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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年12月31日(水)




Calling.....
星空をひとつ、あなたに持って帰ろうと思った。
ところがどうにも私の腕は空に足りない。
だからここに星空の影を贈ります。
ああ私の頭上にまた両手の先に、星々は降るようでした。
そうしてほんとうに幾つかは降りさえしました。

戦場ヶ原の未明、早暁にさえまだ遠い雪闇のなかで。

星を抱けない裸木の乾いた腕のように、
私の手はあなたからしばらく遠い。
星を抱けずに立ち尽す裸木のように、
私はこんなにもあなたに離れて立ち尽くしてる。


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- 2003年12月30日(火)

どーしてこう…。

実家に帰ると落ちこむのはなんでだろうか。
今回はそのへんの予防として仕事を持って帰ったが、終わったとたんに症状が…。
父母姉弟あたりとの関係ではなんの問題もないのに、気持ちだけ落ちる。
気持ち…気分? 古い言葉では「物狂おしい」状態に陥るようだ。

ああまったく、感情なんてなくなるとよい。役に立たないんだから。

それともこれは役立てる方法を私が知らないだけで役に立つものなのか?
あるいはパンダの『親指以前』なのか?
ゴクラクチョウの『オス尾羽』なのか?
なんでもよいから、お願いだから、私の“行為”の邪魔をしないで。


ところでうちの弟と話していて愕然とする。
彼はいったい、日本人なのか?
日本の社会に参画しているのか?
事件や世界の動きのことを何も知らず、それらについて考えることもないとは。
もう大学生だっつーのに。来年は参政権ももらえるのに。
イラクが自分にとってどういった関係があるか、
自衛隊の派遣がどういう意味を持つか。どうして気にならないんだ、おい?
こんな連中ばかりなら、なるほど日本の行く末は心配だ。
新聞読まんか、ばかもの。


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- 2003年12月29日(月)



冬の真昼の光の中で、臭気はまるでなかった。
私はためにこの数尾の死骸に気付かないところだった。
泥のせいなのかあるいは低い気温のせいなのかはわからない。
水を抜かれた冬の溜池の底で、私と死骸はしばらく一緒にいた。


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- 2003年12月27日(土)

燃える剣がゆっくりと回転していた。
空は夜のような群青色をしていたが、東の一角からちらちらと光が漏れていた。
ああ、そうか。

聖誕祭だ。




……最近、タイムリーな夢を見る。


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- 2003年12月26日(金)

この日記をつけはじめたのは2001年7月。

思えば遥かに遠い。私だけのことではない。世界がまだ同時多発テロと
それに続くアフガンとイラクにおける2つの戦争を経験する前のことだ。
このことを思うとき、すでに20世紀は過去であり、新たな世紀の新たな歴史が
今ここで行われているのだと強く感じる。今ここで書かれていると。

新たな世紀、新たな時代、新たな世界の構造――世界はどこに向かっているのか。

そして日本は。懸案だった自衛隊のイラク派遣が決まった。
すでに既成事実は積み上げられている。この既成事実から小泉は何を引き出すか。
公明党の存在は政治のバランスに新たな要素を与えた。これを緩衝できるか。
経済はゆるやかに復興しつつあるようだ。だがこれは真実か。
地方自治体と国家の予算は年毎に赤字が増してゆく。土台が腐っているのだ。
その上に健全な財政、健全な経済発展はありうるだろうか。不安が残る。
治安はどうだ。警察庁の動きは遅々としている。あらゆる動きが遅すぎる。
厳罰主義と少年法の改正はなにをもたらすか。裁判員制度は、司法改革は。
治安は回復されるか、外国人犯罪と盗難車の凶悪犯罪利用は歯止めがされるか。
子供の安全は守れるのか。捜査手法が見直され、現代に沿うよう改革されるか。
なにもかもが灰色で混沌として不確定要素が多すぎる。

だが今は世紀の初めだ。
そして出立が完全な明るさと追い風に恵まれることはないだろう。
船出は否応なかった。そして明日もまた否応なく来る。見つめ続けよう。


……なんや堅いなぁ…。


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- 2003年12月23日(火)



やはり鬼怒川河川敷。橋。
……橋の名前チェックすんの忘れてた(だめじゃん)。

橋というのはどことなく、奇妙なところがある。
民俗学では橋は彼岸とこちらとをつなぐ呪術的な側面を持つものだという。
学問というのはおおかた後付けだから信用できるかどうかはわからない。
しかしその結論がどのような事例を基に解釈されたかに関わらず、
「橋」は私に奇妙な印象を与える。ごく原始的な、感覚の次元において。
そしてその感覚は彼岸との連続という解釈を許すかもしれない。
(これが私において唯一最大の断定の言葉だ)

彼岸。私にとって橋はこの彼岸へと遠ざかるための通路である。
近づくことはない。なぜか。立ち去るものは知っても来るものは知らないからだ。
民俗学において橋は行きまた帰る道であるが、私には行く道である。
この写真は橋の外に視点を置いて得たものであるが、本来は橋の上にあるべきだ。
なぜなら私もまた橋の上にいるからである。私もまた遠ざかりつつあるからだ。
行く道、まさに行きつつある道として以外の橋というものが存在しないからだ。

橋を外れ、橋を見上げるとはどういうことなのか?
私はなぜ視点をここに置き、このように橋を仰いだのか?
答えをあげることはできる。それらしい答えをあげることはできる。
だがそうすることは正しいだろうか? 書く言葉はすべて嘘ではないか?
私は沈黙することができる。なぜならこの写真はすでにここにあるからだ。
私は沈黙することにする。いつもそうするように。


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- 2003年12月22日(月)



テトラポットの類は、どことなく非現実的な印象がある。
これは鬼怒川の河岸だが、太古の滅んだ王国の墓標を見るようだ。

うーん…。もう少し日が傾いてから撮った方がよかったかなあ。
しかしそうすると、水の下が隠れちゃいそうだったんだよね。反射で。
あとはやっぱり構成だね。ちょっと散漫な印象がある。…修行しよう。


メモ:
ところでNHK紅白歌合戦どうよ。いや今年のじゃなくて。
過去の名場面集番組をうっかり見ちゃったんだ。
いつのかわからんが、郷ひろみが「おーくせんまん♪」と歌ってるヤツ。
あの演出ナニ。気色悪いお面とマントのモブが乱舞。…アホらしさで民放に勝る。
まあ、ヒロミの非日常性を表現しきってると言えなくもないが……うなされそ。

本屋へ行く。なんか久しぶりだよお母さん!
・宮崎勤裁判中、下(佐木隆一)
・ヤクザの文化人類学(ヤコブ・ラズ)
・世界の有名人、最期の言葉(レイ・ロビンソン)





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- 2003年12月21日(日)

いつも世話になっていてなんだが、NHKは最近呪われている。

今年四月のテレビ半世紀記念日には特別番組中にコロンビア号墜落。
そのまま特別番組を継続して非難を浴びた。

また十一月のBSデジタル解禁の日にイラクで外交官二人射殺。
またもやお祭ムードと悲報の落差が物議をかもす。

極めつけは総力をあげてあれだけ宣伝に力を入れたドラマ「川いつか海へ」。
放映日にフセイン拘束。ドラマどころじゃなく視聴率はニュースに集中。

「元気列島」なんてしょうもない番組やってる場合?(笑)
個人的にNHKは民放にできない底力を感じさせる番組作るから好き。
あの取材力と構成力は素晴らしい。言いたいことがないわけではないが。


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- 2003年12月20日(土)

インタビュー:少年3

 9月の日曜、朝。練習試合を1時間後に控えたブルペンで、彼はミットを構えて膝をつく。18.44メートル向こうには右腕エース。エースが筋肉の1つひとつとオーバーハンドのフォームを確かめながらゆっくりとした動きでボールを投げる。最初はやや上ずる球がやがて打席手前で伸びを見せ、それ自体生命を得たような躍動感を持ち始めるまで、投球練習は淡々と続く。彼のしわがれた声が数を数えていく。
 最速135キロの速球とミットが真横に曲がる鋭いスライダーが彼らバッテリー自慢の武器だ。『どちらか悪ければどちらかいい』というのは毎日その球を受け続ける彼の実感で、それから、『問題はいつだって制球力』というのもそうだ。とんでもない場所にボールがきたとき、取り漏らす捕手の彼は冷や汗をかく。
 
「まあね、荒れ球で配球を読ませないってのもありますよ。
 夏の初戦なんかは、ホント、見逃せばフォアボールばっかりだった」

 100年の日本野球史の中で、配球にせよ駄劇にせよ定石といわれるものが培われてきた。さらに投手向きにも捕手向きにも多くの理論や経験則が流布している。だが彼はセオリーをそのままグラウンドに持ち込むことを潔しとしない。あるいはただ単にあまり好きではない。

「例えば『外角で追いこんで内角で振らせるのが定石』ってされてる。
 だけど外、外ときて最後にまた外でも面白いじゃないですか。
 理論は人それぞれッしょ。俺は入れ知恵されたくない」

 彼の言い分を理解するには、グラウンドに立つ必要がある。幅1.092メートルのキャッチャーズボックス。塁間27.431メートル、正方形のダイヤモンド。はるかに敷衍するフィールドとその果てにそびえるスタンド。
 小学校2年生の春に初めて足を踏み入れて以来、17年の人生のうち少なからぬ部分を彼はそこで過ごした。一見して尊大とも思える強烈な自負を抱いていても不思議はない。彼の言外の言葉はつまりこういうことだ。―グラウンドで俺がすることは俺が決める。

 マスクをかぶった彼はアマチュアながら年季の入ったコンダクターだ。繊細に揺れ動くゲームの音色に耳を澄まし、エースと両ナインからなるオーケストラの旋律を導く。打席の彼は注意深い演奏者だ。詩や論文、音楽の一小節と同様、深い意味を持つ1球1球を正しく聞き分け、そのバットの一振りに楽曲を急転させる。

「自分が打席に入るときは直球か変化球かくらいのヤマは張っておく。
 狙い球がきたら、バットをあてて、思いきり振り抜く。
 バットの芯でボールを捉えたときは、変な抵抗がないんです。
 硬球って妙な打ち肩すると手が痺れるくらい衝撃があるけど、
 芯で捉えたときは重さが全部バットにのるからそのまま放り投げる感じになる」

 対県立M高校戦ダブルヘッダーの第1試合六回表、彼の打球はまさにそのようにして低い弾道を描き、左翼の頭とフェンスを越えた。彼は腕を高く突き上げてダイアモンドを駆け抜けた。
 彼は傑出した野球選手ではないが、グラウンドでプレーするのが好きだ。キャッチャーズボックスでまた打席で、彼は1人で、それともエースとともに、多くの賭けをする。サインで呼びこむ1球ごとに多くの思考と駆け引きがある。1試合のあいだには勝利と敗北を幾度数えることだろう。どれほど多くの喜びと悔しさがあるだろう。汲むことを知っている彼にとって、グラウンドは限りなく広く深く豊かだ。
 思うに、開いた手のひらのようなグラウンドは、彼にとって、よそより少しばかり天に近い。


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- 2003年12月19日(金)

インタビュー:少年2

 7月下旬の真昼、かげろう揺れる清原球場のグラウンドで、彼はナインの一人として整列していた。スコアボードには大差の敗北が刻まれている。真上から照りつける太陽に際限なく熱を吐き出すような人工芝のグラウンドには敵の歌が響いていた。
 “最後の夏”をまさに終えて、3年生の選手たちが深く頭を垂れあるいは外聞もなくしゃくりあげていた。この大会でチームを引っ張ったのが彼とその横に立つ2年生エースであったにしろ、ことここに到れば、主役はやはり3年生なのだ。彼は間違って紛れ込んだような、申し訳ないような顔をしてぼんやりと立っていた。

 1カ月後、新チームの主将になったばかりの彼を雨上がりのグラウンドに訪ねた。冒頭の試合に水を向け、あのとき泣かなかったでしょう、と言った私の言葉に、彼は目を伏せ、少しばかり困ったように唇の端を持ち上げて答えた。

「ちょっとだけ、泣きましたよ」

 ちょっとだけ、という言葉が言い訳めいて聞こえた。彼が“ちょっとだけ”泣いたにしろ、それは誰にも見えない場所でのことだろう。

「あの二人に先発バッテリーを任せたのは、彼らがゲームを作るんだという、
 その自覚を持たせたかったからです。
 だからこそ3年生を差し置いて、背番号も1と2をつけさせた。
 二桁をつけて『今日は出番がないかもしれない』と思わせていたくなかった。
 結果から言うと、あの二人は期待に応えた。来年につながると思っています」

 そう話したのはまだ顔立ちに若さの残る、だがぶっきらぼうな話し方をする監督だ。監督歴二年目の青年教師はヘビースモーカーの頑固者だ。前任者は十年間勤務し、周辺の中学から優秀な選手を集め育ててきた。今夏の成果は前任者の遺産によるいうのが周囲の評価だ。そのせいか、選手の個性よりもセオリーとらしさにこだわる采配、“次”への指向が目立った。監督と選手がともにびのびと試合ができるようになるのは、数年は先のことであろう。

「なんで3年生の先輩でなくてあいつが正捕手だったか?
 さあ…先輩の方が肩はいいけど、バンバン刺せるわけでもないしなあ。
 アイツは同じ2年生で俺が投げやすいし、配球もいいからかな。
 配球はあいつに任せてます。たまになんちゃって配球をするけど」

 2年生投手は話す。身長173センチの右投げ左打ち、一見細く見える体はしなやかな筋肉に覆われている。彼は――女房役は親愛の情を込めて「マイペースでワガママ、ストライクだと思った球を審判にボールにカウントされると不満がすぐ顔に出る単細胞」と評する。持ち球は最速135キロの速球とスライダー。フォークボール、カットボール。ツーシームは研究中だ。打者に向かえばときに年齢以上の威圧感を放つが、マウンドを降りれば驚くほど幼い笑顔をよく見せる。
 実はこのバッテリーは、中学時代最後の夏には敵味方として対戦している。彼は、投手のチームにサヨナラで負けたその試合のことをよく覚えている。

「そのとき投げたウチの投手は、入学当初は捕手だったんです。投手は俺。
 でも、そいつ、俺の球を取れないんだよね。ぽろぽろ落とすの。
 まともに野球ができるヤツってそいつと俺だけだったから、
 監督の命令で俺が捕手になって、捕手が投手になったの。
 ところが…こいつが気が小さくて、いつも逆転されてさ。その試合もそう。
 序盤に俺が三塁打打って、次の打者がシングルヒットで一点入れた。
 それで九回まで行ったけど、そっからフォアボール2つとデッドボール、
 最後に打ちこまれて、サヨナラで終り」

 現バッテリーは会話を交わすこともなく、そのまま別々にグラウンドを降りた。再会は高校の入学式の日だった。彼がいつもの人懐こい笑顔を浮かべて、自分より少しばかり背の高い同級生に駆け寄って行く姿を思い浮かべるのはそう難しくない。なお、投手は試合の内容をそれほどよく覚えていなかった。「俺らは負けた試合の方がよく覚えているもんですから」と、彼は苦笑いする。
 真実だろう。負ければそれは最後の試合だからだ。

 秋の大会、チームは2回戦で敗北した。まさかの敗北だった。試合の数日前、彼は言った。「練習試合では勝ててる相手だし、勝てると思います」。監督は言った「まあ大丈夫でしょう」。だが彼らは負けた。センバツの目はなくなった。最後の夏はいよいよ彼の視界に入った。それが最後の機会、そして終りだ。彼はそれを忘れまい。


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- 2003年12月18日(木)



初冬、空は明るい。
やぶの一角に蔦を伸ばしたカラスウリが生えていた。
蔦は青い空の中で、旋律のように複雑に絡まりあっていた。
実は赤く熟して甘い炎のようだった。


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- 2003年12月17日(水)

インタビュー:少年1

 最初に感じたのは屈託だった。少年らしいとも少年らしからぬともいえる屈託だ。彼は、とある高校野球部に属する。全国的には低迷する栃木県においても、県内屈指の強豪ではない。だが中堅レベルとはいえる。今夏にはベスト8に食いこんだ。彼は捕手だ。主将でもある。彼はチームの責任を負い、キャチャーズボックスからゲームを支配する。
 私をひきつけたのは、彼の屈託だった。ともかく彼の言葉を聞いてみよう。

「打ちたいと思っても、うちのチームは走者がいればバントって決まってる。
 どんなにアピールしてもだめ。バントのサインが出る。
 だけど、来年の夏には、オレは監督の言うことなんかきかないでしょうね。
 今は使ってもらえなくなるのが嫌だから言わないですけどね」

 それは少年にはありがちな強がりだろうか? 高校野球にあっては全能の『監督』への子供らしい無条件の信頼を残しながら、権力の理不尽な論理にうすうす気づき始めたその淡い反発なのか。それとも異なるものか。それは一つの決意か。
 小中高と長い期間にわたる彼の野球生活において、出会った監督たちは、最初彼に投手の役割を求め、次に捕手になることを求めた。投手としてはオーバースローからサイドスローにフォームを変えることを求めた。今でも彼の手はサイドスローの影響を残しており、投げた後に横にねじれる。また成長期の長い過酷な練習で、彼の肘は真っ直ぐに伸びない。彼は肩をぐるりと回せない。彼が本塁から投げたボールは二塁に届く前にバウンドする。

「野球は高校で終りです。
 ほら、大学でまたやろうと思ってもやっぱりやめちゃうやつっているでしょ。
 高校でやってるうちは肩とか肘の痛いのをがまんできてる。
 高3の夏が終わって数ヶ月やらない期間があって、
 あらためて大学に入って始めようとすると、痛くて我慢できないんだよね。
 だから結局やめちゃう」

 その言葉は幾つもの飛躍を含んではいたが、珍しく屈折を越えて私に届いた。彼が長いあいだ見てきた夢はそこで途切れる。彼は続ける。

「俺はあまり野球の中継は見ないんです。見ても面白くないし、集中が続かない。
 俺は相手と対戦するのが好きなんです。
 配球で三振を取ったり打ち取ったりしたときは、すっとする」

 彼の手は小さい。ボールを握れる限界のところだ、と、彼は言う。私が強いて彼に手を伸ばさせたとき、彼は照れたように「お、ちいせぇ」と呟いて手を引っ込めた。多少の困難は乗り越えることができる。だが肘と肩の故障は? 164センチという身長は? 変化球を投げられないほど短い指は? 彼は努力を知り報われることを知り、しかし限界をも知った。それはまさに人生そのものではなかったか。努力と勝利と限界と敗北と、それらを受け入れることとは。

「俺、小学生のときから今の身長です。
 小学生のころはだからでかくて、いつも後ろの方にいたんだけど。
 中学に入ってどんどん追い越されてった」

 彼の屈託をどのように理解するべきであろうか。彼はグラウンドに立ち、監督のもとでチームを率い、バウンドする球を本塁から二塁に投げる。彼はマスクをつけ、勝利と敗北のどちらに行きつくともつかぬ試合に嬉々として身をゆだねる。最後の夏はまだ先だ。彼はそこまでは行くつもりだ。

「甲子園?
 そりゃ行きたいッスよ。
 野球やってる高校生なら、みんな行きたいでしょ」

 彼はいささか醒めている。それでも彼は野球を愛する。甲子園という夢よりも、彼はおそらくグラウンドの風景が好きだ。彼はキャッチャーズボックスに膝をつき、エースを見る。彼はサインを出し、ミットを構える。彼はチームとともに打者に勝負を挑み、勝利しまた敗北する。彼はチームに満足しまた怒りを覚える。彼はゲームの中で深く複雑な思考の隘路をたどり、一瞬の判断と対決を積み重ねる。彼はその場所で深く豊かに生きる。そこにいるときにこそ本当に生きていると感じているかもしれない。彼はいつかそこから立ち去るだろうか? そのとき、彼はもはや屈託を持たないだろうか? 自由で孤独で、だが歩き通す力だけを持っているのだろうか? あるいはそうかもしれない。
 そのとき彼は呼ぶだろう、そこにいた季節を。――青春と。



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- 2003年12月15日(月)



光は花を模して垂れ下がる。
晩春に咲く藤に代えて、このうす紫を係員たちが編んだ。
「これは花だよ」と私の横でAが言った。
「違うよ、ただの電飾だ」Bが答えるのが聞こえた。
「いいかい」AがBに言い聞かせた。
「これは花だよ。花の夢だよ。藤と職員の見た夢だよ。だからこんなに明るい」
私はその場を離れたので、Bが何と答えたかは聞けなかった。


メモ:
「あしかがフラワーパーク」にて、クリスマスまで。
大藤の藤棚に、花をイメージして紫の電飾がぶらさがってます。
一歩間違えばグロテスクになりそうなもんですが、不思議と美しい。
少なくとも、宵闇の中では。


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- 2003年12月14日(日)

1:昨日書いたことと。

あ、そうか。そうだな、と、腑に落ちた。話はしてみるもんだ。
つまり私が見た「新宿の女たち」というのは、
つまりメディアによってすりこまれ、「スタンダート」として認識されていた、
「女」のイメージその語彙に非常に近かったわけだ。
だからあれほど気持ちが悪く、どこかで見たような感覚がつきまとった。

つまりそういうことだ。

新宿はメディアによってあまりにも記号化された世界だった。
スタンダートとして提示されインプリンティングされてきた世界だった。
これはつまり、いかに私の思考が記号化されていたか、ということでもある。


2:今日書くこと。

フセイン捕獲。
彼を生きたまま捉えたことは米軍の殊勲だ。
彼を殉教者にしてしまえば、反乱は余計に力を得るだけだった。
捕獲して敗残の姿をさらせば(例えば米軍による診察の姿とか)、
一時的にはともかく、いずれは反乱は衰える。
もとより現実的な救済は見えない反乱なのだから、
メンタルな支柱の部分を破壊されればなにも支えられない。

しかし、テロがどうなるかというとまた別だ。

アルカーイダはフセインとは直接には関係ない。
ビン・ラーディンはまだ捕まっていない。
おそらく止まないだろう。だが打撃を受けずにはすむまい。

……1週間以内だろうな、危険なの。
東京の心臓部にとばっちりこないこと、願う。


しかし超ド級のニュースが続くなあ……。


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- 2003年12月13日(土)



クリスマスの新宿を歩いていて、思ったことがある。
歩いているオヤジ族が、オシャレだ。
普通、オヤジはダサくて薄汚れているもんなのに。
首都のオヤジは違うなあ…。

そして女性たち。みごとに女だ。
女の範疇の住人ばっかりだ。不思議なほどだ。
いったい自分はなにをどう間違ってその範囲をはみ出たのかと疑う。
服装か、メイクか。違う、彼らのありかただ。
なにが彼らを女にしているのだろう。


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- 2003年12月12日(金)

朝の町は霧がかかる。空気は深く冷たい。

朝っぱらから見ていたテレビで「途中下車」という番組をやっていた。
で、出ていたのがアイフルのCMで有名になった俳優・清水章吾(60)。
……なんかファッションセンスを間違っていた。(あれじゃゲイオヤジ…)

なにかをねぶりたいよーな気がしている。
カメラかな。カメラだろ、やっぱり。どんな絵撮るかな。


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- 2003年12月11日(木)

自分の抱いたもしくは抱いていた正義や正しさの概念が、
例えばひどく相対的であてにはならない自己満足であると認識すること。
これは間違いなのだろうか?間違いだったのだろうか?

だがしっかとしたなにものがある。世界は流れの上に浮いた朽葉の群だ。

真実は目に見えないが、見ようとするのをやめることは正しいだろうか?
諦めることは正しいだろうか?どんなに諦めても、この目に涙は湧くのに。
この胸は痛み、この苦痛は重いのに。それでも諦める。これは正しいだろうか?

本質を見る目が欲しい。どうしても欲しい。正義のものさしはいらない。目だ。

世界は下らないが、下らないとあきらめることは正しいだろうか?
これは間違いではないだろうか。働きかけることしかないのではないか。
なにひとつ確かでないなら、確かにしていくだけだ。


ここにあるのは、世界にあるのは、なにをするかということだけだ。
なにをしたかということだけだ。


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- 2003年12月10日(水)

インタビュー:ハンナ1

 私が彼女と会ったのはもう十年も前の冬だ。そのときでさえ彼女は年老いていた。真っ白い髪を耳の下で切り揃え、琥珀の縁の眼鏡をかけた彼女は、歌を思わせる節のいい言葉にむやみに間投詞を多用した口調でで話した。彼女の名前はハンナとしておく。彼女がもう生きていないだろうと私は思う。

 私たちは黄色いテーブルの喫茶店で会った。注文した紅茶が来るまえに、彼女は話し始めた。私は机の上に真新しいノートと尖らせた鉛筆を半ダース広げた。外は寒かったが、喫茶店の中は温かく、彼女は赤いコートを椅子の背にかけていた。

 あなたはきっと、私の箱のことを知りたいでしょうね。(彼女が言った)
 ですから、まずそのことから話すことにしましょう。ええと、あれはもう何年前のことになるのかしら。今年が19××年だから、もう半世紀も前ね。私は××××の×××収容所で看護婦をしていたの。それは忙しかったわ。看守たちは連中の健康のことなんて考えないから、けがや病気で連中はしじゅう運びこまれてきたわ。私たちはしまいには面倒くさくなって、放っておくようになった。
 そう、箱のことね。最初は本当に、ただの箱だったの。ただ蓋がついていて大きめだったから、取っておいたのよ。母になにか送るのに使えるかもしれないと思ったの。そういえば、××××は林檎の木が多かったわ。
 だから、偶然だったの。最初は思いつきと面白半分ね。看護婦仲間は笑い転げたわ。みんな私の思いつきが気に入ったの。当時の婦長はあんまり笑いすぎて、その日一日中、点滴の針を間違えて何度も何度も刺し直してたわ。
 あら、ごめんなさい。少しとばしたわね。私、いつもこうなの。もうおばあさんね、だめだわ。ええと、どこまで話したかしら?ああ、そう。そうね。
 私は名前をつけなかったの。ただ、箱って呼んでたわ。でも金髪で、かわいい顔をしていたのは覚えているわ。最初のうちはよく泣いたわね。そそうをしたら、ぶつかわりにうんとひどく箱ごと揺すってやるの。わかる?面白かったわ。甲高い声を上げて泣くと、私も仲間も声を上げて笑ったわ。ええ、そうなの。昼間は仕事場に置いてたわ。だってみんなが持ってきてってせがむんですもの。それに部屋に置いておいたら、勝手に出てしまうかもしれないでしょう?その点、仕事場なら、騒げばすぐに誰かがやめさせてくれたもの。いつも静かにしてたわ。


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- 2003年12月08日(月)



月光とガスボンベが落ちていた。
家の人々は寝静まっている。
私はそっとカメラを冷たい地面に置いて、軒先の視界を盗んだ。
これまで誰も見なかっただろう視界を盗んだ。


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- 2003年12月07日(日)



信号が青になった。アクセルを踏んだ。
空はもうさっきからほの明るい。東の空は薔薇色だ。
もうすぐ凍えた手も温まる。あと何キロで朝にたどりつくだろう。
並木が左手を流れて行った。歩道に夜が立っている。


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- 2003年12月06日(土)



冬の夜は青ざめている。
ヘッドライトの範囲だけが灰色に明るい道を果てしなく車を転がすのが私の夜だ。
あるいは外気にさらされ立ち尽し、露の湿った臭いと雲と星と月を見ているのか。
いずれにしても私は孤独で、私は一人。
町と人の世は外側にある。私は夜の中にいる。夜を過ごすのではなく。

助手席に転がっているカメラはときおり、私の独り言を呟く。


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- 2003年12月02日(火)

「マルコポーロの見えない都市」イタロ・カルヴィーノ著

 友人にこの本の存在の聞いてから、どうしても読みたかった。
 あらすじというほどのものもない。設定といえばベネチアの商人マルコが広大な帝国の主・フビライ汗に見分してきた帝国の諸都市について語る、というもの。
 しかしマルコが語る都市は経済や政治といった側面を剥ぎ取られ、非常に抽象的かつこの世界からかけはなれたシュールリアリスティックで奇妙な形をしている。それは一見して荒唐無稽である。何かの寓意のようでもある。だがある意味では、都市といわず存在というものはこのようではなかったかと思わせもする。

 存在。そうだ、存在。ある種の瞳があるものを、あるいはあるものとあるものの関係性を見つめたとき、こうした言葉以外では表現しえないのではないか? 言語はそもそも抽象を本質とする。ある思考回路がある世界を描いたとき、それはこのように見えはしないか? マルコが語る都市を私はどれも知っている気がする。

 私はどうも疑い深い性質で、私が見ている世界を横に立っている人が見ているとは思っていなかった。実際、私が赤と認識する色は、人に赤と呼ばれながら私の見るものと同じ色はしていないだろう。それは子どもの頃からの私の感慨だった。誰も私と同じものを見ない。私も誰かと同じものを見ることはできない。
 だから常に言葉は無意味だった。そもそもの情動と知識の最小単位であるパーツさえ共有しているとは信じえないのに、どうして何かを伝えることができるだろう。私は関係の不可能性、対話の不可能性を信じている。

 それをちょっと考え直すようになったのはカメラをいじり始めてからだ。私は最初、マクロレンズを大変愛した。これは愛といっていい。ただわずかなパーツ、目で見るわずかな部分をこの世界から分離し、純粋培養して一つの長方形の八割方を占めさせ独立させることができる。私はマクロレンズの見せる世界を愛した。
 しかし私は広角レンズの世界に出会った。これはマクロとは対照的な世界だ。そこでは世界を再構築することができる。レンズの歪みは一つの魔法だ。角度を変えれば世界が変わる。手前に置くもので印象ががらりと変わる。そこでは空間と世界を変えられる。もちろん扱いにくさはマクロの比ではない。私は目下、広角レンズの世界と格闘している。愛するというよりも恋している。戦っているのだ。

 カメラが描き出すのは私のメッセージだ。これは傲慢な謂いだろうか? カメラはそこにあるもの以外は映さない。レンズはその機能以外のことをしない。だがその世界の断面を、そのレンズで切り取るという行為はすでに一つの創造だろう。生まれるものは言葉と同様、ある一つの意味を持たずにはいないだろう。百万年も前から新しく増えたものもない日の下で、もう長いあいだ創造は無限の選択の中にしかない。

 だからいわせてほしい。カメラが描き出すのは私のメッセージだ。おそらくイメージ、写真というものは言葉よりは抽象の度合いが少ない。私は私の言葉を他人見せ、あるいは聞かせることは非常に恥じまた恐れるが、写真の方は見せたいとさえ思う。写真は明瞭だ、写真は読む上で誤ることが少ない。少なくとも言葉より。
 私は私の見たものを見せたいとき、黙って写真を示す。私はそこに非常に簡単明瞭で読む上で間違うこと少ないメッセージを載せてあなたに示す。それともこれもやはりあなたには何も伝えないだろうか? 多分そうだろう。

 だがこの一枚の写真、私の一瞬の視界の幽霊によって、私がこのように見ていたということをあなたは知ることができるだろう。関係性にも対話にも何の意味もないのだが。それともあなたはそこに意味はあると言うだろうか? それならこれもわかってくれなくてはいけない。写真は私に追いつかない。写真によって私の視界を共有しようとするなら、あなたは私と世界のしっぽだけしか見ないだろう。関係性と対話は「いま・ここ」にはなかなかたどりつかない。




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- 2003年12月01日(月)

 足銀破綻、イラクで邦人外交官射殺―。
 この週末は超ド級のニュースが相次いだ。総選挙を終えて発足したばかりの第2次小泉内閣は真価を問われることになるだろう。地域経済再生と自衛隊イラク派遣、この二つの課題は今年最後の難問となるのか、それとも次の年に向けた“宿題”であるのか。いずれにしても、厳しい。

 足銀破綻については「金融庁の陰謀」が早くも囁かれている。もともと足銀は不良債権まみれで公的資金注入が確実な状況だった。しかし大勢の見方だった預金保険法102条の1号適用(りそな方式)ではなく3号適用、つまり企業としての命脈を断たれ経営陣の総退陣と責任追及、0円での国の株式強制取得(つまり株券は紙くずになる)という最悪の事態を招いたのは繰り延べ税金資産の計上を拒否し、この決算書の結論を「債務超過」とした監査法人の判断だったからだ。そしてこの監査法人の判断には来年に控えたペイオフ解禁など金融庁が睨む一連の改革がある。足銀は金融庁による地域経済改革のためのスケープゴートとなったのではないかという憶測は自然だろう。いずれにしてもバカを見るのは納税者と株主である。


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