のステーキ」と書いてある。ヒンドゥーの国にいる限り牛肉が食べられないという飢餓感がむくむくと湧き上がって来て、思わずそれも頼む。

果たして牛肉のステーキはおいしかった。その他の料理もおいしい。鶏も当然地鶏なのだろう、引き締まっていて味が濃い。付け合わせの野菜もおいしかった。
給仕の度に覚えたばかりの「ダンネバード」と言ってみる。言われたほうは、ちょっと意外そうにクスリと笑って一人言のように「ダンネバード」といっている。
私はどうもこの言葉が覚えられなくて、どうかすると「ダンバネード」だの「バンダネード」だのと言ってしまうのだが、その都度彼らはやさしく笑いながら「ダンネバード」といい直してくれるのだった。慣れてくると彼らの言い方は「ダンネバッド」と言っているようである。
食事が終る頃にはずいぶんすらすらと口をついて出てくるようになったが、他の会話がすべて英語なのにありがとうだけ「ダンネバッド」に切り替えるのは、かなり難しいことである。

食事の途中で入口の方からわれわれに向かって「ナマスティ」と呼びかける女性がいた。ここのウエイトレスの制服を着て、あき竹城に似ている。日本の料理屋で女将が挨拶するような風格である。なんだかわからないが、挨拶をする彼女は本当に我々を歓迎している雰囲気である。営業的な感じはしない。
その他のスタッフもフレンドリーである。かといって慣れ慣れしくはない。これはこのホテルの中だけのことかも知れないな、などと思いながら食事を終え、ネイティブ仕込の「ダンネバッド」を連呼しながらレストランを後にした。
高度千数百メートルでのアルコールはよく回る。


1997年12月20日(土) 第12話 パシュパティナート

パシュパティナート はネパールにおけるヒンズー教の総本山であり、空港からのタクシーで教えられたところでもある。
前日ハヌマンドゥカで出会った現地の大学生が、人いきれで参っていたわれわれに「あそこなら静かでいい」と勧めてくれたので行ってみることにした。
タクシーで乗りつけたとたんに、そこらの人々が好奇の眼差しを向けてくる。みな貧しいみなりをしている。タクシーは我々が見学している間ここで待ってくれるという。2時間の約束でタクシーを降りると、とたんに物乞いが寄ってきた。

歩き出すといつの間にかガイドが横を歩いていた。断ろうかとも思ったがさっぱり様子がわからないので、そのまま案内してもらうことにした。「カソウバを見るか」と言ってずんずんと歩いて行く。
火葬場と行っても日本のようにかまどがあるわけではなく、河岸に薪を積む石の台があってそこでいきなり燃やすのである。我々が行った時には、3つある台のうち2つで盛大に炎が上がっていた。もう一つには布でくるまれた遺体が火葬されるのを待っていた。
ガイドは構わないから写真をとれ、とさかんに勧めるが、さすがに遺族のいる前でカメラを向ける気にはならない。

ショッキングな光景に気をとられていたが、そういえばガイドは英語が達者で、日本の火葬の方式と比較しながら説明してくれる。かなり勉強しているようだ。日本と違ってここでは死後2〜3時間で火葬する。火葬したあとの灰は、ガンジスにつながっている唯一の河であるこの河に流し、5つの元素に還る、という。
じゃあ、向こう岸にいこう、向うからまた火葬場の写真をとればいいと、ずいぶん火葬場の写真を勧めるものだ。日本人の観光客は喜ぶのだろうか。

途中で生け贄のとさつ場を説明し、本山の脇を抜けて向こう岸に渡る。本山はヒンズー教徒以外は立ち入り禁止である。向こう岸から本堂を見ながら説明してくれる。川の上流である本堂の下の河岸には、王族や金持ち用の火葬場がある。作りはほとんど同じだが、一応王族用は金のメッキがしてある。
本山のすぐ下にはホスピス「死を待つ人の家」がある。本山のすぐ近くで死を迎えることは幸せなことで、貧しい人も、王族も同じようにここで死を迎えるという。「死を待つ人の家」といえば、先頃亡くなったマザーテレサを思い出すが、ここにもマザーテレサの作った病院があり、身よりのない人々のケアをしているという。

河岸にはいくつも洞窟があり、お坊さんたちが住んでいるそうだ。そのうちの一つを覗くと80歳を越えているというお坊さんがいた。遜悟飯のようなファンキーなおじいさんである。杖をつきながら現れて「わしゃ19の時からここに住んでる。独身じゃ」といってお茶目な笑顔でカラー軍手をはめた手を振った。オレンジ色である。ヒンドゥーでは赤やオレンジが尊い色とされているという。火葬するのも炎の色で清められると考えているらしい。
もう一人、何十年もミルクしか飲まず、髪の毛も切っていないMILK BABA というお坊さんにも会いにいった。世界中に弟子を持ち遊説をしまくっているという偉い人らしい。住まいの前にはMILK BABAの似顔絵が描かれた看板もある。入口から覗くとお客人がいて世間話をしているようだった。なんか普通の人だった。さっきのファンキーじいさんといい、MILK BABAといい、少しも尊大なところがない。人々も気軽に相談しにいったりしているという。カースト制の話を聞いたりしながら一巡してまた火葬場前に戻ってきた。

さっきの火葬はほとんど終り、薪ごと灰を河に流している。
先ほど布にくるまっていた遺体もすでに炎に包まれている。頭を丸めた白装束の男たちが3人河から上がってきた。親を亡くした男たちだという。彼らはひげも剃り落して、これから一年間の喪に服する。塩を断ち、縫ってある服は着ないて、専用の寺で祈りを捧げるそうだ。

宗教は人々の暮らしに深く根付いている。彼らは親を大切にし、善業を積めば来世はよく、悪業を積めば来世は悪く生まれ変わると信じている。貧しい国とされながらも治安はよく、人々の顔つきが穏やかなのは宗教に依るところが大きいということか。


1997年12月19日(金) 第13話 貧しさと慈しみと

パシュパティナートで観光として見るものはほぼ見たらしい。時計を見るとここに来てから1時間半経っていた。タクシーを待たせるのは2時間の約束である。少しまだ時間があるというと、ガイドの男は貧しい人々の住まいや病院を見ていけとしきりに勧める。貧しい人々を見物するようで少し気が引けたが、従うことにする。
河に沿って下流へ歩いて行った。河の水は汚く濁っている。 この河で水を浴びる とは…。インドのガンジス河の汚さは有名だし、聖なる河ではそういうことを気にしないのかなと思っていると男が振り返って、
「この河は汚い。信じられるか、両親の時代はこの河の水は飲めたそうだ」
という。上流から汚いものが流れ込んでいるらしい。今はバイパスを建設中で汚水は迂回するようにするという。昔みたいにきれいになることを期待している、といって笑った。
男は歩きながら話し続ける。


「ネパールは貧しい国だ。国連で世界で2番目に貧しい国だといわれている。ネパールの子供たちは学校に行けない。日本はどのくらい学校に行く? 90%以上だろう。ネパールは48%だ。半分以下しか学校に行けない。とても貧しいからね、働かなくてはならない」
カーストの上から二番目の位の出身だという彼は、さまざまな事を実にわかり易く説明してくれる。この国を良くしたいという彼の熱い気持ちが伝わってくる。

貧しい人のために政府が提供しているという宿舎の前に来た。
彼らは昔巡礼者のための宿舎であったところに無料で住んでいる。働いていないわけではないという。しかしあまりにも収入が少なすぎて家賃が払えないのだ。皆汚れた服を着て、壁にもたれて立っていたりしゃがみこんだりしてじっとしている。必ずしも子供は走り回るものではない、と気付いた。
戸口に14、5歳の少女が一人たたずんでいる。大きく澄んだ瞳が印象的だ。中庭を覗くと、子供達が高齢の修道女の回りを取り囲んで何かをもらっているようだ。彼女もマザーテレサ と同じ、白地に青い縁どりのついた修道服を着ている。

それにしても、ヒンドゥー教の本山のすぐ近くでカトリック教徒であるマザーテレサが病院を設立することに対して、なんらかの問題はないのだろうか。

疑問に思って尋ねると、まったく問題ない、という。
「マザーテレサはネパールの貧しい人々を救うためにここに来た。そのことと宗教は関係ない。それに本山の近くといっても、正確には本山の中ではないからね。ネパールは人口の95%ヒンドゥー教徒だ。残りの5%は仏教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、いろいろいる。仏教はヒンドゥー教の一派だからここにも仏像がある。同じように仏教寺院にもヒンドゥーの神が祭ってある。それにヒンドゥー教徒である国王の住いの近くにはイスラムのモスクがあるんだぜ」とニヤリと笑う。
「もっともこれはネパールだけの事情だ。バングラデシュなんかはそうじゃない。だから争いが起きる。ネパールは宗教の違いで争ったりしない」と言って胸を張った。

病院の敷地に入っていくと猿が数匹、粉の入った大きな袋をやぶいて、中身を食べている。猿は神の使いである。あたり一面粉だらけだが、誰もそれを咎めない。
行った時はちょうど食事時だった。入口近くに数人がしゃがみこんで、大皿から直接手で食べている。通ろうとするとニコニコしながら、話しかけてくる。60歳以上の身よりのない老人たちが、廊下のような細長い部屋に左右25人ずつ暮らしている。入口から見て右が男、左が女のようだった。
ガイドは事務所に案内して責任者に会わせ「よければ寄付をしてくれ」といった。貧しい人の暮らしを見ることを彼があれほど熱心に勧めたのはこういうことだったのか、と合点がいった。彼は観光客に総本山のガイドをきちんとし、さらに貧しい人々の窮状を訴え、いくばくかの寄付を募るのだ。彼の真面目なガイドぶりに感服していた我々は彼の人柄を信じて少額ながら寄付をし、彼の仕事は完結した。

別れ際に彼は、ネパールという国の一部でもあなた方に伝えられたことを喜びに思うと、誇らしげに言った。そしてここで実際に見聞きしたことを帰国して他の人達に伝えること、またここに戻ってくることを期待していると付け加えた。
ガイド料は2時間で千円ほど。支払いは日本円か米ドルがいい、といわれたが持ち合わせがなく、希望はかなえられなかった。
帰りの車中、われわれは言葉少なに座っていた。頭が混乱したのか、目の奥が少し熱っぽかった。


1997年12月18日(木) 第14話 空白の一日

やられたと、思った。ついにやってしまった。
ホテルに戻って来て、体の具合がひどく悪いのに気づいた。実を言えばパシュパティナートで観光をしているときから鈍い腹痛があったのは知っていたが、自分でそれを認めたくなくて知らんぷりをしていた。雨に打たれて体が冷えたのがいけなかったのか、いやそれ以前に朝から胃がもたれていたのは事実である。
その日は朝も昼もホテルのカフェテリアのブッフェで食事をして、なんだか食欲が旺盛なのを感じていた。ネパールの食事は香辛料を使ったものが多い。私はその手の辛いものが苦手なので、慣れない食事で胃腸が働いていないせいかとも思っていたのだが、単なる胃のもたれではないようだ。
飲み水はミネラルウォーターだけにして、極力生水は飲まないように気をつけていたのだが、サラダの生野菜などは水道水で洗っているだろうから、防ぎきれるものではないのだろう。
ホテルのラウンジで温かいミルクティを飲んだが、効果がない。昨日はあんなに魅惑的だったアフタヌーンティのケーキ類にも全く食指が動かない。
早々に部屋に引き上げる。浴槽に浸かって体を温めると、転がり込むようにベッドに横たわった。胃のあたりが腫れた感じがして、腹部の表面が痛い。押したりうつぶせになると痛みを感じる。そのままうつらうつら眠り続ける。
夫は学会のレセプションがあるというので部屋を出ていった。「ナマステディナー」だかいうナイスなネーミングのレセプションであるらしい。

しばらくすると、下痢が始まった。熱はないらしい。相変わらず腹部は表面が痛い。痛みと下痢は別物の感じがする。
なぜ体温計や強力ワカモトなどの薬を持ってこなかったのか、痛烈に悔やむ。大した荷物ではないのに。どこかこの旅行を甘く見ていた自分に気付く。去年の夏に「急性腹膜炎」という大げさな、しかし原因不明の病気で高熱を出しつづけて入院したことを思い出した。あの時の腹部の痛みと似ている気がして不安になる。医者にかかるような病気なのだろうか。
眠り続けながら幾度となくトイレとベッドの間を往復する。トイレの都度一口二口ミネラルウォーターを飲む。こうした場合、水分をとるのがいいのか悪いのか分らないが、このままだと体中から水分が抜けきってしまう気がするのだ。
夜半すぎトイレから出てくると、夫が戻って来ていた。「具合どう?」と尋ねる夫に一言、「悪い」と言い捨ててベッドにもぐり込む。

明け方近くになってぐっすり眠ったらしい。夫の「じゃあ、学会に出てくるからゆっくり休んでて」と言う声で目が覚めた。夫はすっかり身支度を終えている。時計を見ると8時半である。食事をしている暇はない。「食事は?」と聞くと「あんまりお腹が空いてないから、要らない」と言う。
「へ?」である。
私の方は昨夜から何も口にしていない。さすがに何か食べないとへばってしまう。せめてヨーグルトぐらいは食べたいと思っていたが、夫は自分が食べたくない時は他人も食べたくないと思うタチらしく、私の様子などお構いなしである。
せめてアスピリンを買ってきてくれるようにたのんで、小銭をおいていってもらう。しばらく横たわっていたが、どうにも落ち着かないので部屋の冷蔵庫を開けてみる。紙パックのマンゴージュースがあった。一口飲んでみる。おいしい。一昼夜ぶりの食糧である。ベッドの脇に置いて、このマンゴージュースの味を私は一生忘れないだろう、などと感傷に浸りながら昼休みで夫が部屋に戻るまでちびちびと飲み続けた。

夫が戻ってきた。自分も具合が悪いという。昼時だが食事する気力がないらしい。半ば強引にマンゴージュースを飲ませる。
買ってきてもらったアスピリンは見慣れたバイエル社のものではなかった。錠剤が入ったシートむき出しで4錠分、確かに表面にはASPIRINと書いてある。多分大丈夫だろうと判断して早速服用する。外は晴れらしいが、半分カーテンを引いて二人共倒れである。
午後のセッションが始まる時間になり再び夫は出ていった。今日は学会の遠足でちょっと離れた古い街、 バクタプル に行くことになっている。下痢は収まったようだし、なんとかそれには行けるだろうか。再び昏々と眠り続けた。


1997年12月17日(水) 第15話 ネパールの光と影

夕方になり体の具合も落ち着いてきたので、バクタプル行きの遠足に参加することにした。団体バスに乗り込む。この街は古く美しく、町並みそのものが観光スポットになっている。街自体に入場料が必要な、生きた化石のようなところらしい。カトマンズの市街地からかなりの距離の街道を行く。街道、といってもすぐに大きな石やぬかるみのある泥んこ道になる。
道の左右には家が点在する。どれも崩れ落ちそうなレンガや石造りの家である。人々は家の外に出て世間話をしたり、何をするでもなく往来を見つめていたりしている。建物の中は暗いそうだし、中にいてもすることがないのかもしれない。
野菜を売っている露店がある。並んでいる野菜は日本とあまり変わらない。キャベツ、ニンジン、ほうれん草、カブ、といったものである。
巨大なカリフラワーを大量に売っていて驚く。人間の頭ほどもあるカリフラワーが大きなカゴ一杯に入っている。カゴといっても、よく公園にあるゴミ箱ぐらいの大きさがある。
丁度夕方の帰宅時間らしく、道を行くバスはどれも満員である。車内がスシづめなのはもちろん、屋根の上にも乗れるようになっていて、ところ狭ましと座っている。
まさに「満載」である。

ホテルを発ったのはすでに夕刻だったので、街に着いた頃には夕闇が迫っていた。空は今にも泣きだしそうだったが、じきにポツリポツリと降り出してきた。
12月のカトマンズは乾期のはずだがここ3日程雨が降っている。極めて珍しいという。
バスが入れるのは街の手前の駐車場までである。全員バスを降りてガイドと共に石畳の道を街の中心部へ歩き始める。 道 はくねくねとしてわかりにくい。
滞在は正味一時間だが、この頃になるとすでに寺社の類には飽きてきたし、体調が悪いのでじっくり見ようという気にならない。

やたらと物売りの子供たちの姿ばかりが目に付く。あどけない表情でじっと人の目を見て、目が合うと近付いてくる。そして「あなただけお買い得」というような、こまっちゃくれた態度で刺繍した物入れだの、仏像だの、短剣だの、ありふれた土産ものを見せてくるのである。
そういえば、行きのバスの中でガイドの男がしきりと、子供たちから物を買うな、と言っていた。(余談だがこの男はアジア系の顔つきで浅黒い肌のくせに、髪の色は不自然な赤茶髪である。おしゃれのつもりなのか、それとも何か思い入れがあるのだろうか。)

街に行くとキュートな少年少女がたくさんいて、あなた方に話しかけてくるだろう。時に彼らは語学の勉強のためや、世界のことを知りたくて話をしたがっているかもしれない。そういう彼らと、どうぞ話をして楽しんで下さい。ただし、彼らからものを買ったりしてはいけない。彼らは決して貧しいわけではない、よりよい生活を望んでああいうことをしている。まして彼らに金を恵んでやったりしてはいけない。

男はおよそこんなことを言った。彼らが貧しいわけではない、という言葉が耳に残った。そういえば飛行機で配られたネパールの入国管理票にも「物乞いを援助してはいけない」という注意書きがあった。
これが対外的な建前なのか、政府がゆゆしき問題だと考えているのか、彼らの生活を貧しいとは思っていないのか、本当のところはわからない。しかし、こういう物売り、物乞いの数は実におびただしい。
夕闇がだんだんと濃くなって行く。幼い少女が、自分と大して大きさの変わらない弟を抱いて店先に座っている。
灯の少ないこの街で、もはや観光できるものはない。足早にバスに戻り出発を待つ。間もなくバスは走りだし、闇の中同じ道を戻り始めた。雨もかなり降り始め、街道に人影はない。

カトマンズの中心部に戻ると、さすがに明るい。車道には車が溢れている。バスの車窓からは、立ち並ぶ店の灯に照らされながら歩道を闊歩する人々の姿が見える。
ところどころイルミネーションさえある。欧米のブランド品を扱う高級店は、まばゆいばかりの輝きを見せる。一体この国のどんな人が買うのだろうか、店の前にはいかつい顔をしたガードマンが目を光らせている。


1997年12月16日(火) 第16話 ネパール、食の攻防

バクタプルから戻って、そのまま ホテルのカフェで軽い夕食をする。ここは朝、昼、晩と3食 ブッフェ がある。いずれも日本円にして千円強。
シェフはなかなか勉強熱心らしく、ネパールや欧米スタイルの料理はもちろん、日本食モドキもある。
味噌スープ、細長い白米、漬けものという名のピクルス、西京焼きという名の魚のグリル、カナッペのようなsushiもある。これはつまり、無垢の太巻をスライスしてその上にキャビアやスモークサーモンなどを乗せたもので、一応ご飯は寿司飯風に甘酸っぱくなっている。
前にも書いた通り私は香辛料の類が苦手なので、こうしたブッフェの存在はありがたい。贅沢はいえないのだ。

一方、夫はカレーやキムチなどが好きで、ブッフェで毎日さまざまな種類のカレーが並ぶので
「いや〜ネパールでこんなにおいしいカレーが食べられるとは思わなかったなぁ」
とご満悦である。いや、ご満悦であったというべきか。今や彼も大人しくスープなどをすすっている。

スープといえば、ネパールの料理の中で数少ない私の好物となったものがこの手のスープである。一番ポピュラーなのはチキンとマッシュルームのクリームスープだろうか、これは大体どの店にもあるようで、大抵小さ〜いパンが二つそえられている。
このスープは店によって、順列組合せのように中身のバリエーションがあり、チキンがポークに変わったり、マッシュルームがほうれん草に変わったりする。
作り方も一様ではないらしく、クリームポタージュのようにとろりとしたものや、スープが透き通った部分とクリームの部分とに分かれてるものもあり、具も細かく切ってあったり、ごろごろと入っていたりする。

いずれにしても風味の高いまろやかな味で、ロシアンルーレットのような香辛料との戦いに疲れている私の胃腸を、やさしく癒してくれる。なにしろ食べて初めてその辛さに気づく料理の多いこと。
ウェイターに「これは辛いか」と聞いても無駄である。彼らはもともと辛さに慣れているので「いや、別に辛いことはないですよ。普通ですね」などと答える。
チッチッチ。それが間違いのもとなのだ。

パンを食べ、野菜スープとチキンスープを1杯ずつ飲み、果物を少し食べてぼそぼそと食事を終えた。

そうそう、もう一つ忘れられない苦い思い出、いや辛い思い出が「サラダ」である。あれは体調を崩す直前の昼食のことだった。
サラダは自分で好きなようにとれる。辛くない野菜をとって辛くないドレッシングをかければ全く問題がないのだが、当然面白みに欠ける。上にかけるトッピングはスライスアーモンドやクルトン、ケッパーの実などが用意されており、安全策もだんだん飽きてきたのでちょっとかけてみようと思ったのが運のツキだったのである。
その日はオクラを小口切りにしたようなものがあったので、それを何気なくかけてみた。オクラは国際的な食べ物であるし、そこにあることになんの疑問も抱かなかった。

さて、席に戻って一口食べてびっくり!である。
それはオクラなどとは似ても似つかぬ青唐辛子 だったのである。
…これってハラペーニョかもしれない。ハラペーニョってもっと大きくなかったっけ…などと思いながら、口から出すわけにもいかず心を殺してゴクリと飲み込む。
舌が痛い。ちぎれるようにヒリヒリする。慌ててミネラルウォーターを注文する。何か舌に載せていないと我慢できないほど猛烈に辛い。
夫にそういうと「どれ」などといいながらパクリと食べてしまった。夫も目を白黒させている。私が辛いのが苦手なので、そうは言っても大したことはないと踏んだらしい。オロカモノめ。

ミネラルウォーターが届く。夫の分をつぎ終らないうちに自分のグラスに手を伸ばしてゴクゴクと飲む。ウェイターが目を丸くしてこちらを見る。非常事態である。マダムはなりふり構わないのだ。グラスを満たし犬のように舌を漬ける。

今にして思えばあれが「 空白の一日 」の不吉な序章だったのか。


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追記:ところで「からい」も「つらい」も漢字は「辛い」なんですね。
本文中の「辛い」は「からい」の方です。ま、私にとっては「からい」=「つらい」ので、どっちでもいいんですが。


1997年12月15日(月) 第17話 王宮通り

一晩ぐっすり眠って体調はかなりよくなった。
カーテンを開けると相変わらず雨がしとしと降っている。今日は木曜日、ガイドブックによると王宮の外国人向け公開日らしい。ネパール人向けの公開日には長蛇の列ができるという。
ネパールの国自体は貧しいにも関わらず、 国王夫妻 は世界でも指折りの金持ちである。いったいこの国の人々はどういう気持ちで豪華な王宮と高価な調度品などを見るのだろうか、なんてことがガイドブックには書いてあった。
午前中はゆっくり休養して午後から行くことにする。王宮はホテルから歩いてすぐ、 王宮通りのつき当たり にある。
もとい、王宮からまっすぐに延びる道を「王宮通り」といい、ホテルはその道沿いにあるのだった。
そのうち晴れてきたので、部屋でゴロゴロしているのももったいなかろう、ということになり、昼食をとりがてら出かけることにした。王宮通りに面した建物の2階がオープンカフェになっているのを見つけて入る。
例によって私はチキンとマッシュルームのクリームスープと、フィッシュアンドチップス、コカコーラを頼む。面白味はないが、まだまだ油断はできない。安全第一である。
こういう小ぎれい店は外国人客が多い。現地人とおぼしき人はほんのわずか、しかも裕福そうである。

食事を終えて外に出る。王宮に向かって歩きだすと、王宮の後ろに白い山々が見えている。これは美しい。おそらくあれがヒマラヤだろう。青空にくっきりと映えている。見るのはカトマンズに来て初めてである。
歩いていると例によって物売りが近付いてくる。仏像、短剣、ジッポ、ひどいのはタイガーバーム。
タイガーバームなら上海で買った ぞ。しかも商品4つだけ持ってどうするつもりだ…。

王宮の手前まで来た。このあたりは宝石店がいくつか軒を連ねている。見学時間まで少しあるので、ショーウィンドウを冷やかしてみる。
宝石のビーズで作ったネックレスが特産らしく、どこの店にもならんでいる。細いネックレスを何本も平に重ねてベルトの様な幅広のものに仕上げてある。丁度織り物のように幾何学的な模様となる。柄がグラデーションになっているのが気に入ってしばらく見ていると、店員が中から顔を覗かせて声をかけてきた。
値段だけ聞こうとすると、見るだけでいいからとりあえず中に入れという。足を一歩踏み入れようとすると、すかさず歩道にいた物乞いが近寄ってきたが、店員が「ダメだ」というような顔をすると大人しく引き下がった。
店内では西洋人のオバサマが現金でバンバンお買い物をしているところだった。ありゃ、アメリカ人だな。

椅子を勧められたが、座ると断りきれなくなりそうなので、立ったまま気に入ったものを見せてもらった。きれいだが、つけてみると案外映えないものである。値段を聞き間違えて一瞬心が動いたが、ちゃんと聞いてみると5万円くらいする。旅先での衝動買いにしては値が張り過ぎる。迷っていると、
「ここはホールセールをやっているので、どれも卸値に近い。いい値段だ」
という。まあ、確かにそうなのだろう。さはさりながら、である。
「とても今決断はできない」
というと
「そうだろう、そうだろう。今すぐには決められないだろう。ま、とりあえず座って、コーラかコーヒーでも飲みながらゆっくり選んだらいい。何飲む?」

ここで飲んでは絶対買わされてしまう…。
何度も椅子と飲みものを勧められたが固辞し続ける。心は残ったのでまた来る、と約束して名刺をもらって店を後にした。

王宮には見学時間の前に着いてしまった。チケットを買うらしいが、時間になるまでは売り始めないようだ。チケット代は一人500円強。わりと高い。
午後の見物客はわれわれの他に、同じ学会に参加しているらしい3人組だけのようだ。週一回の公開日にしては淋しい。


1997年12月14日(日) 第18話 スワヤンブナート

王宮見学はあっという間に終わってしまった。ま、こんなもんかな、という感じである。
建物や財宝はともかく、王宮に勤務する衛兵や係官は外見からはピシっとしているがやはり中身はどこまでもネパール人なのであった。
さて、見るべきものは見つ今やまからむ、とて次の目的地に向かうことにした。いったんホテルに戻り、タクシーを頼む。行き先は スワヤンブー、仏教のお寺である。日本語のガイドブックにはスワヤンブナートとあるが、現地の表記ではスワヤンブーのようである。仏教の印である眼が描かれている塔が特徴的で、この眼はブッダの眼を表すという。
タクシーの運ちゃんは「日本人か。おれは日本が好きだ」といいながら機嫌よく走りだした。タメール地区という雑然とした商業地区を抜け、がたがたの山道をくねくねと走り、崩れかけた民家の塀の脇をすり抜ける。細い道をずんずん行くと対向車がやってきた。相手の運転にちょっと悪態をついてがんがん突っ込んで行く。
途中、牛がたたずんでいる。牛の脇はさすがにそろそろと通る。

スワヤンブーは小高い丘の上にある。正式にはふもとから参道を歩いて行くらしいが、中腹に車を横づけできる観光客用の駐車場がある。運ちゃんは30分もあれば十分だというが、一応1時間待ってもらうことにして歩きだす。さすがに観光客の通り道だけあって土産物屋の攻勢がすごい。
坂を上り切ったところでが境内である。境内の真中に例の眼のかかれた塔がそびえており、尖塔からはこれもまた仏教の寺であることを示す 旗がひらひらとひらめいている。ヒンドゥーの寺院に比べると満艦飾といった感じで、かなり派手である。

ここは別名「猿寺」とも呼ばれ、至るところに猿がいる。仏教でもヒンドゥー教でも猿は大事にされるので大人しく、危害を加えるようなことはない。
境内はそれ自体が城壁に囲まれたごくごく小さい町のようになっていて、民家が軒を並べている。中央に広場があり、そこに面していくつか土産物屋がある。老婆が椅子を持ち出してきて一斗缶に焚火を起こす。どこからともなく人が集まってきて数人で焚火を囲む。黒い犬が走り回っている。
裏手に行くと観光客がカメラを構えている。遠くヒマラヤが見えた。何枚か写真を撮る。カメラを手に城壁に沿って歩く。空は青く、山は白い。雨上がりで空気は澄み、気持ちのいい午後である。

城壁から見下ろすと、野性のランタナが咲いている。
ランタナは花の色が次々と変わる花で、七変化(シチヘンゲ)とも言われるアメリカ原産の熱帯性の植物である。自宅で何種類か育てているが、寒さにはてきめんに弱く、越冬には手間がかかる。大きくなるにつれて樹化すると聞いてはいたが、なるほど斜面に沿って枝葉を繁らせており、風土にあっていることがわかる。
荷物の中のおびただしい防寒具のことが再び頭をよぎる。

塔の脇にあるちょっとしたスペースに、人々が車座になって集まっている。給食のように食べ物が配られ、食事が始まった。2〜30人はいるだろうか。女性と子供が多い。カレーに雑穀、豆といった食事をしている。食事といっても椅子やテーブルがある訳ではない。女性は立て膝である。食べ物も地べたに置いてある。
人々から少し離れ、城壁に竹棹を肩にかついだ少年が腰かけている。棹は長くて太くて少年の体に余っている。彼はそれで食べ物を狙って寄ってくる猿を追い払う役目を負っているようだ。その仕事が気に入っているらしく、懸命に猿を追い立てている。

カメラを向けると、ちょっとはにかみながらポーズをとった。


1997年12月13日(土) 第19話 あなたに幸運を

境内の観光も一通り終わって、さてタクシーに戻ろうという段になって、われわれの心に暗雲が広がり始めていた。
実は、来る時に適当にあしらった物売りの男が待ち構えていると予想されるのである。タクシーを待たせてある車寄せと境内を結ぶ道は一本しかなく、逃れようがない。
その男はハンドベルのような銀色の鐘を売っていた。鳴りものに弱い私はつい立ち止まってしまい、あまつさえ手に取ってみたりした。
その鐘はありがたい経文や仏像などか模様として施してあり、付属のすりこぎのような小さな棒で叩くようになっている。この鐘の鳴らし方はそれだけではない。
その棒で鐘の縁をぐるぐるとなぞっていると、やがてグラスハープのように、ぅわーん、ぅわーんと音を出し始める。音が出たところで、鐘の側面に口を近づけ、あくびをするような要領で口を広げたりすぼめたりすると、そこで共鳴して、ぅわぉわぁ〜ん、ぅわぉわぁ〜んと響いてくる。

これは面白い!

値段を聞いてみると日本円にして3千円だという。高すぎる。
いくらなんでも、露店で売っているこんなチャチな作りのものに3千円も出すのはいかにも馬鹿げている。高すぎるといって断ると「よし!わかった!」とでもいうように日本円、米ドル、ルピーと、次々と違う数字を呈示してくる。が、換算すればどれも同じ値段である。
千円ならば買ってもいい、と言うが、今度は向こうが冗談じゃない、というような顔をする。せいぜい2千円どまりである。話にならないといって歩き出すと、例によって後ろからついて来る。曰く、


これはすごくいい品だ
あなたに幸運をあげたい
なぜならあなたは今日初めての客である
是非ともこれを買ってもらってあなたに幸運をあげたい


午後も夕方近くになって「初めての客」とは恐れ入る。笑止、笑止。そんな馬鹿な、と言うと、いや、今日は朝からずっと雨だった、やっと晴れてきたので店を出したのだという。確かに道理ではある。しかしこれを買って幸運なのは、客ではなく物売りの男の方ではないのか。
わっはっは。せっかくの幸運は二番目の客にあげてちょうだい、といって再び歩きだすと、今回の物売りは手ごわい。大きな声で食い下がって来る。


なぜ買わない!?俺はあんたに幸運をあげたいんだあぁぁ!


これから私達はお寺を見に行くのだから、帰りもここを通る。その時にまだ買う気があったら買ってあげよう、といって境内に向かった。

…というようなやりとりがあったので、断りつつもまぁ買ってもいいかなという気にはなっていた。
ところが、である。
所持金がなかったのである。上の境内で例の眼をデザインした石などを買ってふと気付くと、タクシー代くらいしか残っていなかった。必要な分だけ持って出たつもりだったが、食事をしたり王宮見学などで使ってしまっていたらしい。それで鐘を買ってしまったらホテルに帰れなくなってしまう。

帰路は足取りが重い。物売りがわれわれのことを忘れていることを望みつつ歩いていったが、物売り男はさっきの場所にいる。せめて道の反対側を迂回しようとすると、迂回した先にその男もやってきた。約束通り買ってもらおう!というのである。所持金がないのだというと、そんな事はないだろうルピーがなければドルを出せ、という。いや本当にないのだ、といっても信じてもらえない。それはそうだろう。われわれもまさかそんなに所持金が少ないとは思っていなかったのだから。

大変失礼した、といってタクシーに向かう。男は急にダンピングを始めた。500ルピーでいい、さっき千円なら買うといっただろう、というが買えないものは買えないのである。取り合わずにいると、ますますムキになって値下げしてくる。
300ルピーでどうだ、100ルピー、50ルピー…
今更いくら安くなってもない袖は振れない。タクシーに乗り込んでも、窓の外でまだ値下げをし続けている。10ルピー!10ルピーといえば、20円である。さっきまで2千円だったものが、なぜ20円になるものか…。

タクシーの運ちゃんは、車に追いすがって来る物売りに頓着せず発進させる。初めから欲を出さなければ買ってあげられたものを。なんとなく苦い思いが残る。


1997年12月12日(金) 第20話 西洋人

ホテルのロビーにコンサートのポスターが張り出された。
夕方ホテル内のレストランで行なわれるらしい。飲みものと軽い食事も出るようだ。詳細はわからないが、ポスターにはネパールの象の神様が書いてあるし、民族音楽のコンサートなのかも知れない。
夜は暇だし、コンサートというのも久しく行っていないので、話のタネにいってみることにした。
その場にいたベルボーイに予約が必要か聞いてみると、チケットがあるようだから会場にいってみてはどうか、という。
会場であるレストランの入口には、アメリカ人なのか、西洋人のスタッフが机を出してなにやら仕事をしている。小柄な女性に「チケットが欲しいのか」と聞かれて、そうだと答えると、「すばらしい!2人分ね!」と言いながら空きチケットの状況を調べている。「まぁ、あなたたちはなんて好運なんでしょう!ちょうど32と33が並んであいてるわ!」などと大げさにリストを示す。
ネパールに来て以来、こういうアメリカンなノリは久ぶりなので新鮮である。チケット代金はやや高めで、一人25米ドル。

チケット代を受取ながら彼女が「私の夫は日本人なのよ」と言い出した。彼女の夫は JICA(国際協力事業団) のプロジェクトでネパールに来ていて、それで出会ったのだという。JICAのプロジェクトが先に終ったので彼は「ホンシャ」に戻り、彼女のプロジェクトはまだ終らないので離ればなれに暮らしている。
「東京とカトマンズを行ったり来たりしてるの。だけど、もう東京には戻りたくないわ。まっぴら」といいながら首をすくめてみせた。

時間になり会場に行ってみると、まあ、いるわいるわ西洋人だらけである。よくよく見てみると現地の人らしき人もいるが、やはり紅毛碧眼が圧倒的に多い。男女で人種の違うカップルもいて、実に国際的である。
このホテルには世界銀行のオフィスもあるし、どうやらこれは日本でいうJICAなどの国際協力団体や、医療機関のスタッフとしてネパールに在住している先進国の人々の集まりらしい。仲間同士でアーティストを招聘して行なうコンサートなのだ。
コンサートの前にスナックタイムがあって、軽食がロビーに並べられている。飲みもののは列に並んでチケットを買ってから注文する。
今日はカトマンズに在住する西洋人の親睦の場でもあるようだ。あちこちで歓声をあげる者あり、抱擁する者あり、実に賑やかである。われわれは知った人とていないので、壁際に陣取り人物観察に入る。

男女の比率は半々位か、女性は妙に格好がいい。
着飾っているわけではないが、よく見るときちんとイヤリングをしたりネックレスをしたり、あるいはスカーフを巻いていたり、髪型に凝っていたり、一応ハレの服装をしていることがわかる。まさに外資系や国際機関で働いてい女性のそれである。皆なごやかながら自信に満ち溢れ、「知的で行動的で自由で自立した雰囲気」というものが漂ってくる。

いやーまいった。かっこいい!

結局コンサートはネパールとは縁のないカントリー系の男女二人組だった。まあ、そうか。わざわざネパール在住の西洋人が大挙して民族音楽を聞くとは思われない。
途中、頭を丸めて仏教の僧衣を身に纏った背の高いアメリカ人が現れた。休憩時間に取りまきを連れてのっそりと歩き回っている。彼がホテルのロビー方面に姿を消すと、その辺りで強いストロボの光がまたたいている。
有名人なのだろうと思っていたら、休憩後のセッションでその男が合掌しながら舞台に上り、飛び入り参加した。その男が紹介されるや、観客は熱狂したのだが、あいにく名前が聞き取れなかった。
後から聞いたところによると、男はアクション俳優のスティーヴン・セーガル。あの格好ではわからない。敬虔な仏教徒で、カトマンズで行われた大がかりな仏教の式典に参加したのだという。

そういえばリチャード・ギアの来訪を告げる新聞記事があったことを思い出した。彼も仏教徒らしい。少女二人にエスコートされた写真が載っていた。記事の見出しは
「Pretty Woman in Kathmandu(カトマンズのプリティウーマン)」


1997年12月11日(木) 第21話 ヒマラヤ見物

カトマンズ滞在も残すところ、あと二日となった。
いよいよヒマラヤ観光である。といってもトレッキングをするわけではないので、気楽なものである。前日にホテルの中にある旅行エージェントに頼むことにした。その名も「エベレスト観光(Evelest Travel Agancy)」である。
パンフレットによるとそこで扱っているヒマラヤの観光は2通り。一つは小型飛行機や ヘリ でヒマラヤ上空まで行き、エベレストの近くまで行って帰るというパターン。もう一つは山の上のほうにある ナガルコット という村の展望台へ行き、そこからはるかヒマラヤを望むというパターンである。
小型飛行機でエベレストというのは、移動時間を抜きにすると観光に費す時間は1時間。山の展望台から見るのは2時間である。地に足がついた生活を信条としているので、山からヒマラヤを見ることにした。ナガルコットへは車で1時間ほどかかるという。全行程4時間である。

選択肢はさらにそこから2つある。朝焼けコースと夕焼けコースである。万年雪で常に白い山肌が、日に照らされて茜色に染まると言う。念のため日の出時間を聞いて、即座に夕焼けコースに決定する。起きられるはずがない。聞くまでもなかったような気もするが。

出発は午後3時。ガイドが運転手つきの車で迎えにきた。立派な口鬚をたくわえた大男である。
幸いなことにカトマンズは快晴。ヒマラヤの山々が見える。ところがガイドがいうには、「雲の関係でヒマラヤがよく見られるかどうかは、行ってみないとわからない。昨日よりはいいと思う」とのことで、祈るような気持ちである。道すがら垣間見えるヒマラヤの姿に一喜一憂している間に、車はいくつもの町や村を抜け、どんどん高地へと進んで行った。時間があるのでガイドに、公共バスのドアは自動ではないがいったい誰があけるのか、といったような質問を色々する。このガイドはなぜか軍の学校や施設の前を通ると積極的に説明する。なにか特別な思い入れがあるのか。

山道の途中で料金所を通る。どうやらこれは有料道路だったらしい。もう既にナガルコットだというが、行けども行けどもたどりつかない。ナガルコットの村自体はかなり広いらしい。厳しい山道を上り続ける。道の脇は断崖絶壁である。突然視界が開けヒマラヤの 山々 が正面に姿を現した。思わず歓声をあげると車を停めてくれた。何枚か写真をとる。
展望台はすぐそこらしい。これは期待できそうである。


1997年12月10日(水) 第22話 展望台にて

ナガルコットの展望台は、山の頂上を少し削って平にならした、土むき出しの場所である。脇に高級そうな小さいホテルがある。今日は赤十字の会合が開かれているらしい。下を見下ろすと、 牧草地になっている。篭を背負った少女が少し離れたところからじっとこちらを見つめている。
正面にヒマラヤの山々である。すこし雲がかかっているが、日の当っているところは山肌が白く輝いている。左手はわれわれが通ってきた方向にあたり、陽に照らされて川が蛇行しているのがわかる。右手には盆地が広がっている。ひとしきり写真を撮る。カメラは標準レンズなのであまり凝った構図にはできないが、時々刻々と変わる景色に飽きることはない。月が上の方にぼんやりとみえる。地面から月までの距離が長い。幻想的な景色である。
エヴェレスト はどれか、と尋ねたらここから見えることは殆どないという。見えたとしても頂上のほんの一部分だけらしい。エヴェレストは頂上付近は常に強風が吹き荒れているので、雪が積もることはないのだという。ネパール人男性が被っている 帽子は柄があるのと黒一色のと両方あるが、本来は黒一色で、その形と色はエヴェレストに因んだ意匠なのだそうだ。まあ、そういわれてみればそんな気もする

小学校低学年ぐらいの兄弟が近付いてきた。
ヒマラヤのパノラマ写真のポスターを手にもって、いかがですか、と英語で聞いてくる。それぞれ違う種類のものを一枚ずつ持っている。写真それ自体はどこの土産物屋でも売っているありふれたものである。しかし、まわりに民家もないこの高台で、この少年たちはいったいどこからやってきたのだろうか。見ればこの高地にも関わらず半袖半ズボン、素足にボロ靴といういでたちである。私達の心を見透かしたようにガイドが「この子達はこれを売るために下から歩いてきたんですよ」口を添え、思わず買ってしまう。

私達が着いた頃は閑散としていたが、夕暮れ時が近付くにつれ三々五々と人が集まってくる。西洋人、日本人、新婚旅行の現地人もいる。
新婚の女性はみな着飾っている。額にはきらきらひかるティカをはり、足の爪もきれいに塗っている。これが婚礼の装いの名残なのだという。爪先が見てとれるということは、つまりこんなところで踵の高いサンダル履きである。う〜む。
着飾って、ハンディカムなどを回しているので、お金持ちなのかと思ったがそうでもないらしい。親兄弟や親戚が援助をして、盛大に送り出すのだという。日の入りまではまだ時間があるので、ガイドにそんなことまで質問してしまう。ついでに外見からの宗徒の見分け方を教えてもらった。ターバンを巻いているのがシーク教徒で、結局ヒンドゥー教と仏教は区別がつかないという。そもそも宗教による区別は意味がない、という話にいつの間にか発展していた。

ネパールで宗教上の争いがないことは、すでに パシュパティナートのガイド から聞いて学習していたが、このガイドもまた独自の論を持っているらしい。
ネパールはすべての宗教が共存している、というより神は唯一のものと考えられている。どの宗教でも神は一つであり、それがたまたま違う名前で呼ばれているに過ぎないのだという。


神はもともと一つだ。それがいろいろなルートを辿って伝わるから違ってくる。名前が変わったり、形式が変わったりして違う宗教になるに過ぎない。同じ神が場所や伝わり方によってアッラーの神になったり、ヒンドゥーの神になったりするだけで、なにも違うことはない。ヒンドゥー教もキリスト教もイスラム教も仏教も同じ仲間である。同じ神を信じているならば宗教間の争いは起きない。宗教の違いによる国と国との戦争や、人々の衝突はあり得ないのである。えっへん。


なるほどねぇ。ネパールの人々のこの考え方は実に合理的で大人である。自分たちの信仰を大事にし、教えに従って正しい生活を送り、他の宗教を決して侵さない。この国の人々の穏やかな達観したような様子はこういうところからもきているのかも知れない。
360度見渡せる幻想的な風景の中で、宗教のありかたについて思わず考えてしまったのであった。


1997年12月09日(火) 第23話 犬も歩けば羊も歩く

夕日を待ちながらガイドに話を聞く。宗教の話、登山家今井信子さんが持ち込んだりんごの木の話。今井さんが持ち込んだりんごの木は順調に増えて、みばは悪いが、おいしい実をつけるという。昔はみばも悪くて味も悪かったのだといたずらっぽく笑った。それから経済の話、映画の話。"Seven Years in Tibet"を知ってるか、日本に帰ったら是非見ろ、きっと懐かしく思うだろう、とさかんに勧める。
山頂にはやがて夕闇がせまってきた。
気が付くと観光客の姿はまばらになり、風が耳を切るように冷たくなっている。寒い…。ホテルのクローゼットに残して来たおびただしい防寒具が目に浮かんでくる。こういう時に使わないで、一体いつ使おうというのだろうか。ばかばか。
西の方角は厚い雲に覆われて、夕日を拝むことができない。あたりも薄暗くなって来たので、引き上げることにした。コンディションがよければ、ピンク色に輝く山肌が見られたのに…とガイドがしきりに言う。
なんのなんの。山の景色もさることながら、高度2千メートル超の展望台で、ガイドの彼からいろいろ話をきけたことの方が、収穫だったかも知れない。

冷えてきたこともあって、帰りにしなに「おごるからそこのホテルでお茶でも飲まないか」と誘うと「あんたたちが飲みたいならつき合おう」といって付いて来た。
が、あいにく赤十字の人々の予約で一杯である。残念。でもガイドの彼は早く帰れるのでほっとしたようでもある。まあ、大体こんな山の上で高いお茶を飲むのも愚の骨頂かもしれない。
車は来た道を一路カトマンズに向けて走り始めた。とっぷりと日が暮れる。時にバスと行き違う。どのバスも屋根の上まで満載である。あのバスは一体、日に何本出ているのだろう。人々は朝バスにのって街へ行き、また夕方になるとバスにのって帰ってくるのだろうか。私の住んでいるあたりも「自家用車がないと生活していけない」と言われている所だが、どっこい彼らはまさにそんな所で生活している。するとあのようなことになるのだな。

月が明るい。
冴えざえとした青い月に見守られながら、外灯一つない道をヘッドライトを頼りに車は進む。車はずいぶん降りて来たらしい。商店が立ち並ぶ道にやってきた。よく見ると見たことのある街並である。バクタプルのようだ。夕方で商店街は混雑を極めている。車も思うように進めない。車に紛れて牛も歩いている。鶏もいる。犬も歩けば羊も歩く。牧羊らしく羊飼いにつれられてのんびりと移動中である。
牛や羊に混じって車もガタガタと行く。車に揺られながら生きることのたくましさを感じていた。


1997年12月08日(月) 第24話 ブンチャカ♪

ホテルに戻って来ると、ブンチャカブンチャカ♪楽隊の音がした。
滞カトマンズすでに7日である。その音の意味するところは間違いない。
結婚式である。
こちらの結婚式はまどろっこしくて、まず昼間花婿の家でブンチャカブンチャカ♪ をやって、ごちそうなども出され、親戚や友人、近所の人々に盛大に見送られてブンチャカブンチャカ♪やりつつ花婿は花嫁の家まで迎えに行く。この際使われるのは、例のマリーゴールドのレイで飾り付けられた自動車である。さらに花嫁の家かどこかの会場で結婚のお披露めパーティがあるのだという。
われわれが初めてその光景をみたのは、カトマンズについた翌日のことであった。家の外で揃いの赤いミリタリールックに身をつつんだ楽隊がブンチャカブンチャカ♪やっているので、「おおぉ!これは!」と、早速見物人の中に身を投じたのであった。
親類縁者とおぼしき人々は胸に小さな花の飾りをつけている。古ぼけた車に、手分けしてセロハンテープでペタペタとレイをはりつけている。飾りは別に左右対象でなくてもいいらしい。ご多分にもれず適当である。
それにしても、待てど暮らせどご両人の姿は見えない。楽隊はしばらくブンチャカブンチャカ♪やると、建物の内側から請われて中に入って行く。

…し〜ん…

辺りにいる人達も、ぼーっと立っている。うーむ。暢気なのか何なのか…。
ブンチャカブンチャカ♪…し〜ん…を何回か繰り返して、諦めてもう帰ろうかという頃、やっと花婿がでてきた。花婿花嫁が出てくるものと思い込んでいたので、なんとも拍子抜けである。両親らしき人(仲人かもしれない…)と共に飾り付けられた車に乗り込む。窓の外から姉のようなちょっと年上の女性が「がんばんなさいよ」というように花婿に向かって声をかける。
楽隊の一人が、ネパールの国の形と文字がアップリケされた大きな赤い旗を立てて、先頭を歩く。きっと「祝・結婚」などと書いてあるのだろう。楽隊に続いて車、さらに関係者がゾロゾロと後をついてパレードは往来を曲がっていった。
それがわれわれのネパールの結婚式行事を垣間見た最初である。結婚パレード自体はもう一度見るチャンスがあった。 スワヤンブナートにいった帰り道、突然渋滞して、沿道に見物人が多く出ていた。ほどなく楽隊がブンチャカブンチャカ♪やってきたのである。楽隊のメンバーはこの間と同じである。
おいおい、君達は専門だったのか。とてもそうは…。

ともあれ、そんなこんなできっとネパールの結婚式とはこういうもの、と思っていたのだが、今回の結婚式は少し様子が違うらしい。何しろ場所はネパールで1、2を争う高級ホテルである。そんなところで執り行われる結婚式とは一体いかなるものであろうか。… ドアマンに迎えられるものの、挨拶もそこそこに中庭をつっ切って音のする方へ向かう。
そこで我々が見たのは、煌々と強いライトに照らし出された花婿およびそのご一行の姿であった。例のウェディングカーも半端じゃない派手さである。
何しろ黒塗のぴかぴかの車体のボンネットとトップに花が活けてある。さらに周囲には、蘭を惜しげもなくあしらった色とりどりのレイがびっしりとめぐらされているのである。
花婿にはひらひらの飾りのついた傘が差しかけられ、周囲の祝福を受けながら一行は建物の中に入っていった。


1997年12月07日(日) 第25話 潜入ルポ

披露宴が行なわれているのは、先日 コンサートが開かれた会場のロビーである。今日は打って変わって現地人ばかりの集まりである。
ちょっと離れたところから遠慮がちに見ていると、次々と招待客が入場してきた。ご婦人方は美しく化粧をして豪華なサリーやアクセサリーを身を纏い、紳士方はいずれも恰幅よくつやつやとして、いかにも上流階級の集まりである。
例によって、皆それぞれ関係者であることを示す花を胸元につけているが、それはとても小さなコサージュになっていてやはり高級感が漂っている。コサージュには赤いミニバラでできたものと、もうひとつピンクの造花でできたものがある。近親者らしいごく一部の男性は、普通の大きさのピンクのバラとパールを組み合わせた、長いレイを首から下げている。

やがて若い女性達が薔薇の花びらを床にまきはじめ、花婿がそのあとを入場してきた。この女性達の美しさがまた格別で、彫像のようである。
それにしても花嫁はどこにいるのか。その場を立ち去り難く、なんとなく立っていると、入口でコサージュを配っていた人が、われわれにも「どうぞ、どうぞ」と中に入るよう、コサージュを手渡してくれる。
さすがに夫は少しためらっていたが、せっかくのチャンスである。私は「日本人に祝って貰えば彼らも嬉しかろう!」と主張し、お言葉に甘えてずかずか入ることにした。

内部はさらにきらびやかである。
立食パーティーらしく、笑いさざめく人々が一層豪華さを増している。日本でいう「高砂」にあたる壇の上に二人はいた。常にビデオ撮影用の照明を浴び続け、招待客の祝福を受けている。花嫁は鼻にピアスをしている。頭にも飾りをつけ、豪華な衣装に身を包んでいる。年の頃は20才前後だろうか、全く見当もつかないが二人ともとても若い。
ボーイが回り、飲み物やスナックをサービスする。当然のように手を延ばす私の横で、夫はさらにためらっている。ほほほ。
「高砂」の前をうろうろしていると、やがて二人の前に出られるだけのスペースが出来た。私のカメラはフラッシュがついていないので、照明だけが頼りである。しかしシャッターが切れるまで時間がかかる。ブレるのを承知で少し離れたところから数枚撮る。もうひとつのカメラは日本を発つ時に空港で買った「レンズつきフィルム」であるので、甚だ具合が悪い。
それでも日本語で「おめでとうございます」などいいながら二人の注意を引く。花嫁は少し戸惑ったようだが、照れたようなはにかんだ笑顔を見せてくれた。

日本の披露宴ならばそろそろ、主賓の挨拶だの二人初めての共同作業だのがあるはずだが、とんと始まる様子もなし。あるいはこれは、もうすでに始まっている状態なのだろうか。
二人の姿をカメラに納めたので、少し会場を回ってみることにした。会場の片隅に白い櫓が立っており、その下に香料が入った数種類の容れ物が置いてある。多分、これが結婚式で使われるお道具なのだろう、などと思うがさすがに聞いてみる勇気がない。
壁際には椅子が並べられ、着飾ったご婦人方がずらりとお座り遊ばしている。皆様の衣装が波のようにきらきらと連なっている。このまま宴はたらたらと続くのであろうか。さすがに場違いな二人であるのでそろそろおいとますることにする。といっても誰に挨拶するでもない。

「高砂」に目を遣ると、相変わらず人々が取り囲んでいる。少し緊張気味の二人は、あまり言葉を交わす様子もない。
昼間見た熱々の新婚カップル達の様子を思い浮かべながら、「どうぞお幸せに」と心の中で声をかけて会場を後にした。


1997年12月06日(土) 第26話 街で食べよう

考えてみると、毎日晩ごはんはホテルで食べていた。
外に出るのが億劫というのもあるし、中の方が安全というのもあるが、ネパールくんだりまで来てそれではあまりに寂しいので、ホテルの外で食事をすることにした。
ホテルの脇の路地で見かけた小さな店に入ることにする。客は現地人ばかり。表の看板はメニューは一応英語があるので、手頃かもしれない。いくら現地に馴染むといっても、やはりいきなり現地化は難しいのであった。
「ナマスティ〜」と言いながら店内に入って行く。たちまち店中の注目を浴びる。店員もとまどっている。日本人は珍しいのか?。
なんとなく気恥ずかしいので、目立たないよう奥まったところのボックス席につく。椅子もテーブルもゴツゴツとして、表面はペトペトしている。壁はむき出しで、調理場にはカーテン代わりの古ぼけたキレがかけてある。冷蔵庫はワンボックスの丸身を帯びた形。全てが古ぼけている。テーブルの上の紙ナプキン入れには、一体いつ入れ替えたかわからないような、くたびれたナプキンが数枚差し込んである。

ウエイトレスに料理を注文しようとすると、そのまますすすっと奥に引込み、代わりにあんちゃんが出て来た。彼は控えめながらとてもフレンドリーな感じがする。注文をとる彼の後方でウエィトレスがじっと見つめている。
私はまた例のごとくチキンとマッシュルームのクリームスープを頼み、夫はビーフンを頼む。それからモモという、シュウマイと餃子の中間のようなチベットの食べ物。飲物はビールとスプライトにする。
このコップが、な〜んか、汚い。
今までの店では、コップを出されても知らぬふりでラッパ飲みをしていたのだが、ここは親切なので、あれよあれよという間にコップにつがれてしまった。あう…。
まあいいか。一度お腹をこわした後だし、免疫できたかも知れないし、もうすぐ日本に帰るんだし、第一ここで拒否したら失礼である。とも洗い、とも洗い…。

味は、まあまあ。納得の味である。
あんちゃんは、遠くから私達が料理を口に運ぶのを見ている。われわれは、店内をキョロキョロと見回し、パクパクと食べゴクゴクと飲む。今日は金曜の夜なので、友達同士で食事をしたりしているらしい。のんびりとした寛いだ雰囲気が店内に漂っている。
それにしても量が多い。二皿食べたところでお腹いっぱいである。ビーフンまでとても食べきれるものではない。おいしいのだが食べきれない。申し訳ない気がする。しかもあんちゃんは食べ残った皿を見て、心配そうな顔をしている。
苦しい。もう食べられない。かなりの量を皿に残したまま引き上げることにした。不安げな顔のあんちゃんに「すごくおいしかった!」と、ニッコリ親指を立てて見せる。さっきのウエィトレスにレジで料金を支払う。安い。「ダンネバッド」と言うと、瞳の奥をのぞき込むような表情で笑った。

上機嫌でぶらぶら歩いてホテルに戻ると、 さっきの披露宴 が終わったところらしい。なんと車寄せのところから敷地の外まで渋滞である。こんなに車が集まるパーティーというのは、やはりすごい。
一休みしようとラウンジに行ってみると、披露宴流れの客で大盛況である。貧富が隣合わせの街、それがカトマンズなのだ。


1997年12月05日(金) 第27話 パタン

いよいよ最終日である。
それにしてもこのホテルは実にいいホテルだった。向かいの部屋にいた部屋係が、荷物をまとめて部屋を出る私達に「グッバ〜イ」と手を振る。その様子が本当に寂しそうで思わずしんみりする。
チェックアウトして、ホテルに荷物を預けて最後の観光に出かけることにする。日本行きの飛行機は深夜零時の出発。今夜出発するのだ、と言うと「ああ大阪行きか」という答え。ここでは常識らしい。
今日は パタン の街へ行く。パタンは古い都である。カトマンズから車で20分ほどの河を越えたところにあり、仏教寺院が多いという。タクシーに乗ると運ちゃんが「いくらでいく?」と聞いて来る。「100ルピー」などといっていると、「冗談じゃねぇぜ」というような応答である。最終日だしまあいいかと思って200ルピーにする。


車が広場につくと、いきなり物乞いが寄って来る。運ちゃんは帰りも乗ってもらいたいらしく、どの位待っていようかとしつこく聞いて来る。全てを無視し、物乞いが寄って来る反対側から車を降りた。ぶらぶらし始めるとたちまち小坊が日本語で話し掛けてきた。この街は観光客を自由にしてくれない所らしい。
「きんいろおてら(金色お寺:golden temple のことらしい)見ますか〜」などと勝手にまくしたてている。うざったいので断ろうかとも思ったが、ここで断ってもガイドは次々とやってくるに違いない。それも面倒だ。 パシュパティナートのガイドがよかったことを思い出して、値段の交渉に入る。

彼が言うには自分は学生で日本語を勉強したいから値段はいくらでもいい、とのことなので一緒に行くことにした。よく見ると肌もすべすべしてまだほんの坊やである。歩き始めるとすぐに、もっと日本語のうまい年嵩の小坊がやってきた。
「わたくしはですね、日本語の勉強のために、こうしてお話しさせていただいてますので、お金はいいんです。ええ。ほんとに」などと妙に如才ない。これでは日本人のサラリーマンのようである。
こちらは二人、ガイドも二人。何故かマンツーマンでマークされてしまい、変な取り合わせでお寺を見学する。すっかりお株を奪われてしまった小坊がご機嫌ななめになったり、同じ説明を2回ずつ聞くことになったり、結構気疲れする。
なんとかしてほしい。

途中で小坊の一人が、「僕のお兄さんが曼荼羅を描いている。その店に行こう」といい出した。夫は既にカトマンズで曼荼羅を買っているので要らないと言ったが結局店に行くことになった。曼荼羅屋でまた二回ずつ曼荼羅の説明をうける羽目になる。
買わなくてもいいからと言われて見せてもらうと、なるほど質がいい。しかもカトマンズよりずっと安いようだ。なんだかんだとやっているうちに再度曼荼羅を買ってしまう。
マンダラ屋を出たあと、如才ない小坊はそのうちどっかに行ってしまった。夜ネパールダンスの観光ツアーがあるので行かないか、と熱心に誘われたのだが断ったのを断ったのがいけなかったのだろうか。他にめぼしい客を探しに行くらしい。

残った小坊に午後も案内してもらうことにして、とりあえず昼食にする。この子はとかく決断が早い。さささっとオープンテラスの店に入る。
話を聞くと、彼は今は英語学校に通っていて、そこを終えたら日本語学校にいくつもりだという。ネパールでも日本語は人気らしい。歳は16。道理でしぐさが可愛い。
お兄さんの歳はというと、知らない、という。さっきの曼荼羅屋は本当の兄ではないらしい。小坊は観光客を案内してはマージンをもらっているのだろう。まあご愛敬である。

空は澄み渡り、日差しは柔らかい。そよそよと風に吹かれ、気持のいい午後になった。


1997年12月04日(木) 第28話 現地化

小坊と食事をしていると、「地球の歩き方」を持って一人で食事をしていた中年男性に「日本の方ですか」と話し掛けられた。
余談だが、我々は外国で日本人に見られないことが多い。以前香港に行った時、税関では中国語で質問され、帰りの飛行機ではアメリカ人スチュワーデスに外国人用入国管理票を渡された経歴の持ち主だ。しかし日本人にそう尋ねられるとは世も末である。

その男性はJICAのプロジェクトで、単身赴任でこちらに来て道路を造っていると言う。またもJICA!
まったく大活躍である。カトマンズの日本語ブームもJICAの職員との交流が大きく影響しているようだ。男性は露店の大きな市場が面白いから連れて行ってみるといい、と小坊にアドバイスしてくれて、「よい旅を」と会釈して出て行った。そちら様もどうぞお元気で。

昼食後外へ出ると、さらに日本語のうまい小坊が出現。
この小坊は彼の親友らしい。日本に行ったことがあるという。楽しそうに話しながら二人でどんどん先を歩いていく。途中で2〜3寺院を見る。正直なところお寺には飽きているが、仏教の寺院はヒンドゥーとはまた違った趣きがある。お堂の周囲は時計回りに巡らないといけないと注意された。小坊の一人が朝お供えした花と水を頭の上から掛けてくれる。幸運を祈るおまじないらしい。

彼らが通っている語学学校も市場の脇にあるという。日本語の先生は現地人だが、日本人を連れていくときっと喜ぶから一緒に行こうと誘われた。学校の名は「エヴェレスト・語学学校(Everest Language Institute)」。ちなみにさっき曼荼羅を買ったのは「エヴェレスト・タンカ(Everest Tanka ,Inc.)」だった。「タンカ」というのは、チベットの掛軸のようなものを指すらしい。学校の前まで来ると小坊が頓きょうな声をあげた。
何かと思えば、今日は土曜日だから学校が休みだ!という。しきりにあやまる二人。その学校の生徒である君達が日中ブラブラしてるんだから、そりゃ、休みだろう。

市場を冷やかしながら歩く。鮮魚商を見かけると指差しながら皆で「サカナ、サカナ」と言い、鶏を見れば「ニワトリ、ニワトリ」と言う。ばかばかしく楽しい。
途中でビニール製の大きなショッピングバックを見かける。手にとって見ていると「欲しいものが決まったらおれたちに言え。そうしたらおれたちが話してやるから現地価格で買える」という。なかなかである。彼らに口を利いて貰って、現地価格で買う。観光客用と現地用の価格の二重構造は当り前のようだ。

ところで、私は実は昨日から急激に サリー が欲しくなっていた。なんとなく照れ臭かったが、サリーを買いたいというと「それはいい!あなたはチベット人みたいだから、サリーはとてもいい」と面白がって、知合いの店につれていってくれた。ここもマージンを貰っているのか、とふと思ったが、かといって他の店に行くあてもない。
サリーは一枚の薄布で畳むとまったくかさばらないので、小さい店でもかなりの枚数を揃えている。値段は数百円から数千円だという。あれこれ迷ったが数百円のを2枚買った。

さて着方だが、なかなか覚えられない、着せてもらって、手助けしてもらって、店の主(♂)が自ら着て見せてくれて、再度自分でチャレンジした。難しい。その間小坊たちは「すごくいい」だの、「ちょっと太って見える」だの、「横綱みたい」だの、「ネパール人そのものだ」だの、いろいろ言いながら世話を焼いてくれる。どうにか着られるようになったので店を出た。
なんとも愉快な午後である。


1997年12月03日(水) 第29話 パタンのカフェにて

これからの予定を聞くと、もう観光する場所はない、というのでお茶をご馳走することにした。
「あなたはお茶を飲みたいのか?」と確認してくるので、「うん、まあ、ちょっと歩いて疲れたし」と、とっさに口から出る。本当はそんなに疲れているわけではないけれど、すぐお茶をしたがる軟弱な日本人と思われている気がして、もっともらしくそんなことを言ってしまう。

お茶を飲むならあそこだ、と連れて行かれた店は5階建てのビルの屋上にある。エレベータはない。「あなたはつかれているから」とサリーの入った袋を持ってくれた。そんなに重いものではないが、ちょっと心の奥がじわっとする。彼らはさっさと登っていくが、こちらはさすがに息がきれた。
思わず「ねぇ、私つかれてるっていわなかったけぇ?」と軽快な足音に向かって叫ぶ。

やっとの思いで最上階まで登る。心が晴れるような 風景 が広がる。
パタンの街が一望できる。王宮前の広場に集まる人々の姿や、道を行きかう人々、寺の中庭がみてとれる。視線をもう少し上にずらすと遠くに望むヒマラヤの山々の白い尾根は素晴らしく、すっかり苦労を忘れる。
歓声を上げて景色に見いっていると、上から声が降ってくる。なんとさらに屋上部分にも登れるのだ。先客が登って来い、と手招きをする。せっかくここまで来たので、ウェイターにそう言って席を移る。ほとんど非常はしごのような階段を上がっていくと、さらに風景が広がる。まさに360°の展望である。

そこに居合わせたのは、現地人の3人連れと、一人旅のアメリカ人。アメリカ人は、まさにアメリカ人。陽気で人なつっこい。
「写真を撮ってくれ」と頼まれカメラを向けると、空のティーカップを手に気取ったポーズをとるわ、深刻そうな表情で宙空を見つめるわ、一同大笑いである。こりゃぁ、一人でも退屈しないだろう、という感じ。
彼は、うちの小坊たちに陽気にも話しかけてくる。
「ぼうず、どっから来た?」小坊たちも負けてはいない。
「パタンからだ」…‥…確かに間違いではない。
「あんたはどこから来たんだ?」
「おれはアメリカから来た」
「アメリカ?はん、小さな国から来たんだな」
「おお、いかにも小さい国だ」

その後はマイケル・ジョーダンを知ってるか、などと他愛のない話をしている。やっぱり子どもだ。

アメリカ人は突然、時間だというように立上り、周囲の人々に挨拶をして去っていった。私たちは引続きお茶を飲みながら今晩のフライトの話やカトマンズの話などをする。ふと気づくと屋上のカフェからは空港が見え、飛行機が離着陸するところが見てとれる。
なんとせまい、なんと平らなところなのだ。

お茶も飲み終り、肌寒くなってきたので帰ることにした。タクシーで帰るというと、彼らは手際よくタクシーと交渉し、メータ制のタクシー(ネパールでは珍しい)の料金の支払い方まで教えてくれる。実にゆき届いた小坊たちである。
写真を送ると約束し合ってタクシーに乗り込んだ。ちょっぴり感傷的になった。


1997年12月02日(火) 第30話 さよならホテル

パタンからのタクシーは快適で、あっという間についてしまった。しかも料金は行きの半額ぐらいだ。どうやらボラれていたらしい。
タクシーがホテルに近づいてきた頃、すでに朝チェックアウトしていたことに気づいた。このままホテルに行っても意味がない。慌ててホテルに入る路地の手前で止めてもらい、運ちゃんに怪訝な顔をされる。
車を降りてからとりあえず通りの土産物店を見てみる。
カトマンズに来て以来欲しい思っていたネックレスだが、今見るとあまり欲しいとは思わない。ネックレスを買うのはよしにして、手作りの民芸品を扱う店に入り、木彫りの像の置物などを買う。現金が残り少なくなったのでカードで支払うことにすると、カード会社への手数料をこちらの支払に上乗せして請求されていた。ちゃっかりしている。

さて買い物も済んだが、特に行く当てはない。半日歩きまわったので足が疲れているが、おなかもいっぱいなのでお茶をする気も起こらない。結局ホテルの周辺をぶらぶら歩いてみて回ることにする。王宮には今使っている正面の門の他に雰囲気のある白い門があり、そのあたりで写真などを撮ってみる。しばらく歩いて行くと四角い池のある公園があり、子供たちが遊んでいる。ホテルの裏手に路地があり、そこにおおきなポインセチアの木が植わった家がある。このあたりは、ちゃんと門や庭のある家が多い。高級な部類に入るのだろう。

大きな建物があるのでそこに近づいて行ってみる。民族衣装を着たちょっと程度の高そうな人々が三々五々出てくる。思い切って、この建物は病院か学校ですか、と聞いてみると、声をかけられた彼女はちょっと胸を張るようにして一呼吸おいて「ここはカトマンズの3星ホテル、 Yak&Yeti です。」と凛として答えてくれた。さらに「もし病院にいらっしゃりたいのなら」といって近くにある病院を教えてくれる。「大丈夫です。ただ何の建物か知りたいだけだったので」というとにっこり笑ってさっそうと去って行った。
なーんだ、これは私たちが泊まったホテルの裏手だったのだ。それにしても彼女は自分の職場に自信を持っているんだな、と感心した。このホテルは本当にいいホテルだった。サーとマダムと呼ばれるの日々ももう終わりなのだった。

夜はこのホテルのベジタリアンレストランにした。ここはコンサートが開かれた場所でもある。ショーがあり、民族舞踊などを楽しみながら食事をするようになっている。椅子やテーブルがレストランとしてセッティングしてあり、コンサートの時とはまた違った趣がある。
ベジタリアンといってもかなりこってりしたものが出ることは予想していたが、メニューを見るとどれも辛そうである。料理の説明にやたらとSPICYという単語が出てくる。spicyという文字が入っていない料理を頼む。なにやらチキンの料理らしい。
ウェイターが「ナンかライスかどちらにしますか」と聞いてくる。
深く考えないままにナンをもらったが、料理のふたをあけてびっくり!カレーである。道理である。カレーだからナンが付くのだ…カレーだからあえてspicyとは書いていないのだ…道理で、うううう。
料理はよく味が染みていた。表面を削ってもチキンは奥の奥までカレーの味が染み込んでいる。はぁはぁため息をつきながら食事を済ませた。

レストランを出るとき、ウェイターに「よいフライトを」と声をかけられた。日曜日の深夜、多くの日本人が関空へ旅立つのを知っているのだ。こんな心遣いが憎いホテルである。
フロントで荷物を受け取り、タクシーを呼んでもらう。タクシーを待つ間にドアマンにさよならをいう。

「このホテルに泊まって本当に楽しかった。ありがとう」


1997年12月01日(月) 第31話 さよならネパール(最終回)

ついにネパールとおわかれするときがきました。
わたしはいままでネパールについて全ぜん知らなかったけど、この6日間で、いろいろな人と知りあったり、お寺を見たりして、たくさんべんきょうしました。

わたしがすごいなと思ったのは、ネパールの人たちは大人も子どももみんなえいごをしゃべれることです。ちいさい子どももえいごをはなしてものをうったりしていました。
日本ではだいがくいんせいのおにいさんたちでもえいごができない人がおおいのにえらいな、とおもいました。

それからびっくりしたのは、ネパールではかみさまは一つなので、どのしゅうきょうの人たちもみんななかよくくらしていることです。ほかのくにの人たちもネパールの人たちにそのことをならって、しゅうきょうのせんそうがなくなるといいとおもいます。

わたしは日本を出るときは、あまりネパールがすきだとはおもわなかったけど、今は大すきになりました。
またこれからもっといろいろネパールのことをしって、またきたいとおもいます。

ナマステ。


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という文章を空港の待合ロビーでノートパソコンに打ちこんでいた。
出発時間をとうに過ぎているのに、なんの案内もない。結局一時間以上の遅れとなった。係員の態度は横柄である。
チベット仏教の僧衣をまとった若者のグループがいて、なぜか私に話しかけてきた。彼は英語を話さない。なんとか彼がこれから「徳島」に行くことを聞き出した。それだけである。言葉が通じなければ彼が話しかけて来た目的も知ることはできない。

誰もが英語を話す国。みんなが親切にしてくれる国。
私達の体験した「ネパール」は、この国のほんの一握りの心地よい部分だけだったのかも知れない。それでも私はこの先もこの国を愛する。


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