- 2005年05月31日(火) 予定通り、短期集中連載「睡蓮」2回目を上げる。 目標は毎日1本である。できんのかいな。 言うとできなくなるというジンクスはありつつ、 ジンクスをあえて言葉にすることで打ち破りたい27歳の初夏。 要するに書けってんだ。 知り合いが10年越しにイングリッシュガーデンを作っていて、 「見においで」と誘われている。 行きたいなー。行こうかなー。 朝焼けの庭、川霧は立ち上り、あたたかく湿って花々の上を流れる。 露は落ち、色染むごとく落ち。 ぐわーぐわーぐわー。美景好きにはたまらんじゃないか。 誰か一緒に行かないかなー。午前三時に起きて烏山行かないかなー。 カメラ持っていくのだ。マクロもっていくのだ。 きっとどこかの木の影には法皇様と院長がいてダジャレ合戦やってる。 - - 2005年05月30日(月) 思い出した本がある。 『魔女ランダ考―演劇的知とはなにか』(中村雄二著) バリ島の魔女ランダと善神バロンの舞踏をケースとして、 演じられることによって再生され続ける知を問う本だ。 演じるとはつまり、引用の最たる形ではなかったか。 知、あるいは神、物語は演じることによって顕現するのではなかったか。 だが、引用とは演劇に留まらないのではないか。 翻案により、翻訳により(小林秀雄によるランボォをみよ)、 また狭義の語句の引用により、批評という形態における再話により―― ある魂と思考というフィルターを通して顕現するものがあるのではないか。 いわゆる独創というものがたかだか一人分の知でしかないのに比べ、 ソフォクレスの『オイディプス王』にしろ、 シェイクスピアの『マクベス』『リア王』にしろ、 すべてその時代に神話/風説としてよく知られていた物語やプロットの 翻案ないしは高度な芸術的昇華であり、広い背景と時代の厚みを持つ。 これが引用の独創に勝る点ではないかと私は思う。 引用は、いうなれば魂を二つ三つばかり持っているのだ。 学問は前人の巨大な背の上に載らねばならぬことがよく知られているのに、 なぜ芸術においてはこうも独創が過大な評価を受けるのだろう? あれ? 話がずれたよ! 「生ける神」の「生きる」とはなにかというとこを考えていたのに。 あと悲劇を悲劇たらしめるのは「周知された筋」だということについて なんか考えようと思ってたのに。 同じバリ島を扱った民族学の本で、なんだっけ、 原書で読もうとして挫折した本がある。 あれもやっぱり面白かったんでたんだけどなあ。 なーんて本だったかなあ。 うーん、忘れた。 - - 2005年05月29日(日) 歌人オシァンは竪琴を手に取った。 「わが内に畳まれし勇者たちよ、白い胸の娘たちよ、 楽の音とともに歌に乗って立ち戻れ。 この高殿に再び生きて、我らに涙を流させよ。 おお、丸い盾の勇者たちよ、 山腹に射す明るい日差しのごとき娘たちよ!」 ケルト族のサーガ『オシァン』よりかなりいい加減に引いてみる。 ここでは「生きる」とはどのように扱われているのだろう。 旧約における「生ける神」と似ている気がする。 またこのサーガにおいて、 歌人は殺すに躊躇するものとして描かれている。 彼らはまさに胸中に「数多の勇者と娘たち」を生かし続け、 時に応じて呼び出しもし悼みもする存在として扱われている。 彼らはその生きた知識によって、人間以上のものとされているのである。 「生ける神」「生きる英雄/娘たち」「生かす歌人」 共通知識(=歌)に入ることがすなわち「不死を得る」ことであったのか。 では共通知識から「引用する」ことによっては? 引用もまた、個々の人間を断片から全体の一部に 引き上げる行為ではないのか。 永遠の家とはそれではないのか。 十字架上のイエスの「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」という言葉は。 それはつまり彼を後ろから神の子として読み直させる原動力ではないか。 現在が過去を名づけたのではないのか。 そうした奇妙な可塑性はもとより知られてはいなかったか。 それは必ずしも彼が「神の子」として特別な形で生まれた証拠ではなく、 その発言によって、「神の子」として生きたことになったのではないか。 見よ、マルチェロは顔を上げた。陽光はその額にかかって美しかった。居並ぶ裁き手たちは瞠目してこの罪人の顔に見入った。殺戮者、簒奪者、詐欺師――それらの罪を負うものとしては奇妙な美ではなかったか。遠雷のごとく、さながら遠い山腹に射す日差しのごとく、流れ行く雲のごとく。 戦勝を誇る王者のごとき美にあらず、青春に奢る少年の美でもなく、すっくと立ったその背に悲しをたたえた頭を掲げ。罪人の衣は射しかかる陽光に漂白されて、このとき聖別されたもののごとくであった。 「聞け、予はここに信仰を告白す」 マルチェロは言った。一座は静まり返ってその声に聞き入った。 「神をおいてほかに神なく、この信仰を措いて誠なし 御手の厳しさこそ、我は身を低くして待ち望むものなり 御怒りの激しさに打ち倒され、雷に焼かれることをこそ望むものなり なんとなれば神なくして一切は空しきを予は知ればなり 聞け、これぞ予が信仰なり、エイメン」 雷鳴、稲妻、驟雨にも似た言葉であった。人々は静まり返り、よく一言を発しうるものもなかった。マルチェロは一人頭を掲げて立っていた。 - - 2005年05月28日(土) 久々の怠け曜日。 ここしばらく頭の後ろがひきつれる感じで常時偏頭痛だったんだが、 18時間ばかり断続的に寝たら取れた。 母親と二人きりのマルチェロを書こうとして書きあぐねている。 彼らはとても奇妙な状態にあるので、掴みきれない。 いっそ回想によって語るべきか。 しかし兄貴が「あの経験」を言葉にすることがあるのかどうか。 「あの経験が私に対して過ぎ去って再び還らないのなら、 私の一生という私の経験の総和は何に対して過ぎ去るのだろうとでも 言っている声のようだった。 しかし、今もなお、それから逃れているとは思はない。 それは以後私の書いたものの、少なくとも努力して書いた凡てのものの、 私があらわには扱う力のなかった真のテーマと言ってもよい。」 小林秀雄『感想』より 確かにそれは、そのような出来事であったに違いないのだ。 そのように決定的で、彼の上の刻まれた出来事であったに違いないのだ。 そして彼がそのあと、この地表に書き続けた物語のテーマですら、 そうだ、テーマですらあったかもしれない。 だが彼が語っただろうかと考えると。 ジンニーア、草原の果てにおまえはゆく。 山脈の向こう側におまえは立つ。 わたしはそれを確かに知っているが、 おまえにたどりつく手段がない。 これはたとえば、望郷とか恋情などという名前で知られているものだろう。 しかし真実のところは人間の根源的な寂しさに根ざすものであって、 名前も由来も必要ないものではないのか。 - - 2005年05月27日(金) 世界を滅ぼす情熱をおまえに与えよう。 (だがそれは生命のそのエントロピー逆転の反秩序のなかに もとより折りたたまれているものではないのか) 世界を膝の間に招きいれて焼き尽くす情熱を与えよう。 (だがそれは生命のその遺伝子がもとより持っている、 その自己複製の機能に付随する意志ではないのか) 世界を抱き取りたいという願いを与えよう。 (ああ、それならもとより知っている。 この腕にはいつだって可能にあまる願いがある) 黄金にまさる黄金のありや、またなしや。 - - 2005年05月26日(木) イゾルデに対するトリスタンは初め 王の使者として立ち現れ、 誘惑者、騎士、道化、子犬、病者、死者、死神に変容した。 トリスタンに対するイゾルデが、 誇らかな王女、女王、恋人、致死の毒、癒し手、死神と変容したよう。 それはまさに変身であり、変容ではないか。 奇妙な話だ。 彼らは互いの運命に分かちがたく結びつけられながら、 その糸の環の中で舞踏のごとく激しく変容する。 最初の姿とはもはや似つかないほど遠くへ行く。 愛または恋、それとも愛そして恋とはそのような練成の火だ。 その火炎のごとき足取りこそが生きるということなら すべてのあとにくる沈黙こそが死だ。 しかもそんなことはわかりきっている。意味のないほど。 - - 2005年05月25日(水) おまえにわかるのか。 それでおまえにわかるというのか。 今日や明日や昨日というものを。 海や空や陸地の広さが。 いいや、おまえには私の悲しみだってわかりやしない。 だからそんなに声に出して何かを言うな。 そんなにわかろうとするな。 おまえはおまえの悲しみを抱いて、ただ世界を見るがいい。 それだってずいぶんと難しい話なのだ。 さあ、私はもう行く。 こちらを見るのはやめるがいい。 ただ歩き出し、そして死ぬまでにどこまで行けるものか自分に問うがいい。 さあ、私はもう行く。 (消尽される魂への憧憬はどうして尽きない。 消尽への欲求、これは果たしてタナトスと呼ばれるものか。 だとすればあなたは最初に答えを見つけていたことになる、フロイト) なにかをほんとうに愛するということが、 それを己の言葉に翻訳するということに行き着くというなら、 だからこれは。 ならばこれは、ジンニーア。 誰の悲しみですか。 不安定だ。 この不安定さがすぐ墜落につながらないことが、 むしろ不思議な不安がある。 落下と墜落。谷底を恋うおまえは誰だ。 落ちる星、笑いつつ落ちる星のようではなく。 小包が届く。トチノキが花咲く。 誰かの言葉が聞こえる。 そうしたわずかなものが私を支える。 奇妙な話だ。生きるとは遊ぶことか。 - - 2005年05月24日(火) 探すことができるほどのものであれば、見つけることもできるだろう だがほんとうに探さねばならないものは ときに探すことさえできないものではないのか 歯を食いしばり 泥を噛み そしておまえは生きる だが なに ゆ え に と、神が問う。 当然のごとく答えはない。 - - 2005年05月23日(月) ひょんなことで、カランシア好きの方を見つけてしまった。 うれしい話である。これまで孤独だったもんなあ! シルマリルがさっぱり更新しなかったのだって、 あまりの反応のなさに…だんだんぼうっとしたからだもんなあ。 アルクウァロンデは燃え盛り、その炎は天に届くかとさえ思われた。 「やめよ、カランシア。もうよい」 松明を掲げて馬上行く弟を、マグロールが呼び止めた。炎は赤く恐ろしく暗闇に燃え立ち、闇のそちこちには花びらのごとくテレリたちが死んでいる。血を流して。苦悶をその顔に刻んで。西方国に地獄が出現したのだ。 「カランシア!」 振り返った弟を見て、マグロールは息を飲んだ。カランシア、黒髪のカランシア。母親より与えられたその名はつまり、血に赤き顔。 母上と、声もなくマグロールはネアダネルを呼んだ。あなたはこのような予見をされたのですか。このような光景を目の当たり見たというのですか。 「――兄上、殺しましょう。誰ひとり残らぬまで殺しましょう」 ぞっとするほど冷たい声が言った。 「父上がそう命じられました」 いつかこのシーンをかっちり書きたい。 それからディオルとの因縁も。 トル・ガレンってサルゲリオンの近所だもんねー。 - - 2005年05月22日(日) 三年前の自分の文章を見る。 日記ではない。文章である。 ……なんじゃコリョー!! 論理が通ってないよ! 主語の省略が不徹底だよ! だめじゃん…。 というわけで泣きながら書き直してシコシコ。 文章って、やっぱり、書いていると上達するんだなあ。 というかアレだ。昔が下手すぎだ。 今だって下手だ!! ジンニーア、私のおまえ。 五月の明るい山中におまえは見当たらなかった。 白い花が咲き赤い花の咲くその山には。 私はおまえを探している。もうずっと探している。 ああ、私たちはこれほど長く離れていたことはなかった。 この嘆きを聞け、ジンニーア。 そして聞いたならば、青白い炎を尾と引いて翔り来たれ。 - - 2005年05月21日(土) ハリードの誘惑: 「来たれ戦士よ」とぞ黄金の王は妖しく囁きぬ。 男はその悪しき心根を知りたるも、瑠璃青の目に魅入られたり。 「こはいかに」とぞ男は叫びぬ。 「泥濘にまさる暗闇なる御身の心の、かくも美しく装われたるは」 「来たれ戦士よ、己が目の見たるところを信じよ。 いざ、美と喜びの極みにぞ誘わん」王は誘えり。 「静まれ王よ、我は神を恐れを知るものぞ」 されど男の手は力なく、足もまた萎えたるがごとく逃走を妨げぬ。 そはただ王が瞳の美しかりしため。 天の高みにまさり、海の深さにまさって魅惑の泉であったため。 男は恐れに満ちただメア・クルパを唱え、身じろぎもせず。 焦れたる王は白き腕を男の頭にめぐらせ、蛇のごとく抱き取れり。 終局: 積年の悪行の報いに悪竜が散々に食い散らした。 埋葬もならぬ死に死ぬる王の屍は六月の庭園に散る薔薇の花のごとし。 されば黄金の髪なす姫は手篭を持ちてさまよえり。 「あな、わが殿はいずこぞ。 然り、こはそれなり。 こは殿が目、過ぎにし日には敵をば射殺し 我が上にさらに矢のごとく注がれて魅了し果てぬ。 こは殿が唇、遠き日には我を呼び、 我が身を指先より秘めたる処まで余すことなく愛したまいぬ。 あな、竜は殿の身をば、野辺の葉のごとく散らせり」 歌うたうごとく姫は狂い嘆き、指先を血に染めて胸打ち叫び、 しかして散りたる王のなきがらをば手ずから集めたまえり。 ロマンシング・サガ3でものすごい黒い想像をしたことがある。 ロアーヌの領主ミカエルは妹モニカを愛人にしてて、 さらに武人ハリードと大富豪トーマス、 妖術師ウンディーネをみんなまとめて誘惑して世界支配を企む魔王っぽく。 モニカはモニカではかなげな魅力でもって、 ヘレンとサラを姉妹ドンブリ。 さらにカタリナを魅了して連れてってとすがりつつ、 でも兄貴から逃げられない狂乱の姫。 ピドナ王家を滅ぼし王冠をかぶり、 魔王さながらとなったミカエルをしかし竜が挑発。 傲慢と驕りから挑戦を受けて立った王は、食われっちまう。 追いかけたモニカはばらばらになった屍をオフィーリアさながら 摘み集めながら狂い果てる…という黒い想像を。 詩人ごっこ風に文語調の長い叙事詩で作りたかったが挫折して、 部分だけ友人Oとのメッセで即興で作った。 もー忘れたのでうろ覚えだ…。 - - 2005年05月19日(木) とびっきりへこんだひ。 とびっきりへこんだひ。 それはしごとがうまくいかなかったひ。 なによりなによりだいすきなおしごとなのに、 うっかりてをぬいてまわりのひとにめいわくかけちゃったひ。 とってもとってもかなしくってつらいひ。 なきたいくらいな、ひ。 それでもいいことあった。 とても素敵でうれしいことあった。 がんばろう。がんばれる。 いつだって、明日へ行く扉だけは開いている。 それなら、生きていく。生きていける。 さあ走ろう。走り出そう。 - - 2005年05月18日(水) 「神様、なんでこんなひどい世界をおつくりになったのですか?」 「人の子よ、そんなに世界はひどかったのか?」 「はい。戦争があり疫病があり、悲惨さだけが人生でした」 「なるほど。だがおまえはこう言うべきではないのか。 『私には悲惨さしか見えませんでした』と。 なぜなら世界はそのようではなく、 ただお前の目にそのように見えただけのことだからだ。 お前と同じ道をたどって『喜びに満ちていました』と言ったものもいる。 そして私は、世界をよいものだけで作ったのだよ」 万年筆をしまおうとして指ぶっさして、こんな会話を思いついた。 - - 2005年05月17日(火) 「ともに行こう。世界の果てのその外まで。時の終わりまで」 アイグノールが言った。父親と同じ金髪は夕日に赤々と映え、その男の輝かしい横顔をいよいよ強く険しく見せていた。小暗いヘレボルンの湖にあって燃える松明のごとく。大地の奥底から目覚めたルビィのごとく。カランシアは従兄弟を一瞥し、それから視線を外した。 「行けぬ。――行かぬ」 「後者ならば仕方ない。だが前者であれば連れ去ろう」 カランシアは膝を立てて木下闇に座り込む。漆黒の髪は流れて頬を覆い、その目は音もなく半月形した目蓋に閉ざされた。 「答えろ、従兄弟よ」 焦れもせずに促す声音が響き、湖畔の空気を静かに揺るがした。それは見えざる湖面に投じられた小石のようだった。波紋は広がり揺らぎ。 「世界を滅ぼせ、アイグノール。灰燼とせよ。山々を引き抜き、海を干せ。星々を堕とし、神々を殺しつくせ。さすれば」 そこで声は震えた。灯火の震えるよう。アイグノールは眉を寄せ、暗がりの従兄弟を見下ろした。その影はすでに定かでない。嘆きと悲しみのあまり形を失ったのかとさえ思われた。 「――カランシア」 だが闇のうちに入ればそこに少年めいた影はさらに暗く、うずくまる。アイグノールはうつむく従兄弟の傍らに膝をついて抱き寄せた。 「世界を滅ぼせ、従兄弟よ。創造主の御座さえも引き摺り下ろされる日が来たなら。ああその日が来たなら私は行くだろう。おまえと行くだろう」 「泣くな」 腕に抱き取った身体は目が知っていたより小さく、そして冷たく震えていた。このような小さな器になんという悲嘆、なんという嘆きがたたまれていることかと思えば眩も暈む。アイグノールは頬を寄せた。冷たい頬だった。 「泣くな、カランシア。きっと連れて行くから」 「だが」 カランシアが囁いた。 「教えてくれアイグノール、いかにして。いかにして。私は行きたい」 アイグノールは答えるすべもなく、ただ口付けするよりほかにない。冷たく、荒涼たる風か揺れ騒ぐ不安な炎を抱くにも等しい、空しい口付けを。 カランシア総受け連盟とか作るかなー。(会員は私一人だな) - - 2005年05月16日(月) 「私は火星から来た人類学者のようなものです。 人間がどのように感じ、どのように行動するかを学ぶのです」 『火星の人類学者』オリヴァー・サックス 高機能自閉症の女性がこのように語ったことを、 私は非常な悲しみを持って思う。 彼女はいわば、別の進化の過程を進んで文化的存在となった生き物だ。 ある意味で人間以上の能力を持ちながら、人間ではない。 人間の喜び、人間の愛は彼女から遠く、 あなたは人間の群にあって黒い羊、死に至るまで異邦人だ。 そうとも、帰るべき国もない。 「どのように追悼するかは他国が干渉すべきでない」 よく言った、小泉。 だけどとりあえず内政をなんとかしろ。(*私は右です) 郵政民営化ってどうなのかなー。 あまり論点がわからないのでなんともいえない。 武部の顔見てると無条件で反論したくなるけどな。 - - 2005年05月14日(土) 母来襲につき、 割り当て分の一日あたり吐き出し語数をリアル消費中。 (*人間には話したい欲求というのがあって、 これを満たすには個人差はあるが数万語程度話す必要がある。 逆にいえばそんだけ話せば文字で吐き出さなくてもよいという仮説) なんでもいいが、写真がけっこう好評だった。 うれしい話である。 基本的にテキストの人でこれは十分を目指す必要があるが、 写真はプラスアルファなので褒められるとそんだけで嬉しいのである。 まあ、写真にはアマチュア的関心であるということだろうか、な。 映画「グッバイ・レーニン」をDVDで見た。 東ドイツとは何ものだったか、ドイツの統合とはなんだったのかを、 非常にうまい切り口と映像の使い方で見せてくれている。 やや「甘い」「言い切れていない」という部分については、 これはアレだ。欧州映画にふさわしい部分であって欠点ではない。 なんせかれらは、「全部見てしまった人々」なのだから。 栄光も没落も紛争も政治も人間の邪悪や虚飾やいわゆるはかなさを。 だからこれは、やさしいウソの夢だ。 よい映画だ。それともこれは、母と見たせいだろうか。 いや、コマ送りやロングの撮り方いいから! テリングの部分の情報の圧縮の仕方もいいから! すごく久しぶりに感想を書くよ、荒井さん。 すごく久しぶりで、ごめん。 - - 2005年05月12日(木) とても久しぶりにタグをいじったので頭が痛い。 でもいろんなことできるんだなあ…。 でも重いんだよなあ…@えあえっじ32bps データみんなぶっとんだが、写真を撮るのは引き続き大好きだ。 でもトリミングはどうも好きじゃない。 そのうちまた中近東に行こう。 ねえ、ジンニーア。 手招け神よ、私は行かぬ。 空よ落ちよ海よ渇け世界よ滅びよ、私は行かぬ。 立ち尽くし立ち尽くし歌ひとつ見出せずに死んでみせよう。 手招け神よ、私は行きたい。 - - 2005年05月11日(水) 草原に風が吹き抜けていく。カランシアはただ一人、黄昏の野辺に馬を駆けさせていた。漆黒の馬は騎手の想いそのままにあてどなくまた速く走った。カランシアは語らず、その表情も頑なに沈黙を守る。だがこの騎乗を言葉とすればこのようにも言えただろうか。すなわち。 ――私は泣かぬ。涙が私に追いつかぬからだ。私は語らぬ。言葉が魯鈍に過ぎるからだ。私は行きつくことがない。中つ国にも海の彼方の地にも私の求めるものはないからだ。にも関わらず私はここに生きており、あらわさねばならぬなにか、語らねばならぬなにか、行かねばならぬどこかを胸のうちに持っている。それは呪詛のごとく私を食い破ろうとする。食い破ろうとしている。誰ぞ来たって我を助けよ。ああだが私を救えるものなどない。 漆黒の馬は手綱を引かれていななき、後足立った。カランシアはその背から降りて大河ゲリオンのほとりれを眺め渡した。美しい夕べであった。東方はすでに夜、ヴァルダの手になる星々はさやかに瞬き、天の頂で夕暮れの名残と溶け合っている。西方に黄色い陽の残りがたなびき、地平の上にわだかまる雲は一つの音符のごとく赤紫に焼かれている。風も止んで音はといえば流れる大河の無音の流れのみ。カランシアは両手で顔を覆った。 「――そうして、木にでもなるつもりか」 静かな言葉が落ちてきた。深く穏やかなマグロールの声音で。次いでその温度が双の腕の形をとって抱き取られる。カランシアは顔を上げない。 「おまえを救うことができたなら。おまえを泣かせ、おまえに語らせ、おまえの望む場所に導いてやれたなら。――カランシア、愛している。それでは足りぬであろうが、それだけは理解せよ。それだけは心に留めてくれ」 切なさ書きたい。かなしさ書きたい。あああ。(やなことあったって) - - 2005年05月10日(火) 昨日の出来事を話したら、 友人A「あなたがなにやっても驚かない」 上司F「おまえがなにやっても今更驚かない」 母親 「気をつけなさいっていつも言ってるでしょう」 ……私のことをけっこうわかっているかもしれない人々が口を揃えて。 なんですか、日ごろそんなふうに見えますか。ええそんなだよ。(ふてる) それで、聖書月間継続中。 ヨブ記だが、よくわからない。 拾い読みなので順番通りに読んでるわけでもないのだが、 このヨブ記にひっかかって動けない。 途中まではまーいいのだが、最後。 それでいいの!? という気がしてしょーがなく、 しかしこれは救済の思想と関係が深そうなので、 飛ばすこともできずに捕まっている。 この不条理をドラクエで書くべきか否か。 DQ8の騎士兄弟が好きだが、なんだか前にはまっていたときとは違う。 いや、書いているものが。なんだかこう、既に単にネタでない。 いやネタのつもりなんだけど、さ。 兄の魂に興味がある。堕落と救済の文脈で。 兄を通して旧約外典「マナセの祈り」を見出したい。 詩篇22でもいいなあ。 「我が神、我が神、なぜに我を見捨てたもう」から始まり、 しかし結局、神への信仰の告白によって終わる。* 結局、近代以降の「信じられない=天才性の証明」というのは、 これはもう飽きるほど繰り返されて退屈なものに過ぎないわけですよ。 ロボットの「作られ創造主を破滅させる」フランケン話と同じことだ。 正面切って救済を探そう。 妙な話だ。魂の話をするときに三人称を使うとは。 しかしこれが私の思考なのだからしょうがない。 *SS「祈り」で兄を殺したククールがやってたね。 - - 2005年05月09日(月) おかしいと思ったんです。 ええ、ここ一週間くらい肌が荒れていて。 おでこあたりに吹き出物など出て。 なーんかやだなー。化粧やめるかなーとか。 思いつつ早めに帰って化粧を落としたわけですよ。 クレンジングで。そんで、洗顔料を手にとって。 ん? なんか、硬い、と。 そんでよく見ると。 ↓ 歯磨き粉だったわけですよ。 - - 2005年05月08日(日) 基本的に頭の悪い人間なので(いやホント)、 あんまり前後のことは考えない。 カランシアは刃を抜いて、己が首にあてがった。対するはメネグロスの王にして美丈夫ディオル、その首に下がるのはナウグラミーア。エルベレスの御手になる一つ星メネルマカールさながらシルマリルは白く燃え立ち輝いて、今やその死のときを迎えたフェアノールの息子を照らした。カランシアは清い光の石を見上げるや言い放った。 「告げよ宝玉、我が兄マグロールを見ることがあれば告げよ。ノルドールの滞留の時は未だ尽きざるに、予のみ去ることを許せと」 この時にあたり、ディオルはマイアの血に目覚めて予見を得て叫んだ。 「公子よ、御身は間違っている。今日の日の終わるまでには汝の兄弟の多くが逝く。末の双子も逝こうし、ケレゴルムとクルフィンも逝こう。そしておお、ベレンとルシアンの息子、マイアのメリアンの裔、美丈夫ディオルもまた逝く。メネグロスは滅び王家の子らは死ぬ。希望はあるが我らのためには役立たぬ。今日の日にこそ災いあれ」 「まことにシンダールの王よ」カランシアは言った。「御身はノルドールの災いの網の目にとらわれている。だが誰が酷い運命を逃れられようか」 ディオルはそれを聞いて刃を下ろし、手を差し出した。 「それではともに泣こう、公子よ。我も君も今日の日を終えられぬ」 カランシアは声を上げて笑った。 「フェアノール王家の血を見よ、その運命を見よ。希望は我らの上になく、許しを求めず破滅することをもって我らは唯一の誇りとする。西方諸王の綺羅星のごとき都の数々に栄光あれ。だが予は再び臨もうとは願わぬ」 かくしてカランシアは自らの首をはねて死に、やがてディオルも背後から襲い掛かってきたケレゴルムのために殺された。しかしそのケレゴルムもディオルの郎党の手にかかって死に、フェアノール王家の末の双子、匠のクルフィンもまた命を落とした。これらすべては流血の日の終わる前に起きた。 私の文章の祖型は、もしかしてイリアッドか? それともベーオウルフ?ローランの歌? ちょっと1000年かそればかり古すぎる。 まあ全部、好きですけどね。 文語体っていいよなー。 - - 2005年05月07日(土) 聖書週間継続中(月間か?) 気になったことば ・知る :女を「抱く」というときにも使われるし、 神を「恐れる」(かな?)というときにも。 ・はっきりと言う :そんなはっきり言いまくらんでもというくらい、 新において頻出している。 ・生ける神 :「あなたは生ける神」。 しかしこれはどういうことなんだ?偶像との対比か? かなりの程度、現実に力を持ち悪を見過ごさないという意味で取れる。 知るということばは「ちょっと知ってる」程度の話ではないようだ。 でもだからどうっていうと、理解しかねる部分もある。 精神的、知識としてのみならず、より肉を伴った認識のような気も。 原典にあたらんといかんのか? ヘブライ語なんてわかんないよ!(ラテン語もな) 「はっきり言う」。 これはどういうことなんだ? はっきり、言う。言明する。言ったぞって大文字っぽく。 この場合の「言う」という言葉は、刻印に近い。 おまえの心に刻みつけ、おまえの魂を縛るぞと。 神は「生きて」いる。 これは偶像との対比によれば明らかではあるが、 しかしそれ以上の意味があるのではないのか。 これはどういうことなんだろう、これは。 神の「生命」。その声は告げその手は民を敵を打つ。 この表現はどういうことなんだろう。 なんだかあれこれ一段落したようで、要するに。 ながいあいだ、泣いていたような気がしている。 なにかの終わりにいつもそう感じられるように。 - - 2005年05月06日(金) 誰もみな寂しいものだ。 不幸は偏在し、喜びにはごく稀に出会うだけ。 しかしそんなのは、わかりきっていることではないのか。 それともこれは、私がただ単に成熟しすぎたということか。 だー。 がー。 しまった、またやってしまった。 だから仕事であんまり熱くなるなって言ったでしょ。 一歩引いて、遠くから見て、そしてよく見て。 冷静な目と手、そして熱い心。 こんなんだから、いつまでも半人前なんだよ! - - 2005年05月05日(木) とりあえずラヴクラフト全集を読み終わった。 初期作品の退屈さに比べ、クトルゥー神話のイメージは鮮やかだ。 聖書の存在を知らずに西洋文物を読み知ったら、 おそらく同心円を思うだろう。そして聖書を知れば、中心に合点がゆく。 西洋は樹木の幹のように、層を重ね先立つものを取り込んでゆく。 そしてすべてに先立つのはギリシア文化と聖書だ。 ラヴクラフトは中心にもうひとつ深く、つまり聖書に先立って、 彼の神話を押し込んでみせる。 「実はもうひとつ深い」というのはこけおどしの代表格だが、 しかし彼のイメージの鮮烈さとホラーという様式がこれを許す。 「実は」というのはおおむねこけおどしだが、 それは西洋人にとっては根深い恐れの対象ではないのだろうか。 一方、日本は、あるいは私の知る限りの東洋文物は、どうも…こう、 重層的というよりは樹木のごとき様相を呈しているので、 あんまり「実は」のインパクトが強くないんじゃーないかな。 こういうことは、素人が書いても、自分で読んでアホくさいのだが、 書き留めないと、忘れる。 「ホンモノの絵」について、これを偶像視するこたないんでないのと、 友人がどこかで書いていたので、ここで私の考えも書きとめておく。 「モノ」は歴史である。歴史は検証不可能だから科学ではない。 「モノ」はそれが持つとされるデータ以上の存在である。 それは歴史だ。解釈によって別のものとして現れ出ることさえある。 「モノ」は変遷の蓄積である。歴史である。 その画布は数百年前に織られたものであり、 その石は芸術作品として生まれ出るのに先立つ数万年を存在してきた。 すべて定冠詞をもって語られねばならないものだ。 モノであるというのは検証不可能ななにかであるということだ。 すでに読み解かれた以上のデータであるということだ。 これでは答えにはならないだろうか。 それで、眠い。 - - 2005年05月04日(水) 聖書週間継続中。 新旧を比べると、やはり歴然として旧の内容が厚い。 数百世代の蓄積に対し、わずか人の一生分+αの内容だもんなあ。 1: 珍しく上司に褒められた世に言う連休真っ最中。 褒めてほらうのは嫌いじゃないが、 もっとすごいもんが山のように目前にあるとき、 「こんなんで褒めないで!」という気になる。 なんて奥が深いんだろう、なんて素晴らしいんだろう。 尊敬する先輩H氏が目を閉じて考えて、 それからおもむろに始めるその瞬間を、思わずじーと見てる。 その頭の中の動きを教えてくれ! あと五年たったら、先輩みたいにできるのかなあ。 ああ、私、仕事好きだ。 2: とても悲しい話のことを考えている。 勇壮でもなく惨めでもなく、ただ悲しい話のことを考えている。 - - 2005年05月03日(火) 酒と風邪と仕事で頭痛がするいわゆる連休さなか。 高校野球を、私はそこそこ好きである。 (実例:2003年12月19−23日の日記、 ないし2004年8月の日記、そのほか) 気になっているのは野球留学というものについてだ。 世間一般に言われていることはこういうことだ。 「学校の売名のために野球のできる生徒を金で集めている」 「他県から野球枠で選手を集める学校のせいで、 地元の子どもを集めた高校が甲子園出場できない」 栃木県には野球留学生を集める学校は少なく、 また強豪と呼ばれるのはほとんど県内出身の子どもたちの通う学校だ。 おかげで県内大会の集客は上々だし人気も高い。 だからというべきかしかしというべきか、そのため全国大会で栃木は弱い。 それはひとつの面だ。だがどうだろう。 子どもたちは子どもたちである。 野球をするために設備や教育者のそろった他県の高校に出て不思議はない。 それでもその後ろに動いている金を否定することはできないし、 またどのように言うべきか。子どもにも子どもの打算はある。 それはこの世のほかのすべてと同様に当然でそれ以上のものではない。 しかし同時に彼らは免責されてはならない。 非難する人間の非難はその角度ではまっとうであり抑えられることはない。 意図は必ずしも望んだ結果だけを引き連れてくるとは限らないのだ。 彼らがほんとうはどういうことを行ったのか、 彼らははやがて知るだろう。がらがらのスタンドで。敵方への声援で。 だが同時に、彼らはその情熱でもって世界を変えることもできるのだ。 - - 2005年05月02日(月) ありえねえ<ナルニア国物語映画化 絶対こける。 絶対ムリ。 確信しています。理由はひとつ。 こ の 話 は 映 画 向 け じ ゃ な い の!!! 考えてください、あんな聖書まんまの話、受けるわけないでしょーが。 あほくさい。あほくさい。あーあほくさい。 頼むから私のイマジネーションを、私の原記憶を壊さないでくれ!(悲鳴) エドとピーターなんて実写で見たら小生意気なだけだよ。 半ズボン穿かせたらぶっ殺してやる、監督…。 それでなんだっけ。 えーと、不機嫌です。幸せなのは萌えだけです。 インド思想勉強しないと!誰か3ページにまとめて! - - 2005年05月01日(日) 引用という手法がある。 私は「ぱくり」という言葉が偽悪的で好きだが。 聖書を引用した書物は多い。 そうした書物は、いわば聖書を「生きて」いるのである。 「失楽園」において、あるいは「神曲」において。 「ハムレット」「マクベス」「リア王」において。 ゲーテにおいて、リルケにおいて、ヘッセにおいて。 エル・グレコにおいて、ラファエロにおいて、ミケランジェロにおいて。 バッハにおいて、ベートベンにおいて。 大きくいえば、西洋世界に属する文物はすべて、 聖書の引用である。聖書の引き写しである。 ある一つの精神において捕えられた聖書である。 それは一つの魂を永遠にするものだ、おそらくは。 それで私は何を書こうとするのだ。 私の筆は何を生きようとするのだ。 二次的であるということは言い訳にはならない。 私は筆をもって生きるものだ。だから言い訳はできない。 聖書において凡百と少数の優れたひとびとがその生命を託した、 そのようなひとつの巨大な永遠に触れようとしているのか。 テキスト吐き出しすぎて頭イテー…頭ワリー… -
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