心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年03月09日(金) 早期発見・早期治療は役に立ったか

3月11日もAAの病院メッセージに参加したりして、いつもと変わらずに過ごしていると思います。

広く日本のAAで使われている『12のステップと12の伝統』という本には、こういう下りがあります。

「AAの誰もが、まず底をつかなければならないというのはなぜだろうか。底つきを経験してからでないと、真剣にAAプログラムをやってみようと思う人はほとんどいない、というのが答えだ」

回復するためには、まず「底つき」(hit-bottom)をする必要があると言っています。さらには別のところで、AAの初期の頃には「どん底のケース」(low-bottom case)の人たちしかAAで助からなかったが、最近の若い人たちを助けるためには「底つきを、その人たちのために引き上げる(raise the bottom)」必要があった・・とも書いています。

この「底つき」はしばしば誤解されています。社会的立場を失って、社会の底辺に向かって落ちていくことであり、これ以上落ちようがないところにたどり着くのが底つきである・・という解釈は間違いです。

実際には社会的立場を失わなくても底つきを経験する人はいるし、一方でどこまで落ちていっても底をつかない人もいます。確かに、何かを失うことは底をつくチャンスではあります。仕事や家族を失うことが、底つきのきっかけになることもありますが、そうならない場合のほうが普通です。

12ステップをやった人には「底つき」が何であるかは明確です。意思の力で酒はやめられない(再飲酒は防げない)という自覚です。底つきをするのに何かを失う必要はありません。

おそらく10年か20年ほど前から、医療や援助職の人たちが「底つきの底上げ」ということを言い出しました。どん底に落ちる前に早めに底つきを経験させる・・という意味ですが、前述のような底つき概念への誤解に基づいた考え方でした。

この雑記のテーマは、この「底つきの底上げ」が何をもたらしたかを考えることです。物事には功罪両面があるのが普通であり、「底上げ」にも良い面もあれば、悪い面もありました。僕としては害のほうが大きかったと考えています。

「底上げ」のために医療や援助職の人たちが取った戦略は、早期発見・早期治療でした。そのために「アルコール依存症は病気である」という啓発活動が行われました。これは功を奏し、昔だったら依存症と診断されないような人たちも、依存症者として扱われるようになりました。

本当に重症化した人たちばかりではなく、まだそれほど深刻でないケースでも依存症と診断されるようになりました。12&12にあるように、「まだ元気で、家族もいて、仕事も失わっていない」という人たちが、問題(の一部)に気づき、酒をやめるチャンスが与えられたのです。早期発見・早期治療は実現しました。

ではその人たちが、「底つき」を経験したかといえば、僕は否だと思います。それは、社会的なものを失っていないからではなく、意思の力で酒はやめられるという方向へ誘導されたからです。

そうした早期診断が行われる前は、依存症と診断される人は重症化・深刻化した人たちばかりでした。自分の(意思の)力では、短期間しか酒をやめ続けられなかったため、断酒会やAAという当事者の継続的な援助を必要としました。

「底つき」とは言葉を変えれば「援助への希求」です。私には助けが必要だ、仲間やハイヤーパワーの力がなければ自分は再飲酒を防げない、という自覚が、援助を求める姿勢へとつながります。「底上げ」以前は、そういう流れになりやすかったのです。

ところが依存症が病気だという啓発活動が奏功して、早期発見されるとともに、診断を下される人の数も増加しました。深刻化した人たちの割合は減り、自分の力である程度の期間(何ヶ月か何年か)やめ続けることが可能な人たちが増えました。

元々依存症の人たちは援助を求める能力が低いのですが、それが援助を求める方向へ転換するのが底つきです。早期診断を受けた人たちは、確かに酒をやめたかもしれません。でも援助を求める方向へは転換しませんでした。とりわけ当事者同士の援助である断酒会やAAにはつながりたがりませんでした。それを「とりあえず酒はやめられているから良いではないか」と追認する雰囲気が、医療や援助職の中に生まれたのではないか、そう考えています。

結局、早期発見・早期診断は実現したけれど、底つきの底上げにはつながらなかった、というのが本当のところではないかと思います。

最近こういうケースに接することが増えています。比較的早めに診断を受けて(最初は少し苦労するけれど)自力での断酒に成功している人たちです。この人たちが、何年かすると再飲酒します(場合によっては十年以上のケースも)。断酒の初期の頃に、短期間AAや断酒会の世話になっている場合もあるし、なっていない場合もあります。いずれにせよ、飲む人は飲みます。

依存症の人が再飲酒するのは、ある意味「当たり前」なので、そのことをとりわけ問題視する必要はありません。しかし、早期診断を受けて何年間か自力断酒が出来た人というのは、その後がこじれてしまう場合が多いのです。

一つには、自力で何年間か(10年以上も)やめられたという成功体験がアダになり、改めて断酒会やAAの援助を求めることがますます難しくなりがちです。もう一つ、「飲んでいない期間も依存症は進行する」という考え方がありますが、実際その通りだと実感させられます。まるで酒をやめていた期間などなく、その間も飲み続けていたかのような、急激な悪化を見せます。そのために、やめるのがますます困難になっています。

しかし、最も切ないのは子供のことです。最初の断酒が始まる頃には、子供が小学校に上がる前か、低学年くらいという年代が多いわけです(早期発見のおかげです)。それが、それが数年後とか十年ほど後になると、ちょうど子供が高校受験とか大学受験のころに差し掛かります。その頃になって、家族の悪夢が再現されるわけです。それまで以上に金銭が必要になる時期でもあり、ご本人もなんとか働き続けて稼ごうと思いますし、家族にもそれを応援しようとします。しかし、回復よりも仕事を優先すれば何が起こるか。再飲酒や入院、失職、離婚、自殺など。結局子供の人生は大きく狂ってしまいます。

最初の時にきちんとしていたら、こうはならなかった・・はず、なのになぁ、と残念な気持ちにさせられます。

早期発見・早期診断は良いことですが、それが継続的な援助を求める方向に向かわないのが大きな欠点です。医師からは「断酒会やAAに導きたくても、患者が診察室に現れなくなってしまえば接点を失ってしまう」と聞きます。

早期発見・早期診断は(少なくともそれだけでは)失敗だったと思います。何年間か自力でやめられる人たちを作り出したので、見かけの成果が挙がっているだけで、本質的な問題の解決には至っていないというだけのことではないかと。クライアントが目の前からいなくなれば問題は解決したことになる、それが医療や援助職の理屈であり、その理屈が「底つきの底上げ」作戦が成功したかのような幻想を作り出しただけだったと思うのです。

医療や援助職にとってはそれでいいかもしれません。でも当事者にとっては、中途半端な解決は悪夢そのものです。せいぜい数ヶ月か数年しかコミットしない専門家と違って、当人にとっては一生の問題なのですから。

もちろん早期診断が生涯の断酒に結びつく人もいるでしょう。しかし、その割合はそれほど多くないというのが印象です。具体的数字を持っているわけじゃありませんが、「底つきの底上げ」が言われるようになって10年・20年が経過し、年単位の断酒を経た後の再発の問題が顕著になってきているのじゃありませんか?

だから、早期の診断を、一生続く援助(つまり当事者活動たる自助グループ)へとどのように結びつけていくか。医療・援助側と当事者活動の橋渡しが必要なのだと思います。

「大事なのは最後の一杯を飲んでから何年経ったかじゃない。次の一杯を飲むまで何日あるかだ」


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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