心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年05月28日(金) 理解は跳躍する

掲示板にも書きましたが、理解というのは跳躍(leap)するものだと思います。
少なくとも僕の経験ではそうです。

いままで理解できなかったことが、ある日何かをきっかけに突然理解できるようになります。ゆっくり理解が進むこともあるのですが、たいていの場合にはいきなり理解できるようになります。それはたとえれば、川のこちら側から向こう岸にジャンプしたみたいに、突然反対側の岸にいる自分を発見します。途中の川の中をジャブジャブ歩いて渡った記憶はありません。

徐々に理解が進んだ場合でも、その「徐々に」を詳しく見てみると、小さな跳躍の繰り返しになっています。

おそらく理解というのはこういう仕組みになっているのでしょう。
まず理解するには情報が不可欠です。例えばステップ1には「アルコールに対して無力」とありますが、この短い文章だけでその意味が把握できる人はまずいないでしょう。「アルコールに対して無力」とはどういう意味なのか、詳しく知らなければ理解はできません。知識の収集に長けた人は、理解のこの部分は得意だと思います。

しかし理解するためには情報だけでは不十分で、得た知識を現実(例えば自分自身)に当てはめて考えなければなりません。その邪魔をしているのが否認や偏見です。

AAでは「気づき」という言葉を使います。人は自分がアルコールに対して無力であることに「気づく」のです。実は「気づき」とは、否認が解ける瞬間のことでしょう。あるいは、現実に向き合う勇気が出ただけのことかもしれません。ともあれ、気づきは、理解の瞬間でもあります。

努力と成果は正比例しないものですが、この「理解」についてもそれは言えると思います。例えば一回一回のAAミーティングで「小さいながらも確実に気づきが与えられる」ということはありません。出続けていても、さっぱり理解が進まないのが普通です。それでも続けていると、いつか理解の川の向こう岸にいる自分を発見します。

その時のミーティングには意味があった(他はくだらない)、気づくきっかけを与えてくれた人は素晴らしい人だ、というわけではなく、それまで積み重ねた自分の努力に意味があるのでしょう。貯まり続けたダムの水があふれる瞬間にだけ注目してはいけないのだと思います。

僕がビッグブックのやり方に切り替えた後の最初のスポンシーとは、ファミレスなどでよく話をしました。1時間以上そこで話をした後、帰りに駐車場で立ち話をしながら、先ほどの話を蒸し返してみると、実はちっとも分かってもらえてなかった、ということがよくありました。「ひいらぎの話は、ときどき禅問答みたいでよくわからない」と思っていたそうです。そんな彼も、いまではスポンシーを持って、「なんでこんなシンプルなことが分かってもらえないのだろう」と感じるそうです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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