きょうも、橋本さん宛のメールの貼付で済ませる。 私が日本語というものをどう見ているか、かなり表現できた気がする。
また、私は結論を後伸ばしにする。 先に結論をもって物事を眺めると豊富な事象から部分を切り取ることになる。 だから、私の結論はいつも、とりあえずここまでは言える、である。
(以下、今夜のメール)
////////////////////////////////////// 「お茶が入りましたよ」という人が「コーヒーを入れましたよ」と 「和」「洋」を使い分けているとしたら、これは面白いですね。 //////////////////////////////////////
これ、笑ってしまいました。バカにしたんではなくて、 何でもこういう方向に話を持って行くんだな、と思って。。。 僕はわざと「を」を抜いて「コーヒー入れました」にしておいたのですが、 これは発音上ラクな例として挙げたのです。 「お茶が入りました」も発音上ラクなパターンです。
日ごろから、日本語の変遷を考える上で、発音上の省エネという面は 軽視できない問題だと思っています。 これを抜きにして日本語が語れるのだろうか? とさえ思っています。 もともとが省エネ言語でもありますし。。。
これは先日話した、すべて有声音ということとも関わっています。
でもそれだけじゃない、「コーヒー入れました」の方がラクなのに、 「コーヒーが入ったよ」も好んで使う。 そういう例は探せばかなりあるでしょう。 橋本さんはそこに自然との共存、自然のチカラを見ようとしているけれど、 僕には、今のところまだ、そこまで言う勇気がない。 少なくとも、「私は〜した」「私が〜した」という言い方を できれば控えようという傾向だけは認められる、というところにとどまります。
そして、それを広くとらえれば、「婉曲的」ということになります。 「婉曲性」は、少なくとも日本語の会話にはさまざま見られる性格です。 評論文に悪文が多くなるのも、この「婉曲性」に悩まされているのかもしれない。
だから、以前、「『である』言語というよりは『ようだ』言語であるようだ」 と言いました。 このセンテンスは今でもとても気に入っています。 でも「ようだ」言語だと言ってしまうと、「である」言語も「する」言語も 入る余地がありませんね。 ・・・いや、そんなことはないか。。。 「ようだ」は「ようである」でもあるから、 「である」言語は「ようだ」言語に含まれることになります(笑)
この「婉曲性」にとどまっている僕の日本語観に、
「私たちのことばは、自然のなかで、自然と共存して生きていた時代に作られたものである。 言語構造はいまなおそうした時代の遺産をうけついでいる。 とくに私たちが母国語とする日本語は、こうした「自然言語」としての特徴を 色濃く持っている」
と確信させるかどうかは、橋本さんの手腕にかかっていますよ。
また、上記の2つの基本的な考えに加えて、 日本人は「を」という発音を億劫がる傾向があるのではないかとも思っています。 文章ではそれほど苦にせず使ってますが、会話では億劫がってるのではないかと。。。 言語について考える上で、「音」の問題は侮れないと思いますよ。 そんなことも一緒に考えてくださいね。 短歌・俳句を作っている橋本さんには言わずもがなのことと思いますが。。。
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