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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年12月29日(土)

深い林の中から銃声が響いた
そこでは、空をゆく鳥も見えるはずはないのに


 死んだ犬が見つかったのは、雪解けの季節だった。獣に食い散らかされた骨が下草の間に散らばり、ただ色あせ汚れた首輪でだけそれと知れた。
 死んだ犬を見つけたのは2人の年老いた猟師で、かれらは拾った首輪から犬の飼い主が元締めの老人ではないかと疑い、そのもとへ運んできた。老人は首輪を受け取り、青ざめた頬にひっそりと寄せた。それはまさしくかれの犬のものであって、その犬は前年の秋から見えなくなっていたのだった。
「これはどこにあった」
 老人はしゃがれた声で囁いた。その軒下にはこの朝撃ったばかりの熊が数頭、積み重ねられていた。その舌はいちいち歯の間からべろりと垂れさがっていて、どの目も見開かれていた。
「俺はこの犬をずっと探しておった。子犬のうちからこの手で温めて育てた犬だ。どこでこの首輪を見つけた」


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- 2007年12月27日(木)

帰省について

実家に帰り、犬を連れて冬枯れた雑林を歩いていると、
東京でのことは長い長い散歩のインターバルに過ぎないような気がする。
わたしは常にこの途上にあったのではないかとさえ思えてくる。

とはいえ連れる犬はもはや私の犬ではない。
この美しい、強健で頑固なシェパードの雌犬はきわめて賢く
意志の疎通が確かに存在しているという手ごたえがある。
だが私の犬ではない。彼女もおそらくそれを理解している。
私たちは並んで、だがきわめてよそよそしく歩いてゆく。

時間は容赦なく、昨日はどんなにしても取り返しがつかない。
おまえが死んでから、もう何年が過ぎたのだ。
おまえが死んでから、おまえが死んでから。
一匹の犬が連れていける限りのものを連れて行ってから。

黒い小さな子犬だったおまえ。
母犬の腹に鼻を押しつけ、目もあかなかったおまえ。
拾い上げた私の掌の上で、小さな鳴き声を漏らしていたおまえ。
自転車のかごに乗せられて、不安な顔でわたしをみあげたおまえ。
知恵を絞っては脱走し、見つかれば悪びれずに尾を振ったおまえ。
ブラシをかけられながら、おとなしく坐っていたおまえ。

長い、長い散歩を、わたしたちはどれだけ重ねただろう。
人間を愛するようにではなく、恋人を愛するようにではなく、
親や友人を愛するようにではなく、私はおまえを愛している。
この愛は深く、また死ぬことがなく、うすれることがなく、
おまえの不在は、帰還のつどいやまし私を苦しめる。

この悲傷は、いつか私の帰省を不可能にさえするだろうと思う。
この悲傷は、癌のようにわたしをむしばみ、いつか殺すだろうと思う。
年老いて洗い漱がれたように呆け、父母の名さえ忘れても、
この悲傷だけは、わたしのうちになおも巣くい続けるだろうと思う。


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- 2007年12月24日(月)

クリスマスを好きか嫌いかと問われると

ともにすごすべき家族も恋人も、また依るべき信仰もない身では、
街のにぎわいがいささかかしましいね、とでも答えるよりほかにない。

べつに、あてつけて「臨終図巻」を読んでいるわけじゃない。
ただ、いわくこの聖夜、孤独であることが幸いだと思う。
最近とみに人間嫌いの度が増しているからかもしれないが
そもそも私は子供のころからこの世にも人間にも縁がなかった。
もっとも縁がないのが自分自身だったが。

これはべつに、気取っているわけではない。
幼時、わたしは私の意志にかかわらず転居を繰り返し、
世界は紙芝居さながら勝手に様相を変えた。
同時にわたしなるものもいろいろと勝手に変っていった。
愛され憎まれ疎んじられ、優等生だったり問題児だったり。
紙芝居の中の役どころを追うのはじつに面倒で、そのうちそれもやめた。
すべては私の努力や希望とは縁のないところで起きた。

すべてはわたしとは無縁だった。今でもそうだ。
あえてこうした立場を選んでいるのではないかと問われれば
あるいはそうかもしれぬと答えてもみよう。
何も望まず、すべてと無縁でいれば、人生はやりすごせるだろう。
実際、わたしが望んでいるのはそれだけだ。
やりすごすこと、誰にも関らぬこと、わけても自分自身には。
死がどのように来るのかは知らないが、それもまたやり過ごせるだろう。
苦痛に満ちたものなら苦しもう、そうでないならそれなりに。それだけだ。

誰もわたしに愛情を期待してはいけない。
そんなものはどこにもない。あると思うならそれは紙芝居の書き割りだ。
それがあるように見せかけることはできる。だが本当はない。
私の生活には私はいない。それは私とは無縁の紙芝居だ。
私はどこにいるのか。それは誰で、いったい何を願っていたのか。
それが誰で何を願っていたのしろ、空に上って鳥になるよりほかなかった。
そんなものは誰にも届かず、空に上って鳥にでもなるよりほかなかった。


 おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
 煥発する都会の夜々の燈火を後に、おまえはもう、郊外の道を辿るがよい。
 そして心の呟きを、ゆっくりと聴くがよい。
               中原中也「四行詩」


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- 2007年12月23日(日)

山田風太郎「人間臨終図巻」

引き続き。
人間臨終の阿鼻叫喚を集めたこの分厚い書籍の醍醐味は
結局、山田が直接に交流のあった同時代人の生の顔と声が
赤裸々に書きこまれていることに尽きる。
まあ、これに、山田自身の同時代観を加えてもいいが。

その意味で出色は横溝正史の項だ。
ここには山田がかれと交わした書簡や会話が引用され、
きわめて鮮やかにこの恐るべき伝奇作家の横顔がうかがえる。
ほんの一項ほどの内容には、ここばかり死の影は薄く
ただ頬をかすめる風のように、ひとつの生が追憶されている。

しかし、なんともはや。
どんな推理小説だってこうはいくまい。
毎ページ、人が死ぬ。しかもその死のほとんどすべてが、
暗殺者の素早いナイフの一撃をきわめて慈悲深いと感ぜられるようなもの。
善悪問わぬ阿鼻叫喚の死の苦悶は、まったく救いがない。
しかもなおひとは死なねばならぬとは、と嘆きたくもなる。

生きるということが最後にこれほどの対価を必要とするのなら、
なるほどそれは、それ自体、すさまじい悪だとみなすほかない。
でなければ、生死にはなんら意味などないと。


さて、感銘をうけた最期の言葉をいくつか。

「阿呆だ、おれは」――スウィフト(「ガリバー旅行記」作者)
「おれはもうダメだ」――山岡荘八(「徳川家康」作者)
「ここで死のう、このあわれなそら豆を踏みにじるよりは」――ピタゴラス
「ノヴァ」――フォン・ブラウン(ロケット工学者)

スウィフトの言葉がいい。
死にあたってこれより切実な自己認識があるだろうか?
まさに死の側に立って同時代と歴史とを眺めたときに、
阿呆でない人間があるだろうか? もちろん自戒も含めて。


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- 2007年12月22日(土)

山田風太郎「人間臨終図巻」


を読んでいて、いろいろと面白かったのだが、
水戸光圀公が若年、「史記/伯夷列伝」を読んで大いに感動し、
「大日本史」を志したというのが
なかなか面白かった。というのは私も大いに感動したクチなので。

史記/列伝のうち、冒頭におかれた伯夷という人物は誰か。
殷を滅ぼすべく兵を挙げた周・武王を不忠として制止したが聞かれず、
殷に替わった周の禄を食むことを望まずに山へ逃れて山草を食べていた。
しかしそのうち周の国の草を食べるのも嫌だといって餓死した。

まあ…アレだ。アレな人だ。

それはおいといて、この章を、太史公はこう結んでいる。
「天道、是か非か」…天の道は、正しいといえるのか、それとも否か。
「楚辞/天問」全文にひとしいほどの激烈なこの問いには
読むものをして慄然のとさせる力が満ちている。
ひとりの人間の全生涯を変えうる言葉だといってもいい。


もっと平たくいうと、この問いはこういうことになる。

 「人が何としてもそうしないでいられないことは一体どういう事だろう。
 考えてごらん(中略)」
 小さなセララバアドは少しびっくりしたようでしたが
 すぐ落ちついて答えました。
 「人はほんとうのいいことが何だかを考えないでいられないと思います」
 (中略)
 「うん。そうだ。人はまことを求める。
 真理を求める。ほんとうの道を求めるのだ。
 人が道を求めないでいられないことはちょうど
 鳥の飛ばないでいられないとおんなじだ。
 おまえたちはよくおぼえなければいけない。
 人は善を愛し道を求めないでいられない」
           宮沢賢治「学者アラムハラドの見た着物」

ほんとうのいいこと。善とはなにか。また道とは。
問い、求め、探索せよ。それは疑い、訊ねるべきものだ。

こうしたほんとうの言葉だけが、いつも人間を突き動かしていく。
良いほうにかそうでない方にかは知らない。


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- 2007年12月19日(水)



この大きさならなんとか見れる、かな…。
お人形さん…もとい、ドールを初めて撮ってみました。
被写体は御存じな方はご存じ、ノアくん。
三脚が欲しい光源状況でしたが、まあ、なんとか。

かれはなんとなく、やや仰向いたイメージがあるので上の一枚。
もっともセッティング(及び撮影後調整)は所有者N氏によります。



こちらは某坊主の視線(10センチ上)からの一枚。
この角度は子供を撮るときによく使う「かわいい」強調ライン。
顎を切って額を大きく入れたのもそのため。
こうすると、子供の輪郭により近くなる。

幼いようななかに、一抹の色気のあるまなざしがいいなあ。
ほんのわずか角度が変わるだけで、あるいは光が変わるだけで、
表情はまるで変わる。面白いが、怖い。





右目。体の部分だけというのは難しいがときに雄弁だ。
ちょっとアレなのは光が2つ写り込んでいることだ。
ホントはひとつだけのほうがいいとされてる。
もちろん例外はあるが(たとえばガラドリエル・ライト)。
しかしこれはこれで、なんとなく不安気というか、
単純とはいえないかれらしいと思えなくもない。



…横位置ばっかりなのは、縦位置がことごとくブレていたからです。
鋼の両腕と三脚の足がほしい。


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- 2007年12月17日(月)

しかり君よ、我らは老いる。
かの陽虎も言ったではないか
日月逝きぬ、歳われとともならず。
それでは行こう。せめて日のあたる方へ。
なに、死が来るまで遠くはない。


Calling.....


どうかこの声を聴いて下さい。
この声、けっして夜を破りはしない声です。
あなたのもとには届かない声です。
どうか、あなた、どうか、聞いてください。



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- 2007年12月16日(日)

なぜこんなにラブソングが氾濫するのかと考えて

ああ、そうか。
ふと気づいたことがある。
恋愛の万能など、十代も後半になれば誰も信じていない。
だというのに、これほどラブソングばかり流行る。
これはつまり、問題は恋愛ではないのに違いない。

ひとは愛に仮託しなければ、
自らの孤独を吐露することさえできないのかもしれない。
自らの弱さ、愚かさを語りえないのかもしれない。
そして、生きるという行為を遂げることも。

べつに、これは戦争だっていいのではないか。
喪失にかこつけて語ることもできる。
殺人の苦悩や殺戮の狂気にかこつけて語ることもできる。
なんなら、バンド・オブ・ブラザーズ、戦友の絆でも。
そうだ、語るには仮託がどうしても必要だというのなら。

しかしながら、愛も戦争もなくったって、
こうしたすべては最初からある。
なくすまえから失うことはある。
愛する前から愛はある。狂気も悲傷も。
しかしながらそうしたすべては語りえず、
そして仮託とは言葉そのものだ。

なるほど、天は粟を降らせ、鬼は夜哭するわけだ。


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- 2007年12月14日(金)

 夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくろく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
 わたくしは神々の名を録したことから
 はげしく寒くふるえてゐる

       宮沢賢治「業のはなびら」



ふとこの言葉を思い出したのには理由がある。
岩手へ旅したその夜に、ひと風呂浴びてから宿舎の外に出た。
気温はまさに氷点下。星空を見に出たはずだった。

雲の影も見えぬのに、空はただひといろに暗黒。
梢の影だけがなお暗く、夜の風にからからと揺れていた。
おいおい、ここは岩泉だぞ、花巻じゃない、と言いそうになって
誰に言えばよいのかもわからずに言うのをやめた。

空には確かに業の花びらが満ちていて、
それと同時に、どこか遠くで、耳には聞こえぬ叫びが上がった。
それともその叫びはとくからあって、私がそのとき気付いただけか。
神々の名を、わたしはいつ記したのだろう。
そんなふうに思った。


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- 2007年12月13日(木)


 冥界に招かれて、地底の広間に進み出た。光はそこには灯されていなかった。なぜなら居並ぶ貴顕はいずれも光を要さぬ種族だったからだ。だが闇にあっては盲いるわたし一人のため、特別にひとつの炎が許された。
 するとどうだろう! 塗られたような暗がりはたちまち開け、水滴を飾った巨大な鍾乳石の柱が無数に輝きながらそびえているのが見えた。

(かきかけ)


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- 2007年12月09日(日)

龍泉洞へ

というわけでいってきた。
日本三大鍾乳洞のひとつ、岩手県岩泉町の龍泉洞。
清水川の水源であり、確認されているだけで5つの地底湖を抱く。
宇麗羅山の中腹に入口は位置し、その尾根に従って伸びる大地のすきま。
百万年かけて彫琢された鍾乳石を壮麗な飾りを、だが照らす光さえなく。
水の作りだした山の下の王国、それとも冥王の宮殿。



入口から間もなく。外の光は間もなく遠い。
日本の神々を思う。
天照大神は昼をおさめ、月読尊は夜をおさめる。
嵐は素盞嗚尊の権限により、では地底は誰だったか。
どうも記憶がない。


第一地底湖を上層から見下ろす。高さのある空間の底に、
澄んだ、途方もなく澄んだ湖がぽつんと静まっている。


第三地底湖。この壁の向こうには推定水深120メートルともいわれる
第四、第五地底湖が眠っている。


二時間もしたろうか。
内は外より暖かい。外気が4度前後なら、中は6,7度もある。
だが上って下りて、前後左右にすさまじい質量が無言に迫る。
心地は妙に疲労し、カメラのピントがあわなくなったので洞窟を出る。


そして翌朝。氷渡探検洞窟へ。
こちらはライトなどの設備のない自然に近い状態の洞窟だ。
入洞前にヘルメットと青いつなぎ、軍手を借りる。
ヘッドライト頼りにレツ・イン。雪降ってきたけどそんなの関係ねぇ。

這うしかない通路、岩の隙間。
膝を使い、ヘルメットがっつがつぶっつけながら進む進む。
ピンボケだからのせてしまおう。これは大ガレ場。


ヘッドライトの明かり、届きません。
ストロボの明かり、届きません。
こはいかなる王の宮殿ぞや、と呟きたくなる高さ。そして。


大鍾乳石の林の下をくぐる。
ところどころ、自重に耐えかねて落ちた鍾乳石の巨大な破片が見える。
足元には水。春には洞窟の大半が水に漬かるという。


奥へ、奥へ。
方角石を含み、光を反射して美しい鍾乳石「きらめく星座」でルート終了。
しかしその美しさより別のものを撮っていた。


冬眠中のコキクガシラコウモリ。ねこみ襲いました。
つつきました。もじょもじょしたよ!ちょっと!可愛いじゃないの!


まあそんなこんな…。
また整理するかも。あーくたびれた。


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- 2007年12月06日(木)

「黒水城」

 敗北は間近に迫っていた。水が断たれたのだ。最後に希望をかけていた井戸もまた、わずかな水を染みださせたのみ。打つべき手はもうなかった。
 幼い娘を膝の上に眠らせながら、敗北を城主は思う。敗北、殺戮と凌辱と殺戮と略奪。かれらは徹底的だ。その手は奪うにおいて飽くことを知らぬ。与えることにおいても、と言ってもよい。金銀も宝玉も兵団も、かれらは確かに物惜しみしなかった。
 そして敗北だ! 城主は苦々しく歯がみする。敗北、敗北と死! 避けられなかった。避けられないことはわかっていた。
 城主は膝の上の娘を見た。痩せて、老婆のような顔をしている。その手は鳥の足のようだ。城主を深い憐憫がとらえた。なんという悲しみだろう。なんという哀れさだろう。眠ってばかりいる。あんなに活発だった子が。あんなにふくふくと太った赤子だった子が。せめてその手足が冷えぬよう、腕の中に深く抱きながら、城主の顎髭を涙が伝った。
 餓えと乾きはもう来ていた。もう何週間か居座っていた。だが次には敗北、敗北が来る。城主は真赤に血走った目であたりを見回し、すべての希望がそこで死んだ井戸の上に視線を止めた。骨と皮ばかりに痩せ衰えたものたちが、それでも憑かれたように掘り続けていたというのに、もう誰もいない。城主は立ち上がり、赤子を抱えたまま井戸の方へ歩いていった。
 歩くにも容易でなかった。空腹にめくらみながらその黒々とした穴のふちに立ち、城主はふいに、おさえがたい激情につっぱねられるようにして叫んだ。獣のような叫びは、どこにこれほどの力が残っていたのかというほど長く、太く、壊れた素焼きのようにがらがらとあたりに響いた。それから城主は両手に娘を高々と差し上げて、次の瞬間、井戸の底へと投げ落とした。かれは決めたのだった。すべての価値あるものをこの井戸に投げ込んでやろうと。金も銀も宝石も絵も書も。ささやかながらかれらの勝利の価値を減じるために。
 投げ落とされた幼子は、ひとつの声も上げはしなかった。それよりまえ、父の腕の中で死んでいたのかもしれなかった。


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- 2007年12月05日(水)

杯を砕いて外に出よう

さて、節約を強いられる身になって初めて気づいたのだが、
人には2種類いる。
一緒に出かけて金のかかる人と、そうでない人だ。

金のかからんのはおおむね目上の人、それから古くからの仲間だ。
先輩、上司にはおごってもらうことになる。
私はあまり「ハンカチだけ持って出かける」のは好きでないので、
カウンターで「小銭くらい出させてください」と端数を出す。
これについても、喜ぶ人と喜ばない人がいる。
喜ぶのはおおむね年の離れた上司で、喜ばないのは先輩だ。
これはだいたい、余裕の問題だろう。喜ばないのは気を張っているからだ。
余裕があると、「今日はとんかつな」とか「小銭くらいだせ」とか
そんな感じで私の顔も立ててくれるわけだ。
何もさせてくれない先輩とかで、あんまり「秤が傾きすぎた」と感じると、
だいたい何かちょっとしたものを「差し入れ」することにしている。
どっちかというと、出かけるなら上司のがいい。

古くからの仲間とは、どちらの懐具合も如実にわかっているし、
だいたいどちらも相手に対しては気を使いたくないので
言いだす前からすべてのものが割り勘である。
この類の人がいちばん誘いやすいなと、最近ともに思う。
ちょっと金のかかる遊びにも、都合以上のものを考えず誘える。
喧嘩も派手にやれば、謝るときも打算がない。
ただこの友情を失いたくないというだけでいい。

さて、金のかかる方だが、これは年少者が多い。
というのは私は自分より目下の人と出かける場合、
できる範囲で自分が出すべきだと思うからだ。
これはもちろん、私がそう遇されてきたことによる。
しかし節約を旨とするようになると、なかなかお誘いは言いだせない。
スタンスを変えてしまえばこんなご無沙汰しなくてすむのだが、
そのへんはなかなか簡単ではない。難しい。

さて、このへんまで書いて思うのだが、
おごったりおごられたりは微妙に自分と相手の立ち位置測るところがある。
目上か、目下か。
出すことが失礼になるのか、出されることが非礼になるのか。
それはつまりは相手へのある種の行動の期待の縮小された表現だ。
目上の相手なら盆暮れのごあいさつはするべきだし、
目下の相手なら盆暮れの挨拶はあってしかるべきだ、ということになる。
要するに私は古い人間の習慣をしっぽとして持っている。

これは実際、私が考える以上に根っこの深いもので、
ある人に対して好感情を抱かなくなったきっかけというのは
なるほどこういう期待を裏切られたというケースが多い。と思う。
しかしこういう足し算引き算的なバランスというのは、
自分と相手の考えとはまったく別だった、ということが多いものだ。

そのうちただの友情に落ち着いたら、なんもかんも楽なのにな。


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- 2007年12月04日(火)


 かれはゆっくりと、注意深く足場を確かめながらタラップを下りた。計器が何を告げようと、目に何が見えようと、かれは己の足で踏むまでは満足しなかった。それは小さな危険と不安を確かめ容認する神経質な仕草で、かれにかかっては万事がその流儀で行われた。
 とはいえそかれの任地においてこうした細心さは常に要求された。つまりかれの任地であるという限りにおいてすでに、そこはなんらかの形で病み、完全に死に絶えつつあったから。
 公にはかれの肩書きはひどく長くてまわりくどいが、人々は単に看取り人と呼ぶ。私たちはそれよりさらに短く呼ぼう。死、と。


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- 2007年12月03日(月)

「女は眠っている、彼女は目覚めない。
 男は教会に入ってゆく、その足取りは重い。
 永劫の罰はこの如くに行われ、しかして世界は巡りゆく」
              十二世紀『無名文書』冒頭


とても辛い夢を見た。
犬が死んだ夢だ。わたしの犬が死んで冷たく硬くなった夢だ。
もう生き物ではないおまえの夢、どうしてこんな夢を見たのか。
わたしは何度か知った、悲しみは癒えることがない。
悲しみは消えることがない。悲しみは忘れられることがない。
私はただ、おまえの死を生きてゆけるだけなのだ。
ほかの多くの死を生きているように。

おまえ、わたしのおまえ。
おまえが死んで焼かれたあの朝から、もう何年も過ぎた。
それともきょうここにいる私こそ夢なのか。
私たちはまだあの露の多い秋草の野辺を歩いているのか。
私たちが願ったようにあの散歩には終わりがなく、
いまなお私たちはあそこにいるのか。あの散歩を続けているのか。

おまえ、わたしのおまえ。
わたしの黒い犬。失うとはこういうことか。
私の心のうちにおまえはちっとも死んでおらず、
しかもなお声の限り呼んでも応えはない。


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- 2007年12月02日(日)

この歩みは

なにほどのことはない、この歩み、わたしを運ぶこの足の一歩。
永遠を数えるには場違いな定規だ、幾度畳んでも追い付かない。

アームストロング船長ほどではないにせよ、
この足はわたしをけっこう遠くまで運んできた。
砂漠も踏めば、熱帯も雪山も踏んできた。
「This is my taxi!」とよくふざけて言ってたが、
まあ実際その通りだ。私の足は私をのせてゆく。

さてその足がきょう私を運んだ先はアメ横だった。
はっきり言って私は人が多いところは苦手だ。
これは単に慣れていないという以上のことだ。
電波な言い方をすると、私が私を占有していないような気になるのだ。
それは実際そうでもある。
つまり歩く速度にしろルートにしろ、常にひとがかかわるからだ。
しかしまあ、安いには勝てない。近いしね…。

新幹線のチケットを買い、いくらか日常の買い物をする。
脛に傷でもあるような人の気配が濃い、と思う。
このすべての人とまったくかかわりがないことが、
突然、ひどくさみしい気分になる。


は。



生理前かよ。(またそのオチ)







うわー、すげー頭悪そう。
ファンって犬じゃねーか…。


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