- 2006年08月31日(木) 美を美と知る心は わたしの外にあって わたしはそれを 遥かに遠く 夢の向こうに知るのです。 縁側に月光は落ちている。それは光というより水かなにかのように、木目の褪せた縁側に落ちていて、 (かきかけ) - - 2006年08月29日(火) 1:まーくんとゆうちゃん 「試合のときは威圧感がありましたけど、やさしい感じです」 「無表情かと思ったけど、かわいい」 今朝のスポーツ紙読んで腰が抜けた。 こいつらデキてんじゃー、というラブラブっぷり。 まあ、スポーツ紙だから脚色アリアリだろうが、それにしてもなあ。 将来、プロでこのライバル物語の先を読みたいものだなあ。 「まーくん」は、不動明王のツラ構え。 「ゆうちゃん」は一見ソフトでクールな感じだ。 この2人が並んでブルペンでボールを投げていると、体格差は一目瞭然。 甲子園のマウンドはかれらを大きくしていたと実感する。 ゆうちゃんはたぶん、大学で4年やってからプロに行く気だろう。 そしてたぶん、それが一番正しい。彼はもっと広く世界を見るべきだ。 まーくんはプロ志望を明らかにしている。それは正しいだろう。 かれは自分の資質と可能性を花咲かせることを切望している。 1ファンとしては、4年後のかれらを思うしかないわけだが、 もし「ゆうちゃん」が「まーくん」と同じ舞台を目指してプロに行けば、 むこう15年くらい、とても楽しみな勝負が増えることになる。 自分自身に忠実に生きてきただろう「ゆうちゃん」が他人のために 人生を変える道を選んだとしたら、それはそれ自体がドラマだ。 DHのないセに2人とも行かないかなァ…。 2:この閉塞感 ねばつくタールの海にはまりこんでいくようだ。 こうした思いは常に正しい羅針盤だ。 常にそれは想起させる、わたしは走らねばならない。 なぜなら私は走ることができるのだから。 鏡の国のアリスに準じて。 さいごにひとつ、息を大きく吸って - - 2006年08月28日(月) わたしはここにいます ひるもよるもここにいます ここにいるということに、やむことはないのです たとえそれが檻のなかであっても それがなんだというのです てのひらの疼き 共感覚に興味があるのは、 つまり私が感情についてそのように知るからだ。 私が、自分が「悲しんでいる」と知るのは右のてのひらがうずくからだ。 私はそれを十数年単位における経験則によって知った。 つまり客観的に悲しんで然るべき時に必ずそれがあったのだ。 最初は「なんだこりゃ」というだけだったが、そのうちに了解した。 胸がうずくのならもっとわかりやすかっただろうが、 右のてのひらだから、これはいささか理解に時間がかかった。 怒りのときには一瞬、音が遠くなって言葉がもつれる。 これはそれなりにわかりやすい。 「言葉を失う」という慣用句を知っていたから。 打ちのめされるというのは頭の上のほうから血が引いて、 顔の温度がすっと引く。これもわかりやすい。 愛、は。 これはいまだにわかりにくい。 わかっていないかもしれない。 いわゆる上位の感情概念について、 このように不器用に類推にしか知られないこと。 これはなるほど、ある意味便利だが、ときどき不便である。 わけてもそれほどしばしばあるわけでない感情について、 見過ごしたり気づかなかったりしかねない。 いやむしろ、私は私の感情について、 無知に等しいのではないかと思う。 実に、じつにこれは、私自身の大きな欠落だ。 だから、共感覚というものがある程度解明されたら、 どの感情がどの感覚と関連づけられるべきかということについて プリミティブであってもある程度の資料を得られるのではないか、と そういうことを期待していたりするわけだ。 難しいかな。難しいだろうな。 - - 2006年08月27日(日) ![]() タイトルは、Run, Bouzu Run! だろうか。(やめとけ) 写真から起こしたのだが、どうしてもロゴ絵っぽくならない。 そしてアホみたいなスケジュールだった先週の終わりに乾杯。 …したいところだが。 後輩が夏休みとるとか言い出しやがった。 俺が夏休みとってないってのに、テメエが取るのか(胸ぐらつかみ) まあ、責任のない兵隊のあいだは、 上の人間が面倒見てやらなきゃならんもんなあ…。 いいよ、バアちゃんの顔見ておいで。 (そして泣きながらスケジュール表をめくる) ヴィオラ・ダ・ガンバは歌う この音色はなんだろう。甘いようだ。 バイオリンの神経質さはなく、チェロの内気さはなく、 馥郁として女性的なやさしい甘やかさがある。 チェンバロが硬質に透明に問いかける。 ヴィオラ・ダ・ガンバは問い返す。 音色は豊かな会話のようだ。愛情に満ち、ひなたのつるバラのよう。 あ、幸せ… - - 2006年08月26日(土) 最近、共感覚についての本を何冊か読んでいる。 ずっと前から興味はあった。これは確かに認知の謎に迫る物語ではないか。 色と形、もしくは味と音が同じカテゴリーでないとは、 これは社会通念に過ぎない。それはすべて、脳の産物に過ぎない。 では脳はどのようにしてそうした分別を働かせているのか。 またこうした区別はいったい何を意味するのか。 色と形、味と音は、通常、かけ離れたものと考えられている。 にも関わらず、そうだ、にも関わらず、 「まろやかな色」「甘い音楽」といった言葉は即座に了解される。 これはいったいどういうことか。 この認識の複雑でうつくしい回路。そしてその混線。 「私の見ているものは、あなたの見ているものと同じですか」 ひととは何かときみは問う。 だがそれこそ正しい答えへのアプローチではないのか。 感覚の奥には理解と認識への窓が開いている。 扉でないのにはわけがある、なぜなら謎を解く喜びとはつねに、 そうだ常に、幼い子供が胸に抱く歓喜なのだから。 - - 2006年08月25日(金) 祈りのときに顔を上げるのには理由がある。深い情熱は足下からわき上がり身内に満ちてこぼれ落ちるから、その濃密で粘っこく熱い液体におぼれてしまわないためには、どうしたって、上を向かねばならないわけだ。 曇天は頭上を重たく銀ねず色で占めている。マルチェロは平たく横たわる墓石の前に膝をついた。どのような嘆きがこの嘆きを嘆き尽くせようかというのが、この場所にたったとき常に胸を占める思いだ。しかも死は、わずかも希ではない。たとえそれが赤い死であっても。 この世の底には嘆き尽くされなかった嘆きが堆積して、いつか地表を超えてあふれ出ていくのではないだろうか? マルチェロは指先で墓石を愛しく撫でる。それがいまなら良い。世の始まりからの悲嘆が世界に満ちて、満ちて、そしてなにもかも飲み込んでしまえばいい。 生死は常にありふれていて、理不尽も悲痛もそうだ。だがそれは少しも悲しみを緩めない。これはいったいどういうことか。なにもかもが落ち続けているようだ。果てしない暗がりに向けて落ち続け、なにもかも悪くなっているのにその行程には終わりがない。いっそ雷鳴がとどろき、世界を焼き尽くす炎が走り抜ければいいのに、そうした終わりすら与えられないのだ。 マルチェロははっと顔を上げた。雲が切れて、とおく地平のほうに、斜めに黄金の光が射している。光は射して、ぽつんと立つ木の上にかかっている。それは確かにわずかな細い光であるのに、ずいぶんとおくからでも見えているのに違いなかった。マルチェロは覚えず、ぼうぜんとしてその光を見つめた。そして知った。言葉になおせばそれはこういうことだ。 我らは確かに落ちている。世界は確かに落ち続けている。町も教会も王国も落ち、俺も人も誰も落ちている。だがそれらすべてを支える手がある。かぎりなく大きな、やさしい両の手が。 - - 2006年08月23日(水) 月曜 宿直 火曜 明け 水曜 宿直 木曜 明け 金曜 宿直 土曜 明け 日曜 出張 な ん で す か こ の 勤 務 体 系 。 基本的に宿直の夜は寝れても1−2時間なので、たいてい起きてる。 それで、仕事がじゃあその分あるのかというとそうでもない。 まあ小説書いたり、読みかけの本を読んだりできるほど意識レベルは 高くないので、ちょっと復帰気味のPBCで遊んでいた。 楽しかったのでいいんだが、さすがにグロッキー気味だ。 耐えよう。そしたらフツーにフツーの勤務が待ってる。 いいさ、テキトーにいこう。ああ、奥鬼怒湿原に行きたいなあ。 - - 2006年08月22日(火) 未完成交響曲: 『我が恋の終わらざるごとく、此の曲もまた終わらざるべし』 柔らかいタッチで書かれたポスターには、若い楽聖がタクトを持ち、晴れやかな顔で笑っている。よりそうように描かれた少女は、明るい冬の日だまりのようだ。だがその幸福そうな情景を縁取るのは冷たい、青い壁で、それがまた深海から仰ぎ見るように、奇妙にこの絵を明るく見せていた。 - - 2006年08月21日(月) あまりに眠いので、早々に職場から脱走してきました。 いいんだよ夜勤明けだし、なんか今週三回夜勤あるし(涙) しかし帰宅してニュース見て腹を立てたら頭が冴えた。 しまった、仕事してりゃあよかったぜ。 1: ぶっとびバカ漫画「HELLSING」で、 13課(イスカリオテ)のアレクサンド・アンデルセン神父が お亡くなりになったくさい。コミックスしか読んでいないのだが、 それくさい。もったいないなあ、超好みなのにこのオッサン。 聖遺物「エレナの聖釘」でもって自らの心臓を突いたアンデルセンは、 茨の怪物に化してアーカードに襲いかかった。 この「茨」というのはキリストが十字架にかけられるまえ、 兵士がかぶせ、「ユダヤの王」とあざけった茨の冠に由来するだろう。 ゆえに茨は死に至るキリストの苦悶を象徴するとされる。 ここで思ったのだが、茨は「thorn(s)」つまり「ソーン(ズ)」だが、 ローマ字っぽくトロンとかトロンズ読めなくもない。 そこでDQですよ、トロデ王ですよ。 トロデーンが茨に包まれることも考え合わせれば、説得力がなくもない。 さてそこで、主人公ですが、これまさに兵士です。 キリストに茨をかぶせた兵士を連想しませんかどうですか。 まあほとんどの方はしないと思います。 ここで連想方式で、受難物語に出てくるもう一人の「兵士」です。 はりつけにされたキリストの死とともに鳴動する天地に、 「まことにこの方は神の子であった」(ヨハネの福音書) とつぶやく兵士です。ローマの兵士と思われます。 傍観者であり、かつ最終的に世界の認識を代表する兵士こそ、 常にプレーヤーの分身となって世界を旅する主人公に投影するに ふさわしいような気がします。するだけですが。 こういうこと考えだすとキリがないですな。私はパズル脳。 2: 最近、ヒマをみつけてPBCに復帰している。 メーンCはエロ坊主だが、実に楽しい。 やはりダーク町で丁々発止が性に合う。 もうちょっとバトルスキルあげないとなー…。 立ち位置とか体の位置関係が複雑になるととたんにだめだ。 グロテスクとエロティシズムの追求を。 - - 2006年08月19日(土) たった一つの祈りの火が、暗闇の向こうで遠く、燃えている。オイディプスは夜半の町を窓から臨み、その陰鬱さに眉をひそめる。館の主の勧める通り、朝早く発って再び戻らないことが最良の選択と思われた。 (ただ解せないのは) オイディプスは思う。テーバイに至る道すがら、聞かされたのは、この町には人を取って食う悪霊がいるということだった。それは女か獅子の形をしていて、広場かどこかそうした場所に巣くっているのだと。 しかし広場には、悪霊はおろか人の姿ひとつなく、それどころか町に入って旧知の商人の館の戸を叩くまでに人影さえ見なかった。館の主は災いについてなぞめいたことをほのめかしたばかりで、災いという女についても多くは聞けなかった。城壁の女のことを持ち出しても首を振るばかり。この都を包み充満し、偏在する死は、どこに由来するのか。およそ異形の悪霊など見あたらないなかで、オイディプスの疑念は夜とともにいよいよ深まり− 夜陰をついて、悲鳴が上がった。 一つ、ではない。遠くまた近く。高くまた低く。闇に沈んだ町のそちこちから、悪霊の群れが目覚ますように。しかも目に見えるなにもないことが、オイディプスの乾いた肌に怖気を走らせた。 悪霊の群れ、恐怖にか怒りにかあるいはほかの何のためか。闇の近く遠くに、無数の悲鳴が、絶え間なく響く。ひどく近く、おそらくは館のうちからもそれが響き始めるに至って、オイディプスの額を冷たい汗が伝った。 「朝、朝だ。夜が白んだら」 自らに言い聞かせるように呟き、額を拭う。その手も震えていた。いまや都は悲鳴の無数の柱を備えたようだ。窓辺から身を引こうとしたオイディプスは、視界の端、燃え続ける祈りの火の前を、ひとつの影がよぎるのを見たように思った。それはあの赤毛の女であろうと、オイディプスは思った。 - - 2006年08月15日(火) テーバイの町を廻る城壁の上に、赤毛の女が、夕映えの方を見つめて立っていた。沈み行くアポロンの火の紅の中にあってさえ女の蒼白の顔色は隠れもなく、肩に垂らした豊かな髪は燃える戦の炬火のようだった。オイディプスは街道を町に近づく道すがら、女に気づき、ぞっとするほど美しいが、同じほど不吉で恐ろしい女だと思った。 夕暮れが深まり、色あせ始めることにたどりついたテーバイは伝え聞いていた通り、うつろな死に満ちていた。広場には人影もなく、神殿に供華の火は絶えて久しい。堅固な七尋の城壁に備わる城門さえ、内には守るもののひとつもないというよう開いたままだった。一人の番人もなしに。 (来なければよかった) 塵ばかり舞う町の宮殿に続くまっすぐな道を歩きながら、オイディプスは思った。コリントスの王家に育ったかれは、繁栄も衰亡もかぎわける嗅覚に恵まれていた。それは春や秋と似ている。すべてを変えるのだ。だからかれは、この不幸な町を訪れようと決めた自身の気まぐれを悔い、この町の死の気配が自分の上に不吉な印を残さないようにと海神に祈った。 「災いがどこから来たのか、どのように始まったのか、誰も知りませぬ」 老いた商人は低い声で言った。わずかな灯火は床に置かれて、宵の部屋はひどく暗い。オイディプスは客人の座について黙って聞いた。そして思う。ここでは、あらゆる隙間に死が充満し、人々はそれを驚かさぬよう、揺るがさぬよう、息を潜めている、と。 「我らテーバイは、災いの来る前のことを思うことはできないのです。災いのなかったころ、災いのない町を思うことも。あらゆる思念、すべての記憶は輪を描くように災いの内に定められ、どこまでも恐怖と絶望を離れえず、それゆえ」 商人は言葉を切って、暗い目を廻らせて、揺らぐ灯火を見つめた。言葉はすべて独り言に過ぎぬように低く、聞き取りにくく、ぽつぽつと語られる。 「それゆえ、災いはここにあり、我らもまたここにおります。しかしお若い方、あなたは来た道を覚えておいでです。朝とともに発たれませ」 「しかし」 オイディプスは両手を膝の上に組み、静かに言った。老商人はピクリと額に折りたたまれた皺を揺らしてこちらを見る。 「私にはわからない、災いとは何なのですか」 老商人はまじまじとオイディプスを見た。その顔は心なしか青ざめ、唇はおののいている。恐怖に鷲掴まれているのだった。 「なんということを、お客人。ああなんということを」 老人は長い時間かけてそう囁くと、オイディプスの襟元を掴んで囁いた。 「女です。あの女の謎です」 オイディプスは城壁の女を思い出した。美しくも不吉な女のことを。 - - 2006年08月13日(日) どうも頭痛がひどい。 半年ほど前から偏頭痛を起こすようになって、 偏頭痛がくると、朝起きた瞬間に「あ、だめだ」となる。 これまでは長くても2時間程度でおさまっていたものが、 先週末にほぼ半日続いた。これはけっこう辛い。 翌日もほぼ半日、今日もほぼ半日。 本も読めない音楽も聴けないというのは辛いものだなあ。 知的にヒマというのは、これはある種の飢餓だ。 なのでぼんやりと考えていたら浮かんだ筋書きが「葬列」だ。 もはやククマルでもマルククでもない。 だいたいククール死んでてエイトが主人公だ。 DQの主人公はプレイヤーの投影というのが正しい形のはずだが、 個人的に、エイトの素性がわかって以降は没入できなかった。 つまりエルフと同じ事だ。わたしには彼らがわからない。 だからこれを書いてみようと思う。 書き終わらなかったとしても、私にはたいしたことではない。 - 葬列:2 - 2006年08月12日(土) 一般弔問の始まった午後三時、エイトはサヴェッラを出た。暗殺者が誰なのか、おおよそわかっているような気はしたが、その理由と所在についてはかいもく見当はつかなかった。エイトは城壁を出て、街を省みた。 黒に装って天空の館に入ってゆく人々の列は連ねた数珠のようだ。エイトは胸の悲嘆を確かめるように心臓の上に手を置いた。かれはもうわかっていた。歳月はかれを置き去りにして通り過ぎてゆく。あと幾度、こうして愛する人々を見送ることになるのだろう? それはエイトがククールの死体を前にして不意に慄然として感じざるをえなかった感慨であった。 ニノとトロデ王、そしてククールは去った。残った人々もやがては行く。ゼシカもヤンガスも、そうだ、ミーティアも。そのことに思い至ってエイトは心臓をえぐられるような苦痛に打ち震えた。逝ってしまう。あの穏やかな幸福な気配がどこにもなくなる日が来る。あの声が。あの微笑が。 年月がかれに影を落とさないと知ったとき、ミーティアは何も言わなかった。それとももううすうす感づいていて、改めて考えてみるほどのことではなかったのかもしれない。いずれにせよ彼女は何も言わず、そのときはエイトも深く考えることはよしたのだ。 「今は、その時じゃない」 エイトは呟いた。今は。そして歩き始めた。行く先は定めなかった。死を思ったとき、それはおのずと明らかになったからだ。望むと望まざるとに関わらず、失ったものはその航跡をたずねずにはいないだろう。ならば。 「マイエラへ」 エイトは呟いた。呪文はかれを運んだ。かすかな光に包まれて飛行しつつエイトは苦く思う。すべての葬列がこの足元を通り抜けていく。 - 葬列:1 - 2006年08月11日(金) 法王ククール暗殺の知らせは、エイトのもとにも届いた。ともに世界を経巡った日々はすでに遠く、壮年となった仲間との交流も疎となっていたが、心の奥底の紐帯は少しも薄まっていない彼らであった。 「行かれますのね」 急を伝える手紙を読み終え、顔を上げたエイトに、ミーティアが言った。白蝶貝のまどかな清さを帯びた額の下の、黒曜石の瞳が気遣わしげに陰っている。エイトは頷いた。 「明日の朝、サヴェッラに」 エイトは言って背をかがめ、美しい妻の目の上に口づけを落とした。ミーティアは愛らしい皺を目元にのせて、しずかに頷いた。 サヴェッラは喪に沈んでいた。この十年、その町の光輝であり主人であった男の死を迎えるにふさわしく。エイトは高い館の窓辺に立って、城壁に垂れる暗い喪章に視線を向けた。同じ風景を見たことがある、十年前に執り行われた先代法王ニノの葬儀のとき、またその更に二十年ほど前にも。そのとき傍らにあった友の葬儀をも見ることになるとは思ってもいなかったが。 すでに、町と同じ喪の色の衣に身を包んだ法王代理から、一通りの説明は受けていた。法王ククールが剣でもって殺されたこと、それが主日の一般礼拝の日にあったこと、そのとき正餐にあずかっていたはずのフードの男の行方が杳として知れないこと。そしてその男が緑の目をしていたこと。 「どうぞお入りくださいませ、陛下」 導かれてエイトは顔を上げ、落ち着いた足取りで法王居室に入った。そこは天井の高い、壁面の一方をガラス細工で飾られた美しい部屋で、中央には暗い布に覆われた段があってその上に死者が横たわっていた。 宝冠を頭上に置き、式服に意義をただした死者は胸の上に指を組まされ、背を積んだクッションに支えられていた。エイトは黙って死んだ友人のもとに歩み寄った。端正な顔は青白く透き通り、生気はかすかも感じられない。 かれはいくつだったっけ、とエイトはぼんやり考える。僕よりも2つ年上だから、五十と、六歳のはずだ。青年時代の若々しさはすでになく、だが重ねた歳月が磨いたような人間の端正な美しさがある。最後に会ったのはもう何年も前のことだ。この友人が何を思い、どのように生きてきたのか、いつかゆっくりと話し合おうと言い合いながら、ついぞその機会を得なかった。 死者の顔には苦悶の跡はなく、むしろ荘厳な死の静謐さが、歳月と強さの上にベールを広げて遠いものにしている。エイトは泣かなかった。ただ手を伸ばして組んだ手に重ね、その冷たさを感じた。そしてまたその指の上に、記憶にあるひとつの指輪がはめられていることを。 - - 2006年08月10日(木) こういうことをネットで書くと反発食いそうだが、 むしろ望むところなので書いてみる。 ネットのヘビーユーザーの赤ん坊というのは一瞥、それとわかる。 表情が少なく、天井の電灯かテレビばかり見ているからだ。 「世話をする」という以上の手間をかけられていない赤ん坊は、 生後1年もすればそんなふうになっている。 生き物一匹、それも人間のように多機能ある生き物を養成することは これはなまなかなことではない。 誰かが言っていた通りだ、「幼児は母親の数年間を吸い取る」。 そういうものなのだ、生育するということは。 しかしながら母親が赤ん坊よりPCの前にいるような赤ん坊は、 これはもう、電灯でも親と思うより仕方がない。 だからそうなる。灯りがついている限りはニコニコしている。 だが後年、なにより必要となるコミュニケーションは何も学ばない。 そんなになってしまった母子を、いわばとりもつ技能として、 ベビー・マッサージというのがあって、 オイルを使って、母親が赤ん坊の全身をゆっくりとほぐしていく。 それでも半年はかかる、正常な関係に戻るまでには。 子供を産み育てるというのはえらいことだ。 現在のように共同体といわれるものが皆無ならなおさら。 だが公的機関もサロンも広がりつつあるのだ。 子供が眠っているときだけにしてください、PCの前にいるのは。 - - 2006年08月09日(水) 疲れた。 - - 2006年08月08日(火) 笑い交わすようなフルートが、 パイプオルガンの優雅な深みの上をわたってゆく。 あかるい青草の山を、ケープの子供が駆けて上っていった。 小さな姿は光に溶けて。 祈りを、どうか祈りを。 5年計画で出家しようか。それとも。 ククールは両手をあわせ、額に押しつけるようにして祈っている。ゼシカは、このキザでバチあたりな騎士ほど祈る姿が美しい男を知らない。確かに形は訓練によって作られたものであったろうが、それでも息をすることさえ忘れたような姿には内側に点る灯火めいた情熱を告げるものがあった。 兄さん、とゼシカは胸のうちで呟いた。困ったものだわ。これが愛情でないことははっきりしているのに、そうとは誰も信じないのだもの。 まとまらない。 - - 2006年08月07日(月) 眠い。 アポカリプスのメモ ・人間の中に混じった人間ならざるものたち ・悪の所在 ・ひそやかに戸をたたく滅亡 ・抗わない子供 ・死に関する孤独で喜びに満ちた省察 ・意識と無意識の構造についての非フロイト的弁論 ・皮膚を食い破って こんなもん書く能力は、俺にはねえよ(ばたん) 思弁的小説の中心に高校球児はなりうるか。 - - 2006年08月06日(日) 世界はゆっくりと滅びていく。 僕にはわかっている。 これはアポカリプスだ。 でも誰が考えただろう。 最初から終わりまで、すっかり2000年もかかるなんてことを。 ほんとうに、神様は気が長い。 21世紀になって10年たたない年だった。僕はその年、中学校3年生で、高校受験のことよりも、終わってしまった野球部のことを考えていた。もちろん高校生になっても野球は続けるつもりだったけれど、それは少しもこの暗澹たる気分をすくい上げてはくれなかった。死んだ母親は遺影の向こうでこんなふがいない僕を笑っていた。 「おい、トキオ」 座敷で宿題を広げていたら、縁側から、すだれをくぐってユキオが顔を出した。こいつは下手くそ以外に言いようのない中堅手だった。僕に言わせればこいつなんか、陸上部に入ればよかったのだ。背走してボールにおいついて、そのくせ必ず落とすんだから。最後の試合のときだってそうだ。それで同点の走者に続いて逆転の走者もかえって、サヨナラだった。俺はマウンドの上で、呆然として、ユキオが転がるボールを必死で追いかけるのを見ているしかできなかった。くそ、思い出すだけで腹が立つ。 「午前中は勉強してるから来るなって言ってるだろ」 「春日中が負けたって」 僕はぎくりとした。春日は僕たちが負けた当の相手で、県代表として全国大会にも出たのだ。 「何回戦」 「三回戦だってさ。けっこうやるよな」 「へえ」 ユキオが縁側から立ち上がった。そのまま帰るのだろうと思ったが、そうではなかった。ユキオは俺を見て、ニヤっと笑った。 「キャッチボール、しようぜ」 「なんで」 「ボールに触りてえんだ」 グラブとボールは親父が親の敵みたいに乱暴に押し込んだ物入れにあるはずだった。僕はしばらく考えて、しまいに頷いた。 - - 2006年08月05日(土) 酔っぱらっているときに、日記書いちゃいけないと何度も…。 いい感じのカクテル専門店を見つけたので、 仕事帰りにときどき腰を据えています。 バーテンをつとめるのは世界タイトルお持ちのタナカさん。 腕のほうは最高級、銀座あたりよりよっぽど上。 新しいカクテルを調合して売り出し中だというので一杯。 いつものを一杯。趣向を変えて一杯。 うまいうまいともう二、三杯。 …睡眠不足の身にはちょいと応えたようです。 行きつけの店を持つのはいいものだ。 人脈もできるし、愚痴もこぼせる。たまに相手が頭取だったりするが。 最近のはやりは、適当にボトルを指定してその場で作ってもらう一杯。 あたりはずれがあるって、いい感じで笑えて気持ちいい。 女一人でカウンターに座っているって、まあ、アレっぽいけど…。 しかし女性のいる店に行くわけにいかんからなあ。 そういう店って高いし、お手頃価格で粋なおっさんがいるお店が一番。 さて、えーと。 実に久しぶりに1日休むことにして、たまった本読んでました。 『イエスの王朝』 歴史的人物としてのイエス・キリストを読み解く。 なかなか面白いが、特にエキセントリックではない。 ちょっと史料的な裏付けが弱い気がする、か、な…。 『ユダの福音書』 先般発見された紀元2世紀のグノーシス派文書の一つ、 ユダの名を冠する福音書の全訳など。 全般的にちょいと弱い。名前負け、か、な…。 ジーザス・クライスト・スパースターの方が面白いぜ。 『脳と意識の地形図』 『脳と意識の地形図2』 リタ・カーターの一般向け科学教養書。養老さん監修。 わかりやすく、大脳生理学の現在と進歩をひもとく人にもいい感じ。 人間は不完全な有機的マシンだと実にすんなり諒解できる。 「悪人か狂人か」という問いは実に胸に迫るものがあった。 左脳が萎縮し右脳のない男を、人間として訴追しうるか。 治癒しえず、責任を求めええぬかれら。法律は応えるすべを持つだろうか。 読んだなあ。ぜんぶハードカバーなのに。 目がしょぼしょぼする。でも幸せ。さすがに私は変人だと思う。 - - 2006年08月04日(金) 病んでいるのか。 まことに、これこそ病だ。 際限なく落ちる星のように、わたしは健全さから逃亡する。 はがれ落ちる古いペンキの皮膜のように、わたしは世界から剥離する。 これは病だ。 しかも癒えない病だ。 救いの叫びは誰の扉をも打たない。 死に行く喉をおさえて悲鳴は絶滅した。 わたしはねむる。それは否定の一つの身振りだ。 - - 2006年08月03日(木) 金星をあげる機会を二度間近にして、二度とも取り逃がした。 それがどうした。三度目、わたしはけっしてそれを離しはしない。 力の限り そらいっぱいの とうめいな パイプオルガンを (いいか、おまえはおれのでしなのだ) - - 2006年08月02日(水) 誰のため、という概念を欠いてすべては空しい。 町は誰のものか。人生は誰のものか。この国は。 それはまさに思考の主体から切り離しえぬものであって、 切り離すことは無意味でしかない。もしくは悪趣味でしか。 いわゆる「左」の人々が嫌いな理由はそこだ。 かれらはなにか絶対的な価値観があるように振る舞っていて、 ただ無意味に透明になろうとしているように見える。 国家が教育において大きな負担に甘んじているのは、 人材を求めてのことである。これは確かではないのか? 町が荒廃してゆくのはただそこがどうあるべきかという コンセンサスとそれに対する情熱が枯渇したからではないのか? コンビニ弁当で日々を過ごしながらも少しも自分を惨めとしないのは そうした己を愛着し、そうした己の形を是としているからではないのか? 正義はすべて「誰か」の正義だ。 そういう意味において9・11テロもレバノン侵攻も同程度に正しい。 ただ第三者がどのようにして判断するかもまた、 この込み入った世の中では一つの勢力であるというだけだ。 私がソフトな愛国心を抱いているのは、 この国という基盤、この国という後ろ盾なしに私がありえないからだ。 私は透明な存在ではない、私は概念だけの生き物ではない。 それだけだ。 - - 2006年08月01日(火) どうせ1日18時間働くなら、勝ちたいものだ。 こういう感じが好きだ。 そうだ、誰もあてにはならない。 役所のかげの路地で、大切そうに長細い新聞紙の包みを両手に抱いてた老婦人と行き会った。彼女の包みは一見、たとえば生け花に使うなにか長い種類の花か枝かと思われたが、もうよほど近づいたとき、わたしはふいに、包みの先端のわずかの隙間から、とがった白木の板が顔を出しているのを見つけた。それからそこに梵字。つまり卒塔婆だった。 老婦人は誰の卒塔婆を抱いていたのだろう? つれあいか、それともさらに老いた父か母か、あるいは先立った子孫のものか。思うに、それが誰であったにしろ、老婦人の人生の少なからぬ一部を持って行ってしまったのだ。人生の一部、日々の一部、彼女自身のかけらを。 死者が懐かしいのはそうした理由によるのだろうと、老婦人とすれ違いながら私は考えた。かれらとともに残されるものの人生の一部もまた死ぬ。共有した歴史、時代、歌、日々、情欲、愛情、憎悪さえ、分かち合った相手の死によってもぎ取られていってしまう。老いていくのが寂しいのは、まだ生きているにもかかわらず、かれの生涯のほとんどすべてが先に逝ってしまって、なじみのない世界に残されるからにほかならない。かれにとって大切なものは、もう死のほうに行ってしまっているのだ。 わたしたちが死者を思うとき、思い出されるのは正確にはかれらの持って行ってしまった私たち自身の歴史と思いなのだ。このことが実証するのはなにか。なにもかも、まったく誰かのものであることがない。 なにもかも、ただ、わたしとあなたとの間にあったものなのである。 -
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