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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年11月30日(日)

山田邦子の姿をしばらく見ないと思ったら、
とちテレ(栃木県のローカル局)のショッピング番組に出てた。
…値段下がったな〜。

1:
テレビは見るが、ニュース以外はあまり見ない。
ショッピング番組にはちょいとしたカルチュアショックを受ける。

ニュース番組でテレビ局は●●省を疑い批判し政府を無能だと罵るが、
ショッピング番組では「●●省認定」があたかも万能のお墨付きのようだ。
テレビに一貫性がないことくらいわかっているが、
こうもあからさまだとむしろ笑ってしまう。

「価値」も「権威」も、都合のいいときだけ引用されるに過ぎない。


2:
必要なのは誰の視点だ。
ほんとうに必要なのは誰の視点だ。

大所高所から「それはなにか」を見る目はあたりまえのことだ。
だがそれではない。それだけでは足りない。

必要なのは血を流す誰かの目だ。
苦痛を負う者の目だ。不安を隠せない目だ。

逃げおおせた者の目だ。
してやったりとほくそえむ誰かの目だ。

おそらく複眼がいるのだ。
だが自分が誰かを忘れてはいけないのだ。


3:
どこへでも行ける。
何にでもなれる。
だが世界はつながっている。
何もかも見るには確実な視座がいる。


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- 2003年11月29日(土)

 私は辺りを見回した。私がいるのはまだ発見されていない地下の宮殿で、最後に閉じられたときに閉じ込められた空気は数千年をへて乾いた黴の匂いがした。音はどこからもせず、ただこの星が自転するごとに響くような耳鳴りだけが私の耳の中で鳴っていた。
 私は長い間、灰になった松明の並ぶ暗い道を歩いた。見上げれば、光のない暗がりの向こうに恐ろしく高い天井には銀や金で描かれた古代の空の星宿が錆び擦れてほの暗く浮かんでいた。両脇には粘土をこねて作った兵士たちが古代の武器をささげ持ち、古代の作りの屋根を載せた粘土の家々が蹲っていた。もう長いあいだ生きる者のいなかった街路を抜けると、私は海にたどりついた。
 水銀の海だった。丹の粉がいくらか浮いていた。私はしばらくそこに立ち、かつては柳の樹だった黒い炭素を靴底に踏んだ。目覚めるにはあまりに暗すぎる。


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- 2003年11月27日(木)

 闇の中だった。深い闇の中だった。地底の水路は網の目のように張り巡らされ、一匹の魚にすぎない●●●がどれだけ焦っても、光に至ることはできないかと思われた。水はときには氷のように冷たかった。ときには地底から発する熱と硫黄の臭気で鰓をつまらせるかと思った。何度か強い流れに巻きこまれ、そのつど鱗を剥がれる痛みとともに錐揉みになって押し流された。もう●●●は自分がどこにいるのかさえわからなかった。闇よりほかに何も知らなかったように思えた。魚でなかったことなどなかったと思えていた。
 震えながらようやく尾びれを動かし、●●●はわずかに前進した。その瞬間だった。縄を解くように周囲の冷たさが薄れ、そして鰓にもう忘れかけていた潮の香を感じ取った。●●●は狂ったように体をくねらせた。歓喜なのか絶望なのかさえ区別のつかない狂おしさに身悶えるよう体を震わせた。
 突如として闇が切れた。●●●は言葉にならない叫びを上げ、盲いるとも閉じまいと見開いた目ではるか水面に揺れる太陽を見上げた。太陽は緑がかって揺らめき、光は頼りなく揺れる細い筋となって●●●の傷つき血を流す体を照らした。それは●●●の見る最初の太陽だった。同時に最後の太陽ともなった。
 ●●●の死骸はあるかなきかの深海の流れに揺られ、腹を上にゆっくりと海面へと上っていった。白い巨きな腹にはゆらぐ光が柔らかい波紋を描いては滑るように流れていった。


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- 2003年11月25日(火)

……。


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- 2003年11月22日(土)



宇都宮にも紅葉が降りてきた。
奥日光より一月ばかり遅いようだ。あちらはもう雪も降った。
鹿沼から宇都宮に戻る途中、大きなケヤキの下を通ると、
落ちてくる木の葉が雪のようだった。



…………。



そーいやすっかり忘れていた。
母が一週間前に立ち去ったときにおいてった炊飯器のなかのごはん(ヲイ)。
好意が荷が重い。好意は場所と時間を取る。わたしはそんな余裕がない。
今のところ、私が耐えられるものはわずかだ。カメラと仕事とペン。
ナーバスになっている気がする。自慢にもならない。
しかもナーバスというものの処理法を私は知らない。


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- 2003年11月21日(金)



夕暮れがあんまり美しいので撮ってしまった。
角を曲がったとたんにビルの群が切れて空気がさっと金色になった。
夕暮れの美しい日は翌日の天気が悪いというけれど、
明日は大分とひどい風が吹くそうだ。

こんな金色の夕方は、目を覚ませない夢を見ている気になる。


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- 2003年11月19日(水)

テーマを決めて写真撮るようになったらもう抜けれない、と。
ずいぶん昔に言われたのを覚えている。

……。(もうとっくに抜けれない気がする)

と、とりあえず、テーマ。
1:天の一角、地の一隅(二枚セットで)
2:消失点
3:●●●の視界(●は適宜)


そういうわけだ。ま、ヒマができたらね。


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- 2003年11月18日(火)



天の一角、地の一隅。




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- 2003年11月16日(日)

死ぬなら単独自損の交通事故がいい。

時速100キロばかりで電信柱にぶつかったとする。
その瞬間、全てが凶器になる。世界の全て、一切合財。
その瞬間、世界の殺意を感じたい。

まずはシートベルト。肋骨に食い込み胸部を圧迫。肋骨胸骨骨折。
次にハンドル。胸を強打し、内臓破裂。
飛び出してフロントガラス。頭蓋骨粉砕。
さらに路面。あるいはあらゆる外部のもの。全身打撲。

世界の殺意を感じたい。

世界そのものを憎むことができるだろう。
アスファルトに横たわり、血に濁った水晶体の向こう側を見ながら。
そうだ、朝と夕べがどれほど美しくても。


扉を閉じて。


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- 2003年11月15日(土)



高架下で半分上向いて撮ればよかったのになあ。

こうした何気ない風景を何気なく撮ると全くポイントのない写真になる。
ポイントのある写真というのは、容易にある一つのイメージとして
理解することのできるものだ。つまりは消費可能ということ。

消費というのはなんや悪いことのように言われているが、
いったい消費不可能なものに価値などないのである。
消費しにくいものに価値を置くのはある意味ばかげている。

ばかげているが、ばかげているのが人間の価値である。
より高次の消費、より豊かな消費が可能なものが求められる。
ゆうかな、そんなん撮りたいなあて思うわ。


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- 2003年11月13日(木)

街は行き、人は行き、光は来り遠ざかる。


「どこへ行きたいとおまえが思っているにしろ」とAは言った。
「どこかへ行くことにはなるのだから、慎重に考えることだ」

「結局のところ、おまえも世界も」とBが言った。
「この宇宙の点を外れてどこへ行くこともできはしない。そう考えるな」


ああ、また、朝だ。


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- 2003年11月12日(水)




時は春、
春は朝、
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚雲雀なのりいで、
蝸牛枝に這い、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
     ロバート・ブラウニング「春の朝」(上田敏訳)



写真メモ:
日光東照宮近くの杉の並木ですね。
逆光…だと、どうしてこんな白っぽくなっちゃうんだろう。
やり方はあるはずなんだけど、今一つ思いつかないのです。
修行しようよ、修行さあ!


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- 2003年11月11日(火)



雨の夜。
『カッコーの巣の上で』において、
なぜマクマーフィは殺されねばならなかったのか。

これは実は私の抱える謎ではない。
割りに好きだった上司が映画の話でぽろっと漏らした。
答えが見つかったら、書きたいものだ。


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- 2003年11月08日(土)

福島って宇都宮より寒いよ!(北だもんな)
というわけで国内出張中の私でした。明日にはとんぼ返りだけどな(フ)。
しかしネットって便利。確かその昔、コルドバからもログインしたなあ。


1:
「テレタビーズ(英国の子供向け教育番組のキャラクター)たちは
 事前調査で子どもに最も好まれるように色や形を決めています」(NHK)

……怖いぞこいつら。

「この番組は英国はもちろん世界の子どもたちに好まれ、
 今も続く人気シリーズです」(NHK)

……へぇ…。


2:
大分、つかれてる。
あと、そうだなあ。この山は一週間。がんばろう。
やってできないことなんか、ないはずだ。

代わりに払うものがあったとして、あまり大きくないことを願おう。

どこへでも行けるし、何でもできる。
だからどこへでも行く。何でもやる。
修行だ、修行。(わっせらっせ)


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- 2003年11月07日(金)

黒と白のレンガ。

1:
なにかをできない理由はいくらもある。
その量たるや、いったい可能なことは存在するのかと疑うほどである。
だが現実に、一切はなされているのだし、なしうるのである。
親父がよく言った。できるかどうかじゃない、やるかやらないかだ。

なるほど私はやる。あるいはやろうとしている。
これは私にとって限りなく“無理”なのである。
そうでないはずがあるだろうか?

できないねそうだね、そんな同情が共感がなんの役に立つ。
ほかの一切を諦めれば私にだってできることはあるのだ。そしてやるのだ。
結局、覚悟だけだ。必要でそして意味があるのは。


2:
今一つよくわからんが。
知り合いがやってたんで、やってみた「金持ち頭脳診断」。
結果は「測定不能型」なんだそりゃ。

真面目に回答したはずなんだが…おかしいなあ。




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- 2003年11月06日(木)

夢の話:





1:
私は緑の深い池に囲まれた小島にいた。小島は石を積んで一つの城に作られ、
対岸は池よりもさらに深い緑の密林だった。光は斜めに射して水面を明るませ、
そして私は拷問吏を待っていた。私は拷問の後に殺されることになっていた。
物音ひとつない静かで平和な場所だった。私はもうすぐそこで死ぬのだった。




2:
広くもない部屋にはほこりが分厚く積もっていた。
窓や扉はくもり、ひび割れていたが外は見えなかった。
私はほこりっぽい空気の部屋の、ほこりっぽい床の上に立っていた。
私は周囲を見回した。もう外に出れないことはわかっていた。
外などないのはわかっていた。そこは世界の最後の残りなのだった。





3:
どこまでも続く廊下を私は走っていた。出口を探していたのだ。
無数の窓や扉はどれもほかの部屋に続くばかりで、外や出口は見つからない。
どれくらい走ったのかもうわからなかった。私はようやく外に続く扉を見つけた。
扉を開けると、空だった。よく晴れた空は夕暮れの黄色と青だった。
地上には黒々と無数の尖塔が立ち並んでいるのが見えた。塔に果てはなかった。
そこで私は足を踏み出し、遠い地上に落ちて、出口のない館を出ていった。


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- 2003年11月05日(水)



 大阪府河内長野市で今月1日に起きた大学一年生の少年(18)による家族三人殺傷事件にからんで殺人予備の疑いで逮捕された高校一年生の少女(16)のHPなるものを見た。あ、ただの自傷系のガキ。問題は少年だろ、なぜ少女で騒ぐ?

 親というものは古来あらゆる理由で殺されてきた。今更、今更。子供もまた古来あらゆる理由で殺されてきた。「太陽の下に新しきものなし」。他人と他人のあいだに「絆」という幻想、利害という現実を想定すればいろいろと起きるものだ。

 つまりはこういうことだ。誰でもどこへでも行けるし何でもできる。これは絶望でもなく諦念でもない。ただ私にはそう見える。だがそう見たくはない。





写真メモ:
「カナリアナス」、別名フォックスフェイス。原産地北米バージニアらしい。
 食べられません。鑑賞用です。黄色の明るさと形状で人気という。
 これは1日に行った益子町の陶器市で見たものですね。これもデジタル万引き?
 左側の実がちょっとさきっちょ切れてるのがもったいないのう。


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- 2003年11月03日(月)

切り口を工夫することだ。
核心まで読むものを導く、その糸口が必要なのだ。
一片の木っ端でもいい。いるのだ、それが。


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- 2003年11月01日(土)



太陽よ、と花が言った。私は美しいだろうか、それとも美しいのは露だろうか。
太陽は言った。私は知らない。しかし美しいものがここにあること、
それだけはわかる。そして、それだけではいけないだろうか。
露が答えた。それはあんまり大雑把じゃないですかね。


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