- 2007年08月31日(金) われはこれ東西南北の人 …という漂泊生活にも終止符が打たれそうだ。 東京に住むのか、十年ばかりも住むのか。もっと長く住むのか。 気が滅入るなあ、マリッジブルーっぽく。 とはいえ拠点を得て遊び回るほうがありそうだと思うのだが。 - - 2007年08月28日(火) というわけで伊豆に行って帰ってきた。 3日で7回潜り、なんとか水中の身ごなしも板に付いてきた、かな。 コウイカのちっこいのとアイコンタクトをとる。 洞窟の奥ーのほうで掌ほどのが静止していて、 ついーと近づいていったら、こっちをちろっと見てふいっと逃げた。 かわいすぎて悶絶する。 ワタリガニの移動中を目撃する。 いっちゃん後ろのほうについている一対の脚がプロペラ状になってるのだが こいつをへらへら動かして泳いで長距離を移動する。 よく漁師さんが「ガザミが湧く」という表現を使っていたのだが、 なるほどこの機動力ならわかる。 サカタザメと追いかけっこする。 カマスの群れと泳ぐ。キビナゴの大群がカンパチに捕食されてるの見る。 クエの真上を泳ぐ。コロダイのつがいに挨拶する。 イシモチが目の前をよぎる。 食卓では生気なく蹲っているそれらの生き物たちの、なんと多彩なこと。 その動き、そのたたずまいは生命に溢れ、興味は尽きない。 だがそれらのなににもまして光。青い光の揺れ動くさま。 わたしは中層を泳ぎながら岩場の上を過ぎ、砂州に至り、アーチをくぐる。 わたしは飛行者だ、高くも低くもゆける。 起伏を超えてゆくこともその上層をゆくこともできる。 まさに日ぐれる空は水面のさらに上にあり、渺茫として染まり行く。 やがて静かに世界の四方より広がる闇と夜。 トーチのわずかな灯りが、実体を持つこの闇を照らす。 ああ、かなたの赤い蝕の月。 - - 2007年08月24日(金) 音楽が鳴っている。 どこか遠くで、空の果てで。昨日の夢の中から。 音楽が鳴っている。 バイオリンの弦のようなのや、フラウトの音色やら。 後悔やら寂しさやら喜びを、静かに細くつむいでいる。 音楽が鳴っている。 朝焼けを奏でている、夕立を鳴らしている、人々の行き交うおと。 うみが薔薇色に染まり、赤々と岩根が燃えている。 誰かが生まれ、誰かが死んで行く。 あたらしいうたを 歌おう。 - - 2007年08月23日(木) 雨音で目を覚ますのはじつに久しぶりのことだった。衣擦れに似た涼しいおとが、なによりもまず意識の小箱のうちに忍び入ってくる。 「おう、今日は仕事はなしだ」 大工の親方が来て、階下の少年に話しかけている。 「今日は大雨だってェからよ、休みだ。休み」 わたしはまだ眠っている。体は動かない。少年がなにごとか答えている。雨音は止まず聞こえている。やがて静かになって、私は雨音をたっぷりと含んで目を覚ました。ああ、わたしいま、芽を出したばかりの双葉のようだ。 - - 2007年08月21日(火) ユカタン半島にケツァルコアトルが押し迫っている。この場合の蛇神は、ハリケーンだ。渦巻き狂い叫ぶ暴風、先触れもなく雷雲は押し寄せ、命を恵みもするがすべてを破壊し尽くしもする狂気でもって全土を覆う。 チチェン・イツァ、トゥーラ、そしてあの湖上の都市。いまは忘れられたあまたの都の上に、どのようにして無数の嵐は乱舞したのだろう。それは神々の怒りとされただろうか。その怒りを鎮めんがためどのように生け贄が捧げられ、どのように血が流されたのだろうか。 - - 2007年08月19日(日) 白衣の男は祭壇に立っている。頭上には羽毛の蛇なる雷雲がとぐろを巻きうねりくねりひしめき合って、かれの合図を待っていた。天地はかれの掌にあった。いかな王、いかな権力がかれを従えられよう。天と地の諸事に通じたかれ、たぐいまれなる巫術者として諸神を祀るかれ、そうとも大河さえその手の一振りに流れを変えよう。閃光は雲間からひらめいて、かれは猛々しく笑った。 - - 2007年08月18日(土) ニーチェが「神は死んだ」と言ったのは十九世紀だ。 西洋において神が死ぬまで、それだけかかった。 一方、「天問」は戦国時代の楚の王族で大夫、屈原の作とされている。 だいたい紀元前4世紀ごろの人だから、実に2300年ほど先立っている。 むろん、ニーチェの神はキリスト教の神であり絶対神であって、 「巫」の、シャーマニズムの徒である屈の神とは異なる。 とはいえなかなか面白い話じゃないか。その表現のありかたを含めて。 ニーチェは悪魔に語らせている。 「人間への同情のために神は死んだ」(『ツァラトゥストラ』) 神の死という概念に西洋人たちは驚倒しただろうと思う。 実際のところ、ニーチェはそれ以降も神をめぐる思考を続けており、 かれにおいてまたその思想において「神の死以後」はないといえる。 だから実際にかれが神が死んだと考えていたかというとそうではない。 かれは「神の死」という概念を提出したのである。 そしてかれの寓話集たる『ツァラトゥストラ』で神の敵対者に語らせた。 そこには悲痛さは感じられない。 屈原においてはどうか。 かれの「天問」は、楚王墓の回廊に刻まれた神話画をめぐりつつ、 あるいはそれに取材して天地の始まり以来の神々と聖者について 否定を背後とした無数の疑問文として並べている。 それをもって目録文学と題した人もいるが、それどころではない。 神をまつる古代人が、まさにその任にある楚巫の長が、 日と月を廻らせ天地を巡らせる諸力を一つひとつ否定するのだ。 我が血肉を一片ずつ削り落として葬り去るような暗さが滲む。 呪詛としての言挙げではなかろうかとさえ思われる。 白川静に言われるまでそれと気づかなかった。 「楚辞」の「招魂」は、死んだ王の魂を呼び返そうとするものだが、 その呼び返し方たるや、山海の珍味をあげ美女をあげ…。 世俗の喜びをもって魂を招くというのはどうなんだろ、と首を傾げていた。 その一方、「離騒」においては神々の世界が表象豊かに、 また後の老荘思想につながるある種独特の倫理とともに描かれている。 ここには巨大な断絶がある、と白川静は指摘する。 そして答える。それは神々の死だと。その目録こそが「天問」だと。 屈原は神を祀る巫として神の死に立ち会い、 神々の失せたその後の世界をも生きてそして死んだ。 ほどなくして楚国が滅び、戦国の世が終わり、秦が巨大帝国を築いた。 なんということだ、なんという面白い。この男。 時代の変わり目を生き、変わり目を死んだ。 単に愛国者としてしか理解していなかったこの男に引っかかったぞ。 魔法ってもうないの、と弟が私に聞いたことがある。 私は消しゴムを見せて、言った。 「これ、投げたらどうなる?」弟は答えた「落ちてくる」 そうだ、それはその通り。だが古代人にとってはそうではなかった。 朝と夜がめぐるためには、投げたものが落ちてくるためには、 ふさわしいときに雨降り、陽が照り、大河が溢れないためには、 秩序がまもられるためには無数の神々を祀らねばならず、 それらの神々に根源的な力を捧げ続けなければならなかった。 今はその信仰は失われた。魔法と神々はとっくに死んだのだ。 だがその死に立ち会う! これはまったく、恐るべきことではないか。 その悲痛に立ち会った男はどのように言うか。 かれに先立つ孔子の言をあげたい。 「太山壞れんか。梁柱摧けんか。哲人萎へんか」 この絶唱もまた楚辞の形式によっている。 - - 2007年08月17日(金) 「天問」におけるあの無数の疑問文がひとつの宣言なら、 「神は死んだというひとつの悲痛な宣言であるなら、なるほど。 それは実に面白いことだ。 - - 2007年08月15日(水) 残暑お見舞い申し上げます。 上記写真は近所の土塀。西日のあまりの暑さに せめて芸術にしてやると息巻いたのだが、こんなもんだった。 外うろつけないよ。靖国に行こうと思ってたのに…。 - - 2007年08月14日(火) 数少ない好きなマンガ家のひとりに、藤田和日郎がいる。 「うしおととら」の連載開始からだから、けっこう長い。 しかし連載ついていきもしないので、ふと足を向けたマンガ喫茶で 本日、「からくりサーカス」ようやく読了。 しろがね、幸せになってよかったなあ…。 さて、そんでオチについてちょっと悩む。 あのラストはあれでいいし、まあいいし、別にいいんだが。 なぜフェイスレスと対決するのはナルミでなかったのかと思わんでもない。 圧倒的に因縁があるのはもちろんマサルだが、 サハラの激闘で山ほどの恨みつらみ背負って 明るかった性格を根本から変えたナルミにも資格はあるはずだ。 まあ、ナルミとフェイスレスが最後の戦いをやっても 確かにどちらも救われなかっただろう。 結局これは「折られた愛」にどう対処するかという物語だ。 しろがねの愛を得たナルミとフェイスレスでは、 そりゃもう、銀金兄弟の争いの再現にしかならなかっただろう。 だから同じ「折られた」二人の違いをぶっつけあい、 フェイスレスが自分の非を知るというオチでいいのだと思い直す。 とはいえ、ナルミに関してはどーしてもどーしても消化不良だ。 なにがどーあったって、しろがねに冷たくしちゃいかんだろ!お前! マサルとナルミが再会しなかったのは、単にあれだ。 マサルはしろがねに冷たいナルミを絶対に認めないだろうから、 もし会ってたらマサル激怒してギイの二の舞だ。えらいことだ。 藤田サン、得意の熱血漢だけに変容をきっちり書き切れていないよな。 なにはとおもあれ物語に対してちょっと思い入れを戻した。 - - 2007年08月12日(日) 白川静とアステカの本を併読していたら、ふと思い当たった。 アステカ(あるいはインカ、マヤ)における神の一柱に、 「翼ある蛇」というほどの名が残っている。 アステカでは「ケツァルコアトル」、マヤでは「ククルカン」。 権能としては風と雨を司り、一方で神話的な王の名でもある。 トルテカにおける大権力者で、豹を原型とする「煙った鏡」 すなわち「テスカトリポカ」との戦いに敗れ東の果てに去ったといわれる。 実は中国にも「翼のある蛇」にあたる怪物がいる。 怪物といったのは神とはされていないからだが、むろん神性を帯びている。 名を「騰蛇(とうだ)」という。 現実には羽毛を帯びた蛇はいない。おそらく過去にもいなかったはずだ。 西洋においてはかれらの龍たるドラゴンがコウモリの翼を得たが、 およそ羽毛などというものは併せられなかった。 中国と中南米というこのおよそ触れあうことの想定しがたい二つの文明に 同じひとつの幻想が生まれた理由はなんであろうか。 羽毛を持つ蛇という概念はどこに発するのだろうか。 ひとつには渦巻く雲だ。 あのうねりねじれた様子は蛇の蠢くようだし、 とらえどころのない質感はなるほど羽毛のようだ。 いずれも雨の権能に近いことからこれはあながち的はずれではないだろう。 もうひとつにはこれは純粋に記号論的な問題になる。 すなわち鳥トーテムと蛇トーテムの融合だ。 鳥なら中国では鳳であろうし、中南米ではその名もケツァルだろう。 蛇はいずれも蛇もしくは拡大形としての龍だ。 それらをトーテムとする部族の争いがあってやがて融和するとき 新たに生まれるトーテムもまた双方の権能と姿を兼ね備えることになる。 - - 2007年08月11日(土) 見るほどに山々は羽毛ある蛇のごとき雷雲を空に向かって産み落とし、渦巻く暗雲は逆巻いて天に至ると、たちまち稲光をひらめかせて咆吼した。長い干天はすでに終わり、驟雨の先触れたる冷気を帯びた風が吹き付けた。 祭壇の下の人々は、これら明らかな徴にだれ一人として声もなかった。壇上には巫氏にして祈祷者たる白衣の男が微動だにせず立っていて、ざんばらにした髪を風になびかせていた。まさに目の前でこれほどの霊力を見せつけられては、誰しもこの男が人であるのかあるいはただそのように装った神の一柱であるのかしかとは信じかねた。 男がゆっくりと踵を返し、壇を下るころ、頭上を覆った雲から涼しい雨が降り始めた。男はなおもゆっくりと歩みを進め、王の前に立ち止まった。男の相貌は青ざめて、その目はなおも暗かった。王は怖じはしなかった。 「よく命を果たした。慈雨ぞ、ひび割れた国土も癒されよう」 男は頭をのけぞらして笑い、と見る間に王の前に膝をついた。人々はいっそうしんとして、雨音だけが囂々と鳴り渡った。男は両手をつぼませて王の前にかかげた。そのわずかなくぼみには瞬く間に雨が満ちた。 「取られませい」 男の声は王にだけ届いた。王は見下ろし、男は見上げ。ここに二対の眼差しが出会った。恐るべき出合いであった。 「取られませい、天が下のすべての王冠を差し上げまする」 その言葉に引き寄せられるよう王は手をさしだしかけてわずかに震え、だが次の瞬間には男の掌の雨滴をたしかにつかんだ。 - - 2007年08月09日(木) 遊び回り@覚え書き 最近めっきりペースが落ちているのはあれだ。 ダイビング関連に金をつぎこみすぎて貧乏してるからだ。 今後はローンもあるのにどうしたら(ほとほと) ・「パンダの季節」 中国はこれで世界征服したらいいよ。 というちびパンダ10連発とか、野生の親子とか。 いちいちコメントが面白い。 「パンダ座りと名付けたい」「見てと言っているようにしか見えない」 「人間の視線を感じると可愛いパンダになる」とか。 そういえば、人間の赤ちゃんなんかは、 親をうまく操縦して自分の安全と食を確保するために可愛く進化した。 という説がある。パンダもそうなのか。進化的戦略なのか。 そうかもしれないと思わせるあの愛らしさにメロメロ。 ・「ルドンの黒」 バタイユかなんかの表紙に例のあの目玉気球が使われていて、 以来、ゲテモノ趣味の一環として割に好きだった。 しかしあれだけ無数にリトグラフやら木炭画があるとかなりクる。 なんというのだろう。あの、えー、なんだ。 ビアズリーといい、こんな小暗いものを顕現させた18世紀末ってすげえ。 理性も狂気、感情も狂気だが、これはそうした区分のないところの狂気だ。 神話や伝説やその昔の神権社会に属する問いや恐れや視界だ。 それらの古代的なものが、また科学がまさに発展した時代にふさわしく 頼りない個の不安な眼差しで洞察されている。 そんな朦朧とした群れの中でひとつだけリアルに描かれた女の顔があって、 それだけがひどく明るかった。 それはいわばルドンの中からではなく外界からきたものだった。 まあ脈絡も根拠もなくそう思ったわけだ。 こういう絵を描けるひとならば、後のあの豊かな色彩の世界も理解できる。 しかしながらあれだ。 ある人の言葉の世界の中に入っていくというのは、やっぱり危険なことだ。 - - 2007年08月08日(水) (ある案内状) 最初の角を右に曲がって下さい。百日紅の曲がった枝がブロック塀の向こうから伸びている家のある角です。古いトタンの屋根のその平屋は、もうずっと前から腰の曲がった小さなおばあさんが住んでいるのですが、自分に似ているような気がして、その枝をどうしても切れずにいるのです。またこの百日紅の上にはあかぼっこという名前のおかしな奴が住んでいます。みどりちゃん、あまのじゃくのお話を読んだことがあるでしょう。あんなふうにひねくれもので、だけど悪くはない奴です。おばあさんは耳が遠いので、誰かと話をしたいというだけなのです。話しかけられたら僕の妹だと言って、ちゃんとご挨拶をなさい。そうすればひどいことは言わないでしょう。 さあ、角を曲がったら、二階建ての大きなお屋敷の、椿の生け垣がどこまでも続いているのが見えるでしょう。この大きなお屋敷はちょっと知られた旅館で、いまでも天然の風だけが冷房なのですが、ここらの高台にときどき沸いている清水の水口が敷地内にあって、大きな池になっていて、夏でも十分に涼しいのです。それに渡り廊下にはすだれが張ってあり、風鈴が吊されてあって、炎天下を歩くあなたの耳にも、心地よい音を響かせるでしょう。ちょっと見れば、きりりと髪を上げた粋な仲居たちが忙しげに立ち働いている様子を見ることもできるかもしれません。ただ驚かないように言っておきますが、泊まり客は江戸見物にいらしたあちこちの小さな神社の神様がたです。大きな神社の神様がたは宮内省がご面倒を見るのですが、堅苦しいのが苦手な方々はこの旅館に泊まられるのですよ。ですから、軒につっかえそうに大きかったり、狐や狸のようだったり、お首が長かったりしておられても、不作法なところを見せてはいけません。いいですね、でないとみどりちゃん河童に変えられてしまうかもしれませんよ。 さて、生け垣が切れると、ここからは胸突きの上り坂です。小さな家の建て込んだ路地が左右に伸びていますが、そのうちの大半はいわゆる長屋です。植木鉢やなにやをくねくねとした、人一人通るのがやっとの小道に並べていっそう狭く、その向こうにポンプのついた井戸があります。そうしたものを見たくても、あんまりじろじろ見たり中に入っていったりしてはいけませんよ。長屋の住人はみんな気がよいですから、通りすがりでもお茶に引っ張られて、お兄さんのところに来るのが遅くなってしまいますから。坂を急いで登り切ったら、大きな柳の木があります。ちょうど涼しい木陰もあるでしょうから、一休みするくらいは良いですよ。でも遅くなっていたら、立ち止まってはいけませんよ。ちょっと性根の悪いぶらさがりがいて、人を脅かしては喜んでいるのですからね。こいつのことは町内会でも悩みの種です。三軒となりのお嫁さんがこいつに驚かされて、危うく流産しかかったときには退治してやろうかと息巻いた人もありましたが、長年住んでいるものを追い立てるのもかわいそうだというのでそのままになっています。 さて、そこからはまっすぐ、まっすぐ。あなたが不安にあるといけませんから、途中に見えるものを書いておきましょうね。左手にお稲荷さん、右手に赤い屋根の洋館、それから蔦に埋もれて崩れかけたような家があります。ちょっと廃屋のように見えるかもしれませんが、ここには変わり者の学者の先生が先頃なくなった若い娘さんと一緒に住んでいるのです。この娘さんは美しい人ですが、嫁いで間もなく亡くなって、そうしてみると婚家にいるわけにもゆかずに家に戻ってきたのです。もしぼんやり外を向いているうっすらした白い人影を見かけたら、きちんとご挨拶をするのですよ。 さて、学者先生の家を過ぎたら、お兄さんの家はもう目の前です。よくたどりつきましたね。あなたの好きな水羊羹とお茶を涼しくして待っています。このあたりは自動車や馬車はほとんど通りませんが、洋装品店の座敷童が自転車を走らせていることがあります。気をつけて下さいね。 - - 2007年08月05日(日) ひどく奇妙な心持ちだった。いま、膝の上で身も世もないようにむせび泣いている裸身は、かれが心底から求めてきた想い人であり、深くつながった双身からは癒された飢えのあまりにも直裁な歓喜が脈打っていた。だがその一方で、かれはこの交合のゆえに罰せられ、明日の夜明けを見ないだろう。罰するのは誰あろう、切なげにこの背にすがっている若い王だ。 「お泣きになられるな」 そう声に出してかれは初めて、自分の呼吸が浅く速く乱れ、わずかに声の掠れていることに気づいた。かつていかなる死地にあっても、激戦のさなかにあってもそのようなことはなかったのだ。感動というものを欠いているというのがかれに対する大方の見方であった。かれは自身の明らかな同様にわずかに戸惑い、だが重ねて言った。 「酷うはしておらぬつもりですが、苦痛あらば仰せられよ」 実際、かれは取り返しのつかぬことを恐れるようにぐずぐずと事を進めてきたのだった。男を知らぬ体が当初のこわばりを解き、見知らぬ性感に狎れて不器用に反応を返すようになるまで。開かれたことのない体がわずかも緩んで、押し入っても傷つけることがないと得心がいくまで。 とはいえその途上には幾度も恥辱を長引かせるより傷つけよとさえ涙混じりの懇願があり、惑乱のうちにいっそ殺せと悲痛な叫びの吐かれたのも事実ではあった。それらを容れなかったために、刑死はなお酷いものになるだろうとかれは考えた。そしてまた、いま口にしたこれらの数言のゆえに更にも酷く。 ことの次第はかくのごとし。約を違えぬことで知られる東国の若い王は、国家の危急を救った将軍に報いようと、まず所領を、次に官位を、さらには金子をもって挙げた。しかしいずれも受けられず、王は言った。 「功あれば賞、罪あらば罰。信は国家の基本なれば、是非に望みを申し述べよ。申さずば罰せねばならぬ」 そして将軍は。 将軍はいささかも後悔していなかった。ただ一夜の房事と引き替えに命を喪い、一族誅殺されるという取引をかれはつとに是としている。そしてまた己が言質に縛された王を哀れみもしなかった。王の苦悩はかれを刑した後も終わりなく続き、絶えず意識に呼び起こされるだろうと分かっていはしたが。後宮の美女を侍らせる悦びさえ失うであろうと思い及びもしたが。 そのようになるがよい、というのがそれらに対するかれの答えだ。そもそもこの恋心を抱いたときからいつかこうなる、あるいはもっと悪いことになるということはわかっていた。この契機はただの契機であるに過ぎない。 例えばかれが死刑でなく放逐の身となったなら、遠く辺境の蛮族のもとに走って王国を滅ぼすために画策するだろうと自身でよくわかっていた。それもただ王を我がものとするために。ために無辜の血の幾千万でもって河を染め、陽を翳らせようとも、それは何ほどのことでもなかった。 「…、う…」 耳のはたで苦しげな声がして、かれは暗い想いからふと醒めた。見れば涙にしとどに濡れた王のかんばせはすぐ傍らにある。 「いかがなされた」 ややためらい、かれは手を伸ばして汗に湿った王の髪を撫でた。すでに夜の半ばが尽き、幾度となく情を遂げその体を愛撫していた。だが飢渇の想いは止まず、かれはまだ王を手放し得なかった。とはいえ、終わりを宣されれば終わらねばならぬ。すでに王は自らの言を果たした。だから、かれが言葉を促したのは、そういうことであった。かれは王の頬に手のひらを添え、額をあわせて間近からその双眸をのぞきこんだ。遠くない死のときまで再び見ることは許されまい。かといって最期まで思い人の眼差しを持って行きたいわけではなかった。王の目に、その底の底に、自らを焼き付けたかったのだった。それが汚辱に満ちた苦い記憶として回想されようとも。 「いかがなされます」 かれは重ねて尋ねた。息は奇妙に苦しかった。胸底がせりあがったように息は速かった。なるほどのこようなときにひとは涙を流すのだろうとかれはふと思った。これまで泣いたことなどなかったのだと思われた。やがて伏せられていた王の眼差しがのろのろと上がって、かれを見た。 「どのようにして予がこのようなことを忍んだかわかるか」 弱々しいが、すでに狂乱から逃れつつある声音だった。 「いいえ」 かれは答え、鋭さを増しゆく双眸をなおも見ていた。腕にかかっていた手の爪がぎりぎりと食い込んでゆくのがわかった。 「おまえをどのように殺そうかと考えていた。車裂でも磔刑でも生ぬるい。寸刻みに刻み殺すか、それとも腐刑として生き恥をさらさせようか。あるいは手足を切り落とし目を抉り声をつぶして飢えて死ぬまで厠に置こうか。親戚を日に一人ずつ殺してその肉を食らわせようかと」 「さようでございましたか」 「いまだ決めかねておる。どのようにせばおまえを苦しめられような」 「どのようにも。得心ゆくまでこれへ控えまするゆえ、とくと」 そう言って、かれはふと笑った。それから続けた。 「お望みとあらば日々に夜々に考え抜かれませ。私めもそのように陛下がことを思うておりました。どのように抱き、どのように愛撫し、どのように口づけしようかと。さよう、そのように思わざりし夜も日もありませなんだ」 「存じておればとくより誅滅しておった」 「なされませ。捨て置けば御身の破滅となりましょう。たとえ天の果てへ放逐なされても必ず戻って参りますゆえ。いかにしても御身を得んがため術策をめぐらしましすゆえ」 腕の中の体がわずかに竦むのが感じられた。王の眼差しはかすかに揺れ、だがすぐと戻った。 「だがなにゆえ」 「申せと?」 「そう言った」 「稲穂の風になびくごとく、影の形を追うごとく、群星の北辰に向かうがごとく、御身を只一人と定められましたがゆえ。生きてあるあいだ呼吸を絶やすことなきように、ひとときも御身を思わざることかなわぬゆえに」 「恋情か。だが恋情は優しきものぞ」 「私のごときものの恋情は異なりまする」 王はようやく黙した。怒りに上気していた頬から血の気が引いているのをかれはつぶさに見た。 「放せ下郎。夜は果てた」 「いかにも。されば下される刑を教えてくだされませ」 「追って沙汰を待て。まだ思いつかぬ、怒りに狂おしいわ」 ふりほどくように王はかれを振り切り、おぼつかなぬ身ごなしで退いた。 「それでは沙汰をお急ぎなされませ。御身が私めを思うてくださるあいだ、私めは幸せでございますゆえ」 「思うておるのはそなたの殺す手だてぞ」 「まことに、そのゆえに」 かれは衣装を拾い、袖を通すとわずかに笑った。飽かず王の躯をむさぼっていたときよりも不思議と幸福感は大きかった。このように離れても、王はかれを思っているのだ。そして本当には忘れることもあるまい。 「どこへ」 背後からかけられた声に、かれは振り返った。 「館にて閉門しておりまする。沙汰をお待ち申して」 「確かに待っておろうな」 「いかにも、確かに」 そしてかれは歩き始めた。朝を許された喜びはおぼえなかった。ただ王は終日かれを思うであろうことに計り知れない喜びを覚えていた。 と、途中で趣旨が…。 - - 2007年08月02日(木) というわけでダイビングのライセンスを取った。 なにが「というわけで」なのかはともかく、えーと。 これまで海は外から眺めるものだったわけだが、 ここに至って私は海中の視界を得た。 といってまだ基本的な講習を受けただけだから、 海中でドタバタしちゃってなかなか落ち着いて眺めれやしないのだが。 海面を見上げるというのは不思議なもので、 また海中の生物たちが恐れる様子もなくつきまとうというのも面白い。 海ッ子だからこうなるのは必然だったような気もする。 最初の海中遊泳のお供はクサフグでした。 -
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