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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年11月30日(金)

またこの日がめぐってきた

 宇都宮を離れても、この日を忘れることはない。
 12月1日。今市で小学校1年生だったこどもが下校途中にさらわれ、殺された日だ。犯人はまだ捕まっていない。
 まだ捕まっていないのだ。このことを思うつど、わたしははらわたが煮えくれいかえる思いに駆られる。あの小さな子供を殺し、何十度となく刃で刺して、あの冷たい森に捨てた犯人がまだ大手を振って生き延びている。
 毎年、この日になると私の時計はあの日に戻る。こうした悪は、消し去らない限りそうした作用を持つのだ。そして消し去りうるものはない。逮捕されようが死刑になろうがまた、かれが死のうが、消えるものではない。
 一枚の紙の焼けあとのようにぬぐい去りえない苦痛だ。何度、目を閉じてその航跡を追ったことだろう。だがたどりつかない。
 いまおまえはどこにいるのだ。その手に沁みついた血を忘れたか。たとえおまえが忘れても、ほかの誰も忘れはしない。


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- 2007年11月29日(木)

 楽しく抜き放たれた白刃の刃こぼれが陽光にさっと輝いた。
 「続け、雑兵ども!」
 若い長の叱咤に、軍勢の笑いがどっとあたりをどよもした。そして馬蹄の響きはさらにその歩みを強め、険しい崖を矢のごとくに走り下りていった。
 金髪のその一団は笑いつつ殺し、歌いつつ殺した。血煙りは太陽を陰らせ、切り落とされたひとの手足や首は枯れ葉のように大地を覆った。

 それはその幾世紀にわたって北の海の沿岸に見られた光景だった。かれら金髪碧眼の蛮族たちは一帯を恐怖に陥れ、いかなる王もかれらを手なずけることはできなかった。和平を結ぼうにもかれらは寸豪の地も支配しようとはせず、またどれほどの宝物もかれらを満足させはしなかったからだ。そして死の恐怖もまたかれらを後へ引かせることはできなかった。

 このような記録がある。
「殺せ、死ね。老年は恥辱ぞ」
 岬に追い詰められた兵団は笑いながら戦い、四方八方から射かけられる矢の中で笑いながら一人残らず殺された。一人たりとも投稿をよしとせず、敵に背を向けて海に落ちたものもまたいなかった。
 そして次の冬には殺されたものに倍する兵団が押し寄せて、また歌った。
「戦士の死をよこせ、さあ俺たちにもよこせ。今日という日、俺たちは戦士の死を死にに来た」
 恐れた人々は四散し、町は皆殺しの憂き目にあった。わずかに逃げ延びた修道士によると、かれらは住人を殺しつくした町の中で歌い、泣いたという。
「こいつらは物惜しみした。俺たちに戦士の死をくれなかった。先に来たものたちにはよこしたのに、俺たちにはくれなかった」

 歌いつつ進軍するかれらに、沿岸の王国はなすすべなく震え、殺され、またときに撃退に成功して、数世紀は瞬く間に過ぎた。かれらはのちにケルトと呼ばれた。いまなおその名は狂気の語源として残る。


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- 2007年11月27日(火)

一匹のキリンが道を探して

旅は、出発とともに始まるのでない。
旅に出ようと決めた瞬間に始まるのだ。

航空券と列車の手配、それはわずらわしいだろうか?
とんでもない、とわたしは言う。
そのひとつひとつが、見たことのない風景の中に私を投げだす手順だ。
このチケットは、わたしをどこに連れて行ってくれるのだろう?

わたしはいま、とても幸せだ。
キリンが卵を抱いたとしたら、きっとこんなふうに思うだろう。


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- 2007年11月26日(月)

一匹のキリン

来年一月末から二月頭にかけて、中国を旅することにした。
できる限り鉄道を利用したいと思っている。
期間はせいぜい1週間から10日だろうが、これは仕方ない。

西安から敦煌まで、かつての防人の通った道を、追うことにする。
本当なら楼蘭までも行きたいのだが、はてどうだろう。
いずれにせよ、明日にも図書館でいろいろ調べよう。
さーむいんだろうな(笑)

しかしサハラに出向いたのもこの季節だった。
わたしは冬に出発するのが好きなようだ。
それとも新たな年というのは、それを求めさせるものがあるのか。

準備をして、日々を数えよう。
見る夢さえ鮮やかになる。
わたしは柵を越えることを決めた一匹のキリンだ。

予算は、えーと、10万円まで…。


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- 2007年11月24日(土)



久しぶりに思いだした言葉がある。
「親友とは郷里価(ハイム・ヴァレンツ)を持つひと」
会ったときに「家に帰ったように」ほっとする人ということだ。
ちなみにKローレンツの言葉。

東京という心身ともに(宇都宮より)異郷に住むわたしが
こういう感覚を覚えるひとは何人かいる。
ひとりは高校時代からの仲間で、彼女も最近上京した。
もうひとりは宇都宮時代の上司で、半分くらい父親みたいなひと。

それから、換気扇の猫。



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- 2007年11月23日(金)

新宿御苑と「ヘアスプレー」

新宿御苑:
十一月下旬の新宿御苑を横切る日差しと影の長さ。
色づく木々の明るさ、空の青さ。ずいぶん久しぶりに太陽を浴びたと思う。
東京には空がない、ただ皇居と御苑にはある。
ああした明るい、広い場所に人々が集っているところには、
なにか大きな祝祭の前触れではないかとさえ思える朗らかさがある。

われわれはなにかをここで待っているのではないか、
なにか万人にとっての喜びのもといであるところのもの、
なにか万人の待ちわびていたもの、
そんなものを迎えにきたのではないかとでもいうような空気がある。

芝生に寝転んで、雲ひとつない空を見上げる。
ちいさな白い破片のように、誰かの手を離れた白い風船が飛んでいった。



「ヘアスプレー」:
ジョ、ジョン・トラボルタ…。
こういう映画をやるなら、人権運動とかよそうよ、入れるの。
もっとあたりさわりないサクセスストーリーならよかったのに。


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- 2007年11月21日(水)

ムンクの記憶:

というわけで上野の西洋美術館でやってるムンク展に行ってきた。
装飾性をキーワードに、ということだったわけだが、うーん。
面白かったかと聞かれれば、まあそれなりにと答えよう。
「吸血鬼」「メランコリー」「灰」「マドンナ」「不安」「浜辺のダンス」
まあ代表的な作品がそろってきていたわけだから、そりゃそうだ。

ただ装飾性というキーワードが十分なカギだったかというと、
ちょいと役者が足りなかったのではないかと思っている。
むしろ風景、あるいは風景画として切ったほうが良かっただろう。

さて、それで気になった作品についてのべるより先に、
気になったことについて述べよう。
ムンクは同じモチーフを繰り返し描く。なぜだろう?
まるでイコンのようだ。まるで聖書から繰り返し引くようだ。
なるほどそれは聖書だったのだろう、かれの聖書、かれの「原典」。
だがそれはなんだ? ムンクに巣くっていた竜とはなんだ。

「頑丈なむきだしの腕――褐色のがっしりした首
 ――隆々たる男の胸板に若い女が頭をもたせかける――。
 女は目を閉じたまま震える唇を開き、
 その打ち乱れた長髪に囁きかける男の言葉に聞き入っている。

 私は、今見たとおりに――しかし、青味がかかったもやの中に
 ――形どるのだ。もはや自分自身ではなく、
 数限りない世代と世代とを結ぶ絆の一環にすぎない瞬間の二人を――。
 人々はそこに聖なるもの、雄壮なるものを把握し、
 あたかも教会の中にいるかのごとく脱帽するだろう」

こうした確信なくしては、誰もこのように描くことはできない。
しかし疑問をはさむ余地のないこうした確信こそ病の一種でもある。
芸術家に世界を変えることはできない。


一枚の絵について述べよう。
それは雪景色のなか、見るもののほうに馳せ駆けってくる奔馬だ。
いまにも画面から飛び出してきそうに見える。
その背後には手綱をおさえられなかった男がいる。
はたしてこのように

このごとく

かれの絵はわれわれに語りかけてくるだろうか。
否、といいたい。この馬はかれの言葉だ。
かれは画面を脱することがない。


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- 2007年11月20日(火)

ムンクの記憶:

というわけで上野の西洋美術館でやってるムンク展に行ってきた。
装飾性をキーワードに、ということだったわけだが、うーん。
面白かったかと聞かれれば、まあそれなりにと答えよう。
「吸血鬼」「メランコリー」「灰」「マドンナ」「不安」「浜辺のダンス」
まあ代表的な作品がそろってきていたわけだから、そりゃそうだ。

ただ装飾性というキーワードが十分なカギだったかというと、
ちょいと役者が足りなかったのではないかと思っている。
むしろ風景、あるいは風景画として切ったほうが良かっただろう。

さて、それで気になった作品についてのべるより先に、
気になったことについて述べよう。
ムンクは同じモチーフを繰り返し描く。なぜだろう?
まるでイコンのようだ。まるで聖書から繰り返し引くようだ。
なるほどそれは聖書だったのだろう、かれの聖書、かれの「原典」。
だがそれはなんだ? ムンクに巣くっていた竜とはなんだ。

「頑丈なむきだしの腕――褐色のがっしりした首
 ――隆々たる男の胸板に若い女が頭をもたせかける――。
 女は目を閉じたまま震える唇を開き、
 その打ち乱れた長髪に囁きかける男の言葉に聞き入っている。

 私は、今見たとおりに――しかし、青味がかかったもやの中に
 ――形どるのだ。もはや自分自身ではなく、
 数限りない世代と世代とを結ぶ絆の一環にすぎない瞬間の二人を――。  人々はそこに聖なるもの、雄壮なるものを把握し、
 あたかも教会の中にいるかのごとく脱帽するだろう」

こうした確信なくしては、誰もこのように描くことはできない。
しかし疑問をはさむ余地のないこうした確信こそ病の一種でもある。
芸術家に世界を変えることはできない。


一枚の絵について述べよう。
それは雪景色のなか、見るもののほうに馳せ駆けってくる奔馬だ。
いまにも画面から飛び出してきそうに見える。
その背後には手綱をおさえられなかった男がいる。
はたしてこのように

このごとく

かれの絵はわれわれに語りかけてくるだろうか。
否、といいたい。この馬はかれの言葉だ。
かれは画面を脱することがない。


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- 2007年11月19日(月)

愛するにはあまりにも


そしてかれは言った。

「わたしはひとつの川だ。
 だが流れ注ぐべき海はどこにあるのか。

 この波頭のすべてをかけて奔騰しなだれをうち、注ぐべき海は
 群れ遊ぶ子らさながら楽しく波立ち騒ぐ水面に溶けるべき海は
 どこにあるのか、この世界のどこにあるのか。

 わたしはさながら空を持たぬ翼、闇のない明かり、問いのない答え。
 奇形の臓器のように用なさぬこの川を、いったいいかにしよう。
 天へ昇らせるか、地へもぐらせるか
 流れ注ぐべき海を見出せぬままに」

かれが言葉で言ったのではない。
ただそのまなざしで、わずかな仕草でそのように語ったのだ。
わたしもそのように答えた。わたしたちはいつでもそのように語った。

「かれはひとつの川だ。
 海を恋い、海への想いにひかれて垂れて落ちる。

 かれは恋い、かれは慕い想う。かれの恋は完全で欠けるところがない。
 ただ、海がそこにないことだけをのぞいては。

 かれは空へ昇るか、地へもぐるだろうか。
 あるいはそうかもしれぬ。
 かれが自らのうちに海を見出すことがなければ。
 かれが自らのうちに海たらんとする可能性を見出し、
 静まって凪ぎ、その水面に天を映すことがなければ。

 しかり、そのときかれは天へ昇るか地へもぐるだろう!」


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- 2007年11月16日(金)

かぜっぴきがなおらない

 猫が帰ってこない。O・ヘンリーのヒロインじゃないけど、風邪を引いて寝込むと、見ていられるのはネットと窓の外だけだ。こういうときこそ誰もいないというのは都合のいいことで、自分とこの飼い猫でもない猫の帰りを待ちながら半日ぼけーっとしていても文句は言われない。

 それで、ピッコロとピグマリオについて考えていた。
 いやさ、ピしか共通点がないとかそういうことではない。ピッコロはまあ後においといて、ピグマリオだ。和田慎二の名作ファンタジー。

 ええと、これはギリシア神話のピュグマリオンから名称をとっているのだが、このピュグマリオンというのは自分の作った石像の美女に惚れて、惚れた一念で石像を人間にしちまって、おまけに嫁にしちまったという、なんともトホホな王様である。この名前をとってピュグマリオン症候群=いきすぎた理想主義者、という名称まであるからますますトホホだ。

 話をもどそう。ピグマリオだ。ちょっとこれ一大叙事詩だなあと思うくらいのストーリーテラー和田真骨頂の作品なのだが、運の悪いことに、わたしこれ小学校のときからリアルタイムで読んでたんだよね。
 続々出てくるキャラクターのまあ、なんというか立っていることったら。これと指輪物語くらい出てくるキャラみんな魅力的な物語はないねえ。禁断愛っぷりでもまったくそうです。妖魔も精霊も人間もサイコー。いまでも名前言えるキャラいっぱいいる。
 クルト、オリエ、レオン、ギルガドール、精霊オリエ、ガラテア母さん、ステファン父さん、メドゥーサ、マリウス、エルザ、シルヴァーナ、アスナス、リシェンヌ、キメラ、ギャルガ、あとなんだ。みんなこう、生身で生きてるって感じのするキャラたちだった。これはわたしが難しいこと考え始める前から親しんでいたからかもしれないが。
 あ、もっかい読みたい。どっかにないかなあ。アマゾンだと全部ないんだよなあ。


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- 2007年11月14日(水)

夜から夜へ

こういう時間帯でこういう種類の仕事をしていると、
夜から夜へとひたすらに渡り歩いているような気分になる。
昼は窓に瞬く明かりに過ぎず、その光は私の上には落ちない。

夜から夜、そしてまた夜へ。
これは幻想と無為と夢想の道だ。
世捨て人になってはいけない。それはあまりにたやすい。
世捨て人になるくらいなら、尼さんになろう。
何もかもなくせるだけ、そっちのが上等じゃないか。
所有はわたしの美徳ではない、善と美はわたしのものではない。

「道尽きて心安らかなり。即ちこれ死所」

それではまずは道の尽きるところまでゆかねばならない。
なるほど夜から夜、そしてまた夜へ。そのかなたへ。


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- 2007年11月13日(火)

ツィンボロンは転がるように歌う

引っ越しのときに、ハンガリーで買ったCDが出てきた。
自称「ジプシー王」率いるバンドの演奏を集めたもので、
ご推察の通り、ジャンルはロマの民族音楽だ。
楽器はヴァイオリンが何丁かとヴィオラ、
ツィンボロンというピアノの親戚がメーンだ。
曲風は倦怠に満ち優雅で、素朴なあてやかさがある。

これを最近よく聞いている。
というのはやはり(ヘッドホンをしていても)、ロックは夜の音楽でない。
そしてわたしが音楽を聴くのは深夜から未明なのだ。
ロマの音楽はわたしを覚醒させもせず、眠らせもしない。
同じ体温がある、とでもいえばいいのか。
「音楽の泉から汲まれた最も冷たく純粋な水」(シベリウス)の類も
ホットで踊りだすようなロッケンロール(レッチリ!)も、
あとは眠るばかりのくつろいだ夜のひとときには向かない。

このあたり、最近自分は気難しいと自覚するようになった。
ある種のものはだめだし、ある種のものはもう耐えがたいのだ。
上手下手というのではない。そういう嗜好なのだ。
そしてこのCDは気に行っている。
ときどき譜面をめくる雑音の入ったこのわびしいCD。
得意げなヴァイオリンはときどきキイキイ言うが、
ツィンボロンのくぐもったやわらかな音色が私の神経をなだめる。

なんといえばいいのだろう?
たとえば揺れるろうそくの炎のような。


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- 2007年11月12日(月)

あなたがその細い指で三日月をなぞるなら

 雪白の仔ライオンはわたしの膝の上で眠ってしまった。優美で礼儀正しいばかりでなく、非の打ちどころのない女主人であることも明らかになった緋色の格子縞の雌ライオンは、わたしのために鳥の羽を積んだ床の一角を用意してくれたので、子猫よりは育った感のある仔ライオンを膝に抱いたままでもそうそう苦にはならなかった。
 雌ライオンは前足を重ねて砂の上に置き、私に言った。あなたは遠くからいらっしゃいました。あなたはさだめしたくさんのものをご覧になられたでしょうが、そのうちのほんのひとつでも、話して下さいませんでしょうか。と申しますのも、この砂漠は私どもの愛する故郷であり統治する王国でありますが、またそれゆえに私どもはそれよりほかの場所に行ったことがないのです。
 お恥ずかしい話ですが、と雌ライオンは言い足して口をつぐんだ。


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- 2007年11月11日(日)

アルハンブラのあの青い、青い空

わたしは獅子の中庭に立っていた。
すがしい水音のもと、水盤を支える獅子の一頭が歩み出て
親しげな目つきで私を見上げた。
そこでわたしとかれは連れ立って白い砂の上を歩いていった。

わたしたちはアーチをくぐって泉の中庭に至った。
ふいに獅子がひとこえ低い声で吠えると、
三角の破風に刻まれた石膏の鳩たちがその声に驚きいっせいに飛び立った。
青い、青い空に向けて投げ上げられた無数の白い礫のよう、
シェラ・ネバダの銀嶺を背にして群れなす翼は飛んでいく。
驚き見上げるわたしに、獅子が笑った気配がした。

やがて高い丘の城を立ち去る私の頭上に
カルロス2世城の頂から飛び立ってきた青銅の鷲が
高く、高く円を描いた。


熱を出すと、こんな夢を見る。
どこまで本当かは知らない。


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- 2007年11月10日(土)

味噌汁と紅茶と芋の夜

というわけでだいたい熱も下がった。
しかし昨日は久し振りに40度寸前まで体温上げたり
見たこともないような色の鼻水でたり、
やぶれかぶれで白川静の本を読もうとしたら
甲骨文字と現代文字が区別つかなかったりと、面白かったなあ。

こういうときは水分をとれといわれるが
私の水分補給は味噌汁と紅茶だった。
塩気がうまい。一方、焼き芋はあまり甘く感じなかった。
今度から参考にしよう。甘いものが甘くなかったら、体調不良と。
さて、明日は仕事だ。なんて都合のいい体質。


しかしあれだ、猫、ずっといるなあ。
こんど、にぼしでもやってみようかしら。
というか画像のせる?のせる?


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- 2007年11月09日(金)

かぜをひいたらしい。

こういうことを誰に言うべきだろう。
これは事実以上のものだから、すこし迷う。
母に言ったらきっと家のことを放り出して飛んでくる。
とはいえもれなく小言つきだから、あんまりありがたくはない。

幸い、備蓄はそこそこあるので外に出られなくても問題はない。
そうだ、食糧も、本も、音楽も。
きょうあす、ちっと籠城してみよう。休みで良かった。


わたしの部屋に、小さな蜘蛛が住み着いた。
じつをいうと、蜘蛛は好きだ。
益虫だと言い聞かされてきた経緯があるというだけではない。
なんとはなしに兄弟のように思うからだ。
しばらく所在なくさまよっていたのだが、
とりあえずサボテンの鉢に居場所を見つけた気配で安心する。

わたしの部屋の真向かいの民家の換気扇に猫がいる。
三毛の太った猫で、使われていない換気扇の覆いに住んでいる。
夜は知らないが、休みの日の昼によくそこで寝ているのを見る。
さあ、わたしここが好きだ。そうだね?


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- 2007年11月08日(木)

「フェルメールとオランダ風俗画展」

オランダ人って、17世紀のオランダ人って…。
なんでこうも女を醜く書くんだろう?

なんて変な感想だけを抱いて出てきた。
いや、醜いってわけではないんだろうけど…
なんだ、えー。なんだ。
現実主義者の前では世界一の美女もはだしで逃げる。


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- 2007年11月07日(水)

あなたは開けっぱなしの戸口の後ろに所在なく立っていた。

 戸惑うような視線を投げて、緋色の格子縞の雌ライオンはわたしを見た。わたしは丁重に頭を下げて、いつかの非礼を詫びた。そして、わたしは完全にわたしの意志で行き来できるわけではないのです、とわたしは急いで付け足した。雌ライオンがわたしの言わんとすることを理解したかどうかは知らない。ただ彼女は礼儀正しく私に一礼を返し、どうぞお気になさらぬよう、と言った。そこで私は以前のうめあわせに、喜んで、また進んで、あなたのお子さんを祝福させてはいけないかと控えめに申し出た。
 彼女は非の打ちどころなく私の申し出を受けて、わたしたちは連れ立って彼女の巣である岩屋へと歩き始めた。


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- 2007年11月06日(火)

くらくさみしい道をあなたは行く。

 火星の夜は寒い。寒くて暗い。衛星フォボスは頭上をめぐるが、ただ冷たい岩塊のように鈍く光っているばかりで、どれほどの光をもたらさない。わたしは毛布をかきよせ、コロンビア・ヒルズから平原を見渡した。そのどこにも明かりのない、ただ暗く、距離も時間もよりどころもない風景はわたしの心をひどく悲しませた。
 そのときわたしの懐の奥深くに熱を求めてもぐりこんでいた水玉模様のフェレットが頭を出して言った。どうかあなた、旅のおかた、天幕の中にある灯りをちょっと掲げてもらえませんか。なぜかっていうとね、夜にそんな明るい光を見たら、きっとうれしいだろうと思うんですがね。ええ、遠くで凍えていたら。きっとうれしいと思うんですよ。誰かがそこにいると思えるのは。
 そこでわたしは天幕に戻り、交流水素カンテラの真鍮の取っ手を掴むと、また外に出た。光は私の足元に輪をつくり、そしてその明りは遠くまで照らした。ほんの小さな明かりだったが、それは遠い幸福な記憶のように、この寒々とした夜の一隅を照らした。
 フェレットはごそごそと私の懐にもぐりこみながら、ああ、と呟いた。もしあたしらが遠くにいたら、ほんとに遠くにいたら、道に迷って暗くてさみしい道をとぼとぼと歩いてたなら、いまどんなにうれしいでしょうかね。いまどんな思いでこの明かりを見上げているでしょうかね。
 それで私は戻りもならず、丘の上に明かりを掲げて朝を待った。


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- 2007年11月05日(月)

初めて都庁に行った。

やっかいなトラブルをひとつ抱えてのことなので楽しくもなかったが、
「雨漏り丹下」の代表作だ。なかなか興味深かった。

なぜ「雨漏り」なのかというと、建築関係の人間には有名な話だ。
丹下さん天才だけど、天才にありがちなアレでもある。
自分の願望に忠実すぎて、構造的なあれこれに目をつむるのだ。
代々木の体育館なんてあれ、芸術品だと建築関係者はいうが、
同時に保守のほうはやりたくないなーと思うそうだ。
要するにあの芸術的な曲線は雨水の逃げ道を殺してしまう。
その結果としてどっかしら雨が漏る、というわけだ。

それで都庁。でかい。
それにあの意匠。細部に至るまである種の意志に貫かれている。
天才というのはたぶんこういう生き物だ、竜の息吹がある。
古代の神殿に似た、なにか異様な生き物の手が差し伸べられていた。
こうした感覚は商業施設ではあまり見ることがない。
公の建築、権力というものを代表させた建築にだけある。
皇居にも、カイロのシタデルにもパルミラのバール神殿にもあった。

権力という竜の、その生きた顔を見た、と、思った。
石原都知事はたぶん、あそこをとても気に入っているだろう。
で、雨漏りするのかな。どうやらするらしい。


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- 2007年11月04日(日)

ずいぶんと遠くまであなたは来た、とキリンが言った。

 そう、私はずいぶん遠くまで来ていた。それはわかっていた。だから私は白黒の網目模様のキリンを前にわずかに笑い、ゆっくりと立ち上がった。かれらも窮屈そうに縮めていた首をのばした。
 私はキリンたちに言った。私はずいぶん遠くまで来た。一度は立ち戻ったがまたやってきた。あこがれが私の制御しえぬ翼であって、その翼はわたしをこの赤い砂塵の地に運ぶのだと。
 キリンたちはあの怜悧な、だが世界の果てから包み込むような冷やかな寛容なまなざしで私を見つめ、それから揃って頭をあげた。
 年老いたキリンたちのうちの一頭がわたしに言った。もうすぐ朝が来ます。朝とともにあなたがたの悲しみが、あの黒い霧がやってきます。あなたはしばらくここを離れなさいと。


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- 2007年11月03日(土)

夕暮れを背に観覧車が回っている。
あそこに私の子供が乗っている。


そんな夢を見た、ちょっとアルコールが入った地下鉄車中。
子供を産む気も亭主も彼氏もないくせに、いったいどういうわけだろう。
しかし夢の中で、私はその古ぼけた観覧車の中に私の子供がいると
そのように思ったのだし、それはなんともいえない感情だった。

母親が幼いわが子に向ける感情を疑似的に経験したのか。
あのやるせないような、愛しさがみつのようにあふれるような、
右の掌から湧き出し溢れて指を伝い、こぼれ落ちるような。
あれは生まれることもなく、存在することもない私の子への思いなのか。

咲かぬ花を愛するように、来ない朝を愛するように、
だとしたらわたしはいささか、哀れな生き物ではないか。


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- 2007年11月01日(木)

明日の太陽が昇る前に、あなたの夢を。

 清潔な明るい岩屋は天井の丸い開口部から差し込む真昼の光にやわらかく照らされていた。緋色の格子縞の雌ライオンはゆったりとした歩みでわたしを先導し、乾いた、心地いい砂の上に座らせた。わたしは遠い地球の静かな水をふいに恋しく思ったが、ここには一滴の水もないのは明らかだった。火星の表面から水という水が失われてからもう何十もの世紀が過ぎている。
 さあどうぞ、しばらくお休みください、と雌ライオンは言って、岩屋の奥に姿を消した。彼女の愛児を連れに行ったのだろう。わたしは疲れた足を伸ばし、この岩屋に水のいろどりがあればどんなにいいだろうと考えた。揺らぐ水面は太陽の光を反射するだろうし、そのやわらかな反射は天井の赤い砂岩を静かな輝きで飾るだろう。なによりひんやりとした気配をこの手にすくって口に含めば、どれほど心地いいだろう。

 ふと気づくと、わたしは地球の岸辺に立っていた。なるほど私は憧れによって遠い星々を行き来するものなのだ。雌ライオンにはすまないことをしたと思った。


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