| 2008年02月10日(日) |
現代のラスコーリニコフ? |
映画版の「デス・ノート」を見終わった。 3回に分けて見たけれど、思いがけず、非常に緊迫した4時間半だった。
4年程前からうちの子どもたちがコミックを読みつつよく話題にしていた。 私はほとんどそれを、聞こえていても聞き流していた。 だから、ノートに名前を書いた人物が死ぬ話、としか知らなかった。 どちらかというと、くだらない設定の物語みたいに軽んじていた。
夜神月(やがみライト)は、極悪な殺人犯も裁ききれずに野放しにする 現代の法制度に義憤を覚える。 そんな時、死神リュークが落としたデス・ノートを拾う。 彼は犯罪者を次々にノートに記載して殺していく。 ネット上で「キラ」(Killer のもじりか?)として、 現代の救世主かのように、信者を増やしていく。 確かに、明らかに極悪な殺人犯なのに、精神鑑定などで無罪になる、、、 被害者の家族や近い関係にあった人たちには堪らなく口惜しい事態である。 (しかし、一方で冤罪ということもあるから、微妙な問題だ) ライトの行為は一見、胸がスカッとするような正義にも見える。 ところが、やがてそれだけでは済まなくなってしまう。 邪魔をしようとする者は、犯罪を阻止する側の人間でさえ 殺さなければならなくなるのだ。 つまり、裁く必要のない人間まで、必要悪として殺してしまう。
物語もおもしろかったのだが、私が見始めてまもなく夢中になったのは、 ライトの陥っていく苦境が、ラスコーリニコフを思い出させたからだ。 ドストエフスキーの「罪と罰」を読んだのは、浪人生活に入る前、 現役受験で受けた早稲田の合格(実は不合格)通知を待つ間だった。 浪人後、上智に入ってからも、倫理学の講義ではたいてい、 ラスコーリニコフの行為が主要テーマのひとつになっていた。
ラスコーリニコフは高利貸しの老婆を殺す。 それによって救われる人々が大勢いるからだ。 しかし、彼がその場を離れる前に訪れて老婆の死を発見したリザヴェータも 殺してしまう。
「罪と罰」が終始緊迫しているひとつの理由は、 ラスコーリニコフと警官や判事(名前は忘れた。ポルフィーリーだっけ? 検索して調べてもいいのだが、ちょっともう気力がない)の心理戦だが、 この「デス・ノート」では、ライトと探偵「L」の推理・心理戦である。 (しかし、何でライトの敵が、light の頭文字の「L」なんだ?) また、「罪と罰」を感動のドラマにしているヒロインがソーニャだが、 「デス・ノート」には、ソーニャのような役割のヒロインは登場しない。 この点は、「罪と罰」との大きな違いである。
人は人を裁けるのか、、、本当に難しい問題である。 裁ききれず無罪にして野放しにする一方で、 裁きの功を焦る余りに冤罪という取り返しのつかない罪を犯すこともある。 総理大臣や大統領の政策によって多くの人を死なせても。 我々は彼らを裁くことができない。 それどころか、なぜかそういう場合は英雄的扱いである。
デス・ノートを手にしたライトの功績は、犯罪を減らしたことである。 犯罪を犯せばやがて死が訪れる、その恐怖が犯罪自体を減らすのである。 現行の法では、犯罪は減るどころか増える一方だ。 ライトはデス・ノートによって、悪や不正のない理想社会を夢見た。 その思い自体は正義なのだが、現代の社会では犯罪でしかない。 人が人を裁くことの難しさや複雑さをまた新たに感じさせられたのだった。
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