ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」
たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ|過去へ|未来へ
2003年10月17日(金) 信じるようになった そういえば新潟のオープンスピーカーズで『信じるようになった』を買ったのでした。原書の Come to Believe も真っ赤な表紙の本なのですが、日本語のも真似たように真っ赤な表紙であります。一年のバースディのときに仲間からプレゼントしてもらったのでしたが、その後誰かにあげてしまったらしく、手元にありませんでした。そのくせ原書のほうは買った覚えもないのに2冊もあるのです。
なぜ仲間が僕の一年のバースディにこの本をプレゼントしてくれたか思い出しました。9ヶ月ぐらいのときから、僕は自分のハイヤー・パワー(神)を探しつづけていたのでした。ミーティングでもそんな話を繰り返していた憶えがあります。そこでAAメンバーが、僕の助けになればとこの本をプレゼントしてくれたのでしょう。
ですが、当時の僕にとっては、この本の内容は「絵空事」としか思えませんでした。そして、ハイヤー・パワー探しは9ヶ月ぐらいで飽きてしまい、その後は締め切りつきのステップ4・5がやってくるまで、僕の回復は停滞するのでした(いや、後退していたのかもしれない)。
今から思えば、僕は「何かが僕を正気に戻してくれる」と信じることなど、とてもできなかったのでした。飲んでいなければ自分はマトモな人間であるという幻想を、まさに死の門の中まで追いかけていくつもりだったのでした。無理もありません。多くの日本人と同様、僕も「神の実在を証明することもできないし、不在を証明することもできない」という信念に固まった<不可知論者>だったのです。
自分にとって最高に位置付けるべきものは、自分の「自我」であり、人生が良くなるにせよ悪くなるにせよ、それは自分が自我に従って行動した結果なのだ・・・そのように本当に信じているなら、自分の行動の結果を後悔して日々を煩悶として過ごすことなく、失敗しても堂々として恥じない暮らしを送っていけただろうと思うのです。でも、現実の自分は、自分の行動の結果を受け入れることができず、苦しい思いを何年も続けたのでした。そんな苦しい人生に意味など見い出しようもなかったのです。
「自我の敗北」がやってくるまで、「信じられるもの」など与えられるはずもありませんでした。そして、完全な敗北を通してこそ、新しい強さを与えられるということは、ステップ1とまったく同じであるということも理解しました。そして、この敗北もステップ1と同様に、日々のケアが必要なのだということも。
赤い本を読んでいると、「うんうん、僕もそうだった」と頷いてしまいそうです。そして、ソブラエティと同様に、「信じるものがあるのが当たり前」の日々がやってくるのです。でも、信仰を持ったからといっても、あいも変わらず僕は生臭い俗物であることに、何の変わりもないのですけれどね。
もくじ|過去へ|未来へ![]()
![]()