心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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2012年02月28日(火) 恨みの感情は人の心に何をもたらすか

ビッグブックの表形式の棚卸しは、まず「恨み」の表を書くことから始めます。

なぜそんな表を書くのか、という理由を説明すると12ステップ全体の話をしなければならなくなるので省略します。そのかわり、恨みが人の心にどんな影響を及ぼすかという話をしましょう。

恨みとは何でしょう。私は誰も恨んでいないと言う人も少なくありません。「恨み」という言葉で表現するほど強い気持ちじゃなくても、「気に入らない相手」「顔を合わせたくない人」「その人の言葉を聞きたくない」と思うような相手はいるのじゃないでしょうか。その人と接したり、接しなくてもその人のことを思い出しただけで嫌な気分になる・・その時に心の中に存在する感情が「恨み」です。

会いたくない人、避けたい人に対しては、私たちは恨みを持っているものです。

さて、怒りの感情は誰でもあります。それは正常な反応です。生きていれば理不尽な目に逢うこともあります。例えば満員電車で足を踏まれれば、痛いので頭に来ます(その痛みが快感だという人はちょっと黙っていてくれ)。自動販売機でおつりを取り忘れれば、自分に対して腹が立ちます。自己憐憫の気持ちです。しかし、そうした感情はその場限りのもので、過ぎ去っていきます。足を踏まれるからもう電車に乗らないとか、おつりを取り忘れるからもう自動販売機で買わない・・とはなりません。

恨みの感情は一過性ではありません。相手のことを思い出しただけで、嫌な気分になります。その人と同じ部屋にいるだけで(相手がなにもしなくても)楽しい気分が台無しになったりします。

なぜ相手を恨むのか。それは相手が過去に私(たち)を傷つけたからです。傷つけたといっても、身体的な意味に限りません。傷ついたのは私たちの自尊感情や名誉かもしれません。陰口を言われたとか、私の金を無駄遣いされたとか、責任を果たしてくれなかったとか。あるいは、セックスを拒まれたとか。私たちの傷つき方は様々です。

そうした過去のことを思い出すたびに(しばしば必要もないのに思い出すのですが)、私たちは過去の被害を再体験します。まるでビデオをリプレイするように。(ただビデオと違うのは、場面が正確に再現されず、リプレイするたびに脚色が施されるということです)。

私たちは恨みは正当なものだと感じます。だって、私たちを傷つけたのは相手ですから、相手が悪いのであり、反省するとすれば相手であって、私たちが何かする必要はない、と。

しかしここに罠があります。この理屈では、私たちが良い気分になるためには、相手が態度を改め、反省をし、行いを変えねばならないことになります。しかし、そうするかどうかは相手次第です。確かに相手が態度を変えてくれれば、私たちは良い気分になれるかも知れませんが、相手が変わらなければ私たちは悪い気分のままです。ということは、私たちの気分は相手次第ということです。

これはつまり、私たちの気分(心)を相手にコントロールさせ、支配させているということです。相手は別にこちらの気分など支配したいとは思っていないでしょうけど、こちらが勝手にそうしてしまっているのです。嫌な相手に自分を支配させ、コントロールさせる・・何とも自虐的な趣味です。

だから、自由になりたければ恨みを避けねばなりません。私たちは強い気持ちを持っていれば、相手を変えられると勘違いしてしまうことがありますが、しかしたいていの場合、どんなに強く相手を恨んでも、相手は変わってくれません。ますます自分の気持ちを相手次第にさせてしまうだけです。

だから私たちは「道路のこちら側を掃除」します。つまり、相手の落ち度ではなく、自分の側の落ち度を見つめます。態度を改め、行動を変えるべきは相手ではなく、自分であると。それは慣れないうちはラクではないことかもしれません。けれど、相手ではなく自分に問題があるというのは福音です。なぜなら、相手は変えられないけれど、自分は変えることができるからです。

そうして私たちは自由を取り戻し、良い気分で生きることができます。変えられないものを変えようとしないから疲れにくくなりますし、当然抑うつ気分も改善していきます。

さて、ここからは応用編です。

相手を恨んでいれば、気分を支配されてしますが、それは嫌な体験です。酒や薬やギャンブルで、その嫌な気分を解消するのも一つの手段です。しかし依存症になってしまうと、その手段は使えなくなります。すると人は別の手段に手を出します。

なんとか支配されている気分をごまかさなければならないので、例えば「腹を立ててはいないが、相手を軽蔑している」という言い訳を自分にします。しかし、この場合の軽蔑とは、恨みを別の言葉で言い換えただけで、なんとか気分を支配させないぞと強がって見せているだけです。

「自己憐憫」は相手に対する恨みが自分に向かった状態です。おつりを取り忘れたとき、自動販売機を恨むわけにもいかないので、自分を恨むのです。相手が人の場合には、相手との力関係で恨みづらいとか、自分の側の落ち度に自覚的の場合に、恨みは相手ではなく自分に向かって自己憐憫となります。(この場合、実は相手を恨んでいることを自覚することから始めたほうがいい)。

ありがちなのは、例えば親や職場の上司や同僚に恨みの感情を持っている人が、自分と同じ立場の人(例えば自助グループの仲間)に対して恨みを持っていないと主張することです。普通はそういうことはあり得ません。というのも、回復以前の恨みがましい人は、自分の周囲360度の人にまんべんなく恨みの気持ちを持っているものだからです。(なぜなら、問題を抱えているのは周囲の特定の誰かではなく、その人自身だからです)。

しかし、その人は恨みの感情が自分を傷つけ、相手との関係も悪くしてしまうことを体験的によく知っているものです。同時に、自助グループはその人にとって「大切な居場所」であり、社会の荒海を渡っていくための船着き場みたいなものです。だからそこで居づらくならないように、グループの仲間に対して恨みを持たないように気を使います。恨みを持ったとしても、そんな自分をなんとかごまかそうとします。

そうした自己流の対処法は、たいていうまくいきません。一つには、そこで堪えたぶんだけ、仲間以外の人に対してより恨みがましくなります。もう一つは、結局そのグループにもやがては居づらくなります。すると今まで「大切な仲間」と言っていた相手に対して、失望したなどとして評価が180度反転します。こういう人は、何年もかけて、あっちこっちの自助グループを転々としている場合が多いのです。まさに「自分に正直になれない」人というのは回復の率が低いのです。

人はどんなに好きな相手にも、同時に恨みの感情を持っているものです。そういうアンビバレントな存在なのです。だからこそ、そういう偏った表を書いてきた人には、実は仲間のことを大変恨んでいるということに気づくようなガイダンスをしてあげなければなりません。そうしなければ、その人が自分の本当の姿を見ることができなくなり、回復が難しくなります。また、どんなに恨んでいる相手に対しても、その相手のことを評価し、認めている部分も発見します。

好きであると同時に嫌いでもある。白であると同時に黒でもある。人と人との関係とはそういうものだと納得することが大切なことだと思います。

怒りや恨みは大変強いエネルギーを持った感情であり、大きな被害を受けた人が、恨みを生きるエネルギーに転化している場合もあります。生きるために、恨みのエネルギーしか頼るものがない場合もあります。しかし、見てきたように恨みの感情は自分自身を蝕むものです。最初は頼りになった酒や薬が、やがて自分を蝕みだしたように、蝕まれていることが分かっていても酒や薬がやめられなかったように、頼りになった恨みの感情が、やがては自分を蝕みだし、それでも恨みを手放せなくなってしまうことは多いものです。

光市母子惨殺事件の上告棄却について、被害者の夫の方が記者会見をしていました。最初の頃は、妻と子どもを殺された恨みがこの人の人生を支えていたことは間違いないでしょう。しかし、いつまでも恨みを頼って生きていくことはできません。変わってしまった人生から、また新しい物語を紡いでいくには、別のものが必要です。もちろん、そうした変化は容易なことではなかったでしょうが。

恨みの話をすると、「もう恨みは手放します」と言いだす人がいます。しかしそれができるのだったら、もうずっと前にしていたことでしょう。やはり能動的な何かが必要であり、棚卸しもその一つです。こう考えてみると、回復とはやはり単に酒や薬やギャンブルが止まっていることではなく、人生の転換です。棚卸しの相手をするということは、人生の転換点に立ち会うことですから、そこには感動があります。せっかく転換点に立ち会ったのに、そのままの人生を歩み続けていってしまう人もいます。残念と言うしかありませんが、相手をする側の技量不足という面もあります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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