心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年04月10日(火) バック・ツー・ベーシックス騒動(その1)

もう10年も前になるのかと思うと少々感慨深いものがあるのですが、2002年の夏の地域集会で選ばれて、2003年・2004年とAAの評議員を務めました。

ある程度大きな団体であれば、「決議機関」と、そこでの決議を執行する「執行部」というものがあるはずです。AAの執行部はボード(常任理事会)と呼ばれ、そのメンバーはトラスティ(常任理事)と呼ばれます。一方、決議機関はカンファレンス(全国評議会)と呼ばれ、全国から選ばれたデリゲート(評議員)と常任理事がメンバーです。

AAは統治機構を持たないので、常任理事会であれ評議会であれ、AAグループやメンバーに対して命令を下すことはできません。であるものの、評議会の決議は日本のAAグループの総意であるとみなされる重みを持っています。

評議員は地域のAAの声をすくい上げるために、結構忙しく活動しなければならず、アメリカでは「AAメンバーの離婚率は一般より低いが、評議員になると別だ」と言われるほどだそうです。僕も当時はほぼ毎月地元と東京での会議に出席していました。

そうした会議の中で、あるAAのイベントに問題があるのじゃないか、という話が出ていました。

そのイベントの主催は「AAビッグブックの集い」というAAメンバー有志の集まりで、イベントは千葉の鴨川で行われる一泊二日の12ステップ研修でした。それのどこが問題なのか?

実はその研修で使われるテキストが「バック・ツー・ベーシックス」という名前のテキストでした。

ここでいったん話はバック・ツー・ベーシックスに逸れます。

20世紀終わり頃のアメリカのAAでは、ジョー・マキューが述べたように「AAプログラムが薄められた」現象が起きていたようです。12のステップは個人がどう解釈しようとも自由で、そのため皆が首をかしげるような珍奇な解釈をする人もいますが、AAはそのような解釈の広がりを許容しています。しかし、20世紀後半にアメリカで依存症の治療施設がたくさんでき、そこから多くの人たちがAAに来るようになった結果、12ステップ以外の考え方が多くAAに持ち込まれ、12ステップの解釈が変質し、その効果が失われる結果となりました。いくら自由に解釈して良いとは言え、それがAAの根幹に関わるようでは看過してはおけません。

そこで対策として、12ステップの原点に戻る活動がメンバーの間に自発的に起こりました。その一つとして有名なのが、時折この雑記で取り上てきた「ジョー・アンド・チャーリーのビッグブック・スタディ」です。もう一つ有名なのが、ワリー・Pの「バック・ツー・ベーシックス」です。

ワリーさんは、ニューヨークのAAオフィスの記録庫を調べ、まだAAが外部の影響を受ける以前の1950年代に、AAがどのように12ステップを伝えていたかを調べました。そこで、当時はAAに新しく来た人(ビギナー)に12ステップを「教える」仕組みがあったことを発見しました。その仕組みを現代に再現したのがワリーの「バック・ツー・ベーシックス」です(略称B2B)。

B2Bの源流をたどると、AAのクリーブランドグループにたどり着きます。AAは、ビル・Wとドクター・ボブが出会ったアクロンで最初のグループが立ち上がり、やがてビル・Wがニューヨークに戻って二番目のグループがスタートしました。三番目のグループは、アクロンから60Kmほど離れた五大湖沿岸の街クリーブランドで始まりました。彼らはアクロンまで通って12ステップを身につけ、地元に戻ってAAを始めました。

クリーブランドで始まったAAの活動は、地元の新聞に取り上げられました。(その記事はAAの中で有名な文章として今も伝えられていますが、AAを賞賛する内容となっています)。掲載された記事を読んだ人たちが、クリーブランドのAAグループに殺到することになりました。

12ステップはスポンサーからスポンシーへ、一対一で伝えられるものとされています。その基本は今でも変わっていません。しかし、その記事によってたくさんのアルコホーリクがクリーブランドのグループに押し寄せたため、一対一で12ステップを提供することはとてもできませんでした。

そこで彼らは一計を案じました。ちょうどビッグブックができあがりつつあった時期でもあり、彼らは新しい人を一室に集め、ビッグブックを教科書(テキスト)として使い、古いメンバーを教師役にして、教室形式でステップを伝えました。そしてステップで酒をやめて二週間にもならない人が、今度は教える側に回って次の人たちの相手をすることで、爆発的にメンバーが増加しました。これが「クリーブランド現象」とし語り継がれるものです。ビッグブックの重要性が最初に実証された機会でもありました。

こうしたミーティングは「ビギナーズ・クラス」と呼ばれ、『リトリ・レッド・ブック』『スツールと酒酒ビン』の著者もこうしたクラスを運営していたことが知られています。

ワリーさんが再発見したものはこのクリーブランドの流れを継ぐものでした。彼はそれを60分×4回のミーティングに仕立て上げ、週に一度の出席で、4週で12ステップ全体をおおよそ把握できる仕組みを整えました。それが「バック・ツー・ベーシックス」(B2B)という本として出版され、アメリカ国内で広まりつつありました。

なぜそのような「集団で教える」仕組みが、20世紀後半のアメリカAAで廃れてしまったのかは分かりません。しかし、J&Cのビッグブック・スタディにせよ、B2Bにせよ、そのような「教える仕組み」の再興運動だったとも言えます。(おそらく廃れた原因は、その役割を施設が代行したからでしょう)。

B2Bは、ビッグブックからの抜き書きと、抜き書きについての解説になっています。B2Bミーティングではこれを読みながら進行します。実際には本を読むばかりでなく、インタラクティブな要素もあるようですが、スクリプト(台本)ミーティングと呼ばれるように、ミーティングはB2Bという台本に従って決まった形で進められます。

鴨川でのビッグブックの集いは、一泊二日でこのB2Bを実際にやってみようという試みでした。しかしこれが、AAメンバーの過敏な反応を呼び起こしました。

考えてもみて欲しいのです。それまで日本のAAメンバーは、「12ステップは教わるものではない」と捉えている人もいたし、AAミーティングというものは一人ひとりの「語り」によって成立するもので、台本通りに進行するミーティングなんてあり得ない、と多くのメンバーが考えていたのです。

(これについてはナラティブ文化の影響なのではないかという雑記を書きました。日本においても12ステップが「薄められる」現象が起きていたのではないかと思います)

AAにはミーティングはこのように進めなさいという決まりがあるわけでもなく、ステップを教えてはいけないという決まり事もありません。参加者が納得し、12の伝統に反しない限り、どんなやり方をするのも自由です。

しかし鴨川の集いに対して強固に異を唱える人たちもいました。そのような反AA的(!)なイベントの広報を、AAの月刊誌に掲載したり、AAミーティングでチラシを配らせるのは良くないと主張する人さえいました。おそらくその主張の背景には感情的なしこりがあるのではないか、と推測し、僕は評議員活動の一部として、その背景をさぐることとしました。

(続きます)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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