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終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年09月30日(火)

夜半に至り、朝への旅路をたどる。

意見の食い違いほど面白いものはない。
だから私は考える。彼女が見て私が見ないものはなにか。またその逆は。
私が愛して彼女には力を及ぼさないものはないか。またその逆は。
私が見るものと見ないもの、私が愛するものと気付かないもの。

ここにあるものとないもの。
いかん、三連徹はツライ……(ふら)


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- 2003年09月27日(土)



扉というのはいつでも奇妙なものだ。
壊れた扉はなおさら奇妙なものだ。


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- 2003年09月24日(水)



華厳の滝を見に行ったら、霧で何も見えなかった。
なので「何も見えない」を撮ってみた。
……というのが上の写真である。


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- 2003年09月23日(火)



まきざっぽう。<…ざっぽうってナンだ。
実はこれ、うちの近所です。
どんな田舎かと思われる向きもあるでしょうが、県庁から数キロ、都会です。

「木だったもの」臭さを出すにはどうすればいいんでしょうか。
「木」ではすでになく、「まき」にはおさまりきれない、
名前と名前のあいだ、そのあわいの不気味さ。
細部に迫るのか全体を捉えるのか。
陰影を借りるのか、曖昧模糊として暗さのなかで形の奥にあるものを見せるのか、
こればかりは概念や定石を追っても始まらない。
モノとの対話があるばかりだ。レンズを通した。
そして多分、「あわい」などというあいまいな言い方をしてるうちは撮れない。

結局、「木らしさ」からの断絶、あるいは「まき」らしさからの逸脱、という、
そういう形以外でこうした不気味さは示せないだろう。

勉強しよう、勉強。でもって三脚かつぐ手間を惜しんではならない。くう。



………………………………

緊張感だ、緊張感。
仕事してんだから。(独り言)


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- 2003年09月21日(日)


暗い神の肖像。

神が幸福だと誰が決めた、と、彼が言った。
神は不幸な片輪さ。わかりきったことだ。世界を見れば。
私は答えなかった。この世界と神を愛していたからだ。


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- 2003年09月20日(土)

雨の誕生日。
そして誕生日おめでとう、安室奈美江、中田宏、悪友A。(敬称略)

足尾の廃村に写真撮りに行くつもりが雨に降られて二本立て映画デー。
ついでに立ち寄った本屋でずっと探してた本二冊発掘。
まあまあいい誕生日だったんじゃないでしょうか。
…そこ、寂しいとか言わないように。

そもそも誕生日というのはみんなが祝ってくれる日ということになっているが、
ビミョーに私にはあんまりいいこと続かなかった気がする。
弟がいきなり入院したり、前の日にじーさん死んだり、
次の日にばーさん死んだり。…ほんといいことないな!
それでも子どもの頃までさかのぼれば、
友達みんな呼んでパーティー開いてもらったりしたこともあるんですが。
そろそろ自分で誕生日を祝ってもらえる状況作らないとなあ……

さて、探してた本というのは
ミステリ「時の娘」、ファンタジー「グリフィンの年」。(既に読了)
見た映画は、
「座頭市」「トゥームレイダー2」。
一日の収穫としてはいいんじゃないでしょうか、それなりに。


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- 2003年09月19日(金)



だからなんでこんなものを撮るわたし。
「微妙に変なアンテナ立ってるよね」<某カメラマン曰く
場所は奥日光・中禅寺湖の湖畔です。
観光客、奥日光来てまでスワンボート乗んなや。

そういえば、着信音を「へぇー」に変えました。
いわずと知れたフジテレビの情報番組「トリビアの泉」のアレです。
首から下げてるケータイが「へぇーへぇー」言います。
ごっつ脱力系。上司の着信でもいい感じに肩から力抜いて出れます。
でもヘンなときに鳴ったら命取り。鳴らしたけどな。<鳴らしたのか
入れたい方はフジテレビのページにどうぞ。
まだ無料で配布してるはずです「へぇー」。
あ、でもau以外はどうか知らない。多分大丈夫だろう。


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- 2003年09月18日(木)

『こんなことは取り返しがつかない』

例えば時計のネジを巻き忘れて、家に帰ると止まっている。
私はどうにもかわいそうになる。そうじゃない。
この相棒が、私と同じ時間を刻んでいなかったことが少し残念になる。
こんなことは確かに取り返しがつかない。(などと孫引きネタしてみる)


上司が有能なんだか無能なんだか善人なんだかいい加減なんだかわからない。
以前の上司は一年生の私に「完成品を出せ」とのたまった。
今の上司は「まあ、手直しには私の趣味も入るからねー」とおっしゃる。
……このギャップ(眩暈)
以前の上司に直された部分をたんねんに見ていくと、
完成品とは何かが確かに見えた。それは勉強になったものだ。
しかし完全主義者にはつきあいきれん…(ほか大勢も同意見な)
現在の上司は、なんだろうねえ、レベルは確かに前のが高かったなあ。
そして求められているものがなんとなく明確でないのでやりにくさもある。


あ、いけね。仕事のグチになっちゃった。


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- 2003年09月17日(水)

愛されたいなら。

どうだろう、『わかってもらう』努力をするべきなのか?
それとも『愛されるよう』努力するべきなのか?

うろおぼえなので引けないが、ニーチェは後者の立場を取った。
そして私もそちらの立場を取る。むしろそれはごくあたりまえのことだった。
『私自身』というのはそのままでは愛されるような代物ではない。
私を『わかって』もらったからといって、私が『好かれる』とは限らない。
そんなのはあたりまえではないか。人は愛するに価するもの以外愛さないものだ。

『わかって』ほしいと言う人間を私は多少なりと生温い目で見る。
だって、それは『わかって』『愛して』ほしいという欲求ではないのか。
そんなのはムチャなことだ。だってあなたは愛されるに価するものではない。
醜さまでも愛してほしいなどというのは愚かな望みだ。
そんなのは人間には不可能なことだ。

相互理解はもっと乾いたものだ。それは情愛には属さない。
乾いて論理的で美的で厳しい。私はそっちの『わかる』ことならしたい。
厳しく自らを切り裂き言葉に直し、可能な限り理解を深めたい。
他者のいかなる願いを持ち世界をどのように理解しているかを知りたい。
だがそれは『愛』を求めるのとはまるで違うことだ。
そこは人間の住み家だ。厳しく強い人間の住み家だ。
それは『愛する』ことへの強い願いだ。私はそういうのが好きだ。


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- 2003年09月15日(月)

ん。


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- 2003年09月14日(日)



というわけでスカイダイビングに行って来ました。<仕事しろ
ちなみにこれは私ではありません。あたりまえですが。

スカイダイビングというのは要するに、
空飛んでるヘリからスポーンと飛び下りて、
地上に激突する前にパラシュート開く、というだけの遊びです。
プロはどうか知らないが、芸のない素人にとっては単純だ。
しかしもちろん、最初から一人でやらせてもらえるわけがない。
今回は二人羽織のように後ろにインストラクターについてもらって、
彼が空中でのサポートとパラシュートの扱いをしてくれました。
というわけでメモ。

栃木県藤岡町の渡良瀬運動公園、午前10時。
風は強く30分も待った後、ヘリは「地獄の黙示録」さながら飛び立ち、
地上3000メートル、ヘリを飛び出した瞬間、私の視界はくるりと一回転。
ヘリが太陽を背に無機質に輝き、飛び去って行くのが見えました。
そう思ってからすぐに、離れて行くのは私であると思い直しました。
地上は明るく地平までも明瞭で、山々は青黒く、風は私に重く叩きつけ、
そしてこの手も足も、大地のいかなる部分にも触れていないのでした。
地上1000メートル、私の背後でインストラクターがパラシュートを開き、
私は空に引き上げられ――そうではなく落下の速度が緩んだだけで――
あとはゆっくりと落ちていきました。地上は見知らぬもののようで、
勢い良く落ちた私の下でつぶれた草の匂いがしました。




凄まじく晴れた日でした。
空から落ちるには絶好の日だ。
カメラ持って飛びたかった。(苦)


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- 2003年09月13日(土)



東照宮に行って来ました。<で、なんでカメ
いや、いっぱいいたんでカメ。あちこちにカメ。ウロウロ(ウソ)とカメ。
豪華絢爛な装飾より気になったカメ。




こっちはまだマシ?
ああいやでもモノクロームっぽい。
奥の院です。
超一流の超一流たる理由は細部まで完全であること。
完全さをはかる唯一の指標は、どれくらいの細部まで完全に作られているか。
構図として好きだ。


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- 2003年09月09日(火)



なぜ火星と月大接近の日に落日なのか?
火星の写真はいいのん撮れたんですよ。
でも、諸事情によりオクラ。
見たい人は直接言うように。

これも、でもいいでしょう。
ちょっと日本画のような平面感がある。
写真のいいところは、撮る人間がどれだけ考えたとしても、
できてくる写真はそれらすべてを裏切るところだ。


いずこなるやかの地、と、太陽は言った。
おまえは憧れなのだ、と、月が言った。
行くと言ってどこへ、と、火星が言った。
そして私は途方に暮れる。


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- 2003年09月08日(月)



火事ですな。
えらい派手に燃えてました。

私はひとが傷つくのが嫌いである。
にも関わらず、火事場は高揚する。妙なことだが。
人が営々と築き、計算し、作り上げてきたものが、
いうなれば明日の仮定と昨日の累積が、目の前で崩壊していく。
火炎が飲み尽くしていく。あざ笑いはしない。
厳格な職人のように、黙々とまた粛々と、順序正しく例外なく。
高揚する。多分これを言葉にしてみたらこういうことだ。

――生は生にすぎず、死は死にすぎない。意味などなかった、ほんとうは。

それがなぜ高揚につながるのか?
いや、そりゃー…
あるがままのものがあり、あるがままのものしかないということは、
どこか爽快なものだ。人間の意識と慣習と歴史の営々と紡いだものが
一蹴され消尽され、あったこともなかったようになる。
しがらみすべてが断ちきられていくようだ。
そして私は確認するのだ。

ここはやはり砂漠だったと。なにもなかったのだと。
…妙な話だ。


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- 2003年09月04日(木)

そうか、そういうことか。

私は誰かにわかってもらいたいと思ったことがなかった。
切実に理解されることを欲求したことがなかった。
そのために努力したことがなかった。
そうか、そういうことか。

誰かにまた何かに理解されたいと欲求する、
そのモチベーションが私にはなかったのか。
いんや、多分わたしはやってみる前から諦めていた。
第一にそれは直接には何にも役立たず、
第二にそれは極めて困難で成功というものはおよそありえない。

さてそうとわかった上で、私は誰かにわかってもらおうと思っているか。
誰かの理解を切実に欲求するようになったか。
……どーもそうとは思っていないようだ。
それは誰かもしくは何かがいないからか、ないからか。
どうもそうとばかりはいえないようだ。

自己表現というものを私は必要としたことがない。
それはなぜか。多分私は私というものがいると信じているからだ。
神というものの目から見たときに私がいると信じているからだ。
だから私は人間の理解を切実に欲求しない。
ここにいることを「知」り、それに「満ち足り」ているものが、
いったいほかに何を必要とするわけがある?

だが私は写真を始めた。
私は色と形と構図と格闘している。
悔しがり、喜び、ファインダーと四角い紙の上の世界を愛している。
(だからそのセリフは正しかった。私はカメラと浮気をしている)
ここに一つの謎がある。苦い問いといってもいい。


これは誰への供物だ。もしくは何への。


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- 2003年09月03日(水)



そしてやっぱりこれか!
マクロ好きめ…

えーっと。誰にともなく言い訳すると、
構図で遊んだものも幾つか作ったんです。
でもなんとなく、力強さに欠けていたので、結局コレ。
なんだろう、マクロってわかりやすいから、
その分見たときいいなあと思える。
構図モノは…なんというか、頭でいいなと思うので、
ぱっと見で迫力がない。
ので、選ぶときに…ねえ。
ネットに上げると小さくするし。

半透明な植物の半透明さ加減が出てるので、まあいいか。
レフ欲しい…。
構図リベンジ…大谷へ行きたい。



マムシグサ。努力の痕跡。


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- 2003年09月02日(火)



ギンリュウソウ、花の咲く前。
幽霊茸という別名の通り、幽霊っぽいですな。
明日また行くからもうちょっと写真ぽく撮影してきます。
これでは植物標本だ。
時間ないとどーしてもなあ……

写真らしく撮りたいとき、
相手が動かないとなったらもう一時間ぐらいはへばりついてます。
頭を使う…構図と意図と。

あ、これ、広角レンズ。
構図を自在に使えるようになったら、きっともっとなんというか…幅が広がる。
新しい世界を予感すると、明日が楽しみになる。


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- 2003年09月01日(月)



マクロレンズって大好きだ!

望遠レンズ→マクロレンズ→広角レンズ

このレンズを揃える順番が、なんとなく私の性格を象徴している。
つまりイノシシということだ。
私が一番苦手でしかも一番上達しにくいのは、論理的把握だろう。
集中力はあるんですがね。突進力もね。

……しばらくマクロレンズを封印するかな。
それともいっそマクロレンズオンリーに……。(バカに磨きがかかるぞ)


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