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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年06月30日(金)

指がだるい…

6時間連続で打ち込み作業をやってたら、さすがに指がだるくなった。
あと2時間で終わるが、明日に回す。ええ回す。もうヤダ。

車の購入を検討中。車種?
トゥインゴですよモチロン。
100万円出せばいい中古が買えるんだよなーぁ。
ムーミンみたいな脱力系で時速140キロ出したいぜ。


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- 2006年06月29日(木)

新人教育が始まったわけだが

んー。
誰かに何かを渡すときに受け取る相手のことを考える、というのは。
これはあたりまえなことではないんだろうか。

仕事先からカタログをもらってこさせたのだが、
どうも向こう様が順番をぐちゃんこでくれたらしい。
それをそのまま私に渡しやがった。

教育係でなければ、受け取って直して黙っているんだが、
まあ、そういうわけにもいかん。
やんわりと「そういうときは」と言いつけた。
夕方になってもそのままだった......orz

というわけで、ひとしきり怒鳴ってやってから、
私も手伝って並べ直してきちんと揃えた。
ホントはタグまでつけさせたいところだったが、まあそれは今度。

子供の使いじゃねえんだ。
完成形にして相手に渡して、そこで初めて完了なんだ。
新人なんて役にたたないんだから、感謝と気配りは忘れてくれるな。
そっから教えなきゃいけないってのは、困ったもんだなあ。

フツーは家で親の手伝いしながら覚えると思うんだけどなあ。
今の子ってみんなこんなんかしら…。


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- 2006年06月28日(水)

飢えを満たせわれらが“神”よ。


新聞のコラムで面白い言葉を見つけた。
アルゼンチンの英雄マラドーナがようやくW杯の優勝トロフィーを
自らの手にしたときのものだ。

「俺はこいつに飢えていたんだ」

パンでもなく水でもなく、だが人間はなんと多くのものに飢えるのか。
長年にわたり、マラドーナの飢餓は深かっただろう。
その飢餓はやむことなく彼を責めさいなみ、突き動かしただろう。
彼はトロフィーを手にして初めて満ちた。

わたしはその時代、その場所にいあわせなかったが、
彼のために冒頭のように言いたい。
そしてまた飢えを満たせ、あなたは満ちるに値すると。


さて、この言葉はどう転用できようか。
マルチェロは名声と地位に飢えていたから、
即位式にあたってこのように彼にいうことはできるだろう。
少なくともかれにそのように呼びかける男を仮定することはできる。

それとも、マルチェロの言葉として仮定することもできる。
彼は赤い空の下を歩みながら言わなかっただろうか。
さっきまでわが身に重なっていた暗黒の力が急速に伸び行く、
そのことを知りながら、抑えがたい憎悪に満ちて。



とりあえず寝るべ。


そして起きて一日働いて歓送迎会なんてものまでこなして深夜。
だめだ、わたしはこれだけ別れなんてものを経験して、
それでも慣れない。こうした悲傷を、人間はどのように生きればいいのか。

感情は満ちることを知らない。
喜びも悲しみも、ほんとうに抱きしめる手だてはない。
せめて沈黙していることを許してはくれまいか。どうか。


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- 2006年06月27日(火)

 きみはきみの日々をゆく。
 わたしはきみに別れを告げる。


というわけで後輩とお別れだ。
私が少しでもきみの長所を伸ばしてやれたならうれしいことだ。
そしてわたしはきみから学んだことを覚えていよう。

そして再び新人教育の日々が始まる…(フッフフ)


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- 2006年06月26日(月)

気になったこと

1:W杯ドイツ大会で、日本代表が
国歌をうたうときに後ろ手だったこと。また歌っていなかったこと。
歌ってないのはまあ、緊張のあまりよその国でもけっこうそうだが、
仮にも国の代表としてそこに立っていて、
自分の国の国歌がかかってるときに後ろ手はねーだろ…。
愛国心とかなんとかというより、空気読めって感じだな。


2:いわゆる芸能人が、記者会見で
帽子をかぶったままだったり、サングラスをつけたままだったり。
ファッションはそれとして、礼儀というものがある。
公の人間として臨むときに、私的な趣味に拘泥するのはいかがなものか。
これもまた、空気読めってことだな。
まあ、芸能人なんてチンピラみたいなもの*だから、
礼儀を期待しちゃいかんのはわかっているんだけどね。

*芸能人とは芸人であり、芸人とは歴史上、卑賤の民とされてきた





最近、自分がやっぱり礼儀というものにこだわる人間だと再発見。
ネットではそうでもないけど、リアルだとガチだな。
「人を招くときは、家を掃除してから」という母上の血だろうか。
最近自分が笛子姉さん(@朝のNHKテレビ小説)に似ていると思う。
でも笛子姉さん、結婚しちゃったよなあ…。
こんな私の明日はどっちだ。


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- 2006年06月25日(日)

おんがく、が

 マーリドは顔を上げる。頭上にあるのは暗い蒼、砂漠の夜の天蓋だ。琵琶(ウーディー)を持つ手を休めて、天の火明かりに見入った。
「聞こえぬか」
 その問いに答えるものはなかった。ここは闇のうちの闇、静寂のうちの静寂。人も獣も通わぬ荒野の一片。すべての砂の生まれ来るところだ。
「聞こえぬか、この音楽が聞こえぬか。世のものすべてにさきだって在り、一切にかかわらず世のおわりまで響くおとが聞こえぬか」
 それはさびしい音楽で、ゆったりとした無限の変奏のうちに姿を変えながらも、深みには普遍の拍子があった。その、なんといううつくしさであったことか。骨をなでるほどさみしくやるせなくわびしく、しかもそれが撫でる骨といったら、それは聞くものすべての骨であるのに違いない。奏でる手の持つ心は、澄んだ泉の、うかがい知れぬ深いとよみに似ているであろう。
「うつくしいな」
 マーリドは琵琶を取った。聞き知る調べはいかなる楽器、いかなる定命の種族の手よりも歌いだせぬと知りながら、それでも、歌い始めた琵琶は、かすかにその天上の響きを帯びて、遥かに遠くでは狼の吼え声が夜の大気をつんざいた。
 やがて琵琶を弾き続けるかれの頭上に、月でも星でもない光がおともなく降り注ぎ、かたちのない影たちがそのうちを漂い過ぎていった。次いでもっと巨きな気配が衣のすそに包みとるようゆっくりとかれを取り巻き、それもまた薄れて消えた。最後にきたのは王侯の天幕ほどもある巨大な狼で、漆黒の毛並みを光のうちにひとうち震わせて、うたびとの前にねそべった。だが光がうせるとともになにもかも消えうせて、音楽の途絶えるとともにもとのもの寂しくだだっぴろいばかりの暗がりにかえった。
「聞こえた、なんと多くのことが聞こえたことだろうか」
 マーリドはささやいた。
「時のはじめから今にいたるまで、大地の見た夢はしんきろうのように立ち上って俺の周囲にあった。百万年は一瞬のうちに俺の周囲に広がり消えて、俺はこの地が緑であったころを聞いた。狩りするひとびと、羊を連れたひとびとが来ては立ち去っていくのを聞いた。その夢と音楽を聴いた」
 ことひきマーリドにまつわる数多い逸話のひとつである。


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- 2006年06月24日(土)



わたしはここにいます
ひるもよるもここにいます
ここにいるということに
やむときはないのです



路傍に行き会った石仏の沈黙は深く、
わたしはそこからそれらの言葉を汲み取ることさえできた。
その沈黙はかれがまだ仏となる以前、
あわだつ火成岩のうちに醸成されたときから始まり、
とおく宇宙のちりとなるまでも続くながい沈黙であった。



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- 2006年06月23日(金)

母上にはジンクスがあって

私の下宿に遊びに来ると、仕事が忙しくなる。
今週の私の仕事具合からみると、これは本当ではないのか。
と、思えてくる一週間でしたコンニャロー(涙)

まあいいよ、別にいいよ。
愛してるからマイマザー。

でも私のいない間に模様替えすんのはやめて…。
読みかけだった本「殺人という名の病」が見つかりません(ぽつーん)


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- 2006年06月22日(木)

楽しすぎていかん(笑)

「次のネタ」をやたらに探してしまうではないか!
凝り性なんだ、もともとが…。

次のネタ
・ハンマーム
・傷跡


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- 2006年06月20日(火)

誰も

誰もあてにはならない、何を信じてもならない。
不幸と寂寥と差別はあたりまえで、幸福と楽しみと公正はごくごくまれ。
努力はせねば何も起きぬが、努力したとて報われるとは限らない。


こういったことを、わたしは子供のときに学んだ。
しかもそれは当然のことであって、あたりまえのことであった。
重要なのはその次のことだった。


どのように生きたいか。
なにものとなりたいか。


わたしはこの問いにつきあたって実に多くのものを捨てたが、
わたしの道は進むほどに透き通り、青みがかって、美しい。

どのような幸福も揺るがせにせず、
さりとて余分に求めもしない。
どのような不幸も静かに悲しむにとどめ、
先へと進む力を失わない。
強靭でかつ繊細であり、愛されるより愛することを望む。
そういうものに、わたしはなりたい。





ざんねんながら、まだまだ修行は足りないが。
また仕事先とおおげんかしちまったよチクショー!


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- 2006年06月19日(月)

来たれ戦よ、荒々しき騎兵丘に氾濫す
来たれ戦よ、平原は長槍の密林に覆わる

進め戦士よ、汝が利剣を敵の頭上にふりかざせ
きょうの日、血に赤き外衣を着るものこそ勇者の名にて呼ばれん
バクルよ、フィラースよ、スライと“赤”のムダールよ、バニ・キラブよ
ウマルとウスマーンよ、エル=ファズルとガズニ、またアジィズよ
殺せ、殺して生きよ、ジムマーンの末裔よ

進め、合戦を熱せしめよ、激せしめよ
臆するなかれ、われらの上にマディーナの黒き旗あり、
われらが上に黒き旗ありて、燃ゆるごとひるがえる!


 マディーナの若い王は顔を上げた。天幕の外に歌われる戦歌はすでに耳慣れた。鼓の4打という速い音と鋭く畳み掛けるような詞が騎士たちの心をとらえ、初めて歌われるやすぐさま野火のように広がって、瞬く間にすべての陣屋で歌われるようになった。
 黒い旗のもとに集ってきた支族のほとんどは、最初はあからさまに警戒し反目しあって心ひとつであったとはいいがたかった。しかし、それも無理からぬことではあったのだ。通常なら、かれらは支族ごとに広大な荒野に散り、ときには水をめぐって争いさえする間柄で、マディーナと大ジムマーンのことは遠い伝説と欠くべからざる義務として名のみ知られていたにすぎなかったのだ。
 だが不思議なもので、この歌が広まるにつれ、支族をこえた交流が始まった。よそよそしかった挨拶が心のこもった握手に変わり、ひとつの天幕にすべての支族の若者が集まることさえあった。一つの歌によって、疎遠となっていた親戚が血のつながりと連帯を思い出したのだと、マディーナの王ジブリールは詩歌の持つ力の強さに思い至って感嘆したものだ。
「報告を聞こう」
 ジブリールに促された重臣はうなずいた。その告げるところはかくのごとし。

 北の国境よりマディーナにつづく「隊商の道」に沿って移動し来たり、首飾りのように連なる水場を次々と奪いつつ南へと進みつつあった帝国の先遣隊は、









かーきーかーけー。だめだ、なんか楽しい。楽しすぎる。


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- 2006年06月18日(日)

きわめて多くの人間にとって、
「人間の殺し方」は史上つねに最重要なトピックスだった。

なぜか。

簡単なことだ。
人間にとって最重要な環境とは自らの属する人間社会だった。
そうだ、天候でも、野獣たちでもなく。
「人間にとって最大の狼は人間」という言葉を思い返して欲しい。

人間が地位の向上やなんらかの賞与を求めるなら、
助けになるのは人であり、邪魔になるのも人なのだ。
通常は間接的かつ婉曲な関係であっても、なにかの拍子に展開しうる。
それはじっさい普通のことだ。

「人を殺すこと」は、多くの場合最大のタブーであったが、
にも関わらず、殺人に関するあらゆる技術は向上し続けた。
よりすばやく、よりたやすく、より確実に。
同時にWhodonitを問い返す技術も。


要するに、ナイフは胸骨の上に備えることだ。


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- 2006年06月17日(土)

そして来ました異動の季節…

私は残留決定で、これは別に異議はないんだけど…。
後輩が! 手塩にかけた後輩が!
さみしくなるなあ。ようやく一人前になったのになあ…。
という話をしみじみとしていたら、

「わたし、先輩のことのように思ってます!」

ヲイ。俺はこんなでかい娘は産んだ覚えはねえぞ!!
せめて姉とかさあ…。
また一から新人教育かよ。暑い夏になりそうだ。


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- 2006年06月16日(金)

山根さんからまわってきたバトン。
ご期待に添えたかどーか…。

■朝起きたらマルチェロがとなりに寝てました。さてどうする?

太郎飴 は ねぼけている。
太郎飴 の 攻撃!
太郎飴 は マルチェロ を 蹴りとばした!
マルチェロ は ベッド から 落ちてしまった!
マルチェロ に 30 の ダメージ!

■そんなことしてるとマルチェロが目覚めた!どうする?

マルチェロ は 怒っている!
マルチェロ の 攻撃!
マルチェロ は 嫌味に笑った!
太郎飴 には 効果 が なかった!
太郎飴 は ニヤニヤ している!

■マルチェロにつくってあげたい自慢料理は?

太郎飴 の 攻撃!
太郎飴 は 台所 に 立った!
なんと! ゆで卵 が こげてしまった!
マルチェロ は ショック を うけている!
マルチェロ に 55 の ダメージ!

■マルチェロとドライブ、どこに行く?

マルチェロ の 攻撃!
マルチェロ は 助手席 で まごまご している!
すかさず 太郎飴 は ハンドル を 握った!
なんと! 車 は 時速140キロ で 走り出した!
マルチェロ は サイドボード に 頭 を ぶつけた!
マルチェロ は 18 の ダメージ!

■マルチェロがあなたにひとコト言ってくれるって!なんて言ってもらう?

太郎飴 は ニヤニヤ している。
太郎飴 は 何も してこなかった!
マルチェロ の 攻撃!
マルチェロ は 「よくもでたらめばかり書いたものだな!」と ののしった!
太郎飴 には 効果 が なかった!
太郎飴 は ニヤニヤ している!

■マルチェロがあなたのために歌ってくれるって!

マルチェロ の 攻撃!
マルチェロ は 怪音波 をはなった!
しかし 太郎飴 は 音痴 だった!
太郎飴 に 0 の ダメージ!

■マルチェロがあなたになにかひとつしてくれるって!時間は5分。

太郎飴 は ニヤニヤ している!
太郎飴 の 攻撃!
太郎飴 は ねっとりと マルチェロ を 見ている!
マルチェロ は ショック を 受けた!
マルチェロ に 10 の ダメージ!

■マルチェロにひとつなにかしてあげられます。時間は5分。

マルチェロ は おびえている。
マルチェロ は 「頼むからどっかいってくれ」とすすり泣いた。
しかし 太郎飴 に 効果 は なかった!
太郎飴 は ニヤニヤ している! 

■マルチェロにひとコト

太郎飴 は ニヤニヤ している。
太郎飴 の 攻撃!
太郎飴 は 「今度は童貞受けエロを書くネ」と言った!
つうこんのいちげき!
マルチェロ に 20000000000 の ダメージ!
マルチェロ は きぜつした!
マルチェロ を やっつけた!

■次にまわす人

やっつけちゃったので、アンカーとさせていただきます。
微妙に消化不良かのう…。


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- 2006年06月15日(木)

 諦める、ということを、マルチェロはかつて一度も肯ったことがない。それは実にまっとうなことであった。これまでの生涯において一度でも諦めを受け入れていたとしたら、その瞬間にも彼は死んでいたであろうから。
 いうなれば、愛に満ちた家庭に生まれた子が誠実と思いやりとを学ぶのと同じ理由で、マルチェロは裏切りと不信と嘘とを学んだのだ。つまり生き延びるために。誰からも脅かされないために。殺され傷つけられないために。
 マルチェロは孤独であっただろうか? 常に。だがそれは不幸ではない。彼の目には世界は嘘と裏切りに満ちていたから、孤独であるよりよいことはなかった。秩序が上に立つものが圧制に用いる道具でしかないと信じるとき選びうる道は孤立と反逆よりほかにない。それは自然であった。彼の不幸はそれを疑わせるものが常に身近にいたということにある。

 はだかの体の上を、手が這ってゆく。おずおずと不器用に、だが温かく。マルチェロは黙ってその手を感じていた。胸を過ぎて脇腹へ。再び上がって胸へ。喉へ肩へ、そして柔らかな嘆息とともに胸の上に額が置かれる。
 この行為はマルチェロにとって新しく学ぶものだ。ただ黙って横たわっていることに過ぎなくても、やはり新しいことなのだった。誘惑でなく挑発でなく、互いの隠された意図を読みあう行為でもない、ただの愛撫。
 ただの愛撫。だがそれは、どのように受け止めればいいのか。測りがたい海を前にしたようマルチェロは戸惑い、そのうちに思い悩むことをやめた。この弟の望みは理解できたためしがない。目を閉じたままされるに任せた。

 虜囚の身となって半年が過ぎていた。最初の数ヶ月は暗い独房で暮らし、ある日なんの前触れもなく見知らぬ城へ移された。そこで待っていたのは、終生を封印されて過ごすべき囚人の予期する惨めな生活でこそなかったが、それよりもはるかに彼を当惑させるものだった。
 城内を歩く自由と十分な衣食住、わずかながら書物まで与えられる日々にマルチェロは不満を述べる筋合いもなく日々をすごし、だがときおり奇妙な気配を覚えた。それは音というにも形というにもわずかすぎて気配と呼ぶよりほかにないもので、しかもそれについて問いかけるべき相手はいない。
 そうした夜のうちのひとつの夜に目覚めて、ふいにマルチェロは気づいたのであった。糸のごとく引いていたその気配は弟のものだったと。

 そうだ、この体の上を這っているのは弟の手、触れているのは弟の髪だ、とマルチェロは横たわり、目覚めたしるしさえ見せずに考える。最後に見た記憶はゴルドのあの激動のさなかだった。それよりあとは噂も聞かず、またしいて行方を尋ねようとも思わなかった。その弟が、なにゆえいまこのとき己に触れているのだろうかとマルチェロは奇妙に思う。











ぐろっきー(ばたり)
あられもないエロまでは遠かった。


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- 2006年06月14日(水)

 ククールは弓を引いた。己が力をククールはすでに信じていた。力と、そして勝利を。ゴルドの切り立つ岩壁を視界の端に、青と黄金に装う兄を視界の中央に知りながら、感情はもはやいささかも波立っていなかった。とはいえそれは凪いでいるというのではなく、ただ薄く薄く透き通り、肌に沿う冷たい気流となってめぐるようであった。
「シャイニングボウ!」
 ああ俺は兄貴を傷つける。殺すのだ。ククールは脳裏につぶやいた。それができるだろうとはこの日、このときまで思いもよらなかったが。光り輝く矢は鋭く天を突き、それからマルチェロを襲った。
 光が激しく瞬いて消えたとき、ククールは静かに弓を下ろした。法王になろうとした男は頭をたれ、ひざをついている。その男のそんな姿を、ククールはこれまで見たことがなかった。
「ククール?」
 腕を引っ張られてククールは振り返り、赤毛の少女を見出した。気遣わしげに眉を寄せて見上げてくる少女に向けて、ククールはちらと笑った。
「ほめてくれないのか」
 ゼシカはそっと手を引き、つんと唇をとがらせた。
「まだよ」
「ああ、うん」
 二人は前を向き直った。ククールは血と泥に汚れた男の苦痛に満ちたまなざしを受け止め、背後の少女をかばうように右手を少し上げた。




いつのまにかククゼシに。
ノーマルカップリングはオフィシャルでなけでば基本的にあんま興味ない。
しかしこの二人はいいかもなあ。兄妹か姉弟っぽいが。




りるるさんからまわってきたバトン。
■自分を色に例えると?

限りなく黒に近い灰色。
もしくは限りなく黒に近い群青色。

■自分を動物に例えると?

オオカミ系のイヌ。シベリアンハスキーとか柴犬とか。
忠実だが従順とはほど遠い。世界の果てからきみを愛しているよタイプ。
放浪&ガブリエル機能搭載。

■自分を好きなキャラに例えると?(漫画や映画何でも可)

アイザック・アジモフ「鋼鉄都市」のロボット・ダニール・オリヴォー。
もしくは「シルマリルの物語」中のハレス。戦乙女っぽく。
ドラクエ8で強いていうなら、トロルかゴーレムか動く石像。

■自分を食べ物に例えると?

生姜湯。ただし蜂蜜ナシ。
ヤマブドウの蔓。甘みもなにもないがビミョーに食える。

■次に回す5人を色で例えると?

えーと、アンカー希望(笑)
単に知り合いを色でたとえてみると、

オルフェさん→限りなく白に近い灰色
りるるさん→5月の英国庭園の豊かな色彩の感じ、単色にあらず
加藤夏来さん→甕のぞきの色
山根末椰さん→オレンジに近いビビッドな橙色、スペイン国旗の色?
たかむらさん(すいません字が出ないです)→雨にぬれた鉄の銀色


以上、好き勝手。


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- 2006年06月13日(火)

 愛と呼ぶには憎しみが多すぎ、だが憎むにはもう遅すぎる。どうすればいいのかと心に問うても答えはない。今も、そしておそらくこれからも。
「……」
 ククールは黙って窓辺に座して、ゴルドへの暗い航路を眺めている。仲間たちはもう眠り、聞こえるのは船が青黒い波頭を砕くその単調な響きばかりだ。
 ククールはこうした暗さ、こうしたどうどうめぐりの思考、胸ふさがれる懊悩をよく知っている。それは修道院において親しくさえあった。あらゆる道がふさがれて、どうしたいのかさえ定かでなく、求める思いばかりつのって苦しく、切なく、やるせなかった。
 あのときと何が違うだろうか、とククールは自問する。それは、何をしなければならないかを知っているということだろう。望むと望まざるとに関わらず、彼はゴルドへと向かっている。ククールはこの船の歩みを止めることをしないだろう。仲間たちをおいて逃げ出すことをしないだろう。振り上げた刃を途中で止めることはなしないだろう。
 ククールは苦い涙にくれながら考える。なすべき道を外れまいとする決意は心を二つに引き裂き、見えない血は絶え間なく流れている。これが正義だというなら、これが強さだというなら、俺はこんなもの欲しくない。少しも欲しくなかった。だが彼がどう思おうとそれはすでに彼に備わっていた。そして船は一路、彼らをゴルドに運びつつあった。



ククールはじつは泣き虫だといい。
一人でいるときはよく泣いているといい。
ゼシカさんはそれ知ってるけど、いわないといい。
でも次の日の朝食でちょっと多めにソーセージとか盛ってやるといい。
女性キャラには自分を投影する傾向が強いので、
どうしても男前かつさりげなくってかそっけなくなる罠。


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- 2006年06月12日(月)

 黒い旗は音もなく、音もなくはためいている。夜明けは彼方より来たり、影は長く落ちた。マーリドは遠く地平から三騎の駆けてくるのを見た。彼の鋭い目は彼らの上にマディーナの盟主の印と、疲労と憎しみといや増しの誇りとを見て取り、吉兆と凶兆が揃って使わした使者であると知れた。
「血が流される、血が。高貴の血も卑賤の血も、流されて何の違いがある」
 マーリドは呟き、心地よい朝の風に微笑する。その頭を包む布が吹き流されて旭日に輝いた。白く、歳月にさらされた骨のごとく白く。



パソコンがぶっとびました。またです。ええ、また。
しばらくメールは使えません。
あられもないエロが書きたいなあ…。


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- 2006年06月11日(日)

ところで最近、

 保健所に行って、いわゆる「処分」なるものを見てきた。死んだ犬の群れは毛皮の固まりにすぎない。その中に、さっきまで震えながら私を見ていたゴールデンレトリーバーが紫色の舌を出して硬く動かなくなっていた。絶望したようにうずくまっていたパピヨンも、私に向けて尾を振った子犬らも。死ぬというのはこういうことだ、殺すというのは。何も難しいことはない。

 別に人様の神経を逆撫でしたいわけではない。単に、実際に行われているにもかかわらず、それがどのようなことかを知らないでいることによって、無関心でいることはできないと思っただけである。
 死は死に過ぎず、悲惨は悲惨に過ぎない。だが受け入れるにせよ肯わないにせよ、感情面を含めた形で対決しないのはうさんくさいことだ。何もせじずに遠く離れて嘆くばかりの人は「心やさしい」とみなされない。泥にまみれて非難を受け、愛されるより先に愛している人間、大きすぎる義務を自ら背負う人間だけがそう呼ばれる権利を持つ。彼らは不幸である。

 それで私はというと、歯を食いしばってこうした事実をわずかでも改善しようとは思わなかった。ただ私にできる形でこうした悲惨を少なくするべきだと思っただけである。それはエイズに対しても貧困に対しても差別や戦争に対してもそうであって、私は心貧しい凡人に過ぎない。ただ現実に何が起きているのかこの目で知っておいて、そうすることを決めようと思う。


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- 2006年06月10日(土)

畠山鈴香容疑者に捧ぐ

 それにしてもどっかで聞いた名前だと思ったら、2年ばかり前に宇都宮で起きた立てこもり事件の犯人で自殺したオッサンの名前だった。
 この事件の特異性は、2つの事件の連関にある。1つは事件…というか、おそらくは事故だろう。畠山容疑者はこの事件によって幼い長女を失った。報道によればネグレクトに近い扱いだったということだが、表面的な事象を追うことは、この場合、参考にはならない。不意の死という悲劇は、日常によって鈍磨した愛情を蘇らせ、破滅的な反応を引き起こすに足りるからだ。むしろ養育放棄に近い状況であってああした事故が起きたというで、感情は「私のせいだ」という、より深い罪悪感に悩むことさえありうるのだ。
 あの日、彼女に何が起きたのか。手元にあるのは限られた情報に過ぎない。起きたことだけいうなら、彼女は娘の友達を絞殺した。絞殺という殺し方については、力の弱い相手を殺す際にはきわめて一般的で、衝動的にも計画的にも用いられるから、あまり試論の役には立たない。
 畠山容疑者は娘の死に対して、おそらく深い罪悪感と否認の思い、そしてこれらをかけあわせて自分以外に彼女の死に責任のある人間を求める気持ちを抱いていただろうが、同時に、こうした葛藤を味わわせることになった当の娘に対してある種の怒り、それも悲しみや困惑が深いだけに激しい怒りを抱いてもいただろう。これは心理学的に所以のないものではない。それは意識されるかされないかに関わらず、論理的帰結として導かれる結論だ。
 こうした感情的バックグラウンドを推察するなら、「娘の形見をもらってほしい」と家の中に招き入れた男児がその当の娘と重なって見えたときに、彼女の弁護士が言ったように「切なくて胸が張り裂けそうな」気持ちとなったとして、またそれが殺害に結びついたとして、それはわかりやすい話だ。そこには、ここでは割愛したが、おそらく良心の愛育を受けていた男児に対して、自分が満足に手をかけなかった娘へのひけめもまたあったろう。
 殺害後の畠山容疑者の行動についてはどうだろうか。彼女は「悲劇の母親」であり続けねばならなかった。これは確かである。彼女は(自分の不注意で)失った娘を惜しみ、娘にとらわれ続けねばならなかった。ゆえに彼女は自然にそうしたのである。彼女がマスコミに対して示した姿勢はまさに、こうした「悲劇の母」を過剰に演じることであった。人を殺すことによって抱く良心の痛みはおよそ常人のよく耐えうるところではないが、彼女は実にそれを二週間あまりも貫いた。これは驚嘆すべきことだ。
 この事件は心理的に見て興味深く、倫理的にみて信じがたく、心情的にみて悲痛である。だがここにいるのはいずれも人間である。人間にすぎない。



本日の朝日新聞夕刊一面サイド、W杯ドイツ勝利の見出し

「開幕戦圧勝 魅惑の攻め」

死ぬかと思った、マジで。魅惑の攻め…。


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- 2006年06月09日(金)

 マーリドは天幕に伏して眠り、夜明けの気配に目覚めた。それは明るさでなく音色でもまたなく、ただ水のような気配に過ぎなかったが、彼の鋭敏さはそれをかぎとる器官を持った。立ち出てみれば、かすかに黎明の風が頬に触れていった。ふと振り返り、マーリドは言った。
「待っていたのか」
 天幕の前に立っていたのは赤皮のムダールの若い公子だ。明らかに不機嫌に、両手を握って立っている。
「待っていた、話をしよう」
 マーリドはかすかに笑った。夜半、マーリドが疲れて天幕に戻るときもなお歌と酒に酔いしれていた若者たちのうちにこの公子も混じっていたことを思い出したからだ。そういえば、まだ公子の周囲には淡い酒の香がある。
「話をしよう、だが後で」
「今ではならぬと」
「酔うた男と話をする慣習(ならい)がない」
 公子はいっそう不機嫌に立ち、マーリドは顔を洗おうとその傍らを通り抜けた。やがて井戸のかたえにたどり着き、顧みれば東の空はほの明るい。ほの明るく、掲げられた黒い旗は砂漠の木のごとし。





思いつきで書いてたら、ムダール坊やが気の毒になってきた。
名前くらいつけるべきか? 性格もできてきたし。
書きながら考えるのはわたしの悪いくせだ。でもわかりきったことなんか、
そんなもの書く気にもならないもんねえ。



ドイツ、攻めはすげーのに受けはだめか?(確信犯的誤記アリ)


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- 2006年06月08日(木)

心のこもった贈り物をもらうと、どうしてこんなにうれしいんだろう




 楽の音が鳴り響いている。マーリドは黙って炎を見つめ、居並ぶ人々の談笑を聞くともなく聞いていた。砂上に敷かれた絨毯が宴の席であり、頭上に輝く無数の星が宴の屋根であった。そして囲いの中に在ることを恥とする砂漠の部族の集いに壁はない。
 マーリドはふと顔を上げた。気づかぬうちに傍らに座を占めていたのは、昼に行き会った赤皮のムダールの若い騎士だ。まだ少年といったがいい顔立ちには槍の穂先のごとく鋭い目が輝いて、マーリドを見ていた。
「何用だ」
「話をしたい、名高いマジュヌンと」
「昼にはその名は顧みられなかった」
「夜は昼の言葉を消す」
 理不尽とさえいえる少年騎士の強い言いようにマーリドは微笑し、立ち上がった。炎の傍らの詩人の座が空いたからだ。
「話をしよう、だが後で」
 マーリドは若い騎士に告げて、進み出た。


 砂漠の黒い木を目にせしか
 ジムマーンの裔よ、砂漠の民よ
 自由の血を引くものども、砂漠の黒い木を目にせしか
 されば立て、立ち集い敵に向かえよ
 されば剣を取れ、戦い殺せ勇みて屠れ
 赤い死を恐れるな、一命を軽んずべし
 まこと一命を軽んじること偉大なる日、合戦の日に
 然り! 合戦の日、戦いの時、殺戮と死の刹那に
 ジムマーンの裔よ、我らは相出会う


 歌は鼓の重い響きを主弦に歌われた。そしてマーリドが歌いやめたとき、辺りには最後の二句が熱狂とともに繰り返されていた。それは次第に高まって、一座はまだ流されぬ彼我の血にすでに酔う気配であった。


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- 2006年06月07日(水)

 マディーナの黒い旗のもとで開かれた会合において、発言を求められたマーリドは立ち上がり、盟主たちの前でただ一言だけ言った。
「死なんがため来た」
 居並ぶ貴顕は声もなく静まりかえった。誰もがその言葉を聞き、率直さに胸を突かれ、同時に一人として答えるべき言葉を持たなかったのだ。長い沈黙の後に会議が再会したときでさえ、天幕の奥底には短い言葉の余韻が響き続けていることを誰もが理解していた。マーリドは静かに末席近くに連なり、ただ語る人々の言葉に耳を澄ませるばかりであったが。




死ぬかと思った。むしろ死にたかった(↓)


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- 2006年06月06日(火)


 扉はいつか開くだろうと思っていた。それとも知っていた。だからほんとうに背後で扉が開く音がしたこのときも、マルチェロは驚きはしなかった。抱いた感慨があるとすれば、それはただこの先もう二度と扉は開かないのだというそのことで、それはむしろ安堵に似ていた。
「……」
 聞こえた声は震えを帯びていた。それもまた、そうであろうとマルチェロが思っていた通りであった。そしてその声が胸の内にわずかに小さな波紋を広げたことについてもそうであった。マルチェロはそれを静かに圧殺した。難しくなどなかった。すべてはとうに、とうに予期し、とうに処遇を定めたことであった。迷いはすべて迷われ、そして突き詰められて定まった。いまさらいかな感情、いかな現実が動かせよう。
 そして扉は閉じた。それもまたマルチェロを動揺させることはなかった。マルチェロは視線を窓の外に投げた。高い窓は明るい真昼の光を投げている。最前と変わったところは少しもない。今日が昨日に似るごとく、千年が先の千年に似るごとく。マルチェロはかすかに笑った。そしてそのことに驚いた。こんなことは予期されていなかったのだ、こんな憐憫は。
 だがそれは誰のためのものだ。今し方訪れ、また去っていった弟のためか? 否、否。かれはそれでいいのだ。かれは広い世界を持ち、なすべき勤めを持ち、癒えぬ傷を抱いたままで生きていくだけの強さがある。だが己は。沈黙し、閉じて、永遠に語るべくを封じることを決めた己は。そうだ、喉を潰さなければ語り出してしまうであろうと知っていたその魂は。
 マルチェロは膝をつき、頭を垂れた。その黒髪に日差しは落ちて、遠い日に置かれた老いた手を思わせる温もりを感じさせた。



逆婆。もとい逆バー。6日16時のかた、ご返信ありがとうございました。
そのうちもうちょっとまともに仕上げる気です。気ですが。






 マディ−ナの黒い旗は掲げられた。それは、この砂の大地に生きるいかなる部族にも抗う権利のない、戦いの招集であった。北方の帝国が再び軍を挙げたのだ。族長はマーリドを頭に熟練の騎手二十人を送り出した。
 旅立ちにあたってマーリドは静かに宿営地を見渡した。トリルを歌う女たち、泣き暮れる老婆たち、老いたそれとも幼いものたち。その姿は見るうちに薄れるようであった。天幕や山羊、駱駝たちさえ、薄れて消えてゆくようであった。その向こうに静かに砂を走らせる砂漠のみあるようであった。
 マーリドはわずかに頭を傾げた。そしてすべてを肯った。彼は死ぬのだ。


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- 2006年06月05日(月)

「あなたの右手が罪を犯すというなら、
 それを切り落としなさい」――新約聖書

 ククールは房を出た。目にはまだ、窓辺にたたずんだまま振り返りもせず答えも返さなかった男の背中が残っている。もとより何かを望んでこの物寂びた修道院を訪れたわけではない。その男が侮蔑であれ和解であれなんらかの言葉をよこすだろうとさえ思ってはいなかった。だがそれでも、事実を前にしてみて傷ついたのは本当だ。
 傷ついた。そうだ、俺は傷ついた。ククールは苦く笑う。この胸は傷ついた。傷ついて血を流している。自分自身に嘘をついても始まらない。そう、求めていたのだ、侮蔑でも和解でもいいからなにか言葉を、それとも眼差しを。俺はそこから無限のものをくみ取ることができただろうに。
 ならば、と胸のうちに囁くものがある。ならば襟首を捕まえて引き寄せ、顔につばでも吐きかけてやればよかったではないか。それともひざまずいて哀れみを乞うてみせるか。あるいは昔そうしたように泣いて憤って悪態をついてみせるか。そうすれば少なくとも何かはあっただろう。そうしたことを何一つせず、ただ一言、そうだ、たった一言かけてそれで返答がなかったといってこれほど傷つくのは筋違いではないのか。
「うるさい」
 思わず口をついた呟きに、先を行く若い僧侶が怪訝な顔で振り返った。利発そうな少年は、かれを門からここまで導いてきたのだった。そしていまは門の方へと連れ帰ろうとしている。
「どうかされましたか、猊下」
「いいや、どうも」
「先ほどからお顔の色がよろしくないようですが、あの方と何か」
「話をしてきただけさ、気にするな」
 若い僧侶はいっそう怪訝な顔をして言った。
「しかし」
「なんだ」
「あの方は、沈黙の行を守っておいでです。ええ、ご自分で喉をお潰しなされて」
 ククールは凝然として沈黙した。振り返らなかった男の後ろ姿がありありと目の前にあった。どこにも開かぬと自ら定めた扉にも似た背を。そうだ、そのうしろにあるもの一切を封印し閉じて。




日記でごめんなさい。4日20時に拍手くださった方に捧げます。
この逆バーも作るかな…。
最近、スイッチが「オフ」だ。
どうもいけないどうもいけない。こんなんじゃいけない。


 足もとを砂が走ってゆく。嵐が来る。マーリドは顔を上げる。遙か彼方に雲間が切れて、死につつある太陽が緋色の光を投げてよこした。それは雲を染め地を染め砂を染めた。赤くまた赤く。血が流されるであろうと知った。


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- 2006年06月04日(日)

インド人を

 動かしてみた。かれこれ何年ぶりだ。もう5年近く前じゃないのか、最後にいじったの。かろうじて死ななかった数少ないキャラの1人で、腹の中に鉄砲玉を2つばかり食らったことがある。あ、もっとか。(うろおぼえ)
 基本的に、いなくなったキャラは2度と使わないんだが、このインド人はいろいろ未練があるせいでしぶとくまだ手元にいる。でもあんま使わない。なぜならカタカナでしゃべるので使いにくいから。時間かかるんだよ。
 というわけでメインはエロ坊主。バトルもできることが判明した千日回峰修了者で、とっても使いやすい。問題は私が仏典に暗いことか。勉強をしようにも仏の道は基本的に面白くない。禅宗くらいしか面白くない。でも禅宗では千日回峰できんしなあ。修験者でいいのかアバウトに。

 いつも思うのだが、キャラを使って誰かに会いに行くという行為は、そりゃもちろん相手と会いたいからではあるのだが、同時に自分のキャラを楽しみたいからでもあるんだよね。これはナルシーの親類だろうか?
 とはいえ、物語を書くのと同じことで、書いてて自分が面白くない話なんて書かないように、使っていて自分が楽しくないようなキャラは使わないのである。ああなるほどナルシーだな。いいじゃんかよ。
 先日、ちょこーっと動かしてみたアラブ人は、使っていて一番楽しいキャラクターだ。楽しすぎて相手さんに申し訳ないのであまり使えないのだが。エロでもバトルでもなくキャラを楽しみたいキャラって、どうも利己的だ。しかしそれが一番楽しかったりするんだよなーあ。もっとも相手さんを楽しませる技術に関しては研鑽を怠るつもりはないが。そういえばこないだ、ようやく淫乱受けというものをマスターした。死ぬかと思った。

 ダーク系といわれる街が好きだが、最近はそういうわけでシチュエーションを指定できるところが多い。最近といっても2週間前くらいからちょっとずつ復帰してきたんだけどさ。しかし時間を食うね。忘れてたけど。
 復帰した当初はロールが下手になっていて驚いた。もともと上手いとはいえないが、昔と比べてもヘタクソで驚いた。空間把握能力をもちっと発達させないといかんね。あとは、街に定着するかどうか…。悩ましい。



Calling....

あなたはどこにいるのか
夜がいよいよ深まるこの時刻に、あなたはどこにいるのか
野の獣のごとく戸外を走っているのか、風の冷たいこの夜に

ああ、わたしはあなたを呼ぶ
あなたを待つものがここにあると
あなたを案じて流される涙があると言う

あなた、帰っておいで、戻っておいで
どうかこの声があなたの心に届くよう
あなたの歩みをわたしのもとへと導くよう

世に正義がなく、哀れみもまた幻想にすぎなくとも
この窓に灯りを点して、わたしはあなたを待つ
あなたの寒さを悲しみ、あなたの心細さを悲しみながら

ああ、あなたはどこにいるのか
人々が寝静まる深夜、星々が凍てつく深夜、あなたはどこにいるのか
願わくはその道が、あなたを私に運ぶよう


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- 2006年06月03日(土)

ピアノの音というのは

 独断偏見でいうと、パーフェクトにダウナー系だ。頭の芯がゆっくりほぐれる感じがある。特にモーツァルト。あとロマン派。バッハはどっちかというとニュートラルに近いのだが、それでもモノによっては眠くなる。クラシックピアノでアッパーな音を響かせるのはGグールドぐらいだ。彼にはピアノで人をいらだたせるという珍しい能力がある。

 そういえば、このあいだ夢をみた。非常にナンセンスかつ恐ろしい夢で、起きてからもしばらく動悸がおさまらなかったくらいだ。どういう夢かというと生物兵器に襲われる夢で、えーと。場所は小島である。この小島の半分は軍の研究所で、そこで生物兵器の研究をやっていたわけだ。その生物兵器が逃げ出して、なんのつもりか私が住んでいる小さな町のある岬周辺を襲うわけだ。しかしこの生物兵器ときたひには、長さが多分100メートルくらいあって、太さも4−5メートルはあるという巨大なやつで、それも1本ではなく4本が束になっているお徳用。こいつが怒りにまかせて岸辺にうちつけ、キングギドラのようにそのへんの人々を食い散らしていくという次第。
 そういう襲撃の真っ最中、家に隠れてブルブルしているという夢を見たわけだから、起きてから自分がふがいなかった。せめて雑草駆除用の火炎放射器でも持ち出して応戦するか、カメラ持ち出して激写ルポすればいいのに夢の中の自分、と。しかし怖かった。どっごーんと荒波とともに打ち寄せる生物兵器が陸に打ち上がって、ブロック塀くらい平気でぶっ壊して、家の中の赤ん坊とかまでさらっていくんだもんよ。これはいったいどういう夢分析。

 流氷の海を、海底から見上げている思いを抱くことがしばしばある。これはまったく比喩ではない。見えるのはおそらくどこぞの映像で見た風景であり、ただそれが見たものよりもはるかに真に迫っている。私が自分の能力のうち感心できると思うのは視覚的な追認の能力である。
 私は何度となく引っ越しをしたが、その全ての家について正しく視覚を追跡することができる。通った学校についてもそうだ。「何階だった」と知っているのではなく、目を閉じてその視界を追想し、そこから数えるのだ。これは現実よりもう一歩進んだところでも応用しうる。つまり想像上、もしくは限られた情報、データから多角的に視覚を追認もしくは構成できるのである。これは多分、見たことのあるものより以上は出ていないのだが、同時に見たことのあるものから見たことのないものを構成しうるということでもある。よって、じつに多くの場合、私が「知る」といったときは、それを疑似であれ「見た」ということなのである。ある意味これは困ったものだ。
 そしてまた、私は知識を集積しようとしすぎる。私が再構成しうる範囲は広まりこそすれ狭まることはない。こうした視界をえることはときに致命的だ。私は殺人犯の思考をさえときに追跡する。これは快くはない。だが私はそれをやってみようと試みるし、できないことはない。どの程度正確かはともかくとしてだ。その結果、再構成によってえるものは苦い。多くの場合。


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- 2006年06月02日(金)

「わたしに躓かないものは幸いである」――マタイ福音書より

 上記のことばを思い出したのは「ユダの福音書を追って」なるノンフィクションを読んだからである。結論からいうと、面白くなかった。面白いと思ったのはほんの十数ページの最後の章、つまり「ユダの福音書」について、もったいぶってちょろっとだけ情報が出されたその部分だけだ。まあ、もっともその部分が読みたくて買ったからなんだけど。
 それで、上記の言葉である。こいつァ、イエスさまがことあるごとに弟子に言い聞かせる言葉であって、ほかの全ての逸話がニセモノだったとしてもこれだけは本当だろうと昔から思っていたセリフだ。イエスもしくはキリストに躓かないでいることは難しい。フツーに思想や教養や哲学をたどれば、どの道をたどっても彼に出会う。これは断言してもいい。西洋文物にちょっとでも触れれば、オマージュにしろパロディにしろ下敷きにしろ、彼に突き当たらずにはいられないし、明治以降の日本についてもそうだ。
 そして「つまづき」についていうなら、たいていの人間は、イエスさまに突き当たれば、この思想史上の大本締めについて考えざるをえない。ルイスが著作の中でいみじくも語っているように、「キリストとキリスト教について何の意見も持たずにいるということはできない」のだから。これは信仰とは別に問題である。そして考えれば考えるほど、つまづきは度を深める。これはおそらくキェルケゴールが言うように、キリスト教的人間となりうる契機ともいえるアクシデントである。しかし今は信仰には触れない。
 「ユダの福音書」をチラ見せされて、思ったのは、歴史上やっぱりおよそキリスト教にかかわった全ての人間がイエスにつまづいたということだ。これは今流行のナグハムディ文書とも関わっている。べつにマグダラのマリアがイエスの女房だっていいのである。ユダがイエスの真の弟子であったっていいのである。重要なのは実に多くのひとがこの歴史上存在したとされる(もしくは実在した)一人の人物に仮託して己が思想を語り、かつ己が信念を語ったということだ。
 仮託といった。仮託であろう。実のところ、もしいわゆる聖書に真実が含まれているとして、冒頭の一語以上ではないだろうと私は考えている。あとは思想と信仰だ。結局のところ、人々は彼イエスに仮託するよりほかなかった。それは広く伝達するためではなく、ましてや真実らしくするためでもなく、ただ彼らがイエスという人物につまづいていたからである。考えてもみてほしい。イエスという人物が仮定(もしくは実在)しなかったら、我らの世紀はよほど様相を変えていたに違いないのだ。
 にしても、イエスはなぜ冒頭の言葉を告げたのだろうか。もし躓かずにすんだなら、人はいったいどこへ行けるというのだろう。まさかグノーシスの天国だとはいうまいが。彼方を指す人をではなく、指し示される彼方をこそ。





  バニ・キラブの子ら問うて云う、
  かの魔狼は何に似たるか、我らかの魔狼と相知るときいかに言うべきと
  わが答えはかくのごとし
 
かれ漆黒なること新月の夜に似て、その眼は磨ける槍の切っ先
王者の天幕のごとく姿大にして、耳聡きシマウのごとく耳聡し
身ごなし速きは翼ある鳥の速さに勝り、その優美は純血の若駒の優美に優る
後に曳けるは勇気と寛容と果断の徳、すなわち三つの豊かの尾ぞ
 
かれシャッダードの子ザカリーの友なりき
歌は伝う、かれら共に行きて北の方ハラブに至り、南はヒンドの海を見たり
かの時にあたりて東西の諸族はバニ・キラブを重んず
栄耀の日々尽きてザカリーは斃れたれど、なお神は誉むべきかな
 
かれ砂つ原を疾駆しては星々のうちの飛び去る帚星
友と集いては雨運ぶ東風、敵に向かいては立つものすべてを枯らし殺す熱風なり
いで子らよ、かくのごとき友あること誇るべし、またかくのごとき友情に相応うべし
見えずともかれ常にわれらが傍らにありて、われらがため進んで血を流せり
 
しかしていつの日にか、いつの日にか氏族の子のかれに見えんことしあらば
無限の敬意と親しみと心よりなる喜びもて呼びかけるべし
汝シェイド、我が挨拶を嘉したまえかし
我らが父祖ザカリーの名にかけて、歌に語りしマジュヌンの名にかけて
バニ・キラブは永遠に変わらぬ御身が友なればなり、とぞ


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- 2006年06月01日(木)

遙かな霧のイリデスセンス

 文学がどうにも「かたわ」だと思ったのには理由がある。それでは汲めないもの、それでは理解の枠組みに入ってこないものがあまりにも多かった。むしろそれは分析と解明を待つなにかであって、そこに黙然と横たわっているように見えたのだ。そうだ、美しい女の裸体のごとく輝きながら。
 文学は、いわば盲目の力である。それは強力で人を揺り動かす力を持つ。それはときに危険でさえある。だが正しいアプローチをもってすれば、その真髄に至ることができる。誤解しないでほしい、私が望んでいるのは理解であって解剖ではない。深い理解によって文学はいっそう輝きを放つ。

 さて、日本人画家によりイタリア人画家作品の盗作がいわれている。テレビで見たかぎりでは構図は類似というよりはむしろ同一であった。しかしここで根底に還って考えてみようではないか、盗作とはなにか。
 西洋文物の根底は聖書にある。美術書をめくれば、ほぼ同一構図の聖母子像、昇天図、受胎告知の絵を見いだすことができるだろう、それもひきもきらず。これはすべて盗作か? 違う、ここにはじつに細かな規範があって、その上に狭くだが豊かな自由がある。つまり、決まっているのだ。聖母の衣の色がどうあらねばならぬか、キリストがどういう拷問具にかからねばならないか、その頭には何が置かれていなければならないかが。そんなとこでは断じて独創性を発揮してはならなかったのだ。
 では、画家とはただのペインターであったろうか? そうではない。そんなことは求められなかった。ときにペテロは依頼主の顔であったし、ときに幼いイエスは依頼主の幼い息子であった。そこには「具物」は確かに欠かされなかったが、だが本質は常に現実と画家の思いに根ざしていた。厳しく委細を定められた形の中に、描く者の血肉が宿っていたのである。
 文章であってもその原理は変わらない。たとえば指輪物語において西方の人が「ドュナダン」とされたとき、ケルトをわずかでも知る人はそこに「トゥハ・デ・ダナン」すなわちダーナ神族の名を聞き取るだろう。あらゆる物語は原型を持ち、要素と類型に分割しうる。そして感情も行為もそれ自体、人類のレパートリにあるものだ。
 ここで再び問う、盗作とは何か。私はいつもその答えをわかった試しがない。あの日本人画家も、自らの絵の横にイタリア人画家の絵を置けば良かったのである。そうすれば最初から、くだらぬ疑念など招くことなく、自らの意図するところ、類似と相違のうちの血肉を知らせることができたのに。独創性が語ることがわずかなのに対し、相違や類似やまたあらゆる種類のオマージュはその基底に別の存在を持つがゆえに二倍も豊かなのだ。


 「太陽の下に新しきものなし」――コヘレトの言葉


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