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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年10月31日(月)

 軌道を外れることのない一本の鋼の矢が
 その魂に抱いているほどの悲しみがある。
 ここに、この嵐のような楽の音のうちに。



『トッカータとフーガ ニ短調』(JSバッハ)



 青白い光に満ちた部屋のなかで、ジンニーアはふと笑った。

「そうではない。そうではない。そんなことは必要ない。
 何一つ、そうだ、なにひとつ、必要などではなかったのだよ。
 それくらいのことは、おまえはわかっていると思ったが」

 そんなにも否定されて、私は腹を立てるよりむしろ不思議に思った。彼女は何につけ頭ごなしに否定するという習慣を持たないと知っていたからだ。では、この完全な全的な一気の否定は、腹立ちや無神経よりもむしろ驚きによるものであろうと思われた。

「殺す必要も抱く必要もないのだ。声を上げて笑うことも怒ることもない。
 そうしたすべては過剰にすぎぬ。ただの酔いどれのすることだ。
 そんなものではないのだよ。思いは、人の思いというものはもっと深い。
 昼に見るよりもずっと深い。さあ、思うてごらん。
 大海をのぞきこんでいると思っていた男が、ふと、
 自分が見ているのは空だと気づくようなものだ。
 それは深い。深く、美しく、明るい」

 ジンニーアは両手を広げた。それは一見すればただ少女の両手にすぎなかったが、数多の銀河と星雲がその指のあいだでゆっくりと回転しているのだということを私はもう知っていた。

「さあ、見てごらん。
 このすべての銀河はただ定められた軌道の上を廻るだけだ。
 廻ってゆくだけだ。
 人のように踊ったり歌ったり、いわゆる生活などというものを
 経験することもない。廻る。それだけだ。
 しかもただそれだけのことに、これらはすべてを言い現しているのだ。
 なぜならそのことばを知るものがいるのだから。
 そして言い尽くしたときには一つひとつ静かに燃え尽きるのだよ。
 そうだ、ヴィオロンの弦からはじき出された音色のように」


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- 2005年10月30日(日)

ニヤニヤしたネタ

アレッサンドロ・マルチェッロ(1669―1747)
ベネデット・マルチェッロ(1686―1739)

 イタリア貴族で、バロック時代の作曲家兄弟。年の差はだいたい17歳。音楽家としての評価は弟の方が高く、作った曲のうち現存する数も、アレッサンドロが50曲程度に対し、早世したベネデット700曲以上とケタが違う。

 面白いのは、アレッサンドロ=アレキサンダーで『大王』系なのに対し、ベネデット=ベネディクト(祝福されたもの)で『僧侶』系ってこと。しかもベネデットはカメルレンゴ(教皇代理)の称号まで頂いている。アレッサンドロが何をしていたのかはいまひとつ、ネットでは調べきれない。



アレッサンドロ→マルチェロ
ベネデット  →ククール
これで考えてみるとなかなか面白いが、ちょっとかぶり切らない。
どっちかというと逆の方がしっくりくる…。


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- 2005年10月29日(土)



ジュンちゃん、なんだか難しい顔してるねー、どうしたのかなー?

というわけで、百里基地で行われた観閲式に行ってきました。
素晴らしかったのはブルーインパルスであり、
イーグル、ファントムであり、純ちゃんじゃない。別に。




「音速を超えても、視界はそれほど変わりません。
 ただ、機体のあちこちから生まれるひずみは見えます。
 わかりますか、湯気のような揺らぎです。風のひだです」

そう話したファントムの若いパイロットは、薄い色の瞳をしていた。
このひとは、空を長く見すぎたのだろうか、と、私は思った。
風のひだ、空のひずみ、そこでは太陽はどのように見えるだろう。
音速の2倍で飛行する鉄の機体を莢としてゆくものにとっては。


「懐かしくてね。35年前に、俺はこれに乗ってたんだよ。
 ああ、懐かしいね。こんなにきれいに保存されている機体は初めて見た。
 なんだかね、昔の恋人に会ったようだよ。おかしいね」

老いた元パイロットは7500時間を空で過ごした。
その一年にも満たない、物理的には短い時間を、
彼は地上で暮らした生涯の残りのすべての時間よりも愛している。
私は外装だけで飾られていた飛行機の機種を聞き忘れたので、
やはり彼の目の色も薄かったと、それだけを思い出すことにする。


空で死ぬパイロットは多い。
だが彼らにとって、パイロットの鷲頭の記章とは、刻印に等しいのだ。
『バイオリニストからバイオリンを奪うな、王から冠を。
それは金持ちから金を奪うのとは違う』ことなのだ。
彼らはそうした特定の物品をもって、自らを聖別しているのだ。
私は彼らを愛する。その清い自尊の心をこそ。


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- 2005年10月27日(木)

TSさんから萌えバトンが回ってきたのでさっそく回答。
面白かった!

■1.萌え属性を正直に告白せよ(妹属性とか眼鏡属性とか)
属性というのはちょっと抽象的でわかりにくいので、
幾つかパターン実例を挙げる。

A 肉体派のオッサンに余裕綽々で抱かれる知的なジジイ
サム警部×老俳優ドルリー・レーン(エラリイ・クイーン、『Yの悲劇』など)
:ワトソン役サムは五十歳代、探偵役レーンは六十歳代身障者。

B こまっしゃくれてはいるが純情なガキに押し切られる年上
子山羊のメイ×オオカミのガブ(木村裕一、『あらしのよるに』シリーズ)
:メイは頭が良い…というか小生意気だが子供らしい純粋さを持つ。
 ガブは正直で勇敢で善良だがややドンくさい。

C 主従関係。ただし臣下が好き勝手。下克上、年下攻め上等
ケーテン公レオポルド×楽長バッハ(『アンナ・マグダレーナの年代記』)
:寛大で年長な公爵が、才能あるバッハのよき理解者となって
 ふさわしい地位につけてやるが、バッハは音楽に没頭して相手にしない。

D 破滅型受けをなんとかしたいけどなんとかできない。血縁上等
次男マグロール×四男カランシア(JRRトールキン、『シルマリルリオン』)
:破滅的な弟を、愛ゆえに徹底的に支配し押さえ込もうとするが、
 結局は死なれてヤケになる兄。

E マッチョ兄貴をアンアンいわす
獅子座アイオリア×牡牛座アルデバラン(車田正美、『聖闘士聖矢』)
剣桃太郎×赤石剛次(『魁!男塾』)
:床が抜けそな肉弾戦。デカい方が受けに決まってるだろ!

過去に萌えたネタは数あれど、
要素としては、おおむね以上の五つに収束すると思われる。


■2.萌え衣裳を答えよ(メイドとか背広とか)
受け攻めに分けて幾つか実例を挙げてみる。

受け
・ヨレヨレのトレンチ・コート(コロンボ、『刑事コロンボ』シリーズ)
・楽長の黒い細身の着丈の長い上着(バッハ、『アンナ・マグダレーナー』)
・聖職者用ハイカラーの長衣、ストールつき(マクスウェル、『ヘルシング』)
攻め
・かぶと(出典なし、脱ぐと汗臭い長髪頭だとなおよい)
・インヴァネス(幻十、『魔界都市新宿』)
・筋肉。


■3.萌え小道具を答えよ(包帯とか首輪とか眼鏡とか)
受け攻めで偏りがあまりないので混合で回答する。

・湾曲刀(ハリード、『ロマンシング サ・ガ3』)
・孫の手(出典なし、やる気のない着流しとセット希望)
・ふんどし(同、色は白に限る)
・さらし(同、色は白、もしくは血で真っ赤でもいい)
・手・首かせ(孫賓、『東周英雄伝』)


■4.萌え仕草を答えよ(受けでも攻めでもときめく仕草)

・眼鏡を外す:顔があらわになる感じがたまりません
・寝返りを打つ、寝言でも可:意図しない行為はかわいい
・数を数える:無心で行う単純な行為はかわいい
・泣く、ほろりでも号泣でも可:こらえきれない感情の表出はかわいい
・血まみれになる、返り血もちろん可:問答無用。


■5.萌え場所を答えよ

・山頂:遠景で引いた描写がしたい。自然の中に人は小さい
・教会:神の前に身を置き、自らを小さしとする心は清い
・戦場:荒れ狂う合戦の中で命のやりとりをする姿は美しい
・地下室:小暗い、人目につかない場所で膿のように滲む愛憎は深い
・ベッドの中:実は正統派だったりする。


■6.バトンを回す5人

項目にないけど先に萌えゼリフいいですか。
・「おいで」:受け攻め問わず、くらっときます。
・「アーホゥ」:大阪弁で。見下すようにでもからかいをこめて。
・「それより」「ところで」
 :攻めが1000文字くらいかけて口説いた後、受けがコレ一言で流します。
・「放せ」:泣きそうな顔で、もしくは噛み付くように。
・「吐け。あらいざらいだ」:恫喝っていいよね。ドスのきいた声プリーズ。


う、うーん。かなり普及しているようで困る。
えーと、A.さんヨロシク!

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ただいまオルガン・コラール摂食中。
最近、食欲がないのでちょうどいいです。
音符を食ったら腹を壊すが、音色なら壊さないらしいから。
音楽家の手ってきれいな緊張感があるなあ。



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- 2005年10月26日(水)

大阪にいたら暴徒と化してたぞ…!<日本シリーズ4連敗



『聖トーマス教会の新バッハ・オルガンによるバッハ名曲集』(U.ベーメ)

バッハが27年間にわたり監督を務めたライプツィヒ・聖トマス教会に
バッハの生地アイゼナッハ・ゲオルグ教会のオルガンを参考にして
バロック当時の音を忠実に再現して新たに建造された大オルガンで、
トッカータとフーガからオルガン・コラールの名曲までの計12曲を、
優れたオルガン奏者ベーメが演奏する様子を収めたDVD。

とても長い説明だ…。

プロテスタントらしい極めて簡素で素朴でかわいらしい教会に鎮座した
シャープで優美なオルガンを、むくつけきオッサンがひたすら演奏する。
映像的にはそれだけなのだが、その音ときたら!

61ストップと4段の鍵盤を持つ大オルガンは無限の色彩を持つパレットだ。
金属的な鋭さで「トッカータとフーガニ短調」が鳴り響いたかと思うと
金管楽器の優美な音色が「イエス、我が喜びよ」と歓喜を歌い上げ、
弦をこする響きが「ああ、いかにはかなき、いかにむなしき」と憂う。

ベーメの手足は魔法のようだ。
4段の鍵盤は丸っこい短い指から追いかけあう複数の主題を同時に紡ぎ、
ダンスのステップを踏むように足は低く重厚な通奏低音を湧き上がらせる。
白亜に木の迫持が林立する複雑な天井は天然の音響装置であろう。

ここにバッハがいたのだ。
ここで生き、ここで歌い、ここで奏でた。
音色は交錯する。わたしは陶然となる。幸いなるかな!
幸いなるかな、この地よ。楽の音よ!

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音楽というのは人間においてきわめて本質的なものだ。
オリヴァー・サックスは、脳に器質的な欠陥を来たしながら
音楽のもとでだけ全的な調和を示す男女の例を報告している。
音楽はいわば、「時間」であり「流れ」であり、
器質的な欠陥によってそうしたものを欠いた彼らは、
外なる音楽に「のる」ことによってスムースな動きを取り戻すのだという。

調性というのも、これは自然に対して本質的であるという特徴を持つ。
こうしたものは、平均率がそうであるように自然の分割によって生じる。
分割もまた恣意であるとは聞くところであるが、
これについて私はまだほとんど理解せず、また知るところが少ない。
いずれくわしく学び、報告したいものだと考えている。

わたしが音楽に固執するのは以下の理由からである。
私は音痴だ。音程や調性の変化について、私の感覚は何も教えない。
リズムについてもそうだ。私はリズムを有しない。
にも関わらずそれが存在することがわかる程度には音痴ではない。

音楽は私に私の欠陥について教える手段なのである。
逆に言えばこういうことだ。
私は音楽を通じて、私の欠陥についてより詳しく知ることができるだろう。
多分それはきわめて本質的で根深いものなので、
普段の生活の中からだけでは、何が欠けているのかを
そもそも感じたり知ったりすることができないのだ。


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- 2005年10月25日(火)

 院長の葬儀の時に降っていた霧のような雨は止んで、このとき団長室の窓のへりには月の光がかかっていた。喪に服する修道院はすべての灯りを消して、古代の廃墟のように静まり返っている。
「なあ兄貴。院長が死んじまったんだ。オディロ院長が、院長がだぜ?」
 ククールは窓の外を眺めながら言った。青い幕の内側から答えはない。だが喋り続けた。絶え間なく舌を動かしていなければやってられなかった。
「ガキの頃から聞きたくもねぇのにクソ面白くないダジャレを枕元で延々と聞かされたり、こないだなんて、ちょっと顔見に立ち寄ったら半日でも平気で本棚の整理を手伝わされてよ。ゴーインな爺さんだからよ。俺は忙しいって言ってんのに、聞きやしねえんだぜ。もう二十歳も過ぎて、身持ち悪ぃって評判のこの俺をとっ捕まえてさ、『ご褒美に飴をやろう、ククール』ってんだ。おっかしくってさ。迷惑なんだよ。ああそうさ、いい迷惑だったさ」
 ククールは唇を舐めた。部屋は静かだ。誰もいないように静かだ。
「―フン」
 窓辺に腰をかけ、くくった髪を手持ち無沙汰な指先に引っ掛けて、玩ぶ。暗い部屋のさらに暗い一隅に、座り込んで動かない影がある。
「あんたのことをいつも言ってたんだぜ、院長は。『マルチェロは最近、顔を見せに来ないが元気じゃろうか』、『マルチェロは多忙じゃろうが、たまにはわしのだじゃれも聞きに来てくれんかの』、『どうじゃククール、マルチェロは皆に慕われておるじゃろうか』―。ホントに、あんたのことばっかだったぜ。そうだよ、顔を見せに行ってやりゃよかったんだよ。爺さん、あんたのことを待ってたんだからよ。そりゃ、あんたは忙しかったんだろうけどよ」
 ククールはしばらく黙った。すすり泣きでもいいから何か聞こえてくればと思ったが、死そのもののような沈黙よりほかそこにはない。ただよう空気がひどく冷たく感じられて、ククールはケープを引き寄せた。
「あんたのことを心配してたよ。あんたのことを自慢の息子だって言ってた。やさしい爺さんだったよ。俺みてぇな穀潰しのことだって心配してくれてた。だけど、いっとう爺さんが心配してたのはあんただよ。愛してたのもさ。俺は院長の最後の言葉の意味がわかるような気がするよ。子供みてぇに神様を信じてる人だったから、きっと思ってたんだよ。自分の役目が終わるまで、神様はきっと生かしておいてくださる、ってさ…。だからきっと、死ぬ瞬間も思ってたよ。きっとさ、自分の役目は終わったんだ、だから死ぬことを許されたんだって。そう子供みたいに信じてたさ。オディロ院長の死に顔が安らかだったの、あんたも見ただろ…?」
 なおも答えはなく、ククールは、ようやく諦めて立ち上がった。この部屋に来たのは何のためだったろうか。マルチェロを慰めたかったのか、それとも悲しみを分かち合いたかったのか。いいや、と、ククールは考える。いいや俺はそんなことを望みも予期してもいなかった。ただ思っただけだ。すぐに追い返されるにしても、兄がそこにいて、まだ生きていて、そして、俺もまたオディロ院長を悼んでいるんだってことを知ってくれれば、と。そう、思っただけだ。それがかなったのかどうなのか。出くわしたのは墓穴の中のような冷たさと空虚さだけだ。
「兄貴、なにか言ってくれないのか」
 扉の方を向いたまま、ククールは呟いた。ひどく寂しく悲しかった。別れを告げるつもりで開いた口は、勝手に喋って、叫んだ。
「なあ、オディロ院長はもういないんだぜ。もう、ダジャレも言わない。もう、あんたのことを心配することもない。俺に飴をくれたりもしない。どうすればいいんだ? なあ、もうあの爺さんはいないんだぜ? どこにもだ! いったいどうすりゃいいんだ?」
 暗がりが動いた。亡霊じみた動きだった。
「そうだ」
 どこか遠いところから聞こえてくるような声だった。遠い昔か遠い彼方か。そうだ、この世の外ほども――あらゆる光の届かない。
「あんた…」
「私は院長のもとに出向かなかった。できるかぎりに避けた。わかるか? 私は恐ろしかった。私があの方の許しを、あの方の愛を求めていたからだ。それよりほかに真に求めているものなどなかった。訪れて―否まれたら? それこそ耐えられぬ。その場で死ぬよりほかにない」
 それは子供じみたとさえいえる告白だったが切実さにおいて子供のものではありえなかった。ククールは理解した。これまでマルチェロを何一つ理解していなかったのだ。父親に捨てられ、母親に先立たれるとはどういうことだったのか。幼時の苦難がマルチェロに与えた深手とはどのようなものだったのか。そして誰をも愛さないように見えたマルチェロの情愛がどれほども深く、ほとばしるほどに豊かであったのか。
「だが、あの方はもはやいない。私を愛しもせねば、許しもない。この手に、この剣に、今さらいかなる価値がある? あの方を守るためにと鍛え、どのような苦しみにも耐えてきたが、必要なときには役立たなかった。彼方の大陸に、海の四方に取り戻す願いがあるなら旅立とう。だがない。財を捨て、権能を捨てもしよう、あの方の前にひざまずくことができるなら。今一度お言葉を聴けるなら。そうだ、あの方は私に呼びかけた。いつもだ。いつも呼びかけた。『よく来たな、マルチェロ。さて今日はとっておきのダジャレを聞かせよう。きっとお前も楽しんでくれると思うが』。私は何とも言えずに立ち尽くしていたものだ」
 マルチェロはのろのろと歩んで、ククールの前に立った。月光がその顔を照らし、いかなる表情も許さない悲しみが緑の目の奥に沈んでいる。だが、ククールに後ずさらせたのは、奥深くから滲む、見捨てられたものの深く淀んだ怒り。それがどこに向かうのか、ククールは思うことすら恐ろしかった。
「どう、する気だ、あん…た」
 途切れ途切れの問いは悪霊のように伸びてきた手にふさがれた。それはククールに触れることなく、だが圧倒するだけの憎悪を滲ませている。息さえ詰まった。
「どうして私はもっとしばしばあの方のもとを訪れなかったのだろう。どうしてあの方の話を聞かなかったのだろう? 取り返す術はないのか? 取り返しがつかないのか? もうけっして? もう二度と? だがほんの昨日までは何ほどのこともなくなしえたはずのことではないのか? ああ、呪われろ。呪われろ、誰も呪われろ。呪われて苦しんで死んでしまえ。あの方はもうどこにもおられぬのだ。そうだ、お前に用などない。立ち去れ、私に構うな。それとも…」
 その次に起きたことを、ククールは旅の途上、しばしば悔いた。ククールはもはや声も出せず、逃げた。暗い団長室から。兄から。その狂おしく混沌と渦巻き出口を見出せずにいる憎悪と哀悼から。ひどく長くひどく暗い修道院の廊下をひた走り、追跡者の幻影に怯え、闇の中を抜けて、我に返ったのは自室の扉を閉めてからだ。震えやまない体を押さえ込んで、ククールはへたりこんだ。しばらくして壁の三叉が月の光に輝いているのに気づき、よろめきつつ立ち上がって歩み寄った。口づけして、泣きながら祈った。だが何を祈ったのかは、ついぞ記憶に残らなかった。だが何を祈ったにしろ、その祈りが聞かれなかったことは確かであった。




また熱が上がりそうだ…。<日本シリーズ
何考えてんだ阪神。あの負けっぷりはなんだ…!!!!


気を取り直して。
ところで『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』ですよ。
DVDあったので買いました。見ました。
レオンハルトとアーノンクールが共演してますよゥ!!!!
ありえねーくらいの豪華キャストじゃございませんか。

それで、およそ映像の楽しみを極限までそぎ落とした映画ですが
レオンハルト=バッハがめちゃめちゃいい男ですよ。
ふくらはぎが細くても全然OK、受けだから(ヲイ)
激怒すると巻き毛カツラ外して「コノ馬鹿メ」つって投げるんですよ。
(いやそれは映画じゃなくて本のほうだ)

楽長(カントル)の黒いぴったりした細身の上着もかわえーですよ。
しかもその下は半ズボンで白クツシタですからね!
ケーテン侯(アーノンクール)×バッハ(レオンハルト)とか
どうですか。だめですか。だめですよね。ばっはっはっは。


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- 2005年10月24日(月)

カゼ引いて2連休。仕事行きたいのに!(号泣)

というわけでやることもなくするほどのこともなくミサ曲漬け。
グローリアで震えがきてます。ヤバい。ヤク中のようだ。
「マタイ」より純化され、永遠の彼方の神に向けられた歌と音楽は、
文学的な意味ではドラマを欠いているのだが、
音楽的にはきわめて豊かで、表現だけで人を逸らさないものだ。

考えてもみてほしい。
「キリエ・エレイソン、クリステ・エレイソン」と25分叫ぶだけだ。
しかも私はうっとりしていて終わったことにも気づかずにいる。
これが文字でありえただろうか。まったく文学とは片輪にすぎない。
表現だ。表現なのだ。このようなものを筆が書けたためしはない。
魂から迸る光のようだ。人は弦の音色で嘆かねばならず、
憧れは金管楽器で叫ばれねばなるまい。本当だ、これは本当だ。
だが人間がオーケストラのように各々話し出せばそりゃえらいことだ。


それで、『ジョジョ5部』についてちょっと。
これって、ブチャラティ=キリストではないの?
パッショーネ=パッション=受難物語だしさ。
そうするとジョルノの役回りはなんだろう。


大急ぎで書いてみよう。
ツライ。


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- 2005年10月23日(日)

捏造ノルドランテ・シリオン襲撃編:
 
 予が槍はすでに折れたれば、残りし柄もて寄せ手を打ちぬ。
 するうちに柄は重ねて折れて短き棒となるも、さらに戦い止めず。
 御兄君マエズロスこれに気づき、馬を進めて近づきつつ仰せたまうには、
「マグロォル! 弟よ、剣を抜け! 木切れにては戦えじ」
「剣を抜く暇がござらぬ、兄上、はらからを殺すに忙しくて!
 はらからを殺し、親戚を屠り、同族の血で我が身を染めるに!」
 予は、御顔を一瞥もせで応えたり。
 なんとなれば、このとき同族殺しの苦悩に予はすでに倦みてしあれば。
「なればよ、剣を抜け!」
「罪を重ねるよりはむしろ死ねとおおせあれよ!
 我らアルクウァロンデを滅ぼし、ドリアスを滅ぼし、
 今またディオルの最後の遺児を殺そうとてシリオンの水口を目指しおる!
 かくも長きに渡り剣を抜き、殺し殺され、他のものはいかがなりたるや?
 父上は、カランシアは、クルフィンは、ケレゴルムは、末の双子は?
 小暗きナルゴスロンドの、ゴンドリンの隠れ王国の火が消され、
 まさに麗しのベレリアンドはモルゴスの手に落ちなんとするに、
 おお兄上、なにゆえ私は同族を前に剣を抜かねばならぬと?」
「マンドスは既にわれらに予言をなしたわ。
 それも太陽の昇るより先のこと、今では遠い昔と成り果てぬ。
 さあ、弟よ、とやかく言うはやめよ。
 とうの昔に宿命は定まり、しかも我らはそれをとくより知りたるに!
 そのときが来たとて繰言するはフィンウェ王家の子の斯業にあらぬ!
 石のごとく矢のごとく進むよりほかに道はなし!
 いざ、剣を抜け。剣を抜いてこの兄とともにさらに殺せ!
 そもそもの初めから望みなどありはせなんだ!」
「まこと、兄上の心強き励ましをくださることよ!」
「マグロォル、剣を抜け! 兄を愛する心あらば剣を抜け!」
 ついに予は御兄君が請いを聞き入れて剣を抜けり。
 しかしてフェアノォル王家の最後の二公子は嵐のごとく馬を進めたれば、
 あまたのエルダァルの血は前に流れ、屍はその後に点々と散らばりぬ。





折れた槍の元ネタは『ローランの歌』(ちくま文庫)。

マグロォルが作った「ノルドランテ」だから、
フェアノォル王家にも普通に敬語はつけると思う。
でもシンダァルの「シルマリルリオン」だと悪役だから、
敬語はつけられないだろうなあ。

文語調は大好きだが、扱いが難しい。
もっと感情豊かに歌い上げられればいいのに。


気合をいれやがれ、阪神!!!!!!!!!!!!


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- 2005年10月22日(土)

神を信じないもののバッハ

 表題とまったく関係ないが、通りから自宅までのわずか800メートルの道のりを自転車で走って帰る途中に3回こけるってのはやっぱり疲れているんだと思う。幸い私は肩打撲くらいで実用に支障はないが、パソ乃さんがちょっとかすり傷。でもこっちも動作に問題はない。

 途中で買ったコンビニ弁当はいわゆる自然派なんとやらで、開いてみてなんだか嫌な気分になった。なんでかと思い返してみて思い当たった。いかにも姉の作りそうなメニューなのである。きんぴらごぼうだけ食べてあとは捨てた。実に、まったく、きわめて不愉快だ。NGワードに指定できないか。

 日本シリーズ…。虎よぅ…。

 木漏れ日のさなかに顔を上げて古代を真似て呟いてみる。「いと尊きものあり」。神を知るにそれだけで十分であるとするなら、それだけのことか。だが「生ける神」とはなんだ。誰だっけ、「生ける神がおわすなら、死せる神もおわしますのか」と言っていたのは。脳みそがまだらで動かない。
 私流に答えると、それはこうなる。「私はやがて死ぬ神だけを信じる」。だけどそれは嘘っぱちだ。私はどれだけ自分の信じていない言葉を書いているのだ。「信じうる」というのと「信じている」というのは別のことだ。




…熱が出ていたようだ。仕事…


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- 2005年10月21日(金)

家に帰らせろ…バッハを聞かせろ…(午前1時@仕事中)


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- 2005年10月20日(木)

なんてこった!

以前に見た映画『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』で
バッハ役を演じていたのがレオンハルトだったなんて!!
そういやそうだよチェンバロ弾いてたよ!
レオンハルトはチェンバロとオルガンの奏者としても有名だよ!
なのに私は眠りこけていたよ……。
DVDで出ないかな。出ないと思うな。

というかふくらはぎ細いんだレオンハルト。(そこか)



 憐れみを請う詞は人の想いのごとく湧き上がる。マルチェロは高い堂宇の天井を見上げた。それは幼いころからの癖であった。教会における典礼の歌唱のさなか、不安ともなにともつかぬ思いに駆られて高みをうかがうのは。
 幼い頃には咎められれば殊勝に謝罪もしたが、癖は癖とみえて、団長位を得たこのときとなっても、マルチェロは、合唱の中で頭上を見上げている。丸天井は荘厳で天窓からは斜めに朝の光が射している。ときおりさっと飛び去るのは白鳩か、それとも鴎でもあろうか。そうだ、ここは海からそれほど離れてはいないから。そして祈りはすべてに満ちている。短いとも長いとも感じられる空白の時間を経て、マルチェロはゆっくりと前を向き直った。

 憐れみを請う詞は人の想いのごとく湧き上がる。ククールは、壇上の兄がいつものように高みを見上げていることに気づいた。兄のその癖を知ったのは初めて修道院の礼拝に参加したその日だ。今は兄は見習い騎士の列の中にではなく、白い司教服をまとって壇上に立ってはいるが、その顔に浮かぶ不安とも悲しみともつかない表情は昔と少しも変わっていない。
 マルチェロの上を鳥の影が走り抜けた。それはほんの一瞬のことだったがククールをひどく不安にさせた。だが前に進み出て兄の腕をつかむことも、名を呼ぶことも許されてはいない。ククールは、高まる歌のなかでただ立ち尽くし、兄がやがて地上に視線を返すようにと祈るように思っていた。


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- 2005年10月19日(水)

 四声からなる合唱隊の沈黙するなか、フラウト・トラヴェルソがキリエを歌い出す。夜を守る蝋燭の不安な炎のようにためらいがちに。だがやがてアルトが、ソプラノが、テノールが、バスが、色彩のごとく春のごとくまた太陽のごとく輝かしく次々と目覚めていく。

「ロ短調ミサ曲」(JSバッハ)

 マタイを少なくとも百回は聞き、関係書物を十冊ほど読んだが、やっぱりさっぱりわからないので、バッハのカンタータを全部聞く作戦に転向した。何年かかるか知らないが、レオンハルト指揮の古楽器演奏で聞きたい。
 ミサ曲について簡単におさらいをしておきたい。まず、ミサ曲とは、カトリックの典礼(ミサ)の際に演奏される声楽曲のことである。どの作曲家のものであろうとも、歌詞は基本的に同じものを用いる。
 その構成は、『キリエ』(求憐誦)、『グローリア』(栄光頌、天には神に栄光)、『クレド』(信経、信仰宣言)、『サンクトゥス』(三聖頌、感謝の賛歌)、『アニュス・デイ』(神羔頌、神の子羊)―の五部からなる。先に述べたように歌詞は定まっている。
 キリエについて言うなら、ギリシア語のたった二つの言葉の繰り返しからなり、意味は「主よ憐れみたまえ、キリストよ憐れみたまえ」と簡潔である。グローリアとクレドはより複雑で長い文句だが、サンクトゥス、ベネディクトス、アニュス・デイはいずれも短い。これを音楽としていかに豊かに表現しきるかが作曲家の課題となってくる。
 次に「ロ短調ミサ曲」についてであるが、現在までに研究家の見解は、バッハ最後の作品ということで一致をみているようである。もっとも他のカンタータの寄せ集めにすぎないとして「ロ短調ミサ曲なるものは存在しない」という立場も存在するようである。バッハがプロテスタントであるせいか、カトリックの通常の歌詞とは異なる部分もある。
 他の膨大なカンタータとは異なり、生前に全曲を通じた演奏は行われていない。あるいはバッハ自身がただ神に向けて書いた作品であったのかもしれないというのは、素人である私の想像にすぎない。



 ところで、縮毛矯正をかけてから真っ直ぐ垂れ下がっている前髪が邪魔でたまらない。もうちょっと伸びたら耳にかけられるのだが、いかんせん今はどうしようもない。それで、髪留めというものを持っていないので、そのへんのクリップで留めて仕事をしているわけなのだが、うっかりすると取り忘れるんだな、これが。
 そんで、昨日今日と連続で二回やらかした。パソコンをいじった後で人と会う用事があって席を立ち、相手方ンとこ行ったら、なんだかいつもと様子が違う。そんでも首かしげつつ仕事をこなして返ってきたんだ。そこで気が付いたんだ。
 …マジで死ぬかと思ったヨ。しかも二回も。


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- 2005年10月18日(火)

「母親はそのうえにやらなければならないことがたくさんある。洗濯、掃除。そして合間に石炭を取りに地下室に行かなければならない。母親が上がってくると子供たちはいなくなっている。彼女が窓辺に行くと、子供たちの歌声が聞こえる。

 黄金虫よ、飛べ
 お父さんは戦争に
 お母さんはポンメルン
 ポンメルンは焼け野原

 わたしたちはまたおもてへ走り出て、死神と遊ぶ。すると時間は悲しそうにすみっこに腰を下ろし、自分は役立たずな存在だと思う。―」
           ハンス・エーリッヒ・ノサック『滅亡』より


母親=時間という比喩である。
この短い文章で、戦争で何もかも失った人間の心象が言い尽くされている。
少なくともわたしはそう感じた。
戦争という非日常、圧倒的な暴力、なによりも旧世界の消失は、
時間という日常、母親のような規律から私たちを遠ざけた。
死神とは、爆撃でぽっかりと開いた壁の亀裂のようなものだ。

そこから日の光が透き通って落ちてくる。

そこには日常や、日常に属するすべての約束事が届かない。
歴史の外、生活の外に亀裂は開き、私たちの意識を引き寄せる。
そこは静かで、感傷など入る余地もなく、明るく、しんしんと空虚だ。
そこでは誰もが子供に返る。そうだ、そこには時間も歴史もないのだから。

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勝って喜ぶロッテファンのニュースを見ていて、思わず涙ぐんだ。
そりゃそうだろう。31年ぶりの優勝だ。31年ぶり。
ダメ虎を延々と応援し続けてきた虎ファンの忍耐にいや勝る忍耐だ。
その喜びはほんとに、他人事ではない。
日本シリーズでは正々堂々と戦いたいものである。

「元いじめられっこ対決みたいねー」(@A.さん)
…釈然としないがその通りだ!

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*パソ乃さんがメガンテを詠唱しています。
 窓から投げ捨てますか?

▼はい
 いいえ


*それを捨てるなんてとんでもない!

 はい
 いいえ






……修理かなー。六回目の。またシステムに怒られるよ…。


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- 2005年10月17日(月)

個人的な提案

(1)小泉首相は毎朝、犬の散歩がてら歩いて靖国に参拝する。
(2)日本国政府は、天安門事件について中国の歴史で教えろと要求する。
(3)日本国政府は、韓国・北朝鮮に在日の人々を引き取れと要求する。
(4)メディアは、「アジア各国の反応」としてコメントを使用する場合は、マレーシアとかインドネシアとかタイとかフィリピンの反応についても必ず言及する。でなければ、正直に「中・韓の反応」と言う。





どうよ? 毎度ながら大騒ぎになるならこれくらいやろうや(笑)
小泉は好きでも嫌いでもないし、能力に対してはいささか疑問も持ってる。
だが私の曽祖父は靖国神社にいるのだ。国のためと信じて死んで。


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*1については、参拝が問題だといわれるときにいつも引き出される、
「SP引き連れて公用車で」という非難をかわすため。
犬はもちろん訓練された軍用犬で不審者なんざ一発でかみ殺す獰猛なヤツ。

*2現在の中国の教科書では、天安門事件は「なかったもの」である。自国民を殺戮した政府の行為について知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいる。

*3なぜ在日韓国、朝鮮人ばかり優遇されているのか理解に苦しむ。彼らは外国籍を持ち、かつ日本人になろうとしてもいない(現行法ではなろうとすれば簡単になれる)。つまり積極的に外国人なのである。ならば我々も彼らを外国人として正等に遇するべきである。

*4正確を期せ、報道機関(笑) 社是はともかく正確を失えば存在意義は消失する。それはもう、言うべきほどのこともないのではないのか。


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ロロロロッテ勝った…!
ロッテでも勝つんだなァ…(失礼!)

というわけで、日本シリーズは阪神対ロッテだ。
阪神よ、日本一になれ!今度こそ日本一になれ!
ロッテがいかに喰らいついてこようと、勝て!勝つのだ!虎よ!

…無意味に熱くなってしまった。
しかしパのプレーオフは極めて見ごたえのあるものだったし、
負けたホークスにしても素晴らしいプレーだった。
やっぱり、ダラダラとペナントレースして最後は消化試合ってのより、
こっちの方がそそるよなー。セもプレーオフ制度導入しないかな?

反対…落合が反対してたっけなァ。
六甲おろしの練習しとこうっと。そうしようっと。


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- 2005年10月16日(日)

 乾いた死の地表を這うのは巻き上げられた塵だ。黒に近い灰色の地面の上を、銀色の小さな龍のように走って行く。顔に目に耳に入り込もうとする粉塵を避けてマルチェロは頭巾を被り、顔を覆った。それでも塵は睫毛を縁取り、手にも口にも胸のうちにさえ入り込んでくるのだが。
「そこにいらっしゃいますか」
 マルチェロは囁いた。それはほとんど無意識に近く発せられ、呼びかけよりも内省のための契機に近かった。そうだ、もうながいあいだ、彼の言葉は会話や対話のための手段ではなく内省の手法であった。彼は久しく他人にも運命にもましてや神にも何かを求めるということがなかったのだ。
「いらっしゃいるのでしょう、主よ。あなたは地に遍くみそなわす」
 だがマルチェロは、確かにこのとき広漠たる地表を見渡していたのだし、その手を慈雨を乞うよう天に向かって広げていた。
「私はここに来ております。この身は荒野にさ迷い出で、この心は人の世を遠く離れました。主よ、私はここに来ております」
 言葉はやがて叫びだった。マルチェロはほとんど意識することさえなかったが、それは幼時、主日ごとに合唱歌として口にした詩句に類似していた。その詩句はこう続くのだった。

 私はここに来ております、御前に
 あなただけを頼みとして
 まことにあなたは雲を拓き
 風をもって私を導いてくださる方

 だがマルチェロは歌いはしなかった。言葉はむなしく荒野に消えた。乞うていた手は垂れ下がり、目は閉じた。塵混じりの強い風が頭巾を吹き飛ばしてその顔にまともに吹き付け、涙の落ちる道ばかり、黒ずんで跡になった。
「ここに来ております」
 マルチェロは呟いた。地にマンナは降りはせず、神は黙し応えなかった。マルチェロは苦く思う。あの清い魂が失われた夜にもそうであった。天使の軍団も、いや一人の天使も、あるいは一条の光すら使わされなかった。だがそうだったのだろうか? 本当にあれは破局だったのか?
 神のご意志を誰が知ろう、と、オディロが言ったことがある。人の世の理で判じてはならない。ただ歩み、ただ頭を下げよ、我が子よと。
「だが、だがどのような御心だとおおせられますか。どのような御心ならではあなたを見殺しにされ、私の母をあんなに救いもなく死なせたもうたと。慈悲と正義をむねとされるなら…!」
 たとえばおまえが幼子のうちに天に召されたなら、と、オディロが言ったことがある。そうすればおまえは苦難を知ることもなく安らかであったかもしれぬ。だがおまえはそれを選べたとしても望まなかったよ。なぜならおまえは、それに続く母上の苦しみを孤独でさらに救いのないものにはしたくないと思うじゃろう? そういうことなのだ。そういうことなのだよ、マルチェロ。だがおまえは思い悩んでもよいのじゃ。心に苦しみを抱き、疑い、悲しみ、叫ぶがよい。だがわしは言っておく。すべて起きねばならぬことは起き、しかし、しまいにはすべてが良くなるのじゃ。
「……」
 オディロの明るい信仰はマルチェロを獣のように吼えさせた。風はその叫びをも引っさらって行って、岩場に撒き散らして幾重にもこだまさせた。嵐は走り、砂は突き刺さるようで、マルチェロはそうして、ながいあいだ動かなかった。


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- 2005年10月15日(土)

最近、夜早く、朝早い(…)
困ったものだ、私は宵っ張り人間ではなかったのか!
朝6時に起きてコーヒー飲んでる場合じゃないよ!

朝から雨の日曜日、『gloomy sunday』をかけよう。
だけどこんな憂鬱な日曜日を憂鬱なままに終わらせないように。
冷涼な風の中で、私はもすこし、賢くなりたい。


さあ、出勤だ。


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- 2005年10月14日(金)

なぜ書くのか?

この問いに答えるのは簡単だが、同時にこれほどの困難もない。
だが一つずつ始めよう。しまいまで行き着けるといいが。

簡単な部分から言うと、私が書く理由、書きたいからである。
何を書きたいのか。日常では言い尽くされないものを書きたいのだ。
なるほど日常において私は人と話す。
同僚と上司と仕事先と話す。友人とときに親と兄弟と話す。

だが日常はあまりに忙しすぎ、現在の会話はあまりに先を急ぐ。
私たちはおおむね大急ぎで話し、大急ぎで別れねばならない。
そこにたまってゆくものがある。それは確かに語られねばならないのに、
誰に向かっても語られることがないのである。
私が恋人を持っていたときでもそれは同じだったし、今もそうだ。

そうしたものだ、私が書き、私を書かせるものは。
それは私の感情だろうか? 意志だろうか? それとも眠気か?
それはもちろんどれもそうだ。だがどれだけということもない。
夜の眠気をまぎらわせながら私は書き、それでようやく眠れる。

ここで一つの困難が持ち上がる。もちろん私はこれを予期していた。
書くとは表現である。私は言い尽くすということに情熱を捧げる。
だが、誰にそれを読ませたいのか。あるいは誰が想定されているのか。
自分自身という答えも、他人という答えも、同じほどに無意味だ。

神を仮定するなら、あるいは容易かもしれない。
神の前にわたしを開き、わたしを晒すことがいるのだと、そう言える。
そうだ、文字による表現はすべて神への手紙といえなくもない。
ただそういわないだけだ。私が。

何の気負いもなく私は言う。
私の書くものはわたしの欠片だと。私の魂なるものの。
それはそれが私によって書かれたというだけで十分であって、
下賎なものであるか高貴なものであるかなどというのは無意味だからだ。
ガラスの破片のように私は私の欠片を撒き散らして行くのか。

きざだという人に私は言おう。
私の行動は、摂食、会話、排便、睡眠、すべてが私のものではないか?
ならば私の書いたものもまた、私のもの、私の魂なのではないか?
太陽は高みから見て、また照らし、いささか輝かせるだろう。
夜と泥がやがてそれを呑んでも。それ以上のことは意味していない。


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- 2005年10月13日(木)

『チャーリーとチョコレート工場の秘密』
監督:ティム・バートン
主演:ジョニー・ディップ(ウィリー・ウォンカ)

【あらすじ】
貧乏な少年チャーリーは、ひょんなことからチケットを引き当て、
他の四人の子供とともにウォンカのチョコレート工場に招かれる。
出迎えたウォンカはその変人っぷりを発揮。チャーリーは…?

【私見】
バートンらしいというかなんというか…。
あのおとぎばなし的な物語によくまあこんなに毒を含ませたもんだ。
小生意気な四人の子供たちはそれぞれ気持ち悪く、
ウンパ・ルンパはナンセンスグロテスクとでも言いたい活躍。
しかしよく考えれば、原作もいい加減、シュール。
それが映像で効果が百倍くらいになってますな。

子供向けの作品なので、オチは結局『家族』である。
つまり、人間不信の変人ウィリー・ウォンカが、
貧乏ながら家族を愛するチャーリーを通して家族への愛を回復し、
父親と和解して、ハッピーエンドとなるわけだ。

チャーリーの四人のじーさんばーさんのユーモラスな描写はまあ面白い。
だが白眉は父ウォンカ役のクリストファー・リーである。
子ウォンカがハロウィンでもらってきたお菓子を
歯医者らしい陰険さで分別し、しまいに捨てるシーンでは
魔人ドラキュラの本領発揮とばかりの怪演っぷり。
親子ウォンカの和解シーンが怖かったのは私だけか。

【?的知見】
う、うーん。
チャーリーは攻めだろう。ウォンカは受けだな。
しかしジョニデが演じると、どうしてみんな受けに見えるんだ?
子供向け作品なので、カップリングはなしでゆきたい。


『シン・シティ』
監督:ロバート・ロドリゲス
主演:ブルース・ウィリス()など

【あらすじ】
悪徳のはびこる罪の町(シン・シティ)。
一夜をともにしただけの美女が殺され、復讐の鬼となるマーヴ、
異常者にさらわれた少女を助けるために命を賭ける刑事ハーディング…。
男たちは生き急ぎ、女たちは生き残る。

【私見】
パートカラーとモノトーンを組み合わせ、アメコミのコマ割を
彷彿とさせる作画は、マンガそのものが動き出したようだ。
キャラクターはいずれもブッとんでいて、泣かせ笑わせるが、
いささか時系列と設定において観客を混乱させる要素がある。

各評を読んでみるに、原作を知らないと、あまり面白くないらしい。
表現手法は斬新だとは思う。

【?的知見】
これだけ女がいるなら、女がらみで楽しもうよ(笑)
イライジャ・ウッド演じる殺し屋ケビン×黒幕ロアーク枢機卿、
とかは面白いかもしれないけどなあ…。


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- 2005年10月12日(水)

史実によると、サロメの人となりと生涯はごく静かなものだ。
『サロメの変容』(井村君江著)によると、ヘロデアの娘サロメは
ユダヤ史において、最初の夫に先立たれ後は別の男に嫁ぎ、
三人の息子を得たという簡潔で静かな記述があるばかりという。
また福音書の記述にあっても、話はそれほど大きく変わらない。
サロメはそこでは母のいうままに行動するただの小娘にすぎない。
現在一般に彼女のものとされている強烈な意思や妖しい官能性は、
十九世紀、オスカー・ワイルドによる戯曲の印象に帰されるだろう。
彼は男を誘惑し破滅させる魔性の女(=ファム・ファタール)として
サロメを描き出し、以後はそのように認識され表現されてきた。

それで、私は私のサロメによって何を書きたかったのだろうか。
私のサロメ、十二になったばかりの鼻ったらしの知恵遅れ、怯えた子供。
ヨハネの激越さの中の慈しみを知り、ヨハネを愛し、また愛される。
ヨハネを救うために立ち上がって踊りだした彼女の中で何が起きたのか。
そしてそのあと、何が起きるはずだったのかはわからない。

いずれにせよ、私のサロメは魔性の女の部類には入るまい。
史実の通りでもなければ、福音書の通りでもない。
彼女は私の分身だったはずである。
彼女は何を背負い、何を表現しなければならなかったのか?
中学生の頃の私に聞いてみたいもんである。



それで、昨日、「黒い絵」について愚痴を書いたら、
何人かの方からリアクションを頂きました、うれしい…。


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- 2005年10月11日(火)

「黒い絵」、あまりに反応がなさすぎてちょっと心配。
他のよりキッツイとは思わないのだが、やっぱりアレか…。
血まみれとかナニまみれとか、やっぱりアレか…。

いや待て。

これまでの総計から考えると、おおむねみなさま、
ラブラブとかホンワカとか、その系統には反応を下さる。
シリアスやエログロは好き嫌いはともかく反応がない。
これはどうだろう。どういうことだろう。

振り返って、自分がなんらかのリアクションを「せねば」と思うのは
あるいは「したい」「一言言わねば」と思うのはどういうときか。

うーん…?

やっぱり、心開かされるようなものだったろうか?
ほんわかとからぶらぶとか、そんなん?
そうだなあ。うん、そうだなあ。
じゃあ、必ずしも、引かれているわけではなくて、
ただ単にリアクションを返す気を起させないだけか。


と、思っておく。


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- 2005年10月10日(月)

「ヘロデの誕生日の祝に、ヘロデヤの娘がその席上で舞をまい、
 ヘロデを喜ばせたので、彼女の願うものは、なんでも与えようと
 彼は誓って約束までした。 すると彼女は母にそそのかされて、
『バプテスマのヨハネの首を盆に載せて、
 ここに持ってきていただきとうございます』と言った。
 王は困ったが、いったん誓ったのと、また列座の人たちの手前、
 それを与えるよう命じ、人をつかわして獄中でヨハネの首を切らせた。
 その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡され、
 少女はその皿を母のところに持っていった。」
                 『マタイ伝』より



サロメについての物語を書いたことがある。
まだ中学生のころのことだ。

私のサロメは十二、知恵遅れだった。
彼女は町中に逃げ出して道を失い、途方に暮れて、
街路で説教をしているヨハネの足元にうずくまった。
彼女はヨハネを愛し、ヨハネから慈しみを向けられるが、
数日のうちに兵士に見つかって連れ戻され、ヨハネは囚われる。

ヘロデの誕生祝の日、ぐずるサロメは母親に部屋から連れ出され、
宴席の隅に座っている。母親は玉座に王と並んで座り、光り輝くばかり。
ヘロデは妻の連れ子のご機嫌を取ろうと考え、言う。
「もしおまえが踊ってくれたら、おまえの願いをかなえてやろう」
サロメは喜ぶ。彼女は考えたからだ、これでヨハネを救える。

そこで彼女は進み出る。
彼女はふいに知恵遅れではない、十全な人間となったようだ。
明るい松明の炎に照らされて光り輝くようでさえある。
代わって光を失うのはヘロデアだ。彼女は恐れおののく。
娘の美しさに初めて気づいたからだ、咲き初めた花のような美しさに。

サロメは舞う。『平和』というその名、忘れられて久しい概念そのままに。
美しく憧れに満ち、純一な愛情に突き動かされて。
その美しさは花のごとく光のごとく稲妻のごとく、人にさえもはや見えぬ。
彼女が演じ終わったそのとき、ヘロデが立った。
「おまえの願いを叶えよう」そしてサロメは願う。



ここから先を書いたかどうか、私は覚えていない。
伏線の張りっぷりからいうと、多分、ヘロデアが介在して、
ヨハネの首のみが運ばれてくるのではないかと思う。
だがそうではないかもしれない。サロメはヨハネと手に手をとって、
暗い夜の宴の向こうに去っていくはずだったかもしれない。

いずれにしても物語はしまいまで書かれなかったし、
書いたはずの断片も、もうどこかへいってしまって、
取り戻すすべもないのである。


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- 2005年10月09日(日)

ずいぶんと昔のことを思い出した。
私はともかく自分のことを見えないものだと思いなしがちなのだが
しかし良かれ悪しかれ私は見える。想定しようとしまいと。

それで、どういうことかというと、
『A.さんとこの役者さんたちがうちの舞台裏に来た』という設定で、
A.さんが実に楽しい小文を書いてくださった。
私ももちろん一つ噛んでいるのだが、他人の見た私というのは面白い。
鏡を突きつけられはっとしたような、ニヤッと笑って話をそらしたりとか、
そんな気分になる。奇妙なことだ。奇妙なことではないか?

別の方に送っていただいたイアン・マッケランのインタビュー番組で、
彼が言っていた言葉は印象に残っている。大意はこういうことだ。
「自分をさらけだすこと、自らを見つめることが必要であり大切だ」
私はおよそ自分を見つめるということがない。
少なくともてらいはそこにあり、除くことは容易でない。
それはいかにも青年らしいことだが、
私はそろそろそうした若さを忘れていい年頃ではあるまいか。

わたしが本当に何を願っているのか。
わたしは誰なのか。どういう人間なのか。
マッケランにとっては同性愛者だとカミングアウトすることが
一つの契機となった。一つの大きな転機となった。

それでは私は。

ひとつ、ここらで考えてみなくてはならないかもしれない。
いや、考えてきたのだ。物語は私にとって手段だ。
手段であり目的だ。しかも隠れ蓑でもある。


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- 2005年10月08日(土)

「『主よ、深い淵よりあなたに呼びかける』という歌が
 われわれの時代にはなぜ歌われなかったのかという問いを
 私はこれまでにしばしば発したし、いまもそれを問うている。
 われわれが叫びをあげる相手がもう存在していないのか。
 われわれの口は永久に閉ざされたのか。
 私もついに歌いはしなかった」
   『ドロテーア』(ハンス・エーリッヒ・ノサック作)


17世紀前半、ドイツは国土の広い部分を荒廃させた三十年戦争を経験した。
その期間に生まれたのがコラール、つまり合唱である。

プロテスタント特有のものであるコラールは、礼拝に信徒が
積極的に関わるために生み出されたとされている。
『主はわがやぐら』、『深き悩みの淵より』など幾つかの歌詞は、
マルティン・ルター当人によって書かれたことで知られる。
後代のバロックにおいては主要な音楽様式ともなった。

一人ひとりが神に呼びかけし、また会衆として共同体として神に向かう。
神に呼びかけるのはもはや僧侶ひとりではない。
コラールの特色はそうしたところにある。
神の救いを求める痛切さは獰猛な戦争の顎に晒され続けた人々の、
心の奥底から湧き出るものであっただろう。

ここで留意しておきたいのは次のことである。
引用した文章は第二次世界大戦直後に書かれたもので、
ハンス・エーリッヒ・ノサックはドイツ人の作家である。
彼は加害者としてのドイツについてはほとんど書かない。
彼が書くのは破壊された町、傷ついた人々、生き延びた者の苦しみ、
そうした敗者のもの、市民の視界と思いの中にありそうなものである。
コラールを歌わない理由は、加害者としての罪の意識には還元されまい。

あるいはそれは通奏低音としてあるのかもしれない。
彼もまたその一部であるドイツという国が犯した犯罪は、
彼の上に深く暗く落ちて、その思いを閉ざしたかもしれない。
神に対して顔を背けさせたのかもしれない。
だがそれだけではあるまい。少なくとも私はそう思うし、感じる。
もっと根本的な絶望があるのだ。不安が。

彼はこの短い文章の中で、二つの可能性を挙げる。
「叫びを上げる相手が存在しない」「われわれの口が閉ざされた」
いずれの場合でもコラールは無意味になろう。
だが彼の言い方はひどくあやふやである。
ただ可能性として、ひどく頼りなく、また前後との連関なく言われている。
彼自身さえわかっていないと結論してもよかろう。

なぜノサックは、この文章を書いたのだろう?
この文章は、おそらく、これ自体一つの表現なのだ。
私はそれを、うまく書けない。


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- 2005年10月07日(金)

チョコボだ!<いやハシビロコウ
頭の上のアホ毛まで、チョコボにそっくりだなー。
しかし目が凶悪だ。



私が彼らのことを考えていないとき、彼らは存在するのだろうか?
これは、アレだ。量子論。
観察者と被観察者の問題はいつも、困難なのだ。


友人Kと、とても久しぶりに話をした。
一年半にもなるだろうか?
相変わらずの生活を送っているようだ。心配だなあ。




それにしても私は、もうそろそろ、行きたい。


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- 2005年10月06日(木)

 チェリスト・鈴木秀美のコンサートに行ってきた。もちろん仕事だったのだが、ともあれ素晴らしい演奏を生で聞けたことには変わりない。
 演目はJSバッハ「無伴奏チェロ組曲」1、2、6番。最初の2曲についてはガット弦を張ったアマティのチェロで、最後の1曲についてはチェロ・ピッコロ、5弦の楽器で。どちらもたいそう古い楽器だ。
 演奏はこんなふうに始まった。観客席より一段だけ高くなっている舞台には椅子が一つと燭台が一つきり置かれていた。会場は大谷石で、長いあいだ蔵として使われていた、天井の高い空間だ。さて、時刻は七時を過ぎた。中2階の楽屋から下りてきた演奏者は飴色の大きな不思議な形の楽器を持って舞台に上がり、おもむろに弓を構える。その瞬間に、楽器は歌い始めた。
 そうだ、楽器は歌い始めた。だがなんという歌だったことか。回想は不可能だ。私にできるのはただ拙くたどるだけだ。ああ、こんなふうに。
 楽器は歌った。たとえば細く華麗な囁き、たとえば一気に三本もの弦から重厚な和音を放ち、たとえば台形の弓は鋭く動いて鮮やかな旋律を描き出した。前奏曲、アルマンド、クーラント、サラバンド、転じてメヌエット、しまいに軽やかなジーグ。そこでようやく奏者は弓を置いた。
 幕間はごく穏やかに始まった。奏者は楽しく話し、聴衆もまた楽しく聞いた。いわく、バロックの音楽は囁くように語り、強調にあたっては声を大にすることよりも言葉を選ぶことを好む。いわく、古楽器とは茫漠としすぎているからむしろオリジナル楽器、作曲者が想定した楽器と呼んで欲しい。
 だが私は聞きながら、なんと少ないことしか語られないのかと違和感をさえ感じていた。そうだ、彼は確かに奏者だった。彼はむしろチェロによって声を得て歌うのだ。彼の喉などというものは、添え物にすぎない。
 そして二幕。少し冷えすぎるくらいに温度を抑えた空間は音をよく透し、チェロはなおいっそう豊かに歌った。私はあの最後の一音に憧れる。だが、正しく回想しようとすればそれはかなわぬことなのだ。問いかけるように始まる前奏曲、私の横の老婦人がカザルスを思い出すと囁いた。私たちは音楽の中に座し、木漏れ陽の木を仰ぐようにまたその涼しい木陰を感じるように音楽を感じていた。音は、歌は、豊かに軽やかに、ときに深甚な悲しみを帯びて語りかけ、走りぬけ、だが私はそれを言葉に直す術を持たない。
 そして、そのあとのことは私の拙い言葉では繰り返しになるだけだ。私はただ悲しいほどに満たされた気分でホールを出て、あの時間、あの歌とはなんだったのだろうかと繰り返し繰り返し問うことしかできなかった。


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- 2005年10月05日(水)

 文化が富の集積であるということを、これほど切に感じたことはない。

 栃木市に行ってきた。
 簡単に説明すると、栃木市というのは、江戸から昭和初期にかけて栄えた商都であった。というのは、この町には巴波川(うずまがわ)という川が流れていて、巴波川は渡良瀬川に、渡良瀬川は利根川に流れ込んで、つまりは江戸につながっていた。で、当時の運送ルートはもっぱら水路だったから、栃木は江戸と北関東の重要な物流中継地点だったのである。
 こうした条件から、栃木では卸問屋が軒を連ねた。豪商が生まれ、独特の文化が生まれた。現在もその名残を見ることができるが、それはまったく、豪華絢爛たるもので、金持ちだの成金だのの道楽などといういうレベルではない。生活の隅々まで美意識と一定の文化様式で貫かれ、そこでは豪商というものが、そのまま、一つの文化のありようだったのである。

 それで、文化が富の蓄積であるということについてである。
 商家とは、きわめて活動的なものである。その活発さは、貴族と異なり、本質的なのだ。彼らは活動し、額に汗し、稼ぐ。しかもその稼ぐという事はきわめて広い範囲に及び、発想の自由さと柔軟さを要求すると同時に、信用性の確保といったものに代表される保守性を重要とする一面をも持つ。
 彼らの文化もまたそうして相矛盾する躍動すのものだ。そして、豪商ともなればその生活は富に裏打ちされた一つの文化そのものとなる。
 それはまったく、富と、富の追求というこの二つを欠いては理解しえないものだ。主人と家族、奥女中、表女中、番頭、郎党、小僧に至るまで、その人間関係はピラミッド型に整然としており、しかも流動性を有する。彼らの舞台は家と商店だ。その隅々までが、舞台なのだ。春夏秋冬の始末、正月、節句、慶弔、朝夕の所作に至るまで。歌を覚え、踊りを覚え、作法を覚え、茶を花を習う。それが文化でなくて何か。

 それこそが文化なのだ。生活そのものが。ひるがえって、私の祖先は両側とも水呑み百姓であった。彼らに美しい打掛や緞子の着物やサンゴの笄は、そんなものは無縁であった。春夏秋冬も節句も簡素であっただろう。
 彼らは富など持たず、富の追求などしたこともなく、かっつかっつ暮らしていた。家に伝わる文書がないのは彼らが字を読めなかったからだ。朝昼夕方を働きづめに働くことのどこに文化を入れる余地があるか。いや、それはそれで文化ではあった。人間が生きるところに文化がないはずはない。私は古い鍬や鎌を知っている。それは激しい労働に使い減らされ、しかも美しかった。鍬や鎌を用いることもまた文化なのだ。土を練って道祖神をこしらえ、年にいちど、きれいな色の千代紙で服を作ってやることと同じだ。私の祖先はみんな、そうして生きて死んだ。
 それに、隣組もあった。生活は造形的なピラミッドなどというようなものではなく、また関係性においても組み合わせは限られていたが、それもまた文化であった。造形的で人工的な人間の関係性が生み出すまばゆい文化は無縁のものだったとはいえ。

 さて、別に差別だの階級闘争だのを言い出すつもりはない。文化というものが不平等と富の集積の上にしかないものであるということを認めたうえでもういちど現在を見渡したら、何が見えるだろう?
 音大に入るにはやはり金がかかるという。芸術は金がかかる。それは確かに昔の通りだ。しかし庶民でさえ子供を音大に入れることはできる。反面、政治家でさえコンビニでパンを買う。金や権力の集積が文化様式の創出にはつながらない。つながっていない。これはいったいどういうことか。
 富を持つものが責任を果たしていないのではないかと私は疑う。持たざるものが自らの分を越えようとするのはままあることだし悪くはない。しかし富の集積がもはや何も生み出さないなら、文化を、華麗で憧れに値する生活を生み出さないなら、その金持ちは責めを負うべきではないのか。

 今の日本には真の文化がない。などとはいわない。なにか文化らしいものはあるし、それも誰もが、金持ちもそうでないものも手に届く文化らしいものがある。それはいい。だが金持ちは何をしているのだ?
 彼らはその金を使う義務があるのではないか? 富の集積だけが生み出しうるもの、文化を生み出し育てるべきではないのか? だがそうはなっていない。これは、古臭くカビの生えたマルクスよりもよほどの問題だ。


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- 2005年10月04日(火)

 苦しみ悶えるようなアンダンテ、歩み惑う二重の弦の響きが重なり合う。同じ空間に広がる波長でありながら、融けあうこともなく打ち消しあうこともない二つの楽器の音が。どちらが主でもなくどちらが従でもなく、ただ絡み合い想念のうちに伸び行くのは重苦しく輝く音の木蔦だ。
 騎士団長は真っ直ぐに立っている。遠い大陸から来た二人の老音楽家の奉献の演奏はおよそ比類なく美しいものだったが、マルチェロはどのような表情も浮かべはしなかった。古くからの友と名乗った白髪の音楽家たちがどのような関係にあったにしろ、その間には張り巡らされた相克の糸とでもいうべきものがおそらく抜きがたく存在して、彼らは死を迎える前にそれを神に捧げなければならなかったのであろうと、そう知りはしたが。
 だが苦悩も救済を求める心の真実も、このマイエラではありふれていた。そうしたものは各々の心にあってはまこと代え難く貴重なものであろうが、ことマイエラでどこにでも転がっている。少しも珍しくはないものだ。
 彼らはマイエラには来るべきでなかった、と、マルチェロは考える。世界のどこにあってもこうした苦悩は丁重に扱われたであろう。そんなに繊細に、そんなに愛着と心からなる悔恨をこめて歌われる二重唱の苦悩は、だが、ここではただの歌だ。ただの歌にすぎない。ありふれた涙と大差ない。
 マルチェロはなにげなく堂宇を見渡した。騎士たちのうちには居眠りをしているものもあれば、聞き飽きた古臭い歌を聴かされているとでも言いたげにぼんやりと虚ろな目をしているものもある。そのなかに一つ涙に濡れた顔を見出して、マルチェロはわずかに眉を寄せた。
 泣いているのはククールだ。つい先ごろ騎士になったばかりのまだ少年の面影を残す顔は、普段の気取った様子をかなぐり捨てて、涙を流している。ことさら悪ぶるのは己へのあてつけと知ってはいたが、この時はその余裕もなく感情にさらわれ、頬を濡らし、嗚咽を殺すのが精いっぱいとみえた。
 マルチェロは無表情を貼り付けなおして前に向き直った。そうしながらも、奇妙な動揺、奇妙な怒り、奇妙なそねみが胸のうちにあることを自覚する。どれほど苦しめ、どれほど悪意を植え付け、絶望を叩き込もうとも、あの弟、ククールは少しも変わりはしない。人の弱さを憐れみ、真実の悔悟に狎れることもない。同情は持って生まれた資質で、だからこそオディロに愛される。マルチェロを見るときは深い情愛をたたえつつもあわれみと懸念に曇るあの眼差しが、弟に向かっては明るく信頼を持って注がれる。
 このような怒りは間違っているのだ、とマルチェロは考える。無私の人は、確かにその愛情を正しく分配している。地位の上ではどのように私が抜きん出ようと、ククールは確かにそれ以上のものなのだ。理由は血筋などという下卑たものではない。ただその魂のありようにおいて。
「だが、それを私は否認しよう」
 マルチェロは低く、誰の耳にも届かぬよう低く呟いた。
「あらゆる理に逆らって否認しよう。私が正しいと訴えよう。神の前でさえ」
 しかも、と、マルチェロは胸のうちで付け足す。私は私の言葉に関わらず、わたしが間違っていることを知っているのだ。常に。いつも。不断に。しかも否認し続けるのだ。楽の音が絶えた。マルチェロは立ち上がった。




音楽と絶望。ボツ(フッフフ)
音楽にからめるようとしてじたばたしていたが、
とんでもムリとわかったのでもうやめる。
というわけで、いろいろ書こう。書かなきゃだめになる。


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- 2005年10月03日(月)

個人的に掲げる読んでみたいお題。
自分は制覇するつもりがないし、誰かに制覇してもらえるとも思わない。
じゃあそれはお題なのか。いいんだ、お題って言い張るんだ!
制覇してくれた人がいたら見てみたいというだけだ。

1:伯ローラン、赤く熟したリンゴを捧げて言うことには
「さ、これを受けられませい。天が下のすべての王冠を差し上げまする」
(ローランの歌、387)


2:踊る刃は夜半に白い。暗がりの剣士は目ばかりぎらつかせている。


3:人間はみんな、弦の音色で泣かねばならないのではないか。


4:妙な風景を見た。砂浜の波打ち際から浅瀬の方へ四角い小屋が並んでいる。


5:湯の沸くのを聞きながら、いつの間にか泣いていた。


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あのくじ、ぜったい、なんか仕掛けあったよ。<ドラフト会議


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- 2005年10月02日(日)

「ワタリガラスの謎」(バーンド・ハインリッチ著、どうぶつ社)
まだ半分しか読んでないけど、面白い!
何が“わからな”くて、それをどうやれば明らかにできるのかという、
非常にわかりやすくて推理と観察とその落とし穴までもが
わくわくするような実録筆致で書かれている。

学校の理科・社会では、事実やもっともらしい仮説は習っても、
それがどのようにして掘り出されてきたのかという、
思考と論理と実践の知的冒険の興奮までは教わらない。
しかし、それこそが本当に学ぶべきことだと思うのだ。

というわけで、この本は、面白い。
中学校の指定図書とかにすればいいのになあ。
それにしても、学校は、習うべきことは何一つ教えてくれない場所だった。

たとえば平均率が、一定範囲の音程を均等に分割した音の認識法だとか、
それ以外にもたくさんの認識法があるのだということ。
そんなのは教えてくれずにただ「ドレミ」ばっかり。
それでは知的な好奇心も感じられない。
私のような人間は、知的愛着をもてないものを続けられないのに。


ああ、こんなふうに、きっと、たくさんのものを取り落としてきた!
なんてもったいないんだ!


唯一の救いは、遅すぎるということがないということだけだ。
世界は年ごとに美しく、興味深く、イマジネーションに富んでゆく。
年を拾えるのは幸福なことだ。
この幸福に耐えられる強さが必要とされる。



それで、「マタイ受難曲」ですよ。(まだ続いているようだ)
ペテロに明らかに見られる「天国への音階」に対し、
ユダにおいてはより人間的で陰影に富む表現がなされている。
これはどういうことか。図書館に行く暇を誰かくれ!!!!


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- 2005年10月01日(土)

本日の教訓:
 妄想を途中でやめてはいけない。でないと仕事中に変なモン出るから。


あとは後で。








日本地図を三分の一ほど横切ったところ、その半島を指で押さえる。
距離は常に無限に遠い、この有限の中には無限が畳み込まれているからだ。
過去は常に時制を超えた永遠の昔のことだ、現在でないならすべては同じ。
ジンニーア、わたしはあなたを見出さない。
世界がおわるまでは。私が死ぬまでは。あなたが私を忘れるまでは。
ああ、これは妙な話だ。そうではないか?


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