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2012年01月04日(水) 発達障害と発達凸凹(その2)

前の雑記では、人には能力の発達の凸凹が誰にでもあることを述べました。

その凸凹の特定のパターン(主に自閉圏とADHD)について、社会的な不適合が起きていればこれを「発達障害」と呼び、起きていなければそれは障害とは呼べず「発達の凸凹」というのが相応しいという話をしました。

では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?

それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。

凸凹レベルであれば、社会生活を送る上での不適合がないので、何もしなくて良いことになります。しかし、凸凹が激しければ、そうとも限りません。何かの能力が弱いと、人は別の能力でそれを補おうとします。

例えば自閉傾向がある場合は「人の気持ちを読み取る」という能力が弱くなります。しかし、人の気持ちが読めないことと、他者への配慮が出来ないことは別のことです。人の気持ちを読みづらいぶん、逆に人の気持ちを気にかけるようになります。それが「人への思いやりと配慮に満ちた人」という評判につながることもあり得ます。

しかし、本来の能力を別の能力で補うのは、どうしても無理がかかります。例えば、人の気持ちに敏感になりすぎると、自分の気持ちが周囲の人の気分に左右されてしまいます。同僚が何かの理由で腹を立てて汚い言葉を口走っている場面を想像して下さい。その怒りの矛先が自分ではないことは分かっています。もちろん、隣に怒っている人が居るのは誰にとっても気分の良いものではありません。しかしながら、人の気持ちが気になりすぎて、自分の仕事が手に付かなくなってしまう、というのは誰にでもあることではありません。

他にも、自分としては他の人の気持ちを十分おもんぱかっているつもりでも、なぜか「人の気持ちの分からない人」という非難を受けてしまうとか。自分の行動や言葉が相手を傷つけてしまってないか、事後になって気になって仕方ないとか。

別の例として「二つのことが同時に出来ない」という例を挙げましょう。例えば、電話をしながら話の内容のメモが取れない、というやつです。話に集中するとメモが取れず、メモに集中すると相手の話を聞き逃すというパターンです。

同じことですが、仕事をしていて、別の仕事に割り込まれると、元やっていた仕事を忘れてしまう、というのもあります。この問題があるので、仕事をしているときに、電話がかかってきたり、上司に声をかけられると怒り出すこともあります。普通の職場では、作業中に上司に声をかけられたら作業を中断して上司と話をするものですが、発達障害の人を雇う特例子会社の職場では、作業中に声を掛ける上司のほうが悪いという理屈になります(環境調整の例)。

ADHDの場合には、整理整頓ができない症状が出ます。片づけや掃除が苦手なので部屋がぐちゃぐちゃになってしまいます。しかし逆に苦手だからこそ、強迫的にいつもきっちり片づけることもあります。こういう人がお母さんになると、子供が部屋を散らかすことにイライラします。小さい子供は散らかす存在であり、片づけない存在です。それを何とかしようと、親に過剰なしつけがしばしば虐待に発展していきます。

実行能力(遂行能力=executive functions)の問題もしばしば取り上げられます。これは、ある目標を与えられたとき、その期限から逆算していつ頃何をやるのか計画をたて、それを実行していく能力です。これは様々な能力の統合です。夕食にカレーを作るなら、何時頃買い物に出かけて、材料として何を買って、それを買うお金が足りないからまず銀行に寄って、という、計画し、そのとおり実行し、計画外のことが起きたら計画を修正しつつ目標を実現する能力です。この能力が弱いと、何月何日までに完成させろと仕事を与えられても、〆切の日に全然できてないってことが起きてしまいます。

代償的には、計画を細かく立てて、その通りに実現しようとします。計画通りに進めばいいのですが、計画外のことが起こるとパニックになったり、ストレスに感じられたりします。

いろいろな例を挙げましたが、発達障害のパターンは様々なので、ある能力の弱さとそれに対する補い方もこれ以外にたくさんあります。しかし、どれを見ても、なんだか負担が重そうで疲れそうですし、自分だけでなく周囲にその負担を押しつける結果にもなりがちです。その負担が「うつ症状」という形で出てきやすいのも想像できるでしょう。そうなれば、それは単なる凸凹ではなく「障害」ということになります。

では、発達凸凹の場合にはどうすればいいのか。

それは、自分が何を苦手としているか把握することです。無茶な適応戦略を採っているのなら、もっと自分にも周囲にも無理のない戦略に切り替えることが可能になります。杉山先生の本でも、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法を引いて説明しています。

もちろん、この場合難しいのは己を知ることです。例えば、人の気持ちを読み取る能力が弱い人に対して、それを指摘したとします。しかし、その人が無自覚のうちに能力の弱さを感じ取って、かわりに人の気持ちを推し量り配慮を効かせる代償戦略を採り、しかもそれにある程度成功していたとしましょう。この人は自分が「人の気持ちを読み取る能力が弱い」とは思っていないでしょう。むしろ、その能力が人より秀でている思っているに違いありません。

能力の弱さが認められなければ、別の戦略を採ることもなく、その人の生き辛さは解消されずに残ることになります。これが「己を知ること」の難しさです。

発達障害の支援をしている人たちで、センスの良い人たちは、当然「己を知る」ことにも長けるようになります。杉山先生はアスペルガー的傾向があることを認めてらっしゃるし、福島の星野先生はADHD傾向を認めた話を書かれています。もちろん不適合のない凸凹のレベルという話なのでしょうが。その他の沢山の人たちも同様です。

この雑記で発達障害の事を読み、それが部分的であれ自分に当てはまって不愉快な気分になる人もいることでしょう。

しかし考えてみて欲しいのです。人間とは不完全なものです。そして、大多数の人は自分が不完全な存在であることを受け入れ、納得しています。自分が完全な存在であることを期待するほうが、どこか病んでいるのです。

突然12ステップの話になってしまいますが、ステップ2で必要なのは「神を信じること」ではなく、「自分が神でないことを知ること」です。こう言うと、自分が神でないことなど分かっていると反論される方がいます。自分は神でないと言いながら、一方で自分の完全無欠さを信じ、凸凹の存在から目を背けています。まさにそれこそが「神であること」です。

僕らは、アルコール(や薬物やギャンブル)をコントロールする「能力がない」と認めることが幸せにつながりました。もし「能力がある」ことにこだわっていたら、今ごろアディクションのせいで死んでいたでしょう。能力があることではなく、能力がないことを認めることが、人を幸せに導くのです。同じことは発達障害あるいは凸凹にも言えることです。

彼を知り己を知れば百戦危うからず。難しいのは己を知ることです。せっかく発達障害という分野にふれる機会を持ったのなら、自分がどんな凸凹を持っているか知り、どんな無理をしているか知るように努めるべきだと思います。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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