- 2003年04月30日(水) だれだ!だれだ!だれだ!空の彼方に踊る影…♪(Cガッチャマン) おーもーいーこんだーらー…♪(C巨人の星) なつかしのアニメをTVKが夜中に再放送しているので、 思わず楽しみにしてる私。 (EX:巨人の星、ガッチャマン) どう考えてもリアルタイムでは見ていないはずなのに、 懐かしのアニメ特集なんかで見なれているせいか、妙に懐かしい。 現在がレトロブームなせいかもしれない。 ところでどうよベルクカッツェ。 このタイツ覆面男よぅ… ベルボトムの類が流行ってるからほかのキャラが違和感ないだけに、 このヘンタイ男異様だよ…部下がいい味と鼻水出してるし… あと全体にバタ臭いなあ、顔立ちが。 半分ヤンキーみたいな顔してるのはなんでだろ。 初出の年代がわからないからなんともいえないけど、 アメリカへの憧れが残っていた時代なのかな… 劇画タッチというのでは片付かないや。 巨人の星は…星は…いいんだけどさ。 うん、いいんだよ… 伴宙太と飛雄馬がホモで花形が左門とデキてても(ヲイ) ナレーションと独白が無意味にキョーレツだ… こういう浪花節(?)というか、 激白的な冗舌な構成って今はあまり見ない。 アニメが本流だった頃、というニオイがする。 ストーリーも絵もみんな。 - - 2003年04月27日(日) パンダの一生。 1: あー…パンダはクマである。 それを間違えちゃいけません。 いわんとするところは? ―凶暴です。 2: スティーブン・J・グールド、 少し前にお亡くなりになったこの著名な生物学者の著書に 「パンダの親指」がある。 パンダには指が六本ある。 しかし構造をよく調べていくと、 この「六本目」は、もとは指ではなかった。 どんな名作にも負けない、じつにワクワクする書き出しで書物は始まる。 パンダが六本指になった理由を、グールドはこう説明する。 パンダはクマである。したがって親指と残りの四本の対向性が失われている。 対向性とはつまり、向かい合わせてものを「掴める」機能のことだ。 しかし、パンダの主食量のササの最も効率的な食べ方は、 ササを「掴ん」で、葉をしごきおとすことだ。 ところが、短くなり対向性を失った元・親指は、 もうその適応の過程を戻ることはできない。 そこでパンダは―遺伝子は―自然淘汰は―手首の骨の一つを進化させた。 それはもとは小さな骨片だったが、指のように突き出した。 パンダは今はそれを使ってササを掴み、葉をしごき落としている。 スティーブン・J・グールドは言う。 適応は後戻りがきかない。 あるものを使って必要なものをつくりだしていく、と。 3: さてパンダ。 もう一度言う、パンダはクマである。 しかるがゆえに凶暴である。 クマがなぜ凶暴かというと、簡単にいうと社会生活を営まないから。 それではあまりにあまりとおっしゃるなら、うーん。 よく知られていることだが、社会を持たない動物は、社会的抑制を持たない。 つまり人間の語彙に従うなら、慈悲もなく赦しもない。 クマは独居性の動物だ。 同類に会うのは性衝動の高まる交尾期だけで、 そのときは性衝動がすべてに勝る。 だから、彼らは攻撃を抑制することを学ぶ必要がない。 ゆえに彼らはそれらを持たない。 しかもタチ悪いことに、彼らは愛くるしい。 ベアバックかけたくなるほどには愛くるしい。 と、いうわけで。 パンダを見たら逃げることです。 ―あいだにガラス窓がありゃ別だけど。 - - 2003年04月25日(金) So-what? 恩師はたびたび言った。「それで?」 私はなで斬りにされて果たして成仏。 結局のところ― 現実に即さない思考、検証不可能な思想、現実に帰らない思案は無意味。 ―それが私の学んだ学問だった。 つまり私の思考と思想は「いかにして」を出たことがない。 思想がいくつあろうと、現実は一つしかない。 この場合の現実は、例えば数字だ。 アフリカでは餓死する人間が年間●人。 アメリカで消費される小麦の量が年間●トン。 どこになにがあり、なぜあり、どうなってゆくのか。 現実は一つしかない。思想はここではモノの役に立たない。 そしてその先もそうだ。 どうしたいのか、どうあるべきなのか。どうすればいいのか。 あまりにもかっちりと区切られた「現実」があり、 パワーバランスがあり、限界がある。 このような世界では、結論のない議論は問い返されてしかるべきだ。 「―それで?」 今でも背中を伝った冷や汗が生々しく蘇る。(←元ダメ学生・現ダメ社員) - - 2003年04月23日(水) あ、ムカつく… 「シャングリラ病原体」 買うな、みんな!つまらんから! 1: 基本的にサイコスリラーとバイオホラーが好きである。 遺伝子なんていわれるとそれだけで喜ぶ。 …が。 これはダメだろう。 怖くないじゃん。ぜんぜん怖くないじゃん。 2: 冒頭はいいんである。 南極の基地で発見された四つの死体は、どれも異様な老衰状態だった… ところが描写にワクワクしない。 いや、死体の描写はいいが、イマイチ南極の基地について はっきり目に見えない。あんた調べずに書いただろう、という… さて、物語は恐怖のウイルスの出現を隠そうとするホワイトハウスと その結成した科学者のチームで進行する。 恋のさやあてとかあったりする… ダメだろう、それ(涙) 被害者250万人と大風呂敷広げるなら、 パニックになる人々、それによって分断される世界、 混乱とそれに対処する現場の荒荒しさ、そういうものがないとだめだろう! ないんだ、これが… 3: どこで発生している、とするなら、 その国がどういう状況になってその国の政府がどういう対処をして、 現場にあたる人間がどう奮闘しどう混乱し倒れていくのか。 それらがなければリアリティがない。 リアリティは発現の現場だ。 それを欠いてなにが怖い。 スティーブン・キングの偉大さを思い知りました。 あのひとの物語は、怖いのだ…。 あーともかく。 買うな、金のムダだから。 - - 2003年04月19日(土) オン・ジ・アザーハンド。 ここにいる。 あらゆる言葉、あらゆる限界を超えて問い返される。 ここにいる。 あらゆる思想を超えて引き戻される。 ここにいる。 これは祝福か呪詛か。 ここにいる。 それはペニシリンの周囲に引かれた消毒液の環のように、 私をそれより先へは行かせない。 ここにいる。 そして私はある朝に言う。 かくあれ。かくあれ。 そして人生がこのようなものであるなら。 それなら。――よし、もう一度。 - グレン・グールドのバッハ - 2003年04月17日(木) 音楽とその亡霊。 1: グレン・グールドは『歌う』。 それは鍵盤を経て紡ぎ出されるものだけではなく、 その残響も含む――つまりは歌だ。 彼のアルバムは聞くものによっては耐え難い。 つまり彼がピアノを演奏しながら歌うからだ。 澄んだピアノの響きには、亡霊のように彼の声がついてくる。 2: 私はおよそ音楽については素人だが、 しかし彼の演奏を聞いていると無闇に苦しい心持になると言ってもいいだろう。 そう言ってもしったかぶりをしているということにはならないだろう。 およそ耳のある人間なら必ず気付くからだ。 その残響、その亡霊は。 指先が奏でる純粋な音、美しい音の影だ。 人間がその全身を振り絞って人間以上の音色、調べ、美を創り出すそのとき、 置き去りにされた肉体の発する倍音なのだ。 3: グレン・グールド、バッハを弾いてこのうえなき名手。 彼は肉体を置き去りにしてこの世を置き去りにして、 別世界にあった。つまりは音楽に。その導く彼方に。 だが顧みられることなくとも肉体はそこに存在し、 人間は肉体を通すことなく世界に触れることはできず、 そして魂と技能のすべてが別世界を目指すとき、 ――影がそこに生まれる。 - - 2003年04月16日(水) 「彼は別世界の感情にとりつかれている」 『音楽新報』が異才のピアニスト、グレン・グールドを評した言葉 1: 別世界の感情、別世界の意思。 それは致命的だ。 生きることとそれに付随するすべては、 それに耐えられない。 それとはなにか。 人間を人間性の彼方に運ぶものだ。 人間を人間社会の外に引き出すものだ。 沈黙を酒席に運ぶものだ。 2: だがそこで思考停止をしてはさきに行けない。 もとより行くことはできないものであるのかもしれず、 行くことは冒涜(ぼうとく)であるのかもしれないが、 だが、先へ行ってみよう。 別世界の感情、別世界の意思。 わたしはそれを知っているだろうか? それを感じるときはある。 では、例えば? 私自身のそれについて言えば、 理由のない寂しさ、哀しさ。 そして行き先を知らない熱情。 『ここにいること』に対する根深い疑問。 死に対する飽くなき憧れ――タナトス。 (私はどうにも、生物学と心理学と哲学の語彙がごっちゃだ) - - 2003年04月14日(月) 『戦場のピアニスト』 1: 受動的な主人公である。 ともかく、逃げるほかなにもしない。 しかしあらゆる苦しみを味わい尽くし、 失いうるものを失い尽くし、 一切の抵抗が無意味であると見続ける彼は。 画面の中でその意味を劇的に変えていく。 それとも私たちの意識の中で変わっていくのか。 終盤、彼が廃墟と化したワルシャワをよろめき歩むに至って、 突き付けられるすべてを飲みこみしかも受け入れ続けるに至って、 極度の能動性が二重映しに見えてくる。 2: ユダヤ民族はこのような虐待、抑圧を受けてきたのかと。 弾圧の最も剥き出しな形とはこのようなものであったのかと。 白昼に顕現する人間の悪とはこのようなものであったのかと。 衝撃は重く哀しかった。 映像は迫真だ、この言葉の意味がわかるだろうか。 迫真、真に迫っているのだ。そこに生きる人々の温度が聞こえてくるのだ。 さて、話を戻そう。 彼はさまよい、食糧を求め、獣のように隠れ棲む。 彼は発見され、音楽を「命じられ」、奏でる。 彼は与えられた食糧を食べ、身を潜める。 彼はほとんど、意味のある言葉を発しない。 自らの意思をあらわす行動を行わない。 彼はあらゆるものを享受し味わい苦しむことで、 限りない能動性を感じさせ始める。少なくとも私はそれを感じる。 ラストで鍵盤に向かったとき、そのとき。 ピアノとその音楽によって彼は表現者となり世界に対する能動性を持つ。 彼の能動性とはそれだ。表現者の能動性だ。生活/存在者のそれではなく。 彼はその生活において受動し、だが世界に対し表現において能動する。 3: 私は。 私はどうするだろうか。 道は決まっている。 - - 2003年04月11日(金) 『蝶の舌』 1: 少年は叫んだ、 「アカ! 不信心者!」 「ティロノリンコ!」 「蝶の舌!」 そして石を投げた。 老人は青ざめ、絶望し、そして運ばれていった。 その後、彼らはけっして出会わないだろう。 スペインのクーデター前後に題材を取った映画『蝶の舌』を思い出す。 何を見て? ニュース番組だ。 イラク、バグダッド市民のいわゆる”喜び”の表情を見てだ。 『蝶の舌』を見ていない人は、ここから先は読まぬがよろしい。 2: 『蝶の舌』の主人公は少年だ。 彼は大好きな先生がいる。 老いた教師だ。妻を亡くし、今はただ教育に情熱を傾けている。 教師は共和党だが、それは少年の父や村の多くの人も同じだ。 民主主義を掲げる共和党に、教師はより幸福な世代を夢見ている。 日々は平穏に流れ、少年は教師に多くを教わる。 蝶の舌はぜんまいのように丸められていることや、 蜜吸うときには長くのばされるをことを。 オーストラリアにはティロノリンコという鳥が住み、 その鳥は愛する恋人に蘭を贈るということを。 日々は常に先立つ日々よりも美しく、 訪れる夜は先立つ夜よりも美しいと少年は信じている。 クーデターが起きた。 少年の母は父を守ろうとする。 党員証を焼き、書物を焼く。 少年も父を守らねばならないと知っている。 彼らは教会に行く、不信心者ではないことを示すために。 彼らの眼前に村の主だった共和党員が引き出される。 彼らは荷車に載せられる。老教師もまた上る。 母は石を投げる。父を守らねばならないのだ。 誰よりも、ほかの誰よりも「共和党員でない」ことを示さねばならない。 少年も知っている。父を守らねばならない。 石を投げねばならない。罵詈雑言を投げねばならない。 誰よりも、ほかの誰よりも「共和党員でない」ことを示さねばならない。 そうだ、共和党員の子が共和党員に石を投げるわけはないではないか。 そして少年は石を投げる。だから父は共和党員ではないのだ。 老教師は荷台にのせられる。 少年は彼に石を投げる。 なぜなら彼は熱心な、誰よりも熱心な体制派だからだ。 そうでなければならないからだ。 彼の父を守らねばならないのだ。 だが少年は自分自身を許さないだろう、もう二度と。 日々はあの輝きを取り戻さないだろう、もう二度と。 老教師はほどなくして死ぬだろう、絶望のあまり。 そうさせたのは少年だ。彼なのだ。 ――そして冒頭に戻る。 3: つまり、映像を信用するなということ。 昨日サダム・フセインを恐れて鬼畜米英呼ばわりしていたのだ。 今日は米英を恐れてサダムの像を踏むだろう。 彼らは昨日までは誰よりも、誰よりもサダムの民でなければならなかった。 今日は誰よりも、誰よりも親米でなければならないのだ。 生きること、愛するものを守るためには、主義など何だというのだ。 他人などなんだというのだ、裏切りがどうして悪い。 弾圧とはそういうことだ。 弾圧のもとで生き延びるとはそういうことだ。 オウムの話をしよう。 あまりに長い間閉じ込められていたために、 彼は解き放たれてなお、止まり木を離れることができなかった。 そして彼らは。 彼らは知っている。 彼らの上に掲げられたのは、結局のところ――米国曰く、自由。 これまではサダム曰く、自由だった。 なにも変わってはいない。 - - 2003年04月10日(木) 内気で”もっさり”した少女の話をしよう。(私ではない) 1: 彼女は戸惑う。 十歳かそれぐらいの年だ。 彼女はふいに戸惑い、周りを見まわす。それから自分を見る。 いつの間にか腕や足や胸、胴にもったりした脂肪がついている。 脇や下腹に濃い毛が生えている。これはいったい、何だろう? 知識としては知っている。 だが回りの女の子たちは、まだ小柄で、ほっそりとし、 そして子供のままの鋭利な輪郭をしている。 彼女は戸惑う。彼女はも少し子供でいたいと感じている。 彼女は鏡を見る。 花柄のプリントの靴下が似合わない。 かわいくて大好きだったフェリックスのTシャツがきつい。 彼女は自分に言う。私は太ったんだ、それだけだ。 痩せればいい。 2: さてここで彼女は致命的な間違いを犯した。 彼女は変化を変化とせず、”太った”というマイナスだと決めた。 彼女は自身の原型を、おそらくは八つの少女においた。 彼女はその姿に戻るよう、努力をする。 それでも似合わないのは知っているから、 彼女は巧妙に服を選ぶ。 大人っぽくない――でもこっけいには見えない服。 彼女は髪を整えたりしない。 彼女は八つの子供のように、そのときのままの髪型を保つ。 体は彼女を置いて一人歩きしている。 体からは余計な脂肪が落ち、女性の体になった。 腰はくびれ、胸は突き出し、顎や頬はほっそりとした。 それでも彼女は考える。 こうじゃないはず。 3: 彼女は子供の姿に戻りたいから、 子供のように振舞う。 最も彼女は子供ではないから、 まるきり子供のように振舞えば滑稽に見えるのを知っている。 彼女は戸惑っている。 体は彼女を置いて大人になってしまった。 周囲は彼女を大人として扱う。 彼女はどうにかそれにあわせる。でも彼女は言う。 私は子供だ。 ――しかしそれはもう、真実ではない。 回りは彼女を、少し変なヤツだと思う。 彼女は恋もする。 そのひとを見て胸を痛めもする。 だが彼女は子供なのだ。少なくともそのはずだと彼女は信じている。 だから彼女は自分に言い聞かせる。 まだ早すぎるわ。 そして彼女の恋は芽生えた矢先に彼女によって摘み取られる。 4: そして彼女はどこへ行くのだろう? 彼女は子供に戻れない。 彼女は戻れると思っている。 彼女は… 多分一人で死ぬだろう。 生きたこともなかったようになるだろう。 ある一つの間違いが致命的な場合もある。 - - 2003年04月09日(水) バグダッド陥落。 1: 巨大な大統領の像がゆっくりと倒れ、 力尽きたよう台座にぶら下がった。 それから少し間をおいて、心棒をさらして像は落ちた。 平安の都よ、千夜一夜の都よ。 かつて繁栄を誇ったおまえを打ち砕いたのはモンゴルの軍勢だった。 そして今日は迷彩服を着た金髪の兵士たち。おまえの上に歴史は廻る。 人は生きることも、死ぬこともやめないようだ。 2: サダム・フセイン追跡。 ……が、今後展開されると思われる。 しかしそれはもはや大きな問題ではない。 アフガンを見るがいい、オマル師の行方は忘れられたままだ。 結局のところ、この戦いは、 イラク(=石油産出国)から反米政権を追放し核の脅威を取り除き、 親米政権を打ちたてることがゴールであった。 だから、これより後は補足に過ぎないのだ。 イラクについてはそれでいい。 3: 問題はアラブだ。 アラブ各国首脳は知ったはずだ、彼らの論理でやっていけば、 イラクのようにアフガンのようになる。 彼らは親米を選ぶしかない。 アラブ各国国民は知ったはずだ、米国はアラブを蹂躙することを躊躇わない。 彼らは米国を憎むだろう。各国の親米政権は根強い叛徒を抱えるだろう。 彼らは忘れるまい。 この戦いはいかなる意味を世界史に持つだろうか。 そして。 4: 彼らが死なねばならなかった理由をどうか、 誰か教えてくれ。 - - 2003年04月08日(火) 私は修道僧になりたかった。 …と書いたら、尼僧の間違いだろうとつっこまれるだろう。 いや、でも、シスターはもちっと違うだろうとか…(ごにょごにょ) 1: 「神の花嫁」になりたいわけではなかったので、 私は修道僧になりたかった、というのが一番正しいと思う。 「世俗」一切を忘れてしまえればと、 生きるということに伴うあらゆる侠雑物を取り除いたとき、 そこになにが見えるだろうかと―― そこに見えるものを見たいと―― そう、思った。 …が。 反面、私は世俗が大好きだ。 とはいえ私は「世俗」に生きない。 私はそれを見るだけだ。 それら全てを見ていたい。 愛や憎しみや犯罪や死を。 というわけで、私は修道僧になりそこねた。 2: あらゆる「生活」「世俗」を取り除き、 ――私の常に感じている「何か」だけを相手に生きること。 「生活」と「世俗」を見つめ、 そこから――まさにそこにこそ、私の知っているものを見つけること。 どちらも最後には気が狂いそうな…。 - - 2003年04月03日(木) Day by Night. (日毎夜毎に) 1: 過ぎ去ることと変え得ぬこと。 もはや夢見る余地はなく、もはや繰り返し得ぬこと。 戻り得ぬこと。 私は生きるに際しておよそ悲壮ということを知らないが、 ただ過去というもののあまりの取り返しのつかなさは恐ろしい。 死はその最たるものだ、誰もそこから戻らない。 ただ苦くも苦く、現在だけを踏み。 その一瞬一瞬を、後悔を要さないものとして過ぎ去らせることが、 それだけができることだ。 それだけしか、できないのだ。 2: 私が家を出るにあたって、母はいつも泣く。 そして父とともに――飛行場から、駅から――家に帰っていく。 そのとき、昔は仲がよろしいとはとてもいえなかった両親が、 ――私という娘を失い、弟もまた巣立ち――周囲の全てを過ぎ去らせても、 ただ互いだけを伴侶として失うことなくともに行くと決めた最初の姿が見える。 夫婦とは、つまりそういうことなのだ。 いさかいは人の常、だが彼らはともに行く。 ほかの全てを過ぎ去らせても、どちらかが倒れるまではともに。 そしてどちらかの倒れたときは―― ――いまひとりはそこに永久に自分の一部を立ち止まらせることとなる。 彼(彼女)はほんとうに、そこより先には行かない。 - - 2003年04月02日(水) とりかえしのつかない夜。 2: 時を止めるには死ぬしかない。 時を戻すことはどうにもできない。 とりかえしは、つかない。 昨日も、今日も、みんな。 もう起きてしまったことなのだ、もう取り返しはつかない。 ここは魔界か、違う現実だ。 眠りとも現とも悪夢ともつかない思考が考える。 気付けばパジャマは汗にじっとりと湿っている。 助けてと叫びながら誰も何も助けることができないことを知っている。 とりかえしのつかない夜。 -
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