『宿命の交わる城』 3:真っ直ぐな道で―2 - 2005年09月30日(金) もしマルチェロが、機会をみて反撃を狙っていたとしても、それは無駄な期待に終わった。槍衾の中で武器を防具を一つずつ奪い、一人ひとりを縄目にかけらる円柱城兵の手順はきわめて慎重で、執念深いとさえいえた。 生き残った六人のうちの最後の一人として、マルチェロは小手を外し、脛当てを外して兵士に投げた。いちいちガランという音をたててまだ濡れている道に転がる防具は空しくマルチェロの自尊心を傷つけた。 「―これまでも、投げろと?」 騎士団長の剣、サヴェッラにて法皇から改めて与えられ、オディロ院長によって腰に下げられた剣を手に持って、マルチェロは苦く尋ねた。一列に構えられた槍の向こうでダニエルが微笑した。遠くからでもそれと知られた狂気は、いまや火を見るごとく明らかだ。 「誇りある騎士団長の剣までも投げろというのか? 答えろ、ダニエル!」 いらだちと不安がマルチェロにそう叫ばせた。だが答えはどこからもない。マルチェロは黙って剣を投げた。剣もまたガランと虚ろな音をたてて落ち、背の低い兵士が猿を思わせる敏捷さでそれを拾った。 丸腰となったマルチェロの方にやはり小柄な兵士が二人、近づいてきた。肉に食い込むほどきつく両手を背後に縛られ、手荒く引き立てられる。槍衾が開いて道を作り、マルチェロは怒りに無言を保って歩いた。その頬に。 「阿呆め」 吐きかけられた唾がねっとりと顔を伝い落ちる感触がある。顔を向ければダニエルがすぐわきに立っていた。背丈なら同じほど。赤毛の下の目の黒は。 「阿呆め。この阿呆め、水で死ねばまだ苦しまずにすんだのに」 狂気の持つ落ち着き払った冷静さというものが、おぞましく燃えている。 「―なぜこんなことをした。おまえは自分の意思で騎士団を去ったのではないか。おまえ自身の爵位を継ぐために。我らにうらみなどないはずだ」 「苦しめて殺してやる。ひとりずつ苦しめて殺してやる。寸刻みにして」 「教会と王家に知れればただではずまぬのはわかっているはずだ!」 「殺してやる、火で、刃で、土で、鉄で。苦しめて殺してやる」 「ダニエル!」 ほとんど引き倒されるようにして、拷問の杭を思わせる円柱城の暗がりに連れ去られながら、マルチェロは叫んだ。答えは牙を剥き出した狂気の哄笑であって、その彼方にかすかに羽音が聞こえた。 - - 2005年09月29日(木) 1:「ウーシア」 この大陸についての詳細が気になってたまらない。 他人の想像世界というのは勝手に敷衍できないぶんだけ、 愛着を抱いてしまうと夜も眠れんはめになる…。 語り聞かせてもらう喜びは子供の頃に覚えた混じりけない幸福だ。 困ったことに私は情が深い人間なので、 智恵子が光太郎の彫り物をふところに入れて 町行くときでさえ愛撫していたという「智恵子抄」のくだりを 平気で感情移入して読める。一つ間違えばストーカーだ。 しかしこの場合、つきまとうべき実体がそこにはないときている。 つきまとうものがないつきまとい、だなんて。 チェシャ猫じゃあるまいし。 この名前の響きが好きだ。ウーシア、なんて美しい名前じゃないか。 2:「鎮守の森」 宇都宮から国道123号を通って東へだいぶといったところに、 小さな祠を抱いた、小さな木立がある。 関東平野のはずれのたいらな地平に、刈り入れの終わった野に。 よく知られている事実だが、 宮崎駿は栃木県で幼年時代の一時期を過ごした。 トトロの森のイメージは栃木だといわれている。 見たことがないのに懐かしい風景が、 宝石のように散らばっている。 今度の休みは、お弁当を持って出かけよう。たった一人で。 カメラを連れて。広角のレンズと。 そういや先輩から指摘されて気づいたが、 私はしょっちゅうカメラにキスしているそうだ。 本人は無意識なんだが…うーん。 最近の教訓、イチジクは煮ても焼いても食えない。生で食うものだ。 3:「マタイ受難曲」 まだ聞いています。 今月はマタイ月間だった…。でもまだ終わらない。 レオンハルトのディスク3が聞けない。もったいなくて聞けない…。 まだまだ考えなければならないことがある。 にしても、私は、大文字しか読めない子供のようだ。 読み取れるものはなんとわずかだ! - - 2005年09月28日(水) 1: ソプラノのアリア49「愛よりして我が救い主は死にたまわんとす」から 福音史家の短い緊迫したレチタティーヴォを経て、 群衆の次第に先鋭化する二重唱「十字架につくべし」の叫び、 恐るべき合唱「その血(の責)は我らと我らの子孫に帰すべし」へ。 この転換が、恐ろしい。 アリアを歌うソプラノもイエスを歌うバスも、合唱には参加する。 これは一つの恐ろしい戯画ではないのか。 罪を恐れ救い主を希う歌をうたう人間が同じ口で救い主を求める。 これはいったい、恐るべき現実の写し絵、ありのままの相克ではないのか。 この恐るべき真実に思い至らぬ人間はいるまい。 2: ユダを放逐してはならないのではないか。 その罪が重ければ重いほど我らの間から放逐してはならないのではないか。 その罪をこそ我らのものとしなければならないのではないか。 「われらになんの関わりあらんや」 そう問い返し、ユダを放逐した瞬間に、まさにその瞬間に、 再び裏切りは行われ、再び三十枚の銀貨は散らばり、 再び偽りの裁きの幕が開き、再び「バラバ」の叫びは響き、 再びすべての悪は立ち返ってキリストを殺すのではないのか。 キリストはそのように殺され続けてきたのではないのか。 3: 「我に返せ、我がイエスをば」 救済は。許しは。 このように求められ、このように切実に求められ、 このように請われるものではないのか。 「我がイエス」、「私の救い主」だけが常に存在しうるすべてであり、 万人のものなる救いとは存在しないのではないか。 神が救い主がたとえば万人のために存在したとしても、 罪と許しとは常に究極的に個人的なものではないのか。 救いを求める切実な思いを私は知るし、それがあると信じもするが しかしそれが与えられうるものなのかどうか、私は知らない。 困った話だ。それに、ほら。 『魂の話をするときに三人称で話すとは奇妙なことだ』 4: なんだってユダはゲッセマネでキリストにキスをかましたのか。 あのキスはなんだったのか。 リリスのキスのごとく有毒で、リュドミラの抱擁のごとく致命的な、 あのキスはなんだったのか。 キリストはなぜユダのキスを受けたのか。 そして言ったのか「友よ、なぜ来たのか」と。 キリストにとってあのキスはただ運命ではなかった。 ではなんだったのだ、ユダのキス、それはなんだったのか。 ユダはなぜキスという形をとってカヤパたちにキリストを示したのか。 あるいは愛によってしか、愛の様式によってしか、 キリストは捉え得ず、識ることのできないものだったのか? 愛に満てる救い主、キリストとは。 あるいはあのキスによってキリストはキリストとなったのか。 確かに、そのキスがイエスを救い主としたのではある。 それは逆転の発想ではある。だが同時に真実らしくもある。 愛なる救い主なれば。 せんせーつかれたー。おれきょうやすみー(たい)。 - - 2005年09月27日(火) 「汝の行くべき道と 汝の心のわずらいとを委ねまつれ、 天を統べ治めたもう者の つゆ変わりなき守りの御手に。 雲に、大気に、はた風に、 道を備えてめぐり行かしめたもう者 かならずや道を聞きて、 汝の足をも導きたまわん」 (Pゲールハルト作詞によるコラール) 少し言葉をいじったら応用できそうだ。 空の道、なんて。いいじゃないか。 しかし、書き方だなー。 ところで、先日、縮毛矯正というのをやって、 ともすればスーパーヤサイ人だった剛毛を重力に従わせたのだが、 朝起きて自分の頭にもしゃっと触るたんび、「誰の頭だ」とか思います。 いやマジで。そして鏡に映った顔(というか頭)にどきっとしてる。 持って生まれたものを変えるというのは…問題が多いことだなー。 ラマチャンドランが幻肢痛の事例で、 「兄の足が私のベッドにある」と訴える女性の話を紹介していた。 なんのことはない、本人の足なのであるが、 感覚が伴わないので、「他人(=兄)の足」と思い込むのだそうだ。 これには誤認とか無意識の否認とかいろいろ伴うのでアレだが、 うん、この頭はそれに近いものがある…。 - 『宿命の交わる城』 3:真っ直ぐな道で - 2005年09月26日(月) ひたひたと、冷たい水はゆっくりと満ちて渦を巻く。矢を受けて死んだ馬と騎士たちの体が浮かび、傷口から赤い血を煙のように吐きながら、遠くへ漂い去っていった。 「団長、あと半時間もすれば、私らはみんなお陀仏です」 シュテルンが耳元で囁くのを聞いたが、マルチェロは黙っていた。そんあことはわかりきっていたのだ。そうだ、それは明らかなことであった。城門と城郭とをつなぐ真っ直ぐな道に注がれる水はすでに生き残りの騎士たちの胸まで浸し、体温を奪いながら、なおも得体の知れない不定形な生き物のように殖え続けている。何度見回そうとも、両側に切り立った壁、背後の堅牢な門には逃れる手がかりもなく。 「団長」 「団長、このままでは」 「静まれ」 騎士たちは黙り、水音だけが残った。水の道に円柱形の城が映っている。うつむけばゆがみ崩れた己の顔が。マルチェロは顔を上げずに言った。 「ジェズイー」 年配の騎士ははっとしたようにマルチェロを見た。 「……頼む」 マルチェロは水面を見ていた。ゆがみ揺れ砕ける青ざめた己の顔を。その耳にジェズイーの声が響いた。 「聖堂騎士団長の名において、マイエラ修道院の衛士の名において求める。円柱城の御主の前に膝をついて求める!」 それほどの間もなかった。増し続ける水の上に小さく映った赤毛の男は、確かにそれを待ちかねていたのだ。マルチェロは唇を噛んだ。 「我らは武器を捨てる。捕虜として受け入れよ」 ジェズイーが叫んだ。頭上に響く笑いを、マルチェロは底ぐらい思いを腹に抱えて聞いた。 - - 2005年09月25日(日) 忘れないうちに映画感想。 「容疑者室井信次」 自分だけだったら絶対に見に行かない映画だ…。 感想を言うと、娯楽邦画だった前作「交渉人」とは少しカラーが違って、 ちょっと純愛浪花節(?)が入っている。 テンポのよさと構成力では前作のほうが上だが、 奥行きを指向して努力した痕跡があるのでまあ、そういうことかと。 キ印弁護士がものすごくリアルで笑えた。連中、あんな感じだよ。 まあ、多少なりとも誇張されているし、 わかっててやってるだけ本物よりマシだけど。 警察のいー加減さについても、まあ、正鵠、だな。 「銀河ヒッチハイクガイド」 ベリベリOK! キレたギャグとキュートさとナンセンスがいい味を出している。 原作は知らないのだが、映像的な楽しみをよく引き出していた分だけ、 映画に分があるのではないかと思う。 ちょっと生命の尊厳とかいろいろ無視しているとは思うが。 映画じゃないけど「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」 なんとも言うまい。 人が多すぎ、暗すぎ、手稿の文字が細かすぎ(おまけに鏡文字)て、 ダメだこりゃ的に何も見えなかったと思う。 行く人は、スティーブン・J・グールド「ダ・ヴィンチの二枚貝」を 読んでいくとちょっと面白いかもしれない。 個人的にはつまんなかった。 ------------------------------- レオンハルト指揮「マタイ受難曲」 ようやく勇気を出してディスク2を聞いてみました。 だめだ!ダダ泣きだ!苦しいほどだ。 アリア「彼はわれらすべての者のために善きことをなせり」で泣いた。 力強さを欠いていると思っていたボーイソプラノが、 つや消しガラスのようなほの明るい魅力と、 尖ったガラスの破片のような切実さで迫ってくる。 キリストとはまさにこのような存在ではなかったか。 このような悲しみを抱いて信徒は祈りを捧げなかったか、この二千年に。 ああ、無限に積もった真実の祈りはこのような形をしてはいなかったか。 大祭司の法廷にて、またピラトの裁きの庭にて、 群集の叫びがなんと凶悪で、人間本来の罪に満ちていることか。 「バラバ」と叫ぶその叫びの鋭さ、多くの棘を持つ兵器のようだ。 たった三音であらわされる通奏低音は恐ろしい。 地獄から突き出したロンギヌスの槍のようではないか。 バスが泣いている。バスが、そして絡み合う弦楽器。 雄弁であるというよりも、ひたすらの嘆きのようだ。 アリア「われに返せ、わがイエスをば」、ユダの悲嘆はこのようでは、 このようではなかったか。取り返しのつかぬ罪、 己ひとりのものである罪。どのように嘆けばいい。 救い主を滅びに導いたのはこのわたし、この私だ。 明るさは悔い改めによってのぞいた空の片鱗だ、 縁取るのは悔恨と取り返しのつかぬ罪への恐れ。 ジンニーア、一人で暮らすことの良い点は、 誰にもどんな言い訳もする必要がないことだ。 わたしは私が望むというそれだけでどこまでも行ける。 どこにも行かないこともできる。夕暮れまで眠っていることも。 ここに同伴者を加えるべきなのだろうか。 たとえそれが―だとしても。 - - 2005年09月24日(土) 秋の夜の雨というのは異様に物寂しくなるという弊害がある。 個人的に、私は自分を「お笑い系」だと信じているのだが、 もしかしてそうは見えないですか。そうですか。困ったな。 祈り、そうだ、祈り。 神の目のうちに自らを発見すること。 なんと恐るべき行為であることか、わけても絶望がその度を加えるとき。 マルチェロの運命として私が見出したのは、祈りを失わない絶望である。 神を信じ、神の概念を抱きながら、彼は絶望する。 絶望して救われようとはもはやしなくなる。 この恐るべき放蕩息子の帰還こそが課題となる。 父のもとに帰るくらいなら自ら野垂れ死ぬとでもいいそうだ。 彼は自らが地にまみれていることを知っているが、 同時に高みを憎みさえする。 立ち帰るためには奇跡さえ必要とされるだろう。 必要なのはこの奇跡だ。むーん。 - - 2005年09月23日(金) 面白かった東京帰り。ってか明日も東京かよ! それで、収穫祭だけあってホクホクものでした。 こんなに本買ったことないなあ。 ガシャポンSSも無事にオールクリアしました。 でもガシャポン本体壊れちゃった…。まあいいか回るし。 というかアレだ。ボール開けるの、けっこう大変だね! 機会を見てサイトに転載します。 美人ばっかりで楽しかったが、問題点がありすぎ二次会…。 1:思いつきでやらない。 2:自分がファンだからといって逆カプ推奨の方々をいっぺんに誘わない。 3:関西人気質を丸出しにして一人漫才を始めない。 4:とりあえず店を押さえてから人を誘え。 お詫びは別途、だな…(しょぼしょぼ) ------------------------------------------- 「祈りとは願うことではないのだよ」 それは修道院に入って最初にオディロが教えたことだった。そしてマルチェロは今に至るまで、それよりも心に留めるべき言葉を聴いたことがない。あれからもう、長い日々が過ぎたのだが。 「祈りとは、願うことではなく問いかけることじゃ。よいか、マルチェロ。覚えておきなさい。手を合わせ、頭を垂れ、身を低くして問うのじゃよ」 自ら硬い聖堂に膝をつき、三叉の方に頭を垂れて、オディロは言った。 「神よ、私はあなたのまえに何者なのですか。地上のあらゆる位階に惑わされることのないあなたの御前で、私は何者とされるのですか。そう、問うのじゃ。そのようにして切実に問われぬ祈りは、祈りではないのだよ」 そのとき十歳の子供だったマルチェロは、ただ無心に頷いたものだ。だが聖堂騎士団長と呼ばれ、自ら院長となって、マルチェロはその教えの困難さとオディロの大きさにあらためて行き当たった。この簡潔な教えはいまでは常にマルチェロの前にあって、これを逃れることはできない。 血筋のことも、母のことも、勝ち得た地位も、そこでは意味がない。ただ無限の相において、ただ永遠の相において、あるがままの己だけが映し出される。それはまさに、一点の曇りもない鏡のようなものだ。そのような凝視の前に立てば、マルチェロは己が―あるいは己の魂というものが―日ごと夜ごとに薄汚れ、罪に着膨れる様に気づかずにはおれない。それはどれほど神を否定し、無力と蔑もうと不在を疑おうと同じことだ。 マルチェロは立ち上がった。見上げればサヴェッラ大聖堂の天井は高く、荘厳で、永遠の息吹に満ちているようだ。だがそのようなものにどんな意味もないことをマルチェロはよく知っていた。長い木椅子から立ち上がり、出口へ向かう中途で、見慣れた禿頭に行き合わせた。 「短い祈りじゃな、マルチェロよ」 マルチェロはかすかに笑った。 「このように言います。―長すぎる祈りを祈る偽善者に気をつけよ」 ニノが鼻を鳴らして笑った。マルチェロは丁重に頭を下げて、戸口を出た。 - - 2005年09月21日(水) …ガシャポン本体+カプセル買いました。 何に使うかは23日にお会いする方にはわかるだろーと思うんですよ。 しかしアレだな、金を稼ぐようになってバカもヒートアップしてますヨ。 - - 2005年09月20日(火) 誕生日がうれしいような年齢でもない。 しかし来るものは仕方がないので、私は今年も年を拾う。 ヴァレンティーノ・ロッシは撮りにくい。 見かけと実際の動きか、ともかくも何かが一致していないのだ。 感覚がついていかない。私のシャッターは彼より少し、遅い。 彼、途中で転倒してガーいうて怒ってました。 - - 2005年09月19日(月) 信じられるだろうか、僕の知るパドックはいつも静かだ。 エクゾーストはコンクリートの床を上滑っていくし、人々の歓声も夢のように空の中に溶けてしまう。だから、夕暮れにシャッターを下ろせば、いつもそこにあったとおりの静寂だけが残る。 きみが信じてくれなくってもかまわない。ほんとうさ。 - - 2005年09月18日(日) 十五夜の月が照らす地表をディーゼル機関車でがたごとたどって帰った。それはまったくの偶然だったのだが、車では見えない風景を見れたことは、ピントがあらぬ方へとんじまった数々の写真よりも素晴らしい収穫だった。 それで、私が月を撮ったかというと、撮りはしなかったのだ。理由を以下に述べよう。それとも言わぬままにしておこうか。迷うのは単に、私が何かについて理由を述べようとするとき、それはたいてい私がそれを信じているというよりは、その理由なるものがもっともらしく聞こえるとか、あるいはちょっとしゃれているように聞こえていると思い込んで得意になっているに過ぎない場合があまりに多いからである。 しかしまあ、書いてみてもよいだろう。私は月そのものよりも、月が照らす地表のあらわす表情が好きだ。影が多く、だがそのためにこそ淡い光は際立つ。それは確かにひとつのやさしい目が見ているようだ。その視線の中で世界は至福のうちに身を横たえ、うっとりとしている。恋人同士の愛撫をのぞきみるような不埒な真似をしようとはしないように、私は月と月光のもとにある風景を撮りはしないのだ。ともかくも私はそう言うのだ。 ![]() 20050918 MotoGP Grand Prix 13th inMotegi photo by たつみ or 太郎飴 - - 2005年09月17日(土) あー! DQ8兄弟でラブラブが書きたい! 兄貴が弟によっかかって、見上げて、キスねだってる話を書きたい! 弟がちょっと面食らって、目を見開いてる場面を書きたい! ええい、作風を考えて沸きやがれ!!>my妄想 俺は、たらしこまれてるのか、と、ククールは考えた。実際、そうでも考えるよりほかに飲み込みようもないのはこの状況だ。ククールの膝のあいだに座ったマルチェロは、背中を弟の胸に預けている。 それだけなら、ククールを自意識過剰ともいえただろう。だがもちろん、それだけではない。マルチェロは伸び上がるようにしてククールの頬に頬を寄せている。鼻は鼻に触れており、ほんのすぐ近くにある唇と唇は互いの吐息を相手に教えている。ククールに逃げるのを許さないのはマルチェロの左手で、それはククールの銀髪の間に差し入れられて、弟をそっと拘束する。 「あに、き…?」 ククールはかすれ声でささやいた。その響きが消えない前に、唇の端に唇が触れた。甘い、とろりとした感覚がククールの腰のあたりを走りぬけた。 ヤッチマイナー!!@キル・ビル(でも後悔) ------------------------------------------------------- Calling.... ジンニーアは砂の上に立ち、私を見て言った。 「わたしは嵐であった。わたしは世に先立つ暗黒、稲妻であった」 私は何も言わなかった。彼女がひどく悲しげに見えたからだ。彼女がひどく悲しげで、今にもその幼い顔が泣き出すかと見えたからだ。 「ああ、わたしはそのようなものであった。神はまさしくわたしを煙の立たぬ炎から取り出し、そのようなものとして作られた。だが見よ、いまやわたしは人だ。わたしの思いは鋳型のごとき思考によって定められ、この思いも鈍重な血肉を出ない」 彼女は語りながらゆっくりと手を上げ、乞うように差し出した。いまや彼女が泣いているのがわかった。美しい少女の顔の上を涙が落ちていく。 「だが世界の諸力、速い稲妻がどうして肉の身に耐えられよう。夜と朝がどうしてこんな小さな器に収まろう。おお、聞け。聞け、私を捕え、わたしをつないだおまえ。ああ、聞け」 私は聞いていた。私は差し出された彼女の手を引き寄せた。ジンニーアは顔を伏せ、嗚咽を低く押し殺した。私の手の上に涙は落ちた。 「わたしは…狂う。いつか狂う。わたしは、怖い」 私は黙って彼女を抱き寄せ、その震える背を包み込んだ。 - - 2005年09月16日(金) 「ロ短調ミサ曲」(JSバッハ) なんだろうこの飢餓感は。 聞きたいという欲求は私のメニューにはなかったはずなのだが。 最近、「あの音」「あのフレーズ」が「聞きたい」と突発的に兆す。 なんだろう。これはなんだろう。狼にでも変身しようというのか。 ある種の化け物、ある種の悪魔、ある種の生き物に。 音楽/バッハをひとつの食べ物とするものに。 私の右脇の下あたりから、左の肩の上から、 なにかが生えかけているようだ。なにかが。 肉腫が、骨が、三本目の腕が、棘が、なにかが。なにかが。なにか が。 ------------------------------------------------- A.さんから回ってきたコミックバトン。よいしょ。 【コミックの所持数】 13冊。数えられますよマジで。 ・「ヘルシング」1−7、増刊(平井耕太) ・「ラブ・クラシック」(比此地朔也) ・「パイド・パイパー」(山岸涼子) ・「茄子」1−3(黒田硫黄) 【今読んでいるコミック】 ・「ヘルシング」:リアルタイム補足はしていない。コミックス派。 【最後に買ったコミック】 ・「ヘルシング」増刊 【特に思い入れのあるコミック5冊】 ・「2001夜物語」1−3(星野宣之) 日本人離れした壮大なスペースロマン。オムニバス式連作短編集。 ミルトンの「失楽園」を下敷きにした「魔王の星」は素晴らしい。 宇宙への憧れ、未来への憬れ、苦難を超えていく人間賛歌。 ・「ピグマリオ」1−27(和田慎二) 小学生のころに愛読していたマンガ。現在は手元にないが、 主人公クルトの成長に、自分を重ねていたのではないかとさえ思える。 ・「日出処の天子」1−7(山岸涼子) ものがわかってから読み返すとけっこうきわどい本(…) 小学校高学年で読んだが、最後で泣きました。青春だ。 二次元世界でどきどきした初めての本ですな。 ・「ラーギニー」(萩尾都望) この人の作品は母がファンだったので、小学校の頃からあれこれ読んだ。 最高作品は難しい。「マージナル」「ポーの一族」「銀の三角」。 しかし思いいれで判断するならこの短い作品を。 全編が歌からなるようだ。そして愛の夢から。 ・「陰陽師」(岡野玲子) 表現の新しさでしょう。 もういいかげん、マンガに飽きていた大学生の私を再び 書店のマンガコーナーに向かわせる力を持ったものでした。 ただ後半に入ってくると…うーん?(笑) 次点で「東周英雄伝」「アドルフに告ぐ」「JOJO」「封神演義」とか。 【次に回す人五人】 うーん。まあ、じゃ、ひとりだけ。 TSさん、気づいたらよろしく〜。 - - 2005年09月15日(木) 「HELLSING」(平野耕太、少年画報社)の増刊号をうっかり入手。 以下、ネタバレにつき。 この増刊号の新作パートで、寡黙な大尉が人狼(ヴェア・ヴォルフ)ということが明らかになった。半分人間で半分狼という「化け物」である。 歴史的にはヴェア・ヴォルフという名は後にナチスの残地諜兵としていわばゲリラ的な戦いを行うものたちに付され、ゲッベルスによって過剰な宣伝が行われた。作品中ではミレニアムの軍中で「戦鬼の徒」と呼ばれ、強い特殊な能力を持ったリップヴァーン・ウィンクル中尉、ゾーリン・ブリッツ中尉、シュレディンガー準尉の三人がこの称号で呼ばれている。彼らの能力はミレニアムが人工的に作り出す吸血鬼ともグールとも似ていない。 それで思うのだが、この三人のミレニアム尉官は、大尉の子供たちではないのだろうか。嫁がいったい誰か、食われないのかという疑問はともかく、作中の純正化け物の希少さからして可能性が皆無ということもあるまい。 そこで、提案である。 父親:大尉 母親:?? 長女:ゾーリン・ブリッツ中尉 二女:リップヴァーン・ウィンクル中尉 長男:シュレディンガー準尉 父親の友人:少佐(本名モンティナ・マックス説あり) 父親の友人:ドク 父親の喧嘩相手:ウォルター、アーカード、ヘルシング卿 この家族の、ホームドラマを書く。特に子供たちがチビな頃。 …あーいや、ムリよね。ええムリよね。構想だけよ。書きませんとも。 親父(超大型狼バージョン)の肉球をプニプニする娘やら息子の絵が頭に浮かんじゃったなんてことは全然ないから! 親父(狼)の背中にのっかって森に散歩に行く三人姉弟のわきあいあいとした姿なんて! ああもう! いつもにこにこそばかす黒髪リップヴァーン、金髪突っ立ちゾーリン、泣き虫猫耳シュレディンガー。子供らを舐めて毛づくろいする狼親父。 永遠の暗がりに彼は横たわる。横たわっている。化け物であるというのはそういうことだ。行くところすべてが暗がりであり、邪悪であり、穢れている。彼はそれを苦にしない。真正の化け物というのはそういうものだ。 手を伸ばせば夜の湿気が指先に触れる。耳を澄ませば遠くの扉の閉まる音。目が見るのは森の奥の寝静まった小鳥の巣。足を忍ばせてつがいのどちらかを奪い去るのはたやすかったが、彼はそうしようとは思わない。鳥たちの子育ての季節につがいがどちらかを欠けば、その一腹分の雛たちまでも餓死することになると知っていたからだ。 彼は夜に、長い尾を巻いて、横たわる。豊かな夏の夜に。 - - 2005年09月14日(水) いやはやまったくひどい目にあった。 日本酒をデカンタ2つ空けたくらいで(ちょっとワインとビールも飲んだが)あんなへべれけになるとは思わなかった。上司に笑われたよ…。 そして二日酔いがー…あー。朝方は身動きもならず。頭痛を引きずって出勤するが、夕方まで胸焼けで食事を取れず。自業自得だと誰も同情してくれないが、自業自得でも辛いものは辛いのだ。うまい味噌カツ食い損ねた。 十月最初の主日は死んだものたちの日だ。マイエラではこの日、すべての武器が倉庫にしまわれ、厨房からは刃が姿を消し、農場の鋤さえ隠される。代わって灯火を常の倍も備え、白衣に身を包んだ僧や騎士たちが寝ずの番で灯りを守り、音楽や歌で闇と沈黙をなだめ押しやる役目につくのだ。それはひとりマイエラだけの慣習ではなく、ドニやアスカンタ、船着場の一部でも人々は灯火を立てて夜通し楽しい騒ぎを続けるのがならいだった。 ククールはこの一風変わった祝祭が嫌いではない。長くなりゆく秋の夜に暗い地上に星々のように明かりが遠くまで散らばって、それらが歌い交わすさまは忘れがたく美しいものだ。それに、番にあたる二人一組の相手次第でドニの娘たちとの逢引にも絶好の機会となる。そしてくじで決まった相棒にククールはにやりと笑った。音楽好きの老僧だ。この老人なら頼まなくても一晩中、お得意の音程の外れた歌をうたってくれるだろう。 ドニの酒場で、黒髪の娘が言った。 「ねえ、間違えないで。わたしはドニの西の丘にいるわ」 ククールは娘の手を取って、白い柔らかいのひらに、音を立ててキスしてやった。うるんだ大きな瞳の娘は明るく染まった頬をして、いやいやをするように首を横に振った。なおも見上げてくる瞳にククールは言い聞かせる。 「もちろん、間違えやしないさ。間違えるはずがないだろう?」 「本当よ。わたし、フルートを吹くの。『恋心』の曲を吹くのよ」 嘘をつく気などククールには毛頭なかった。所定の場所についたのは月の出のころ。相棒の老僧を多少もおだて、さらに寒さよけのために持たされたワインを少々飲ませてご機嫌うるわしく歌声はいよいよ朗々として聞くにも耐えなくなったところで、こっそりと闇の中に退散する。行く手はむろん、娘の待つ丘の方だ。そうだ、真っ直ぐに行くはずだった。足取りも軽く走りだし、だが途中から次第に歩みは遅く、やがてついには立ち止まったのは。 それは、奇妙な思いが追いついてきたせいだ。そうだ、影のように。あの男は―団長は、兄、は―旧修道院の入り口にほど近い河辺にいるはずだと。それがどうしたと押しのけてしまいたい思いと、近づきたいという願いとが揺れ動き、不安定な振り子のようにククールの足にからみつく。 (睡魔に襲われて倒れ付す。続き書いたら読みますか?) - - 2005年09月13日(火) ノミスギタ。 - - 2005年09月12日(月) …朝になって各紙政治部長署名記事を読み比べ。 【朝日】見出し:「郵政」以外を明確に語れ まず、小泉(=自民)が圧勝した理由を、郵政民営化のみを押し立てて 党内反対派に対して徹底的な弾圧を行って“改革の旗手”を装うことに 成功したという一点に帰している。 次に、争点を郵政のみに絞った手法は、年金や子育てなどの重要な問題を 置き去りにしたとして、「首相は一刻も早く『郵政後』に何を目指すのか 明確に語り、具体的なプログラムを示すべき」としている。 民主の大敗の要因について触れて、結びは、この圧勝に対して 小泉政権は政治的(そしておそらく道義的)責任を感じ 政策中心の政治で国民の負託に応えよ、という大意である。 (評)B 言ってることはまあ、一通りはもっともらしいんだが、 いかにも朝日らしく国民をバカにしていると思うのは私だけだろうか。 これでは小泉が政権を劇的な形で手に出来たのはまるで、 国民が小泉マジックに手もなくコロッと騙されたから、とでも言いたげだ。 国民が何を望み、どうしてこのような選択を行ったかというところにこそ こうした署名記事は起点を置き、そこから語るべきではないのか。 【毎日】見出し:民意を恐れよ 初めに、この小泉圧勝の結果について「サプライズ」と評している。 原因はまず小選挙区という勝敗のはっきりと出る選挙制度があるとし、 次いで現在の不透明な代議士制に対してわかりやすい「国民に問う」という 姿勢をとったことに国民が好感を抱いたのではないかとしている。 一方、民主の弱さについては、これまでの躍進こそがバブルであったとし もう一度の挑戦を促している。 結びは、この勝利によって自民党が「ゆるやかな保守連合」から、 強力な小泉王国に生まれ変わったとししている。またこの選挙では 確かに「郵政」は信任されたがその他の政策についてはそうでないとし、 「しっぺがえし」を受けないように注意せよと釘を刺している。 (評)B+ ときに朝日よりも朝日的な毎日にしてはバランスが取れている。 しかし民主の敗北は「バブルがはじけた」などというあいまいな表現を するべきではない。彼らは二大政党制の野党の役割を果たさなかった。 エールを送るよりそのところをきっちり抑えるべきではないのだろうか。 しかし面白いのは、朝日・毎日がともに「2005年体制」という 同じ言葉でもって新たな政府を色づけていることだ。 【読売】見出し:変革の期待に応えよ 自民党の勝因は、まず変革を望む国民の意思であるが、 政敵をすべて「抵抗勢力」に仕立てる小泉の手腕で 小泉自民党こそが改革政党であると有権者に印象付けたことも大きい。 またワイドショー的「刺客」「マドンナ」も図にあたって無党派が流れた。 公明が全面的に強力し、明暗分ける小選挙区制度も圧勝を後押しした。 次に、民主の敗因として、郵政改革に対案を出さず二大政党制の野党と しての役割を果たさなかったこと、立場があいまいだったことを挙げる。 さて、それでこの圧勝を小泉自民党は生かしきれるのか。 郵政民営化のほかにも問題は山積している。国民は注視している。 (評)B+ 自民の勝因と民主の敗因をさっくり並べてわかりやすいできだ。 事実のみを並べて、事実をして語らせるという立場に徹したといえる。 しかしそれだけでは、押しの弱い文章になっていることも否めない。 これが無署名なら別にいいが、これは署名記事、意見を語るべき場所だ。 ここでは何も言われていないという思いを抱かざるを得ない。 【共同】見出し:「争点隠し」で政権掌握 この大勝利を独力で演出した小泉は政権運営に圧倒的な自由を得た。 しかし小泉は内政・外交に触れず郵政民営化だけで勝ったのであって、 そのことを自覚して、謙虚に政権運営あたるべきであろう。 民主の敗因は、小泉の巧みなイメージ戦に敗れたこともあるが、 従来の風頼みの体質を露呈したせいでもある。 (評)B− 結論から先に述べる潔さは好感が持てるが、その後がいけない。 謙虚であれなんてのは、アレだ。抽象的すぎて何も言ってないのと同じだ。 【産経】見出し:日本の政治 激変 日本の政治は変わった。この選挙で自民党の体質が変わったからである。 この選挙は従来の義理人情型から政策中心型への転換点となった。 この圧勝は政治を変えようという国民の意思のあらわれである。 首相は郵政民営化の後に何をするべきかをはっきりと国民に示すべきだ。 (評)B 日本の政治=自民党の体質、という位置づけがいささか面映い。 しかし、国民がこの数十年間、自民に政権を担わせてきたことは確かだ。 だからまあ、百歩譲ってそう思えなくもない。でも民主も言及しろって。 しかしあれだよね、独自路線だよね…。まあ、一面の真実ということで、 大甘採点としましょーか…。 - - 2005年09月11日(日) 衆院選挙結果考察 1: まずは8月16日の記事から、予想を見てみよう。 「自民→+公明で過半数維持、ただし議席数は大幅減。 民主→大幅に議席伸ばすも、政権奪取に至らず。 公明→自民のおんぶして与党維持。 共産→現状維持、底固い。 社民→消滅(マジ)。 新党?→小泉引退後に自民に復帰、もしくは五月雨式に復帰」 実際はどうなったか。 まず、大筋として自公政権維持というのは正しいが、 自民議席が大幅減少というのは誤り、 なんと三分の二という憲法改正まで発議できる巨大化をなさしめた。 裏返しとして民主が躍進というのも誤り、大幅に議席を減らした。 また社民についても、かえって議席を伸ばしている。 共産についてはその通り。公明はまあ、誤差の範囲とみていい。 新党の行方についてはこれからだ。 2: この選挙の意味はどうか。 これも8月16日の記事を見てみよう。長いのでちょっと省略気味。 「小泉自民としては、郵政民営化を改革の本丸と位置づけ、 これまで行ってきた構造改革そのものの意義を問う、としたいところ。 岡田民主は『もっと大事なものがあるのに、そんなアホなことで 解散しやがる小泉はアホ』という主張のもとに政権を取りに行っている」 これはおよそその通りであったのではないか。 そして小泉の主張が通った。なにせヤツは郵政民営化の話しかしてない。 岡田代表は果たして従来どおりのマニフェスト(=総論)で勝負し、 わかりやすさに対して敗れ去った。まったく見事に。 3: この選挙はどのような結果をもたらすか。 自民党にとって、この選挙は粛正であった。 多様性というもの、ある意味で烏合の衆であるということを 極めて真実らしい意味で長所としていた自民党にとって、 多くの“顔”をそぎ落とされた。これは極めて大きなことである。 自民党はある程度、均質な存在となったのである。 これが吉と出るか凶と出るか。 私は吉と出ると思う。なぜか。 今は、変革の時代である。社会そのものが変わるとき、 政治は機動力を必要とする。もはや亀では遅すぎるのだ。 多様な人材がいればそれだけ多くの場面に対応できるだろうが、 機動力はそがれる。今必要なのはまさにそれであるのに。 次に、「一国一城の主」であり次に党議員であるという、 従来の自民党の体質が薄まった。 今回、小泉が擁立したマドンナや若手は、 小泉チルドレンとでも呼ばれるこれまでになかった種類の勢力となるだろう。 彼らは地盤を持たず、党あっての存在だ。 党とは地盤とは異なり、論理と思想でできている。 彼らはこれまでの自民よりも、民主に似た顔を持つだろう。 この新しい血によって、自民党はまったく新しい存在となる。 議場に下りた古株の議員は、自民党の場所はどこかと戸惑うのではないか。 しかしこの急場に選ばれた人材たち、チルドレンに、 真実、この国を引き回す力があるかどうか。 私は疑わしいと思う。だが希望は捨てない。 二大政党化の動きは弱まるのではないか。 民主は岡田代表の後に立てる人材がいるだろうか。 小沢ではダーティなイメージが強すぎる。 玄葉では重みがなさすぎる。 民主は最悪、割れる。 もし民主がここで立て直すことができたら、必ず機会はめぐるだろう。 とはいえ、この選挙がなければ起きたであろうより10年は遅れるか。 最後に。 この国はどこに向かうのか? 郵政民営化はなされるだろう、だがそれは改革だろうか? 行政改革、地方分権の行方は? 年金制度、少子化問題の改善は進むのか? 外交は?アジア諸国との関係は? 今日の日本は昨日の日本ではない。 この先にあるのは略奪のニューオーリンズだと言ったひともいる。 自公は数を頼みに暴走するだろうと言った人もいる。 日本は発展途上国に逆戻りすると言った人もいる。 そうかもしれない。だがそうでないかもしれないのだ。 私たちは少子化や赤字財政を処理できる政府を今日、作ったかもしれない。 だが真実はまだわからない。 今はまだ夜の闇の中だ。 今日の日本はもはや、昨日の日本ではない。 良かれ悪しかれ変化は来た。わかっているのはこれだけだ。 我々は卵を産んだ。雛が孵るのを待つよりほかにない。 朝はすぐに来るだろう、そして我々の選択は白日のもとにさらされる。 だが今は夜明け前の静寂の中で、ゲッベルスの言葉を思い返そう。 「我々は国民に同情などしない。 我々は強制などしなかった、彼らが我々を選んだのだ」 『ヒトラー〜最期の12日間』より 政権を選ぶというのはいつでもそういう危険を犯すことだ。 そうではないか? - - 2005年09月10日(土) 変わり者だと言われるのと、変わり者だと自覚するのはまた別のことだ。 なんのことかというと、別になんてこたない。 なんてこたないが、簡単に言うと、落ち込んでいる。 自分がマイナー路線だと思い知っただけである。 そうだよマイナーだよ…。独自路線とはまあ、物も言いようだねー…。 ふててやる。あー仕事しよ、仕事。 - - 2005年09月09日(金) 朝の光は南に面した団長室の窓から斜めに射して、大きな木の机の後ろに座って書き物をしているマルチェロを照らしている。影になった顔の表情は知れない。ククールは入ってきた扉の前に立って、ひとつ踵を鳴らした。 「―わかっている」 顔を上げもせずにマルチェロは短く言い捨て、そのまま右手を動かし続けた。羽根ペンが紙の表面を走る乾いた音ばかりが聞こえ、ククールは半ば退屈し半ば感慨に駆られて兄の部屋を見回した。粗末といってもいい石造りの部屋。整然たる書棚、頑丈で美しいがインク壷とさらに紙よりほか何一つない書机、青布の向こうにはそっけない寝台が一つあるだけ。平の修道僧の部屋だってもう少し生活のにおいはする。この部屋に入るたびに、ククールはいつも思ったものだ。栄誉ある聖堂騎士団長は、たった一夜この部屋を借りた旅人のように明日には出て行く者のように、自分の印を徹底して排している、と。 だがこの日、出て行くのはククールであった。壁に貼られていたたった一つのマルチェロの痕跡、この部屋の中でその意志と想いを映じたたった一つ欠片はもうはがされて今はそこにない。もう半時もすれば旅の仲間は支度を終える。白い馬に引かれた馬車とともに、ククールも行くのだ。 「待たせたな」 向き直ると、マルチェロがペンを置いたところだった。インクで汚すことのない手が組み合わされ、冷ややかな緑の目が見据えてくる。額に巻かれた白布は痛々しく、青ざめた頬は斜めの光の中で暗い。ククールは姿勢を正した。 「先ほど命じたとおりだ。聖堂騎士団員ククール、旅人たちとともに行き院長を殺害した道化ドルマゲスを討て。世界に起きていることを見極めよ」 追放とは一言も言われなかったにもかかわらず、それは追放の合図であり、その文言であった。ククールは斧の一撃を受け止めるよう樹木のように静かに命令を聞いた。苦痛に耐えるためにわずかに頭を傾げはしたが。 「異議なくば忠誠と信仰の誓言に従って行くがいい」 温度のない声だとククールは思う。あれほど彼我のあいだに複雑にからみあっていた糸は、朝の光の中で幻であったかのように見当たらない、最初からなかったもののよう。光は壁面の石を照らし、その細かな陰影を塗りつぶしている。窓の外には噴水の中庭がある。 「聖堂騎士団員ククール」 促す声音と床に引きずった椅子の音に意識を引き戻されて、ククールは立ち上がった兄を見た。別離を前にした奇妙な感情に押されて前へと進む。兄はといえば眉間に刻んだ皺を深くしたきり、その視線は沈黙のうちに逸れた。 「御言葉のままに生きまた死なん。従うはまこと我が魂の喜びなれば」 ほとんど意識することなくかすれた言葉で呟いたのは、最初に騎士衣を身につけたその日にたどたどしく口にした言葉、入団者の誓言だ。 「誓いを果たします。誓いを果たします―、団長」 「では行け」 世界地図をはがされた壁を見つめたままで投げられた言葉はすでに嫌悪を滲ませ始めている。だがまだ。まだだ。ククールは兄の足元に膝をついた。 「……」 マルチェロはかすかに身じろぎした。だが何も言わない。視線も。ククールはこちらを見ない顔を見上げて待った。そうだ、それは典礼で定められたことだ。任務につく騎士に対し、団長がその手に接吻を許すのは。そしてマルチェロが団長の名において命じた言葉にククールは騎士として誓ったではないか。 ククールは唇を噛み締めてただ待った。沈黙はどれだけ長かったのか。もうほとんど諦めかけた目の前に無造作に手が差し伸べられた。震える手で引き寄せ、唇を寄せる。ほんの触れるか触れぬか。手はすぐに取り去られた。 「命令を果たすまでは帰るな」 もはや行けとも言わず、騎士団長の青い衣は遠ざかっていく。一人残されたククールは兄の手に触れた己が手を見る。やがて視界はぼやけて涙が落ちた。 ------------------------------ あんまり素敵でもったいなくて、 後半を聞くのに躊躇中のレオンハルト「マタイ受難曲」。 ヴィオラ・ダ・ガンバの豊かな響き、 トラヴェルソ(木管フルート)の馥郁たる香気、 すべてを圧して響き渡るオルガンのその強い力感。 そしてボーイソプラノとカウンターテナーのつむぐコラールの清涼さ。 素晴らしい。 たとえボーイソプラノにやや力強さが欠けていても、 凄みというか迫力よりも規律正しさや端正さが優先されていても。 ああ先聞きたい。でももったいないのようぅううう…。 - - 2005年09月08日(木) 『マタイ受難曲』(カラヤン指揮、ベルリン・フィル) リヒター版に比べるとあんまり評判のよくない巨匠の一枚。 技術的なことはよくわからないが、素晴らしかった。 ゲッセマネにおけるイエス捕縛の二重唱など鳥肌ものだ。 ただ、最初にこの版を聞いたら、多分、感動はしなかった。 というのは、極めて水準の高い演奏と歌で、それは疑う余地はないのだが、 ただそれはあくまで舞台芸術としてのレベルの高さ、センスの良さである。 リヒター版で諸所、訴えかけてくる痛切さ、問いかけざるを得ない魂の声は そこでは上手さにまぎれてあんまりよく見えてこない。 たとえばユダのアリアについて、リヒター版では取り落とされていた いくつかの陰影、表情、ニュアンスというものをこの版で私は見出したが、 しかしそれは音楽を複雑で豊かで美しいものとはしたものの、 魂の切迫、自ら救いを求める者の音楽の持つべき顔ではない。 それはあらゆるコラール、あらゆるアリアでもいえることだ。 技術的に素晴らしいぶんだけ、毛嫌いする人が多いのはわかる。 二枚目としてはまあでもよかったんじゃないかな。 ところで、次はレオンハルト指揮でバッハ当時の楽器を使った 一枚を聞かなくてはいけないようだ。 『マタイ受難曲』(東京書籍、磯山雅) 知りたかったことのさわりがだいたい解説されてあって助かった。 バッハに至るまでに受難曲の起こりと流れ、伝統と、 成立年代や影響を与えたと思しい蔵書の研究。 内容と歌詞と思想を音楽的に分析した詳細。 ざっと見ただけだから、あと二回くらいは読まないといかんだろう。 しかしこれから進むべき方向を得ることができた。良い本だ。 長調と短調の違いくらいわかるように音楽辞典も手に入れるべきだな。 あと、ルター派の著作を読まないとー読まないとー。 プロテスタントという人間の系列を丸ごと理解しろというのかバッハ…。 そんなことも知らない私が悪いんだけどさ…。 まあいいや、今は待ちの仕事が多いしな。 ------------------------------------------- 礼拝は佳境だ。会堂は満場の盛況で、会衆と修道士と騎士が整然と並んでいた。壇上にはマルチェロが白衣をまとって立ち、重々しい革表紙の聖典を開いて、深みのある声で聖句を読み上げている。 マルチェロの独誦はいつだって俺に耐えられないような思いをさせる、とククールは考える。ある種の豊かな拍子が内在し、単調と装おうとして絶えず感動がそれを裏切る。目を閉じて聞けばその響きは複数の旋律が絡み合って頭上高く伸び上がって明るい風景を織り成していくようでもあり、深く静かでしかも身を切られるような痛切な思いに沈んでいくようでもある。 どうして、とククールは考える。この独誦を聞いて、みんなそんな平気な顔をしていられるというのだろう。この真摯で満身創痍の魂の隠すべくもない音と響きを聞いて身じろぎもせずにいられるのだろう。身をよじり涙を流してこの男を哀れまずにいられるのだろう。ああ、自明のことなのに。 そうだ、ククールには自明であった。マルチェロの声がいつも立ち止まり深く思いをめぐらせるようにためらうのは、福音のうちいかなる物語であったか。そのめぐる思いが続く物語の大河のうちをどのようにさまよい、どのように救いを求め、また確信なく苦しげに言葉を結ぶか。だが奇妙なことに、会衆はもとより修道僧たち、騎士たちにとってはそうではない。 マルチェロは知らず、ククールも気づかないことではあったが、それはつまりこういうことであった。席の遠さ、各々の抱く思いの暗さに関わらず、ククール一人がマルチェロを理解する。だが逆はそうではない。 ククールは黙って堅い木の椅子に座り、静かに祈っている。どうか兄の魂に安らぎが降り、神の愛がもたらされてその思いを明るくするようにと。 - 『宿命の交わる城』 2:城門の方へ―2 - 2005年09月07日(水) 黒灰色の石よりなる強固な門はいかめしく、周囲に廻らせた高い壁と弓矢を放つ狭間、その彼方にそそり立つ円柱形の塔は古い悪意さながら。とはいえ南方の大陸から戦火が絶えてすでに久しい。 激しい雨は騎士たちの一行の上に横殴りにたたきつけている。馬たちは白い息を吐きながら雨滴を散らして走り、フードを目深にかぶった騎士たちももう笑ってはいない。先頭を行くジェズイーが旗を高くかざす。 「門を開けたまえ、聖堂騎士団の主の名において求める。門を開けよ」 呼ばう声は雨に消えたが、城門は音もなく開いた。その向こうには直線の道を隔てて円柱の城が見える。騎士たちは声もなく先に進んだ。 高い城門を過ぎて、その影の下を通る思いに不安を抱いたのはおそらくマルチェロだけだ。だがそれが何に根ざすものかは知らぬまま。城郭に至る真っ直ぐな道の両側をなす高い壁のせいか、それともその石の黒光りする恐ろしげな様子のせいか。それとも見えぬ人影のせいか。だがこの雨では。 「整列、整列!」 ジェズイーが叫んだ。先を急ぎたがる人馬が二列に並び、高い垂直の壁の間で威儀を整えている。マルチェロは息苦しさを覚えて顔を上向けた。 「――?」 雨かと問うたのはわずかに一瞬。輝くものは狭間にあり、鋭い矢尻の形をしている。引き絞られた弓につがえられた、その矢の。 「ひ…引け! 引けー!」 叫びつつマルチェロは手綱を引き、馬を返そうと振り返った。だが巨大な城門は重い響きとともにいまや閉じるところ。空気を切る矢の重い音が走って馬が高いいななきを上げた。騒然とする騎士たちの声。 「盾を、盾を頭上に構えよ」 「裏切りだ!」 「馬を捨てろ、馬を捨てて下がれ」 「マルチェロ団長をお守りしろ! 集まれ、集まれ!」 「殺される!」 「お怪我は、お怪我は!」 あらゆる顔と風景と嵐が目前に転じ混じる混乱の中で、マルチェロは重い衝撃をいくつも盾に受け止めた。今や隊は馬を捨て、一塊となって、頭上に盾を構えつつ城門の方に後ずさる。逃げ惑う馬の蹄にかけられるもの、矢に射抜かれて事切れたもの、また傷つきながらも逃れようとするもの。跳ねる矢、矢、矢。 ジェズイーが、シュテルンが、イーノが、マルチェロの脇を固めて、城門まで退却を果たした。だが固く閉じた扉は微動だにしない。 「なんてこった…」 すぐ脇に立つイーノが呟くのをマルチェロは聞いた。ほかのものもみな同じ思いであっただろう。だが何か言ってやる暇はなかった。矢の雨が止んで、城壁の上に人影が立ったからだ。見事な赤毛の。 ---------------------------------- アンデルセンとマクスウェルについての覚書2 そのとき、マクスウェルは呆然としている。呆然としてアンデルセンのしようとしていることには気づかない。アンデルセンは深いいたわりと奇妙な情熱とともにマクスウェルを抱擁しまた愛撫し、行為を遂行しようとする。 マクスウェルがようやく気づいたのはもう引き返せなくなった場所であり弱々しい抗いは愛情に満ちた制圧によって果たされない。しかしついに事の果たされ罪が二人を捕えたとき、マクスウェルは突如としてアンデルセンの長い祈りに思い至る。自らとともに神父アンデルセン、狂信者アンデルセン、神の獣アンデルセンもまた罪に落ちたと悟った瞬間に、真の愛情は彼を捉える。それは哀れみに近くしかも熱烈で狂おしい種類のものだ。 激しい交歓を終えて浅い眠りに落ちたマクスウェルはしかし罪の意識に追いつかれる。アンデルセンは、半ば眠り半ば覚めながら狂乱し許しを請うことすらできない司祭マクスウェル、勤勉と清純によって神の愛を贖おうと求めたマクスウェル、パリサイ人の外面をしたキリスト者を抱きしめ、ともに罪の中にあるという奇妙でもあり真摯でもある愛情と哀れみに沈む。確かに彼はそうした罪を負って立つ力を持つ。 …どんなヤオイだ!(白目) どっちかだけでも正気ならともかく二人とも狂信者だからなあ…。えらいものになりそうだから書かない。 - - 2005年09月06日(火) 「マタイ受難曲」に関する書籍についてのメモ 磯山雅著 『マタイ受難曲』 『バッハ・魂のエヴァンゲリスト』 杉山好著 『聖書の音楽家バッハ―マタイ受難曲に秘められた現代へのメッセージ』 ポール・デュ=ブーシェ著 『バッハ:神はわが王なり』(知の再発見双書58、1966創元社) 樋口隆一著 『バッハ カンタータ研究』(音楽之友社1987年) とりあえずまずこれだけは読まないと。 あとカール・リヒター版以外も聞かないと。 何種類聞けばいいのかな。とりあえず5種類を目指す。 あと楽典について簡単な知識は身に着けないと。 当時の器楽と声楽の歴史的位置付けも頭に入れないと。 頭が悪くてで知識のない人間は苦労するよ、ほんとにもう・・・。 インテリの親と教育環境が欲しかった。 - - 2005年09月05日(月) 「われに返せ、わがイエスをば! 見よ、人殺しの報酬とて受けし金を、 迷い出でし放蕩息子は汝らの 足元に投げいだせり。 われに返せ、わがイエスをば!」 『マタイ受難曲』アリア51より 一昨日分の元ネタ。 バスとバイオリン・ソロ、そしてゲネラル・バスが歌う。 自由なダ・カーポと繰り返しがこの短い詩句に深みと悲しみと、 そして思いがけないほどの明るさを付与する。 ユダを単に裏切り者とせず、 「放蕩息子」として、しかも悔悟した「放蕩息子」として描いたところに この物語の、むしろバッハの重厚な人間性がある。 いかなる人も罪を犯しうるという自覚と、 すべての罪を「己」に引き寄せ、 しかも神は許したもうという確固たる確信に満ちている。 悲しいまでのゆるぎなさと、自らを低くする偽りない謙譲の明るさ。 それがバッハという樹木の芯ではないか。 そのすべての花ではないか。 ------------------------ 『ヒットラー〜最期の12日間〜』を見た。 あと一時間は短くできたと思う。 あれはナチ内部の人間の末路に絞るべきであって、 周辺の人々が群像でよいのである。 余計な希望だの人情だのいれずに自殺しまくるナチどもばっかでいい。 冒頭の部分もいらないし、ばーさんの教訓じみた一人語りもいらない。 あんなのは物語をして語らせればいいのだ。 そしてスタッフロールではなぜヒトラー夫妻について供述がないのか。 きわめて不満である。 しかしそんなのは瑣末なことである。 ナチスに対して思考停止を長らく強いられてきたドイツ人が、 「あの戦争とは何だったのか」「彼ら=われらとは何だったのか」という その問いかけを行った。重要なのはそちらの方だ。 ヒトラーとは、ヒトラーの政権とは、ヒトラーのドイツとは、 それは何でありどのようなものだったのか? 人間の地平で、そして「我ら」の地平でそれが問われる。 それこそ画期的というものだ。もっとも日本人たる私からは遠いが。 だが聞こえてくる問いかけの真実の深さ。 その苦渋と真摯さ。ニュルンベルク裁判のような外からの裁きではなく、 彼ら自身による彼ら自身のための、彼ら自身の裁き。 ドイツはようやく戦後を終えた。私はそう思う。 翻って我ら日本人はどうか。 このようにはっきりと問いかけ問い直したことがあるか。 あるはずがない。天皇家はいまだにタブーだ。 あの一族に問いかけ、あの一族の苦しみを描くことを除いて、 いったいどうやって「あの戦争」を過去にできよう。 誰かが天皇家に問いかけ、取材し、その日々を生々しく描かなければ、 真実を洗い出し、彼ら=われらが誰であったかを直視しなければ、 「あの戦争」は強いられた忘却のように我らの前にまた背後に立って、 亡霊のようについてくるだろう。いついつまでも。 我らはまだ「戦後」にいる。 政府が何といおうと、また歳月がどれだけ経とうと、 それでどうにかなるものではない。 過去は回想されることを要求するのだ。要請するのだ。 そうだ、鎮魂されるために。過去となるために。 - - 2005年09月04日(日) 「みんなどこにいるの?」―フェルミのパラドクス もしくはマクスウェルとアンデルセンについての覚書 出会いは20年前、アンデルセンの寄宿する孤児院のフェルナンドトークス院。マクスウェル少年は8歳で、近くに引っ越してきた旧貴族の子息だ。両親が忙しかったため、院に入り浸るようになる。子供たちの人気者のアンデルセンには「こちらを向いてほしい」という少年らしい愛着を持つが、素直に働きかけるにはあまりに意固地で不器用でありすぎた。 しかし少年の視線に気づいたアンデルセンは、それとなく手を差し伸べ、ぎこちない愛着を受け入れる。しかしちょうど13課の仕事が忙しくなった時期と重なり、アンデルセンは手にすがるマクスウェルをなだめすかすようにしてしばしば院を離れることになる。 ある日、夕刻にアンデルセンが帰るときいたマクスウェルは、自転車をこいで村はずれのバス停まで出迎えに行く。しかし日暮れのバスにはアンデルセンは姿を見せず、マクスウェルは夜遅い最後のバスを待つことにする。 果たしてアンデルセンは最後のバスで戻るが、バス停には自転車が転がっているだけだった。異変を感じ、また古い死臭をかぎつけたアンデルセンは追跡を開始し森へと分け入る。 森の中の礼拝堂で、マクスウェルは目を覚ました。周囲には異様な雰囲気が立ちこめ、影が行き交う。怯えながらも逃げ出そうとするマクスウェルの前に、木立を突っ切って大きな影があらわれる。逃れようとした腕をつかまれ、恐れのあまり悲鳴を上げようとする口をふさがれる。「静かに、マクスウェル。もう大丈夫です」囁いたのはアンデルセンだ。 だが背後から迫る影があった。黒い鎧、黒い馬の亡霊騎士だ。アンデルセンは銃剣を引き抜いて襲い掛かり、悪鬼の頭を斬り飛ばす。だが頭をなくした騎士はアンデルセンを蹄にかけ背を半ば断ち割って、マクスウェルを掴んで走り抜ける。デュラハンだった。 悪霊がうごめき影が走る闇のなかで、マクスウェルは恐怖と苦痛のあまり半ば気を失いながらも神の名を呼びアンデルセンの名を呼ぶ。切り裂く刃は見えず、行く手には暗い地獄の火。血みどろになりながらもアンデルセンは追跡を続け、墓所の前でついに追いつく。残虐な戦いの果てにアンデルセンはデュラハンを寸刻みに殺戮し、重傷を負ったマクスウェルを救出した。 その後、入院と、孤児院に責任があるとする両親によってマクスウェルはアンデルセンに会うことなくローマで進学。自らの意思で神学校に進み神童ともいわれる優秀さで司祭の称号を受ける。一方、アンデルセンはマクスウェルのことを気にかけながらも神父として聖堂騎士として年月が過ぎる。 二人の運命が再び交わったのは、マクスウェルが13課に配属されたときだ。再会を果たしたアンデルセンに、マクスウェルは、幼い日に抱いた愛着は愛情となったと告げる。「おまえはわたしのものだ」。しかしアンデルセンは答えず、むしろこの先、マクスウェルが職務を果たせるかどうかを危ぶむ。いらだちながらも職務につき、机上の作戦では有能さを示すマクスウェルだったが、影は再び間近に迫る。両親の住む村に吸血鬼が入り込んだのだ。対化け物の切り札、聖堂騎士アンデルセンを送るとともに、自らも赴くが、見たのは一方的な殺戮と、両親の無残な屍だけだ。 呆然自失するマクスウェルを、アンデルセンは初めて抱く。それが哀れみなのかいたわりなのか、それとも愛情なのかはわからないまま。神の前に罪深い行いであると知りながら。マクスェルにしても分かっていたとは言いがたい。依存なのか愛なのか幼い思慕なのか。ともあれそれが彼らの恋物語のすべてだった。 ------------------------- 「ヘルシング」アレクサンド・アンデルセン×エンリコ・マクスウェル。 書く気のない物語の構想なのでメモってみる。 基本的にわたしはどーも、オーソドックスなものしか書けない。 誰でも思いつくようなことしか思いつかないと言ってもいい。 しかし思うのだが、たいていのことはありふれたことだし、 ありふれたことの中だけに何かがあるのではないのか。 たとえば愛はありふれているし、死もそうだ。 だがだからといってそれですべての謎が解けるわけではない。 ありふれたこと、あたりまえのこと、論理を敷衍したところ、 そこに人間は生きているのだし、そこにしか生きていない。 だからそれでいいんじゃないかな。 人間が人間を殺す理由の統計とったら、 「痴話喧嘩」「肉親の確執」「金絡み」でほとんど全部だな。 いや、トンデモも好きだけど。霞流一とか。 - - 2005年09月03日(土) 「我に返せ、わが主をば。 そは無辜の人なりしを」 裏切りの男はいまや裏切りを裏切れり 悔い改めは男を深く捕えたれば。 呵責の火は心を焼き尽くすばかり燃え上がり 罪ある魂を責め苛みたれば。 「我に返せ、わが主をば。 そは無辜の人なりしを」 されど、ことすでに定まりぬ ことすでに定まりて、取り消すあたわず 書かれし文字を白紙に返すことかなわぬがごとし 彼ら答え言えり。 「われらに何の関わりありや。 そは汝がことなれば」 男は絶望し、顔を覆い嘆きて激しく胸を打ちぬ しかる後に血の代価を神殿の庭に投げ込み 小暗き木の間に自らの終わりを求め得たり 「我に返せ、わが主をば。 そは無辜の人なりしを」 見よ、かく言える男のなきがらは木々の間に揺れぬ かくしてユダなる男は去りぬ、ゲヘナの火へとひた走りに走り去りて かくのごとく罪深きは我ら、我らなり 「我に返せ、わが主をば。 そは無辜の人なりしを」 ユダよ、かいなき叫びをやめよ 我らが罪はすでになされたり しかして知れ、我らが罪咎にまして御恵みのおほけなるを 然り、汝が罪はすでに許されたり、かの放蕩息子のごとく 然り、救い主は先んじてかのためしを示し給わざらずや 御恵みのまこと測りえず深ければ 御心のまこと果て知れず大なれば 救い主よ、我らを哀れみたまえ 我らを憐れみたまえ、救い主よ 「人よ、汝らの大いなる罪を悲しむべし。 キリストの御父のふところを捨て 地に降りたまいしはそのゆえなれば。 清くやさしき乙女より 我らのために生まれたまえり。 こは執り成しの仲介者とならんがためぞ。 死せるものには生命を与え すべての病を制圧したまえり。 かくして時は迫り来て、 彼はわれらの生贄として屠られ、 われらの罪の重き荷をば 長き十字架の苦しみもて負いたもう」(Sハイドン、受難節コラール) 「マタイ受難曲」(JSバッハ)を解説書片手に聞いてたらこんなものが。 ユダ=放蕩息子とするフレーズに衝撃を受けたといってもいい。 救済の思想。美しい言葉と音の群。久々に酔っている。酔ったようだ。 ドイツ語をもいちど勉強したいなあ。 自分の作るものが歌なのかなんなのか、いまひとつわからないが、 なんらかのリズムを含んでいるものを目指してみました。 入ってますか。いやトイレじゃなくて。 - 『宿命の交わる城』 2:城門の方へ - 2005年09月02日(金) 嵐が来ている。マルチェロは、天を流れる雲の速さに眉を寄せた。落ちてこないのが不思議に思えるほどの重く湿気をはらんだ黒い雷雲だ。まだ地上に風は吹き始めていないが、それも時間の問題に過ぎまい。 「ジェズイー」 先を進んでいた短髪の騎士が振り返った。その頭上の青い旗は重苦しく垂れ下がり、彼方にはゆるやかな傾斜を持った長い道が続いている。アスカンタ北部の美しい牧草地帯が広がっていた。彼方にそびえるのは北の山地、王国とマイエラ・ドニ地方との隔壁なす高い山々だ。 「いかがしました、団長」 馬上、身を傾けて問いかける騎士に暗い天を示した。 「半時もすればひどい嵐になる。みなを急がせろ。降りだす前につかねば」 長年副団長をつとめる年長の騎士は笑いつつ肩をすくめた。 「なに、ダニエルは構わぬでしょう。私はあれが修道院で騎士見習いをしていた子供の頃から知っていますが、気さくな男です」 マルチェロは否定的な思案の際にいつもするよう、わずかに頭を傾けた。ほんの数年前まで、円柱城の主人ダニエルの鮮やかな赤毛は騎士団にあった。初めは騎士見習いとして、次に騎士として人望厚い男ではあったが、年が近いにも関わらず、マルチェロとは親しかったことがない。廊下を行きかうつどに感じた奇妙な感覚は、悪意とは言い切れぬまでも、冷ややかであったように思われた。 「いかに昔馴染みとはいえ、ぬれねずみが十二匹も駆け込んでは迷惑だろう」 「さよう、急ぎましょう」 ジェズイーが笑い、乗馬に軽く拍車をあてた。旗手の先導のもと、足並みを速くした一行の行く手に稲妻が輝いた。かぎざきの光は、意図せざる手の書き付けた文字のよう、暗い天に走り抜けた。その炎を追って、雷鳴が轟いた。 - - 2005年09月01日(木) 姉をたたき出した午後11時。(文字通り) 今回の損害: 窓ガラス1枚 湯飲み 1コ ソファ 1脚 掃除機 1台 まあ、被害が少なくって済んだかなー。 姉とは子供の頃から折り合いが悪いのだが、 成長するにしたがって、ますます折り合いが悪くなっていく。 理由はひとえに…なんだろう。 私に「折り合いをつける気」がなくなったことによる、かな。 子供のころなら何があってもなくても同居人だから、 まーほら、ガマンもしたが、今はしない。 私は経済的に自立しているし、感情的にも家族には全く依存していない。 だから夜中に姉をたたき出そうと、それで母の機嫌を損ねようと、 ぜんぜんまったく痛くも痒くもないのである。 しかしアレだ。久しぶりに殺意を覚えた。 一人暮らしの単調といえば単調な生活の中で、 それなりにいいアクセントになったといえなくもない。 -
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