21世紀猫の手日記
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| 2021年08月27日(金) |
田舎の人材不足で、誰でもいいから有資格者カモンなのか? |
…… ほんとに誰でもいいんですかぁ?なんかさ、職場に併設されているログハウスに五右衛門風呂ついてるんだけど、そんなのでリラックスして楽しいのって最初だけだろ?? いや多分、私はいっちゃうと思うけど。そんなんでいいのか??んん?
父の写真の件だが、父の入院時、家の整理をしてたら…写真はたくさん出てきた。父はすくなめで、母は大量だ。母方の兄弟がとった写真が沢山あるので、あえて私が増やすことはないって感覚で私にだけ厳しくとるなとるなと言っていたのかもしれない。
母の棺には200枚は写真は入れたと思う。ハガキも、50枚以上入れた。 年賀状や、私や父が書いたハガキだ。私は、母に何をかいていいかわからず、絵をかいて送った。自分、犬、猫。風景。昔住んでいた家。かけなくて苦しかった。楽に描けるものを送ったらよかったのにね。
最後の絵葉書は、吉祥天を描いたものだった。(泣)
写真を見ると、母も父も充実した人生を送ったようだ。
心にとめとけっていう説は、心も脳も故障するのでやっぱりあてにならない派になった。
年一くらいはイベントがあればとったほうがいいと私は思う。なぜかというと、私がここ5年、就職用の写真しかとってないからだ。イベントもないし、誰かに写真を撮られることもない人生だからだ。あっても困るかもしれない。撮ってもらえる人は人生はマシなんだとありがたがっていいと思うぞ。
母の死で思ったことがある。父が急に、何かと感謝しますと言う、敬虔な爺になったことと関連しているかも。
(正直にいいわけすると、その、あたりまえってのが全然わからない、考えすぎの人の言うことだから)
……私は、滝に打たれたりとか(やったことないが)、お経を読んだりとか、何か特別なことをするのが、人生とかなんかの修行だと思っていました。
でも、本当はなるべく普通に(この普通がよくわからないけど)生活をして、楽しんだり悲しんだりすることが、何かの修行なんだと気が付きました。まぁ、ただ漫然と過ごしてはいけないのかも。悪いことをしないよう気を付けて、怠けない程度に、良心的に、毎日出勤するとか、ご飯作るとか。生活していく中で起きる、我慢だったり、工夫だったり……、そういうことが大事だったんじゃないか?
わりと……、当たり前のことを当たり前にコツコツ続けることが、なんか大切なことだった。……それに気が付いた、そんな気がしました。
私たちは(父と私)は、亡くなった母に感謝したらそれでよいのではないか。
父はどうかしらないが、私は、そういう”割と普通に生活をする”っていうことが苦手です。あまり気合が入らない。リンゴの皮剥いたりするのは、えらくないとか思っていた(苦笑)。ほんとはなにも、偉いことも偉くないこともそうそうないんだろうと思う。
ついでにいうと、自分のAC要素や、自閉症よりの要素の方にばかり目が行き過ぎていた。自分の気持ちばかりだな。若いうちなら仕方がないと思う。
途中からだ、母がどういう気持ちだったのか考えるようになったのは。結構辛かったんじゃないの?とか考えられるようになってきた。
それから、私は、母の人生の価値ってすごく小さく見ていた。倒れた母を正視できなかった。障害を受け止めることができなかった。あまり頻回に会いに行かなかったのは、会いに行くと苦しかったからだ。
これは、障害を持ったことが苦しかったんじゃなく、母が私に大きな影響があるってことを認めるのが苦しかったんだとおもう。
気が付くまでは、相当な共依存関係だったんですよ。私は母親がおかしいっておもってましたが、自分も相当おかしかった。そういうのに、気がつきかけている状態で母と会うのはかなり苦しかった。
zaza9013
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