- 2006年04月30日(日) 「悪竜グラウルングを抱いて」 竜が眠っている、とぐろを巻いた巨きな竜が。 深い深い地の底、熱と障気のうずまくあたりに。 目覚めれば世界を滅ぼす息吹は 今はその口元でかすかに燃えるちいさな種火だ。 見る者すべに狂気を運ぶ魔法の瞳は いまは無害に閉じられ休んでいる。 私は竜の傍らに寄り添い、恐るべき獣の巨大な頭を抱いた。 ふいごのごとき心臓は確かにその体の奥底で脈打ち、 鎧のごとき鱗は呼吸のごとに静かに上下している。 私は言った。 おやすみ、世界の滅びよ。いまは眠っておいで。 おやすみ、世界の終わりよ。まだおまえの時ではない。 そして竜よ、もしお前が望むなら、私の夢の中で小さな子犬におなり。 ふたりして明るい日差しに輝きわたる緑の野を駆けよう。 空を見つめる眼差しのごとき青い湖をゆき、 天使の翼の峰のごとき白い山々を感嘆とともに仰ごう。 ああ、それらすべての滅び、それらすべての不幸であるおまえは、 おまえはそれらをまことに知ることがない。 なぜならおまえの心はねじけていて、おまえの喉は血に渇いている。 おまえのかぎ爪のはえた肢は愛撫のためには作られておらず、 おまえの吐息は生あるものの毒として吐かれる。 そのようにおまえは造られた。 だがまだ世界の命数の尽きぬ今は、 今ならば、夢のうちに愛することはできるだろう。 世界を愛し、その愛撫を享けることができるだろう。 さあ竜よ、ともにゆこう、ともに夢見よう。 そして私は目を閉じ、快く愛すべき想念を編み始めた。 やがて広がった夢のうちに、白い子犬はわたしのあとを追いかけ、 私たちは連れだって、長い幸福な散歩に出て行った。 悪竜グラウルンクに限らず、悪のために造られたものが好きだ。 自由意志によって悪を選び取りながらも、絶えず善に憧れるものが好きだ。 そうした齟齬、そうした不可避的な不幸に惹かれる。 自ら選び取った邪悪の中に進んでさらに深く歩み入りながらも、 ひととき夢を望まずにはいられないゴルサウアとかさ(笑) 夢の中でエルダアルの形をとり、なつこい子犬のグラウルングとともに ベレリアンドを駆けるサウロンは誰に出会うのか。 いっそ誰にも出会わないといい。 誰にも会わず何も与えられないことによって、一切を深く愛するといい。 そして自分がそれら一切を憎まざるをえないこと、憎むことを選んだことに 深く激しく絶望するといい。 でもちびっこケレブリンボールに会って、 「この犬ちょうだい」と大泣きされるといい。 困っておろおろするといい。 - - 2006年04月29日(土) 物語を書く気がしない。 なにもかもクソくらえという気分だ。こういうときに文章ホルダを開くと、書きかけの物体をすべて廃棄するはめになるから用心している。何度、あとで後悔したか知れやしないのだ。 DQ8に関しては、まだ書いていないものがあるのでまだ終われない。しかし終わらせることができないまま引きずるのは嫌だ。 ケルトが最近好きだ。何枚かDVDを注文しているので、ある程度イメージがわいたら、何か書きたいと思っている。赤い髪のダフウトの物語、沈める都イスの物語とか。雰囲気は指輪に似ているから、それでもいいね。 指輪/シルマリルもいろいろ書き残してる。基本的にはカランシアとフェアノール。あとは誰だ? 誰というほどもない、あの中つ国の大気だ。 風が歌い太陽は燃え、地に満ちた魔法と祈りと希望と絶望が、「衣服を脱いだ裸体のごとく美しく直裁に」語りかけてくるような。神話の。 呼び返せよ竪琴、数多の猛き王、胸白き姫君を なべて空しくなりにしも、汝が旋律によりて呼び返せ 雲間より射す西日のごとく、このつかのまに おおフェアノール、不幸なる王よ、歴史は汝に始まれり 汝が悲嘆、汝が怒り、汝が哀悼にこそ歴史は始まれり 王よ、汝は剣もて歴史の幕をば落とし、 血潮にて最初の一文字を書き付けぬ さてこそ麗しのアルクァロンデにて! あな痛ましの白鳥の港、至福の地の宝石 テレリの公達らの運命は始まりのときに終わりぬ、剣と刃の死もて かれらの屍は地に散り敷き、悲しの涙のごとかりき - - 2006年04月28日(金) に、人間やめたい……(耳いたひ) - - 2006年04月27日(木) 犬猫飼いたい病が再発中。 しかし世の中には、こんなにたくさん不幸な動物がいるのか。 不思議だ。そしてまた、他種を哀れむ思いというのは不思議なものだ。 なぜならそれは進化という勝利に対してなんの寄与もない。 1マッドサイエンティスト 2エロ坊主 3失意の貴公子 最近、ナリ茶でつかってみたキャラたち。(順不同、ホモばっかり) お笑いから始めようがバトルから始めようが、 結局、相手をおいしく頂いてしまうのは、なぜなのか。 ええ、昔から茶場に出すどんなキャラも(きゃるん美少年含む)、 しまいにゃ相手をおいしく頂いてしまうというPL属性・攻めデスヨ。 だってみんか可愛くて。ん? 女をやめろということですか? - - 2006年04月26日(水) ぼく、待ってるんだ、ジャマしないでよ。 うん、にいちゃんを待ってるんだ。 にいちゃんね、きっと勝つよ。 きっとね、ホームランを打ってさ、 ほっぺを真っ赤にしてさ、 「おい、ククール、勝ったぜ」って。 うん。きっと、そう。 そんで、おうちまで走って帰るんだ。 一緒にだよ! はやく、終わんないかなあ…。 待ってるんだよ、ぼく。 野球少年マルチェロ、チームは「聖堂ナイツ」とかいうんだな。 - - 2006年04月25日(火) この扉を開けてください。私はそこに海が見たい。 ローレンツの言葉は、進化心理学という言葉が登場した今こそ見直されるべきではないのか。動物はいわば感情的人間であるというその言葉は。彼がもう一世紀も前に観察にして発見されたことが、今、理論と統計によって再確認されつつある。この奇妙な齟齬の向こうには何があるのだろうか? 感情もまた適応の産物なのだ。だからその起源、そのヴァリエーションを多種に求め、異種に訪ねることは無意味ではない。たとえば、我らはなぜ親や兄弟、友人を愛するのか。敵や野獣を憎むのか。そこにはやはり、生存という思考、適応という意志が介在しよう。 そしてまたそうした方向からの思考こそが、多くのタブーにこれまで覆い隠されて見えなかった人間種族の本質を明らかにすることだろう。例えば子殺しや、子供の残酷さや、国家の起源というものを。そうだ、いつの日か哲学とさえ出会うかもしれない。いつの日にか。遠いだろうが。 いつか人間がすべてのタブーを振り払って人間種族の真実を見つめたら、そこには何が起きるだろうか。おそらくは何も起きるまい。おそらくは、人間はそうした真実に対して目をそらす自由、ゆがめる自由を主張する。 それは実際、明らかなことだ。欺瞞もまた適応の一つである。 - - 2006年04月24日(月) 絞め殺す木 藤の美しさをいうひとは、決まってこのことを度外視している。愛しすぎる女のごとく藤は殺す。その抱擁は致命的で、その愛撫は長く苦しい毒だ。もう少しくわしく述べよう。藤は、つる性の植物で、日光に当たれる高さを得て生き延びるためには、支えとなるものが必要だ。天然では多くの場合、支えとなるのは樹木だ。藤はこの樹木をまさに杖とも柱とも頼んで育って、しまいにこの樹木を絞め殺す。だが果たせるかな、そのごとく枯死した樹木が朽ちて倒れれば藤もまた死ぬ。 藤にもし声があるとせば、何と言うだろう。愛し頼む樹木を、まさにそのゆえに殺すその苦しみを嘆くだろうか? 自ら取り殺した樹木のなきがらをひしと抱いて、もろともに朽ちる運命を呪うだろうか? それとも愛するものの殺害とその向こうにある自らの死を指して、ある完全な愛の成就だとかすかに嘆息するだろうか? 藤に声はない。藤は自らの不条理をいうことができない。それゆえ我らの推測は推測にとどまる。そしてわれらは見るだけだ。 咲き誇る藤の、その垂れ下がる無数の花房の妖しいまでの美を。 むろん、こう考えることもできる。藤は何一つ思うことなく、ただ我らはそのごとく生きそのごとく死ぬ異類の種族に対して自らの情念を観ているのだと。それゆえに清かるべき花は妖しい美を帯びるのであると。 - - 2006年04月23日(日) たとえば、オットセイの子供を 例えば、オオカモメの鳴き交わす北の小島から、一匹のオットセイの仔をさらってきて育てたとする。雌犬に育てさせてもいい。同じほ乳類だし、小さい間はそれほど外見も変わらないからちょうどいいだろう。 その仔はもしかしたら死ぬかもしれないが、もしかしたら育つかもしれない。すっかり大きくなって、仲間の犬と遊ぶかも知れない、人にも馴れるかもしれない。幸福のうちに伴侶を得て、年月を重ね老年に達するかもしれない。 しかし彼は、心の奥底で海を求めるだろう。空に響く海鳥の声を望むだろう。胸のうちに満たされぬ本質的な渇望を抱えるだろう。もし語りうるとすれば、それこそ人のごとく語りうるとすれば、憧れを歌うだろう。見知らぬ海への。その名さえ知らぬまま、その色や形さえ知らぬまま。その憧れは魂の本源、血の奥底からあふれ、歌は真摯に聴くものの胸を打つだろう。痛ましくも惨く。 わたしはさらわれたオットセイの子供を知る。その眼差しを知る。 これはむろん、比喩だ。比喩にすぎない。 だがその声を聞くことさえできる。彼は言う。私の海はどこにあるのか。 私はひとつの小川である、流れ注ぐべき海はどこにあるのか。 - - 2006年04月22日(土) 「V for Vendetta」(2006、米) 監督:ジェイムズ・マクティーグ 主演:ナタリー・ポートマン(イヴィー) ヒューゴ・ウィービング(V) 【あらすじ】 近未来、ノースファイアー党の独裁政治が展開しているイギリス・ロンドンで、テレビ局に勤めるイヴィーは、ある偶然から仮面の男「V」と知り合い行動をともにするはめになる。Vの狙いは革命か、復讐か―。 【感想】 ウォシャスキー兄弟(兄妹?)が脚本・制作に回ったのだから、映像がピリッとしていないはずがない。2万個というドミノを倒すシーン、ナイフを手にしたVが兵士を次々と倒してゆくシーンは胸がすくようだった。ニュース映像っぽいカットもものずごく良かった。しかしなんだか、どのシーンも小粒なのである。クライマックスでさえ、カタルシスの必須条件である空間の広がりを感じられなかった。残念である。 そして、この兄弟の映画ではたいてい思うのだが、音楽が印象に残らない。『パイレーツ・オブ・カリビアン』の序曲、『ヴァン・ヘルシング』のギターの音色が印象的なヘルシングのテーマなど、筋書きがでたらめでも、人物の心情や風の色までも浮かび上がるような音楽にあったことがない。 役者は、これはもういうことなしだ。ポートマンにしろウィービングにしろ、すばらしいの一語の尽きる。ウィービングなんか顔出しなしで、よくまああそこまで観客の心をわしづかみにできるもんだと感心する。ポートマンは、イヴィーの恐怖やそこからの成長ぶりを確かに感じさせてくれる。 筋立て…はなァ。ウォシャスキー兄弟が脚本書いた時点で、ある程度以上の整合性は求めていませんな。そしてある程度の整合性はあった。メッセージについていえば、どうだろうなあ。「自由と革命」に関してはノーコメ。私の好きな言葉は「責任と伝統」だから(笑)。 しかし「すべてがVになる」ラストシーンは好きだ。イヴィーの言葉も。 【ネタバレ蛇足感想】 「ヴェンデッタ」という言葉について思う。あれは何の本だったかなあ、復讐に明け暮れるイタリア人へのインタビューだった。 「ヴェンデッタというのは、自己満足の一種だ。 奴の息子が私の息子を殺した、だから、奴の息子を私が殺した。 それで私は心安らかに、こうして座っていられるのだ」 復讐は、目に対してそれよりたくさんのものを求める行為ではない。だからVの行為に対して完全な共感を抱くわけにはいかない。だいたい彼は素性がはっきりしないから感情移入ができにくいんだ。イヴィーへの感情も。 むしろ、論理面からいえば好意を抱くのは、謎解き担当のフィンチ警部であって、ゴミ箱蹴飛ばす姿はかわいらしいの一語につきる。政府の陰謀、Vの過去、現在。そしてガイ・フォークスの死なざる意志。 個人的な希望をいうなら、もうちょっと政府内部で追いつめられてほしかった。あの伏線は結局、回収されなかったなあ…。まあ仕方ないが。 一年という期限を切るなら、もっと、日付が押し詰まっていく感じを出してほしかったと思う。ちょっと散漫だったし、時間の流れが不明瞭だ。 点数つけるなら55点。見てもいい感じ。しかしアレか。 題名をきちんと邦訳すると「復讐(ヴェンデッタ)のV」か? - - 2006年04月21日(金) 耳が腐ってました(…)。 悪いことも悪いものも、いくらでも聞いてる耳だもんな。 流れで漱がなきゃいかんのか。そうか、私は許由か。 薬ぬれば治るそうです。 髄膜までいってなくてよかった。マジで。 午後休もらって行ってきた耳鼻咽喉科は町医者を絵に描いたようなとこで、 診察しているのは六十過ぎとおぼしきじいさま医者一人。 診療室と待合所は、ヒポクラテスの誓いが泣いて逃げ出しそうな、 布のついたて一枚。おーいおいおい。 午後二時半、待合室には先客が2人。 ややあって昼休みから戻ったセンセイが名前を呼ぶ。 最初は四十年配の女性がついたての向こうに入り、ややあって戻ってくる。 は、ハナからなんか出てますよ! 穴二つ、それぞれ水平にのびた20センチばかりの針金が…! 女性はもとの位置の座り、 次に呼ばれたのが七十余歳くらいのじいさま。 これはまともに帰ってくる。と思いきや! なぜ上を向いている! 幻のボールを支えるアシカのように、ふるふるしながら… 座ってもそのままかよ! センセイに何言われたんだよ! どきどきしながら呼ばれてハイ! 座らされるのが電気椅子、じゃなくて診察椅子。 センセイ、問診しつつ首もとのスイッチぱちり。おでこのライトぴかり。 そのハゲ頭だけでは光量が足りないんですね。 耳をのぞかれ 「はーい、薬入れますからね〜」 耳の中で嵐です。コップの中より狭いです。でもうるさっ!! 泣き笑いしつつ治療終了かと立ち上がりかけたところに、 「薬入れたほうの耳を上にして五分くらい待ってね〜」 果たして首でも痛い人のように頭を右に傾けて5分。 後から入ってきた患者さんは、けっこう異様な風景を見たわけだ。 七年ぶりくらいで行った病院は、そんなでした。 医者嫌い返上しようかな。 - - 2006年04月20日(木) 頭と耳が痛いとき、どこの医者に行けばいいんだろう? 医者行くの、やだなあ。 つい最近のことだ。いつも同じ職場で働いていた人が死んだ。いつも通りに夜遅くまで仕事をして、その帰りのことだった。翌朝、その人がまとめた書類がみんなの机に配られた。それくらい突然のことだった。 噂では、その人には三十年ごしで結婚を約束した品のいい女性がいて、今年の秋には結婚する予定だった。その人は酒もタバコもやらない人だった。好きでも嫌いでもない人だったが、一度だけ休憩室で話し込んだことがある。なんで今の仕事についたのかと問われた。理由を答えると、「へえ、そう」と言って笑った。 ある意味で商売敵でもあったのだけれど、それはとても突然で、あんまりにも突然すぎて、置かれたままのパソコンはあんまりポツンとしていて。 わたしは泣かなかった。そんな間柄なんかじゃなかった。葬式に行く義理さえなく、だから私はいまでも、あのパソコンのようにポツンとしている。妙な話だ、誰もがやがて消失するくせに、そのときにはあたりの誰かれなく心を驚かせて向こう側に移るとは。 やっぱ行くしかないなあ。 耳鼻咽喉科か? うーん? - - 2006年04月19日(水) 孤独の足は最初速く、やがて遅い。孤独は失速する。 やがて永遠の静止に至り、そこで一切の望みが死ぬ。 人間の願いはなべて彼岸に属するが、 願いの一切を失ったとき、人もまた彼岸に帰して鬼となる。 人間はなべて孤独として生きる。それは幸いである。 だが果たせるかな、孤独が属性となりさがったとき、人は不幸だ。 『ルジェニ散文集1』より抜粋 - - 2006年04月18日(火) 「失帰の鬼」 『江戸の怪奇譚』という本を読んでいたら、こんな言葉が目にとまった。 筆者によると、中国の言葉で120歳を超えた老人を指すという。 うーん、と、思わず唸った。 まずその字面である。 「失」。逸するのではなく、持っていたものを失うのである。 この場合は死ぬ機会、死ぬ道すじ、もしくは死そのものであろう。 そして失「帰」。死ぬのではなく、帰るのである。 さらに「鬼」。もはや人ではないわけだ。猫又の人間版というところか。 まとめていえばこういうことだ。 来たりしところへ帰るすべを失って、人は人ならぬものとなる。 なんとも物狂おしいことだ。 来たりしところ、根の国、常世、奥の国がどんなに恋しくても、 そこに至る道を失ってしまえば再びは得られまい。 人であり続けたことで鬼となる不条理と苦しみや、推して知るべし。 - - 2006年04月17日(月) 「あ、わたし、 仕事できない人にあれこれ言われるのって 好きじゃないですから」 昨日の今日で言ってしまった私に拍手。 この強気な性格をなんとかしないと、そのうち閑職にとばされるな。 そーだなー。他人の二倍、仕事するっきゃないかなー。 - - 2006年04月16日(日) 仕事をしないオヤジに説教を垂れられると、 なんでこう腹が立つんだろうか。 仕事をする人とかスゲー人には、 へただとかなんだか言われても平気だしすんなり受け取れるが、 自分より明らかに仕事をしない定年間際のオヤジってのは、 何を言われてもカチンとくる。 しかもそういうオヤジに限って、ものすげー頭ごなしな物言いをするんだ。 きっと、こういうところが、子供なんだよなー(泣) 受け流せるようになろう、さらっと。 そんで、感情的にならないようにしよう。 誰より仕事をしてれば、文句なんか言われなくなると思ってたけど、 世の中はそれほど簡単じゃないみたいだ。ほんとに。 もう社会に出て五年にもなるってのに、私はまだガキだ。 どんなクソじじいにも、 1敬語を使い、笑顔で接する 2面と向かっては言い争わない 3相手の仕事ぶり、善し悪しをあしざまに言わない 4相手を軽蔑しているということを態度や言葉に出さない 結局、仕事というのはみんなでやるものだし、 だから自分がどんなにがむしゃらにやったって、全部はできない。 それなら社内で波風を立てるべきではない。 だってそれは、結局、自分の評価にもはねかえることだから。 私は仕事が好きだから、人間関係なんかのせいでミソなんかつけない。 挫折なんかしない。立ち止まったりしない。 明日もがんばろう(ぐぐ) - - 2006年04月15日(土) ハルピュイア: 食卓に敷布は整えられて、簡素な皿に盛られた空豆のスープと黒い堅いパンがのせられていた。ククールは黙って手と口を動かして食事を進めていたが、ふいに顔を上げた。向かいの兄は膝に手をのせたまま窓の外を見ている。テーブルの上は手つかずのままだ。スープも、パンも。さじを持ち上げた気配さえない。 ククールは黙って兄を見た。軟禁された館の窓の外を見る眼差しは静かで、表情は何もない。床を離れてはじめて取った食事は口にあわなかったのだろうか、それとも自分がここにいては食事をする気も起きないのだろうかと思うと、ククールはふいに空腹がどこかへ消えたのを感じた。うつむいて、スープに映る影を見る。 「どうした」 問いかけは、さほど間をおかずに落ちてきた。ひどく、さりげなく。おだやかに。 「食べないのか?」 「あ、……ン、うん」 のろのろと、さじを取り上げた。さじはひどく重いようだ。スープ皿の底を何度かつついてから、ククールはやっとの思いで顔を上げた。思いがけないことに、マルチェロの眼差しはまっすぐにこちらを見て、ゆがんだところがない。 「あの、さ…」 場違いに泣きそうな気分が立ち上ってくる。どうやらそれをこらえて、瞬きする。できるだけ軽口のように言えたらと。 「まずい、かもしれないけどさ…食べてみて、くれたら。もしかしたら」 だんだん言葉は低く小さくなって、尻すぼみに消えてしまった。マルチェロはまだじっとククールを見て、それから膝の上に置いていた手を持ち上げてさじを取った。ククールはかたずを飲んで、そのさじがスープをくぐり、少しの豆のかけらを掬い、口元に運ぶのを見ていた。ほとんど音もなく、マルチェロはひとさじのスープを飲み干した。 「おまえが作ったのか」 「ああ」 「懐かしい味がする」 ククールは少し笑った。マルチェロもかすかに笑い、だが再びさじを取り上げようとはしなかった。ククールはひどくつらく、声にもならない声で短くわびの言葉をつぶやくと、食卓を去った。マルチェロは。 マルチェロは弟の背を黙って見送った。すまなく思いはしたが、だがどうしても、さじを取る気にもパンを裂く気にもなれなかった。マルチェロは食卓を見渡し、音もなく息をつく。幽閉の身の囚人のために、白い敷布を用意し、マイエラの昼食にしばしば出されたスープを用意した弟の心はわかっていた。 「だが」 マルチェロはつぶやいた。 「だが、私の食卓には常に翼ある影がつきまとっている」 そうだ、それは時ならぬ夕暮れのように押し寄せて、あらゆる喜びを押し殺した。その影とは悔恨であり悲嘆であり、我がために失われたものたちの怨嗟であった。そうだ、自ら殺した法王の喉のこごった悲鳴や、政敵の胸を突き通した剣の向こうに流れた血は速い翼を持つかのごとく前触れもなく手に目に耳にとりついた。ひとたびそうなれば離れはせず。 「……」 それでも、この静かな食卓に臨んでつかの間感じた幸いは本当であった。もうスープは喉を通らぬだろうと知りながら、マルチェロはまだしばらく、席を立たなかった。 成分分析 (1)オフライン向け同人ペンネーム「たつみ」 たつみの52%は犠牲で出来ています たつみの39%は蛇の抜け殻で出来ています たつみの3%はお菓子で出来ています たつみの3%は心の壁で出来ています たつみの3%は知識で出来ています (2)キャラチャ用HN「パンダマニア」 パンダマニアの85%は汗と涙(化 合物)で出来ています パンダマニアの10%は鍛錬で出来ています パンダマニアの3%はお菓子で出来ています パンダマニアの2%は心の壁で出来ています (3)ドラクエ、トールキンワールド用HN「太郎飴」 太郎飴の75%は大人の都合で出来ています 太郎飴の9%は黒インクで出来ています 太郎飴の7%は気の迷いで出来ています 太郎飴の6%は濃硫酸で出来ています 太郎飴の3%は言葉で出来ています (4)本名 ●の73%は知識で出来ています ●の23%は魂の炎で出来ています ●の2%は気の迷いで出来ています ●の1%はマイナスイオンで出来ています ●の1%は濃硫酸で出来ています 一番ネタになるのは52%犠牲の「たつみ」か? それとも75%大人の都合の「太郎飴」か? 本名は割に納得。フィルムとかレンズがあればもっとよかったのに(笑) - - 2006年04月14日(金) ティル・ナ・ノグ: 王は玉座から立ち上がり、大臣に微笑を向けた。 「では私はこれで、無罪放免かね?」 巻いた羊皮紙を取り集めていた大臣は、丸っこい体を揺すって笑った。 「お疲れ様でございました。しかしこれでトラペッタのご領主も肩をなで下ろすでしょう」 「天災は天の下すもの、苦しむ民を助けるのに躊躇はするまいよ。のう?」 「正道でございましょう」 「さて、私は庭を歩いてこよう」 「春の宵ですな。お胸を広くなされませ」 毛足の長い絨毯を踏み、長い衣の裾を引いて、王は広間を横切って行った。長い執務に背や肩はやや強ばっていたが、一日を終えた足取りは軽やかだ。衛士の開いた扉を通って、王は庭園に出た。とたんに吹き付けた夜の風は豊かに、また心地よく王の髪をさらい、先に亡くなった母の白女王に似ていると人々の言う端正な顔立ちの中の唇で笑む。 玉座に上ってもう、四半世紀が過ぎていた。黒髪には白髪が交じり、青春は老年に場所を譲りつつある。善をなそうとし、またそのように努めてきた。その努力が実ってか、あるいは天がそのように巡ったのか、国はおさまり、世に勢力をなしている。迎えた妻は世継ぎの姫と王子をなして、そのいずれもすくすくと育っている。それでも心にわずかな隙間はあった。 これは、と、王は自らに声なく問う。これは、こうした小さな悲しみは、誰にでもあるものだろう。それは複雑で豊かな心という殿堂のうちの一つの小部屋にすぎず、いかなる悲しみや苦しみの原因となることもないであろう。だがこの虚ろがうまることもまたないに違いない。それは失った母への追憶であり・・・ 「元気そうだね、陛下」 王ははっとして顔を上げた。夜の庭の噴水の傍らに立っているのは息子ほどの年の小柄な少年だ。黒い髪と黒い目と、見慣れたバンダナと。王はかすかに震え、その目は涙に潤むかと見えた。だが、すぐに。 「お元気そうでなによりです、父上。ようこそお帰りになられました」 父親と呼ばれた少年は笑って、王に歩み寄った。背丈では、王の肩ほど。顔立ちは若々しく、動作は俊敏。だが微笑を浮かべた目の奥には、見かけとはそぐわぬ年月が眠っていると知れた。 「小さなお姫さまと王子さまは元気かな? お嫁さんは?」 「みな、変わりありませんよ。ですが、子供らはもうそれほど小さくはなくなりました、二人とも。娘はもう、十五です。母上とよく似てきました。おてんばで」 声を上げてトロデーンの前王エイト、英雄王とあだなされる歳月を重ねた少年は笑った。その笑いにもかかわらず、むしろその笑いのゆえに、王は、父親のうちにある深い寂しさと虚ろを知った。それこそまさに、エイトを故地トロデーンから追い、また長くはとどまらせぬものであった。竜の血はエイトから歳月を奪い、それ以上に愛する妻とともに老いて去りゆく権利を奪った。だが王もまたほほえんで、問う。 「あれは、どうですか。まだ戻る気にはなりませんか」 エイトは笑いを引っ込めて、少年の仕草そのままに頭を掻いた。無言の肯いを見て王は嘆息する。 「たまには戻るように父上から言ってやってください。たまには兄の、私のことも考えるようにと」 「考えているのだよ」 王は父の手が肩に置かれるのを知った。見える横顔はやはり悲しげだ。 「あれは考えているのだよ、おまえのことも、おまえの妻や子供たちのことも。愛しているのだよ。そうだ、僕たちは昔から仲のいい家族だったのだから。ただね、あの子は少し…」 王は天を見上げる。星々はめぐっている。物心ついたときから空はそのようだった。そしてこれより先も。 「あの子は怖いのだよ。おまえと会えば、どうしたって、おまえといつか永遠に別れねばならないと思い知らされるから」 「わかっております。でもだからこそ、父上。会えるうちに会ってくれなくてはというのも道理でございましょう」 やさしい手がまた肩をぽんぽんと叩いていく。王は空を見上げたままでいる。去ってゆく父親を見送るのは、悲しい。 「愛しているよ。僕も、ミーティアも、あの子も、みんなして、おまえを愛しているよ。幸せだね?」 「ええ、父上。幸せです。幸せです。私も愛しています。愛しています…父上、どうか」 「また来る、また来るとも。今度はあの子も連れてくる。だから、そんな顔をしないで」 声はやさしく、穏やかで、そして遠くなる。遠くなってゆく。王は目を閉じてきつく眉を寄せた。行かないでとは、ついに口に出せなかった。なぜなら父を、弟をおいてやがて永遠に去るのは自分の方だからだ。そのとき、どんなに泣くだろう、父は。あの弟は。小さな弟は。幼いころは城の裏手の畑で、おっかけっこをしたものだった。夕暮れ、政務を終えた父と母が迎えに来る時にはもう二人とも泥だらけで。長い日差しのなかを駆けて、駆けて。抱きしめる腕の暖かさと。 「父上!」 声は夜に吸われた。そこにはもう誰もいない。王は黙って立ちつくした。西方の光はもはやない。過ぎ去った幸福と歳月は呼び返しようもなかった。だが、今には今の幸福と責務がある。だからそれは王の心の宮居のうちの一つの部屋にすぎず、海の果ての彼方の幻の国へのあこがれのごときものにすぎず。 エコー: 花盛りの庭にエイトは立っている。そこはトロデーンの王城からさほど遠くない荒れ果てた古い館の庭で、もう長いあいだ手入れもされていないのに、アーチにまた崩れかけた石壁に這うつるバラは色とりどり数多の花を飾り、足下には矢車草に風露草、ルピナスは光輝く塔のごとくに咲いている。 エイトはゆっくりと足を運んだ。往時の小道は花に草に埋もれている。気ままなスミレやジャスミンが香り立ち、淡い色のスイートピーがふいの風に群れ立ち、揺れ騒ぐ。音もなく声もなく、胸痛ませる美であった。 エイトはわずかに頭を傾げ、微笑した。そこはかつて白い女王ミーティアの箱庭であった。老いた女王は息子に玉座を譲って、老いることのない夫とともにそこに住んだ。年ごとに花はいよいよ見事に咲き、二人は手に手をとって庭を歩んだ。たがいの時の流れが異なることは、この二人の愛情にはなんらも関わりなく、だがミーティアはいつかの春を最後に世を去った。 そうだ、ミーティアは世を去った。だがそれは本当だろうかとエイトは問い返す。住むひともなくなった館は荒れ果てて、庭は秩序を失って狂い咲いていても。ここにあの白いやさしい女王がいなくても、それでもそれは疑わずにはいられないことなのだ。だって、まだこの胸に愛は少しも衰えていない。それに、すべての記憶は手を伸ばせば触れられるほどに鮮明だ。 ある霧の朝、まだ幼かった王女の手を取って歩いたこと。初めて受け取った秘密の手紙を封切るときに感じた胸苦しさ。婚礼の日の鐘の音色と、祝福と、見交わした目の中にあふれんばかりであった情愛の光と、くちづけの清さ。ともに過ごしたながの年月。初めての子の生まれる夜を照らしていた松明の不安な苦しい揺らめき、この腕に抱いた赤ん坊の温もり、眠る妻の美しい横顔。日ごと夜ごとにに大きくなっていった子供たち、忙しい国務とインクの臭い。トロデ王の葬儀の最中、泣き崩れた妻を抱きしめた腕に感じた震え。ああすべての、夕暮れの一つひとつ、夜明けの一つひとつ。 エイトは静かにあたりを見回す。どうしてミーティアが逝ってしまったはずがあるだろう? まだ彼がここにいるのに。多分あの美しい王女は、持ち前のいたずらっ気で、どこかに隠れているのだ。呼べば笑いながら現れるはず。駆け寄ってあの細い腕で抱きついてくるはず。そうとも、どうしてそうでないはずがあるだろう? これほど彼女の気配は身近だ。 「花が咲いているよ。ごらん、きみの好きなバラがこんなに咲いているよ」 暖かな風が吹いた。エイトは微笑する。そこにミーティアの影を見たように思ったからだ。そこに。新雪にも似た純白のバラの花影に。 「隠れていないで。出ておいで」 だがエイトは開きかけた口からその名を呼ばなかった。ミーティアは逝ってしまった。口を閉ざして黙し、悲しくあたりを見回した。花々はこれほど咲いているのに、バラはこれほど香っているのに、ミーティアはもはやいないのだ。ともに歩くこともなく、その美しさを語り合い、わかちあうこともないのだ。小さな花を摘んでその黒髪にさしてやることもない、その返礼に暖かい口づけが与えられることも。すべての記憶は明らかなのに。 ここにあるのは過去のむなしいエコー、こだまばかり。心臓を締め付ける苦しみに、エイトは強く胸を押さえた。鋭い悲嘆は臓腑を貫き、目からは涙があふれ出た。それは頬を伝い、顎を濡らした。 追加してみた。エイトがブームかもしらん。 うちの微妙設定はエイトとミーティアは超ラブラブ夫婦です。 間には双子の息子がいて、兄は人間、弟は竜の血が濃い。 そんなかんじかな。 - - 2006年04月13日(木) セイレーン: 肯ってはならぬ、けっして許してはならぬ。 そう命じる声は、折に触れてマルチェロの耳に聞こえていた。 否定と拒絶を告げるそれらは、例えば寄る辺ない孤児として貴族の少年にいわれない侮蔑を受けた修道院の早朝に聞こえ、また若い見習い従者として戦地における功績一切が無視された不当な評定の席に聞こえ、また一人の泣き出しそうな顔をした寂しい小さい子供が中庭にたたずむ姿に人知れず哀れを覚えかけた夕暮れに響いた。その声を聞くつどマルチェロは心を強くし、牙を厳しく鋭く磨いだものだった。 それは誰の、また何の声であったのだろう。非業のうちに死んだ母親か、それとも無力のうちにただ奪われ、傷つけられるばかりだった幼い自身か。マルチェロは長い間、声の主がそのどちらかだろうと信じていたのだが、今は思う。それは旅人を早瀬へと誘うセイレーン、危険な海魔の声だったのかもしれぬ、と。 そうだ、マルチェロは考える。考えている。冷ややかな水のごとく明けゆく朝のなかで、寝台の上に身を起こして静かに考えている。窓の外では朝のもやがゆっくりと、ゆっくりと流れていく。黎明は青白く清く平和に満ちている。サヴェッラの空気の薄い高みはこのとき、天上の風景に近いようだ。 リブルアーチ北東の山地で傷を負い、連れ戻されたのは冬のさなかの頃だった。それから、もう半月が過ぎた。法王ニノや枢機卿議会の意図や動きからは、分厚いビロウドの幔幕めいた沈黙で隔てられて、現実らしいのは治癒の途上にある数多の傷だけだ。傷と、それから。 マルチェロは左手を見下ろした。その手は別の手に包まれている。寝台の脇の硬い椅子にかけ、つっぷして眠っているのは異腹の弟だ。夜通しそこにそうしていたのだろう。銀色の髪は少しほつれてその頬にかかっていた。 「……」 マルチェロは右手をのろのろと、重たく持ち上げた。あの声が聞こえるかと思ったが、聞こえはしなかった。ただ、まだ消えない傷の痛みが響くだけのことで、それなら特に言うほどのこともない。 マルチェロは弟の髪に触れた。触れればそうであろうと思っていた、その通りに暖かくやわらかい銀髪だった。そっと、撫でる。手の下でかすかに身じろぐ気配に少しばかり戸惑いはしたが、すぐにまた静まった。 あの声、つきまとって離れなかったあの鋭い否定と拒絶はどこへ行ったのだろう? だがどこに行ったにしろ、それはこの寝台で目覚めたときにはもうあったこともなかったようだった。マルチェロは銀の髪を撫でながら考える。あれはセイレーンの声だったのだ。旅人の舟を早瀬に誘い、青黒い深淵に沈める魔の。だがそうわかったとしてもう遅すぎた。そうだ、すべては遅すぎる。過ちは犯され、血は流された。そして起きたことは取り消すことができない。 だが、こうすることはできるだろう。こればかり、なすことはできるだろう。マルチェロは弟の髪を撫でる。ククールの銀髪を。それはかつてマイエラの石の中庭であの声が押し留めたその行為ではなかったか。 そうだ、ためらいがちに。ぎこちなく。やさしく。ククールはつっぷしたまま、もう身じろぎもしない。息を潜めるように。それとも泣いているのだろうか。声もなく。 ものすごい久しぶりのドラクエです。兄貴です。 みなさまいかがお過ごしでしょうか。死んだと思われていても不思議はない太郎飴ですがところがどっこい生きてたり。 まあそんなことはどうでもよく、桜が撮りたい。 週末よこせよガッデム上司。 - - 2006年04月12日(水) 上三川リンチ殺害事件 平成13年に起きたこの事件についての民事裁判の判決が言い渡された。 内容は警察が職務怠慢によって事件を看過したと認めるもので、 かなり画期的であり、原告である被害者の父親には喜ばしいだろう。 この事件について詳細を述べることはできない。 その凄惨さは女子高生コンクリ殺人事件にも比すべきであり、 裁判はおよそ平常心で傍聴できるものではなかった。 心理学的な面で問われるのはいくつかのことだ。 加害者たちはなぜ、ああしたことが「できた」のか。 誰かを傷つけることは、それを行った当人にもかえる行為である。 戦場で敵を殺した兵士たちのPTSDを思えばわかりやすい。 人ひとり、拷問に等しい行為の果てに殺害すること。 これをその事実の重さに等しい強烈な心的事象として加害者が体験し、 なおかつああした振る舞いができるなら、それは恐るべきことだ。 だから結論としてはこうしたことになる。 加害者らはその事実を、過小に評価し、また実行した。 簡単に言うならこういうことだ、彼らは気軽に殺した。 そうしたことは可能だし、しかもよくあることだ。 なにより加害者らは複数であり、「反逆せる」若年者であった。 かれらにとって仲間内の評価はおよそすべてであった。 ならば彼らの行為はエスカレートする。仲間に負けまいとして。 行為のむごさでも、それによって証明される自らのタフさでも。 しかしそれを受け止めねばならぬ家族には、そうした方便はない。 彼らは息子をなくした両親というそのままに悲しむより他にない。 しかもただなくしただけでない、非道な犯罪と拷問の果てに殺された。 その苦しみを、絶望を、両親は執拗なほどに追体験せずにはおれない。 なぜならそれは彼らの息子が受けた暴虐であるからだ。 彼らが息子を案じていたそのときに息子が味わっていたものだからだ。 「代われるものなら代わってやりたかった」愛するものはかくも、 かくも逃げ道がない。思いはその道に立ち止まって歩き出さない。 この判決について、初めに、「父親には喜ばしい」と書いた。 そうだ、父親はたった一人だ。妻はもう逝ってしまったのだから。 苦しみの総和は彼の肩にある。この荷は下ろすことができない。 だからこそ祈らずにはおれない。犯罪が撲滅されることを。 そしてまた厳しい指摘を受けた県警が、再び過ちを繰り返さぬことを。 須藤正和さんの冥福をお祈りします。 - - 2006年04月11日(火) 【アイアン・メイデンの抱擁のもとで】 「育つ」ということ、「成長」ということが謎だった時代があった。 人間は何者として生まれ、どうした能力を発達して社会の一員となるのか? 言葉はなるほど学ぶべきものだ。算数も、歴史も、科学も。 だが会話の技法、探求の原動力は? 女性を口説き、デートに誘うには? それらはどのように発達し、身に付くのか? あるいはそんな必要もなく自然に芽吹き育つのか? そんなことすら不明だった。それは謎だったのだ。 「ひととはなに」 その問いが哲学を出て科学の手に渡ったとき、一つの実験がなされた。 布を張った人形にすがるアカゲザルを写真を覚えているだろうか? そこでは愛が問われた。 小さなアカゲザルの子供には二つの「母親」が与えられた。 一つは針金の骨格にほ乳瓶を据え付けた人形で、 もう一つは柔らかい布地を張り、暖かさを備えた人形だ。 サルの子供はどうしたか。 ミルクをくれる針金人形にはただ食事の時だけとりついたが、 普段は柔らかい布製の人形に抱きついて引き離されれば泣き叫んだ。 これをもって研究者はいった。 愛着はぬくもりと柔らかさを伴う「ふれあい」によって形成される。 それは必ずしも母親でなくともよい。 折しもウーマンリブ全盛の時代、その報告は女性を家庭の外に導いた。 だがこの話には続きがある。 布の母親のもとで「育った」サルの子供たちは群れにとけ込めず、 配偶者を見つけられず、異常な行動を繰り返した。 研究者は少しばかり条件を変えてみた。 布地の人形に動きを与える。 一日に少しの時間、仲間の子供と遊ばせる。 それでサルたちは正常に育った。群れにとけ込み、妻や夫を得た。 研究者は科学的な公正さでもってこの結果を報告した。 さて、どうだろう。 アカゲザルはサルの仲間のうちでもっとも単純な種族だ。 その健全な生育に必要なものはそれかもしれない。 不遇な育ちをした子供はなんとか社会のしっぽについて行けるかも。 だが人間は? 人間にはもう少し多くのものが必要ではないだろうか? 核家族を、複雑な社会を構成し、緊密な社会を営む人間は。 現代社会は壮大な実験をしている。きちんとデータを収集すべきだろう。 - - 2006年04月10日(月) 今日の一枚:男前の狛犬氏と、もだえる桜 【ラット・ランドの呪縛】 ずいぶん昔の心理学の実験について読んだ。 薬物に対する依存症について検証したもので、なかなか独創的だった。 概要はこういうことだ。 まずラットを一匹ずつ檻に入れた群(Aとする)と、 環境、個体数などで望ましい状況に置いた群(Bとする)を用意する。 この二つの群に飲用としてコカイン(もしくは他の常習性のある薬物)を 混入させた水を与え、“薬漬け”にする。 次に、コカイン水のほかに、薬物を含まない水を用意して ラットたちが (1)コカイン水を飲み続けるか? (2)水を飲むか? 結果はどう出たか。 Aではすべてのラットがコカイン水を飲み続け、 Bでは75%のラットが自発的に水を飲み、中毒状態を脱した。 おもしろい話だ。 この実験からすると、薬物中毒になるのは薬物そのものの作用でなく 周囲の環境が大きな役割を果たしているということになる。 実験者の皮肉たっぷりの記述を要約すると、 「ほかにましなことがあるラットたちは薬物など選ばない。 人間でもおそらく状況は同じだろう」ということになる。 しかしここで考えてもらいたい。 広く、清潔で、明るく、良い仲間たちがいる環境とはどこだ。 それは楽園だ。「ラット・ランド」は天然にはありえない。 自然は厳しく、仲間はたいてい少なすぎる資源をめぐっていがみあう。 我らが住んでいるのは、独房より悪くはないにしろ、 ラット・ランドほど良くはない。 自然はすべてのものを幸福にはしないものだ。 それでは、楽園を、人間のためのラット・ランドを作るべきだろうか? その試みはある。貧困や差別や競争のない世界を、という声はある。 ある人々は一等賞をつけない徒競走を行い、 誰もがフェアに扱われる教室で子供を育てる。 彼らはなるほど幸福に育つ・・・かもしれない。 だが見よ、人は必ずラット・ランドを出て現実に直面する。 そのとき争いや悲しみ、それを乗り越える技を学ばなかった子は、 彼らはどうするのだろう? 苦しみを知らなかった子は? 答えがたぶん、引きこもりと呼ばれる人々ではないのか。 彼らは、気の毒なことに、幸福と平等の幻想と引き替えに 本当に必要なことを学ぶ機会を奪われたのだ。 人生は与えられない、それは勝ち取らねばならないものだと。 打ちのめされ、泥を噛み、そのうちにもやみがたく世界を愛することを。 その闘争と努力こそが絶えざる、本当の喜びの源泉なのだと。 そしてまた、没落の苦悩と絶望の深さを。 - - 2006年04月09日(日) 日曜の仕事が終わったのが24時ちょっと過ぎ。 ちょっとまてもう月曜(略) 絶賛桜祭中なので、もうしばらくはカメラを片手に歩いていたい。 - - 2006年04月08日(土) 祝、ADSL開通。めちゃ速・・・。 本のページをめくるように、選んだHPが開ける。 これは確かに、通信革命だろう。問題はアレだ。 私の部屋にはコンセントが少なすぎる。 -
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