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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2009年01月31日(土)

贋作:牡丹灯籠

 白面郎―。
 飯島平太郎と行きあった大方の人々がそうした感想を抱いた。疑いもなく誂えものと知れる上等な羽織袴と大小の差し料、後について歩く浅黄色の中間、そしてまた鬢の乱れひとつなく結えた月代と鼻筋のすっと通ったその顔立ちにも関わらず、飯島にはそのように印象されるところがあった。色白の肌は青年というよりも少年のそれで、どこか白昼夢に遊んでいるようなとらえどころのなさが、澄んだ目に同時に宿っていて、見るものを戸惑わせた。
「これ、この刀が見たい」
 藤村屋新兵衛は顔を上げ、自分に声をかけたのがこの若い侍だと知れると、腰を屈めて立ち上がった。
「そこの黒糸だか紺色だか知らぬが、黒い刀柄に南蛮鉄の鍔がついた刀はまことによさそうな品だな、ちょっとお見せ」
 なんとも茫洋とした、無頓着な口調ではあったが、新兵衛はそれぎりの言葉は相手がすでに相当の目利きであると踏んだ。新兵衛も商人ではあったがこうした手相には、率直であるに限るという経験は積んでいた。
「へえ、ただいま」
 新兵衛がさっそく刀を引き下ろすと、若い侍はすらりと抜き身にして、ためつがめす刀をあらため始めた。そのうちに青白いような頬にぽっぽと赤みがのってきたのは、よほど気に入ったのに違いなかった。
「少々こしらえが破れておりますが、中身はずいぶんお用いになれまする」
「拙者の鑑定するところでは、備前もののように思われるがどうじゃな」
「へい、良いお目利きでいらっしゃいまするな、恐れ入ります。仲間は天正助定であろうと申しますが、なにぶん無銘でございますれば」
「して御亭主、いかほどかな」
「へえ、ただ今も申します通り、銘さえございますれば多分の値打ちものでございますが、なにぶん無銘のことゆえ金10両でございます」
「なに10両とか、ちと高いようだな。7枚半にまからんかな」
「どういたしまして、それではわっちに損が参ります」
 そのとき店先で、わっという騒ぎが持ち上がった。店の外で主を待っていた中間が地面に投げ倒されている。
「おや」
 飯島が発したのは、いかにもぼやんとした声であった。

 いきがかりはこの通りであった。千鳥足の酔漢が傍若無人に歩いてくるのに、店の中を気にしていた中間の藤助は気づかず、後からつきあたられたのであった。こう見れば藤助に咎もなさそうなものだが、この酔漢というのが二本ざしの、しかもたちの悪い酒乱の浪人であったからことである。
「粗忽ものでございやして、どうかかんべんなすって」
 助け起こそうとする藤助の手を払って、酔漢こと黒川孝蔵はよろよろ起きあがると、さっそく藤助の鼻面めがけて拳骨を食らわせた。藤助がヒイと一声叫んでひっくり返ったところにさらにまた馬乗りになって殴りかかろうというところ、後から声がかかった。
「もうし」
 いかにもこの場に似つかわしくない、ものやわらかな声音だった。黒川ははったと睨み据えようと振り返り、はたしてぎょっとした。
「それは我が家中のもの。そこもとになんぞ無礼を働きましたか」
 いかにも穏やかな口調で尋ねる白面郎の手には、しかしさっきまで品定めしていた備前ものが抜き身で青白く光っていた。相手の視線に、ふと我に帰ったように飯島はああ、と呟きぱちりと抜き身を鞘におさめ、
「これは失礼を。いましがた品定めをしていたものゆえ」
 何事もなかったように言うのも黒川の怒りに火を注いだ。
「家来めが不調法をいたしましたか。当人になりかわりわたくしがお詫び申し上げます。なにとぞご勘弁を」
「なにこいつはその方の家来だと。けしからん無礼な奴め、武士の供をするなら主のそばに小さくなっているのが当然、しかるになんだ、天水桶から三尺も往来へ出しゃばりおって、通行の妨げをして拙者を突きあたらせたから、やむをえず打擲した」
「わきまえぬものでございますればひとえにご勘弁を。手前、なりかわってお詫び申し上げます」
「ならぬならぬ」
 このころには往来のこととて、ずいぶんな人だかりができていたが、このときふいに沈黙が落ちた。まさしく、落ちた、というのがふさわしかった。その沈黙の中で、飯島の声がさらに静かに響いた。
「ご勘弁なさりませんか」
「くどい」
 若侍とあなどって黒川はせせら笑い、さらにつばをはきかけた。はきかけようとした、と言ったほうが正しい。飯島が、一度はおさめた刀を、踏みこみざま抜き放って、その一刀のもとに黒川の首を跳ねあげたからである。黒川の吐いたつばはそれでも執念深く飯島の袴の裾を汚したが、かれらを取り囲んでいた見物人はというとそれどころではなかった。
 跳ね上がった首をよけて逃げるもの、吹きあがった血しぶきを見て逃げ惑うもの失神するもの。阿鼻叫喚の騒ぎの中で、はたしてその中心人物たる飯島は平然として藤助に刀を洗わせ、袂紙で汚れた袴の裾を拭うと、新兵衛に向けてにこりと笑った。
「こりゃ、ご亭主。この刀はこれほど切れようとは思いませんだったが、なかなか斬れますな。よく切れる」
 亭主はというと歯の根もあわぬさま。なにやらわけのわからないことを口の中でぶつぶつ言いながら頷いた。
「全く刃物が良い、どうじゃ、7両2分に負けてもよかろうな」
「ハイハイハイ、よろしゅうございます」
「では買った。ああ、ただ今のことを自身番に届けねばならぬ。ちょっと硯箱を貸してくれろ」
 亭主が震える手で硯箱を差し出すと、今しがたひと一人切ったとも見えぬ手で、すらすらと飯島平太郎と書き記した。










インフルエンザ祭り真っ最中につき、いろいろアレです。


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- 2009年01月26日(月)

動物の形への

偏愛といってもいい、これはいつからだろう。
子供のころにタヌキっぽいぬいぐるみを持っていた。
「ダニの巣になる」というのが口癖だった母の防止策を
かいくぐって手に入れた数少ないぬいぐるみで、
わたしはそれをとても大切にしていたような気がする。
もっとも、ご多分にもれず、今はどこにいったかわからないが。

以来、犬は飼ってはいたが、
べつに犬猫の形をしたものを欲しいとかさっぱり思わなかった。
いったい私という子供が欲しがったのは本と椅子だけで、
それ以外はというと、服ひとつ装飾品ひとつ欲しがらなかった。
むしろ「いらない」などと可愛くもないことを言って退けていた。

にも関わらず、私はいま幾つかのものを自分のものとして側に置いている。
ひとつは中国の怪物で竜と亀の間くらいの生き物の青銅文鎮。
ひとつはレザーのぬいぐるみの黄色いきりん。
ひとつは青い猫のボトル。
ひとつは黒猫の魔法瓶。
そしてここにカバの子を付け加えようかといま、悩んでいるのである。
わたしはわたしの家を動物園にしたいのだろうか。


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- 2009年01月23日(金)

『恐竜はなぜ鳥に進化したのか』

飛べないということが自明であったときに、
「飛びたい」と思ったものはなかったのに違いない。
飛べる存在となったときにはじめて、かれらは「飛べる」ことを知った。

この迂遠な論理はどうしたことだろう。

だが、おおむね、進化はこのようにことを運んだのだ。
「目」にしろ「翼」にしろ、そしてまた「言葉」にしろ。
われらは目を持って見るということを知り、
翼を持って飛ぶことを知り、
口と舌と喉を持って言葉を知ったのだ。

結果と原因は必ずしも相関しない。
自然は発明よりも工夫をもってひろく生物を作り出した。



さて、ここから本題だ。

同性愛、もっというとホモについて考えてみよう。
排泄器官が受け入れ側の交接器官と似た役割を果たせる、という
まあいわば前提をもって、ホモセックス行為は誕生した。
とはいえまるっきり同じ役割を果たせるというわけではない。
特に受け入れ側にとっては苦痛を伴うし、だいたい濡れない。

しかし人類の歴史の初期、男だけの集団が狩りに出かけ、
女たちが根拠地にとどまって採集を行うという形態ができあがったとき、
すでに人類は

・発情期のない発情、つまり年中お盛んな性欲
・しかも攻撃性と密接に結びついた性欲
・厳然たる上下関係の存在する社会性

を持っていたのだ。
であればつまり、ある程度の代替機能のある男性の排泄器官をもって
女性の交接器官の代用とする、ということが起きてくるのは必然だ。
簡単にいえば、狩りという行為によって興奮した男が、
下位の男を無理矢理やっちまう、ということで。
まあ、こういうところから、男だけの集団、
しかも攻撃性を共有する軍隊や学校において
同性愛がきわめて起こりやすいのだということを説明したい。




………久しぶりの日記がこれか(目眩)


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- 2009年01月12日(月)

「真景累ケ淵」を読み終わった。
高座にかけた落語を口述筆記を新聞連載したのだから、
これはまさに新聞小説であるともいえよう。
実に面白い。

怪談といいつつ、面白いのはこういうことだ。
登場人物は幽霊を見るが、話者は確かにそれを幽霊と名指しはしない。
聞き手はそれが彼または彼女の良心にのしかかった幻影なのか、
それともそうではないのか、判然としないまま聞き続けなくてはならない。
入り乱れる運命の錯綜に混じって、これは実に繊細な心理劇だ。

しかしそれは幽霊にとどまらず、恐ろしいことに、
主要な登場人物は誰ひとり、この錯綜した不幸と悲劇と殺人の連鎖の
その最初の起点であるところの盲人殺しについて知りえないところにある。
盲人は酒乱の武士に殺され、下手人の知られぬまま葬られるが、
その秘密は、主役である武士の子供たち、あるいは盲人の子供たちは、
この最初の殺人の秘密からは隔てられている。隔てられ続けている。
そして最後に至っても知らされることはない。

これはどういうことであろうか。
殺された盲人の怨念は、膨れ上がり物語を覆い尽くすがごとくなるのに、
まさにその血臭芬芬たるさなかにあるものたちはそれを知らない。
ただ聞き手のみがこれを飲みこんで見つめているほかない。
そうするうちに、じつに奇妙な気分になってくる。
この悪と残忍と不運の連鎖は、本当に盲人の怨念によるのだろうかと。
実際はこれらは単に偶然と登場人物らの意志によるもので、
怨念や幽霊などというのはそれこそ神経ではないのかと。

だがその不安は揺れ動いて揺り戻し、いやその最初の怨念こそ、
蜘蛛の糸のごとくに人々をからめとり、悪へ追いやっているのかとも思う。
下手人を明らかにされずその死にまつわる犯罪を闇に葬られた、
盲人の怨念はまさに棺桶の隙間から漏れ出て暗雲ともなっているのかとも。
この不安な波は止まず、しかも決着はつけられない。
話者と聞き手の間にあるこの緊張関係は、
ギリシャ悲劇というよりもシェイクスピアに近い。
われらは悪というものに対する見方を問い返されるのだ、絶え間なく。


そして人物というものを描くこの繊細さ。
落語というものがおおむね物事を類型化・単純化するのに対して、
高座にかけられたとはいっても、もともと活字に向いていたのであろう。
もちろん、いくつか、陳腐でもあり定型的な部分もある。
それはたとえば、四谷怪談にもある「蚊帳はぎ」だったり、
妻としていた女がじつは妹であったりするというところで、
これらはいわば、典型的人物描写の挿話とでもいうべきものだから、
そんなにきつく咎めるには値しない。


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