- 2008年08月27日(水) 円柱の森 あの陰影豊かな空間を、わたしはけして忘れない。 千年の祈りの反響し反響する空間を、一枚の木の葉のように通り抜けた。 わたしはそのことを、けして忘れない。 春の早暁の知床のオホーツク岩峰の上に座り、 一握の塵のように朝の光に照らされたことを忘れないように。 わたしが一枚の木の葉、一握の塵のようでなかったことがあろうか。 どこを通りすぎようと、どこにいようと、わたしはそういうものだ。 根付くこともなく、実を結ぶこともなく、風に吹かれ、吹かれ。 砂漠にあっても、山並みのうちにあっても、海底にあっても。 だがなにものが、そのようでないだろうか? もうすぐわたし、旅に出る。 - - 2008年08月24日(日) 「俺たちは、こんなことのために生まれてきたんじゃない」 誰がそう言わずに死ぬことができただろう - - 2008年08月18日(月) 大阪桐蔭 17―0 常葉菊川 真面目に見ていたわけではない。 だいたい歌舞伎に行く予定があったし、最後まで見る気はなかった。 そして実際、試合を最後まで見ていたりはしなかった。 だが勝負は見てから行った、といってもいい。 初回、常葉菊川はあっけなくも5点を失い、 わたしはエース戸狩がすでに敗北を知っていることに気づいたからだ。 それがすべてだった。 私は暗澹たる気持ちで歌舞伎に出かけたが、 福助が三津五郎が舞い演じるあいだ、 わたしは甲子園でいま、起きているだろうことばかり考えていた。 エースはマウンドを下りられないだろうと、 かれは故障をたぶんどこかに抱えていて、 敗北を最初のコールのときから知っていただろうと。 ああ、かれはどういう思いでコールを聞き、 どういう思いでマウンドに立ったのだろう。 どういう思いで4万6千人の大観衆を見回したのだろう。 その日、球場に立っている18歳の少年は、日本中で彼だけだった。 しかもかれは負けるために、負けを現実にするだけにそこにいたのだ。 「そうか、負けるためには」かれは思っただろうか。 「この試合を終えて負けるためには、27個のアウトがいる」 「俺たちは幾つも幾つも勝ってきた」あるいはこうも思っただろうか。 「ここで、こうして負けるために勝ってきた。県大会の1回戦からずっと」 それはひとつの犠牲劇のようだった。 なにものかのために、彼らは負けなければならなかった。 誰一人、そのスコアにも関わらず、試合を終わりにする権限を持たなかった。 かれは負けきらねばならず、敵は勝ちきらねばならなかった。 それは実際、ひとつの犠牲劇ではなかったのだろうか? なにか大きなもの、大きな生き物の前に、演じられた劇。 さながらディオニュソスに捧げられたアテナイの悲劇のように、 さながらゼウスに捧げられた古代オリンピックのように。 野球の神様、とかれらは呼ぶ。 それは実は、なにかもっと巨大なもの、なにかもっと日本的なもの、 なにかもっと、確かに我らの血と肉に根差すもの、 そんなものではなかったろうか。 さようおそらくこの国は、年に一度の祭典として、供儀として、 夏の8月のあの終戦と原爆と死と再生の月の激しい日差しの中に、 かれら少年のあのような情熱と涙と歓喜と悲嘆を要するのだ。 冷静には無意味に思われるかれらの「純粋さ」の喧伝は、 つまりかれらが祭司であり生贄であるからに他ならない。 - - 2008年08月11日(月) 九番目の波 かれのことを話すとき、私はいつも、一種奇妙な感情に襲われる。 これを、どのように説明したらよいのだろう? 不安と恐怖は確かにその要素としてあるが、それがいったい何に対してのものなのかと問われれば、かれ自身なのか、かれの運命なのか、それともかれについて物語ることについてなのか、わたしにはわからないからだ。 ともあれ、話を続けよう。 かれについて話すとき、わたしはかれの名前よりも、その顔よりも先に、胸のうちに見るものがある。それはかれの在所であり、死の場所ともなった崖の上の家の、その海に面した窓辺であって、二つ岬の彼方に名もない岩礁の島々の浮かぶ沖までも見渡すことができ、嵐でもなければいつも開け放たれて、潮の香りのする風が通っていた。 そこから見える風景の中でも、ことさら美しいのは夕凪で、夕映えの海が静まり波音さえも絶えて、空も海もひとしく赤く染まるなかに、遠い島々が果たせぬあこがれそのもののよう暗く蹲っている様子は、例えようもなかった。そのようなときかれは必ずその窓辺に立っていた。かれが何を思っていたのか私は知らない。ただそうした夕べのあとには、かれは決まって一人になるのを嫌うようにわたしを引き止め、夕食とチェスの勝負を申し出た。 九番目の波の話は、そうした夜の、チェスの勝負の間に聞いたのだった。 「いいかね、きみ」 かれはそのように、いつも話を始めた。盤の上はもうよほど私の劣勢で、勝負そのものからかれの興味がそれてはいても、まだ手の方は終わっていないというころあいに、かれは、今でも私が忘れることのできない、あの海に沿った険しい土地に伝わる古い話を幾つもしてくれた。そして九番目の波の話もまたそのひとつであり、しかも最も印象深い物語だった。 「いいかね、きみ。波の話をしよう。 - - 2008年08月09日(土) 最近読んだ本・映画 「桂米朝コレクション」1〜4 「ケルト民話集」(フィオナ・マクラウド) 「オイディプスのいる町」(山本淳) 「宇宙のエンドゲーム」 「崖の上のポニョ」 積ん読本・チェックリスト上位の映画 「リビア物語」 「生態と民俗」 「リビア砂漠の旅」 「凍える海」 「リビア砂漠探検記」 「イースタン・プロミス」 「ダークナイト」 - - 2008年08月03日(日) 愛するには何がいる まずは夢の技法、それから沈黙。 そして可能性としての殺人の絶えざる遂行、 最後に「もし」という言葉と概念の永遠の放棄。 撃ち殺してやろうかベイビイ -
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