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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2008年09月30日(火)

中森明菜
 ↓
工藤静香
 ↓
山口百恵
 ↓
沢田研二

…なんだこの昭和50年代的歌謡世界は。
なんだかユーチューブでごろごろ見ていた。あ、もう朝だ。
このへんはともかくリアルタイムでは知らない。
当然である、沢田研二なんて親の世代の青春ソングだ。

最近の歌よりよっぽどいいなと思うのはなぜなんだ。
最近…宇多田ヒカル以降がわからない。


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- 2008年09月14日(日)

神々とて殺戮されたことはある。
ただ殺されたままではいないだけだ。

メドゥーサとアルテミスを見た。
彼女たちはいずれも古いローマの生きた神だった。
メドゥーサは神聖怪物として壮麗な聖堂の柱頭を飾り、
そこで行われたすべての合議と争いの証人であった。
人々は言葉を翻そうとする都度に、この恐るべき怪物を思い出しただろう。

アルテミスは崇められる女神として神殿の奥に秘められていた。
あらゆる狩人がその無限の生み育てる原理である女神に額き、
祭礼においては己が精液の袋をちぎり取って捧げた。
その石の冷たい、凄まじい眼差しで、女神はそれ以上のものも見たであろう。

聖堂はいまはすでになく、アルテミスが立つのは博物館だ。
かれらを殺戮したのは誰であったろうか。
襲いきた異邦人かもしれず、ただ時であったかもしれず、
忘却やそのほか無限に等しい人間のこころの動きのどれかだったか。
いまは誰も覚えていない。だというのにかれらはいまもある。

ローマよ、とわたしは呼びかけない。
女神よ、怪物よ、とも呼びかけない。
わたしはただこういうのだ。
あなたがたはまだ生きている、ここに生きている!


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- 2008年09月13日(土)

スノー、サンド

砂の幻と、あの乾いた国の無臭のにおいが、私の脳裏にある。
私の脳裏にあって、ふと気付けばその国へとさらっていく。

孤独であることは、砂を噛むようなことだろうか。
孤独でいたいとはもう思わないのだが、出口がわからない。

出口、出口。

だがいったいいかなる出口を私は求めているのか。
いったい私が出口を見つけるということは、
私自身が根本的に、不可逆的に変わるということであろう。

そのときあの砂の幻は、のたうつ女の体のような砂丘の幻は、
わたしにとって決定的でも致命的でもなくなるのだろう。
それを思えば、孤独といういささか苦渋に満ちた空間を
この先ずっと、ぼんやりと、歩きぬけてもいいように思う。

そうしているうち、わたしはこの砂の幻にうずもれ、
吹雪の中に眠りこんだようになって、やがて跡かたもなくなる。
跡かたもなくなって、砂とも雪ともつかないものになる。


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- 2008年09月08日(月)

髪の長さは
第一に、それは営々として伸び続けてきた生き物の時間だ。
生き物の髪の長さはひとつの、意識下の指標となるのだ。

男、あるいは女たちが備える長い、長い髪は、
光沢ある時間、波打つ時間、その限られた長さで永遠を示唆する時間だ。
女たちであればその胎が与える過去から未来へと世代をつなぐ力だ。
それは呪術であり、純粋に美であり、暗示であり、そのすべてだ。

剃り上げられた頭が示すのは過去との断絶。
過去を持たぬとは出自を持たぬことであり、
出自を持たぬことはそのまま尊厳を持たぬということであったがゆえに、
剃り上げられた頭は尊厳なきもの、すなわち奴隷のものだった。
あるいは過去を持たぬことはあらゆる社会の軛を放たれてることを意味し、
それゆえ剃り上げられた頭は神官や僧侶や魔術師のものであった。

だからバトーがなぜああした髪をしているのかということについて、
わたしまだ今も考えている。
脳以外はほぼすべてが機械からなるバトー。
では彼の髪もまた彼が選択したひとつのシンボルに過ぎない。
彼はなぜ、自身に肩ほどの長さの白髪を与えたのだろう?
それは彼が己に許した歴史であったのだろうか?
それとも望んだかあるいは望まなかったかする出自や過去だったのか?

バトー、もしもわたしがわたしのために、
ある長さの髪をあつらえることを許されたとしたなら、
わたしはどういう長さの、どういう髪を用意するだろうか。
おそらくは、砂漠の砂の連なりを思わせるほどの、
私自身を幾重ねも巻き込み包み込み世界のあらゆる光から隠すほどの、
そうした無限の長さの髪を、きっと求めるだろう。


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- 2008年09月07日(日)

ケーフ・ジュヌーン

 ケーフ・ジュヌーン、魔の山と呼ばれるいびつな真っ黒い岩山のあたりに四駆車はさしかかった。激しい陽光に焼かれて黒く酸化した表層が固くガラスのようにもろくなった岩々が累々と続く谷間を抜けた先のことだった。
 あたりには木々といってなく、ひょろひょろとした水分のなさそうな細い草もない。岩と、瓦礫と、一滴の水も含んでいない、渇いた大気。私は車を止めて、外に出た。真昼の陽光は真っ向から額に落ちかかった。この地の太陽は慈愛あふれる温帯のそれではない。ひとを殺し獣を殺す鋼の刃の類に属する。足元のがれきは火星のそれのように焼けていた。
 私は目を細めて魔の山を見上げた。黒い頂は、岩塊が風化し崩れたものだろう、無数のぎざぎざと尖った塔のように見えた。その塔には胸壁があり橋がかかっているようにさえ見えた。古代のジェルマンテス人が築いた城の廃墟だといっても信じただろう。だが有史以来だれひとり、誰ひとりこの山に登ったことなどありはしなかった。なぜならこれは魔の山だ。
 ケーフ・ジュヌーン、名付けたのはアフリカ大陸の内陸部を行き交う隊商だ。ローマに先立ち、サハラの広大な荒野をオアシス伝いに東西につなぐ街道をおりなした人々だ。黒い肌の痩せた背の高い人々がそのかみ、白い肌の一つ神信ずる人々がそののち。
 伝説のひとつはいう、その山にはジンが棲む。通りかかる旅人があれば怪しい声で惑わし、岩陰に散らして迷わせる。定まった形を持たないジンだが、ときには人を脅かすために、路傍に投げ捨てられた驢馬の頭ともなり、あるいは風にさまよう奇妙な獣ともなると。駱駝に乗って眠ったまま立ち入るものあれば夢に忍びこんで心狂わすと、だからそこでは起きていなければならぬと。
 私はしばらくあたりを歩いた。あまりの熱さに岩の砕ける音がときどきぴしっと聞こえるよりほか、聞こえるものはなにもなかった。耳が痛むほどの静寂であった。あまりの耳鳴りは次第に強まり、しまいに魔の山そのものが鳴り響いているのかとさえ思われた。
 風はどこへ行ってしまったのだろう? 絶え間なく流れすべてを過去にする風は。かくも静かな身じろぎもしない玻璃のごとき空気の中では、すべてはそこに立ち止まり静止のうちに反響し続けざるをえぬ。そして太陽はあまりに強く、無限の過去のその底までもが浮かび上がってくる。さながら深い、深い井戸の底をさえ、夏至の日の太陽の光が照らし出すよう。揺らめきつつしかも微動だにせぬ陽炎は無限の過去から無限の未来を映す鏡であった。このごとき鏡は重なり重なって無限に連なり、それゆえわたしはわたしの周囲に永遠と無限、すなわち単に今とここを見た。 さよう、世の始まりの日から終わりの日まで、そこはそのようであるのだった。そのことによって今日の日は永遠とひとしいのであった。
 魔の山、あのうち続く黒い山並みのなか、いびつな黒い岩山が、ひときわ高くそそり立っている。あの日も、またきょうの日も。月が昇ろうとまた闇に閉ざされようと、人の目のあろうとまたなかろうと。ああした沈黙がこの世界のどこかにあるのなら、おとぎ話の魔物たちもまだ生き延びられるだろう。そして私も。ひととは住まぬ、このわたしも。


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