Onry Me
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| 2002年04月09日(火) |
調理師免許を取った理由�� |
1999年春。 25歳の私にとって昼間仕事をしてから 夜は学校に通うという慌しい生活が始まりました。
しかしながら久しぶりの学生生活 はとても新鮮な気分で楽しいものでした。
私のクラスは下は15歳の少年から 上は5?歳のおば様まで・・・ 夜間部らしく実に様々な人が 様々な理由で学校通いをしてました。
当初、うちのクラスの皆は年齢が違う 事もあって、お互いに変な気を遣い あってしまい、会話もままならなかった のですが、一緒に勉強をしていく過程で 次第に打ち解け合い、いつのまにか年齢の 差など気にならないほど、みんながみんな、 驚くくらい仲良しになっていました。
仕事と学校の二重生活は大変は大変でしたが 私にとって、ここでの学生生活は今までの どんな学生生活より充実したものになりました。
子供の頃は勉強が大嫌いで、ずっと嫌々 勉強をしていた私ですが、ここでの私は 初めて目的意識を持って学んだ事もあり、 どの授業もとても楽しく学ぶことが出来 ました。
調理実習、栄養学、食品衛生学、経営学・・・、 ありとあらゆる授業が楽しくて楽しくて しょうがありませんでした。
学生生活は本当に楽しくて毎日が 充実していました。
私を含めクラスのみんながそれぞれ 自分自身の夢や希望に向かって充実 した学生生活をおくっていました。
そんな忙しくも充実した二重生活を おくっていた1999年の冬。
私の身に思いもしなかった出来事 が降りかかりました。
父が突然腹痛を訴え病院に 入院してしまったのです。
父の病名はすぐにわかりました。 大腸癌でした。
入院したその日には、もうかなり 進行した癌であることを家族には 医者から告げられていましたが、 その時点ではまだ、手術をすれば 少なからず望みはあると私たち は信じていました。
しかし検査が進むに連れて私たち家族の 希望は絶望に変わっていきました。
医者から告げられた言葉は父にとっても 私たち家族にとってもあまりにも非常な 宣告でした。
父は末期癌の一歩手前で、余命も後数ヶ月 しかなく、もう手術は出来ないとのことでした。
父が入院してからの私は、より一層 忙しい毎日を過ごすようになりました。
今まで通り昼間は仕事をして、夜は学校に 行く事に変わりはないのですが、その合間、 に父の病院に見舞いに行くのが私の日課に なっていました。
朝、父の病院に寄り新聞を届けて、 夜、学校に行く前にもう一度お見舞いに 行き、数十分間、父と話をしてから遅刻 をして学校に通う生活が続きました。
この頃の私は父が癌であることを 友人を含め誰にも言いませんでした。
私自身、変に気を使われるのが嫌だったか らってのもありますが、友人達に今まで通 り明るく接して貰いたかったからっていう のが一番の理由でした。
ただ、今まで殆ど遅刻をしなかったにも拘らず あまりにも急激に遅刻が多いのを不信に思った 担任の先生に呼び出された為、先生にだけは 本当の事を言うことにしました。
その後も仕事、父のお見舞い、学校の 三重生活はしばらくの間、続きました。
入院している父と会話の中で よく食べ物の話題が出ました。
その中でも一番、良く覚えてるのが 「今日はこれから学校に行って 調理実習で蕎麦を打ってくるから」 と言う私の言葉に対して父が 「おっ、旨そうだな。父さんにも退院したら 打ってくれよ」という会話でした。
この頃は父自身、まだ自分が癌であることを 知らされてなかったので、楽しそうに蕎麦を 打ってくれよと私に言っていましたが、 その後、私が父に蕎麦を打つことは ありませんでした。
・・・しかし、ただ一度だけ、 父が正月に一時退院した時に素麺を食べたい と言うのでカツオと昆布でちゃんと出汁を取り 素麺のツユを手作りしてあげました。
でも、私は自分の作ったつゆの味見を してみたらそれはとてつもないほど、 しょっぱくてマズイつゆでした。
私の作ったつゆがあまりにもまずかった ので急遽、市販の出来合いのつゆを入れ てあげようとしましたが父は私の作った つゆで良いと言ったので私はそのまま そのつゆを父に出しました。
父は私が失敗したショッパイつゆに素麺を つけて美味しい美味しいと言いながら全部 残さず食べてくれました。
これが私が父に作ってあげた最初で最後の 料理となってしまいました。
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