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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年06月30日(木)

 白昼の海辺は明るく輝いている。海の表は獣の皮のようだ。マルチェロは崖際に立って空を仰ぎ、それからひといきに落ちた。銀色に輝く白亜の崖はすばやく走り抜けた影を映し損ねた気配であった。

 ククールはもう手を伸ばさなかったのだ。

 海は静かにマルチェロを抱きとめた。岩場にしがみついた海藻の群れ騒ぐそのただなかを、彼は沈んでいった。葬列に並ぶ女の黒髪のごとく、ケルプの長い葉や茎は最期の苦悶のあいだ、彼の体をやさしく撫でさすった。

 引き裂かれた黄金と青の衣を帯び、マルチェロは水底へと落ちてゆく。

 水中の波はもはや力ない手足に祈りめいた姿態を取らせている。両手を掲げて、首を傾げ、髪は上に向けてたなびき頬を打ち。海藻の葬列をくぐりぬけて。では涙は。涙は塩水であった。これよりふんだんにあるものもない。

 落ちて、落ちて、光は次第にその輝きを弱めてゆく。

 嵐はもうこの淵には届かない。見開いた緑の目は上方を見ている。弱まり行く光がきらめき帯なしてその顔の上をよぎってゆく。唇はわずかに開き、何か言いたげでさえある。満ちているのは潮であったが。

 そして闇が。

 ゆらりと静かに揺れて、世の初めからの暗がりが彼を飲み込んだ。

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べつにこれ、兄貴でなくてもいいよね!
死にネタ好きの面目をほどこしたよ。


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- 2005年06月29日(水)

「俺にはわかってる」


 ククールは言った。マルチェロは何も言わない。そのはずだ。いましがたかけたばかりの魔法はわずかな身じろぎも許すものではないから。その意識と感覚と思考はいかにもさえざえとしているであろうが。

「俺はわかってる、あんたは神に愛されたい」

 ククールはやさしく言った。残酷な気分は底を打っている。いまはただ、これから起こることについての奇妙な同情と勝利の満足さがある。やさしい気分にもなろうというもの。手を伸ばして黒髪に触れた。子供の髪をすいてその思いをなだめるように兄の髪をすく。

「あんたは神に愛されたい。だから、あんたは半歩だって戒律を破らない。あんたは祈りを忘れない。怒りをあらわにしない。笑わない。そして」

 指先に硬いあたたかい黒髪を感じながら手を引き戻し、それから、指先で兄ののどをかすめた。夜着のあわせにすべらせる。布の下の皮膚。
 手と指でその肉体の温度と形を知りながら、布をはだけ、そして。


「――肉欲の禁を破ったこともない」


 指先をからめたものの、その形。こちらを見上げる目の中に怯えを見たと思ったのは考えすぎだったのか。ぬるい湯のように我が身から溢れるのは、よく知るもの。肉欲。情欲。接合を性急に求める、端的な願い。

「あんたにわかるだろうか。わかるか? 俺はいま、あんたが欲しいんだ。一日おもてで日の光を浴びて働いて、のどの渇きに苦しめられながら、ビールを飲みたいと思うときみたいにさ。夜も遅くに家路をたどりながら、まだまだ遠い家路の先の自分のベッドを思い描いて恋しく思うように、さ。俺はあんたをくわえ込みたくて、仕方がないんだ。なあ、わかるか?」

 言葉のおもむくまま指先でもてあそび、なでさすり、愛しむうちに、手の中のものはかすかに震え、体積を増してゆく。のしかかるようにして兄の緑の眼を見下ろしながら、ククールは微笑した。

「あんたをくわえこみたいんだ。それで好きなように腰を使って、あんたをさんざんじらしてやるよ。イっちまう顔を見届けて、俺もイクんだ。ああ、いいぜ。もうあんた、俺の手の中で熱くなってる」

 自分の言葉にむしろ煽られながら、ククールは兄の体をまたいだ。それから兄を手放し、少しばかり湿った指先を、自分の舌でさらに濡らしていく。月光は窓のへりに落ちている。寝台のシーツは白く清潔だ。


「あんたは神に、愛されたい」


 自分の後ろを指で犯しながら、ククールは呟いた。自分の体が熱を帯びてゆくのを感じるのが好きだ。鼓動が強くなる。呼吸が速くなる。舌先で唇を舐めた。淫らな思いは溢れ、流れ、満ちて。は、と、ククールは息を吐いた。馴染みの情欲は、今日は甘い鋭い刃を連れている。

「なあ、次の礼拝のとき、あんた、なんて言うんだ?」

 指先を添えて、己が後ろにあてがう。力を抜いて――その熱を食う。沈めていく。片時だって、緑の目から視線を外さないまま。

「なあ、あんた、なんていうんだ? 司式僧が杖を床に突き鳴らし…」

 熱い。このまま熱におぼれたいのか、言葉でもって緑の目の男を切り裂きたいのか。どちらもだ。どちらも、だ。

「そして」

 体の奥に。兄を受け入れて。その熱を内臓にくわえて。しびれるほど。

「問う、ん、だ。――汝、純潔の誓いを」

 みなまで言わなかった。そうするにはあまりに感覚は激しすぎた。指先に至るまで熱が満ち、しかもこぼれることがない。兄の怒りと敗北感はまざまざと感じられ、しかもその快さ。
 ククールはむずがゆいように首をすくめて笑い、それから腰を使い始めた。
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「お初マルチェロ」本で燃え上がった萌えを、
こんな片隅で無意味に捧げてみる。


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- 2005年06月28日(火)

1:
 竜神王は静かに立ち、遠方を臨み見た。どこまでも何もない。
 青空と粘土質の黄色い砂岩の道。それだけだ。

 ―さいごに何かを、あるいは誰かを見たのはいつであったか。

 思いを手繰れば、黒髪の少年に至る。あれはいつであったろう。
 百年前、千年前、それとも昨日。時間が意味を持たない身には、どうも日付は曖昧だ。おそらく百年ほど遠くなく、昨日ほど近くないのだろう。

 だがもう少年は二度とは来ないだろう。彼はもう試練を終えた。彼はもう天の祭壇を通り抜けた。そして再び見ることはないだろう。その理由はないのだから。その思考は竜神王に感慨ももたらさない。
 それはあまりにあたりまえのことだ。

 竜神王は静かに立ち、遠方を見つめている。


2:
 ハーリドは黄色い砂岩の道を歩いている。行く手は雲に隠れている。

 ―自分は何をしに行くのか。

 ハーリドは考える。もう試練は終わった。この困難な道を行く理由はもうどこにもない。神たり王たる竜は砂漠のごとく独り満ち足りている。
 それではなぜ、今、二本の足で歩いているのか。

 理由を発明することはできる。そんなことはいくらでもできる。憎む理由や愛する理由を思いつけぬような薄っぺらな相手ではないことは明らかだ。
 だがそれほど愚かなこともあるまいということも明らかだ。

 歩みは軽くも重くもなく、だがたどりつけば言うべき言葉を発明せねばならぬであろう。それだけが苦痛であった。
 ハーリドは透き通った階段を駆け上がる。竜の扉を押し開ける。
 そして声を上げて笑った。

 つばさ荒ぶる若い竜のごとく。


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- 2005年06月27日(月)

ズブロッカを三杯飲んだ後になにを書く。

26日は上京、遊び倒した。
某Sさんとともにビッグサイトで行われたイベントを見物し、
某Mさまの同人誌を購入し、オンでお世話になった方に挨拶し、
その後、ちHろさん主催の兄弟オフに参加し、
某田さんとか某Pさんとかが私の好みのタイプであることを追認し、
さらに某.さんと楽しく茶をしばき、新幹線にて帰還。
正しいオタクの休日だ!


某Sさんに半分もらったネタが頭の中で回転中。
某Mさまのお初兄貴にやられ中。しかしまた挨拶できなかった。
間が悪いのか。いや、単にわたしが気後れしているだけか。



鳥インフルエンザでまたニワトリが殺されている。
今度は2万5千羽が埋められる。子供らよ、見よ。
不正と殺戮は日常だ。善悪の規範を信じるな。そんなものは偏見だ。
ああ、スタヴローギン、あなたは正しい!
それでわたし、寝るよ。ごめん。


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- 2005年06月26日(日)

小暗い宇宙が新幹線の外にある。

(こんなやみよののはらをいくときは)

わたしはどこから帰るのか。

(れっしゃのまどはみんなすいぞくかんの)

どこにいたのか。それともいなかったのか。

(銀河系は玲瓏レンズ、巨きな水素のりんごの中を)

わたしはなんにも言わない。こんな風景は、ひとのものではない。
祈りを知るものだけが、この風景の向こうに行くことが許される。


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- 2005年06月25日(土)

「夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくろく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
 わたくしは神々の名を録したことから
 はげしく寒く震えてゐる」
        『業の花びら』宮沢賢治

顔を覆い、木の下闇のくらがりを行く詩人を思うとき、
どうしてこんなにもものぐるおしく、また悲しいのか。
この幻視のなかに道はなく、仰ぐ空は黒また闇。
そこに無数の交錯しつつ舞い下りしかも落ちきることのない業が
その花びらが満ちている。

業を花びらと視た詩人の目の諦観。
神々の名を知るものの恐れの深さ。
しかもあなたはそこにいなければならないのだ。そこに。生きて。



早朝に涼しい風が吹き、八幡山の斜面に生える、緑の木々が。
揺れている。手招くようにか。ああそんなふうにも言える。
葉裏の白さ、揺れ動く枝葉。
その枯葉に覆われた地面には、静かに灯りが灯ったようだ。
業はわたしにはあんまりあたりまえなものだが、
あるいはそれを、花とみる力がいるのかもしれない。花びらと。


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- 2005年06月24日(金)

師匠から音楽のバトンが飛んできた。
超音痴の私に聞くのか…。
面白いからやってみる。傾向が見えるかもしれない。
ちなみに、バトンとは。http://d.hatena.ne.jp/keyword/Musical%20Baton


Q:Total volume of music files on my computer
(コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)
A:……潔くゼロで。


Q:Song playing right now (今聞いている曲)
A:THE BLUE HEARTSの「リンダリンダ」。
  「炎を掴む」書いてるあいだはずっとコレでした。いやマジ。

Q:The last CD I bought (最後に買ったCD)
A:QEENのベスト。「睡蓮」のときにかけっぱな…。


Q:Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me
 (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)
A:1バッハの「トッカータとフーガ」
  2中島みゆき「時代」
  3船村徹作曲「別れの一本杉」
  4「暗い日曜日」
  5美空ひばり「川の流れのように」

  よくわかんないや。傾向がわかる人は教えてください。  


Q:Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)
A:五人も思いつかないや。
   →荒井さん
   →A.さん
   →オルフェさん
   →しずさん

  ここ見てたらヨロシク!結果は私しか確認できないな!

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ディーゼルは夜の中、ふたつばかりの車両をひいて、どんどん丘の上に上っていった。
地面も空もまっくらで、見分けもつかない。
そうだ、小糠雨が降っていた。

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わたしがけっして「うた」を聞かないことを、
ああ、あなた、年少にして気鋭の――なるあなたはどう思ったか。
あなたが豊かに汲むその世界はわたしにはがらんどうであり、
そこにあなたが聞く喜びをわたしが知らないことを。

あなたは音楽を愛し、音楽を愛する人々のあいだに育ってきた。
だからあなたはちょいと面食らっただろう。
おそらくは奇妙な生き物を見るように思っただろう。
そして私の頼みは聞かれなかった。

そうだ、つんぼの耳に魂を注ぐことをあなたが承知するはずもない。
それはそれでいいのだ。それはあなたの純潔だ。
だが私は夜に歩む。そのひとつのタンタジールの扉を思いながら。


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- 2005年06月23日(木)

先輩Fが、今度の異動でいなくなる。
とても残念なことだ。もっとたくさんのことを、教えてほしかった。
実に人の心を掴むのがうまい人だった。ズギュンときた言葉ランキング。


3位「あのな、今日は、よくやった」
…滅多にほめてくんない人にほめられるってのは、なんかえらい、くる。
しかもヘトヘトになるまで走り回った日には。


2位「俺はな、今、おまえがどうやったら仕事ができるようになるか考えてる」
…無条件降伏。がんばりますがんばります死ぬ気で!ってカンジだ。


1位「よし、勉強会だな」
…大上段に教えてやるってんでなく、勉強会。
しかも言ったとおり、仕事が終わったあと、毎晩。恩を着せもせず。
あんたいい人だ!



あと十日くらいかー…(しょぼーん)


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- 2005年06月22日(水)

「そこでおまえはどうおしだ」

新聞にもずいぶんとのどかな時代があったものだ。
政治家の旦那が暴漢に殺られちまった。けがをした妾が実家に電報を送る。

「だんなはいけない わたしはてきず」

それを知った新聞社が、都都逸にしようと下の句を募集。
集まったうちの一つが上のもの、というわけ。
これ以外には、

「代わりたかった 国のため」
「金のありかは どこである」

…などなど。
今やったら、きっと、不謹慎って言われるだろーなあ。
(参考:『夜明けあと』星新一)


上三川町の小学校で、教諭の運転する車に四年生の児童がはねられた。
児童は三時間後に死亡。教諭は業務上過失致死で聴取を受けている。
人殺しになることは、なんて簡単なんだろう。
なんて簡単で、そして取り返しのつかないことなんだろう。
そして死ぬということは。
野良犬だって、こんなふうには死ぬ。
人間らしい死とは幻想か。それとも死は死か。



キマイラ。
遺伝子が人間の要素を運び、脈絡もなく統合する暗号化された文書なら、
子供というものがその合成された結果なら。

わたしも思想も似たりよったりだ。

小林秀雄やキェルケゴールやニーチェやそのほかいろんなものの切れ端が、
好き勝手にごっちゃになっているのが、見る目には見て取れるだろう。
そして深く掘ればもっといろいろと出てくるだろうが。

さらに掘ればイドがあるのかなにがあるのか。
いずれ、そんなに掘れば個性なんてものはなくなっちまう。
一様な、なにか曖昧で、しかも同じものが見えてくる。

精神もまたキマイラ。わたしの言葉はどこにある。


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- 2005年06月21日(火)

最近、ずっこけたダジャレ。

上司Y:
「そんでな俺は女房に言ってやったんだ。
『おまえは自分が生死を賭けて出産してるときに俺がいなかったって
 そう恨み言を言うけどな。
 俺は…それより前にセイシ(精子)をかけたんだぞ』」


……はい、下ネタでした。
オディロ院長に作中でダジャレを言わせたくて
オヤジギャグの申し子の上司Yのダジャレを思い出したら、
みんな下ネタ。
ちなみに、この後も下ネタ。

会社の半死半生メアドをいじったのだが、
出てくるわ出てくるわ…200通近く鯖にたまっているメールを受信。
ほとんどがジャンクである。

その中でなかなか秀逸なものがあった。
女子大生の一人称で短編エロ小説風に仕立て上げたものだが、
最後に乱交しているところを撮影されたということをを匂わせている。
それで、その後の「盗撮ビデオが見れます」という文句に続くのだ。

セミプロが書いたのだろう文章にはこの種のメールにありがちな
性器の名称は全くなく、ごく上品にかつエロくまとまっていた。
ほめるのも妙な話だが。

で、本題である。

食中毒だの偽表示だのという問題が出ると、フツー、一騒ぎ起きる。
ほんの一日、期限を過ぎていたものを売ったというだけで
社長店長工場長と這いつくばって頭を下げる。

にも関わらず、オーラル・セックスというものは盛大に喧伝されている。
フツーの性向よりよいとでもいいたげな気配まである。
例のエロ小文でも、「股間に顔を埋めた」という表現で、臭わせている。

清潔好きな日本人にしては妙な話である。
まあ、お話として、一つの親密さの技法として提示するならまだ良い。
読む方は勝手に、消毒済みのアレコレを想像して読む。

しかし、映像はどうなんだろう。また、実際の行為としては。
まさか本当に消毒するわけにもいかないだろう。
雑菌まみれのアレコレを口でどうこうすることを考えただけで、
私などはげんなりする。

もしそれで腹を下したり赤痢になったりしたら、
いったいどーすんだろう。風営法じゃきかないしなあ。
周りに淡白な男しかいないので、聞くに聞けない。


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- 2005年06月20日(月)

荒井さんと話していて、もしやこれは異常なことではないかと気づいた。

夢の中で、鬼が出る。

いや、それは予感みたいなものだ。ときには夢さえ鬼さえ必要でない。
重苦しい眠りや夢の中で、「出る」ということを識る。
それはとても恐ろしい知覚で、私は飛び起きる。
動悸は早く、まだ夢うつつなら怯えてシーツを掻くこともある。

ただの疲労の蓄積かもしれない。
それとも私は――の前年にあるのかもしれない。
だとしたら、とても残念なことだ。

しかしそんなのは、とっくに予感していたことではないのか。
私の鼻が、とっくの昔にかぎあてていたことではないか。
いまさらだ。来てみれば、きっと陳腐なことだろう。







(ポリュボス!)


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- 2005年06月19日(日)

子供、それもたくさんの子供を親と並べて見るというのは奇妙なことだ。
非常にグロテスクなことだと言ってもいい。
生殖がどのようなものかを目の当たりにすることだから。

耳だった。子供の顔の両側に突き出した耳。
ちらりと見れば、すぐ近くに同じ耳を持った男が立っている。
少女だった。ほっそりした体を水色のワンピースに包んだ少女。
ちらりと見れば、すぐ近くに同じ長い鼻を持った女が立っている。

人間のある要素をこのように取り出して、別の顔や人生段階の上に、
ひょいとくっつけたような、そんな薄気味悪さだ。
なるほど、子孫による永生がこのようなものなら、人は獣に違いない。


そしてまた、つけ足して言うなら、そうだ。
人間の顔をあまりたくさん見ていると、いつの間にか、
子供の顔の中に成熟した面影を、老いた顔の中に幼い時代を、
直感的にまたあまりに明確に明瞭に見て把握することになる。

これは歴史を学ぶと同様に、奇妙な、そして少し悲しい体験である。
つまりそれは四次元方向への視力だ。そんな眼差しは生きるに向かない。
そんな視力をあまりに多く持ったとき、
ひとは情熱や真実にも寿命があることを知ってしまう。
それは苦い知識だ。それは麦の中の毒麦だ。

だが

ひとは毒麦を食わねばならないのではないのか。
苦い知識、苦い塩水を噛まねばならないのではないのか。
そんなのはあんまり、あたりまえのことではないのか。

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 竜神王は天の祭壇に立っている。昼も夜もないそこでは、太陽が見えることも月が昇ることもない。ただ空は青く青く、ただ雲が行き交うだけだ。
「どうして、あなたは」
 ハーリドは言った。彼はようやく竜の試練を終えたばかりだ。汗まみれの上着は風にはためいて、むき出しの背や肩を途絶えぬ風が吹いていく。
 竜神王は振り返った。褪せた黄金の髪もやはり風になびいている。青白い顔とそこに浮かぶ疲労の色は、さきほどの荒々しさをわずかに忍ばせた。
 そうだ、実際まったく、荒々しかった。一人きりで挑戦するにはあんまりにも厳しい試練だった。だがハーリドはすんでのところで勝ったし、だからまだここにいるのだ。竜の村ではなく。荒涼たる天の最中に。
「――どうしてあなたは村に帰らないのですか。村人たちは誰一人、あなたを責めないでしょう。それに、あなたは彼らの神で、王です」
 微笑は一瞬ばかり、竜神王の薄い唇を過ぎった。それより長くは立ち止まれぬ気配であった。だがそれはほかの表情も同じことだ。
「わたしはながいあいだ、生きすぎた」
 ハーリドはきょとんと目を見開いた。言われた言葉と言った言葉のあいだにある飛躍は大きすぎて、彼の手には負えない。
「わたしはもう、ながいあいだ、生きすぎた。生きものたちのあいだに戻ることはもうできないほど長く。ここにいるのが、一番、楽なのだよ」
「でも」
「おまえは若い。野の花のように若い。長老たちも、わたしから見れば同じことだ。みな、野の花だ。太陽が昇り、沈むあいだにも枯れていく」
「でも」
 竜神王はハーリドに近づき、子供にそうするように、背をかがめて視線をあわせた。ハーリドは黙ってその竜の目を見返した。竜の目。魔法の源泉のようにいわれるその光は、多分、ただの歳月なのだ。それは確かにただの歳月なのだが、あまりにも長すぎて、竜にとってさえ長すぎて、短命の種族にはそれだけで毒であり迷宮なのだ――抜け出るに難い。
「ハーリド、ウィニアの息子よ。わたしはおまえの母親を知っている。おまえの父親を知っている。おまえの祖父と祖母を知っている。曽祖父母とそのまた祖先を知っている。わたしにとって、おまえは一つの種子だ」
 長い細い指がハーリドの髪をなでた。ハーリドはなぜとはわからず悲しくなる。これも竜の魔法だろうか。竜の邪悪な魔法だろうか。
「おまえの微笑が、おまえの笑いがどこから来たか、私は知っている。おまえがどのような顔で泣くのか、狂えばどのように目を見開くのか、私は知っている。おまえの知らぬおまえの顔、老齢と死を知っている。おまえという種子に畳まれているものを知っている。私は丘に立つ巨木だ。長いあいだ野を見下ろしてきた。花のことは知っている」
「生き物の愛と悲しみと、またそのすべての営みを私は知っている。情熱や愛や真実や忠誠や、いやそればかりか悪や諦めや憎しみがどのように生い育ち、どのように根を下ろし、またどのように枯れるか知っている。それが枯れねばならぬものであることを知っている。それが生まれた瞬間に、わたしはそのすべての様相を予感し予見する」
 ハーリドは顔を上げた。竜神王は微笑している。それは生き物の微笑のようには見えなかった。それは思い出された記憶のように確固としている。
「私が戻れば、村は塵であることを強いられよう。なぜなら私がそのように見るからだ。私の目にとってはすべてが塵であるからだ。だから、わたしはここにいる。すべてが終わった後の場所に。わかるだろう? ここではすべてが終わっている、すべてが塵なのだ」
 ハーリドは長い震える息を吐いた。竜神王はまた笑った。その笑いはこう言うかのようだった。哀れみもまた死ぬ。わたしはそれを見てきた。そのすべての相を見た。哀れみもまた塵なのだ。ほかの一切と同じく。
 ハーリドはもはや何も言わなかった。すべてを塵にする竜の魔法の前に、己自身もまた塵になってしまったのだと思った。




*ハーリド:うちのDQ8主人公の名前
拗ねる竜神王を書こうとして、世を拗ねた竜神王になってしまった。
どうしましょうか、師匠!


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- 2005年06月18日(土)

「気が違うのは簡単なことです」
 カランシアは言った。その頬には黒髪がかかる。窓の外をうち眺める顔には松明の不安な光が映り、揺らめいている。マグロールは何も言わない。
「私はただ、正気でいようとする努力をやめればいい」
 ゆっくりと、石と化したようまた石と化しながらもイルーヴァタールの子の一人であることを止められぬ悲しみを抱くもののようゆっくりと、カランシアは振り返り、兄を見た。マグロールは黙って手を伸ばし、カランシアは震える冷たい手で応えた。
「容易です。あまりに容易で。――にいさま」
 マグロールは黙って弟を抱き寄せた。兄の肩口に額を寄せて、カランシアはわずかにむせび泣く。そして囁いた。
「わたしは、いつか、落ちる」
 マグロールはなにも、言わなかった。与えられた永遠という時間の中では、どのような予言もすべて現実にならざるをえないことを知っていたからだ。


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 灯火は明るく、部屋を円形に照らしている。ククールは小さな炎の真横に座り、シャツを脱ぎ捨てた。揺れる光はその背にかかり、なめらかな白い肌と、だがその上に刻まれた赤い酷い傷を照らし出した。拷問とも尋問ともいえそうな一連の行為によって刻まれたそれらの傷はまだ生々しく、赤い口を開けている。ククールは黙って背をさらした。光の外側に立つ男は黙っている。黙って暗い緑色の視線を傷だらけの背に注いでいる。
「薬を」
 肩越しに振り返ったククールが細い声で言った。
「薬を、塗ってください。手が…届かない、ん、です」
 闇の中の男はかすかに衣擦れの音をさせて進み出た。光は男の目の緑を、その顔の暗さを照らし出した。マルチェロは黙って光の中を進み、弟の背後に膝をついた。ククールが差し出した膏薬の小壷は省みられなかった。マルチェロは背をかがめ、地べたに手をついて、弟の背に顔を寄せた。その舌が傷を開くように背に這わされた瞬間、ククールは目をきつく閉じ、かすかに震えたが、声は立てなかった。 傷を開き、傷を擦って行き来する舌は熱く、熱はまた背に留まらずに広がってゆく。指先までも熱く、あまりにも快美で、ククールは声もなく息を落とし続ける。涙さえ滲んだ。これこそが拷問であり尋問であるなら、それより残酷なことはなかった。しかも、おそらくそうなのだ。ククールは身をよじった。背には熱い舌が這い、その呼吸が触れてくる。苦痛はないまぜになって、身じろぎもできないほど激しい感覚が震える体を満たしていった。


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もう半年は宇都宮に残留することが決定。
夏が来る、夏が。きみの最後の夏につきあえることが、うれしいんだ。


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「無私な創造者は、公平な批評家となることはできない。
 手紙を見れば明瞭である。
 普遍的なもの究極的なものに憑かれた精神は、
 さういふ精神が照らし出すものしか問題にしていない。
 ワグネルもゾラもモネも同じ光に照らし出されて現れて来る。
 ゴッホの言ふ着想の単純さを理解するとは、
 かういふ精神を理解することだ。
 かういふ精神には、着想は常に単純たらざるを得ないといふ事を
 理解することである」
           『ゴッホの手紙』小林秀雄


それがつまり、球を連ねた数珠だ。
ガラスの球をつないだような、彼の見る歴史だ。
彼の文章を読む都度に(つまり毎晩だ)思う言葉がある。
「批評とは己が思想を懐疑的に語ることではないのか」

ゴッホが書こうとしていたのがひとつの動きのうちにある人体なら、
それはわたしもおなじことだ。
ただ、わたしが書きたいと願うのは、

ひとつの動きのさなかにある人体をよぎる、ほの暗い物語だ。
それは気分ではない。それは性格ではない。心理でもない。

わかるだろうか。

たとえばオイディプスに見たように、
知られることなく語られる真実とでもいうようなものだ。
そうしたいわば神の領分だ。人の世にありながら。
いっそうそ寒い空間だ。ほの暗い。
そんな文章だ。ああ、またバカなことを書いてる。
何を書いていても。わたしは頭が悪い。痛いのではない。麻痺している。


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- 2005年06月17日(金)

「あなたは歌う」
 強いて竪琴を持たされて、カランシアは細い声で歌い始めた。
「マグロール、あなたは歌う。
 あなたの思いは歌となってあふれ、コルマレンの緑の野を渡ってゆく。
 聞くものすべてがあなたを愛する。
 わたしはあなたを愛する」
 頼りない調べが終わり、カランシアは兄を見上げた。マグロールは微笑して弟の方に手を伸ばし、黒髪に飾られた幼い頭をやさしく撫でた。
 ほっとしたようにカランシアは笑って、兄に竪琴を返そうと差し出した。
「わたしは、桂冠詩人に歌を贈るには役者不足です」
「いいや」
 マグロールが言った。
「おまえの歌は、長上王の月桂冠に勝って私の誉れだ」
 カランシアは困って兄を見上げた。それはあまりに過ぎた言葉、むしろ不敬とも取られかねない言葉ではないか。だがマグロールは動じもしない。軽やかな仕草で弟の手から竪琴を取って、膝に乗せた。
「さあ、私の歌を聞かせよう。おまえのためにうたう歌だ」
 そして歌い始めた。それは冠を勝ち取った歌よりも美しかった。


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- 2005年06月16日(木)

炎を掴む男。


睡蓮と海辺が気に入らないのに、上記のイメージが頭の中に氾濫している。
最近、私はとても、頭が悪い。

炎を掴む男。


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- 2005年06月15日(水)

ククマルか、マルククか。
ククマルククか、マルククマルか。
……わからん。あ、FFFTP、無事に稼動してます。よかった!
次いこう、次。


ダルビッシュ、鮮烈デビュー。
涙がちょちょ切れそうな程度にはうれしいニュースである。
いろいろと困ったもんだルーキーと思っていただけに、ほっとした。
しかし八回に連続本塁打を浴びるあたりはやはりダル。
ほんとにもー、こいつは…。まあ、まだ若いからねェ…。
というわけで、重いご祝儀。



あれからもう一年がたとうとしている。
あの日々は遠く去り、きみは遥かに羽ばたいた。
飛翔を愛する痩せた猛禽よ、勝利も敗北も誰よりも早く気づく獣よ。
ときには思い出すか、あの雨の夜を、降り注いだカクテル光線を。
最後の打席を、そのとき、きみはもう敗北を知っていたが。
あの瞬間にだけ、きみはすべての気取りをかなぐり捨てていたと信じる。


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- 2005年06月14日(火)

最近、生きるということについて理解し始めている。

ながいこと、私は生きるというのはどこかへ行くことだと信じていた。
そして、なんというか、私はそんなふうに生きてきた。

世界地図をさまようように私は育ち、
身軽になってからは、自分から世界地図の上にさまよい出た。
日本地図の上に腰を落ち着けるようになっても、わたしは帰らなかった。
わたしは常に遠ざかってきた。そしてもはや故郷はない。
わたしは、いま、どこにいるのだろう?

ここはどこだろう?
この道はどこに続くのだろう?

振り返ったとき、生きるとは行くことではなく生活することだった。
日々を迎え送るよりほかに生きるということはなかった。
そういう意味でわたしは生きてきたが、なにひとつ手の中にない。
わたしが何もいらないからだ。そんな人間を支えられる橋はない。
だが、生きてきた。このような生もまた生だ。

そして死は。人は死ぬ。犬もまた死ぬ。
犬のようでない死を、わたしは知らない。

神を信じることができたら。
せめて人類というもの、社会というものを。この国を。
切実に信じ、生に意味を取り戻すことができたら。
ジンニーア、せめて信じているふりを続けよう。
ときに、ほんとうに信じていると錯覚できるほどには。


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- 2005年06月13日(月)

この凄まじいいらだちをどうしたらッ!

パソ乃さんがせっかく帰ってきたのに、
FFFTPからファイルのダウン/アップロードができません。
こめかみが痛むほどのストレスです。
ファイアーウォール解除したのに…なぜ…。

しかしエンピツは使える。
というわけで、とりあえず過去にさかのぼって覚書をアップしよう。
妙な話だが、わたしはパソ乃さんといるときにだけ、
自由に思考ができる。実際、妙な話だ。
普段の私は、PCに向かっているときの半分も、自由な思考はできない。
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パソ乃さんが明日、帰ってくる! 万歳!(小躍り)
私の外付け記憶装置、私の別売り内臓、パソ乃さんが!
よーし、たっちゃん、あれこれしちゃうぞー!

あれこれといえば、ご連絡。
A.さん方「虫と鳥と骨」http://blueinsect.que.ne.jp/
こちらのDQ8内ブログ「ちい」にて、リレー勝負中。

現代東京パロで、
兄→新宿署生活安全課薬物対策係の警部補
弟→不良高校生
という設定です。どうなるかは神のみぞ知る。
よろしければご一読ください。以上、連絡でした。

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『思想が色を決定するのである。
 音調が音楽家の個性によって定って了ふ様に、
 色調は画家の内的なものの命ずる様に構成される』
            『ゴッホの手紙』小林秀雄

色までも思想によって定まるというのなら、
それなら言葉は何を描き出せるだろう。

ありふれた単語と静穏な描写だけで、
狂気と情熱と永遠と神を予感させることのできる筆を。

そんな筆を、どうか私に。ああ、いけない。
小林秀雄に触れたあとに、自分の文章を見返してはいけない。
死ぬか消すかしたくなってしまうからだ。


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- 2005年06月12日(日)

 ククールが伸ばした手の前から、マルチェロは逃げない。
革手袋を脱いだ手はいかにも少年のもので、大人の騎士の
強さはない。その前から逃れることは誇りが許さず、ただ
刺し貫ような視線で傲然と弟を見下ろした。
 左耳のあたりにゆっくりと伸ばされた手は硬い黒い髪に
触れたところで少し震え、それでも退かずに兄の髪の中に
差し入れられた。冷たい指は髪を梳きつつ忍び入って、そ
の奥のぬくもりを見出した。マルチェロは弟が強い感動に
揺り動かされたよう唇を薄く開き、長い息を吐くのを見た。

「急ぐな」マルチェロは言った。「確実に心臓をやれ」
「第三肋骨と第四肋骨の隙間に斜め上に向けて刃を通せ」

 視界にある弟は青ざめていく。青ざめて、死者のようだ。
マルチェロは無感動にその様子を見下ろした。
 だが心臓を撃つ一撃はなく、ククールは震え、ついに触
れていた手さえ下ろしてうなだれた。噛んだ唇が見える。

「あんたは、ひどい」

 マルチェロは答えなかった。ただ視線を自然な高さまで
上げて、弟の肩越しに彼方を見ただけだ。重く黒い雲の垂
れ込めた空のもと、マイエラの広い平野の広がるさまを。
そうと見る間に雲の底が切れて、風景に重なってゆく。天
地をつなぐ紗のうちに稲妻が閃き、次いで遠雷が届いた。
 院長の葬儀は雨の中で行われた。



・ククールとオディロ院長
・ククールのいるマイエラにおけるマルチェロと院長

・院長の死とはマルチェロにとってどういうことだったのか
・院長の死とククール放逐をマルチェロの中でつなげたものは

・ククールの出立はマルチェロにとってどういうことだったか
・ククール抜きのマルチェロと
・マルチェロ抜きのククール


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- 2005年06月11日(土)

いったいこれはどう理解するべきなのだ。
大東亜戦争*をまさにその時代に生きて、しかもこの感想。


小林秀雄はほとんど戦争について語っていない。
またその間に書いていたものも、戦争にかかわりないものだ。
戦争について書かれたその数少ないもので、
全集にも掲載されていない「三つの放送」という文章を、
ネットの海で発見したので読んでみた。

『「来るべきものが遂に来た」といふ文句が
 新聞や雑誌で実に沢山使はれてゐるが、
 やはりどうも確かに来てみないと
 来るべきものだつたといふ事が、
 しつかり合点出来ないらしい。』

しょっぱなからこれだ。
開戦の詔勅を聞いて首をかしげる様子が目に見えるようだ。
合点などさっぱりしていないではないか。
戦争が始まると聞いて、ああ始まるんだなと呟いている。

このあと『ああ、成る程なあ』ときて、
日米会談を便秘患者に例え、下剤をかましたようだという。
面食らっているうちに『すっきりした』といわれても、
こっちはどうしたもんだかわからない。
そうしているうちにもう、真珠湾攻撃の報を聞いている。

『僕等は皆驚いてゐるのだ。
 まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。
 だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。

 何故なら、僕等の経験や知識にとつては、
 あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は
 動かせぬではないか。

 名人の至芸と少しも異るところはあるまい。
 名人の至芸に驚嘆出来るのは、
 名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。

 処が今は、名人の至芸が突如として
 何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。
 偉大なる専門家とみぢめな素人、
 僕は、さういふ印象を得た。 』

驚くことさえ放棄して、ああもう驚くこともできないと。
ああ、この魂は戦争をついに理解しなかった。
奇妙なことだ。この魂はただ、苦しんだだけだ。

多くの日本人がなんらかの意見を持たねばならぬと感じ、
多くの日本人が歓喜したり反抗していたりするのに、
この見る魂は、戦争が見えないと呟いている。

思うに彼がこのとき見たのは、ただ混沌と、嵐であって、
彼はそれを見る器官を持たぬままにそれを生き苦しんだ。
そして気づけば戦争は、終わっていたのに違いない。



*太平洋戦争とは米国のつけた名である。

それともこういうことなのか。
彼は問いかけているのか。

戦争とはなんだ。
おまえたちはそれを本当にわかっているのかと。
嘲るように自嘲するように問いかけているのか。

この現代的な戦争とは人間に理解できるものなのか、
人間に本当の意味でなしまた責任を負いうることなのかと。
苦しむように悲しむように問いかけているのか。

この見る魂が、これほど屈託して語った文章はほかにない。
その肉体と時代を感じさせた文章はほかにない。
それともこれは、私の思い込みか。


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- 2005年06月10日(金)

ブックマークを作ろうと考えて、もうずいぶんになる。
二の足を踏む理由は幾つかあって、
そのうちの一つがそろそろ現実になり始めている。

よくのぞいていたサイトさんのうちの幾つかが休止した。
別の幾つかは、忘れられたように更新がない。
ジャンルには寿命があり、下げ潮の季節が来たということだ。

こう見えて妙な心細さも飼っているので、
デッドリンクが好きじゃない。
住人の気配のあんまりにもないサイトにめぐり合わせるのも。

始めたときにはもうこうなるのがわかっていた。
情熱にもそれ自体年齢はあると知る程度には首を突っ込んだ。
そんなわけで、いつだって、こんなふうだ。

わたしがDQサイトを開いた理由になった人がひとりいて、
もしも、その人のページが消えてしまったら、
ちょっと落ち込むに違いない。

ブックマーク作っても、きっと、その人のページは加えない。
つまりわたしの心細さというのはそういうものだ。
あらかじめ失っている。


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- 2005年06月09日(木)

ルノアールがゴッホを評した言葉、ヴォラール伝。

「ゴッホに欠けていたのは、さふいふ処だ。
 彼の絵を、すばらしいと人は言ふのを耳にするが、
 彼の絵は、恋しい人を愛撫するやうな具合に、
 絵筆で可愛がられていない」

ルノアールの優しい可愛らしい絵と、
ゴッホの裂けた傷のような絵画を並べ思うとき、
この言葉は、彼らの存在の遠く隔たっていることを知らせる。

それはおそらく、人が同じ人と、どこまで異なれるか、と、
そういうことになるだろう。きっと。

ところで、面白いことを思いついた。
アルルにおけるゴーガンとゴッホをみよ。
いや、そんな物騒なことはしないが。


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- 2005年06月08日(水)

日記にも書き込みをできないので、覚書代わりに。
ゴッホの自殺を悼んで弟テオが母にあてた書簡より引用する。

「この悲しみをどう書いたらいいかわかりません。
 何処に慰めを見付けたらいいかわかりません。
 この悲しみは続くでせう、私の生きている限り
 屹度忘れる事が出来ますまい。
 唯一つ言へる事は、彼は、彼が望んでいた休息を、
 今は得たということです。
 …人生の荷物は、彼にはあんまり重かった。
 …ああ、お母さん、実に大事な、大事な兄貴だったのです」

この後テオは発狂し、翌年、ユトレヒトの精神病院で死んだ。
兄弟は隣り合った墓に埋葬された。


ゴッホについて、小林秀雄は不思議な評を残している。
彼のいうには、ゴッホは、或る恐ろしい巨大なものが
無理にも彼を通過しようとするので、彼は苦しく、
やむをえず、その触覚について語るのだと。

テオは兄に耐え切れなかった。
そんな恐ろしい病に取り付かれた人間を愛するのは不可能だ。
だが兄は彼には大事だった。とても大事だった。
彼は経済的精神的に兄を援助し、その死によって発狂した。


こうした関係をマイエラの兄弟にあてはめることは不可能か。
私にとって兄は、運命と神と永遠を尋ねる魂だ。
弟は地上のものだが、しかし兄を愛さざるをえない。
理性に反して。その死を見れば狂うだろうか。
この物語を書かねばならない。過去を埋め終わったら。
それとも別の解釈を得るだろうか。真実と思量するに足る。


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- 2005年06月04日(土)

なんでか知らんが泣きたい気分の夜もある。
楽しい週末、明日から大好きなお仕事。
泣きたい理由は見当たらない。だが気分は気分。仕方がない。

「扉」はすごい絵だった、あれは。
まあなんであの展覧会にあるのかは不明だったが。
部屋の扉は開いており、廊下をはさんだ向こうの部屋の扉も開いている。
それだけの絵なんだ。それなのになんであんな、感慨を引き起こすのか。
ああ、あれはなんなんだろう。あれは。

「死せるオルフェ」
すばらしい幻想だ。
あの恍惚とした首はどのような夢から生まれたのだろう。
コレは色調もよいな。ほかのはどーかと思う、が。

クノップフのブリュージュ。
寂寥とした幻想。栄華の絶頂にあって死んだ都市の灰色の夢。
息づくのはだれの夢だ。

シルクロード、中国の「龍」
こりゃすごいわ。めっちゃすごいわ。問答無用で総毛立つ。


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- 2005年06月02日(木)

やめとけばよかったんかねー…<「睡蓮3」
しかし最低限の義務は果たした。ちゃんと警告ページはさんだ。
でもねぇ…うーん……。


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- 2005年06月01日(水)

『オイディプス王』についての試論

問い:なぜ観客は筋を知らされるのか?

問うに先立って:
ギリシア悲劇、正しくはアッティカ悲劇の観衆は常に市民たちであった。
彼らはディオニュソスを祭る祭祀の最大のイベントとして、
悲劇三部作と喜劇一作を、一日のうちに観たのである。

さて、ここで上の問いに関連する最小限の情景を記述する。
劇は円形劇場で行われ、人々は地位に応じた座席を占める。
おぜん立ては整って、まず舞台に上るのは口上人だ。
彼は行われる劇のあらすじについて、最初から最後まで語りつくす。

現代の読者や観衆はおおむね「筋を割られる」のを嫌うであろう。
物語はサスペンスやスリラーであればなおさらだ。
驚くべき結末を先に明かされれば興ざめするのが現代の観衆なら、
それなら悲劇は現代の物語や劇と同列のものではないと推論できる。

では、悲劇とは何か。
あらかじめ筋を知らされることを本質とする悲劇とはなにか。
これはこの問いの裏側であり、真実の問いでもある。

一つの回答の試み

答えるに先立って:
ここでもう少し詳しく悲劇の形態について述べよう。
登場する俳優は2ないし3人で、これは厳密に定められている。
しかし舞台には、合唱隊「コロス」が登場する。

コロスに割り振られた役は作品によりまちまちだ。
『オイディプス王』の場合は、テーバイの市民たちということになる。
彼らは俳優とやりとりもするが、対話の合間に位置づけの難しい歌を歌う。
そして明らかにそちらの方が、彼らの本来の役割である。

回答への努力:ティレシアスの不思議な発言
物語の開始からほどなく登場する盲目の予言者ティレシアスは、
テーバイの市を襲った災いの原因、先王ライオスを殺した下手人について、
「知っているが言うわけにはいかない」と言う。

これは明らかに理不尽な行為である。
論理的にいうならば、望まない発言をしない最良の方法は、
「知らない」と答えることだからだ。

ではなぜティレシアスは「知っている」が「言わない」などと、
為政者を激昂させる発言をしたのか。
そう言わねばならなかったからだ。

この劇には、「知っている」が「言わない」存在がもうひとつある。
観客だ。観客はすべてをあらかじめ知っているが、「言わない」。
観客はティレシアスがその言葉を発した瞬間に、
盲目の予言者となってこの劇に引きずり込まれる。

言い換えるなら、観客はこの劇をティレシアスとして体験することになる。


回答への努力:ティレシアスとして劇を生きるということ
ティレシアスはそれほど長く舞台の上にはいないが、
それはもはや何の支障にもならない。
「あらかじめ知っている」という共通点においてティレシアスとなった
観衆が最後までそこに存在し続けているからである。

観客は、ティレシアスなら感じたであろう形で劇を体験する。
オイディプスの、イオカステの、クレオンの、コロスの、
そのすべての発言に注意深くたたみこまれたダブルミーニングは、
表面の意味も裏の意味もともに観客には理解される。

ダブルミーニングはけして言葉遊びではない。
登場人物はみな、それぞれが知らず知らずのうちにその運命に言及する。
彼らが口にする言葉は、神の臨在の証拠である。
運命はすでになされ、ただ彼らに気づかれていないだけなのだ。
このダブルミーニング、二重底のあわいは神のありかだ。
コロスの脈絡ない歌はしだいにそれを歌い始め、観客はそれと知る。

精緻な劇は「あらかじめ知っている」観衆によってこそ理解される。
そしてこの二重底の劇は不思議な立体性を持って抗いがたく立ち上がる。
運命が揺らぎ、人々が悲惨な結末に向かってひた走ることが理解される。
そして観客は最後までともに行き、その転落を知る。

比較してみよう、もし観客が何も知らなければどうか。
舞台上の出来事は、ただ生起する事象の連続に過ぎない。
ただの事象に真の悲劇性を見て取ることはできない。
最後のどんでん返しはたしかに派手だろうが、それは悲劇ではない。


回答への努力3:クライマックスはなぜ隠されているのか
この悲劇の奇妙な点は、クライマックスが登場人物の語りによることだ。
オイディプスは舞台上で目を刺し貫かず、イオカステは首をつらない。
下僕の言葉としてそのようなことがあったと語られ、
そして目から血を流すオイディプスが登場するだけだ。

これはどういうことか。
最高に劇的な、現代的な意味で演劇的な場面が観客から隠されているとは。
ソフォクレスは役者にこのシーンを演じる力がないと感じたのだろうか?

(余談であるが、悲劇役者たちは大げさな面をつけ、芝居用の高いゲタを
 はいていた。だからそれほど激しい動きは不可能ではあったのだ)

実際のところは、そうではないだろう。
ドラマティックなシーン、劇的なシーンは、悲劇には必要とされないのだ。
悲劇は実際のところ、悲劇的な追求にこそあったのだから。
むしろ、悲劇的な追求をする人々の姿と転落だけが悲劇であったのだから。
血も傷も、それに比べればなんと嘘臭いことか。


試まれた回答
ごくかいつまんでカギとなる部分だけを抜き出してみた。
答えは不十分なものであろうし、
すでに先人たちが十分に吟味した悲劇の王に新たな意味を付け加えるには
まず至らないであろうと前置きしておく。

悲劇とはなにか。

舞台で演じられる劇はその半分に過ぎない。
観客の「あらかじめ知っている」目でもって見られ、
その目で見て理解された、二重構造の恐るべき劇こそが悲劇である。
そうして理解されて始めて、悲劇は生命を与えられるからだ。

この盛事が神への捧げものとして執り行われたことを忘れてはならない。
観客はなぜ四本の劇を一日のうちに観なければならなかったのか。
それは、継続した上演によって、一つの神話をその日その人々の精神に
まざまざと再生し陽の下に生かすためであった。

アテナイの人々は、彼ら自身を糧に「生きた」悲劇を捧げた。
そして、生きた悲劇だけが悲劇なのだ。





……頭いて…。普段使わないのにムリに使ったから…。


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