ケイケイの映画日記
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2013年10月31日(木) 「魔法少女まどか★マギカ 新編叛逆の物語」




正しく「続編」でした。でも個人的には大いなる蛇足に感じます。完璧な「愛」を観せてもらった「前作」のラストから、奈落の底に落とされた気分。但し前作には及ばなくとも、これはこれで語りがいのある出来ではあります。

マミ・まどか・さやか・杏子の魔法少女たちが、ナイトメアと闘う見滝原と言う街。彼女たちが通う中学に、ほむらという少女が転校してきます。彼女もまた、魔法少女でした。ほむらを歓迎する四人の少女たち。まるで部活のように、ナイトメアと闘い友情を深めていく五人ですが、ほむらはこの世界に違和感を感じ始めます。

冒頭30分、美少女戦隊モノのノリの映像が続き、ちょっと苦笑。この作品がカルト的人気を呼んだのは、元はこの手の作品の支持者さんたちが騒ぎ始めたから。お蔭でこの作品に辿り着けたんだからと、そこは我慢の時間。但し映像の方は前作より凝っていて、進化していると感じました。

前作を観ている人は、何で五人が集合しているの?と訝しいはず。私もそうでした。始めにほむらが「おかしい」と気付き始めてから、少しミステリー調にお話は進みます。そしてまたダークサイドへ突入(笑)。でもなぁ、前作ではどこまでもお話が堕ちて行こうが、誰かが必ず誰かを助けようとして、彼女たちは暗黒乙女にはならず、むしろ純白の想いが私には届きました。しかし!今回は正真正銘の暗黒なんですねぇ。

前作のまどかの行動に、私が咄嗟に浮かんだのは、マザー・テレサでした。まだまだ俗っぽい私には到底無理な、マザーのような自分とは無縁のはずの、見ず知らずの人々に向ける愛深い人生。しかしそこに畏敬の念を抱く自分もいるわけです。それを14歳の少女が決意した事に、衝撃を受けたし感動したのです。思うに、彼女たちの尊い気持ちを受け継がずとも、受け取り心の底に大事にする事は、ほんの少しでも自分の生き方に活かせる事があるように思うのです。都合良すぎるのは、堪忍ね。

だからね、前作のラストは完璧だと感じたんですよ。まどかが「ほむらちゃん、もう時間を遡らなくていいのよ」と、優しく微笑みほむらを抱いた時、「まどかちゃーん!」と慟哭したほむらの姿を思い出すと、今でも涙が出ます。ほむらはそれまで、「まどか」や「あなた」と、まどかを呼んでいました。本当は「まどかちゃん」「ほむらちゃん」と呼び合い、箸が転んでも笑うような青春を、どんなに望んでいたでしょう。しかしまどかの願いのため、自分の想いは捨てたのですね。まどかを想う日々は、ほむらを魔法少女として成長させもしたけど、大人しく優しかったほむらを、頑なで孤独な少女にしてしまった。あの「まどかちゃーん!」の慟哭は、彼女をその重荷から解き放ってくれたと思ったから、私は泣いたんです。あぁ、それなのに!

三男はこの作品の展開を、「所詮は中学生やと言う事やな」と言いますが、いやいや、それは違うのだよ息子。支配欲や執着を、愛と混同すると言うことは、大人になっても老人になっても、起こり得る事なんだな。そこに一片以上の本当の愛も混じっているから、事はややこしい。与え求めずの愛は、苦しいし難しいもんです。それを乗り越えるのは、「勇気」であると暗示している事には、とても納得しました。

「キュウベぇも、やっぱりキュウベぇやねん」と言っていましたが、そこは同意。人間(奴は人間ではないが)は、どんなに環境が変わろうとも、性根はそれほど変わらないものなんだなと、感じました。それを変えるのは、理性だし知恵だと思います。正しく人間だけに備わっているものですね。

と、色々おばさん心を踏みにじられた内容ですが、やっぱりちょっと語ってしまいました。このままでは捨て置けない気分なので、第三部があったら、また観ると思います。これは作り手の手の内に嵌っているって事?


2013年10月25日(金) 「魔法少女まどか★マギカ」(前後編)




新作の「叛逆編」が明日から公開と言う事で、前作に当たるこちらをリバイバル公開中で、見逃していたので駆けつけました。画像はちょっとましですが、どこから見ても可愛い萌えキャラ集団の、オタクさん御用達のアニメみたいでしょ?ところがこの可愛い女子中学生たちを使い、彼女たちに解りやすい背景を背負わせ、平易な言葉で人生哲学を語らせるのです。冒頭の学園モノの愛らしさから、お話はどんどんダークサイドへと落ちて行き、愛と正義、希望と絶望、怨みと祈り、喜びと哀しみ。人は何のために生きるのか?魂とは?その器とは?人の持つ全ての感情を刺激され、考えさせられた四時間でした。監督は宮本幸裕。総監督は新房昭之。掛け値なしの傑作です。

鹿目(かなめ)まどか。両親と弟と暮らす平凡な中学生女子。同級生のさやか、仁美と仲良しです。ある日ほむらと言う美少女が転校生として編入。「家族が大事で、今の生活に満足しているのなら、それを大切にしなさい」と謎めいた忠告をします。しかしさやかと一緒の時、まどかはある不思議な出来事に巻き込まれ、そこで上級生のマミと、キュウベぇと言う人間の言葉が話せる動物と出会います。マミは世の中の不吉な事や天変地異などを引き起こすのは、魔女の仕業で、自分はその魔女を倒すのが役目の魔法少女だと言います。キュウベぇは契約を結んだ少女を、魔法少女にする力を持っています。契約とは、一つだけどんな願い事でも叶うが、永遠に魔女と戦わなくてはいけないと言う事。まどかとさやかは、キュウベぇから魔法少女にならないか?とスカウトされますが・・・。

元は深夜に帯で放送していたアニメを、劇場用に再編集した作品です。びっくりしたのは、画がすごく充実している事。魔界の様子は思いもよらぬ表現で、邪悪な不思議の国のアリスと言う感じ。シュールでポップで悪趣味。でも蠱惑的でもあり。気恥ずかしいような可愛いキャラと、とてもマッチしています。

魔女の怨念で作り出す世界という設定ですが、人生には疲れや哀しみを感じる時、「魔が差す」「魔が入る」と言う状態がしばしば起こります。それを指しているのだと思いました。自殺しようとする人々が「さぁ、一緒に。向こうの側では楽になれる」と、まどかに微笑む様子は、魔界の蠱惑性と合致しています。

そんな魔女と命懸けで戦っても、魔法少女たちの活動は人知れずで、友達もなく自由な少女らしい生活とは、無縁です。よく考えてからと二人に諭すマミは、その辛さを知っています。同時にこの思いを分かち合える友を欲し、心では二人に魔法少女になって欲しいと願う様子がいじらしい。願い事=奇跡との等価交換とは言え、あまりに過酷だからです。

特筆すべきは、彼女たちが魔法少女になったきっかけは、全て自分以外の人のためなのです。親だったり友人だったり、恋しい人だったり。しかし純粋なその自己犠牲の思いは、皆彼女たちを裏切り踏みにじって行くのです。堪らない思いで観る私。何故ならそれは、予想できた事だから。当初は愛と正義のためであると、胸を張っていた彼女たちは、段々と疲弊していきます。

人生経験の浅い、自分の人生さえおぼつかぬ少女が、他人の為に自分を犠牲にしたら?当初は歓喜だけだったのが、恋心敗れるさやか。でも中学生の彼女たちに、先に何が待つのか、想像できなくて当たり前。あなたの腕を治したのは私よ!と、恋しい人には言えない辛さ。そして親友との三角関係。敗れた恋心は、やがて裏切られたと解釈するでしょう。私のように年が行った者は、希望が叶わなかった時、受け入れたり諦めたりして、その状態で待つ事を知っています。そして時間が癒してくれる。それは時が解決すると言う事。しかし彼女たちは、その年数を生きていない。だから希が絶たれたら、絶望しかない。そして絶望の向こうには怨みと言う情念が待っている。

ここにキュウベぇの真の狙いがあったわけ。「ここ(地球)では大人になる前の女の人を、少女って言うんだよね。だから魔法少女は、大人になると魔女になる」と言うセリフが、前編の最後に流れて、椅子から飛び上がるほど驚愕しました。(三男に言ったら「お母さん後編まで20分待っただけやろ?俺はアニメやったから、一週間待ったんやで」と、その時の焦る気持ちを吐露される)

ここから後半。彼女たちが与えられたソウルジェムと言う宝石のような物。これに秘密があり、キュウベぇは彼女たちが邪悪な魔女へと変化する瞬間を待っていたわけ


サンリオキャラの「シナモン」みたいで、可愛いでしょ?こいつが諸悪の根源。と言うか、実は地球外生命体なのですね。「契約の時、そんな事は聞いていない!」と怒る少女たちに、「聞かれなかったから答えなかった。今の状態は何ら契約の不履行はない」と言うキュウベぇ。確かにそうなのだ。騙したのではない。少女たちが浅はかだったのですね。ここに大人の女と契約するのではなく、人生経験の浅さ、純粋さ短絡さなど、効率の良さを求めて、ターゲットを少女にした理由があるのでしょう。

キュウベェの語る「世の摂理」は、確かに統合性がある。「家畜を可哀想と思うかい?」と言った件など、なるほどと思います。しかし納得できないのは、人間としての感情です。感情を持たないキュウベェには、それがわからない。この冷酷にして冷徹な姿は、地球人にもいそうですよね。

お話は順番に主役が代わり、それぞれの背景が語られます。さやかやほのか、途中で出てくる佐倉杏子も、しっかり描かれます。私が好きなのは、杏子ちゃん。彼女も父親を思い魔法少女になったのに、今は独りぼっちの身の上。ドライで生々しい魔法少女観を語り、さやかと敵対しますが、その実、今度はさやかの為に身を投げ出すのです。魔法で盗んだ物を常に食す姿は、生への渇望だと思いました。そうして生きるのが、彼女なりの父への鎮魂なのかと思いました。

謎めいてクールなほむらの想いにも、とても泣かされました。誰よりも魔法少女のルールを熟知している彼女は、何度跳ね返されても希望を持ち続けます。それはまどかへの想いです。誰かを心から思う、その崇高な気持ちが、誰ひとりとして報われない。本当に居た堪れない。これが現実なのか?と、涙を流しながら観ていた私に、救世主が現れます。それがまどか。何度も「誰かのために」と、魔法少女になろうとする直前、ほむらに阻止されていました。

私がまどかに感じたのは、自己犠牲ではなく、無償の愛です。自己犠牲とは、自分の幸せや欲望を捨て去る事。そこに自分自身の幸せはあるのか?しかし無償の愛を捧げる事は、自分も共に幸せになる事じゃないでしょうか?他人のためだけに生きる人生は虚しい。でも自分の為だけに生きる人生は、もっと虚しい。自分を愛し、心から愛す他者の存在を持つ。そこに充実した人生があるのじゃないかと思いました。

キュウベェはまどかの力の大きさを、くり返し起こる経験がそうさせたと言いますが、私は違うと思う。ほむらのまどかへの祈りの深さが、彼女を大きくさせたのだと思うのです。

思春期の子を持つ母娘の描写も、とても印象的です。中学生とは、自分の世界の中心が家庭や親ではなくなる時期です。子を信じるというのは、簡単なようで、とても難しいもの。しかし遅かれ早かれ、子は親から巣立つものです。その見極めに、自己中心的ではなく、他者を愛せる子になっているか?とても重要な分岐点に感じました。まどかの選択は、親にとっては哀しいものですが、でもこの結果は、お母さんの子育ては正解だったんですよ、と言う証でもあると思いました。

いっぱい書いたけど、まだ物足りない。でもこのくらいで。関西は今夜深夜に一挙放送があり、関東地方は11月4日です。(ここをクリック!)この感想を読んでピンときた方、是非録画されますよう、伏してお願い申し上げます。

では来週には新編「叛逆の物語」観るからね!


2013年10月18日(金) 「死霊館」




1971年、アメリカで実際に悪魔に取り憑かれた家族を、悪魔研究科の夫妻が悪魔祓いしたお話の実話が元の作品。新鮮味はないながら、オーソドックスなオカルトホラーの作りで、上品に仕上がっています。それにも増して魅力的だったのが、夫婦や家族の絆の描き方。アメリカはホラーを使って、家庭を描くのが本当に上手いです。これもとても気に入りました。監督はジェームズ・ワン。

1971年のアメリカ。ロジャー(ロン・リヴィングストン)とキャロリン(リリ・テイラー)のペイン夫妻は、五人の娘を連れて、湖畔の郊外の一軒家に引っ越します。古びてはいますが、ちょっとした邸宅の新しい我が家に、心躍らせる家族ですが、住み始めた直後から不吉な事が起こり、怯えてしまう子供達。キャロリンは心霊研究家のエド(パトリック・ウィルソン)とロレイン(ヴェラ・ファーミガ)のウォーレン夫妻に、家の調査を頼みます。

序盤は思い過ごしかも?と家族たちに思わせながら、不吉で禍々しい家の様子を映し、心霊現象に向かうまでのテンポが良いです。大家族は都会から湖畔の一軒家に越してきたのでしょう。とても大きな家で、広々とはしていますが、作りは古びており、壁には染みやひび割れだらけ。近隣には家はなく、これは怖いよなぁと思います。夜中トイレには絶対一人で行けなさそう家です。私ならまずは引っ越さないけど、妻から夫へ「無理したでしょう?」との労いの言葉に、この夫婦が大きな家で、如何に伸び伸び子供を育てたかったかと言う思いを感じるのです。

その大願成就の家に悪魔が取り付いているとしたら?これは実話。愛らしい娘地を見たら、どんなに両親は無念だったろうと、生々しく同情してしまいます。この設定、ものすごく小市民の心を掴むのだなぁ。

エドは唯一キリスト教協会から認められた悪魔研究家で、ロレインには透視能力があります。悪魔憑きの現場に妻を連れて行くことは、妻の心身をすり減らし命を削る事。だからエドは自分一人で行くと言いますが、「あなたと私は、このため(人々を悪魔から救うため)結ばれた」と言うロレインは、譲りません。人生や隣人たちに対する真摯な思いを聞くと、彼女が敬虔なキリスト教徒であるのだなと、感じ取ります。素直に尊いと思いました。

ウォーレン夫妻にも一人娘がおり、交友の中で、ペイン夫妻の心からの家族への愛に強く共感し、必ずこの家族を救うと誓うウォーレン夫妻。この夫婦は似ているのです。とにかく両方に頑張って!と、声援を送りたくなります。ケレン味一切無く、親が子供を思う気持ち、夫婦がお互いを必要として愛し合う様子をストレートに観客の訴え、とても清々しい気持ちになりました。だから本当に悪魔が邪悪で憎たらしくなるのよね。

ヴェラ・ファーミガはミステリアスな美貌を持ちながら、温かい女性らしい豊かさを感じさせる人で、この役柄にぴったり。初対面じにペイン家の子供たちに向ける笑顔や、家族写真の楽しさを透視し微笑む姿は、愛に溢れていました。リリ・テイラーは優しく家庭的な反面、「私には家族が全て」と言い切る母親の強さを感じさせて、彼女にも強く共感しました。とにかく遠いはずの設定が、彼女たちのお蔭で、とても身近に自分に置き換えられました。

絶体絶命の時、キャロリンが叫んだ言葉は「ロジャー!助けて!」でした。当たり前かもしれないけど、感動したなぁ。ウォーレン夫妻や警官や助手ではなく、その場で一番無力かも知れない夫を、妻は頼ったわけですね。これこそ夫婦の絆じゃありませんか。この手の場面はアメリカのホラー映画には多く、家族の危険にはお父さんがいるから、大丈夫!と、とてもシンプルに妻子が夫・父親に全幅の信頼を寄せている描写がたくさんあります。「インシディアス」しかり、「ドリームハウス」しかり、私の好きな「モーテル」にも、そういう部分はありました。そういうの、ジャパニーズホラーでは全然観ないな。あるのかな?やっぱ伊右衛門がスタンダードのお国柄だから?その点は残念に思います。

絵画や鬼ごっこ、後ろに映る子供の人影など心霊現象の数々は、オーソドックスながら、私は程ほどには怖かったです。一度キャッ!となった場面もあり。刃物もなく殺人もなく内蔵も出てこない作りは、往年のオカルト映画を思い起こさせ、拡張高さも感じました。子供たちが皆可愛く良い子だったのも、ポイント高し。家族の絆がしっかりしていれば、悪魔もお化けも怖くない!と言うお話。


2013年10月17日(木) 「トランス」




絵画強奪の内輪揉めを、スタイリッシュなクライムサスペンスに仕立ててあるのだと思っていたら、記憶の先にあるのは「愛の物語」でした、と言う作品。すっごくすっごく気に入りました!でもネタバレになるから、あんまり書けないのだなぁ、残念!監督はダニー・ボイル。

絵画の競売人のサイモン(ジェームズ・マカヴォイ)。ゴヤの「魔女たちの飛翔」を盗む一味に加わったはずが、何故か渡す段になって抵抗。実行犯でリーダーのフランク(ヴァンサン・カッセル)に殴り飛ばされ、記憶の一部を失い、絵画の隠し場所がわからなくなってしまいます。サイモンがフランクから強制的に治療に行けと命じられたのは、催眠療法士のエリザベス(ロザリオ・ドーソン)の元。しかし不穏なサイモンの様子から、事態を把握したエリザベスは、自分も対等な立場として、グループに加えろとフランクに直談判します。

冒頭競売の成り立ちから、美術品の警護の仕方まで、ナビゲーターよろしくマカヴォイ君の案内があるので、あれ?一味じゃなかったっけ?と狐につままれたようになりますが、ご安心あれ、これは手始めのジョブでした。

以降、サイモンが数人の睡眠療法士の写真と名前を出され、エリザベスをチョイスした辺りから、よーく目を凝らして「記憶」していて下さい。あちこち伏線が張られ、ラストでそれを拾っていきます。何気ない場面ですが、上手く印象に残るように工夫して描写してあるので、嗅ぎ取るのは容易です。記憶させるのが上手なんですね。

サイモンの記憶は小見出しに引き出され、しかしそれは夢なのか現実なのか、観客は半信半疑。サイモンですらわからない。この辺からお話は二転三転して行き、リーダーシップを取る者も、クルクル入れ替わります。伏線にも気付き始めるので目が離せず、どうなるんだろう?と、観る方もハラハラドキドキです。一人冷静に事の成り行きを見守るのがエリザベスです。

演じるドーソンは映画好きにはお馴染みの女優さんですが、私はセクシーだけど野性的な印象をずっと持っていました。しかしこの作品では、知的でとてもエレガント、そして艶やかなのです。サイモン相手に母性的な情感を見せるかと思えば、フランク相手には海千山千の犯罪者のボスを向こうに回し、余裕綽々に男心を掌で転がします。そしてビジネスには冷徹。もう見事な女っぷりで、こんなに良い女優だったのか?と、惚れ惚れしました。聞くところに寄ると、この作品がきっかけでボイルと恋仲になったとか。忍ぶれど、色に出にけり我が恋は、と言う事でしょうね(もちろん両方とも)。

だいたい睡眠療法士と言う職業自体胡散臭いし、こんなに上手く話が運ぶのか?と言う疑問を持たれる方もいるでしょうが、途中で「ストロベリー」の言葉が出てきます。この言葉に対する反応は一様ではありません。かかりやすい人、そうでない人もいると言う描写だと思い、私は言い訳とは取りませんでし得た。

キーワードも記憶です。楽しかった事辛かったこと、そして愛した事。記憶は他者の手では決して消される事はないのですね。だから葛藤や煩悩に苛まれるわけで。思い出さない方が幸せな事もあるんだなぁ、これが。その苦さも登場人物と一緒に噛み締めます。

純情そうな好青年、仕事の出来る催眠療法士、冷酷な犯罪組織のボスたちが見せる意外な別の顔は、でも両方共その人たち自身であり、決してそこに嘘や芝居はありません。そこに血の通った生身の温かさを感じるのです。

画面は謳い文句通りスタイリッシュなんですが、鑑賞後はその事より、「ロマンチック」と言う思いが心に残ります。素直に騙されたもん勝ちの作品。


2013年10月14日(月) 「クロニクル」




東京のみ限定公開だったのが、蓋を開ければ大好評で、全国のTOHO系で公開となった作品。そんなに面白いのか?と勇んで観ましたが、出来はまずまずという感じ。テレビで紹介している時に、「超能力を使って、こんな手があったのか!」的な面白さを説いていましたが、私には新鮮さはありませんでした。それは多分私がデ・パルマの「キャリー」を観ているからだと思います。監督はまだ若干28歳のジョシュ・トランク。

引っ込み思案で根暗の高校生アンドリュー(デイン・デハーン)。母は病に付し、元消防士の父は、仕事中怪我を負い、その後働いていません。最近日常生活を古いビデオカメラで撮り始めました。従兄弟で唯一の友人のマット(アレックス・ラッセル)は、そんなアンドリューを心配してパーティーに誘います。そこで同級生のスティーブ(マイケル・B・ジョーダン)と三人、洞窟を発見。下まで降りた三人は、壁の物質に触れた事により、超能力を得ます。

三人は別に親友同士ではなく、秘密を共有した事がきっかけで、つるむ様になるのが微笑ましい。スティーブなど彼女そっちのけで、アンドリューとマットと蜜月の日々です。超能力を持つヒーローは圧倒的に男性が多くて、彼らも幼い頃から憧れがあったのでしょうか?スカートめくりや、スーパーで物を動かし驚かすなど、他愛もないいたずらで終わった頃は良かったのですが、超能力に磨きがかかってくると、事態は不穏な方向に導かれます。

親友は出来たものの、まだ学校に居場所を見つけられないアンドリューのため、スティーブは一計を案じます。それが功を奏したのも束の間、事態はまた元通り。この様子が切なくってね。男子の初体験の様子は、ユーモラスに描かれる事が多く、面白うてやがて哀しきと言う風情に持っていきますが、アンドリューの場合は、ただただ苦い結末に。この辺りから、青春ものの明るさから、暗転したムードに切り替わる節目になり、お話の繋ぎは上手いと思いました。

他の二人に比べ家庭に恵まれず、日常に鬱屈したものを抱えるアンドリューは、やがて平常心が保てなくなり、超能力を怒りの場面に使うようになります。結果的には超能力に感情を振り回されているのですね。。「インビジブル」のケビン・ベーコンなんか、ひたすら下衆い方向に力を使っていた事を思えば、三人はお若いのに人間が出来ていらっしゃると思っていたのでね、この辺はとても納得。しかし彼の事を心から心配するマットやスティーブの気持ちも、無にするのは、どうかなぁ。この辺はね、アンドリューの気持ちを理解出来るか、甘えてんじゃねぇ!に分かれるか微妙なところなんですが、演じるデイン・デハーンの若いのに似合わぬ憂いを帯びた風情が、前者に軍配を上げてしまいます。

超能力=ヒーロー=勧善懲悪と言う図式が多いので、「こんな手があったのか!」的な宣伝みたいです。でも「キャリー」も家庭にも学校にも居場所のない独りっ子の孤独を、超能力と絡ませて描いた青春もので、観ながらずっと「キャリー」と似ていると感じちゃった訳です。キャリーには偏執的な愛情を注ぐ母親がおり、対するアンドリューにはろくでなしの父親を充てがい、それぞれ同性の親と対峙させているのも、その思いを強くさせました。

ただ「キャリー」はホラー仕立てに対して、こちらはSFアクション。女同士の陰湿な関係や、初潮や初恋を絡ませた前者と、明るい友人関係や、男子の喧嘩はやっぱり力づくの後者の違いはあり、これは女子と男子を描く違いにも感じました。

メインの大掛かりな超能力合戦を最後に持って来たのは上手い組立で、ちょっとしたSF大作を観た気分になります。でも私が一番好きなシーンは、キャッキャ三人で騒ぎながら、大空を飛ぶシーン。青春の輝きが一番感じられたシーンです。

アレックス・ラッセルは新「キャリー」で、私が当時大好きだったウィリアム・カットの役を演じます。予告編を観る度、ハンサム度がガタ落ちの上、金髪じゃないし!と、怒り心頭だったのですが、この作品では明朗で誠実な感じが好感を持て、ちょっと気分が収まりました。ジョーダンも将来政治家になりたいスティーブを素直に演じていて好感が持てます。一番お金持ちで優秀そうで人柄も良く、の同級生を黒人が演じる時代なんだなぁと、ちょっとしみじみしました。

観て損はしませんが、必見作と言う感じではありませんでした。実はパート仲間の息子さん(驚くなかれ、高校生にしてプロレスラーなのだ!)が映画大好きで、この作品を推薦したのですね。ちょっと早まったかなぁとも思いましたが、考えてみればこの作品を一番楽しめるのは、彼くらいの年齢。感想楽しみにしたいと思います。


2013年10月11日(金) 「R100」




ホントはね、「地獄でなぜ悪い」が観たかったんですよ。今年は本数激減ですが、それでも一般の人から観ると、私はたくさん映画を観ています。だから観る時は出来るだけ、サービスデーや会員割引が利く時と決めています。梅田まで行けばガーデンの招待券もあったけど、なんか季節外れの暑さでまいっちゃって。10日は自転車で行ける布施ラインシネマの会員デーで千円なので、こっちにしました。あと一本鑑賞したら、ポイントが貯まって次が無料になることも大きかった。他のもあったけど、時間が合うし予告編観て、ちょいそそられたこの作品に。それがあなた、本当に!(怒)。映画ではありませんでした。最低の作品。監督は松本人志。

サラリーマンの片山(大森南朋)は、「ボンデージ」と言うSMクラブに入会します。支配人(松尾スズキ)によれば、プレイの場所は片山の日常生活の中。期間は一年、途中退会は出来ないとのこと。入会した片山の元に、次々と女王様たちが送り込まれます。

ざらついたブルーがかった暗い色調の画面で繰り広げられる光景は、ちょっと良かったんですよ。不条理でちょっと不潔で、この後どんな禍々しい事が起こるんだろうか?と期待させます。トレンチコートを勢い良く脱いだ、富永愛女王様の日本人離れを越して、「人間離れ」したスタイルの良さは、今思えば不吉さの象徴だったのかも。

片山には昏睡状態で3年以上入院中の妻(YOU)がおり、7歳の一人息子を育てています。そのストレスの発散や逃避、がSMだったのでしょう。それは全くOKですよ。私は人に迷惑をかけたり、障害を負ったりしなければ、変態は全然構わないと思っています。あぁ、それなのに!

数々のSMプレイなんですが、サトエリ女王様のお寿司の件が、嫌悪感を程よく刺激しますが、その他はほぼ暴力系ばっかり。ボウリング場での放置プレイなんか、面白くもなんともない。渡辺直美女王様の唾吐きって、あれ何?ジュースもわからん。笑わせるつもりらしいけど、汚いだけだよ!

多分思いつきでSMを題材にしただけで、監督は興味ないんでしょうね。だから顔の表情で恍惚感を表すなんて、小手先の描き方しか出来ない。延々しょうもないシーンが繰り広げられ、甘美でもエロスでも全然ない。渡辺直美登場くらいから、段々気持ち悪くなってきました。SMを題材に映画にするなら、魅せる画をもっと勉強して欲しいです。それとも変態はバカですよ、と言いたいワケか?

そして私の怒りが頂点に達したのは、息子も白のブリーフ一張で宙吊りにした事!子供ですよ?何やってんの?これを観て面白いと思う人を、私は軽蔑します。

それ以降何故かSMクラブは謎の秘密基地のようになり、全然大物でも意外でもない人がCEOという名の黒幕として現れ、脱力。もっとキャストに気配りしなさいよ。そして片桐はいりみたいな良い女優を、あんな役だけに使ってバカですか?贅沢じゃなくて無駄使いだっつーの!それにあれ、SMじゃなくて、妖怪じゃん!

本陣を陣取り、何故かSM嬢たちは忍者まがいになり、おんなじ事繰り返しの緊張感も全く無い片山との攻防戦を見せられ、脱力は絶望に変わりました。こんなのシュールでも何でもないわ。このグダグダさには秘密があって、途中で自己ツッコミして、「R100」と言うタイトルの所以を明かします。いや〜これはないでしょう。夢オチより狡いよ。

救いは豪華絢爛の女王様たちだけ。これだけのメンツを揃えられたなら、前半の「世にも奇妙な物語」テイストで行けば良かったのに。脚本も監督ですが、別の人に頼めば、もう少しマシな作品に仕上がったと思います。よくこんな作品が、メジャー系で全国拡大公開になったもんです。何故誰も止めなかったのか?罪は重いよ。松本人志が嫌いになる作品。


2013年10月09日(水) 「パッション」




えぇ〜と、微妙(笑)。前半は女同士のドロドロを描く昼メロ@デ・パルマ版か?と思わせて、後半のサスペンスからは往年のデ・パルマ節が炸裂。しかし集大成とか真骨頂と呼ぶには遠く、もはや伝説の芸風をセルフパロディしているかのようです。監督はブライアン・デ・パルマ。

広告代理店に勤めるイザベル(ノオミ・ラパス)は、やり手の重役クリスティーン(レイチェル・マクアダムス)の直属の部下。切れ者で美しい彼女に憧れています。しかしイザベルのアイディアをクリスティーンは横取りし、自分の手柄とします。逆襲するイザベルは、恋人ダーク(ポール・アンダーソン)との仲も裂かれ、同僚たちの前でクリスティーンから恥ずかしめを受けます。神経を病み精神科に通うようになるイザベル。そんなある日、クリスティーンが殺害され、イザベルに容疑がかけられます。

まぁ〜前半の女同士のバトルのお安い事。やり手の設定のクリスティーンですが、男との逢瀬のために大事な会議はすっぽかすは、部下の手柄は横取りするは、自作自演で脅迫状を送るは、可愛い顔してビッチな事この上なし。そして精力絶倫。こんなシーンばかりで、どうやって出世してきたんだろう?「あの薄らハゲはうちの客よ。今夜落とせたら、あなたにあげるわ」って、パーティー会場でイザベルに告げますが、あんたキャバクラ嬢か?美貌を武器の寝技と、狡猾な部下のアイディア横取りだけで出世出来るほど、世の中甘くないと思うけど。もうちょっと「デキル」部分も演出しないとね。

対するイザベルは知性は感じるものの、容姿は見劣りコツコツ努力型の人。アシスタントのダニ(カロリーネ・ヘルフルト)は、そんな彼女に恋心を抱いていますが、肝心のイザベルはクリスティーンにその方面でも手玉に取られています。

お安い女のドロドロの怨念続出を、それなりに楽しめるのは、レイチェルの頑張りでした。男も女も手玉に取る肉食女を演じるには、ちょっと小粒じゃないか?と思っていましたが、なんのなんの。ゴージャスで下品で、女の嫌らしさ満開なのに、とってもチャーミング。惜しむらくは肉食女の設定なのに、思わせぶりなだけで、官能性は足りないと思いました。てか監督、エロスを感じさせるのは不得意ですよね?

ノオミもよく踏ん張っていましたが、あの不細工に見えるショットの羅列は、わざとなのか?ファックシーンで、チラッと微乳も見せますが、これでは見せても、有り難みが薄いでしょ?う〜ん謎。しかしお下劣なクリスティーンの虐めに耐える様子は、観客の同情を引くに充分。いつ反撃に出るのか、期待させます。

後半は悪夢にガバっと目覚める様子、二分割の長回し、果ては夢オチか?で、観客を煙に巻く手法など、往年の監督の郷愁を感じる芸風が炸裂。しかしこれが、完全犯罪には程通い稚拙な設定で、手に汗握ると言うより、お安いご都合主義を強く感じます。仮面の小道具も上手く使えていません。元々サスペンスでも、辻褄合わせにはあんまり興味ないタイプの監督だったけど、それ以外の演出が超面白いので、許してしんぜようと言う気になったもんですが、今回はスカスカで、とっても微妙でした。

とは言え、観ている間はそれなりに面白く飽きさせないのは、さすが。私はやっぱりデ・パルマは好きなんだと思います。調べると、監督ももう73なんですね。円熟味を感じさせるはずの60代での作品が少なく、華々しかった80年代の頃から思うと、尻すぼみ感は否めません。今回は昔馴染みのファン相手に、元アイドルの歌謡ショーを見せられたような気分でした。次回は是非、集大成的なサスペンスをお願いしたく思います。


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