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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2007年03月31日(土)

可能性のキメラ:

これは何かを言い表している。
なんだろうと考えて思い当たった。

現在、だ。


わかるだろうか?
私におけるあらゆる可能性が絡み合い膨れあるいは萎えつつ、
その切断面としてのオブジェをさらしているこの現在。
現在、この可能性のねじれからんだ奇妙なキメラ。

獅子たるわたし、牛馬たるわたし、悪鬼たるわたし。
善と悪とあらゆる方向へ向けてまさに伸びゆかんとする静止。
これが現在だ。そうでないわけがあるだろうか?

わかるだろうか?
私におけるあなたへの愛と憎しみと絶望と悲傷。
それらの発現もしくは衰退の途上にあるわたし。この現在。
あらゆる種子、あらゆるしっぽ、あらゆる


可能性、が。


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- 2007年03月30日(金)

眠っている:

わたしは眠っている。目覚める望みはもうないのか。
わかってはいるのだ、ただ意志にのみよるのだと。

世界のあらゆる破片に傷つきながら、だが私には成就する力がない。
私には成就する力がない。その意志はどのようにして得ようか。

からだが弱っているときは、心も弱る。
私は眠る。明日が来なければいいのに。


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- 2007年03月29日(木)

甲子園が好きだ:

「伝統」という言葉について、その意味について思う。
たぶんそれは、きっと、日本人という人間集団がそれについて
多くのことを知っているということなのだ。きわめて多くのことを。

清原を知っている。桑田を知っている。
怪物・江川や、怪童・松坂を知っている。
ダルビッシュとメガネッシュと涌井と松本の時代を知っている。
まーくんとゆうちゃんもまたわれらの記憶に住み、
そして今日の日の出来事もまたわれらの共有する記憶となる。

結局そういうことなのか。
そういうことなのだろう。
コモンセンスあるいはなんだアレか。忘れた。

もう寝るよ。春は孤独に勝えない。

(会いたい。会いたい、わたしはあなたに会いたい。
 すべての季節が逆流し、わたしたちの出会ったその日に戻ればいい。)


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- 2007年03月17日(土)

そして旅立つドラえもん:

明日から4月頭まで宇都宮を空ける。
なんつーか、ものすごい開放感だ!
3塁ベースを引き抜いてスタンドへブン投げたい気分だな。
それとも短く切ったマイク・スタンドを抱えて開脚ジャンプしようか。

真っ黄色なきりんのぬいぐるみを買った。
差し上げたい相手がいるのだが、あまりにかあいくて手放せない。
もう一匹買うか…。


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- 2007年03月15日(木)

フレディ・マーキュリー(故)がテレビ画面に住み着いた。
いや、実際それに近いんだが。

お察しの方もいるようだが、クイーン週間勃発中(夜間限定)です。
別にフレディがそっぱだからではなく、ジョン・ディーコンが音痴で
妙な親近感を覚えるからというだけではなく、えーと、なんだ。
いい具合に歌って踊れるからとかいったら隣人に殺されそうだなァ…。

まだ何がいいとか悪いとか、わからない。
ディープ・パープルとかグレイトフル・デッドとか聞かなきゃだめかな。
同時代の知識なしに理解しようとするのは、地図なしで見るのと同じだ。
どういう位置づけなんですかな、かれら。

大学出のインテリジェンスだということはどう理解されるのかな。
音楽性のどこが他と違って、どこが他と同じなんだろう。
フレディのセクシュアリティと非白人という出自はどういう意味なんだろ。
だめだなあ。シド・ヴィシャスが人殺しだってことくらいしか知らないや。

1980年代という時代を飲み込まなきゃいけないようだ。
おっかしいなあ、その時代、わたし、生きてたはずなんだけど。
そうか、せっせと大きくなっていたんだ。そりゃ急がしいわな。


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- 2007年03月13日(火)

もやの漂うぬるい乳色のみずうみを、
わたしは泳ぎわたってゆきます。
この湖は、どこか深くで海とつながっているに違いない。
風もないのにゆらいで、ときに波立っている。



       雨戸を閉ざした家々が、入り組んで軒を連ねている。
       わたしは裸足でもろいコンクリートの路地を歩き、
       雨ざらしの白壁に手を触れてゆきます。
       ここに住んでいるのは過去と鈎しっぽの猫ばかりで、
       もういない住人の影がときどき、確かに通りを横切る。



(ママ、ぼくは人を殺してきた)


  不思議な夢をみたので、書き留めてみた。
  わたしはどうやら夢のなかでは、ある種の才能に恵まれている。
  それはたぶん、私をひとつの楽器にして、
  かれがそのうたを歌っている証拠だとおもう。


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- 2007年03月12日(月)

オフ・ザ・ウォール:

 風呂場でドレミの歌をうたってみた。やっぱだめだ。だめだとわかるようになっただけアレか、進歩か。だがそんなのはなんの慰めにもならない。

(そこ、歌うなジョン・ディーコン)

 70〜80年代にかけての音楽DVDばっかり見てるから耳がおかしい。CMで流れたバッハの「主よ人の望みの喜びよ」が一服の清涼水のようだ。そんでいっちゃん印象に残ってんのが群集なんだから始末が悪いや。

 今週末から出張だぜベイビイ。


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- 2007年03月11日(日)

アース・ソング:

 マイケル・ジャクソンが47歳ということは、少なくともデンジャラス(1991年)以降は私の記憶にあってもおかしくないはずだ。実際、記憶にないわけではない。親父は何枚かのCDを持っていたし、「マイケルはすげーんだぞ」的なレクチュアも受けた記憶がある。にも関わらず、路傍の石に対するごとく私は関心を抱いたことはなかった。
 もっともそれは同時代の音楽シーンに対するにおよそすべて同じだった。マドンナを好きな友人がいて、彼女に金髪の派手なねーちゃんのジャケットのカセット(だったと記憶している)を見せてもらったことはあるが、肝心の音楽のほうはさっぱり覚えていないところをみると聞いちゃいねえ状態だったのだと思う。聞くというのは難しいことだ。
 みんな、何がきっかけで、どうして音楽に興味を抱くんだろう? 私にとって音楽は長らく、じつに長らく、きわめて魅力に乏しい芸術であった。これはおそらく音楽が目に見えないものであって、私はというと視覚によって考え感知する人種であったということに結論されるだろう。実際、教師の授業、教科書のほうがよほど記憶に資している。
 私にとって、感動はいつも静寂のうちにまた孤独のうちに来るものだった。わずかな伴奏は紙のこすれるおとぐらいなもんで、いつも音などないほうがいいと思っていた。誰もいないほうがいいと思っていた。コンサートにおける熱狂は遠いものだった。狂乱や失神といった種類のものは、理解の外にあった。これは苦い告白だ。
 私はそういうものに憧れている。これは実際、正しい表現ではない。私はそういうものに渇いているのだ。音楽は何か本質的なものだと思う。音楽は何か本質的なものにつながるためのもの、一体になるためのなにか根源的な力であって、私はその資質を決定的に欠いている。リズム感がない人間というものはみんなある種、同じ事をいう。…「タイミングがとれない」

 タイミング! 人を愛するタイミング、人を憎むタイミング、声をかけることさえ実にこのタイミングというやつに依存する! 私はけっして正しいタイミングを見いだせまい。私の体が骨の髄までビートに縁がないように。
 こうした本質的な欠落を生きることは、実に苦いことだ。私のような人間は、おそらく自閉傾向(そんなものがあるならば)が強い。関係性においてきわめて不器用で、四次元的・継時的な意識がないから「飽きっぽい」といわれる。集中力はきわめて強いが、それは他者とつながらない。時間を無化はしてもそれを貫かない。そして言葉を聞き取るためには無意識であろうと努力というものを要する。
 そしてまた時代性というもの、時系列におけるファッションやモードというものを私のような人間は把握しえない。なぜなら見よ、モードは常に移り変わり一定でなく捕らえがたく、しかもある特定の時点でさえそれはいわば蜘蛛の巣のように見えにくいからだ。

 これは単なる努力の不足なのだろうか? だがそれにしては、どんなふうに努力すればいいのか誰も知らないようだ。そんなものは必要ないかのように。私はずいぶん努力してきたと思う。単純な積み重ねなら地続きだ。そんなのは私には問題ではない。だがここに溝がある。別にマイケル・ジャクソンのように歌いたいわけではない。音楽の力を感じたいだけだ。どうか教えて欲しい、リズムとビートについて。
 つまりこういうことだ。How do you feel it?


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- 2007年03月10日(土)

黄色く濁った麦畑の彼方の空に:

 無数の烏が飛び立つ一枚の絵のうちにきみの歌がある、
    投石器を手に前を向いて立つダヴィデのうちにきみのうたがある



   『すべてのうたはきみのうた、すべてはきみのうた』




  語られたことのない愛が表出を求めている
        言葉を かたちを      おと、を求めて
    きみはもどかしくあしずりする、あしずりしてさけぶ
   それはすべてのもどかしさ、すべての悲しみ、憎しみ



                         きみのうたを

歌い出すためには、新しい屋根がいる。







                           雨よふれ。





(新しい歌を神に歌え:旧約聖書96篇1〜2節 98編1節と5節)


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- 2007年03月07日(水)

寡聞にして美容整形というものをよく知らないが、

マイケル・ジャクソンほど自分の容姿を”脱ぎ捨てて”きたひともない。
固有の容姿そして彼の場合は黒人、そして種族としての経歴を示す肌色。
かれはもう黒人のようには見えないし、少年の頃のかれにも似ていない。
私は子供を見ればおおかた大人になったときの姿がわかる目の持ち主だが、
そうした平易な予測はもう、かれにはあてはまらない。

「チャイルドフッド」のショートフィルムを見ていて、
抜けるほど白い肌をさらし、白人の子供に自らを重ねる演出に
なにより歌より、彼自身の自画像をきわめて異様な違和感とともに感じた。
白人になりたかったのだろうか?なるほどそうかもしれない。
白人になりたい黒人はいくらもいる。だが白くなれる黒人はそうもいない。
そしてまた、よしんば白くなれたとして、その経過を、
まさに変容の過程を、その異様な変身を、執念めいた変身への願望を、
人の目に映像に刻みつけまた刻みつけ続けられるひとはそうはいまい。


たしかにこれはモンスターだ。


次にかれがたとえば天使になろうとしたなら、
その過程をぜひにこのように鮮明に残していってほしいものだ。
かれの背に翼が生え、風切り羽根を育てるその過程を。
そうとも肉の身の果実にすぎない精神がその親木をかくも変えうる!
その精神の異様さ、また激しさ、そして底知れぬとよみ。
このひとを見よと自らいう、その強さは確かに驚嘆に価する。

血にでもなく人種にでもなく歴史でもなく、
意志にのみこのアイデンティティを寄せようとする人間がここにいる。
自然という大岩から抜け出しかけている薄肉彫りの男を私は思う。
かれは確かにひとというより、怪物じみて見える。



試みに墓碑銘を刻んでみよう。
「かれほど自身の思い描く人間であったものはかつてなかった。
 にもかかわらず誰も彼をそのようには見なかった」と。
残酷に過ぎるだろうか? だがかれは気にするまい。


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- 2007年03月04日(日)

「パフューム ある人殺しの物語」
監督:トム・ティクヴァ
出演:ベン・ウィショー(ジャン=バティスト・グルヌイユ)

近くもない映画館まで歩いていったのは私です。
病み上がりだってのに…花粉症だってのに…。
それで、期待してなかったのに内容はすばらしかった。
人に立ち混じって生きていくうえである種の欠落を抱えた人間、という
それだけできわめて魅惑的な主題のうえに、「香りを魅せる」という難題。
実を言うと、この難問に対する回答を見たくて行ってきた。

回答は、照明をうまく使ってのクローズアップとズームアップ、
それから嗅覚の認知経路をイメージ化したような粘るようなカメラワーク、
極上の音楽と、あとは、ほんの少ーしだけのSFX(笑)。
嗅覚といういわく転換不可能なものを視角としてよく提示したと思う。
ちょっと生理的に気持ち悪いとこはあったが、まあそれはそれ。慣れてる。

それからジャン=バティストの人物像が実に面白い。
やせた男が右肩下がりにぼさっと立つ姿が独特の存在感をかもしだす。
幾つかの例外を除いてこの男は無口だ。
その無口さが、まず嗅覚の思考経路に生きる人間の不気味さと魅力、
そしてきわまってやるせないまでの欠落を感じさせる。
この欠落、そこに存在する獰猛なまでの渇きがそのまま映画の魅力だ。

ストーリイとそこに不随する謎と不満はこのさい言わない。
これは嗅覚についての物語なのだし、そこでは論理より直感が支配する。
語り手のじつに洒落た語り口もまたそうした部分をカバーして、
一種の寓話でも見た気にさせるいい効果を出している。
まああれだ、なんでフランスなのにみんな英語やねんという、
そーいうツッコミはいくらでも入れられるんだが。

ベン・ウィショーは、将来が楽しみだ。
欲をいえば、もうちょっと香水についてのうんちくが欲しかったなー…。
って、リシはスネイプ教授(アラン・リックマン)かよ!
ジュゼッペ・バルディーニはダスティン・ホフマンかよ!
じ、地味にゴイスーなキャストだったんだな…。


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- 2007年03月01日(木)

 天幕の上で雨音が鳴っている。薄い駱駝の皮は重たく囁くようだ。
「ジンニーア」
 天幕の隙間から雨の砂漠を眺め渡していた熱風公は、声をあげて呼んだ。応えはないが気まぐれな妖精であればそれも不思議はなかった。彼女は問われたからといって応えるのではない、ただ気が向いたというだけのこと。
 熱風公はふと考え込む気配をおいて、笑って親指をひねくり、しばし言葉の長短と音韻に思いを巡らしてから歌い始めた。

「美にまさる美、花にまさる花、我が目の光
 煙に縁なき炎よりなり、曙光のもとになお色あせぬ夜の輝きよ
 予はただに短命の種族の貧しき一子に過ぎざれど
 親しく御身を知り、知りてさらに恋うるものなれば
 とく応えよ、とく応えたまえかし
 さなくばライラに対するカイスのごとく、
 哀れにも憔悴ののちに逃れ出で、しかる後に狂い果てん」

 詩句の途切れると同時、耐えかねたような笑い声が天井から落ちてきた。見上げれば薄青く燐光を放つ少女が中空に寝そべり、笑い転げている。公は片方の眉と唇の両端とを吊り上げて、そのさまを見上げた。
「熱風公、熱風公よ、そなたよくもそのように似合わぬことを言うたもの」
 少女は長い前髪をかきあげ、あどけなく笑ってとがめた。
「さあれ、御身がお応えにならぬゆえ」
「いらえを強いるな。それはわらわの流儀にあらぬ」
「さよう、しかればこそ歌にてお誘いもうした」
「うまくも申すわ」
 少女はさらりとゆらぎ、公の肩にはたりと左手をおいてその膝の上にすべりこんだ。とはいえその身はこの世のそれならず、公はわずかな重さも感じはしなかったが。そしてまた布地を通した形などというものも感じられず、ただ温度もない風が膝の上にあることのみ知られただけであったが。
「雨が降っている」
 少女が言った。公はただ形のみその肩に手を添えた。抱き寄せようにも、光と風よりなる華奢な精の扱いは常のそれとは異なる。
「降っておりますな」
「雨音が聞こえるか」
「さよう、この頭上に」
 暖かな、だが希薄な腕が首に絡んできた。公は目を閉じる。
「おまえに聞かせよう」
 ささやきは耳元に響き、そして心臓に及んだ。公は自身がこの妖精を恋うていることを知っている。生身の女を愛するようにではなく。その思いは余計に憧憬に似ており、だが肉欲に根を持たぬわけではない。
「雨が口を利き始めた日をわたしは覚えている、アル・シムーン。それはある男が屋根というものを作った日だった。粗末な草葉によって作られたもにに過ぎなかったが、そして雨の言葉もこれほどはっきりとは聞き取れなかったが、太陽と月と星々がその日、泣いたのだ。そしてあの天使さえ人間というものをその一事において許した。雨はその日から言葉を得て歌っている」
 間近にのぞきこめば、ジンニーアのうつくしい瞳は、わずかに青紫を帯びて金属の錆に似た虹色を浮かせている。またその奥の頭蓋にはゆるやかな薄青が濃淡に揺らめき幾重にも輝きを放つ貽貝の殻のようだ。だがその希薄な器を通しては我とわが膝が見えてもいた。公は微笑した。
「雨は屋根を得て言葉を得た。あなたはいかにして言葉を得られたのか」
「そのことについてはまだ話しておらなんだか」
「さよう、あなたが話してくださったのは星と月と雨についてのみ」
「それでも話しすぎたほどよ。よかろう。だが物語は長くなる。そなた、人の身でそのように時間を費やしてもよかろうかの?」
「明日と明後日とさらにその翌日までかかろうとなんら支障がありますものか。また生涯の残りを耳のみで過ごすことになろうとて」
「ようも言うたわ。では聞け、太陽のいまだ若かりしころの物語、人の世の語り部の伝うることいまだ多からざる時代の物語ぞ」
 そしてジンニーアは語り始めた。





あめ…。雨降れ…。雨が足りん…。

ジンニーアとアル・シムーン(熱風公)。
熱だして寝込んでる間に思い出した。
かれらは私のうちに長年すんでて、書かれるのを待っている。
待っているが、私はどうもうーん、二の足を踏んでいる。
なにより彼らの恋物語は、いささか理想化されすぎているようでなあ。
かといって、私とともに葬るのもいささか気の毒なのだが。


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