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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年10月31日(水)

明日の太陽が昇る前に、あなたの夢を。

 清潔な明るい岩屋は天井の開口部から差し込む真昼の光にやわらかく照らされていた。緋色の格子縞の雌ライオンは


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- 2007年10月29日(月)

わたしはもう眠っている。

 太陽は高く、陽炎はゆらゆらと平原から立ち上っていた。その向こうからあざやかな緋色の格子縞の雌ライオンがわたしの方に歩み寄ってきた。身の危険を覚えなかったわけではない。しかし彼女の歩みはゆったりと落ち着いて、きめの細かな赤茶けた砂塵にはひとつひとつの足跡が刻印のように深々と捺されていたから、わたしはあわてるのをやめた。
 彼女は果たして礼儀正しく長い尾をひとつ振ると、穏やかなまなざしで私を見上げ、旅の方がわれらの貧しい王国において不自由なされませんよう、と謙遜をこめた挨拶をした。そこで私も頭を下げて、この美しく果てしない空虚の砂漠の女主への挨拶が遅れたことをわびた。
 わたしと彼女は互いの礼儀正しさに良い気持ちになり、彼女はさらに丁重に言った。子供たちが遠来の客人の祝福を受ければ、生涯にわたって栄えるといわれております。偶然にもわたしには一子があって、まだ模様もない幼い子供です。よろしければ、あなたさまを我が家の客としてお迎えする光栄を与えていただけませんか。


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- 2007年10月25日(木)

どんな朝もどんな夜も悪を消さない。

 エンデュアランス・クレーターを眺め渡すと、むき出しになった荒々しい岩の露頭の隙間に、なにか小さな生き物が走ってゆくのが見えた。長い後脚とピンととがった大きな耳、三角形の鼻先からして、トビネズミの一種だろうと思えた。わたしはかれのあとを追ってクレーターの内部を降りることにした。厳しい斜面を避けて少し回り込むと、ゆるい傾斜の砂地が底まで続いているところに出た。わたしはゆっくりと降り始め、ややあってふと顔をあげると、岩間からさっきの生き物がこちらをうかがっているのが見えた。
 わたしのあいさつに、明るい緑色と白の市松模様をしたトビネズミはちょっと小首をかしげ、考え込むようだったが、やがて挨拶を返してきた。
 かれはわたしを見るなり逃げようとした不作法をわびて、このあたりをうろついて彼らをつけ狙っている青い縦縞のピューマではないかと思ったからだと、大きな目をせわしなく瞬きしいしい言い訳した。
 わたしは少しも気にしていないという証拠に頭をひとつ下げて、腰を下ろして少し話をしませんかと提案し、トビネズミは快く応じた。わたしはポケットから昼食の残りのチーズを差し出し、かれと分け合った。
 チーズを気に入ったかれは、げっ歯類特有のあのせわしない、かん高い声でいろいろなことを話してくれた。自分のこと、両親や数多い兄弟のこと、叔母や叔父、さらに数多いいとこたちのこと。そのうちのいくらかは「あの忌々しい青い縦縞の」ピューマに食べられたのだった。かれは話しながらオイオイと泣き始めた。


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- 2007年10月24日(水)

 眠るときはいつも、明日目覚めなければいいと思う。

 火星の旅はもう長いあいだ続いていた。わたしはメリディアニ平原のキリンたちに別れを告げ、コロンビア・ヒルズの向こう、アリアン峡谷に向かった。ここの地形は険しく、足元には風化したもろい、尖った岩の歯がのこぎりのように突き立っている。私の靴はすぐにボロボロになった。
 この谷にはキリンたちはいない。かれらが住むには餌がないのだ。メリディアニに黒い霧を運び、かれらの粗末な饗宴に供する熱風はこの谷には吹かない。ここには冷涼たる寒気が真昼であってもそこここの岩間に潜んでいて、ああした人の世界の副産物をよせつけないのだ。
 そういえば、わたしは奇妙に思ってキリンたちに尋ねたがことがある。なぜあんな粘っこい、タールのような霧を食べるのかと。かれらは例のあの眼差しでもって応えた。
 ここにいるのはわたしたちだけ、そしてあの霧は、わたしたちが食べなければどこまでも、どこまでも吹かれていくよりほかないのです。あれはあなたがたの星から漂ってきたもっとも恐ろしい夢、もっとも悲しくやりきれぬ叫びのこごったもの。宇宙の果てまでも漂わせるには忍びない。
 私はそのとき、初めて、われらはこんなにも遠く、こんなにも遥か、われらのうちのほとんどのものはその存在さえ知らないだろう生き物たちから、こんなにも深く、こんなにも無償の憐れみをかけられていたのだと知った。そしてそれはわたしをほとんど呆然とさせるほどに強く胸を打った。


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- 2007年10月23日(火)

 古い祈りの言葉のように、あなたは。

 わたしは火星の青い夕暮れのなかで、寒さに上着の前をかきあわせた。もうすぐ冬になろうとするコロンビア・ヒルズの斜面からは遠く、巨人たちの長い足のような竜巻が幾つもメリディアニ平原をよぎっていくのが見えた。
 キリンたちはどこにいるのだろう、とわたしは考えた。かれらは私のように物好きではないし、砂嵐や竜巻に対しては大いなる恐れを抱いているからきっとどこか赤い丘の斜面の影に隠れているのだろう。
 わたしは丘を下り始めた。足元でもろい石が砕けて塵にかえっていく音がした。ごつごつとした足場に苦心惨憺、ようやく平らな砂地に下りたときには薄く汗をかいていた。空はそろそろ暗くなりつつある。すっかり暮れてしまえば身も氷る夜の始まりだ。わたしの足は自然に急いだ。
 どれほど歩いただろう。振り返ると、どこからあらわれたのか、白黒まだらの美しいキリンが一頭、丘の前に立ってわたしの方を見ていた。その眼差しは底知れず深く冷たく、人間などよりもっとずっと高いところから天地を見ている生き物ならではと思わせた。目があったのはほんの一瞬だった。キリンはゆっくりと歩き出し、私もまた家路を急がねばならなかった。


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- 2007年10月22日(月)

Calling...

わたしはベッドで眠っている。


たとえばひとりの子供が閉じこめられたアパートで飢えて死ぬときに
たとえばひとりの少年が壁の前に立たされて銃で撃ち殺される瞬間に、
たとえばひとりの男が秘密警察の無惨な拷問にあっているときに


わたしはベッドで眠っている。


たとえば最後の一人の金星人がさみしく身を震わせているときに
たとえば一頭きりで道に迷った火星の白黒まだらのキリンがさまよう夜に
たとえば伴侶を失った水星の砂鯨が夜通し鳴くその夜に


わたしはベッドで眠っている。


あらゆる幻想がこの時間にあり
あらゆる苦痛がこの時間にあり
しかもなおわたしには共有されない。

わたしは祈る。

この夜があらゆる人々にとって平安でありますように。
どうかあらゆる人々と獣にとって静かで安らかなものでありますように。
そしてどうか、どうかこの祈りがわれらをつないでくれるようにと。


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- 2007年10月21日(日)

 達吉が忙しく立ち働いているのを、祐介は横たわったまま見ていた。西園寺が身請けの話を持ち出したときも、拒みはしなかった。だが祐介は間もなく寝付き、冬が来ても容態は好転する様子を見せなかった。西園寺の屋敷の離れに移るにあたって、大切にしていた三味線の撥はどこかへいってしまったが、それを気にする様子も見せなかった。
「…達吉」
「へえ、お加減はいかがです」
「悪かァないよ。あァ、もうすぐ旦那がおいでだ、おめェ、ちょっくら表を見て来てくれねェか」
「へェ」
 はしこい少年がさっと部屋を出て行くのを見送って、祐介はほっと息をつき、目を閉じた。もう長くないのはわかっていた。新年まではもつまいと考えて、ふとひとつの面影が脳裏をよぎった。
「…梓坊、すまねェなァ」
 寂しい面差しの少女の最後に振り返った眼差しを覚えている。ああもう死ぬ気だというのは理屈などなしにわかったが、止めることもできなかった。だからこうなったのは罰だろうと祐介は静かに考える。そのうちに足音が近づいてきた。

 祐介は新しい年を待たずに逝った。その後、西園寺は独り身を貫き、甥のひとりを養子にもらって跡継ぎに据えた。


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- 2007年10月19日(金)

Calling....

あなたはどこにいるのか。
この夜更け、あなたはどこにいるのか。
この魂は孤独に泣き叫びながら暗い街路を行くのに
あなたはどうして暖かな寝床に休らっていられるのか。
この叫びはあなたの慈悲を呼び覚まさず
この涙はあなたの憐れみを呼び醒まさないのか。
あなたはどうして惰眠をむさぼれるのか。
あなたよりほかに安らぎを持たぬ魂を
まさにあなたのゆえに悲しみを抱くものを
どうして顧みずにいられるのか。

この声を聞け、この呼び声を聞け。
いずこにあろうとも、この叫びはあなたの眠りを破り
あなたの怠惰な憐れみと正義を呼び覚ます。

あなたはどこにいるのか。
この魂が孤独と悲しみに泣き叫ぶ声を聞かないのか。
あなたの名を専一に求める声を聞かないのか。
わたしあなたを呼ぶ。
わたしはあなたを呼び、あなたを求める。


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- 2007年10月15日(月)

 途中からはもう、狂気に駆られていた。細いこよりが炎に灼かれながらのたくるように、妬心と熱情と憐れみは西園寺を焦がし、ほとんど息の根の絶えるほどにのたうたせた。触れるつど官能の吐息がこぼされ、貫いた瞬間に甘く熱く引き絞られ、どんなにひどくしてさえかえって悦びに震えるかに見えたからだに、そうしたことを仕込んだ手を嫌というほどに思わせられた。傷つけたいのか労りたいのか。惚れているのか憎んでいるのか。それらすべてが打ち消しあいながらどれひとつ消えず弱まらずほとんど際限もなくふくれあがってぶつかりあい、にも関わらずかき抱くこの手は一対しかない。遊び慣れした旦那でいられるわけもなかった。
 夜明けに至って、ほとんど呆然とし、泥のような疲労のなかで、西園寺は寝乱れた布団の上に座り込んでいた。祐介は精も根も尽き果てたように髪もほどけてうつぶせに横たわり、薄暗がりの中に痩せた裸体を晒している。その背に布団をかけてやろうと、足元にわだかまっていた掛け布団を掴んでのろのろと持ち上げ、は、と西園寺は息を止めた。薄い背には幾つも傷がある。そのうちのいくつかはまだ新しいとみえた。さらに目をこらせば、水のようなうす青い夜明けの光のなかで、祐介の手に足に残る痣が見えた。
「……」
 胸を突いた感情は西園寺の息を詰まらせ喉にせりあがり、絶えかねてうつむけば細い背に温い涙滴が散った。夜を徹してかれを苦しめたものはそのどれひとつとして解かれもはなたれもせず、だがこれからせねばならぬことがこのときわかった。西園寺はおさえようもなく低い嗚咽を漏らしながら祐介の項に顔をおしつけた。
「…だん、な?」
 かすかな身じろぎとともに祐介が身を起こす気配があった。それでも顔を上げることはできなかった。布団の上についた手に手が重ねられた。
「アタシはもう、死んでも、いいくれェでさ…」
 西園寺は声を上げて泣いた。


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- 2007年10月12日(金)

引っ越しというのは面倒なものだ。
ましてや家具類まで揃えるとなればなおさら。
そして私の趣味はちょっと特殊なんだ、量販店で売ってない…。
つーか足で探さないといかんのだ…。

しかしようやくおおむねあれこれ整いつつある。
明日はカーテンが届くし、週末には本棚が。
ダイニングテーブルは来月。
新しいパソコンも近く届くだろう。

…私自身は30年ものの古物だが、それはしょうがない。
さあ、どこへでも行こう。何にでもなろう。
足場があるなら、もっと遠くが見えるはずだ。


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- 2007年10月10日(水)

 うすものだけで布団の中に横たわって、目を閉じる。来るだろうか、来ないだろうかとは問わなかった。ただ来てほしいと願っただけだ。たとえば暗闇に光をこいねがうように。たとえば一滴の水を求めるように。来てそこに西園寺が見るだろうもの、その願いとは異なるものがかれを傷つけたとしても、祐介は求めないわけにはいかなかった。それほど激しく渇いていた。
 襖がかすかに鳴った。思い悩むような沈黙があって、やがて足音が近づいてくる。祐介は目を開いた。西園寺は膝をつき、祐介の上にかがみこんでいる。思わぬほどせいて両手を伸ばし、すがりついた。抱き留められる。
「…祐介」
「すいやせん、こんなのァ、本意じゃァござァせんでしょうに」
「言うんじゃァねえ」
「すまねェです」
「もう言うな」
「惚れてンです、旦那。惚れてンです、もう、どうしようもねェんで…」
 くちを塞ぐように口づけされる。甘いとも熱いとも感じる余裕さえなかった。渇いた両手に冷たい水を汲むような、もどかしい悦びが背筋を走り抜けていった。






えー、これから引っ越しです


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- 2007年10月06日(土)

 夜が更けてゆく。言葉をつなぎ、触れ、笑いかわして夜がふけてゆく。行灯の明かりは次第に細り、それでもぐずぐずしていた西園寺に、とうとう祐介が言った。
「そろそろ奥にお入りにならねェと、店のものが妙に思いやしょう」
その膝に頭をのせたまま、西園寺はふい、とよそを向いた。
「旦那…?」
 西園寺は頬に触れてきた手に手を重ね、引き寄せてその指先にそっと歯を立てる。それで抱いた不安は伝わったとみえ、言葉はもう継がれなかった。
 あの一年前の夜の物慣れぬ躯は、いまはもうどこにもない。激しい愛撫に絶えかねるようにただ熱いとささやき続けたあの躯は。いま抱けば、いま祐介を抱くことは、この一年のあいだにかれの被った変化、かれの躯に仕込まれた幾人とも知れぬ相手の痕跡にまともに向き合うことにほかならなかった。そのとき己は嫉妬に狂うのではないか、そうして仮にも、もう十二分に虐げられ、傷つき苦しんできたひとをこのうえさらに苦しめるのではないか。西園寺の不安とはそのようなものであった。不安は深く、西園寺はわずかに震えていた。それは祐介にも感じられただろう。そっと、耳元に温かい息が寄せられた。
「旦那ァ…どうか」
 かすかな声だった。重ねた手がきゅ、と握りしめてくる。震えていたのは己ひとりでなかったと西園寺は唐突に気づいた。
「アタシにお情け、かけてくだせェ…」
 心臓を締め上げられたような気がした。はっと見上げた視線の先で、寂し微笑がわずかに瞬き、失礼しやす、と声が落ちてすっと身が引かれた。あわてて半身を起こしたその先で、祐介はツと行灯の明かりを吹き消した。
「…祐介」
「灯りはつけねェでくだせェ」
 ふいを打つように落ちた暗がりの向こうから声があった。それに続いて襖が開き、また閉じるシュというおと。西園寺はドッドッと心臓が早鐘を打つのを鮮明に耳元に聞いていた。


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- 2007年10月05日(金)

「パンズ・ラビリンス」

無力さというものを思い出した。
夢の中にさえ絶望的なまでに逃げ場のない、
追いつめられた無力な子供だったときのことを。
そしていまも過去にもそうして追いつめられ、
殺され死んでいく多くの無力な子供がいることを。
あのとき私を救ったのはまぎれもなく物語の世界だったし
かれらを救いうるのもまた物語の世界だけだろう。

この世があまりに理不尽で悪に満ちているなら、
幻想のうちに秩序や善や救いを求めねばならないのは自明のことだ。
でなけば狂うか、死ぬよりほかにないが、
狂うことも死ぬこともできない無力さのなかに
私もかれらも置かれており、あるいは置かれてあった。
スクリーンに描かれたすべての物語は
そうした子供が抱く幻想のにおいに満ちていた。

わたしの戸棚にもそれらのおおよそすべてはあって
エンドロールの間ずっと、それらを見つめていた。
そしてそれらがどういう意味を持っていたのかをあらためて知った。
いまは古ぼけて陳腐なそれらは、確かに私を生き延びさせたのだ。
かつてはそれらが明日の方へ命をつなぐ唯一の手段だったのだ。

無力で孤独な子供の影はいまも私の足元に落ちていて、
この地上の多くの地に落ちていて、そして絶えず消されて行く。
映画を見て、とても久しぶりに泣いた。


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- 2007年10月04日(木)

 夜が更けてゆく。言葉をつなぎ、触れ、笑いかわして夜がふけてゆく。行灯の明かりは次第に細り、それでもぐずぐずしていた西園寺に、とうとう祐介が言った。
「そろそろ奥にお入りにならねェと、店のものが妙に思いやしょう」


(かきかけ)



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- 2007年10月03日(水)

 三味線が鳴っている。いまにも落ちそうな涙を思わせる激情をはらんで。その音色をはじき出すおのが心に祐介はある種の驚きを感じてさえいた。聞き慣れた声が聞き慣れぬふうに荒げられるのを聞きつけ、痛むからだを引きずって出た廊下で西園寺に抱きしめられた瞬間の、あれはなんというのだろう。むしろ悲しみに近いほどの喜び。言い表しえぬ苦しささえ感じる喜び。殴られるより嘲られるよりひどく骨身に染みた。
「手がお留守だぜ、祐介」
 はたと祐介は我にかえり、顔を上げた。脇息を枕に、手を伸ばせば触れられるところにごろりと横になった西園寺がこちらを見上げている。
「旦那があんまり見るからで」
「見ちゃ悪いかよ」
「へェ、悪かァございやせんが」
「じゃァほっときやがれ」
 軽口を叩きながら、それでも思い出したように手を伸ばしてくる仕草は、祐介の胸を痛ませた。その手がそっと手指にあるいは膝に触れて、ほんとうにいるのか、おまえそこにいるのかと言葉よりも直裁に問うていく、そのつどにさらに鋭く。
 ビョン、と最後の音を鳴らして、祐介は三味線を傍らに置いた。
「なんだ、もう終わりか」
「旦那、聞いてやしねェじゃありゃせんか」
「聞いてねェよ。俺ァおめェの顔見ンのに忙しかったんだ。この目ン玉ァな…」
 西園寺のからだがごろりと寝返りを打って、膝の上に頭がのせられた。こちらを見上げた顔は、以前より幾分か精悍さを増している。
「もう一年もおめェを見てなかったんだ。この目ン玉ァなぁ、草木がおてんとさまを見たがるみてェにおめェを見たかったんだ、わかったか」
 つきりと心臓が痛んだようだった。祐介はそっと、震える指で、浅黒く日焼けした頬や、こちらを見据えて揺るぎもしない目元に触れた。泣けるものなら泣いていた。祐介は力なく笑う。
「旦那ァ、アタシが心臓もちませんぜ…」
 泣くにはあまりにも、この痛みは深すぎる。この傷は深すぎる。再び失えば死ぬだろう。一年前、すっかり失ったと思ったときから、つい先夜まで、まぎれもなく死のほうへと歩んでいたように。
「もってくンなきゃ困る」
 頬に触れる手がある。そっと撫でてくる手がある。行灯はゆらゆらと揺れて、次第に深まる宵は窓の外でもう夜となっている。


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- 2007年10月02日(火)

 その日の午後はひどくのろのろと過ぎていった。前夜、柳屋から出た足で駆け付けてみれば、祐介にはもう客がついたところだという。是非にと頼み込んだが通るわけもないのは知っていた。窓辺でしばらく、聞き覚えのある三味線の音色を聞きながら立ってはいたが、さあその音色が途絶えてみれば、いま二階でなにが行われているのかを思って平静でいられず、逃げるようにして屋敷に帰ったのだ。
 あれはほんとうに祐介だったのだ、と、西園寺はもう何度目か、障子の桟を見つめながら声に出さずに呟いた。顔を見た瞬間から疑いもしなかったが、だがほんとうにそうだったとわかったうえではまた異なるものだ。
「言ってやりてェことは、やまほどあるが…」
 きちんと沿った月代をぼり、と掻いて、西園寺は嘆息する。あれはほんとうに本当のことだったのだろうか。あの夜は、たとえば世話になった旦那を喜ばせようとした三味線弾きの心遣いに過ぎなかったのではなかったか。だからこそ、借金のかたに茶屋に売られるはめになっても助けひとつ求めもしなかったのではないのか。そして己もまたそうと思っていたからこそ江戸市中を探し回りもせず、ただ日常を積み重ねていたのではなかったか。再会のときにどちらも何も告げなかったのはそうしたことのせいではないのか。花街に誠などあるわけもないと誰もが言うではないか。
 ひとを疑い己を疑い、そして障子の桟に落ちる影はゆっくりと、ほとんど永遠にも思えるほどゆっくりと移って行く。

 だが影は深まり、ぼんぼりに火は入って、夜は来た。西園寺は茶屋の暖簾をくぐり、主の丁重な挨拶に迎えられた。
「どうぞ、お楽しみあそばして」
 一分二朱、渡した金子は紫の袱紗に包まれて消え、西園寺は案内の少年のあとについて階段を上っていった。ふと格子越しに外を見れば、月は山の端にかかっている。
「あのゥ、旦那さま」
 先を行く少年に呼びかけられて、西園寺は足を止めた。十二三ほどだろう、好きな客ならたまらないような色の白い肌をした少年だった。
「不躾なお願いで…」
「うン?」
「祐介の兄さん、今夜は諦めてくれねェですか」
 西園寺はまじまじと少年を見た。拳をきっと握って、品のいいような目元を張っている。それなりの覚悟でそうしたことを言い出したに違いなかった。ふ、と、西園寺のなかに苛立ちが兆した。
「祐介がそう言ったのか」
「す、すりゃ…」
 ふいに気色の変わった様子に戸惑うように少年が後ずさった。
「祐介が俺に会いたくねェと言ったのか」
 この少年を怒鳴りつけても仕方がないとわかってはいたが、不意の怒りは抑制がきかなかった。西園寺は少年の肩をつかみ、
「旦那、子供のこってです、どうぞ勘弁なすって」
 聞き覚えのある声が響いた。泣きべそをかき始めた子供を押しのけ、ほとんど気づきもせずに廊下を走っていた。
「…祐介」
 抱きしめたからだはひどく細く、頼りなく、いまにも。西園寺は自分がほんとうに会いたかったのだと、飢えるように会いたかったのだと知った。言葉のあやに取り交わす遊びのような恋心などどこにもなかった。


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- 2007年10月01日(月)

 ひどい痛みで目を覚ました。のろのろと起きあがれば、いつの間に戻されたのかあてがわれた大部屋の隅の布団の上だ。見れば、浴衣を着せられ、胴回りにさらしが巻かれている。真鍮の煙管で何度も打たれた背の傷の手当てされたとみえた。見れば足蹴にされた腹や腕は無事なところが少ないほどの青あざだらけ、無傷なのは三味線弾きの手指だけとみえた。
「起きなすったか、兄さん」
「…達吉かい」
「喉が渇きなすったでしょう、白湯を持ってきんした」
 ツっと開いた障子の向こうから、水揚げ前の少年が盆を下げて姿を見せた。京生まれのせいかなんとはなしに漂うあか抜けた雰囲気と涼しげな容姿で、将来は店の稼ぎ頭として店主からも下にも置かぬ扱いを受けているが、祐介には三味線を教わっているせいか、なにくれとなく世話を焼いた。祐介は湯飲みを受け取り、乾いてねばつく喉に人肌ほどの白湯を流し込んで、は、と一息ついた。
「すまねェなァ、おめさんの三味線、今日はみてやれそうもねェ」
「なんの、こんな目におあいなされてそんなこと」
「あァ…」
 播磨屋の隠居の好々爺然とした顔が、とりつかれたように歪み、目ばかりぎらつかせていたのがふと脳裏によぎり、祐介はぶるりと身を震わせた。『こんなとこにあざァこしらえて、夕べの男かァ』『また間男したんだな?』痛みでわけもわからないようになった耳元で執拗に言いつのる様子は正気とも思われなかった。そのうえ、普段はどうあっても役に立たなかった老いた男根を隆々を立てて何度となく挑みかかられ、深夜にもならぬうちに記憶は怪しくなったのだ。祐介は瞬きして嫌なものを追い払い、達吉に尋ねた。
「ときにいま、何時だい?」
「へえ、もうすぐ八つで」
「もうそんなになるかィ、まァ、今夜は俺はお座敷はつとまらねェから…」
「あ」
 達吉が思わずといったように声を漏らし、きゅっと唇を噛んでうつむいた。
「どうしたィ?」
「大将が…」
「うン?」
「昨日の晩、お侍が兄さんご指名になったから…座敷に出んしゃれて」
「お侍…」
 祐介は眉を寄せた。それがだれかはわかっていた。この一年、ただ一人会いたいと願い、会える身ではないと思い、探してくれているだろうかと願い、とっくに忘れて妻女を持っているだろうと思い、そして一昨日、思わぬ再会をした。あるいは夢でなかったかと危ぶみさえしたが。
「兄さん?」
「あァ…ご指名ってンなら、顔だけでも出さなきゃならねェな。風呂を使うのに、ちょっと肩ァ貸してくんな」
「あい」
 痛みをこらえ、少年の細い肩にすがって立ちながら、ふ、と祐介は笑った。
「兄さん?」
「なァ、達吉。花魁は金子で買える恋を売る。金子次第で熱くもなりゃァ、醒めもする。陰間も遊女も夜鷹も芸妓や幇間だってまァ、金子次第でこがれもするし、心も体も売るもんだ。花街にも真心ってなァあるもんかねェ?」
「ありんすよ、兄さん」
「おめェは賢ェなァ」
 祐介は少し笑って、足を引きずりながら歩き出した。


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