enpitu



終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2008年03月28日(金)

たぶん、不謹慎なのだが

わたしの犬が死んだということを、私はまだ信じていない。
これはどういうことなのだろう?

ふつう信じられているようには、悲しみは癒されることはない。
悲しみは、ただそれを生きることができるだけなのだ。
痛みはただ痛みとしていつまでも、いつまでも心に残る。
それは膝の古傷と同じだ。治ったとみえて本当になくなることはない。
そしていつか年老いたり病んだりして体が弱ったときには、
それは足を引きずらせ、そのうち歩くことをさえできなくさせる。

悲しみは、本当には消えることはない。
悲しみは、ただそれを生きることができるだけだ。
だから、ただ生きていけばいい。ただ日々を生きていけばいい。
這うようにでも構わない、悲鳴を上げながらでも、生きていけばいい。
いつかそれは命取りになるかもしれないが、それは今ではないから。

こんなのは、たぶん、慰めにもならないでしょうが。
あなたのために祈っています。神にとも仏にともなく。


-

- 2008年03月25日(火)

怯えたような気前のよさは、要するに低すぎる自尊心か

幸福な育ち方をしてこなかった心美しく裕福な美貌のヒロインが、
まさにそのゆえに破滅していく、という映画を見ていてふと思った。

彼女が破滅したのは、実は男のせいではない。
心美しくても破滅しない女はたくさんいるからそのせいでもない。
裕福で美貌でも破滅しない女はたくさんいるからそのせいでもない。
では結局、彼女の破滅のもとは彼女の低すぎる自尊心だろう。

自分を人形のように扱うことを許すというのは実際、そうだ。
自分自身を「まっとうに」扱われるべき存在と思っていないということだ。
「ここの勘定は全部持つわ」と言って尊敬されるか軽蔑とされるか。
それはつまりパトロネスとしての態度という自覚によるものか、
それとも「それくらいはしないといけない」という精神的奴隷であるか。
その違いだ。人はそうしたことについての嗅覚は鋭いものだ。
そしてつけこむという点において人は狼と大差ない。誰でも。

ドラッグについてもそれは言える。
使えばどうなるか、知識として知らぬ人はあるまい。
廃人同様となる未来を仮にも想定するなら、拒絶するよりほかはない。
だが使う人はそうした未来をどこかで、自らにふさわしい運命として
受け入れ、もしくは求めているように思う。


…嫌なことを思い出す映画だった。


-

- 2008年03月18日(火)

『ノーカントリー』

老保安官エド(トミー・リー・ジョーンズ)に猫を飼う老人は言う。
かれが誰だか説明はされない。
「失ったものを取り戻そうとしてより多くを失う。
 できるのは出血を止めることだけだ」
風の音が響いている。
テキサスの荒野に吹く風の音が響いている。
この言葉はその風の言葉だ。


殺し屋シガー(ハビエル・バルデム)の異様さばかりが喧伝されるが、
彼が獲得したのがアカデミー助演男優賞だということを忘れないでほしい。
つまり主役はほかにいる。ではそれは誰か。見ればわかる。
保安官エドでも逃げる男モスでもない。荒野をゆく風だ。
登場人物たちはこの風の中を歩き、走り、逃げ、殺し、従い、抗い、死ぬ。
音楽はほとんど鳴らない。風はときに控え目に、ときに激しく鳴る。
そうだ、ルールはいらない。風はルールを持たない。
死は死、生は生、そして忘れられたものは永遠に忘れられたまま。
例えば一枚のコインが運命を分け、そしてそれはそれだけのこと。
人が荒んだのではない。たぶん、この風が人の血に混じったのだ。

死体がやたら転がる映画だが、最近珍しいほど演出が控え目だ。
それがまた、映画そのものに鋭い陰影を与えている。
乾ききった骨のような質感と1980年代という脂っこい時空間。
コーエン兄弟の作品を見なければ、と思った。



-

- 2008年03月12日(水)

復讐とはなにか

ヴェンデッタについては

「ヴェンデッタは自己満足の一種だ。
 おまえがわたしの息子を殺した。わたしがおまえの息子を殺した。
 だから我々はここに座っていられる、そういうわけさ」

そんなことをイタリアマフィアが言っていたと記憶している。

だがどうだろう。

「苦しんだり、復讐を考えることはやめなさい。
 そして人生のもっと良い面に目を向けなさい」

これはNマンデラの言だが、じっさいこれはどうだろう。
躊躇せず、我が子を殺された人に対して言うことができるだろうか。
許すとは、憎しみをいかに処理するかとは、難しい問題ではないだろうか。
つまりそれは失った愛の裏返しでもあるのだから。

復讐という概念に接したのは10歳のときに読んだベルヌ「海底ニ万里」。
ネモ艦長の殺戮と、失われた家族と祖国への思慕の相克の激しさ。
「わたしには権利があるのだ、わたしこそ正義なのだ!」かれはいう。
じつにそれは恐るべき論理だが、けして絶えることのない叫びでもある。
しかしながらかれの人間性はその冷酷な結果に耐えられない。
かれは苦しむ。とはいえそこはフィクションで、実際にはそうでもない。

実際のところは! テロリストはひとつの病だ。
そして心というものは、1つより多くの病を入れられるほど大きくない。
だからロマンチックな憂鬱などというものはかれらにはない。
かれらにあるのは失敗への不安だけだ。

ヴェンデッタ、まったく。ヴェンデッタ。
誰もがイタリア・マフィアのようにふるまえたらいいのだが。
実際のところ、問題は感情と理性、それぞれの論理の違いにある。
このダブル・スタンダートの不条理をどうして誰も言わないのか。


-

- 2008年03月05日(水)

ピアソラまみれ

…なんでタンゴなのか。と、思わないでもない。
小松涼太が日本初演した「若き民衆」を聴きに行って、面白かったので。
というのが近い。その場合は音楽と詞のどっちが良かったというべきか。
どっちもだろう。最近、自分の感覚については素直になることにしてる。
南米という世界は、独特の世界観を持っている。

タンゴは好きだ。
それで、聞いているのは「ブエノスアイレスのマリア」。


-

- 2008年03月02日(日)

というわけで、九州(熊本〜宮崎〜大分)旅行から帰還

高校時代の悪友どもと、同じく悪友の出産見舞いに行ったのだが
まあ、たまにはグループ旅行も良いですね。
相変わらず協調性はないですが、悪友みんなそうだから無問題。
…というか、ぶっとおしでよく寝た。ほんとよく寝た。
運転を他人に任せてひたすら寝てた。阿蘇も高千穂も別府も。
「ついたら起こして」状態でした。ごめんよ…。

まあ、もともと、リラックスすると口数が極端に少ない人なので、
寝ていても起きていてもそうそう変わらないと言い訳しておく。
そして備忘録。

熊本:ラーメン「黒亭」、友人宅、阿蘇山
宮崎:高千穂(夜神楽、高千穂峡ボート遊び)
大分:別府(地獄めぐりコンプリート、温泉三昧)

面白かったのが地獄めぐり。
泥が沸騰してたり(鬼石坊主地獄)、きれいな水色だったり(海地獄)、
というひとくせふたくせある源泉池を「地獄」と称して見せてくれるのだが
なかにはそんなに変わりばえしないのもある。それでも金を取る。
なので地獄の人(…)もいろいろ考えていて、
温泉の湯でワニを飼ったり、熱帯魚を飼ったりしているわけだ。

そんで、山地獄には熱いとこ好きな動物がうろうろしていた。
ゾウもいたりして、ひと袋100円のエサがあった。
中にはビスケットが4枚入っていて、そこの注意書き。
「エサを砕いて与えないでください(ゾウがイライラしますので)」
まあ、…そうだよねえ。

鬼山地獄にはワニがわっさわさいた。
クロコダイルの檻の前で、係員の人に「狂暴なんですか」と聞いて
「中はいらなかったらなんてことないよ。入ってみるかい」と聞かれた。
そりゃ入ってみたいけど、でも逃げきれるかなあ…と考え込んでたら
「考えてどうするの。本当に入るって言われたらどうしようかと思った」
…そ、そうなのか…。考えるとこじゃなかったのか…。だったら聞くなっ!


ま、そんな感じ。


-



 

 

 

 

ndex
past  next

Mail
エンピツ