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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2006年05月30日(火)


見渡す限りの死を見渡して馬上の男はわずかに頭を傾げる。
星々は群れ飛び、山々は黒々とたたずんで、
ただ静かに世界の終わりを数える気配であった。

 嫋々、渺々、惻々、
 われら、生ける我ら、やがて死すべし
 心よりなる哀惜もて、わが産土をば去らむなり









ね、ねむ・・・(最近へたれ)


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- 2006年05月25日(木)

『かれは大海であった。
 うねる波を高く押し上げては神居ます天を求めて吠え荒び、
 凪の日には憧れをたたえつつ祈りに似て安らぐ海であった。
 その激情は人々をして恐れさせ、飲み込み、天を暗くした。
 だがその悲しみを思い、乞い願う胸の苦しみを思えば、
 誰が魂を揺さぶられ、涙流さずににいられただろう。
 かれは孤独な、うねる荒海であった。誰にかれが救えただろう』

 ククールは筆をおき、涙にかすむ目をぬぐった。すべてを過去形として書かねばならない悲しみが鋭く胸を突いたからだ。


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- 2006年05月24日(水)

『かれは一つの小川であった。
 奔騰し、輝きつつ飛沫を上げ、流れ急ぐ細く清い小川であった。
 かれは高い雪白の峰に端を発し、灰色の岩間をほとばしり抜けて、
 ひかり満つ緑の野へと喜びつつ流れ出でる冷たい小川であった。
 かれの美しさまた快活さは人の目と心をして喜ばしめた』



 そこまで書いて、マルチェロは老いた手を休めた。羊皮紙の上に独特の筆致でしたためられたそれは死んだ半血の弟に捧げるための短い文であった。
 いさかいも和解もすでに遙かな過去のものになりおおせていた。そうだ、なんとすみやかに歳月は過ぎ去ったのだろう。あれほど激しかった怒りも、紆余曲折も遠く過ぎ去って、もはや霧の彼方に見るようだ。
 あれらすべてはどこに行ってしまったのだろう? 重い憂いがマルチェロの胸を閉ざした。老いてしなびた手を胸の前に組み合わせ、かすみがかった緑の目を閉じた。燭台の上で炎は少しほとび、光はゆらゆらと揺れて粗末な庵の内部を照らした。灰色の木の寝台の上には少しのわらが敷かれ、小さな机を前にマルチェロが座している古い椅子よりほか何もない庵を。
 何もない。すべては行ってしまった。過ぎ去ってしまった。暗黒神の記憶を心にとどめているものは少なく、かつて法王の座を求めた野心ある男を覚えているものはさらに少ない。そしてその男が心に抱き、苦しみまた切望してきた思いと記憶をともにするたった一人はいましがた旅立った。
 いましがた、そうだ、いましがた知らせは届いたばかりだ。窓の外、高いサヴェッラの窓には明かりがついている。忙しく人々の立ち働く気配がその宮居にある。葬儀のため、そうだ、法王の葬儀のためだ。法王ククールの。人に愛され敬され、また人を愛し敬した希有な男の。
 マルチェロは震える吐息を吐いて、またペンを手にとった。



『だが歳月は速やかに行き過ぎおおせ、
 ついいましがた、豊かに水が陽気に走っていたとおもう間に、
 流れは早くも枯れ果て、灰色の河床を残すのみだ。
 どこへ行ったのか、あの銀なす流れはどこへ行ってしまったのか。
 あの快い水音は。汲んで口に含めばかすかに甘いしずくは。

 ああ、なべて流れは尽き、神のみすべての行く手に御手を広げたもう。
 茫漠たる海のごとく永久に座して、その深い懐に一切を眠らせたもう。
 そしてその御胸からは、再び立ち戻ってきたものはいない。

 かれを悼むことはない。かれの憂いは除かれた。
 その魂はいま、肉体から解き放たれて、空の上方を歩んでいる。
 私は悲しみにつくことなく、涙を流すことなく、憂いに沈むことなく、
 ただ天に上げられたるかれの憂いとならざることをのみ望む』










このときククール70才代後半、マルチェロ80才代前半。
ヨボヨボヨボ。マルチェロがはげたかどうかはご想像にお任せする次第。


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- 2006年05月23日(火)

買ってしまった。

犬はだめだって言ってるのに、
わかってるのにどうして…!

自分とこには置いておけない。
某さんとこに送りつけよう。
許してくれ愛しのバセット・ハウンド!
幸せになるんだよ…。

(ウォンと鳴くぬいぐるみひしと抱きしめ)


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- 2006年05月22日(月)

惑える星

 マーリドは一群の犬たちを引き連れて彼方の砂漠を走っていった。頭上には無数に星々が輝き、大気は夜の湿りを帯びている。風は高みから、遙かに彼方の高みから、なにごとかを詩人の耳に語りかける気配であった。
 マーリドは犬の群れを引き連れて行く。手の竪琴をかき鳴らして。

 われはバニ・キラブの子、
 わが族(うから)の惑えるときは我もまた迷い

 わが族の正しき道ゆくときは
 われもまた正しき道ゆく

 歌は二弦を欠いたのびやかで抑揚のあるリズムのもとにうたわれた。犬たちは馬の足もとによって彼方を見渡し、そして夜を渡っていった。


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- 2006年05月21日(日)

久しぶりに

自分の未熟さをかみしめた。
だめだ。遊んでいる場合じゃない。
仕事をしなければ。うんと仕事をしなければ。


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- 2006年05月20日(土)

用不用説の深淵

『目の誕生』(アンドリュー・パーカー)をきわめて楽しく読んだ。
だがひとつだけ引っかかった。なるほど目は三葉虫の上に出現した。
そのあとどのようにしてその系統を脱して広く生命の大多数を占めたのか。

目という完成されることが前提となる器官が出現するにあたって、
なるほど一定の世代があれば可能であることを著者は説明した。
それは確かに巨大な発明であった。
それによって生命は、風景と外貌を手に入れたのだ。
現代はそれなしには回らない。
まさにパラダイム・シフトであった。

しかしながらどうだろう。
三葉虫についてはそれでいい。
だが別系統において、それもほとんどの系統において、
同じ「目」がその数だけ発生したというのはいかがであろうか。
これは多少なり、常軌を逸した考え方ではないか。
何度振っても「6」の目が出る骰子を想定するようなものだ。

ここに用不用説の亡霊を見るのは私だけだろうか?
進化しうるということと、無限回進化しうるということは別だ。
だがどうだろう、ここでウイルス進化論を想定したら?

目が一つの病変であったとしよう。
この病変を引き起こすのは目を発生させるために必要な遺伝子の一群だ。
これはどこにでも根付けるわけではない。
だが一定の条件がそろえば発病し、目を生じる。
「目」は伝染し、瞬く間に生物界を支配した。

この小さな文章がおそらく真実を突いていることはないだろう。
なによりも目とは、神経系の確実な一端であるのだ。
無為に持ち運ぶことに意味があるとは思われない。
だから正しい答えが欲しい。無意味な収束に過ぎぬというのではなく。


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- 2006年05月18日(木)

聞けドナテルロ、とエリッヒが言った。


聖カレン





どこになぜ


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- 2006年05月17日(水)

こんな家に住みたい

石造りの壁で、天井が高くて、屋根がガラス張りになっている。
家の中に大きなバラのタワーがある。ブーゲンビリアでもいい。
仕切りなんてなくて、寝室は空中に浮いたようなロフトだ。

暑いときは、窓を開けてカンバスのような白い布を頭上に張る。
間接光が広い空間に満ちて、バラは春ごとに香る。
寒いときには小さなだるまストーブを手元に置く。
同居する群青色の猫の群が足下に丸くなる。

本棚は大きくて壁に沿って高く、はしごを使って探さなくてはいけない。
棚の手前部分は広く作ってあって、キャットウォークでもある。
ソファは白い色で、広くて、バラの花陰にある。
秋には落ち葉を掃除する、家の中で。

照明はいくつか、光の輪があちこちにできるだけ。
夜は暗くていい。ただ満月の夜を除いては。





ものすごい住みにくそうだけどなあ。
でも住めたらきっと幸せだ。


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- 2006年05月16日(火)

孤独だ。この孤独感は子宮に発する。

つまり月経前症候群というやつだ。
イライラしやすくなる。孤独感にさいなまれる。
ホルモンバランスに発する情動は真実だが奇妙だ。

肉体によって精神が影響をこうむるのは、
その逆がありふれていることからもきわめて当然のことだ。
そしてそこから知ることができる、我々は天使ではない。
精神的とみなされがちな情動が一つの臓器に発するということは。

我々は動物である。理性的な動物である。
しかしこれは完全に理性的であるというわけではない。
あくまで、動物としてありうる程度の理性だ。
ここにおいても完全は存在しない。

孤独、孤独だ。
私は私の臓器に感謝する。
子宮がなければ、こんな情動を味わうことは終生なかっただろう。
つまり私の精神は、こうした種類の情動をそれ自体として生み出さない。


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- 2006年05月15日(月)

子猫を受け取った。
ずぶ濡れの子猫を。
ああ、ずいぶん昔のことだ。

わたしは子猫をながいあいだそのままにしていたが、
ふとした拍子にひとりの少女が、
濡れた子猫を乾かして、ふわふわの毛玉のようにしてくれた。

奇妙なことだ。とても奇妙なことだ。
それとも少しも不思議ではないのだろうか。


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- 2006年05月14日(日)

わたしは自分をある種の自閉症だと思っている。

おおむねこの種の病は生まれたときからのもので、
成長するにつれて改善されるというが、私の場合は逆だ。
私の感情は最初、健全な発達過程にあったが、その後、頭打ちになった。
ある種の思案、感情は、結局わたしの身に付きそうもない。

そういった症状は、たぶんそれほど珍しいものではない。

十全の発達はけして「あたりまえ」のことではないのだろう。
人間が欠陥を抱かねばならないというのはなぜなのか。
ここにひとつ、興味深い生存の法則がある。こういうことだ。

自然は一定以上を求めるが完全は求めない。

私に理解できる感情は力強く明瞭なものに限られる。
そしてまたそれらを超えるものは自発的に私に発することがない。
これは非常な特質らしく、愛されるのも憎まれるのもそのゆえだ。
しかしそんなことはどうでもいい、というのが、
愛され憎まれるそのおなじ心のいうことなのだから始末が悪い。



『ヨブへのこたえ』(ユング著、みすず書房)

どう理解すべきだろう。
神の概念(原型)の発達というものについての考察なんだろうなあ。

ヨブの神、イエスの神。

善悪の裁き手と崇められながらまだ自然神の獰猛な混沌を備える神。
やがて有史以前の邪悪は分離され追放され、理性を身に帯びる神。
人間に受肉し、そのことによって論理と感情と善悪を備え、愛に満ちる神。

受肉する神。なるほど受肉によって神も人となる。
人の本来に従い、人に了解可能な正義と悪を識り、
そしてまた人に普遍である愛情と哀れみを識り、
かくして真に正義の神となりたもう。
その十字架の上であがなわれるのは人の原罪ではない。
かつての混沌の神の暗い顔だ。そうユングはいう。

なるほどそれはそうかもしれない。
人に想起する神はそのように変遷する。
では問う。神はいずこにありや。

答えはきまっている、見るものの目のうちにある。
ユングはそう答えるだろう。そもそもそれが前提だ。


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- 2006年05月13日(土)

物語を書くとは:

それはどういうことなんだろう?
私だっていくつも物語を愛したが、しかしそのなにを愛したろう?
この問いはほとんど無意味だ。なぜならあまりに多くの答えがありうる。

世界の空気はそのひとつだ。
しめった森の、ひんやりした静謐なにおい。
風走る海辺の、躍動とその底に沈潜する深い静寂の気配。
まきばに走る馬たち、犬たちのにぎわい。
婚礼の日に髪にオレンジの小枝をさした娘を取り巻く変化の予兆。


おっと、ねないとー・・・



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- 2006年05月12日(金)

物語の祖形:

 俺はときどきわからなくなる。あいつがいないというのは本当だろうか。俺がこんなにも思っているのに、あいつはもうどこにもいないなんて、もう取り返しも付かないなんて、そんなことが本当にあるものだろうか。


 あれは確かにあった。この手でこの目で俺はあれを経験したのだ。たしかにあれは起きたことなのだ。なのにいまはもうない。記憶はもう、記憶にすぎない。心臓をやぶるようだった胸の痛みも薄れて遠のいた。あれはどこに行ったのだろう。あれがどこにもないのなら、俺はどこにいるのだろう?


 俺はこれから自分がなにをしようとしているのか知っている。俺はこれからあんたを殺すのだ。もちろんやめようと思えばやめられる。だが俺はやめないだろう。あんたを殺すよりも自分が死にたいとさえ思うし、あんたを殺せばひどく苦しむことはわかっている。だが俺はあんたを殺すだろう。


 永遠なんてないと知っている。終わらないものなんてないと知っている。それでも永遠を望みたがる思いを俺は知っている。日差しは斜めにさしている。あんたはそこにいる。俺はいま、永遠を願っている。永遠なんてないのは知ってるけど、俺がいま、心から永遠を望んでいるのも本当なんだ。


 愛してるなんていわない。あんたのことを思って胸も張り裂けそうだけど愛してるなんていわない。だってあんたは俺が好きじゃない。そうだ、あんたは俺が好きじゃない。だから俺は、死んだって、好きだなんていわない。それでも、俺はあんたを愛してるんだ。そればかり消せないんだ。








基本的に、こんな感じだよなー。
バリエーションが少ない気がする(笑)


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- 2006年05月11日(木)

ああっ!!!

仕事で、地獄のような苦悶をすることがある。
これはもう、一人でどうにかするほかなく、調べて考えるほかなく。
だがなにが重要でなにがそうでないかという選定こそ、いちばんの難事だ。

ここにおいて、問うものは自ら問われる。
つまり知識と経験と良識と感性とを。

これは、取り組むに値する課題であり、
同時に取り組まねばならぬ課題だ。




マグロオルの失跡のこと:

「わたしはたてごとを奏でよう」
 マグロオルは言った。その目は星々に先立つ夜のごとく暗く、その声は暗黒をわたる風のように静かで冷たかった。海辺の木々は震えさえした。このとき空を照らしていたのは白熱せるアノオル、遅れてきたものたちが太陽と呼ぶ円盤だったのだが。
「わたしはたてごとを奏でよう、カランシア。おまえがどこにもいなくなってから、時は意味をなさなくなった。日々は黒白の馬のごとく駆けて去り、しかもなにものも私の上に刻みはしない。闇のなかでは一切が形をなくすよう、海に落ちる水滴がその姿を失うよう、カランシア、おまえがどこにもいないなら、わたしもまたどこにもいない」
 マグロオルは海辺に立ち、たてごとを取り上げた。長いまっすぐな黒髪が海の果てから渡ってきた風にたなびく。幹にまつわる柳葉のごとく。辺りに夜を敷くようにして憂わしげにマグロオルは立っている。その手の中の琴は細い指のわずかな動きに、世界を切り裂くような音色を立てた。
 「カランシア、おまえを思い出すときにだけ、私は生きている。おまえとともに緑の野を横切った思い出を歌うとき、わたしは再び緑の野を駆ける。ほおに風を再び受け、蹄のとどろきを耳に聞き、かの地の空の青さを知る。わたしの歌にはそうした力があり魔力がある。だがカランシア」
 マグロオルはかすかにほほえんだ。暁に先立つ最初の星のごとく。
 「わたしは行こうと思う。終わらぬ歌のなか、終わらぬ音色のなかへ踏み入っていって、もう再び此岸に帰るまいと思う。わたしはこれより歌をかなでる。あらゆる魔術をこめて私は歌う。その歌のうちに去る」
 そしてマグロオルは歌い始めた。すぐれた魔術は海辺を満たし、千年も以前にマンドスの館へと招かれたものたちの幻を見せた。驚くべき歌は長く続き、海の底ではオスセが静かに泣いた。楽の音がとだえたときには、そこにはもはやなにもなかった。ノルドオル最後の歌人の姿もまた失われ、再びかれを見かけたものはなかった。




はやりの成分分析ふうに言うなら、
人間はたぶん、60%くらいは二度と忘れられないことでできている。
そりゃほとんどが胸の痛みや取り返しの付かない後悔だろう。
そんで、エルダールはその比率がだんだん上がっていって、
それが100%に限りなく近くなったときに、きっと生きるのをやめる。


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- 2006年05月10日(水)

人間にはたぶん、二種類ある。

ひとつは、百年おなじ窓辺を眺めて幸福なひとで、
もうひとつは、まいにち違う窓辺を眺めて不幸でないひと。


幸福になるためには、たぶん、ある窓辺を愛することが必要だ。
ある窓辺をてのひらのようによく知って、
そこから見えるすべての木々と花々を我が子のように愛しく眺めることが。
夜明けから日暮れまでの日差しのすべての移り変わりを知って、
真夜中の涼しい風に愛や夢をうたった記憶をもっていることが。


まいにち宿る家を、眺める窓辺を変えていては幸福にはなれない。
そういうひとの望みは、だれかを幸福にすることにある。
自分でないだれかの幸福を思うことで、不幸にならないでいられる。
かれは過去と未来のどちらからも遠く離れてゆく。
その歩みは地上に属するのに、かれはそれに気づいていない。








=== hb <<    テリア(吠えます、強気です)

     ,,,,,"ne       パグ(シッポ振ります。ちぎれそう)


an...     バセットハウンド(動かぬ犬、縮尺無視でヨロシク)



ちょっと最近、ヘンなオモシロ趣味にはまってます。
でも見えない?


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- 2006年05月09日(火)

 鼻先に突きつけられた鋭い刃を見つめていた目を閉じた。なによりそれは抵抗のしようもなかったからだし、もうひとつには、無抵抗の相手を前に兄がどう出るのか知りたかったからだ。それはひどく危険な試みであるには違いなかったが、同時に背中がゾクリとするほど興味深い考えだった。
 だが一秒が過ぎた。それから二秒、三秒……十秒が。長くはない。だが短くもない時間だった。少なくとも、こうした場面にあってはそうだ。たまらずククールは目を開く。すると、刃はまだ鼻先にあって、わずかも揺らいだ気配もなく、その向こうの緑の瞳も、こちらの思惑など見透かしたように微動だにしていない。
「それでどうする、騎士団員ククール」
 ぞっとするほど冷たい問いに、ククールは腹の底から震えが這い上がるのを感じた。だが伊達に不良騎士をやっているわけでもない。刃と腕一本の距離の向こう、緑の目を見てククールは笑った。なに、自分の悪事はドニの酒場で一杯酒を引っ掛けただけのこと。度を越した仕置きをすれば、それは騎士団長の不名誉となろう。
「――どうとでも」
 吐き捨てた言葉はもちろん挑発だった。そして確かにそのように受け取られたのだ。ヒュッという鋭い音とともに鼻先から刃が消え去ったかと思うと、代わりに、みぞおちに強烈な一発を食った。そうだ、息もできないほど。まだ内臓に拳をめりこませたまま、間近に立つ兄が笑う、その微笑の気配にククールは顔を歪めて崩れ落ちた。
「いいざまだ、おまえにはそうして地べたを這うのが似合っている」
 息を吸うことも吐くこともできずに、敷石の上で身体を二つに折ってのたうちながら、ククールは痙攣するような苦痛の声を漏らした。酸い胃液が喉にこみあげ、ひりひりと唇の端をつたい落ちてゆく。仰ぎ見た顔は石のように無慈悲だ。感情という感情は掃き清められたよう跡形もなく、だがその緑の目の奥にはせき止められたぎらつく怒りがのぞいている。
「あんた、は、……俺が嫌いだ」
 苦しい息の中から呟いた。マルェロは微動だにしない。
「あんたは俺が嫌いだ!」
 汚れた敷石の上に這い、ククールは叫んだ。むろんそれはわかりきったこと、とうに知っていたことにすぎない。だからククールはいぶかしみさえした。なぜ胸が痛み、目元が熱く、頬が濡れてゆくのかと。
「泣いているのか」
 ぼやけた視界の向こうから、思わぬほど静かな声音が降ってきた。
「おまえは泣いているのか、ククール?」
 わずかに風が動き、ククールははっと体をこわばらせた。だがおそれていた殴打はなく、ただ濡れて定かならぬ視界に、兄がおそらくは膝を屈めてこちらをのぞきこんでいると知れたばかり。
「私がおまえを嫌っているということが、そんなに辛いというのか?」
 あまりに穏やで当惑の気配をさえ含んで放たれた問いには、応じるべき言葉さえ見つからない。それはどういう意味だ、それは、と声もなく問い返すだけだ。そうしているうちに再び風は起きて、気づけばもうそこには誰もない。急いで瞬きして辺りを見回しても、暗い夜の中にはなにひとつ見つけることはできない。ククールは呆然としてうずくまっていた。


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- 2006年05月08日(月)

おぼえがき


コロス(イスの賢人たち):

「皇子よ、海の彼方の国の皇子よ。
 ダフウトの愛を勝ち得てはならぬ、断じてならぬ!

 おお赤い髪の王女ダフウト、生まれながらの魔術師ダフウト!
 ダフウトが笑えば海は晴れ、波は高まり風が歌う。
 ダフウトが眠れば千尋の水底までも日は差し、
 銀鱗の魚たちが身じろぎもせずに沈む!
 海は、荒々しい息吹なる海はダフウトを我が命より増して愛し、
 愛ゆえにそのわずかな心のおののきすらも受け止めようと乞い願う!

 皇子よ、海の彼方の国の皇子よ。
 ダフウトの愛を勝ち得てはならぬ、断じてならぬ!

 海はダフウトが誇り高く自らの女王である間は悪を知らぬ。
 群青色の猫のごとくダフウトの前に慕い寄るばかり、
 若葉の色したその目の一瞥を受けて幼子のごとく喜びまわる。

 だがダフウトが愛の前に膝を折り、人の子とともに歩めば!

 おお、海はそのとき、あらゆる嵐を解き放って怒りのかぎりに怒り、
 海原の底に秘めた狂気のかぎりに荒々しい波頭をはき出して、
 その苦悶のままに荒廃のかぎりを尽くさずにはおかぬ。

 皇子よ、海の彼方の国の皇子よ。
 ダフウトの愛を勝ち得てはならぬ、断じてならぬ!

 うつくしい顔した王の御子よ。
 ダフウトの愛をおそれ、海の怒りをおそれよ。
 胸に抱いた望みを捨ててイスの都を去るがよい」


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- 2006年05月07日(日)

「死」のあとで

たとえば、空腹による苦しみを感じているとき、
その事態の解消として望ましいのは、適切な食物を得て腹を満たすことだ。
手あたりしだいのものを口に入れて腹を下すことではない。
飢え死にすることではない。苦しみのあまり狂気することではない。
また自死による苦しみの主体の解体でもない。

人間がなにか問題を抱えるとき、
そこには望ましい解消とそうでない解消がある。
問題が大きく激しいほど、解消への欲求は強まる。
それがあまりに強まれば、理性的な目には「望ましくない」とされる
解決法でさえ時に選ばれることがある。

多くのことは、ハムレットほど簡単ではない。
問題は、望ましい道が閉ざされているとき、高まる苦痛にいかに耐えるか。
慌てて「望ましくない」解決に走らず「次善の道」に譲る分別があるか。
これらに尽きる。


そしてまた「何が望ましいか」を知りうるかどうか。


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- 2006年05月06日(土)

山頂の幸福

久しぶりに山にのぼったので、右足の裏にビキビキきている。
それ以外はどうってことない。最近ものすごい運動不足だったのに。
……明日が怖いな、きちんとマッサージしよう。

午前10時に入山、下山したのが午後5時だった。
八界山、剣ガ峰、大入道と尾根づたいに走破。
まだツツジの花も咲かない、新芽の吹いたばかりの殺風景な山だが、
そんなのは問題ではない。山頂で私はある限り幸福だった。

山に登る者の幸福はどこにあるのか。
視界の開けるパノラマの一瞬か、風に吹かれて食べる弁当か。
珍しい花や植物、木の間にかいま見る優美な山の生き物の姿か。
私はただ、沈黙だけを求める。

沈黙とは無音のことではない。
そうだ、遠くの梢を風がわたってゆく。
声高なウグイスが一声あげる。
どこか遠くの藪が少しばかりさざめいて、若い鹿が斜面を降りてゆく。
黄金のごとく豊穣な沈黙の中にある時間だけが「生」に属すると、
そうも言いたくなるほどだ。



ある老いた男が、年齢を問われて言った。
「1時間」と。質問者は驚いて聞き返す。
すると男は悠然とほほえんだ。
「きみ、お若い友よ。
 ずいぶんむかしのことだ。
 ある園遊会のさなかに不意の雨が降って、
 わたしは、深く思っていた少女に傘をさしかけた。
 それからの1時間、少女とともに言葉も交わさず過ごした1時間、
 そのときだけ、わたしは本当に生きていたのだよ」



私の答えはも少し長い。
あああ。あとはまー、仕事のことを忘れてられたら、か。
仕事で山に登るもんじゃーないや。(めそ)


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- 2006年05月04日(木)

Calling...

おいで、ジンニーア
世界は春のうちにまどろんでいる
新緑は木々を煙るような輝きのうちに包んでいる
おいで、そしてごらん
こんなにも、こんなにも世界は美しい


  いまこのとき罪のない無数の命が消えていっている
  あらゆる邪悪が疥癬のように地下を張っている
  ジンニーア、おまえは流れる血をじっと見ている
  瀕死の苦悶や暗い思いやむっとするようなこもった絶望を
  おまえは身じろぎもせず見つめている


ジンニーア、ジンニーア、ここにおいで
太陽は明るくめぐっている
木漏れ日はまだらに石段に落ちて、子供らは笑っている
おいで、そしてごらん
こんなにも、こんなにも世界は美しい


  おまえはいう、悪はある、ずっと昔からあった
  悲しみも絶望も絶えたことはなかった
  ジンニーア、おまえは生真面目な目でいう
  それでも日はめぐり月はめぐり
  人は生まれ死んでいった、そしていまも


ジンニーア、わたしのおまえ
おいで、ここへおいで、わたしはここにいる
ここにいてどこにも行かない
喜びや安らぎと同じほど悪も死もありふれた世界で生きている
生きて、そしておまえを待って



  ジンニーア、この声をきいたなら


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- 2006年05月03日(水)

夏はあなたに属する

1:
 わたしの夏はすべてあなたに属する。


 それはあなたによって初めて到来し、
 あなたによって初めて意味を得た実体ある概念だ。

 いま年ごとに巡る暑熱の季節はすべてその残映であり繰り返しであり、
 ひとつの永遠から発する消えないこだまの一部である。

 
 私があなたを愛していたかどうかはすでに定かでない。
 記憶とは常にあいまいで身勝手な思いこみにすぎず、
 現在もまた気分によって色形を変える玉虫色の幻影にすぎないからだ。



2:
 繰り返そう、わたしの夏は、すべてあなたに属する。


 これは、かつて起きた一連の出来事か人物におそらく発するにしても、
 もうそれとは関係のない次元で私自身の一部と化した
 ある信仰、ある信念についての告白である。

 
 夏を過ごすことはあなたを思うことと同義だ。
 夏の中にあるとき私はあなたに取り巻かれている。
 木漏れ日やわずかな風さえ例外ではない。
 グラウンドに立つすべての少年はあなたのゆえに愛しい。

 そこにはまだ少しの痛みがあるが、
 いつかはそれもすっかり消え去って、私はあなたのことを忘れるだろう。
 しかもなお真夏の季節ごとにわたしはあなたに取り巻かれる。



3:
 これは愛の告白やその類のものではない。


 一つの愛着がどのようにして拡散し、深く世界にしみ通るのか、
 初め概念と事象の羅列にすぎなかった一連のものに、
 いかにして血が通ってゆくのかについての覚え書きだ。

 このような経過を経た愛着や感情の裏付けに預からなかったものは、
 本当には見えやしない、わかりやしないのである。

 世界を確かに見据えようとするなら、何度か愛を失う必要がある。

 人間は傷によって、血を流す生傷によってのみ目を開く。
 無難な人間ほど盲目でいるものはない。



 まあ、わかりきっていることだが。


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- 2006年05月02日(火)

そしてピラトは両手を洗い、

 マタイ福音書によれば、総督ピラトは群衆に押され、やむなくイエスを有罪とする前に両手を水で洗っている。これは要するに、一言でいうならば、『わたしはこのことについて責任はない』というゼスチュアである。
 そのせいであろうか、イエスの死についてピラトに責任ありとする議論は、この二千年紀を通じてほとんどみられなかったといっていい。イエスの死の責はユダヤの民衆にあるいはより多くイスカリオテのユダに帰されてきた。もちろん精神的にはキリストの犠牲とは人類の罪をあがなうためのものとされたのであって、高尚な説教の席ではそのように説かれてきたのであるが。
 しかしながら、ピラトのこの行為はどうだろう。両手を清めるというこの行為は、どうもアレだ、きわめて暗い行為ではないか。彼がそのようにしてイエスの生死から手を引いたことは、より深い罪悪を暗示していないか。

 死海文書の一部、「ユダの福音書」を解読してみたら、ユダの行為は裏切りではなく、教えの真髄を理解しているユダに対して、イエスが自ら行うように依頼した行為であるとかかれていたという。
 もとよりグノーシスの一派にそうした考え方があったとして少しもおかしくないし、この福音書だってイエスの死語それなりに時間もたって書かれているわけだから、史実とすることはできない。史実などというものはイエスとユダだけがおそらく知っていることであって、しかもある意味、実際はどうだったかなんて、どうでもいいことだったりすることもある。
 重要なのは「どのように信じられてきたか」また「なぜそのように信じられてきたのか」という点であろう。十分に長いスパンでみれば、政治的力学などというものはなんでもない。人間の傾向だけが問題なのだ。

 それで、ピラトだ。彼が手を洗わざるをえないのは、彼が「何が正しいか」をまさしく知っているということであり、それでも手を洗うのは「何をせねばならないか」を知っているからである。自らの意志に反して悪をなすものの苦限がここにあり、しかもそれが問題にされてこなかった。
 多分、このようにして多くの悪はなされる。ピラトは自らの知る正義を果たすことも殉じることもできず、しかもそれを忘却することもできない。彼が神聖さというものを自分の身に引き受けようとしないからである。だが、そうした『手を洗う』行為こそが邪悪そのものではないのだろうか。

 神の目のもとにあるという意識、ひいては神の存在を信じることが、たぶん人間を本当に自立させるのではないのだろうか。パワーゲームより以上の行動原理を信じること、この世の外を信じることが。もっともそれは極めて西洋的、つまりキリスト教的な意味においての自立にすぎないのであるが。
 


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- 2006年05月01日(月)

アイリッシュのダンスは鋭角だ

動かない上半身と、相反して躍動する脚は互いに何も語らない。
情感はただ、静と動の激しい矛盾のうちに自ずから感じ取られるにすぎぬ。
打ち鳴らされる踵と、狂気の炎のごとく揺らぐ赤い巻き毛だけが饒舌だ。

ここで踊られるものは、単純に喜びというだけでは足りぬには違いない。
憎悪も憧れも愛も悲嘆も、そこでは奇妙にゆがめられている。
揺れ動く水に映る月を見るようだ。ケルトのすべての物語に似て。






「才能をバラ銭で使ってる」といわれてしまった。
才能があるという意味で言っていただけたのはうれしいし、
自分でもなかなか当を得た言葉だと思う。

かといって、うーん。

物事を組み立てたり積み立てたりするのが苦手だ。
努力しうる才能だけはあると思っていたが、そうではなかったか。
しかし物事はきちんと終わらせねばならんのだ。そのはずだ。

超大作の構想とか練ったほうがいいんだろーか…。
しかし言うべき言葉はだいたい、一言以上の長さがない。


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